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2017年9月

「民進党」in「希望の党」の矛盾

■「民と進む」ことを忘却し、一縷の「希望」に縋る政治家達

 「民進党」が「希望の党」へ合流するという、まさかの展開となり物議を醸している。既に多くの人が述べている通り、「民進党」と「希望の党」では、政策方針に違いがある。民進党員の何名が「希望の党」へ合流することになるのかは定かではないが、前原氏が語った内容から、その矛盾点を指摘しておきたい。

>アベノミクスは、一般の国民の皆さんの暮らしの改善には繋がらない反面、その極端な低金利政策や放漫財政は非常に危険であり、何かのきっかけで皆さんの暮らしを崩壊に追い込む可能性があります。

 アベノミクスが消費税増税によって頓挫したことは認めるとしても、民主党時代よりは失業率、自殺率ともに大幅に下がったことは明々白々であり、少なくとも学生の就職環境は改善されたとみるのが一般的な見方だと思う。国民の生活を崩壊に追い込む危険性があったのは、むしろ、かつての民主党政権の方だったと思っている人の方が圧倒的に多いと思う。

 私も当時に何度かブログ記事で指摘させていただいたが、民主党には経済政策自体が皆無だった。空前の円高不況で著名な大企業ですら倒産寸前にまで追い込まれたことは記憶に新しい。民主党時代に日本経済が低迷したのはリーマンショックの影響だったというようなことをよく耳にするが、その負の流れに逆らう経済政策を何も打てなかったのだから、言い訳にはならない。

 前原氏の言葉に倣って、当時を振り返るなら、

 「民主党政治は、一般の国民の皆さんの暮らしの改善を考えておらず、その極端な円高・株安や経済無策は非常に危険であり、何かのきっかけで皆さんの暮らしを崩壊に追い込む可能性がありました。
となる。

■護憲派の誤解(「自宅」と「重要文化財」の混同)

>自衛隊や日米同盟の強化は必要ですが、そのために憲法違反の法律を強引に成立させることは許されません。

 現在の憲法では自衛隊を軍隊と認めていないのだから、憲法を変えない限り、強化のしようが無い。「自衛隊や日米同盟の強化は必要」だからこそ、憲法に囚われ過ぎてはいけないのである。

>国民生活を脅かし、憲法を軽視し、民主主義を否定する安倍政権を一刻も早く終わらせることが、わが国政治の最大の課題だと私は確信しています。

 「憲法を軽視」というのは、単純に「憲法を変えてはいけない」ということを意味しているのだろうけれど、もしそうであるならば、改憲派の「希望の党」とは相容れない矛盾した政策内容ということになってしまう。
 「改憲」を訴えているということは、少なくとも現行憲法には欠陥が有ると認めていることを意味している。その欠陥憲法の内容を微塵も疑うことなく、不磨の大典の如く神聖視していては改憲などできるはずがない。

 護憲派の人々は誤解しているが、憲法を重要視するからこそ、憲法をより良いものに変えていかなければいけないのである。それは、ある意味、住んでいる家と同じであり、経年劣化した部分は、その家に住む人が住み良いように変えなければいけない。旧家を人の住んでいない重要文化財だと思い込み、手を加えてはいけないと言って、修繕が必要になった所をそのままにしていては、終いには、その家に住めなくなってしまう。風化した憲法を護持することこそが憲法の軽視なのである。

 「安倍政権を一刻も早く終わらせることが、わが国政治の最大の課題」というのも、その「一刻も早く終わらせなければならない理由」とは具体的に何なのだろうか? そこが全く見えてこない。「わが国政治」ではなく、「我が民進党」であればピッタリと収まるが。

■わが国政治の最大の課題は「具体性なき政治からの脱皮」

 例えば、 
 「消費税を10%に引き上げれば日本経済崩壊に繋がる可能性があるので、安倍政権を一刻も早く終わらせなければならない
とか、
 「北朝鮮に対して直ぐさま防衛手段を講じなければ日本は崩壊する危険性があるので、安倍政権を一刻も早く終わらせなければならない
とか、具体的な反対理由を述べなければ、有権者は納得できない。

 「民主主義を否定」というような抽象的な言葉ではなく、具体的にどこかどうおかしいのかを述べなければ、何をどう判断すればいいのか分からない。
 安倍政治の間違っていると思う政策を具体的に指摘した上で、その政策を上回る前向きな政策を具体的に提示することこそが、わが国政治の最大の課題だと言える。 

