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2017年7月

「内閣支持率」の誤謬性【「支持率」が意味するもの】

■ニュアンスで変わる「内閣支持率」

あなたは現在の内閣を支持しますか?

 こう聞かれると、現状では誰もが素直に「支持する」と答えるのは難しいのではないかと思う。「支持する」と答えるためには、現内閣に特に懸念事項が無いことが条件になるが、これだけ連日のようにテレビや新聞で与党批判がなされていると、その情報の真偽に関係なく、「支持する」と即答できる人は少なくなる。

 そのことを証明するかのように、自民党の内閣支持率は30%を切るという事態になっている。しかし、ネットでの内閣支持率は未だ50%を保っており、両者間に20%以上もの大きな開きがあることが問題視されているようだ。
 個人的な肌感覚ではネットの世論調査の方がより現実に近い数値だと思えるのだが、30%という数値もガン無視するわけにはいかないので、少しこの件について考えてみよう。

 この「内閣支持率」というものは、一体、何を意味しているのだろうか? そして、その「支持率」は本当に信憑性があるものだろうか?

 「内閣支持率」とは、無作為に選ばれた有権者に回答を求める世論調査(アンケート)の結果を表したものということになっている。しかし、仮にその世論調査に信憑性が有ったとしても、「支持」という言葉自体が、その信憑性を担保できないものにしている。なぜなら、「内閣支持」という言葉に対して個々の有権者が捉えるニュアンスは異なっており、そのニュアンスの違いによって、結果も大きく変わってくるからだ。

 例えば、「内閣支持」の意味を次の2点のニュアンスで考えてみよう。

 A、「与党として相応しい政党」という意味

 B、「現内閣に不満は無い」という意味

 この場合、「A」も「B」も反対という人は「支持できない」となるが、「A」も「B」も賛成という人は「支持する」となる。では、「A」は支持できても「B」は支持できないという人はどうなるのか? ここに「内閣支持率」の誤謬が隠されているような気がするのは私だけだろうか?

■「内閣支持率」と「内閣満足率」

 「内閣支持率」を「内閣満足率」とすれば、どうなるかを考えてみよう。

あなたは現在の内閣に満足していますか?

 こんな世論調査をすれば、「内閣満足率」は「内閣支持率」以上に下がるのではないかと思う。1つでも不満(疑惑)があれば、「内閣満足率」は急降下し「内閣不満率」は急上昇することになる。
 しかしそれは、あくまでも「満足」か「不満足」かというアンケートであって、「与党に相応しい」か「与党に相応しくない」とは別の意味合いであることに注意しよう。言葉の違い、言葉の捉え方の違いでも結果は大きく違ってくる。

 同じように「内閣支持率」というのも、何をもって「支持する」のか、何をもって「支持しない」のかがよく分からない。言葉自体に具体性がなく、あまりにも抽象的な言葉であるがために、曖昧模糊な世論調査という印象は拭えない。

 ところで、リアルとネットの間での「内閣支持率」が大きく違ってくるのはなぜだろうか?
 リアルの世論調査は対象者が無作為に人選されるが、ネットの世論調査は、ネット民である時点で既に選別されている。「政治知識」という名のフィルターをかけた分、支持率に差が生まれる。その差が、20%ということなのだろう。
 
 支持率50%と支持率30%の違いとは、簡単に言えば、2人に1人の支持者がいるか、3人に1人の支持者がいるかの違いである。
 よく言われるように、自分から能動的に情報を取得しに行く人と、マスメディアからの情報を受動的に待っている人の間には、情報格差が有る。マスコミ自身がフィルターをかけた偏った情報と、玉石混淆ながらもマスコミのフィルターがかかっていない情報の差、20%という差が意味するものは、案外、そんなものなのかもしれない。

 主にテレビや新聞から情報を得ているような人は、与党のことは理解したつもりになっていても、野党のことはあまり知らないという側面がある。
 逆に主にインターネットで情報を仕入れているような人は、与党よりもむしろ、野党(の残念さ)にも詳しい人が多いので、現内閣には不満があっても消去法的に与党としては認めざるを得ないという人が多くなる。

 本当の世論を知るためには、曖昧な「内閣支持率」の高低よりも、むしろ、リアルとネットにおける「内閣支持率」のにこそ注目するべきだ。


【追記】2017.7.24
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>高支持率のときは何の疑問もなく受け入れるのに下がってきたら支持率調査はおかしいとか言い出すんだよな。

 私は自民党の全ての政策を容認しているわけではありませんので、間違った政治だと思われる場合は、高支持率も問題視するつもりです。実際、これまでにも自民党の政策批判は何度も行っています。表面的な支持率よりも政策の中身を批判するのが筋ですから。

>マスコミを敢えて色分けすれば、新聞・テレビの安倍政権応援団は読売と日本テレビ、反安倍は朝日とTBSと仮にしてみよう。全て同じような内閣支持率である。他の各社も同じ。但し、これらは全て電話調査である。唯一面接調査なのは時事通信で、こちらは30%割れで傾向は同じ。つまり、筆者の言っている事に説得力はなく、何が「自由人」だ、と言いたい。「偏向人」の称号を贈ろう!

