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2017年8月

「北のミサイル」は忘れた頃にやってくる

■津波よりも速いミサイルの脅威

 今朝(29日)の6時頃のテレビ番組は、こぞって放送予定を変更して、「北朝鮮がミサイルを発射した」との速報を伝えていた。
 日本国内(東北地方)にミサイルが着弾するかもしれないという危機感を伝えるニュースキャスターを観ていると、大震災時に津波の脅威を伝えていた姿とオーバーラップして見えた。北朝鮮からのミサイルは、地震(津波)と同じように、忘れた頃にやってくる。

 各テレビ局は朝早くから専門家をスタジオに招き、「今後、どうするべきか?」というような質問もされていたが、「いかにして逃げるべきか」というようなことを話されている人もいた。しかし、ミサイル発射から到達までのわずかな時間(数分間)に、どうやって逃げるというのだろうか? 「頑丈な建物や地下に避難してください」などとも伝えられていたが、世間一般の住宅地には、ミサイルの衝撃に耐えれるような鉄筋のビルなどは無いだろうし、シェルターどころか、地下室も無い。
 数分間で地下に逃げれる人というのは、地下鉄が走っているビジネス街に住む人ぐらいのものだろう。況して、早朝の6時ということであれば、通勤途中のビジネスマンぐらいのものかもしれない。
 朝の6時と言えば、まだ眠っている人が大半だろうから、Jアラートで叩き起こされたとしても、その後、数分間で現状を把握した後、パジャマ姿のまま、頑丈な建物や地下に避難するなどという芸当は到底できないと考えるべきだ。

 図らずも今回のことで判明した通り、ミサイルが飛来する危機が生じてからアクションを起こしても、既に後の祭りと言える。専門家や評論家が言うべきは、ミサイル発射後にどうすればいいのか?ではなく、今後、北朝鮮にミサイルを発射させないようにするためにはどうすればいいのか?であり、具体的な予防策をテーマにしなければ無意味だとも言える。

■ミサイルは「天災」ではなく「人災」

 もし、日本以外の国で今回のような出来事が起これば、その国の政治家も国民も北朝鮮に対する怒りを露にし、北朝鮮が謝罪しないということであれば喧嘩(=戦争)になってもおかしくないところだが、日本のニュース番組では、この期に及んでも「核武装」どころか、「憲法改正」という言葉すら出てこない。

 実現性はともかくとしても、「今後、このような危機を避けるためには、憲法を変えて、核武装する必要があります」と言う人が出てきて然るべきだと思われるのだが、どういうわけか、「北朝鮮のミサイルから、いかにして逃げるか」というようなことが真っ先に論じられる。まるで「ミサイルは天災」だと言わんばかりに…。

 不謹慎ながら、こんな体たらくでは、本当にミサイルが着弾して多くの死傷者が出ないことには何も変える気がないのではないか?と思えてしまう。

 現在の北朝鮮危機を避けるためには、憲法を変えるだけでは不十分であり、核武装するという段階まで視野に入れる必要がある。それができないことには国(国民)の生活の安寧を守ることは難しくなってきていると言える。狂気の核武装国家の暴走を抑えるためには、残念ながら核兵器を持つ以外に手段は無いと思える。
 
 「日本は唯一の被曝国だから核を放棄しなければいけない」という人もいるだろうけれど、なぜ、被曝国だから核を放棄しなければいけないのだろうか? 核兵器を使用した当事国(加害者)ならともかく、なぜ、被害者が己の身を守る武器を持ってはいけないのだろうか? 唯一の被曝国だからこそ、他国からの核の脅威に対しては人一倍、敏感にならなければいけないのではないのだろうか? 唯一の被曝国だからこそ、核武装する権利があるのではないのだろうか? 核兵器の危険性を最も知る国だからこそ、その扱いに最も慎重になれるのではないのだろうか?

 「核武装=戦争」ではなく、「核武装=平和」という世界の常識が日本の常識にならない限り、北朝鮮危機はいつまで経っても我々を苛む目の上の瘤(たんこぶ)になるだろう。「ミサイルは飛んでこない」と豪語していた著名人もいたが、実際にミサイルは飛んできた。その恥ずかしさを忘れる間もなく、またミサイルは飛んで来るだろう。

 津波に防波堤が必要なように、「北のミサイル」にも防波堤(注:物理的な防波堤という意味ではない)が必要だ。ミサイルの雨が天災ではなく人災であるなら食い止める手段はあるはずだ。なぜ、当たり前の防衛策を真っ先に考えようとしないのだろうか? その場限りの防御策ではなく、根本的な防衛策を考えるべきだ。
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「報道しない自由」を謳歌する日米マスメディア

