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2017年4月

アメリカに睨まれた北朝鮮【キングコング vs モスラ】

■『国家権力』と『シン・ゴジラ』

 前回の記事で、「憲法9条で縛れるのは自国の国家権力のみ」と書いてみたところ、BLOGOSの方で「左派の人々もそんなことは解っている」というようなコメントを頂いた。
 なるほど、確かに日本の左寄りの人々には「国家」を敵視する人が多いので、憲法が国家権力に対抗する武器であることは理解していて当然かもしれない。
 しかし、もしそれが本当であるなら、左派の人々というのは、日本国内さえ平和であれば、それで良いとする利己主義者だということになってしまう。
 彼らの論法からいけば、憲法9条(平和憲法)が機能していれば、日本が戦争を起こすことはなく、他国から戦争を仕掛けてこない限り、日本は平和なわけだから、戦後70年間、日本が平和であったのは自明の理ということになる。しかし、それが解っているのであれば、彼ら平和主義者が本当に考えなければいけなかったのは、他国から戦争を仕掛けられた場合に、どうやって平和を維持するのか?ということであったはずだ。

 「国家とは人間の富を略奪する無敵の暴力団である」というのは経済学者の故竹内靖雄氏の言葉だが、「国家」というものをもっと解りやすく喩えるなら、昨年話題になった映画『シン・ゴジラ』のようなものだとも言えるかもしれない。
 個人的に、あの映画はあまり面白いとは思えなかった(失礼)が、「国家」というものを暗喩(メタファー)として描いている点は興味深かった。製作者がそれを狙ったのかどうか定かではないが、あのような、頑強でどんな攻撃も通じない巨大な怪獣こそがホッブズが著した『リヴァイアサン』、もとい「国家」の正体でもある。(もちろん、喩え)

 そういった前提(国家は怪獣という前提)に立って、話を進めてみよう。

■『モスラ対ゴジラ』ではなく、『モスラ対キングコング』

 暴走した国家ならぬゴジラは危険だ。暴れ出すと人間では手に負えないゴジラは鎖で雁字搦めに縛っておかないといけない。それはその通りではある。しかし、それはゴジラ以外に怪獣がいない場合の話であって、例えば、日本の外から、モスラがやってきた場合は、その鎖を解いて、ゴジラに威嚇、または戦ってもらわなければいけない。

 現代の日本が置かれている状況は、ゴジラが仮死状態に置かれているようなものであり、20年以上前からモスラが空から攻撃してくる危険性があったのに、ゴジラを縛っている鎖を全く緩めようとしなかった。
 「ゴジラが身動きできないように鎖で縛っておかなければいけない」「ゴジラを縛っている限り安心だ」と言い続けてきたのが、他ならぬ護憲派(平和主義者)の人々の姿だと言える。

 ゴジラが動ける状態であるなら、モスラは日本に攻めることを躊躇うかもしれないが、ゴジラが動けなければ、モスラは攻めやすくなる。これも自明の理だ。ゴジラは70年もの間、鎖に繋がれたまま動けない状態だったので、足腰も弱り、もはや自力では立ち上がれなくなってしまった。ゆえに、キングコングという外国の怪獣に頼るしかないというのが現在の日本の状況だろう。

■トランプ大統領の暗喩としての『キングコング』

 ハリウッド映画には、暗に世相を反映した映画が多いのだが、今年3月に公開された『キングコング:髑髏島の巨神』は、ある意味、トランプ大統領の暗喩になっているような気もする。(本作がクランクインしたのはトランプ氏が大統領になる前のことなので、偶然の産物だが)
 映画では、毎度、愚かな人間に殺されて終わるキングコングだが、今年、蘇った巨大なキングコングは一味違っていた。これも世論(リベラルメディア)によって社会的に抹殺されずに生き残ったトランプ氏を表しているかのようだった。
 髑髏島のキングコングは、自らの縄張り(聖域)を荒そうとする不届き者には容赦なく正義の鉄槌を加える。この部分もまさしくトランプ大統領そのものだ。

 日本は自国民を拉致されても奪い返すこともできず、「ミサイルを撃ち込むぞ」と脅されても抗議するだけで何の抵抗もできずに泣き寝入りすることしかできない。もし、北朝鮮が多くのアメリカ人を拉致すれば、アメリカは泣き寝入りすることなく命懸けで奪い返すだろうし、「ミサイルを撃ち込むぞ」と脅されれば、黙っているはずがない。
 抗戦的に見えたとしても、それは「国家」として当たり前の態度であり、指をくわえて見ているしかない日本の方が可笑しいのである。それは「国家」としての体を為していないということを意味するからだ。

