« 2016年12月 | トップページ | 2017年2月 »

2017年1月

トランプ大統領が否定する「グローバリズム」のもう1つの顔

■「保護主義」と「TPP」は相容れない

 トランプ氏が口約束していた通り、大統領に就任したと同時にアメリカのTPP離脱が発表された。一切、躊躇することなく大統領令に「永久に離脱する」と署名されたことからも、その本気度が伝わってくるが、「保護主義」を自身のモットーとしていた人物が「TPPに賛成」では筋が通らなくなるので、これはまあ当然の帰結と言うべきだろうか。

 最近では「自国第一主義」という言葉もよく聞かれるようになったが、この言葉に対しても否定的な見解を述べている人がいる。しかし、こんなのはトランプ氏に限った話ではなく、1国の代表としては至極当然の台詞だと言える。「自虐思想」に被れた日本だからこそ「自国第一主義」を否定する向きがあるのかもしれないが、世界中のどこの国でも、基本は「自国第一主義」であり、「自国第二主義」も無ければ、自国を否定するような「自国虐待主義」も無い。

 「自由競争」の名のもと、「グローバリズム」というものが無条件に礼賛され、世界中の市場を1つにさえすれば、全ての人間がハッピーになれるという思想が世界中を覆いかけたかに見えたが、ここにきて、その傾向に待ったをかける人物が出現した。世界広しと言えど、現実的にそういったこと(=世界経済の潮流を変えるようなこと)ができるのはアメリカ大統領をおいて他にいない。そう考えると、トランプ大統領の口から発せられた「保護主義」という言葉の持つ意味は極めて重く深い。
 我々は現在、時代の転換期に存在しているという認識を持ち、悪戯に危機を煽るのではなく、どんな非常識に思える言葉であっても、真摯かつ冷静に受け止めて考えるべきかもしれない。

■「世界経済の平準化」のもう1つの意味

 ただ、トランプ大統領は「保護主義」を訴えてはいるものの「グローバリズム」を完全に否定しているわけではないと思う。「行き過ぎたグローバル化」は先進国の富を奪い続けることになるという単純な事実に気が付いたので、このまま「グローバリズム」を野方図に押し進めると自国を破壊しかねないという危機感を抱いたのではないかと思う。
 現在、ジョージ・ソロス氏がトランプ大統領と対立しており、見方によっては「グローバリズム」vs「ナショナリズム」という構図に見えてしまうが、少し誤解が有るように思える。

 経済のグローバル化というものもバランスが重要であり、「行き過ぎたグローバル化」は先進国の富を急激に奪うことになる。その現象は、「世界経済の平準化」という意味では否定するべきものではないのかもしれないが、あまりにも急激な変化というものは時に悪にもなる。「行き過ぎたグローバル化」の強要は、先進国に生きる人間(労働者)にとっては、ある意味で共産主義を強要されるに等しいことでもあるからだ。

 「グローバリズム」とは「世界経済の一体化(平準化)」を意味した言葉だが、その言葉は一歩間違うと「先進国の人間は発展途上国の人間のために犠牲にならなければならない」というような自虐的な思想に化けてしまう。グローバル化というものも、その置かれた環境と進行過程(スピード)によっては、善にも悪にも変化する曖昧な代物だ。

■否定すべきは「早急過ぎるグローバル化」

 物価も人件費も全く違う国々の市場を、ほとんど制御することなく混ぜ合わせることによって、世界経済に如何なる科学反応(経済変化)が生じたか? 先進国の労働者は豊かになったか? 発展途上国の労働者は豊かになったか?
 そのどちらも「イエス」ということであれば、「グローバリズム」は正しいということになるが、実際はどうだろう?