■「どっちもどっち」が意味するところ

 アメリカで発生した白人至上主義団体と、その反対派の衝突において、意見を求められたトランプ大統領は「どっちもどっち」と応えた。よく考えた上での発言だったそうだが、その紛らわしい言葉のせいか、リベラルメディアからは「言葉狩り」よろしく、「トランプは差別主義者だ!」と批判されて物議を醸していた。しかしそのヒステリー熱も少しは覚めてきたのか、ようやく擁護する意見もチラホラと出てきつつあるようだ。
 
 この「どっちもどっち」という意見は、「白人至上主義団体の差別意識は問題だが、だからと言って、彼らに対してむやみに暴力を振るっていいわけではない」という意味合いだったのだろうと思う。たとえ、悪人であろうと、思想的に間違ったことを言っている人であろうと、暴力で物事の解決を図るのは間違いだという、ごく当たり前のことを言いたかっただけだろうと思う。「双方に非がある」という発言は、日本流に言うなら、「喧嘩両成敗」という意味合いでのコメントだったのだろう。
 その証拠にトランプ氏は話の結びで「お互いの団結」を呼びかけたと言っているが、その部分はテレビ報道ではカットされていたらしい。

 建前だけを優先するなら、「白人至上主義団体は無条件に悪い」という風に応えていれば波風も立たなかったのだろうけれど、本音を優先するトランプ氏には偽善者のような歯の浮いたような台詞を吐くのは難しいことだったのだろう。もっとも、もし仮にトランプ氏が白人至上主義団体だけを否定していれば、「トランプは暴力で解決を図ることを肯定した!」などというダブル基準が用意されていたのかもしれないが…。

■差別を助長する「ポリティカル・コレクトネス」

 オバマ元大統領のように、自らの言葉ではなく、わざわざネルソン・マンデラ氏の名言を引っ張り出すような真似事をトランプ氏が行えば、彼を支持してきた本音論者達の目には、逆に「偽善者」のように映ったかもしれない。「暴力を振るった人間はスルーか!」と怒る人も出て来たことだろう。多くのトランプ支持者達はトランプ氏の嘘偽りない「本音」に期待しているわけだから、今回の騒動も、本当に本音を言っただけなら、そのうち誤解が解けてプラスに転じることになるかもしれない。

 そもそも、「差別は悪い」というのは当たり前のことであり、その当たり前のことを否定するようなことを一国の大統領ともあろう者が言うわけがないとは考えないのだろうか? 普通に考えると、なにかしらの誤解が生じているのではないか?という疑問が浮かんで当然だと思えるのだが、そういった疑念を全く無視し、いきなり「差別だ!」などと発言することの方がおかしいと思う。メディア側の人間は、そういった安易な「差別」発言こそが、逆に差別問題を助長することに繋がるとは考えないのだろうか?

 しかし、今回のこの騒動を観るにつけても、未だアメリカにおいても「ポリティカル・コレクトネス」は健在であることがよく分かる。昨日(22日)、産経新聞と読売新聞に「異常に歪んだテレビ報道」というカラーの全面意見広告が掲載されていて驚いたが、現在のアメリカのリベラルメディアも「トランプ憎し」の論調に傾いており、トランプに利することはなるべく報道しないという「報道しない自由」を謳歌している。

 これに対してトランプ氏は「メディア報道はフェイクニュースだ」と批判して応戦している。対立軸は少し違うとはいえ、アメリカも日本と同じような政治的問題を抱えていると言えそうだ。しかし、日本の場合は、マスメディアに対して勇ましく批判するような反骨精神を持った政治家はあまりいない。そういう意味では、やはりアメリカの方が「ポリティカル・コレクトネス」からの脱皮には前向きだと言える。
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戦争(暴漢)を招き寄せる誤った価値観

■「国よりも自分のことが好き」という言葉

 ウーマン村本氏の以下の発言が話題になっている。

 「僕は国よりも自分のことが好きなので絶対に戦争が起きても行きません

 子供の頃には誰もが思うことであり、リベラル界隈では、今でもよく聞かれる台詞でもあるが、この場合の「」というのは、「他国」と「自国」とに分かれると思う。「他国」である場合は納得もいくが、「自国」である場合はどうなのだろうか?