 「ゴジラは縛られているが、キングコングが守ってくれているので、モスラは攻めてこない。」あるいは「ゴジラを放とうと放つまいと、キングコングがいてくれるので関係がない。」というような意見は、要するに、「ゴジラは無力だ」と言っているに等しい。換言すれば、「日本は無力だ」ということになる。
 それが、国家としての当たり前の状態なのであれば、実に大きな自己矛盾を内包していることになる。なぜならそれは、日本の左派が敵対するべき「国家」が無力であると言っているに等しいことになるからである。(=無力である国家に敵対する意味がない)

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今そこにある「北朝鮮クライシス」

■軍事的「失われた20年」

 先日(4月15日)の北朝鮮発の有事危機は、マスメディア内で箝口令が敷かれているのではないか?と思えるほどに、ほとんど無視されていたが、その後は、さすがに無視できなくなってきたのか、有事を想定した話もちらほらと出てきつつあるようだ。
 政府も、北朝鮮から弾道ミサイルが飛んで来た場合の対処法を政府ホームページに掲載するに至っており、徐々に緊迫した空気が漂いつつある。

 北朝鮮が最初の核実験を行ったのが2006年のことであり、ミサイル発射実験に至ってはその10年以上も前から行われてきた(1993年に日本海にノドンを発射)。
 そう考えると、もう20年以上も前から脅威は存在しており、この20数年間は日本にとって、経済だけでなく、軍事に関してもまた「失われた20年」だったわけだ。この、今そこにある危機(北朝鮮クライシス)に対して、警告を発していた識者は大勢いたが、何ら具体的な策を講じてこなかったツケが一気に顕在化しつつある。

■「憲法9条」の平和的効能は日本にしか効かない

 「憲法9条があれば戦争にはならない」という呪文を信じ、軍事防衛力(戦争抑止力)を否定し続けてきた人々の罪は重く深い。肌で感じられる開戦危機を生まれて初めて経験し、ようやくそのことに気が付きはじめたのかもしれないが、今回の「北朝鮮クライシス」で日本が戦渦に巻き込まれ、多くの死傷者が出た場合、彼らはそれでも「憲法9条があれば戦争にはならない」と言うのだろうか?

 そもそも、憲法というものは、自国の国家権力を縛るためのものであり、自国が戦争を始めることを抑止するためのものであって、他国のそれには何の関係もない。日本が戦争を起こさないようにするために用意されたものが現在の日本国憲法であり、「憲法9条があれば戦争にはならない」のではなく、「憲法9条があれば(日本からの)戦争にはならない」というのが正しい認識だ。憲法9条を北朝鮮に輸出し、金正恩がその憲法を正式に採用でもしない限り、北朝鮮が戦争を起こすことを止めることはできない。
 憲法に縛られ戦争を起こすことのできない日本で反戦デモなどを行っている暇があるのなら、北朝鮮に行って命懸けでデモを行うべきだ。それができてこその平和主義者だと言えるが、そんな人は誰一人としていない。

 アメリカと北朝鮮がチキンゲームを展開できるのは、両国ともに核兵器(戦争抑止力)を保有しているからであり、日本の場合は、事実上、チキンゲームを行う権利すら有していない。
 ピストルを持った強盗にネゴシエーションできるのは同じく武器を持った人間だけであり、相手に恐怖感を与えることができない限り、対話にはならず交渉の席に着くことも叶わないため、チキンハートで怯えるしかない。

 原罪を背負わされ、武器を放棄し、「悪さをしてはいけない」ということが書かれた「お守り」を持っているだけでは、強盗を縄で縛ることはできない。
 こんな子供でも解るようなことが解らないまま放置され、平和ぼけの太平の世を微睡みの中で過ごしてきたのが日本という国であるということを知るべき時期が来たのかもしれない。
 願わくば、被害が出ずに平和裏に解決されんことを…。

【追記】2017.4.22
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>9条が無ければ日本が韓国飛び越えて単独で北朝鮮を攻撃する能力を20年間で持てたとでも言うのだろうか。

