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2017年5月

「断じて容認できない」という空念仏

■「金正恩の耳に念仏」
 
 相次ぐ北朝鮮からのミサイル発射という挑発行為に対しての日本政府の対応ぶりにはゲンナリ、それが多くの国民が内心抱いている率直な感想ではないだろうか。ミサイルが発射された時の政府の発表は、以下の通りで全く変わりばえしない。

 5/14 弾道ミサイル発射 高度2000km達成

 「断じて容認できない

 5/21 固体燃料を使用した中距離弾道ミサイル発射

 「断じて容認できない

 5/29 精密誘導システム搭載の弾道ミサイル発射
     日本の排他的経済水域内に落下

 「断じて容認できない

 毎度、念仏のように唱えられる「断じて容認できない」という言葉には、いいかげんにウンザリという人は多いと思う。念力ならぬ軍事力を持ったトランプ神父が言えば、効き目があるかもしれないが、軍事力を持たない(ことになっている)日本の似非坊主では、全く効き目がないことは明らかであり、「馬(金正恩)の耳に念仏」にしかなっていない。

■タイムリミットは100日後の「7月15日」

 4月6日から7日にかけて行われたトランプ大統領と習近平国家主席の米中会談において、トランプ氏が習近平氏に対して、北朝鮮問題の説得猶予期間を「100日間」と述べたことが既に明らかになっている。
 その会談後は少し大人しくなり効果があったのかと思いきや、5月になってからは、これまで以上に北朝鮮のミサイル発射が頻繁に行われるように変化してきており、非常に危なかしい空気が東アジアに充満しつつある。

 アメリカ側は、カール・ビンソン、ロナルド・レーガンに次いで、今度はニミッツと、3隻もの空母を出撃し、弾道ミサイルの迎撃テストまで実際に行っている。単なる脅しだけでここまでするのは不自然であり、北朝鮮を覆っている不穏な空気は、いつ爆発するか分からないような状況になってきつつある。

 北朝鮮をこのまま放置しておくと、近い内にアメリカ本土まで正確に到達する核ミサイルが完成してしまうことは、ほぼ確実視されている。それまでの間に北朝鮮問題にケリをつけることはアメリカにとっても至上命題であるため、北朝鮮が核兵器開発を止めない限り、アメリカとの軍事衝突は、どのみち必ず起こるとみて間違いない。仮に今回、無事に済んだとしても、せいぜい数年延びるかどうかの違いがあるだけだろう。
 中国からの北朝鮮への話し合いでケリがつくに越したことはないが、現状を観る限りでは、話し合いで解決できるとは到底思えない。

 アメリカが具体的な行動をとるまでの猶予期間が「100日間」だと考えると、4月6日から100日後は「7月15日」ということになるので、日本で言えば、7月15日から17日の3連休辺りが「Xデー」になる可能性はまんざら否定できない。

■「断じて容認できない」のは獅子身中の虫

 実質的には北朝鮮は既に詰んでいるわけであり、命綱としての核開発を止めることは、金政権の死を意味するので、亡命する逃げ道でも用意されない限り、悲惨な最期を迎える可能性が高いと言える。
 
 しかし、これまでに自国民を虫けらのように扱い殺害してきた独裁者に、逃げるなどという手段があるとは思えないし、いつ殺されてもおかしくないほどの悪業を背負っている人物でもあるので、どんな最期を迎えても、それは自業自得としか言いようがない。同情するべき相手は独裁者ではなく、「地上の地獄」に囚われている無辜の北朝鮮国民の方だろう。そこを間違えてはいけない。


 
 7月1●日 米軍が北朝鮮に爆撃開始
       北朝鮮からの弾道ミサイルが日本本土に着弾

 「断じて容認できない

 …とならないことを祈りたいところだが、残念ながら、軍事力(自国防衛力)を持たない国では、そういう台詞を言うことしかできない。そんな台詞を言う人が悪いのではなく、そんな台詞しか言えなくなっている戦後の日本社会にこそ問題があると言える。