 「国」という言葉を「日本」という言葉に置き換えてみると以下のようになる。

 「僕は日本よりも自分のことが好きなので絶対に戦争が起きても行きません

 こう書くと、どこか違和感がある。例えば、中国や北朝鮮が攻めてきた場合は、自国内で戦争が起きているわけだから、「絶対に戦争が起きても行きません」というのはおかしい。もし、その言葉通りだとするならば、「逃げる」という意味合いになってしまう。

 「僕は日本よりも自分のことが好きなので、中国や北朝鮮が攻めてきたら逃げます

 これが、村本氏の言っていることの翻訳文になるが、これでは納得できなくなってしまう。

■「国」には「自分」や「家族」も含まれる

 もし、自宅に暴漢が現れて、お金を奪い、家族を傷付けられた場合はどうするのか? その場合も「逃げる」となってしまうのだろうか?

 暴漢が自宅に現れた場合、「国」は関係ない。関係があるのは、まさに自らが言うところの「自分」である。他国が攻めて来た場合、守るべきは「国」ではなく「自分」そのものなのだ。
 「国」という言葉の中には、「自分」も「家族」も含まれている。「自分」や「家族」が好きなら、他国が攻めてきた場合は、否が応にも、戦争に参加せざるを得ない。「自分も家族も好きですが、戦争には参加しません」では、財産を奪われても、家族を傷付けられても、自分が殺されても構いませんということになってしまう。

 自宅に暴漢が現れた時に役に立つものとは何か? アメリカでは「拳銃」だが、日本では「武器を持たないこと」になっている。要するに、無抵抗なら、暴漢は何もしないということを意味しているが、これほど暢気な話もない。

 無法地帯と化したスラム街に、下着も付けずに歩く美女がいたとして、その女性が何も抵抗しなければ、暴漢に襲われない可能性は限りなく0に近い。金融資産をたらふく貯め込んでいると思われている日本人は、暴漢から見れば、まさに美女であり、その美女が武器も持たずに、抵抗もしないと言っているのだとすれば、それが、どういう結末を迎えることになるかは、誰でも想像が付くと思う。

 「国よりも自分のことが好き」であるならば、なおさら、武装することが重要だと思われるのだが、戦後の日本では「国」と「自分」は別のものという価値観が覆うに至った。この誤った価値観こそが戦争(暴漢)を招き寄せる淫靡な香りになるのである。
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「北を挑発するべきではない」という詭弁

■「話し合いに応じるべき」は北朝鮮のみ

 緊迫感が増している米朝問題を前にして、「北朝鮮を挑発(刺激)するべきではない」という意見をよく耳にするようになってきた。「あくまでも話し合いで解決するべきだ」という意見も多いが、北朝鮮以外の国はこぞって話し合いに応じる柔軟な姿勢は崩していない。アメリカにしても「話し合いは金正恩氏の決断しだいだ」と述べている。話し合いを拒否しているのは、独り、北朝鮮のみなのだが、そのことについての言及があまりにも乏しく感じられる。

 現状において、国内の評論家や学者が言うべきは、「北を挑発するべきではない」ではなく、「北は話し合いに応じるべき」であるはずだが、いつの間にか、主語が入れ替わってしまっている。「日本はどうするべき」とか、「アメリカはどうするべき」というのは、論点がズレていると言わざるを得ない。

 毎度言うように、これは、ヤクザに対する姿勢とそっくり同じだと言える。ヤクザに脅されている庶民が、「ヤクザを挑発(刺激)するべきではない」と言っている姿とほとんど変わらない。
 「話し合いで解決するべきだ」というのは、他の誰でもない「(ヤクザは)話し合いで解決するべきだ」ということであり、「(庶民が)話し合いで解決するべきだ」では意味を為していないし、何の解決策にもならない。

■現代の「人質篭城事件」

 現在の北朝鮮は、ある意味、人質を取って篭城している連合赤軍のようなものであり、1つ大きく違うところは、立て篭った建物内で殺傷兵器を製造しているというところだ。通常の立て篭り事件と違い、兵糧攻めによる時間稼ぎが必ずしも功を奏すとは限らず、兵糧が尽きる前に、その殺傷兵器が完成してしまえば、皮肉なことに、その建物を包囲している警官達も逃げざるを得なくなるという危険性も同時進行中だ。

 テレビの刑事ドラマのように、ある者はこう言う。

 「甚大な被害が出る前に犯人を狙撃するべきだ

 しかし、ある者はこう言う。

 「犯人を挑発(刺激)するべきではない

 トランプ氏はこう言っている。

 「もし、警官に向かって発砲するような真似をすれば、突入する

 これに対して金正恩はこう述べている。

 「愚かな警察の行動をもう少し見守る

 まさに、「人質篭城事件」の様相を呈していると言えるが、ここでもう1度、先に述べた言葉を思い出してみよう。

 「北を挑発するべきではない

 この言葉が如何にズレた意見かが分かると思う。

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北朝鮮の核保有が認められない理由

■「唯物無神論無法独裁国家」の危険性

 昨晩、録画しておいた「朝まで生テレビ」を観てみた。ウーマンラッシュアワーの村本大輔氏が出演していたのは意外だったが、最近はゲスト席へのインタビュー等が無くなったので、世間一般の国民の代表者(?)的な意見を中間に用意したと考えれば、なかなか新鮮な試みだったのかもしれない。