 「米朝関係が逼迫している時に解散総選挙を行うのは危機管理がなっていない」と批判するのであれば、真っ当な危機管理策を提示する必要がある。具体的な対案を提示もせずに、なんでもかんでも否定してばかりでは、どこからも「希望」など生まれようはずがない。
 「希望の党」と名乗るのであれば、どうすれば国民が「希望」を持てるのかを、具体的に明示して欲しい。それができないことには、国民は「希望の党」に矛盾を感じ失望するだけである。


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『国難突破解散』の疑問【国難は2つ必要か?】

■鬼門としての「消費税増税」

 昨日、安倍総理の口から「国難突破解散」という言葉が飛び出した。 
 野党からは、「大義なき解散」とか「御都合解散」などと揶揄されていたので、果たしてどんな名目にするのかと気になっていたが、その答えが「国難突破」だった。現在の北朝鮮問題はまさしく「国難」と呼ぶに相応しい事態なので、そのネーミングを否定するつもりはないのだが、その中身というのが、どうも素直には頷けない内容だった。

 記者会見の内容からするに、安倍総理が述べた「国難」とは、「北朝鮮問題」と「少子高齢化問題」の2つを意味しているようだが、「消費税増税」にまで言及してしまったがために、なにやら「北朝鮮問題」を「消費税増税」に利用しているように感じられた。

 正直なところ、「消費税増税」の話は完全な蛇足だったと思う…と言うよりも、おそらく今度の「消費税増税」は自民党にとっては鬼門(分岐点)になると思われるので、もし、本気で言っていたのだとすれば、かなり危険な方向に舵取りをしてしまったように思える。

■「国難」は「北朝鮮問題」に絞るべき

 この時期にわざわざ解散総選挙を行い、「国難突破」と言うのなら、喫緊の課題である「北朝鮮問題」だけに限定して、中途半端な憲法改正をまともな憲法改正に訂正するぐらいの意気込みが欲しかった。民意を考慮して保険をかけたのかもしれないが、あの会見では「北朝鮮問題」よりも「少子高齢化問題」の方がメインになっているような印象を受けた。
 「北朝鮮問題」を利用すると言えば語弊があるかもしれないが、今後の中国との外交問題を考える上でも、今が憲法改正に踏み切る絶好のチャンスであり、なぜこの時期に「消費税増税」を前面に出さなければいけなかったのか甚だ疑問ではある。
 
 一方、小池百合子氏の「希望の党」は、「消費税増税を凍結する」と述べているので、この部分は評価できる。しかしながら、「希望の党」は「脱原発」まで訴えているので、結局はポピュリズムに傾倒しているという印象は拭えない。

 理想を言えば、消費税は試験的に現在の半分(つまり4%)まで引き下げて、原発はフル稼働させて、その浮いたお金を防衛費に回す。それ位の思い切ったことをするべきだと思う。(注:消費税の話と原発の話は別勘定)

■「教育費の無償化」は不公平かつ不条理

 「少子高齢化問題」が国難という背景には、子供の教育費の負担が重荷になっているという認識があるのだろうけれど、それはあくまでも経済的な問題だ。将来が不安だから子供を産まないという理屈が成り立つのであれば、他国に占領されるとか、他国に攻撃される危険が有る場合はもっと少子化が進むだろう。
 経済的な問題だけなら個人でも解決可能だが、外交的な問題はそうはいかない。まず優先しなければならないのは、外交問題であって、国内の少子化問題ではないはずだ。

 現代の日本は結婚しない人が年々増加しており、結婚したとしても子供を持たない人も増加している。それが良いことだとは言えないのかもしれないが、そういった状態が子供の教育費を無料にするだけで改善されるとは到底思えない。それに、子供のいる人だけが消費税増税の恩恵を与るというような不公平な税制度が多くの人に受け入れられるとも思えない。

 将来に不安を感じて子供を作らなかった人が、将来に不安を感じないという理由で子供を大勢作った人(の子供の教育費)の面倒をみなければいけないということであれば、それは、ある意味、「援助する必要のない人」を「援助が必要な人」が支えるという逆転の構図になり、不条理そのものだとも言える。

 「少子化」と「教育費の無償化」のドッキングは、よく考えると非常に相性が悪い。「教育費の無償化」は、むしろ「多子化」に向かう社会でこそ生きてくる制度だと言える。子供が多い時代に教育費が足りないというのなら理解できるが、子供が少ない時代に教育費が足りないというのは、どこかおかしくないだろうか?
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「北朝鮮の終わり」or「世界の終わり」

■「アメリカは北朝鮮を攻撃できない」は本当か?