 物価と人件費が高過ぎて発展途上国とまともに競争できない先進国では、金融緩和を行い通貨安競争に明け暮れたが、それでも、どんどん物価の安い国が出現し、二進も三進もいかなくなった。物価と人件費が高い国に生まれた子供の全てが恵まれた境遇にあるわけでもないのに、生まれた時から際限の無い過当競争を強いられる。

 先進国の人間は、発展途上国で生産された安価な商品を購入することができるようになったが、それは消費者に一時的な陶酔を与えただけで、長期的には際限の無いデフレ現象を押し進めることになってしまった。このまま「行き過ぎたグローバル化」を放置しておくと、世界経済が平準化する前に、先進国の経済はその急激な変化に耐え切れず、挙って破綻してしまうかもしれない。
 「金持ちを貧しくしても、貧しい人が金持ちになるわけではない」というサッチャーの言葉通り、先進国が破綻すれば発展途上国も連鎖破綻してしまうかもしれない。そんな危機感を感じ取った人物がアメリカ大統領に就任したということであれば、世界中の人々から大いに注目されて然るべきことだろう。

 「緩やかなグローバリズム」は肯定すべきものだと思うが、「急激なグローバリズム」は否定されるべきかもしれない。トランプ大統領の登場によって、そんな当たり前のことに気付かされたような気がするのは私だけだろうか?

【追記】2017.1.26
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>この「自由人」という筆者の過去のエントリを読むと、どちらかといえば、労働市場の規制や保護には否定的で(最低賃金制度にも否定的)、労働市場の競争を推進するのが望ましく、働きの割りに賃金が高い者が低い方に調整されるのは良いことだ、という思想だったように思われます。

 該当記事をよく読んでもらえば解ると思いますが、「最低賃金制度」を否定しているのは、弱者を否定しているわけではなくて、弱者保護のために否定しています。実体にそぐわない最低賃金などというものをヘタに設けてしまうと、最低賃金にすらありつけない無給者が出てくることになる可能性が高いと思われるので否定しているだけです。

 「労働市場の競争」というのも、公平性が担保されているという条件下では望ましいと言っているだけです。そういう理由から、実体にそぐわない高給を得ている人間が公平な市場を歪めているのであれば、公平性という観点から賃金を下げるべきということであり、至極当たり前のことです。

 「規制」というものについても、その規制を敷いた結果が、「公平」になるか「不公平」になるかで善し悪しを判断しているだけなので、全ての規制や保護を否定しているわけではありません。

>この思想はそのまま「グローバリズム」に至るものだと思うのですが、今回の記事をみると、宗旨替えをしたのでしょうか。

 上記に書いた通りです。どこからそういう疑いが出てくるのか不思議ですが、別に宗旨替えなどしていません。
 これまで何度も「公平」という言葉を使用している通り、私は基本的に「公平主義者」です(注意:平等主義者ではありません)。ゆえに、いつも「公平性」というものをベースに論を組み立てています。「グローバリズム」というものも公平性が失われると悪になると言っているだけの話です。

>なお、グローバリズムで先進国の労働者の賃金が下がるというのは、共産主義とは何の関係もなく、また「豊かな国の労働者が貧しい国のために自己犠牲するべきだ」という美しい思想なわけでもなく、単に資本主義がそのまま進展して、労働市場の「柔軟」な競争が国際的に広がった帰結でしかありません。

 概念上は「グローバリズム」と「共産主義」は違う。それはその通りですが、私は言葉の定義として「グローバリズムは共産主義だ」などとは書いていません。言葉で使用する場合と文章として使用する場合は意味が違ってきますので、ニュアンスの違いをご理解ください。
 あなたが「共産主義」をどうご理解されているのか分かりませんが、私は共産主義のことを、結果的には「共に貧しくなる思想」であり、「悪平等で不公平な制度」だと解釈しています。そういう意味合いで「共産主義」という言葉を使用していますので、字義通りに受け取られても困ります。

 「豊かな国の労働者が貧しい国のために自己犠牲するべきだ」などとも書いていません。結果としてそういう状況(私が言うところの共貧主義的な状況)になっているという皮肉を述べているのであって、思想の説明をしているのではありません。