 攻撃する能力を持てたか持てなかったかという話ではなくて、抑止力について考えることすら遮ってきたことが問題だと言っているのです。

>憲法9条も、先の侵略戦争の反省も踏まえて、二度と日本が戦争を起こさないようにするのが目的の条文であって、

 「侵略戦争の反省」という言葉自体、憲法と同様、戦勝国側が創作したフィクションである可能性の方が高いと思いますが。

>例え、その草案を提案したのがGHQであったとしても、憲法9条を支持して、ずっと守り抜いてきたのは、大多数の国民自身。

 あなたが言っていることも、結局のところ、何が真実かを考えることもなく、鵜呑みにして守り抜いてきたということですね。

>左派の連中(というか右派以外のほとんどの国民)の誰も、憲法9条が、他国の武力行使にまで適用されるとは思っていない。

 ではなぜ左派の人達は、殊更に「平和」という言葉を使用するんでしょうか? 「平和」は1国の中だけで実現できるものではないはずですが。

>日本でデモを行っているのは、安倍政権が日本を戦争ができる国に(日本から戦争を行えるように)変えようとしているから。

 安倍政権は単に「防衛できる普通の国」にしたいだけだと思いますが。大体、現代の恵まれた日本という国で戦争がしたいなどと考えている人が本当にいるかどうかも疑わしいし、戦争をする合理的な理由が見当たりません。それに、安倍総理が独裁者であるなら、とうの昔に憲法は改正されているはずです。独裁者というのは、反対派の声に耳を傾けることもなく暴政を行う人物のことを言うのであり、支持率が60%も有るのに憲法も変えれない、古今東西、そんな反対論者の気持ちを慮る気弱な独裁者がどこにいるんでしょうか?

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トランプ流の北朝鮮「無血革命」

■戦わずして勝ったトランプ大統領

 昨日(4月15日)の北朝鮮で行われた金日成生誕105周年の祝賀軍事パレード日は、ネット界隈では「Xデー」とも噂され、一部では開戦前夜を思わせるような物々しい空気が立ちこめていたが、結局、北朝鮮による核実験もミサイル発射も行われなかった。
 アメリカの警告が無ければ本当に両方とも行われていた可能性が高かったと思われるが、トランプ氏の存在が大きな心理的防波堤の役割を果たしたことは間違いなさそうだ。

 この先、どう転ぶかはまだ予断を許さないものの、今回のアメリカ側の一連の言動が全て計算づくだったとすれば、実に見事な戦略だったと思う。1度目は6日、シリアに対する青天の霹靂とも言えるトマホークミサイル59発の発射攻撃、その後、13日にはイスラム国に対して大型爆弾モアブ(MOAB)を実戦で初めて使用。その上でアメリカ最強の航空母艦カール・ヴィンソンを北朝鮮近海に派遣。
 「二度ある事は三度ある」というのは日本のことわざだが、ここまでやると「三度目の正直」が有ると思わせるには充分な心理作戦だ。
 アメリカは今回、結果的には「戦わずして勝つ」を実践したと言える。これで北朝鮮が大人しくなれば、まさにトランプ流の「無血革命」とも呼べそうだ。

■2つの戦争抑止力が判明

 軍事パレードには各国の報道陣が多数招かれていたので、ある意味、人質としての役割を果たしていた。そういう意味では、チキンゲームの様相を呈していたとはいえ、軍事的に圧倒的優位にあるアメリカが「北朝鮮が核実験を行おうとすれば攻撃する」と警告している状況下で、北朝鮮側が本当に核実験を行うのは自殺行為だ。それが解らないということであれば、本当に見境の無い狂った独裁者ということになるが、幸か不幸か、己の命は惜しいと思う理性(判断力)は有していたらしい。

 この先、北朝鮮がアメリカにビビって、兵器開発から徐々にフェードアウトしてくれることを願いたいところだが、他国を脅すことで成り立っていたような国が、直ぐさま良い国になるとは考えにくい。1番恐いのは「窮鼠猫を噛む」というような状態になることだ。無論、その「猫」には日本も含まれるので、防衛力の強化を急ぐ必要がある。森友問題や芸能人の不倫問題などというチンケな問題で騒いでいる場合ではない。