 現在の北朝鮮問題で、「アメリカは北朝鮮を攻撃できない」という意見をよく見かける。その理由というのが、「攻撃すれば周辺国(特に韓国)にも被害が及ぶから」というものだが、これは正しい見解なのだろうか?

 事の善悪はともかくとして、アメリカは1人の命を犠牲にすることで他の多くの人の命を救うことができるのであれば、躊躇することなく1人の命を犠牲にする国である。

 昔に観たハリウッド映画でも、ちょうどそういったシチュエーションを描いたパニック映画があった。1人を犠牲にすることで数人が助かるという場面で、躊躇することなく無情にも1人を切り捨てるシーンを観て、非常な違和感を感じたことがある。
 しかし、なかなか受け入れ難いとはいえ、そういった判断の方が実は正しいのかもしれないな…と思ったことがある。1人の命を救うために助かる人まで全て死んでしまうのであれば、結果的にはそれは間違っているという認識があっても、それは仕方がないことなのかもしれないな…と考え直したことがある。

■「1人の命は地球よりも重い」は本当か?

 日本では「1人の命は地球よりも重い」という言葉が臆面もなく語られることがある。しかし、「1人の命」と「2人の命」のどちらが重いのか?と問うと、途端に言葉を失い返答できなくなる。「2人の命を救うために1人の命を犠牲にできますか?」と問うても、言葉を濁すだけでハッキリと即答できる政治家はほとんどいないと思う。「はい」などと答えれば、左翼メディアから「命を軽視した発言だ!」というバッシングに晒されるので無理もない話だが。

 現在の北朝鮮問題でも、このまま北朝鮮を放置して問題を先送りし続けると、韓国だけでなく、世界全体の脅威となり、億単位の人々が命の危険に晒されることになる。
 「北朝鮮がソウルを攻撃すれば、100万人以上が犠牲になる」という被害予測が出回っているが、億単位になると、少なく見積もっても100倍になる。
 「100人の命と1人の命は、どちらが重要か?」と問われた時に、どういう返答をするか? それを考えると、「アメリカは北朝鮮を攻撃できない」というのは、「1人の命です」と言っているに等しい。

 残念ながら、世界の常識では、「100人を犠牲にして1人を助ける」というようなことは成り立たないと考えた方がよいと思う。「世界の終わり」と「北朝鮮の終わり」を秤にかければ、どちらが重いのかは火を見るより明らかだと思う。

 もちろん、理想は「誰も犠牲にすることなく100人を救う」だが、それができるのは金正恩だけである。否、その場合は「1人を犠牲にして1億人を救う」になるのかもしれないが…。

【追記】2017.9.24
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>米国は、自国民を救うためには韓国や日本国民の犠牲を厭わないと考えているとは思わないのか?

 もちろん、そう思いますよ。だからこの記事を書いているのです。

>世界の一億人を救うためにソウルの100万人を犠牲にしたいらしい。しかし、犠牲になるのが東京の100万人でも平然としてられるだろうか。

 「したい」とは書いていません。勝手に拡大解釈されても困ります。1億人というのも少なく見積もった例でしかありませんが、仮に1億人の場合、その中には当然、日本人も入っています。その数は100万人以上になることが予想されますので、あなたの論は成り立ちません。

>筆者は、前者の「100万人」は韓国だけで済むと考えているように見受けられます。
「100万人」には韓国だけではなく日本も含まれる可能性を考えたうえで発言しているのでしょうか。
日本にとって最も被害というかリスクが少ないシナリオはどうなのかを考えるべきでしょう。

 もちろん、日本人も含まれるという前提です。あなたの言う「日本に最も被害が少ないシナリオ」としての1つの意見です。日本人が助かればそれでいいという意味合いで書いているわけではありませんが。

>コメントにもあるように、100万人の内訳は(韓国人90万人・日本人10万人)でも、OKするの?その日本人10万人の中に、アンタの家族も2名含まれるなら、それでもOKするの?