 それは恰も、武装した銀行強盗に銃口を向けられ、「断じて容認できない」と言っている武器を持たない銀行員のようなものであり、防犯ブザーを鳴らしても、駆けつける警察官がいない。そして、その銀行員は、銀行強盗に対してさえ暴言を吐けば、行内規程により、その銀行をクビになってしまうという、そんな不条理な社会が出来上がってしまっている。

 「断じて容認できない」という台詞は、現状では、日本から北朝鮮に対して言う台詞ではなく、日本にミサイルが着弾しなければ、考えを改めようとしない人々の存在に対してこそ言うべき台詞なのかもしれない。本当の敵は身中にいる。

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「プレミアムフライデー」よりも「バリューサースデー」

■どこ吹く風の「プレミアムフライデー」

 今年の2月から「プレミアムフライデー(プレ金)」なるものが実施され、この間、既に4回もの「プレミアムフライデー」が過ぎ去ったことになるが、労働組合の無い一般企業では、“どこ吹く風”という感じで、会社内でも「プレミアムフライデー」のことが話題にすらならない。このような浮世離れした制度を創っても、毎度のことながら、一部の大企業だけしか実施できないわけで、これで個人消費が喚起されて景気が良くなるなどというのは絵空事でしかないような気がする。

 個人消費を喚起することが目的であるのならば、「プレミアムフライデー」のようなほとんど効果の見込めない制度よりも、確実に効果が出るもっと良い方策がある。それは、「土曜日の休日を木曜日に変える」という制度、言わば「バリューサースデー」(価値ある木曜日)だ。

 なぜ、土曜日の休日を木曜日に変えることが個人消費を上向かせることに繋がるのか? その理屈をシンプルに説明してみようと思う。

■重要なのは「次の日が休みであること」

 まず、「プレミアムフライデー」というのは、午後3時(15時)に仕事を切り上げることで、仕事帰りに買い物や食事や遊興を行う人が増えるという考えが基にある。なるほど、確かに自分自身が午後3時に仕事を切り上げれるなら、ショッピングや映画でも観に行こうかという気にはなるかもしれない。

 しかし、食事(飲み)に出かけるとまでは、あまり考えない。普段から、食事(飲み)に行く時というのは、早く帰れる日ではなく、次の日が休みの日であることが重要な条件だ。「プレ金」でなくても「花金(花の金曜日)」なら、食事(飲み)に出かけるという人は大勢いる。
 次の日が休日だからこそ、夜遅くまで食事(飲み)ができるという気持ちの緩みが生まれるわけであり、いくら早く終業時間を迎えたとしても、次の日が出勤日なら、なかなか食事(飲み)に出かけようとはならない。

 日本では(世界でも)、週休2日制というのは、基本的に土曜日と日曜日の2連休になっている場合がほとんどだが、2連休だからといっても、食事(飲み)に出かけるのは金曜日の晩だけという人がほとんどだろうと思う。「花金」が「花金」である理由は、次の日が休みだということが大きい。次の日が休みという高揚感と安堵感こそが、自然と個人消費を喚起させるのである。

 次の日が休日であれば、仕事帰りに食事(飲み)に行く人が多くなる。そうであるならば、仕事帰りに食事(飲み)に行ける日を増やせばいい。そのためには、土日の連休は止めて、休日を分割すればいいのである。
 例えば、木曜日と日曜日が指定休日であれば、水曜日の午後「花の水曜日」と土曜日の午後「花の土曜日」に食事(飲み)に行く人が増える。その場合、わざわざ15時に終業する必要もなく、少し仕事帰りが遅くなったとしても食事(飲み)に行く人は増えるはずだ。“次の日が休み”という気持ちの緩みは、財布の紐の緩みにも通じている。

■実現可能で価値のある「休み方改革」を。

 これなら、現在の労働時間を変えることなく可能となるし、一部の大企業でしか実施できないというようなこともない。“働かない”“働けない”“働きたくない”というような、無い無い尽くしの「働き方改悪」ではなく、本当の意味での「働き方改革」が可能となる。
 労働時間を変更するのではなく、休日を変更するだけで個人消費は必ず上向く。これぞ価値のある「休み方改革」(休日革命)だ。