にほんブログ村 経済ブログ 日本経済へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

「胃がんの原因の95%はピロリ菌」の勘違い

■「95%」という言葉を鵜呑みにしてはいけない

 いつの頃からか、「胃がんの原因の95%はピロリ菌」(99%という意見もある)という言葉が独り歩きを始め、現在では、その言葉を本気で信じている人が存在するようになった。
 正しくは「胃がん発症者の95%はピロリ菌保持者」なのだが、この言葉がいつの間にか「胃がんの原因の95%はピロリ菌」となってしまったようだ。
 しかし、どちらにしても「95%」などという数字を安易に使用するのは考えものだと思う。この「95%」という言葉は非常に紛らわしく、悪意は無いとしても真実を隠しているという意味では、トリッキーな言葉とも言える。そのトリックは、よく考えれば誰にでも解けるはずなのだが、専門家や有名人の言うことはいつも正しいと信じて疑わない人は、その間違いに気が付かないのかもしれない。そういう意味では、非常に罪深い言葉だとも言える。

 今回は、この「95%」という数字の意味をシンプルに考えてみようと思う。

 まず始めに認識しておかなければいけないことは、現代の日本人の35%はピロリ菌に感染しており、50歳以上の高齢者に至っては50%近くがピロリ菌持ちだとされていることだ。しかし、多くの人はピロリ菌の除去もせずに健康に過ごしている。
 ここまで高い確率だと「感染」と言うよりも、人間と共存している「常在菌」に近いと言えるのかもしれないが、ここではそのことには敢えて触れない。

■「胃がん発症者の50%はピロリ菌保持者」と聞けば?

 胃がんを発症する人もまた、大部分は50歳以上だと思われるので、もし、胃がんを発症した人の胃を全員検査すれば、必然的に50%はピロリ菌がいることになる。

 もし、「胃がん発症者の50%はピロリ菌保持者」と聞けば、あなたはどう思うだろうか?

 多くの人は「高い確率だな…」と思うだろう。

 しかし、元々、ピロリ菌持ちが50%もいるのだから、デフォルト値は50%であり、これは検査するまでもなく決定している数字である。

 デフォルト値が50%なので、95%という数字は確かに低くない数字であり、ピロリ菌と胃がんの因果関係が有ることは否定できない。しかし、「胃がんの原因の95%はピロリ菌」というのは端から胃がんの原因はピロリ菌のみという前提で組み立てられており誤解を招く恐れがある。

 2015年度の胃がんの罹患数は98万人(死亡数は37万人)となっている。年齢別の詳細は分からないので、凡その判断しかできないが、高齢者が多いことを考慮すれば、50万人以上は元々、ピロリ菌を持っている。重要なのは、その50万人のうちにピロリ菌が原因で胃がんになった人が何%いるのか?ということだが、これが全く無視されている(と言うより判らない)。参考までに書いておくと、「ピロリ菌が原因の胃がんは20%未満」と言っている専門家もいる。

 罹患数98万人の95%がピロリ菌保持者なのであれば、98万人×0.95=93.1万人となるので、93万人はピロリ菌持ちだったことになる。しかし、そのうちの50万人以上は元々ピロリ菌持ちだということを考慮すれば、「胃がんの原因の95%はピロリ菌」というのは乱暴な意見と言わざるを得ない。

【関連記事】「ピロリ菌除去」におけるリスクを考える

にほんブログ村 経済ブログ 日本経済へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ブログは本音メディアなのか?