 私が判断するわけではありませんが、OKしない場合、それ以上の犠牲者が出る可能性が高くなるので、リスクを最小化するためには受け入れざるを得なくなっているという話です。

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北朝鮮崩壊へのカウントダウン

■「完全破壊」=「最後通牒」

 国連総会の場において、トランプ大統領が日本の拉致被害者について言及したことで物議を醸している。安倍総理の影響があるとはいえ、米国大統領が日本の拉致被害者について公の場で話した意義は大きい。しかも、その場が、ポリティカル・コレクトネスの本拠地とも言える「国連」というところが面白い。

 しかし、同時に、その場では、北朝鮮の「完全破壊」という、この上なく物騒な言葉も飛び出した。先日の「いずれ分かる」や「世界が見たことがないような炎と怒りに直面する」などの言葉と合わせて考えると、相当な規模の攻撃になることを暗示しているかのようだ。反撃の余地がない攻撃でなければパーフェクトということにはならないので、この「完全破壊」という言葉は、ある意味、「最後通牒」と言えるのかもしれない。

 普通の国の指導者なら、これで白旗を挙げて無血開城となるところだろうけれど、テロリストの如き北の独裁者に、その言葉の持つ意味が解るかどうかが運命の分かれどころと言える。

 「北朝鮮を完全破壊する」と脅しても、まだ核開発や核実験を止めないということであれば、最後の手段に出る可能性は極めて高くなる。トランプ大統領の言っていることは単なる脅しではなく、理詰めで考えると、そういう結果に成らざるを得ないということに気付かなければいけない。

■史上最悪の独裁国家は遠からず崩壊する

 逆に、核開発から手を引けば、無事に過ごすことができる。ただし、その主語は「国民」であって「金正恩」ではない。どちらを選んだとしても北朝鮮の体制自体は崩壊する。体制が崩壊するだけで済むか、国家そのものが崩壊するかという瀬戸際に立っているのが、現在の北朝鮮の姿だと言える。独裁者のみが滅びるか、国民を巻き添えにして滅びるか、あるいは他国の人々まで巻き添えにするかという切羽詰まった状態だとも言えるだろうか。

 普通、このような危機的状況に置かれると、「このままでは国が滅びる」「馬鹿な独裁者の巻き添えになって死んでたまるか」ということでクーデターが起こり、内部崩壊(自滅)してもおかしくないところだが、そういった人物が誰も出てこないところを見ても、いかに異常な国であるかがよく分かる。
 現状では、北朝鮮という国そのものが、かつてのオウムのようなものとも言えるので、完全に洗脳された取り巻き達にも、まともな理屈は通じないのかもしれない。

 11月初旬にはトランプ大統領が来日することになっているが、中国と韓国にも訪れるそうなので、おそらく有事前の東アジア視察も兼ねてのことなのだろう。あるいは、金正恩の暴走次第では、北朝鮮攻撃後の謝罪行脚になる可能性も全く0とは言い切れない。

 これまで「北朝鮮は崩壊する」というような話をしてきた識者は何人もいたが、その都度、その予測はハズレてきた。しかし、幸か不幸か、どうやら今度こそ「北朝鮮が崩壊する」可能性が高くなってきた。願わくば、自国や他国を巻き添えにすることなく、金独裁体制だけが滅ぶことを願いたい。

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スケープゴートにされた「Jアラート」

■「Jアラート」の是非

 「Jアラート」の肯定論・否定論が喧しい。ある人は「Jアラートは絶対に必要だ」と言い、ある人は「Jアラートで危機を煽るべきではない」と言う。
 個人的には、現状、「Jアラート」は必要だと思うのだが、さて、どちらの言い分が正しいのだろうか?

 まず前提として言っておかなければならないのは、この言い争いは、結果論だということである。「Jアラート」の是非を言い争う前に、なぜ、そんなことを言い争わなければならないのか?を考えれば、答えは明白で、原因は北朝鮮がミサイルを発射したことにある。
 北がミサイルを発射しなければ「Jアラート」もなにもない。そもそもの原因は北のミサイルであって、「Jアラート」を鳴らすも鳴らさないも結果論でしかない。

 本来であれば、「ミサイル発射の是非」を言い争うべきところが、「Jアラートの是非」を言い争っているわけだから、ある意味、「Jアラート」はミサイル発射のスケープゴートにされていると言える。