 個人消費云々以前に、実際に社会人として働いている者としては、月曜から金曜まで連続して働いて土日にまとめて休むよりも、月・火・水と働いて、木曜日に休み、金・土と働いて日曜日に休んだ方が肉体的にも精神的にも楽だと思う。どうしても連休が欲しいというなら、有給休暇を取得すればいいし、悪名高い「ハッピーマンデー制度」も2連休制度として活かせる。

 私個人の場合、土曜日も年間に半分程度は出勤日であるので、半分は他人事でしかないが、それでも2連休よりも、木曜日辺りに中休みが有った方が有り難い。
 働き過ぎで過労やストレスを感じる時というのは、連続勤務にも大いに原因があると思われるので、土曜日の代わりに木曜日を休日にすることで、3日間以上の連続勤務が無くなり、過労で倒れるような人も減少するのではないかと思う。

 そもそも、なぜ土曜日が休日になったのかというと、諸説あるらしいが、日本の場合は明治時代に公官庁で「土曜半休」が定められたことによるらしい。所謂「半ドン」のことだが、半ドンにすることで、1日半の連続休暇となり、それが進歩して1980年頃に2日間の土日連休制度(完全週休2日制度)が誕生した。

 土日連休制度は世界的な標準でもあるので、簡単には変えられないかもしれないが、政府が率先して推奨すれば、試しに導入する企業も出てくるのではないかと思う。先にも指摘した通り、労働時間や仕事量は変える必要が無いので、「プレミアムフライデー」よりもはるかに現実的であり、効果のある消費刺激策として試してみる価値(バリュー)はあると思う。

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「グローバリズム」は「キャピタリズム」ではなく「コミュニズム」

■グローバリズムは一種の共産主義

 トランプ大統領が誕生してから、「保護貿易」や「自国優先主義(自国ファースト)」という言葉が叫ばれるようになり、これまでグローバル経済を礼賛してきた経済学者や評論家達は肩身の狭い思いをしているかに見える。
 ほんの少し前までは、ボーダーレスになった(=国境が無くなった)世界で、ヒト・モノ・カネが自由に動き回る社会こそが理想だと思われていたが、ここにきてグローバリズムの問題点や矛盾点が多く取り沙汰されるようになってきた。

 「グローバリズム」という言葉を聞くと、どこか資本主義や自由主義の延長線上に存在するような感じがするし、実際に多くの人が、現在でもそう思っているのだろうと思う。しかしながら、「グローバリズム」とは、国境の無い世界で、そこに住む人々が、皆、均一化(平等化)していくことを理想としているわけだから、よくよく考えてみると、これは一種の共産主義に近い思想でもある。

 グローバリズムの問題点を一言で述べるとすれば、それは、「平等性を求めるあまり、公平性が失われた」ことにあるのだと思う。

 資本主義は基本的に一物一価の「公平性」を追求するシステムなので、「平等性」を追求するグローバリズムは資本主義の延長線上にあるシステムではないとも言える。
 しかし日本では、共産主義者がグローバリズムを批判していたり、資本主義者がグローバリズムを礼賛していたりするのでややこしい。
 「公平性」に重きを置いた反グローバリストと、「平等性」に重きを置いた反グローバリストは、全くの別物なので注意しなければいけない。

■労働者を逆差別してきたグローバリズム

 例えば、同じ仕事能力を持った日本人と中国人がいたとしても、人件費が10倍も違うと競争にならない。グローバリズムでは、この問題を「人件費が違うのだから仕方がない」と片付けられてきた。まるで人件費の高い国が「」で、人件費の安い国が「」であるかのように。しかし、能力が同じであるのに、人件費が安い方だけに仕事が流れ、人件費の高い方には全く仕事がいかないというのは、個人の公平性を考える上では、極めて重大な問題である。
 同じ環境における人件費の高低で仕事の行き先が決まるのは仕方がないが、環境が全く異なる国家間の人件費の違いで仕事の行き先が決まるというのは、平等であっても公平ではない。

 あるいは、その日本人の能力が中国人の2倍だったとしても日本人は仕事を得ることができず中国人ばかりに仕事がいくとなると、個人の能力や努力という資本主義社会で最も重要な要素が全く意味を為さないことになってしまう。国家間の格差を無くすために個人の能力が無視されるというのでは、社会主義そのものだとも言える。