■長いようで短かった10年

 当ブログを開始したのが2007年1月のことだったので、ブログを書き始めてから、早10年が経過したことになる。「短いようで長い」と「長いようで短い」という言葉のどちらかを選べと言われれば、後者になると思う。
 この年末年始に3本のブログ記事を書いたことで全記事数がちょうど500本になり、平均すると1年間で50本、1週間に1本のペースで書いてきたことになる。

 ブログを書いていて、この10年間で1番大きな出来事は、2011年にBLOGOS(当初はBLOGOS finance)に転載していただくようになったことだろうか。転載される少し前は私もBLOGOSの1読者だったので、BLOGOSに記載されている記事を目標に書いていた。
 ブログを書き始めた当初は、現在よりも文章が過激だったと思うが、BLOGOSに転載されるようになってからは、公的な意味も考えて、少し控え目になったことは確かだと思う。

 よくブログは「本音メディア」とも言われるが、実際のところ、完全な本音などはそうそう書けないと思う。「本音」と「建前」は読み手の解釈によっても左右されるので、どこまでが「本音」でどこまでが「建前」なのかという判断は難しいが、思っていることを包み隠さずストレートに言うことが「本音」あるいは「放言」「暴言」であるとするならば、私自身も完全な本音は書いていないと思う。やはり、どこかに遠慮というか、オブラートに包んだ書き方をしているとは思う。
 2ちゃんねる掲示板などには、どぎつい本音(?)が書かれていたりするが、ブログであんな書き方をすると炎上間違い無しだろうと思う。私自身は2ちゃんねる掲示板の雰囲気には馴染めないので、書き込みをしたことはない。

■ブログで完全な本音が書けない理由

 「本音」ということで言えば、皮肉なことに現状では、ブログよりも書籍の方が規制が緩いと言うか、ブログ媒体よりも本音が書かれていることが多いように感じることがある。リアルタイムで多くの人に言論チェックされるブログよりも、書籍の方が誰にも気付かれることなく本音が出回っている場合がある。現代では発禁を喰らう書籍は滅多に無いが、炎上するブログは後を絶たない。メディア側が規制していなくても、読み手が(自覚が有る無いに拘らず)検閲のような真似事をしているため、書き手(ブロガー)自身が自主規制を敷くことになる。それが良いことなのか悪いことなのか分からないが、ブログ記事はそれだけ人目に触れる機会が多いということなのだろう。

 書籍の場合は、内容全てを読んだ上で反論や批判が為されるが、ブログの場合、直ぐさま反論や批判ができるオンライン構造ということもあり、内容云々よりも、タイトルや1つの言葉だけで言葉狩りに遭遇するリスクが高くなる。私も少し経験があるが、ブログのタイトルだけで批判してくるような人もおられる。
 本を読む人の場合、長文を読むことに慣れた人が多いせいか、文章すべてに目を通してから判断が為されるが、普段から本を読まない人の場合、ブログに訪れたとしても、どこまで読んでくれるか分からない。ブログ閲覧者が1PVとしてカウントされることに違いはなくても、内容をどこまで読んでくれたのか、また理解してくれたのかが分からないので、予期せぬ事態に及んでしまうリスクがある。
 そんな構造的問題を抱えているので、ブログが完全な「本音メディア」というのは少々無理があると思うし、完全な「本音メディア」である必要もないのかもしれないと思う時がある。

■ブログのコメント欄について

 この負の構造を理解されてか、世間の多くのブロガーはコメント欄を閉じている。あるいは条件付きでコメント欄を開かれている。当ブログは今のところ、コメント欄をオープンにしているが、あまりにも建設的でないコメントばかりになるようなら、条件付きのコメント欄にするかもしれない。
 BLOGOSの方でもコメント欄を閉じられているブロガーが多くおられる。私はコメント欄を閉じる気は無いが、閉じられている人の気持ちも理解できなくはないので、悩ましい問題だと思う。紳士的(建設的)にコメントされている人には失礼な言い方になるのかもしれないが、誹謗中傷のようなコメントは想像している以上にストレスになるものなので、その辺のところは仕方がないと思う。