■「地震列島」と「ミサイル列島」

 「Jアラート」と同じく、「緊急地震速報(警報)」の肯定論・否定論というものもある。地震の場合は、程度の差で肯定と否定が分かれる。いくら「地震警報」は必要だと言っても、ほとんど被害の心配がない震度1や2程度で毎度「地震警報」をアラートしていれば、五月蝿くて仕方がないだろうし、被害の出る恐れがある震度5や6で「地震警報」をアラートしないというわけにはいかない。(現状では震度5弱以上でアラートされることになっている)

 では、北のミサイルには程度の差は有るか?と言えば、もちろん、有る。しかし、地震と違って、経験則がない。日本列島は「地震列島」でもあるので、地震については多くの経験則があるため、程度の差でアラートの是非を判断することができる。
 しかし、ミサイルの場合はそうはいかない。このままいくと日本は「ミサイル列島」と揶揄されることになるかもしれないが、日本列島を越えていくような長距離ミサイルを発射されたことは初めての経験なので、程度の差というものが未だ判らない。ゆえに、日本に着弾する可能性がたとえ0%であっても、現状では警報を鳴らさざるを得ない。

■「五月蝿い」ではなく「五月蝿かった」

 「Jアラート」に対して「五月蝿い」と言っている人も大勢いるらしいが、それもまた結果論である。「Jアラート」が鳴った時点では、一般人には現状を把握することができない。ミサイルがどの方向に打たれたのか、どれだけの飛行距離があるのか、いつ危険性が無くなるのか分からない。それらが分からない状況下(自分の上に落ちてくる可能性がある状況下)で「五月蝿い」とは言えない。「五月蝿い」というのはリアルタイムで言うべき台詞なので、Jアラート否定派が言っているのは「五月蝿かった」という結果論としての台詞であるはずだ。

 「Jアラートが五月蝿かった!」と文句を言うのであれば、まず先に、北朝鮮に対して「ミサイルを打つな!」と言うのが筋というものだろう。結果に対して文句を言っても何も始まらない。文句を言うべきは、結果としての「Jアラート」ではなく、原因としての「北のミサイル」であるべきだ。

 ついでに言うと、このミサイル問題で、海外から日本への旅行客も減少するはずだ。これまでの2回のミサイル発射は“日本(特に北海道や東北地方)は危険”というシグナルを海外へ送る役割を果たしているはずなので、旅行会社にとっても無視できない問題だろうと思う。

 では、海外からの旅行客が減るのは「Jアラート」のせいか?と言えば、もちろん違う。旅行客が減る原因は「北のミサイル」であって「Jアラート」ではない。
 今後、「Jアラートのせいで旅行客が減少した」などという、原因と結果を履き違えたスケープゴート論を語る人には要注意だ。


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「9条がなくても戦争になる」という言葉

■重要なことは「戦争抑止力」の有無

 前回、「9条があれば戦争にならない」という言葉についてのブログ記事を書いてみると、「9条がなくても戦争になる」という反論をいただいた。2chにもスレッドが立ったようで、BLOGOSのコメントと同じように「9条がなくても戦争になる」という意見を見かけた。

 「9条がなくても戦争になる」、それはその通りだろう。家に鍵をかけても泥棒が入ることはある。そんなことは述べるまでもない暗黙の了解事項だと思う。
 前回の記事で述べたことは、「9条」と「戦争」との直接的な因果関係についてではなくて、9条の有無における「戦争抑止力」についての話だった。
 重要なことは「9条の有無」ではなく、「戦争抑止力の有無」であり、その戦争抑止力を持つために9条が邪魔になっているということを書いたつもりだった。

 では、「戦争抑止力」とは何か?

 その道の専門家である田母神俊雄氏の言葉を借りると以下のようになる。

 「殴れば殴り返されるかもしれないという恐怖が殴ることを思いとどまらせる。これが抑止力である。従って攻撃能力を持たずには抑止戦略は成り立たない。」【『自らの身は顧みず』(田母神俊雄著)より】

 このことはトランプ氏と金正恩を観ているとよく解る。「殴れば殴り返されるかもしれない」、金正恩がトランプ氏に対して抱いている感情こそ、まさにそれだ。1発殴れば、何倍にもなって反撃されるという恐怖感が、金正恩のアメリカに対する暴走を防いでいる。アメリカと北朝鮮では、軍事力で大人と子供以上の差があるので、これが絶対的な抑止力となっている。
 しかし、北朝鮮が攻撃可能な核兵器を持つに至れば、その軍事力の差が消え失せ、抑止力は機能しなくなる。いかに屈強な大人であっても、銃を持った子供は恐いのと同じ理屈だ。