 番組の中で「北朝鮮の核保有を認めるか否か?」というような話があった。他国の核保有を容認しているのだから、北朝鮮の核保有も認めるべきというような話が出て驚いた。

 「他国の核保有を容認しているのだから、北朝鮮の核保有も認めるべき

 一聴すると、もっともな話に聞こえるかもしれないが、これは無理な相談だと言える。その理由を書いてみようと思う。

 他の先進国が核武装しているのに、なぜ北朝鮮が核武装することがいけいないのか? それは、先進国や後進国であるという理由ではなく、なにをしでかすか分からない国だからというのが第一の理由だと言える。
 まずは、法治国家ではないということと、唯物無神論国家であるところが大きい。要するに、善悪の基準というものが曖昧であり、精神的に自らを律するものが存在しない国であるところが、世界の常識人からは極めて大きなリスクに映るからである。

 欧米の先進国はもとより、日本でも昔から「悪いことをすれば地獄に堕ちる」とか言われる。現在はどうか知らないが、子供の頃からそういった話を聞き、少なからず、宗教的な善悪を理解する環境が自然と出来上がっているが、北朝鮮のような共産主義国家にはそういったものは一切無い。

■「核兵器」という危険な玩具

 大抵の日本人は、法律以前に、悪いことをすれば裁きがあることを知っている。法律に書かれていまいが、人を殺めることや傷付けることはいけないことであり、良心が咎めることであることも知っている。
 思想統制によって、そういった当たり前の感情を失っているということがどれほど恐ろしいことであるかを考える必要がある。

 「神」という存在の認識が無い共産主義国家では、「誰も見ていなければ、何をしても構わない」という精神が芽生える。殺人を犯そうが、人を傷付けようが、物品を盗もうが、誰も見ていなければ(見つからなければ)何をしても構わないという発想は、幼児の発想そのものである。つまり、精神的に大人になっていないという意味で、危険な玩具(核兵器)を持たせることは御法度なのである。

 北朝鮮では無法者である「将軍様」が「神」であり、将軍様が「法」であり、将軍様に逆らえば無慈悲に殺される。そんな理不尽なことが罷り通っている幼児国家を、まともな良識が根付いた国と同列に扱えるはずがない。

 まともな精神を持った人間なら、大量殺人兵器である核兵器を使用するなどということはできない。そんなことをすれば、良心の呵責に耐えられず、自ら死を選ぶ人がほとんどだろうと思う。敬虔なキリスト教徒や仏教徒であれば、死後、地獄の業火に焼かれ、永遠の苦しみを背負うことになるかもしれないという前提知識を持っているので、そんな割りの合わないことはできなくなる。できるとすれば、狂気の大量殺人者が出現した場合、その悪を止める場合には許されるという確信がある時のみだ。

 トランプ大統領が金正恩をそういう目で見ているのだとすれば、起こらないと思われている戦争も、「正義」の名のもとに実際に起こる可能性がある。

【追記】2017.8.14
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>その一方で著者のいう『無神教だからダメ』というのも違うと思う。宗教にどっぷりというテロリストもいるし核兵器を持ったら使いうると思うから。

 北朝鮮が現在のような状況を招いているのは無神論国家であることも大きな原因だということです。カルト教に嵌ったテロリストがいることはその通りですが、それは物事(この場合は宗教)の一面を捉えているに過ぎません。

>じゃあ中国の核兵器はどうなのよ?

 無論、北朝鮮と同じです。

>北朝鮮が「共産主義だから無神論」と言うのが間違い。

 北朝鮮は基本的に唯物論であるマルクス主義を信奉している国なので、無神論です。

>それなら、法治国家で、敬虔なクリスチャンの米は、なぜ核を使用したんだ? 法治国家でなく、道徳規範も高そうに思えない中国はなぜ使用しないんだ?

