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2017年6月

現代社会における学園祭(講演会)のあり方

■KODAIRA祭講演会中止問題を考える

 本日10日は、本来であれば東京の一橋大学園祭において百田尚樹氏の講演会『現代社会におけるマスコミのあり方』が行われるはずだったが、2日に急遽、中止の発表があったことで大きな物議を醸すことになった。百田氏自身は「サヨクの連中から凄まじい脅迫と圧力を受け続けていたらしい」と述べておられるが、その中止した事情というのは曖昧なままで、どうも釈然としない。
 ネット上では講演会中止の署名運動まで行われていたそうだが、その文面には「テロと差別を煽動する百田尚樹」という言葉が書かれているらしい。

 正直なところ、百田氏が「テロと差別を煽動する」というのは、違和感を通り越して滑稽ですらある。百田氏の差別的な話を聞いた学生が触発されてテロを行う危険性があるということなのだろうか? 私にはむしろ、今回の講演会中止の背景にこそ「テロ」という言葉がピッタリと当て嵌まるような気がする。

 少し前にも千葉麗子氏のサイン会が中止になり騒がれたことがあったが、今回の場合も、同じような構図に見える。
 講演会の題名からすると、別に百田氏が学生の差別意識を助長したり、いかがわしいことを吹聴するわけでもなく、いつもの調子でざっくばらんに百田節を披露するだけだと思われるのだが、学生に何か吹き込まれて困ることでもあるのだろうか?

■講演会中止の理由は「見えないテロリスト」

 この講演会中止問題は、誰が悪かったのだろうか? これまでの世間の評価は大きく分けると以下の3つに分かれている。

 1、講演会を企画および中止した大学側が悪い

 2、百田尚樹氏が悪い

 3、中止するようにクレームを入れた勢力が悪い

 普通に考えると、この中で、問題となるのは「1」か「3」だろう。
 今回の場合、どう考えても百田氏は被害者サイドであり、加害者では有り得ない。
 このことはイデオロギー抜きで考えれば、よく解る。例えば、あるノンポリのロックミュージシャンが学園祭のコンサートに呼ばれ、チラシが刷られ、チケットも配られ、ギャラ交渉も済んだ後に、突然、アンチファンからの苦情が大学に入り、その苦情を真に受けて、コンサートが中止されたとすれば、どう考えても、そのロックミュージシャンは被害者でしかない。

 では、「1」と「3」のどこが悪いのかというと、「1」はコンサートを企画した時点で既にコンサート参加者に対しての契約責任が生じている。如何なる事情があろうとも、その契約責任を放棄したことに変わりはないので批判の誹りは免れない。人道的には罪はなくても、契約上の責任を放棄したことに対しては責任を取る必要がある。

 では「3」はどうか? これもイデオロギー抜きで考えれば、営業妨害そのものだと言える。自分達の好みに合わないロックミュージシャンという理由だけで、苦情を入れて、学生にそのロックミュージシャンの音楽を聴かせないというのでは、営業妨害であるだけでなく人権侵害でもある。

 学園祭で公序良俗に反するような催しが行われるとかいうなら、中止を進言するのも理解できなくはないが、単なる社会的なスピーチを邪魔立てするのが目的ということなら、それは紛れもなく言論封殺である。
 間違った発言をしたことで批判することと、何も言っていない時点で発言を止めることは全く次元が異なる。言論というものは、言ったことに対しての責任が生じるものであり、まだ結果も出ていない(何も話していない)のに、その言動を取り締まるのでは、恐怖政治そのものだ。

 今回の講演会中止問題の要諦は、この「3」に該当する人々(特定の団体ではない)が、大学側に“なにをしでかすか分からない”と思われたところにある。つまり、大学側は「3」をテロリストの類いと認識し、その危険性を感じたからこそ中止せざるを得なくなったというのが本当の事情ではないかと思う。

 先程の「1」「2」「3」をそれぞれ具体的に言うなら、次のようになる。

 1、テロに恐怖し逃げ出した人

 2、テロの標的にされた人

 3、見えないテロリスト

■リトマス試験紙としての百田尚樹氏

 百田尚樹氏は舌鋒鋭い論客として有名であり、その歯に衣着せぬストレートな物言いは、どこかトランプ大統領を彷彿とさせるものがある。ズケズケ(堂々)と冗談混じりに本音を述べられるので、建前の中に閉じこもった理想論しか語れないサヨク(敢えて「左翼」とは書かない)からは、蛇蝎の如く忌み嫌われており、サヨクにとってはまさに不倶戴天の敵のように受け取られているフシがある。「百田尚樹」という文字が視界に入っただけで理性を失い、条件反射的に罵詈雑言を浴びせにかかる左翼人士も珍しくない。サヨクを毒蛇のハブに喩えるなら、百田氏はさしずめ、天敵のマングースみたいなものなのかもしれない。(失礼)

 ある意味、百田氏は思想的なリトマス試験紙的な役割を持った人物とも言える。彼の存在を肯定的にとらえる人は「青色」に、否定的にとらえる人は「赤色」に変化するという具合に。百田氏の本音話を聞いて、顔が真っ赤に紅潮するようなら、その人物はサヨク、実に分かり易い判断基準だ。

 卑近な例を挙げると、最近、将棋の世界で名を馳せている藤井聡太氏は百田尚樹本のファンであるらしいので「青色」と判断できる。

 「ポリティカル・コレクトネス」がどうだこうだと騒がれ、言葉狩りが常態化している窮屈な日本社会において、あれだけ本音をハッキリと言ってくれる人がいることは学生にとっても良いことだと思う。話をする相手は物心の付いた大学生であり、森友学園のような幼児ではないのだから、話を聞いてどう思うかは各人がおのおの判断すればいいのであって、大の大人がお節介を焼いて仲裁に入るようなことではない。そもそも講演会自体、強制的に学生に参加させるようなものではなく、各学生には聞く自由、聞かない自由が与えられているのだから、聞きたくなければ参加しなければいいだけの話だ。

 百田氏は少々、口が悪く、アクが強いというだけであり、言っていることは筋が通っている。私自身は、以前に百田氏の本『大放言』の書評(ブログ記事)を書いたことがある程度であり、特にコアな百田ファンというわけでもない。本ブログ記事もイデオロギー的なバイアス抜きで書いているので、「ネトウヨだ」などと言われても困ってしまうが、ごく常識的に判断すれば「百田氏は被害者」でしかないというだけの話である。

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