■9条はユートピアでしか通用しない

 自宅に鍵をかけても泥棒の侵入を完全には防ぐことはできない。しかし、少なからず泥棒の侵入を防ぐ効果は有る。泥棒に「侵入すれば捕まるかもしれない」という感情を抱かせるには、鍵を厳重にかける、監視カメラを取り付ける、発見した場合は即座に通報する、というような「侵入抑止力」が必要になる。
 しかし、9条には「侵入抑止力」を否定するようなことが書かれている。それを説明する前にまず、憲法9条を眺めてみよう。

(第9条第1項)
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

(第9条第2項)
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 この条文だけを読むと、簡単なことを敢えて難しく言っているような感じを受ける。「これを」という言葉を都合3回も使用しており、敢えて回りくどい言い方をしているように感じられる。そして、この条文は、日本国民はどうするべきということは書かれているのだが、相手国がどういう状態であるのかということが全く意識されていない。その相手国が健全な国であるのか、それとも悪徳な国であるのかということが書かれていない。
 相手国が民主国家か、独裁国家かという違いだけでも、日本国民が採る行動は違ってくると思われるのだが、なぜかその部分には触れられていない(考えられていない)のである。

 失礼ながら、相手国を泥棒に喩えてシンプルに言うなら、以下のようなことが書かれていることになる。

 「日本国民は泥棒を暴力で威嚇してはいけない
 「日本国民は泥棒に暴力を振るってはいけない
 「日本国民は泥棒と戦う武器を持ってはいけない
 「日本国民は泥棒と戦ってはいけない

 「泥棒」という言葉を「善人」に置き換えれば至極真っ当な意見なのかもしれないが、「悪人」に適用すると、途端におかしな意味合いになる。

 悪人のいない善人ばかりの平和な社会、それはつまり、理想郷(ユートピア)であり、そのユートピアでしか通用しない言葉足らずな条文となっているのが9条だと言うことができる。

 善人ばかりのユートピアのような世界であれば、憲法9条は正しい。元々、犯罪も争いも無い世界であるなら、暴力を禁ずるのは正しいことだろう。しかし、明らかに危険な悪人が出現した場合、その悪人の暴力や犯罪を阻止するためには、時には暴力を認めることも必要になる。ただしそれは、本当の暴力を認めるという意味ではなくて、悪人に「殴れば殴り返されるかもしれない」と思わせるために必要な方便としての暴力である。無論、最終手段として本当に暴力を振るわなければいけなくなる場合もある。

 世界各国が保有している核兵器も、方便として持つことを許されている。その方便としての核兵器を本気で「使用する」などと言う危険人物が出現した場合、世界各国は一致団結して、その狂気を諌めなければならないが、皮肉なことに、その邪魔をするのが「9条」になっているのである。


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「9条があれば戦争にならない」という言葉

■「ならない」と「できない」の違い

 北朝鮮の地政学的リスクが少しは肌で感じられるようになったせいか、与党批判は少し鳴りを潜め、批判の矛先は野党に向かったかのような気がしないでもない。しかし、それでも未だに「9条があれば戦争にならない」という意見もよく耳にする。

 この「9条があれば戦争にならない」というのは、「施錠しなければ泥棒は入ってこない」という言葉と同じようものだと揶揄されることがある。

 世間一般の常識から考えると「施錠すれば泥棒は入ってこない」が正しいはずなので、「施錠しなければ泥棒は入ってこない」というのはどこかおかしいことになる。

 ○「施錠すれば泥棒は入ってこない」
 ×「施錠しなければ泥棒は入ってこない」

 「鍵をかければ泥棒は入ってこれない」、これは物理的に正しい。では、「9条があれば戦争にならない」はどうだろうか?
 9条というものは物理的なものではなく、観念的なものであるので、目に見えない効力でもない限り機能しない。9条が『般若心経』のような経典であれば何かしらの効力があるかもしれないが、そういうものでもない。

 となると、「9条に戦争を抑止する効力がある」という言葉は、どこから出てきたのか?という疑問が生じる。

 現在の日本国憲法がGHQ製であることは広く知られている。日本の想定外の戦力(士気)に恐れをなした戦勝国側が、2度と日本に戦争を起こさせないようにするために作られたものが、現在の日本国憲法であり、9条はその中心的な役割を持った条文だった。戦勝国側の視点に立てば、「9条があれば戦争にならない」ではなく、「9条があれば戦争できない」というのが、本当の目的だった。
 この「できない」が、いつの間にか「ならない」という言葉に置き換わってしまった。戦勝国側ではなく戦敗国側の視点から見た言葉になってしまった。戦争することを封じるための言葉が、戦争自体が無くなるという言葉に変化してしまったということになる。