 5年程前は、BLOGOS会員だけでなく、非会員もコメントできるようになっていたと思うので、今よりも賑やかで様々な意見が読めて興味深かったが、ブロガーと閲覧者の間で見解の相違が生まれると余計な問題が起こり得るので、ある程度の責任が持てる会員のみのコメント欄になってしまったのではないかと思う。
 その判断は正しいとは思うものの、コメントはできなくてもいいから、記事をどう判断するかというフェイスマーク等は残してもよかったのではないかと思う。Twitterのコメントも読めなくなった現在、会員以外の人が評価する何かしらの目に見えるシステムが有った方が良いのではないかと思う。

 最近では、BLOGOS内の様々な記事を見ていても「支持する」数よりも、Facebookの「いいね!」の数の方が多いという場合が多い。個人的に思うのは「支持する」という言葉は、どこかブロガーを上位に置き過ぎているような感じがするので、返って押しづらくなっているのではないかと思う。そういう意味では「いいね!」なら、フレンドリーな感じがしてそれほど気を遣う必要もない。
 「支持する」ボタンは有るのに「支持しない」ボタンが無いのはおかしいというようなコメントを見たことがあるが、「支持しない」ボタンが無いのは悪用される場合があることを考えてのことだろうと思う。これも、先のフェイスマーク(笑顔や怒り顔など)なら、気兼ねなく押下することができるのではないかと思うのだが…。

 話が少し横道に逸れてしまったので、元に戻そう。

 私がブログ記事を書く時は、書くネタを決めるのみで、記事の内容も結論もほとんど考えないで書くことが多い。そういう人も多いと思うが、書いている(考えている)うちに内容や結論が浮かんでくる場合がほとんどなので、タイトルもキャプションも後付けになる。

 正直なところ、10年前にブログを書き始めた時は、せいぜい50本、多くても100本でも書ければよい方かなと思っていた。しかし、実際に書き始めてみると不思議なもので、時間とネタさえあればいくらでも書けるという感じに変化していった。今後は1000本を目標に書いていきたいと思う。

 ブログを書くという行為も「案ずるより産むが易し」なので、能力や技術云々よりもまず「書こう」と思うことがスタートになる。ブログを書くか書かないかを迷っている人がいるなら、ケセラセラの精神で迷わず書き始めてほしいと思う。

にほんブログ村 経済ブログ 日本経済へ
にほんブログ村

| | コメント (1) | トラックバック (1)

「同一労働同一賃金」の本質を見誤っている社会

■曖昧な「同一労働同一賃金」の定義

 「同一労働同一賃金」についての記事は、これまで何度か書いてきたものの、この言葉における世間の認識はてんでバラバラなようなので、この際、もう1度、触れておきたいと思う。

 ウィキペディアの説明では以下のようになっている。

>同一の仕事(職種)に従事する労働者は皆、同一水準の賃金が支払われるべきだという概念。性別、雇用形態(フルタイム、パートタイム、派遣社員など)、人種、宗教、国籍などに関係なく、労働の種類と量に基づいて賃金を支払う賃金政策のこと。

 これとは別に、「同一価値労働同一賃金」というものもあり、その説明も付記しておくと、

>職種が異なる場合であっても労働の質が同等であれば、同一の賃金水準を適用する賃金政策のこと。(引用:ウィキペディア)

 この2つを見てもお分かりのように、現在、日本で語られている「同一労働同一賃金」の認識とは随分と違うことが分かる。日本では、正規社員と非正規社員間における賃金格差を是正することだけが「同一労働同一賃金」だと思われているフシがある。(日本では当初、男女間における賃金格差是正のことだった)

■正しく認識されていない「同一労働同一賃金」

 「同一労働同一賃金」とは一言で言うなら、「一物一価」を前提とした賃金制度のことであり、同じ品質の商品(労働)価値は皆同じという意味合いになる。

 そう考えると、単に正規社員と非正規社員間における賃金格差を是正した程度では全く条件を満たしていないことになる。
 例えば、親会社(A)、子会社(B)、孫会社(C)というものがあると仮定してみよう。その場合でも同じ仕事であれば、AとBとCの間に賃金格差が有ってはいけないことになるが、実際はそうはなっていない(できないと言った方が正しいかもしれないが)。

