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2017年6月

NHK流の詰め将棋「王手受信料取り」

■「全世帯受信料徴収」の可能性

 「NHK受信料制度等検討委員会」は、2019年度からの実施が予定されているテレビ放送とインターネット放送の「常時同時通信」における受信料の中間答申原案を発表した。
 その案によると、テレビを持たず受信料を支払っていない世帯でも、インターネット接続端末を有する世帯には受信料を請求する方針となっている。ただし、現段階では「スマートフォンなどでネット受信アプリのダウンロードなどの手続きを済ませた者(世帯)」だけを対象としている。視聴アプリのダウンロード等を行わない限り、現状とさして違いはないと言えるが、今回の動きを全世帯受信料徴収の布石と見る人もいるらしく、ネット上では様々な憶測も飛び交っている。

 これまでNHK受信料を支払いたくないとの理由からテレビを買わない・見ない生活をし続けてきたような人にとっては、今回の発表は、驚きだったのではないかと思う。パソコンやスマホを持っているだけで受信料が請求されるようなことになれば、想定外の事態であり、口がアングリといったところかもしれない。
 もし本当にそんなことになると、さすがにテレビを買おうと開き直る人も出てきそうだが、逆に、テレビだけでなくパソコンやスマホまで持たないという人も出てきそうだ。パソコンやスマホが売れなくなれば、景気にも少なからず悪影響を及ぼすことになるかもしれない。(あくまでも悲観的観測)

■正直者が馬鹿をみる「悪平等放送」からの脱皮を

 「NHK受信料は支払わなければいけないもの」という前提で考えるならば、確かにテレビ放送だけ受信料を取り、インターネット放送は受信料を取らないというわけにはいかないだろうから、自ら能動的に受信アプリまで入れてスマホで観るという人なら受信料を請求されても仕方がないとは思う。受信料を支払うのが嫌なら観なければいい(アプリを入れなければいい)。これなら納得できる。

 このことはテレビ放送についても言えることで、NHK放送を毎日バンバン観ているような人が受信料を支払わないというのもおかしい。しかし反面、本当にNHKの番組を観たくもないし、実際に観ていない人は、どうすればいいのか?という最も重要な点が「公共放送」の名の下に無視されている。そのせいで、観ているのに受信料を支払わない人が大勢いる一方で、観ていないのに受信料を支払っている人(私も含む)がいるという極めて歪なシステムになっている。この構図はもはや「公共放送」と言うよりも、正直者が馬鹿をみる「悪平等放送」に近いとさえ思える。

 「公共放送」は誰もが皆、等しく、あまねく観る権利がある。しかし、受信料は誰もが皆、支払う義務がなく、実質的には、支払える人間が善意で支払うという曖昧なシステムになっている。これはある意味、広告収入に依存しない「ウィキペディア」と同様で、善意の寄付で成り立っているようなものだとも言える。
 「ウィキペディア」はたまにサイト上で寄付金を募っているが、NHKのように各家庭の玄関先まで徴収には来ない。「ウィキペディア」が、もし、パソコンやスマホを保有しているというだけで利用料を徴収するというなら、誰が考えてもおかしいと思うはずだが、NHKの場合は、そういった理屈が通用しなくなっている。

 「公共放送局」が営利企業のようにインターネット放送にまで手を出す必要が有るのかも疑問だが、そこまで利便性や営利を追求するのなら、もう民間企業に鞍替えした方が儲かるのではないか?と思えてしまう。
 現実的な妥協策としては、国営放送にして人頭税よろしく税金(500円以下)で徴収してくれた方が公平感があって有り難いような気もするが、果たして、この発表の行き着く先には何が待ち構えているのだろうか?

 今回の発表が将棋で言うところの「王手飛車取り」ならぬ、「王手受信料取り」に発展しないことを願う。この機会に、公平感のある制度の見直しを期待したい。

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過剰な「おもてなし」と化しているアマゾン配送業務

■ヤマトの値上げ理由は何なのか?という問題

 先週、アマゾンが「当日配送ができる独自配送網の拡大に乗り出している」との報道があった。
 この一報からは、アマゾンが配送業も内製化するのではないか?との憶測話も流れたが、実際のところは、丸和運輸機関【証券コード9090】という物流会社に委託するとのことだった。丸和運輸機関は2500人程度の中堅の物流業者であり「桃太郎便」としても有名だ。しかし、従業員4万7000人の佐川が匙を投げ、従業員16万人(2017年3月時点)を擁するヤマトが窮しているアマゾンのネット配送業務の肩代わりが本当にできるのかどうかは未だ不透明感が拭えない。

 しかし、もしこのままアマゾンが配送料の値上げをせずに事を収めた場合、ヤマトの10月からの値上げ理由は何なのか?という問題が浮上することになる。個人的には27年間も値上げせずにきたのだから、デフレ緩和のためにも値上げには賛成だが、そうは思わない人の方が多いのではないかと思う。
 ヤマトはアマゾンの当日配送業務の請負を減少させているにも拘らず、一般の基本配送料を値上げしたということになれば、アマゾンの配送で発生した損失分をアマゾン利用客ではない人々が肩代わりしているということになってしまいかねない。既にそういった意見はネット上でも広く出回っており、一般消費者からは素直に納得を得られない便乗値上げとなってしまう可能性がある。