 (戦勝国側)「9条があれば戦争できない」
 (戦敗国側)「9条があれば戦争にならない」

 この2つの言葉には、大いなる言葉の歪曲がある。

■護憲派の精神構造

 都会に住んでいる人は出かける時に施錠することは常識であり、自宅の中にいる時でさえ施錠するのが一般的だが、田舎に住んでいる人は、少し近所に出かける程度なら、わざわざ施錠しない人もいる。
 田舎に住んでいる人が都会に出てくると、在宅中の人でも施錠していることにカルチャーショックを覚えることがあるらしい。わざわざチャイムを鳴らさないと玄関ドアが開かないことに違和感を感じるらしい。

 ある意味、その感覚が、護憲派と言われる人々の感覚なのかもしれない。戦後70年間も牧歌的な田舎(日本)のような空間で暮らしてきたため、都会(他国)のようにコソ泥や詐欺師の被害に遭遇する危険性もなかった。
 しかし現代では、日本にも多くの文化の違う外国人が訪れ、観光地に行けば、日本人よりも外国人の方が多いというような感じになっている。外国人が悪いという意味ではないが、いつの間にか、牧歌的な日本は、都会の喧噪の中に呑み込まれてしまう時代を迎えてしまった。周りを見れば、人が溢れ、その中にはコソ泥や詐欺師も混じっている。

 そんな状況下で、いつまでも「施錠しなければ泥棒は入ってこない」などという暢気なことを言って、本当に施錠せずにいると、気付いた時には、家財用具一式、コソ泥被害に遭うということになってしまう。その時になって、「なぜ、施錠していないのに泥棒が入ってきたのだ!」と憤っても後の祭りであり、その泥棒が自宅に侵入した理由は、他ならぬ、自分自身にある。そして、その盗人被害は、真面目に施錠している人々にも及ぶということを知らねばならない。


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「戦争を知らない子供たち」はいなくなる

■世界の命運を握った2人の人物

 Jアラート、昔で言うところの「空襲警報」が鳴り響いたというのに、その事の重大さに気が付かず、未だ泰平の眠りの中にある日本をよそに、米朝の間には非常に危うくキナ臭い空気が漂ってきつつある。
 端から聞く耳を持たない独裁者相手に、「話し合いで解決する」というようなソフトな対処法では、残念ながら、この難局は到底乗り越えられそうにない。況して「北朝鮮の核保有を認めるべき」などというのは、正気の沙汰とは思えない。

 日本、ひいては世界の命運は、2人の人物(金正恩とドナルド・トランプ)の一挙手一投足にかかっていると言えるが、金正恩が白旗を掲げない限り、近い将来、多くの人命が失われるだろうことはほぼ間違いないと言える。
 その人命が、北朝鮮人か、韓国人か、日本人か、それともアメリカ人になるかは今のところ不確定だが、このまま何も手を打たないままズルズルといくと、その期間が延びるに比例して、皮肉にも死傷者数は増加することになるだろう。
 日本が被害を免れるためには、誰かが金正恩を暗殺するか、北朝鮮の軍事施設を全て瞬時に破壊するしか手はない。しかし、その場合、多くの北朝鮮の国民も犠牲になることになる。たった1人の狂気の独裁者のために、数十万人、数百万人の人々が巻き添えになる可能性がある。

■「戦争を知った子供たち」の出現

 トランプ氏の「そのうち分かる」という発言は実に意味深だが、そんな言葉が出てくるということは、既にいくつかのプランは用意されているということなのだろう。現状でなら、アメリカはほぼ無傷で北朝鮮を葬ることができるので、障壁になるのは先に述べた人道的な問題だけだろう。

 人道的と言っても、2018年には北朝鮮の核搭載ミサイルが完成すると伝えられている。そうなると自国(アメリカ)の無辜の民が数百万人、数千万人と犠牲になる危険性が出てくるので、その時点で、人道云々などとは言っていられなくなる。自国の民を犠牲にするか、敵国の民を犠牲にするか?と問われれば答えは決まっている。現状では究極の選択であっても、自国の崩壊というリスクが生じれば、躊躇することなく攻撃が開始されるだろう。