 人件費が高い国といっても、誰も好き好んで人件費の高い国に生まれているわけではない。同じように、人件費が安い国といっても、誰も好き好んで人件費の安い国に生まれているわけではない。人的資質を無視し、環境(物価や人件費)の違いだけで労働者を逆差別するシステム、残念ながら、それがグローバリズムの実際の姿だったとも言える。

■グローバリズムの必然だった「金融緩和」

 そういったグローバル経済下の歪な環境(物価や人件費の違い)を調整するという意味合いで行われてきたのが先進国(人件費が高い国)における「金融緩和」政策だった。グローバル経済下では、少しでも自国の通貨を安くすることが善と成り得た理由はそこにある。資本主義下におけるバラマキ政策は批判の対象となるが、グローバル経済下では話が違ってくる。それは単なるバラマキではなく、個人の努力ではどうすることもできない環境格差を埋めるために必要な政策だった。
 そんな切羽詰まった状況であったにも拘らず、頑として金融緩和を否定していた人々というのは、何だったのだろうか?と思う時がある。

 生まれた国の人件費が高いという理由だけで、能力が有るにも拘らず逆差別されてきた労働者、そんな労働者に対する慈雨としての「金融緩和」を否定していた人々というのは、きっと、一生食うに困らない金融資産を有した資産家達だったのだろう。もし、そうでないとすれば、グローバリズムを全く理解していなかった人達なのだろう。
 少し意地悪に言うなら、彼らは「ヘタに金融緩和などを行って、ハイパーインフレにでもなれば、私の一生遊んで暮らせるお金が紙クズになってしまうではないか!」というような底意を持っていた人々だったのかもしれない。

■トランプ大統領のジャパンバッシングは的外れ

 トランプ大統領が安倍総理に親近感を感じるのは、金融緩和を行ったことによって円安となり、中国に流れていた仕事の一部が日本に戻ってきたという実績を評価してのものだろうと思う。安倍総理がそこまで理解した上で金融緩和を行ったのかどうかは判らないが、アメリカ人から観れば、結果的には自国ファーストを実践した人物に映るのだろうと思う。

 ところで、個人の能力や製品が優れていれば、正当に(公平に)評価されるのが資本主義でありトランプ大統領の目指す反グローバリズムであるのならば、トランプ大統領のトヨタ批判は的外れもいいところとなる。

 例えば、同じ性能のアメリカ車と中国車が市場に出回って、人件費の安い中国車だけが売れるというのであれば、それは是正しなければいけない問題かもしれないが、現状ではそれほど人件費が違わないアメリカと日本を比べて、日本車が売れ過ぎているという批判は筋が通らない。ほぼ同じ土俵で競争しているのであれば、能力の違い、車で言うなら性能の違いで評価しなければ辻褄が合わないことになる。反グローバリズムであるからこそ、先進国同士の競争は正当に評価しなければいけない。

 先述した通り、グローバリズムの問題点は「平等性を求めるあまり、公平性が失われた」ことにある。世界中の労働者が同一の環境で競争するという社会の到来は、結果としては理想の社会では有り得ても、そこに行き着くためには手段を選ばないというような狭量な考えを持つようになると、世界経済(特に先進国の経済)は疲弊し、労働者は困窮し、理想の社会とは似ても似つかないディストピアを招くことにも成りかねない。

 「平等」を追求するか「公平」を追求するかの違いで、社会は大きく変わってしまう。「平等」思想が世界を覆い、闘争と破壊を齎した20世紀を反面教師とすれば、グローバリズムの本質が「平等」であった場合、その行き着く先は、極めて厳しい世界である可能性が高い。
 その危険性に気付いたトランプ大統領であるのならば、「公平性」をこそ旨としてほしい。