■「お客様は神様(=店員は奴隷)」が招いている悲劇

 数年前、滝川クリステル氏の「お・も・て・な・し」発言から「(お)もてなし」という言葉が脚光を浴びて話題になったが、日本企業では過剰に成り過ぎた「おもてなし」が問題視されるようにもなってきた。それは「お客様は神様」というような価値観が企業哲学として深く浸透してしまい、過剰なまでのサービスを要求され、またそのサービスに文句1つ言わず黙って従うことが善しとされる過剰労働社会の問題だ。

例えば、

 コンビニのアルバイトに百貨店の店員のサービスを要求する。

 ファストフード店のアルバイトに高級レストランのサービスを要求する。

 など、ろくな対価も支払わずに、対価以上のサービスを要求することが当たり前で、消費者自身が「お客様は神様だ」と勘違いしているような人もたまに見かけることがある。
 以前、牛丼屋のレジで店員に向かってお金(小銭)を投げている人を見かけたことがあるが、その態度は、まるで店員を奴隷か何かと勘違いしているように見え、憤りを覚えたことがある。そんな消費者に限って、自らがサービスを提供する側(生産者)に回ると、奴隷根性丸出しの態度に豹変するのだろうけれど、「お客様は神様(=店員は奴隷)」などというさもしい感情を持っていると、その悪循環から永遠に抜け出すことができない。因果が解らない人間とはどこまでも愚かだ。

■「おもてなし」とは「心のこもった待遇」のこと

 翻って、アマゾンの「当日配送」というのも、少々、「おもてなし」が過ぎるのではないかと思える。このことも既に多くの識者が述べられていることだが、「当日配送」を求めている消費者は本当にそれほど多いのだろうか?

 私自身も会社の備品を購入する時、アマゾンを利用することがあるが、例えば週末の金曜日に注文した場合、商品の到着は週明けの月曜日で構わないのだが、大抵は休日の間に1度、会社に届けに来ているようで、月曜日に再配達するようなシステムになってしまっている。これなど、明らかに必要の無い過剰なサービスだと言える。
 個人で注文した場合は休日に届いた方が有り難いが、法人として注文したものが休日に届いても有り難迷惑であり、そこまで急いで配送してもらうと逆に気を遣ってしまう。そのため、週末に注文することは避けて、週が明けてから注文するというようなことになってしまう。そうなると月曜日に受け取れるものが火曜日、水曜日にずれ込んでしまうことになり、結果的に配送が遅延していることになる。
 発注日(アマゾンから見れば受注日)を敢えて遅らせることはアマゾン側にとってもマイナスなはずだが、この辺の無駄なシステムは特に見直すこともなく続けられているようだ。それにより、配送業者が悲鳴をあげることになるのだから、まさに過剰サービスが招いている皮肉であり、「おもてなし」サービスの弊害とも言える。

 企業相手では1日でも速く商品を届けることは至上命題であることも確かだが、それは時と場合、商品と都合にもよる。1日でも速く届けて欲しいのであれば、企業側がプラスαとして追加料金を支払うのが筋であり、何の追加料金も要求せずに、良かれと思って、休日ですら配送する。これでは思考停止業務であり、本当の意味での「おもてなし」になっていないのではないかと思う。

 「おもてなし」とは「心のこもった待遇」のことであり、対価を一方的に下げることでも無ければ、無用なサービスを提供することでもない。
 「消費者は神様」ではなく「生産者は奴隷」ではない。「心を擦り減らすまでの過剰な待遇」を「おもてなし」と考えるのはもう止めよう。

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現代社会における学園祭(講演会)のあり方

■KODAIRA祭講演会中止問題を考える

 本日10日は、本来であれば東京の一橋大学園祭において百田尚樹氏の講演会『現代社会におけるマスコミのあり方』が行われるはずだったが、2日に急遽、中止の発表があったことで大きな物議を醸すことになった。百田氏自身は「サヨクの連中から凄まじい脅迫と圧力を受け続けていたらしい」と述べておられるが、その中止した事情というのは曖昧なままで、どうも釈然としない。
 ネット上では講演会中止の署名運動まで行われていたそうだが、その文面には「テロと差別を煽動する百田尚樹」という言葉が書かれているらしい。

 正直なところ、百田氏が「テロと差別を煽動する」というのは、違和感を通り越して滑稽ですらある。百田氏の差別的な話を聞いた学生が触発されてテロを行う危険性があるということなのだろうか? 私にはむしろ、今回の講演会中止の背景にこそ「テロ」という言葉がピッタリと当て嵌まるような気がする。

 少し前にも千葉麗子氏のサイン会が中止になり騒がれたことがあったが、今回の場合も、同じような構図に見える。
 講演会の題名からすると、別に百田氏が学生の差別意識を助長したり、いかがわしいことを吹聴するわけでもなく、いつもの調子でざっくばらんに百田節を披露するだけだと思われるのだが、学生に何か吹き込まれて困ることでもあるのだろうか?