 ところで、今回の有事危機は、テレビではほとんど報道されなかった。ヘタに危機を煽ると国民がパニックになるというマスコミお得意の“忖度”だったのかもしれないが、国民の知る権利というものが無視されているように感じざるを得なかった。
 これまでも「ギリシャ破綻危機」だとか「中国バブル崩壊危機」だとか「イギリスEU離脱危機」だとか、ほとんど何の影響もなかったような小事には嬉々として大騒ぎする反面、今回のような「北朝鮮開戦危機」という国民の命に関わる重大事には黙りというのは明らかに矛盾している。

 あるいは「憲法9条」が有れば有事にならないという神話にヒビが入ることを恐れて報道しづらかったのかもしれないが、図らずも今回の出来事で、戦争抑止力と成り得るのは「憲法9条」ではなく、「強大な軍事力」と「ハッキリと意見を述べる実行力を伴ったリーダーの存在」であることは判明したと言える。

【追記】2017.4.17
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>今朝、北がミサイルを発射したことで、筆者の主張は木っ端みじんに破壊されましたね。
間違いを認め謝罪すべきでしょう。

 ミサイルを発射したと言っても記念日から1日遅れ、しかも失敗ですが…。おそらく故意の失敗とみるのが妥当なところだと思います。
 なぜ核実験を行わずにミサイル発射を優先したのか?
 なぜ都合よく失敗したのか?
 なぜ2弾目を打たなかったのか?
 これらを勘案すると、「様子見」が目的だったと考えるべきでしょうね。「打つ」と言っておいて全く何もしないわけにもいかず、かといって成功するわけにもいかない。挑発行為にならないギリギリの選択肢がミサイル打ち上げ失敗という手段だったのでしょう。上層部が仕組んだのか、それとも技術者側がアメリカの反撃を恐れて敢えて失敗したのかは判りませんが、そういう狙いで行われた可能性が高いと思います。実際、北朝鮮の国民にはミサイルを発射したことも失敗したことも伝わっていないそうなので、軍のメンツを保つために必要だったのかもしれませんね。(あくまでも推測ですが)

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国民の真意を忖度しない政治家達

■「築地市場移転問題」と「森友学園問題」

 現在、国民的問題として世間で大きく騒がれ注目されている事件と言えば、「築地市場移転問題」と「森友学園問題」の2つになるのだろうか。
 この2つの事件については、個人的にそれほど興味も涌かなかったのでブログ記事にも書いてこなかった。どちらの問題も「A」か「B」か?という二者択一問題だが、凡その結果は始めから出ているように思う。

 「築地市場移転問題」については、最終的には、いずれ「豊洲」に移転することは目に見えている。現状は落としどころを探る期間であり、その空白期間を小池百合子氏が政治的(ポピュリズム的)に上手く利用しているところだと思われるので、時を待てばそのうち妥協点が見つかるのだろうと思う(もちろん結果的には豊洲へ移転となる)。

 「森友学園問題」については、単なる政治的茶番であり、益の無い愚かな政争にしか見えない。主要3野党にとっては降って涌いたかのような絶好の政争ネタだったと思われるが、結果の白黒はどうであれ、こんなショボいネタで与党批判に明け暮れても、政治家としての信用や威厳を失うだけだろうと思える。「肉を切らせて骨を断つ」ではなく「骨を切らせて肉を断つ」になっているように見える。

■「大事の前の小事」と「小人閑居して不善をなす」

 有権者の1人として正直なところを書かせていただくと、多くの国民は、むしろ「こんな小事はどうでもよいではないか! 政治家の本来の仕事をしよう!」と一喝してくれるような野党政治家が出てくることを望んでいるわけで、国民の生活とはほとんど関係のないショボいネタで鬼の首を獲ったかのように狂喜乱舞するような節操のない政治家には政治を任せたくないのである。最近流行りの「忖度」というインテリ用語を使用するなら、国民の真の願い(ニーズ)を忖度できていないことが間違いなのである。

 現在、無駄に騒いでいる政治家達には、「小人閑居して不善をなす」という言葉の意味を考えていただきたいと思う。多くの国民が、この騒ぎを観て頭に浮かんでいるのは、「小人閑居して不善をなす」という野党に対する疑念であり、間違っても与党に対する疑念には転化しないということを知る必要がある。
 「大事の前の小事」の“小事”にだけ心が囚われているような政治家になっていないかどうか自問自答してみることをオススメする。大事が見えない(または見えないふりをする)からこそ与党になれないということも併せて考えていただきたい。国民の真意を理解すること、それこそが現代の政治家に求められている「忖度」なのである。

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