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BOOK『日本人にリベラリズムは必要ない。』を読んで

■「憲法」を「聖典」と認識している人々の存在

 今年は70回目の憲法記念日を迎えたということもあり、最近の北朝鮮情勢も手伝ってか、メディアでも例年以上に憲法論議が盛んに行われているような気がする。もちろん、主題は憲法9条をどうするのか?ということであり、自衛隊の有無と憲法9条の関係がメインテーマとなっている。
 しかしながら、「自衛隊を軍隊と認めるか否か?」と問うた時に、「軍隊ではない」などと言う人は誰もいない。これは海外でも同様で、日本の自衛隊を「軍隊ではない」などと言う人は皆無だろうと思う。世界でも日本の軍事力は10位以内に入っているとも言われている(本書では4位と書かれていた)ので、誰がどう見ても軍隊以外の何者でもない。ちなみに北朝鮮は30位以下。
 ところが、憲法9条2項に「・・・陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と書いてあるので、この矛盾をどうするのか?という議論が毎度、繰り広げられることになる。そして、いつも結果は有耶無耶になる。

 常識的に考えると、現在の自衛隊の存在は、明らかに違憲状態であるので、この矛盾を是正するためには、憲法を変えるか、自衛隊を無くすしかないことになる。しかし、軍事力を持たない国家などは有り得ないので、常識的には憲法を変えるしかない。
 これは子供が考えても、そう成らざるを得ない帰結であると思われるのだが、なぜか日本では聖書でもない憲法を少しでも変えることに拒絶反応(脊椎反射)を示す勢力が存在するため、全く事態が進行しない。いや、むしろ、「憲法」を「聖典」と認識している人々が存在しているがために変えることができないと言った方が正解だろうか。

■「リベラル」とは「隠れマルクス主義者」のこと

 前置きはこの辺にして、昨日、『日本人にリベラリズムは必要ない。』(田中英道著)という新刊を読んでみた。ちょうど、本書には憲法9条のことについてもタイムリーな話が書かれてあったので、レビューがてらに少し紹介しておきたいと思う。

 「3度の食事よりも○○が好き」という言葉があるが、最近の私の知的好物は、リベラル研究本の類いで、書名に「リベラル」と付く本は、大抵、目を通している。
 これまで何冊もリベラル研究本を読んできたが、本書はその中でも出色の出来映えで、3食とはいかずとも、1食抜いても読む価値が充分に有る本であり、蒙が啓かれたような気がした。(寝食を忘れてしまうほど夢中になって読んだという意味)

 「リベラル」や「リベラリズム」という言葉の定義から成り立ち、そして日本国憲法についても、テレビや新聞のような表層をなぞっただけの「How(どのように)」論議ではなく、思想的な「Why(なぜ)」にまで遡って平易に詳述されている。内容的にはディープでありながら、文章的には非常に解り易くシンプルに書かれていたのが印象的だった。著者があとがきで、「小難しい書物を捨てよ」と書かれていたことの意味がよく解る。

 本書のタイトルである「日本人にリベラリズムは必要ない」理由が、理論的に書かれており、これまでなぜ憲法9条を変えることができなかったのかも、歴史に秘された出来事を通してズバリ書かれている。「歴史に秘された」と言っても、陰謀論の類いではない。

 著者は「リベラル」とは「隠れマルクス主義者」であり「偽装された左翼」と位置づけている。元々は「左翼リベラル」だったものが、ソ連の崩壊を機に、「左翼」をカットして「リベラル」になったと書かれている。
 具体的に言えば、革命のターゲットを「経済」から「文化」に切り換えた。つまり、左翼は経済を破壊することが目的だったが、リベラルは文化を破壊することが目的になったということ。

 左派野党が何でもかんでも反対するという万年風物詩的な言動も、実は意味のある活動であり、「批判理論」というものが、そのベースになっているらしい。「批判理論」については『病むアメリカ、滅びゆく西洋』(パトリック・ブキャナン著)に詳述されている。

■「リベラル」という化粧言葉

 「リベラル」という言葉は、日本でもアメリカでも、「隠す」あるいは「化粧する」という目的を持って使用されてきたという経緯がある。日本の場合は本書に書かれてあった通り、「左翼」であることを隠すために使用された経緯があり、アメリカでは、ニューディール政策という社会主義的な経済政策を行うことで国民から毛嫌いされることを恐れて、当時の民主党が「リベラル」という言葉を使用した(化粧した)という経緯がある。大恐慌を境として、アメリカのリベラルもまた「自由」とは正反対の概念にすり替わってしまったわけだ。