■講演会中止の理由は「見えないテロリスト」

 この講演会中止問題は、誰が悪かったのだろうか? これまでの世間の評価は大きく分けると以下の3つに分かれている。

 1、講演会を企画および中止した大学側が悪い

 2、百田尚樹氏が悪い

 3、中止するようにクレームを入れた勢力が悪い

 普通に考えると、この中で、問題となるのは「1」か「3」だろう。
 今回の場合、どう考えても百田氏は被害者サイドであり、加害者では有り得ない。
 このことはイデオロギー抜きで考えれば、よく解る。例えば、あるノンポリのロックミュージシャンが学園祭のコンサートに呼ばれ、チラシが刷られ、チケットも配られ、ギャラ交渉も済んだ後に、突然、アンチファンからの苦情が大学に入り、その苦情を真に受けて、コンサートが中止されたとすれば、どう考えても、そのロックミュージシャンは被害者でしかない。

 では、「1」と「3」のどこが悪いのかというと、「1」はコンサートを企画した時点で既にコンサート参加者に対しての契約責任が生じている。如何なる事情があろうとも、その契約責任を放棄したことに変わりはないので批判の誹りは免れない。人道的には罪はなくても、契約上の責任を放棄したことに対しては責任を取る必要がある。

 では「3」はどうか? これもイデオロギー抜きで考えれば、営業妨害そのものだと言える。自分達の好みに合わないロックミュージシャンという理由だけで、苦情を入れて、学生にそのロックミュージシャンの音楽を聴かせないというのでは、営業妨害であるだけでなく人権侵害でもある。

 学園祭で公序良俗に反するような催しが行われるとかいうなら、中止を進言するのも理解できなくはないが、単なる社会的なスピーチを邪魔立てするのが目的ということなら、それは紛れもなく言論封殺である。
 間違った発言をしたことで批判することと、何も言っていない時点で発言を止めることは全く次元が異なる。言論というものは、言ったことに対しての責任が生じるものであり、まだ結果も出ていない(何も話していない)のに、その言動を取り締まるのでは、恐怖政治そのものだ。

 今回の講演会中止問題の要諦は、この「3」に該当する人々(特定の団体ではない)が、大学側に“なにをしでかすか分からない”と思われたところにある。つまり、大学側は「3」をテロリストの類いと認識し、その危険性を感じたからこそ中止せざるを得なくなったというのが本当の事情ではないかと思う。

 先程の「1」「2」「3」をそれぞれ具体的に言うなら、次のようになる。

 1、テロに恐怖し逃げ出した人

 2、テロの標的にされた人

 3、見えないテロリスト

■リトマス試験紙としての百田尚樹氏

 百田尚樹氏は舌鋒鋭い論客として有名であり、その歯に衣着せぬストレートな物言いは、どこかトランプ大統領を彷彿とさせるものがある。ズケズケ(堂々)と冗談混じりに本音を述べられるので、建前の中に閉じこもった理想論しか語れないサヨク(敢えて「左翼」とは書かない)からは、蛇蝎の如く忌み嫌われており、サヨクにとってはまさに不倶戴天の敵のように受け取られているフシがある。「百田尚樹」という文字が視界に入っただけで理性を失い、条件反射的に罵詈雑言を浴びせにかかる左翼人士も珍しくない。サヨクを毒蛇のハブに喩えるなら、百田氏はさしずめ、天敵のマングースみたいなものなのかもしれない。(失礼)

 ある意味、百田氏は思想的なリトマス試験紙的な役割を持った人物とも言える。彼の存在を肯定的にとらえる人は「青色」に、否定的にとらえる人は「赤色」に変化するという具合に。百田氏の本音話を聞いて、顔が真っ赤に紅潮するようなら、その人物はサヨク、実に分かり易い判断基準だ。

 卑近な例を挙げると、最近、将棋の世界で名を馳せている藤井聡太氏は百田尚樹本のファンであるらしいので「青色」と判断できる。

 「ポリティカル・コレクトネス」がどうだこうだと騒がれ、言葉狩りが常態化している窮屈な日本社会において、あれだけ本音をハッキリと言ってくれる人がいることは学生にとっても良いことだと思う。話をする相手は物心の付いた大学生であり、森友学園のような幼児ではないのだから、話を聞いてどう思うかは各人がおのおの判断すればいいのであって、大の大人がお節介を焼いて仲裁に入るようなことではない。そもそも講演会自体、強制的に学生に参加させるようなものではなく、各学生には聞く自由、聞かない自由が与えられているのだから、聞きたくなければ参加しなければいいだけの話だ。

 百田氏は少々、口が悪く、アクが強いというだけであり、言っていることは筋が通っている。私自身は、以前に百田氏の本『大放言』の書評(ブログ記事)を書いたことがある程度であり、特にコアな百田ファンというわけでもない。本ブログ記事もイデオロギー的なバイアス抜きで書いているので、「ネトウヨだ」などと言われても困ってしまうが、ごく常識的に判断すれば「百田氏は被害者」でしかないというだけの話である。

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