 30%という数値を問題にしているのではなくて、その中身を問題視しているのです。30%という数値は信憑性があることは認めても、判断基準が曖昧過ぎると言っているのです。数値だけに目が奪われて、中身が見えなくなってしまえば、それこそが偏向であり何も考えていないのと同じです。

>これは・・・、統計やアンケートをまともにやったことのない人の意見ですね。質問の解釈にブレが生じても、サンプルの数が十分なら相殺されると考えるのが自然でしょう。

 繰り返しになりますが、数値はどうでもいいのです。統計などという高尚な学問的問題ではなく、どちらかというと、もっと俗な心理的な要素を含んだ問題だと述べているのです。

>いろいろと、筆者だけでなく、コメント欄でも盛り上がっていますが、新聞社などのマスコミによる支持率調査と、投票による実際の結果について、ある程度の相関性が見出されているからこそ、学者はいうに及ばず、政治生命の生き死にが掛かっている当事者も重要視するわけです。

 ある意味、株価と一緒ですね。実質的な価値を伴わなくてもイメージだけで騰がる株もあれば、実質的な価値を有していても下がる株がある。しかし、株は個人の問題なので美人投票でもいいのですが、国民全ての生活に直結する政治が美人投票になっては困ります。内閣支持率調査が政治家の真の実力を測る調査ではなく、単なるイメージ調査に成り下がったままでよいのですか?というのが本記事の主旨です。

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「こんな人たち」という言葉にご用心

■ユーモアも常識も通じない社会

 東京秋葉原での安倍総理の演説の一部

 「…こんな人たちに皆さん、私たちは負けるわけにはいかないんです…」

 このシーンをテレビで初めて観た時、「なかなかユーモアのあるアドリブだな…」と思ったが、なぜか世間ではそうは感じない(ジョークが通じない)生真面目な人もいるらしく、「安倍総理の看過できない暴言」とのことで「秋葉原発言」(秋葉原事件のもじり)と称して批判している人もいるらしい。

 「原因あれば結果あり」と言って、他人の話を邪魔立てするような悪因を作りたる者は、結果として誰からも話を聞いてもらえなくなるという結果を招く。その因果法則が正しく機能しているのならば、演説の最中に「安倍、辞めろ!」「安倍、帰れ!」などという罵声を大声で浴びせるような非常識な輩こそが、批判されて黙るべきところだが、どういうわけか、この国では、因果関係(常識)が逆転しており、悪因を作りたる者が正しいというような扱いになっている。

 「人の話を聞かず、公然と邪魔をするような人たち」に対して、聴衆の笑いをとる目的で簡略化されて発せられた「こんな人たち」という言葉。確かに1国の総理大臣が「そんな人たち」を逆利用して笑いを取ろうとした行いは軽はずみだったと言えなくはないだろうが、それでも、ここまで問題視されるような発言とは思えない。

■ステレオタイプ化された「こんな人たち」

 例えば、3野党の政治家が演説中、同じように「○○、辞めろ!」「○○、帰れ!」などという罵声を浴びせられた場合、その政治家が「こんな人たちに皆さん、私たちは負けるわけにはいかないんです」と言えば、どうなるのだろうか?
 その場合も、「政治家○○の看過できない暴言」と批判されるのだろうか? おそらく、その演説の場では、罵声にも屈しなかった勇気ある政治家として拍手・賞賛されるのではないだろうか? 今回の安倍総理の発言にしても、マスコミが批判的に報じなければ、これほど大きな騒ぎにはなっていなかったはずだ。

 その政治家の発言をどう捉えるかはマスコミの報道の仕方次第で如何様にも変えられる。そもそも、マスコミが政治家に忖度して報道しなければ、そんな出来事が有ったことさえ無しにできるのだから、内閣支持率などはマスコミの匙加減1つで如何様にも操れる。

 今回の一件からは、図らずも政治家はマスコミよりも低い立場にいることが分かる。
 以前、ある言論人が「政治家がマスコミを懐柔している」というような陰謀説を唱えていたが、実際のところ、日本では、第4権力であるマスコミの方が政治家よりも強い権力を有しているので、政治家がマスコミを懐柔するようなことはほとんどできない。同じ政治思想を持った者同士が協力し合うことはあるかもしれないが、それは懐柔ではない。

 政治家の話すことは全て国民に伝わっているわけではなく、どの部分を伝え、どの部分をカットするかは、マスコミによって取捨選択(コントロール)されていることは、今回の報道を見てもよく分かる。
 「こんな人たち」の為した悪因を無視し、安倍総理の「こんな人たち」という言葉以外を捨象し、恰も“弱者を威圧する権力者”の如く単純化されたイメージが作り出される。そのステレオタイプ化された分かり易いイメージだけで多くの国民は物事(善悪)を判断するようになる。これぞ、まさに洗脳である。
 
 「こんな人たち」という言葉に騙されないように注意しよう。

【追記】2017.7.16
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>自由人じゃなさそうな自由人という人のブログ。
国家権力に洗脳されてるってのが笑える。