 仕事が繁忙期にある時、Aが下請けとしてBに仕事を発注し、Bも手が足りなければCに仕事を発注するという関係にある場合、仕事の内容が全く同じであったとしても、普通は仕事を発注する側がマージンを取ることになる。全く同じ1つの商品を作っていたとしても、賃金がA>B>Cになるのであれば、それは「同一労働同一賃金」とは呼べない。

 つまり、現在、世間で認識されている「同一労働同一賃金」とは、その言葉の前に「同一職場における」という言葉を付け足さなければ意味を為さないのである。

■「同質労働同一賃金」と「同一業務同一賃金」の違い

 私は以前の記事で、「同一労働同一賃金」とは「能力給」のことだと述べたことがある。それは、どこの職場であろうとも、同じ仕事であれば、同じだけの賃金が支払われるべきという意味であり、言わば「同質労働同一賃金」こそが、本来の意味での「同一労働同一賃金」であるということを述べたつもりだった。

 もう1つ、付け加えておくと、世間では「同一業務同一賃金」を「同一労働同一賃金」と思われている人もいる。
 先程の例で言えば、AもBもCも同じ職種であるなら、同じ賃金が支払われるべきという考え方だが、その場合、個人別の能力差というものが抜け落ちてしまうことなる。同じ職種であっても、個人には仕事の能力差があるので、1時間に1つの商品しか作れない人と、1時間に2つの商品を作れる人には、賃金差を設けなければならない。なぜか? それが「同一労働同一賃金」というものだからである。
 同じ職種であれば全て同じ賃金ということになれば、それは「一物一価」の法則に反しており、実質的には「同一労働同一賃金」の目的とは真逆の悪平等な賃金制度になってしまう危険性がある。

 「同一労働同一賃金」という言葉を、現状における世間の常識や法律という枠組みの中で考えてしまうと、どうしても視野が狭くなり、本質を見誤ってしまう。「木を見て森を見ず」という言葉の通り、「1企業を見て社会を見ず」になってしまっているように見える。

 「同一労働」という言葉を、先入観を排し、頭を真っ白(クリア)にして素直に考え直してみると、「同じ労働は同じ価値」という当たり前の言葉が浮かんでくると思う。その言葉は本来、1企業内における労働の価値のみを表した言葉ではなく、社会全体の労働価値というものを考慮した上で考えるべきものだと思う。
 実現できる可能性は極めて低いとは思うが、1企業内における「同一労働同一賃金」を実現するだけでは「同一労働同一賃金」社会にはならない。

【関連記事】100周年を迎える「1日8時間労働」

【追記】2017.1.7
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>親会社が仕事を下請けに出したとき、親会社が同じ仕事をするなんてことはないです。仕事のマネジメントならやります。だから同一労働ではありません。

 本記事をアップした後で、親会社は「元請け」、子会社は「下請け」、孫会社は「孫請け」と書いた方が良かったと思いましたが、直ぐにBLOGOSに転載されましたので訂正できませんでした。若干の違和感があったので、「仮定」とお断りした次第です。

>この筆者と同じ論をBlog PVが100の人が書いても誰も気にとめないのと同じで、Blogosに転載されると億のPVにさらされる事になり、反証される。

 PVが少なければ無視されるのに、PVが多ければ反証される? 文章の前段と後段が矛盾しています。本記事の場合、BLOGOS側のPVは1万もありません。

>まあ、そもそも、この自由人という人のBlog自体は3000くらいのPVしかないわけで、PVですべてはかるつもりはないけど、言説としては無価値なんだよな。

 これも文章の前段と後段が矛盾しています。PVで測るつもりがないなら、わざわざPVの話を前段にもってくる意味がありません。それに3000というPVはどこから出てきたのでしょうか? 当ブログの当記事当日のPVは500程度ですが…。なぜ、そこまでPVに拘る必要があるのでしょうか?