 それ以前に、リベラリズムは、当初、啓蒙主義という考え方であり、西洋におけるキリスト教からの「自由」を意味するものだった。だから、日本人には向かないし、また必要のない思想だということらしい。

 昭和20年から22年の間に行われた『新憲法発布』『財閥解体』『農地解放』は民主主義運動ではなく、実は社会主義運動だったというくだりは興味深かった。1945年に社会主義者であったルーズベルト大統領が死去したことによって、偶然にも翌年、アメリカは反共産主義に舵を切り直した。しかし、当時、既に日本で行われてしまった社会主義運動によって生じた負の遺産は残り続け、現代の日本にも悪影響を与え続けている。
 本書を通読すれば、憲法を変えることができなかったことも、その悪影響の1つであることが腑に落ちる。是非、多くの人に読んでいただきたいと思う。

【追記】2017.5.5
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>この著作を読んだことはありませんが、筆者が共感・納得している範囲でいうと、戦後の「財閥解体」「農地改革」は社会主義の思想に基づくもので、これらは有害なものであり、今日までも弊害を及ぼし続けているということでしょうか。

 よく読んでいただければ分かると思いますが、『財閥解体』や『農地解放』は単に一例として挙げただけで、GHQが行ったとされる社会主義政策は多岐に渡るものです。それら全てを引っ括めて「負の遺産」と書いたわけです。

>仮に財閥解体がなかったとすれば、たとえば三菱と名の付く各企業は、すべてオーナーの岩崎一族が支配する同族企業集団でしかなく、もちろん三井や住友も同様に三井一族や住友一族の支配下にあったわけであり、今の韓国と同じような経済構造になっていたことでしょう。

 『財閥解体』がGHQの占領政策の一環で行われたことは事実ですし、それが戦争資金を断つという目的のために行われた政策であることも事実です。とはいえ、「財閥解体」にも当然、メリットとデメリットがあります。実際に行った場合(現実)と行わなかった場合(仮定)を比べることはできませんが、ここで重要なことは、民主化を目的に行われたものであったのか、それとも社会主義化を目的に行われたものだったのかということです。前者である場合の『財閥解体』と、後者である場合の『財閥解体』を同一線上で考えるのは無理があります。結果が同じであっても評価は違ってきますから。

>また農地改革がなかったとすれば、農民のほとんどは大地主から土地を借りて生活する小作人でしかなく、少し前の中南米のような状況になっていたと思います。

 これも同上で、メリットとデメリットが有ります。行わなかった場合のデメリットだけに目を向けても、あまり意味があるとは思えません。

>この筆者「自由人」という人の過去のエントリを見ると、それとは真逆の、個人主義的・自由主義的な社会指向の人ではないかと思います。

 「過去のエントリ」と書いていますが、あなたは当ブログの記事をどれだけ読んだ上で言っているのでしょうか? 私は「自由人」と名乗っていますが、自由主義者という限定した意味ではありませんし、個人主義者でもありません。「自由人」というのは、「物事を自由に考える人」という意味合いで使用しています。

>こーいう印象操作をやっちゃうからリバタリアンも信用が無くなっちゃうのですね。

 私はリバタリアンではありませんが…。

>そもそも、いまどきマルクスを読んでマルクス主義者になった日本人がどれほどいるのだろうか。
ほとんどいないだろう。
結局、【「隠れマルクス主義者」として「リベラル」】なる者は、脳内仮想敵にすぎず、実際にはほとんど存在しないのではなかろうか。

 その通り、ほとんど存在しません。ではなぜ、左翼過激派による暴動や学生運動などの血なまぐさい活動が20世紀に存在したのでしょうか? それはそういった破壊活動を行わせるに足る思想が明らかに存在したということでしょう。しかし、当時の学生達がマルクス主義を理解していたのか?というと、これも理解せずに空気で(妄想で)動かされていただけでしょう。あなたの言葉で言えば、「脳内仮想敵」ということになりますが、「脳内仮想敵」を作った人々(=妄想家)という意味では当時も今もマルクス主義者は確かに存在しているのです。(本人に自覚が有るかどうかは分かりませんが)

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