 戦時中のアメリカは戦局的にも思想的にも特殊な事情がありましたし、人類史上初めてのことでもあったので、どれほどの悲惨な事態になるかということも、それほど考えていなかったのでしょう。今だからこそ、核兵器は悪魔の兵器と言えますが、戦時中は日本でも核兵器を開発していたという話もあるぐらいですから。
 中国が核ミサイルを使用するか使用しないかは未だ不明ですが、既に日本の各都市にも照準がセットされています。

>現在の地球上で最も無宗教化された社会は日本だと思うがな。
敗戦で「神風」が吹かないことが嫌というほど実証され、
戦後GHQの統治下では国家神道は全否定され、
アメリカ流合理主義を叩き込まれた。

 そうですね。戦後の2年間は日本を共産主義化するのがGHQの目的でしたから。しかし日本の場合は、戦前から資本主義や勤勉の精神が根付いていたので、完全に共産主義化することはありませんでした。その代わりに、あなたが言うところの「無宗教化された」国になりましたが。

>将軍様を「神」として崇めているのだとすれば、それは「無神論国家」ではなく「支配者神格化国家」とでもいうべきでしょう。

 目に見える「神」と、観念上の「神」は違います。目に見えるだけの独裁者を信仰の対象にすることは「無神論国家」であることの証です。

>神を信じてなくても、モラルは守れる。
モラルの大半は、共存のためのルールであり、その必要性を理解できるからだ。

 残念ながら、世界中でそんな話が通じるのは日本だけです。倫理観や道徳心は、頭で考えるだけで得られるものではありませんから。

>宗教がないではなく、良心がない国、と言うべきではないか?
神は信じなくとも、良心がある人はいるだろう。

 良心というものは、生まれつき備わっているものです。これを生得の智慧と呼びますが、良心の無いところに信仰や神などはありません。それが世界の常識です。

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「休息負債」を招く「山の日」

■「山の日」は「ハッピーマンデー制度」の拡大バージョン

 昨年(2016)から、お盆前の8月11日が国民の祝日「山の日」として施行されたことによって、お盆休みが1日多くなった。連休日が1日増えたことは、海外旅行に出かける人や遠方の実家に帰る人にとっては有り難いことなのだろうけれど、実際に年間休日数が増えたわけではないという人(私も含む)は大勢いるのではないかと思う。

 祝祭日を除いた完全週休2日制を採用している企業であれば、年間休日数も1日増えるのかもしれないが、そうでない多くの企業(変形労働時間制を採用している企業)では別の日(例えば5日や19日の土曜日)が出勤日になるので、実質的な年間休日数は増えない。年間休日数が増えないのに祝日を増やしても、休日の先取りか休日の後取りになるだけであり、これは言うなれば、「ハッピーマンデー制度」の拡大バージョン的な代物だとも言える。

■「睡眠負債」と「休息負債」

 お盆休みが、本来、5連休のところが6連休になったとしても、別の週の休日が出勤日になるのであれば、定期的に身体を休めたい労働者にとっては有難迷惑な話であり、余計にストレスが溜まることになる。
 最近は「睡眠負債」という言葉もある通り、休日にしても、まとめて取ればいいというものではない。平日は寝不足でも休日にまとめて眠れば疲労が癒されるというわけではなく、なるべく規則正しく睡眠を取るのがベストだということは誰もが肉体的な実感として認識していると思う。休日にしてもこれと同じで、まとめて取るよりも、定期的に取る方が、睡眠と同様、肉体的にも精神的にもベターだと言える。

 「日本の労働者は、お国柄、有給休暇を取得しづらい」、そういった無言の訴えを忖度する意味で「祝祭日を増やせばよい」と考えられたのかもしれないが、先程、述べた通り、企業人全ての休日が増えるわけではない。単に連休が増えるだけで、休日日数は変わらない場合が多い。そういった制度を決めている人々の休日は純増するのだろうけれど、世間一般の多くの労働者にとっては「休息負債」を招く有難迷惑な制度になっていることも考えていただきたいと思う。
 逆に、パートタイム(時間給)で働いている人は、休日が増える分、給料も下がることになる。そう考えると、どんぶり勘定的な正社員の月給制度こそが「休息負債」を招く元凶なのかもしれない。

 なんにせよ、こういった問題の根源には、労働時間に囚われている日本の労働観が重く横たわっている。「正社員(月給制)であるからには、何時間働かなくてはならない」 仕事の質や量には目もくれず、時間だけに縛られた時代遅れな労働観が「睡眠負債」や「休息負債」を招く遠因となってもなんら不思議ではない。

 政府も「働き方改革」を標榜しているのであれば、労働時間に囚われない制度作りをすることが重要だと思われるのだが、実際に行われるのは、表面的な制度を弄くる(見せかけの休日を増やす)のみ。先進国であるにも拘らず日本人の幸福感が滅法低いのは、こういった時代遅れな労働観にも大いに原因があると思われる。


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