 ペンネームの「自由人」の意味は「自由に考える人」なので、ブログに何を書こうが「なさそうな」というのは当て嵌まりません。
国家権力に洗脳されているのは残念ながら、あなたの方です。この場合の「国家権力」とはもちろん「自民党」のことではなく「マスコミ」のことです。第4権力であるマスコミが日本では実質的に国家第1権力になっていると書いたはずです。

>自分自身で書いてるように一国の総理が軽はずみな発言したのが問題なのであって単に政党党首の発言ではない。海外で報道される自覚がなさ過ぎる。

 あの程度の軽はずみな発言をしただけで総理を辞任しなければならないのであれば、日本で総理大臣が務まるような人は皆無になりますね。と言うよりも、正しいことを言って総理をクビになるのでは、誰も総理大臣などになろうとも思わないでしょうから。トランプやドゥテルテなんて、1日でクビになるでしょうね。

>「安倍やめろ」コールがあり、それに対して安倍ちゃんが「こんな人」と言ったという事実は正しく伝わっているわけで、切り取りだなんだはいいがかりでしょ。

 「安倍やめろ」を言うなら、演説が終わってから言えばいいのであって、なぜ、言論を封殺するような真似事をしなければいけないのか?ということです。その論点を逸らし「切り取り」云々などということ自体が言い掛かりでしかありません。

>それでも、彼らは国民だし、自分に否定的な国民を「こんな人達」呼ばわりする事を批判されているわけで。

 彼らが思っているように日本が本当の独裁国家で安倍総理がヒトラーのような人物であるなら、「こんな人たち」という以前に、演説を邪魔した時点で即逮捕、場合によっては投獄、死刑になります。「安倍やめろ!」などと公然と言えることが、どれだけ平和なことであるかを考えるべきです。

>政治家は時に乱暴な非難も受けるもんで、民主主義国家のの首相であればそういう厳しい声も受け止めるぐらいの器を見せてほしいもんですがね。

 普通に受け止めていると思いますが。民主主義国家の首相であるから、反論できずにいるんでしょう。もし独裁国家の首相なら、上のコメントに書いた通りです。

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今、既にある「行き過ぎた監視社会」

■クレームを煽る第3者の存在

 最近の日本の政治を観ていると、「政治家の能力」よりも「政治家の言葉」だけが重要視されているような気がする。これを企業に置き換えて考えれば、「仕事をする能力」よりも「顧客に対する言葉遣い」の方が重要だというようなことになるのだろうか。仕事はできても、顧客に誤解されるようなことを一言でも言えばクビになるような企業があれば恐ろしい社会だが、政治の世界ではそういう恐ろしい社会が実際に出来上がってしまっている。

 もちろん、企業の場合でも、従業員の言葉が原因となり顧客からのクレームが有ればクビになる可能性はあるだろうけれど、政治の世界では、わざわざ顧客のクレームを焚き付ける第3者が存在している。従業員の言葉遣いを逐一監視し、その言葉が悪い場合は、わざわざ顧客からクレームが出るように煽る勢力、それが、善意(悪意?)の第3者マスコミである。

■「行き過ぎた監視社会」を実践するマスコミ

 政治家の言葉は基本的に全てリアルタイム発言であり、公の場で話す言葉は全て記録される。ゆえに、その話す内容に少しでも齟齬や矛盾があれば、ここぞとばかりに「言葉狩り」が為される。1時間の話の中に1つでも問題点(ミス)があると、その1つの問題だけを殊更、針小棒大に報じ、残りの話の内容はまるで無かったかの如く扱いになる。これでは、予め話す内容を書面に書いて推敲を重ねた上で読むようなことでもしない限り、恐くておちおち喋ることもできなくなる。

 これも企業に喩えれば、100の仕事で99の仕事を無事にこなしても、1つのミスがあればクビになるというような感じに近いと言える。そんな企業があれば、ミスすることばかりに気を遣い、恐くておちおち仕事もできない。
 ミスが人の命に関わるような仕事(例:医療)であれば、1つのミスでもクビになる場合はある。しかし、政治家の言葉1つが国民の命に関わるようなことはないだろうし、況して、誤りを認めて謝罪を行っている政治家を殊更に責め立てるのは行き過ぎだ。
 政治家の言葉のミスで国民の命に関わるようなことがなくても、政治家の能力次第では国民の命に関わるようなことになる場合は有り得る。日本の防衛問題にしても、舵取りを誤ると多くの国民の命を危険に晒す事態になる可能性は大いにある。言葉のミスなら謝罪で済むが、防衛問題の選択ミスは謝罪では済まない。

 マスコミの行うべきことは、政治家の言葉のミスを責めることではなく、政治家の本来の仕事を監視することだ。政治家の言葉のミスを責めることに躍起に成り過ぎて、政治家が本来の仕事をできなくなるのでは本末転倒だろう。

 特に左派のマスコミは、共謀罪がどうたらこうたらと言っていたと思うが、その建前は「行き過ぎた監視社会」に反対というものだったのだろう。しかし、その左派のマスコミが政治家に対して行っていることは、まさしく「行き過ぎた監視社会」(密告社会)の実践に他ならない。

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