 結局、今回の米朝問題を無事に解決できる人間は、1人、金正恩しかいない。彼が降参しない限り、どのみち多くの人々の命が失われることになる。トランプという存在は、彼の悪しき心の写し鏡でしかない。トランプ大統領が如何なる行動に出たとしても、その原因は全て彼(金正恩)自身にある。

 日本の代表的な反戦歌である『戦争を知らない子供たち』という歌があるが、近い将来、日本でも「戦争を知らない子供たち」は誰もいなくなるかもしれない。
 怪我の功名として、「戦争を知った子供たち」の意識に大きな変化が生じ、日本がまともな国になることを願う。(注:軍国主義になるという意味ではないので誤解のないように)

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「ヒトラー」と「ミサイル」のどちらが重要か?

■「ミサイル」よりも「言葉」に敏感な国

 今週は北朝鮮のミサイル発射問題が騒がれる中、麻生氏の失言(?)が飛び出し、マスコミからは総バッシングを喰らっていた。
 しかし、北朝鮮から発射されたミサイルよりも、麻生氏の口から発せられた言葉に対する批判の方が大きいように感じられるのは気のせいだろうか?

 麻生氏の口から飛び出した言葉は以下の通り。

>「いくら動機が正しくても何百万人殺しちゃったヒトラーは、やっぱりいくら動機が正しくてもダメなんですよ

 この言葉で問題となっているのは、「いくら動機が正しくても」という言葉を2回も繰り返しているところだろうと思われる。中には「ヒトラー」という言葉を使用したことだけで(頭の中で)批判アラートが鳴った人もいるのかもしれないが、常識的に考えると「いくら」という言葉に引っ掛かった人が多かったのだろうと思う。
 麻生氏は「動機が正しかった」とは一言も言っていないのだが、「いくら」という言葉からは、「否定」よりも「肯定」のニュアンスが強く感じられるので、運悪くバッシングに繋がったのだろう。

 もし、この「いくら」の部分を「仮に」とすればどうなるだろうか?

仮に動機が正しくても何百万人殺しちゃったヒトラーはダメなんですよ

 これだけで随分とイメージが変わってしまう。「いくら」という言葉を繰り返さずに「仮に」という言葉を使用していれば、あくまでも仮定の話ということで、言葉狩りに遭うことも無かったかもしれないし、弁解することも充分に可能だったと思う。(常識人に対しては、という条件付きで)

■注目すべきは「ヒトラー」ではなく「金正恩」

 ただ、まさか副総理の立場にある麻生氏が、ヒトラーやナチスを礼賛するようなことを公の場で話すわけもなく、講演における単なる言葉の齟齬だったと考えるのが普通だと思う。文章として書く場合は推敲ができるので、言葉の齟齬も発生しにくい。しかし、リアルタイムでのトークであれば、こういった言葉遣いのミスが発生するのは仕方がないことでもあるので、いちいち揚げ足取りをしてもキリがないと思う。
 問題は、本人の意思はどうなのか?ということであって、麻生氏はきちんと釈明会見を開き謝罪しているのだから、批判の矛を鞘に収めるのが大人の対応というものだろう。

 ところで、もし、麻生氏の口から以下のような言葉が発せられた場合を考えてみよう。

いくら動機が正しくても何百万人も殺しちゃうかもしれない金正恩は、やっぱりいくら動機が正しくてもダメなんですよ

 この言葉に対して、批判するような人は誰もいないだろうけれど、「いくら」という言葉を使用しても特に違和感が感じられない。それはなぜだろうか?
 この言葉の場合、「殺しちゃうかもしれない」という仮定の言葉が既に入っているため、動機の是非には目が行かない。それは、ヒトラーに置き換えても同じで、

いくら動機が正しくても何百万人も殺しちゃうかもしれないヒトラーは、やっぱりいくら動機が正しくてもダメなんですよ

 ということで、既に起こってしまった悲劇的な過去の事件に対しては「いくら」という言葉は使用するべきではなかった。そういう意味では確かに失言の部類であったことには違いはないと思う。

 しかしながら、マスコミや野党は、批判の矛先を「言葉」から「ミサイル」に置き変えるべきであり、過去の独裁者「ヒトラー」ではなく、現代の独裁者「金正恩」に目を向けるべきである。


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