にほんブログ村 経済ブログ 日本経済へ
にほんブログ村

| | コメント (3) | トラックバック (0)

BOOK『くたばれパヨク』を読んで。

■チバレイ流パヨク論考 第2弾

 最近は本当にリベラルやサヨクに対する研究・批判本が多くなり、本音で書かれた活字を読むことも多くなった。少し前までなら一部の保守論客の本でしか読めなかったような正論が、様々なタイプの論客から聞かれるようになったので、自然と購入する本も多くなり積読本がますます増える傾向にある。
 そんな状態だから、なるべく薄く平易な文章で書かれた興味深い本から優先的に読むことになる。人間は心理的に簡単な問題から先に解決していく傾向にあるので、難解で読みづらい分厚い本は最後まで残ってしまうのかもしれない。

 前置きはこの辺にして、この年末に平易で興味深い本の1つ『くたばれパヨク』を一気読みした。昨年ベストセラーになった千葉麗子氏の『さよならパヨク』の続編的な位置付けになる本だが、文章量的には少し増えた感じがしたものの、内容的には前作同様、パヨク(劣化した左翼)の暴露本というか、入門書という趣きの本だった。ある程度の保守的な知識のある人には少々物足りなく感じるかもしれないが、大部分の日本人はパヨクに関しては素人だと思われるので、これはこれでよいのかもしれない。

 前書同様、詳細は省かせていただくが、大きく分類すると、「芸能界とパヨク」「教育とパヨク」「若者とパヨク」という感じでパヨクの実態を彼女なりに簡易レポートしたエッセイ風の書物になっている。タイトルは「さよなら」から「くたばれ」と過激になっているが、内容的には逆に大人しめになっている。

 「芸能界とパヨク」では、パヨク芸能人を断罪するというスタイルではなく、ある意味で、同情的なことが書かれていた。千葉麗子氏曰く「(芸能人の)主要な得意先であるマスメディアがパヨれば、それに合わせて芸能人もパヨるのもある意味仕方がないことなので、既存メディア以外でも(芸能人が)活躍できる場を考えなければならない」(原文ではない)とのことだが、これは全く同感だった。

 「教育とパヨク」では、「(戦後)70年以上かけてパヨった教育は、さらに長い年月をかけないと取り戻せない」と書かれていた。

 私が中学生の時の社会科の教師は、なぜか、日本の歴史よりも中国の歴史を熱心に教える教師だった。中国の元号は熱心に教え込むのに、日本の元号は教えないという教師だったせいか、中国の元号はキッチリ覚えているが、日本の元号はほとんど覚えていない生徒ばかりという有り様だった。
 中学時代の私には、思想的な知識も探究心も無かったので、「先生、なぜ中国の元号は教えるのに、日本の元号は教えてくれないのですか?」というような質問もできなかったが、今考えると、あの教育は一体なんだったのか?と思う時がある。

 「若者とパヨク」では、「環境パヨク」「人権パヨク」「反戦パヨク」と3つのカテゴリーの説明が書かれており、かつて「反原発」という「環境パヨク」にハマってしまった自らを反面教師として、若者にアドバイスされている。

 しかし、つい2〜3年前まで反原発アイドルだった人物が、これだけの短期間で見事に転身できるということは、驚きであると同時に可能性を感じさせもする。「70年以上かけてパヨった教育は、さらに長い年月をかけないと取り戻せない」という彼女の言葉に照らせば、実際はもっと短期間で取り戻すことが可能であることを身をもって証明してくれているかのようだ。今後の更なるご活躍に期待したい。

にほんブログ村 経済ブログ 日本経済へ
にほんブログ村

| | コメント (1) | トラックバック (1)

« 2016年12月 | トップページ | 2017年2月 »