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リベラル化しつつある「働き方改革」

■「楽をする改革」と思われている「働き方改革」

 最近、これまで以上に「働き方改革」という言葉を耳にする機会が多くなってきた。年明けからは様々な企業で経営者からの年頭の挨拶(訓示)がなされるが、おそらくこの「働き方改革」という言葉を使用する人は相当数いるのだろうと思う。
 しかし、現在この国で話されている「働き方改革」論議を観ていると、どうも単なる「楽をする改革」だと誤解している人が多いような気がする。
 「働き方改革」の目的は「労働生産性を上げること」が暗黙の了解事項だと思われるのだが、前提条件であるはずの「労働生産性」を全く考慮していないのではないか?と疑いたくなるような話もよく耳にする。

 例えば、「職場を綺麗にしなければいけない」とか、「残業時間はとにかく少なくしなければいけない」とか、「有給休暇はなるべく多く取得しなければいけない」という具合に、「〜しなければいけない」づくしになっている。
 確かにそういった理想を求めることは否定するべきものではないにしても、「労働生産性」とはほとんど関係がない…と言うよりも、逆に「労働生産性」を下げることに繋がる場合が多いと思われるのだが、そんなことはお構い無しに臆面もなく「働き方改悪」を語られている人がいる。
 そういう人達を観ていると、一昔前に「ゆとり教育」を礼賛していた評論家達とダブって見える。「楽ができればそれでいい」という結果を無視した無責任論が罷り通っており、非常に危うい感じがする。

■「本当の残業」と「居残り残業」の違い

 「残業時間」を例に挙げると、「残業」にもいろんな残業がある。本当に仕事が忙しい状態を意味した残業もあれば、ミスをしたことによる居残り残業もある。「本当の残業」と「居残り残業」は分けて考えなければいけない。その違いは以下のような会話スタイルで考えると分かり易いかもしれない。

 ●「本当の残業」の場合
   従業員「今日は仕事が忙しいので残業します。」
   経営者「ああ、そうしてくれると助かるよ。」
   従業員「残業代を付けてもいいですか?」
   経営者「もちろん、そうしてくれ。」

 ●「居残り残業」の場合
   従業員「今日はミスをしてしまったので残業します。」
   経営者「ああ、そうしてくれ。」
   従業員「残業代を付けてもいいですか?」
   経営者「えっ!?………」

 自分自身が仕事をミスして損失を出したのであれば、普通は以下のような会話になると思う。

  従業員「今日はミスをしてしまったので残業します。」
  経営者「ああ、そうしてくれ。」
  従業員「残業代はいりません。」
  経営者「そうか、頑張ってくれ。」

 残業には、会社にとって「プラスになる残業」と「マイナスになる残業」がある。ミスの有無はもとより、その人の能力によっても「プラスになる残業」と「マイナスになる残業」がある。
 そういった違いがあるのに、その違いを全く考慮せずに、全ての残業時間を減らすという名目のもとに「働き方改革」を進めると、以下のようになってしまうかもしれない。

  従業員「今日はミスをしましたが残業はしません。」
  経営者「えっ!?、いや、残業してくれないと困るよ。」
  従業員「では、残業代を請求させていただきます。」
  経営者「・・・・・・・・・・」

■「労働生産性」を無視するべからず

 上記の例でも解る通り、全ての残業時間を減らすというのは誰が考えてもおかしいわけで、なぜおかしいのかと言えば、仕事における「責任」というものがスッポリと抜け落ちているからだと言える。ノルマを果たした上での残業と、損害を出した場合の残業は全く違う。
 かつての社会保険庁を例に言えば、まともに働いている場合の残業と、デタラメな仕事をした場合の残業は違うということ。デタラメな仕事をして膨大な税金の無駄遣いをした挙げ句、なおかつ、その訂正作業に残業代を請求するというのは、自分で火をつけて自分で火を消しているようなものだ。そういう意味では「マッチポンプ残業」だと言える。

 そういった違いを分別考慮し、時間に囚われない当たり前の労働基準に改定すること。それが「多様な働き方」を認めた本当の「働き方改革」というものだろう。
 仕事が出来る人間も仕事ができない人間も皆同じ、仕事の早い人間も仕事が遅い人間も皆同じ、ノルマを果たした人間もミスをした人間も皆同じでは、結局、仕事ではなく“時間”だけに囚われていることになってしまう。日本企業の労働生産性が低い理由は、時間に縛られ過ぎていることに起因している。ゆえに、時間に囚われたままでは「労働生産性」は上がらず、逆に下がってしまう可能性の方が高い。

 如何なる「労働」にも当然の如く「責任」が伴う。その「責任」を考慮しない「働き方改革」に堕してしまうと「労働生産性」は下がらざるを得なくなる。
 政府が主導するからには「労働生産性」の向上というものを前提とした「働き方改革」でなければ意味が無い。もし、「ゆとり教育」のような「ゆとり労働」のみを目指しているのであれば「労働生産性」が下がることは間違いない。なぜなら、その改革は「責任を伴わない自由」に根ざしているからである。

 「無責任」という言葉は日本のリベラルの専売特許のようなものだが、リベラルの自由である「責任を伴わない自由」は、いつの間にか「働き方改革」にも浸食しつつあるのかもしれない。

(補足)この記事で述べた「ミス」とは、自分の給料分以上のミスを意味しています。

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「政治」と「企業」で考えるスローガンの重要性

■「最小不幸社会」と「最小赤字企業」

 師走になると、多くの企業では、来年の目標となる「スローガン」を考えることになる。日本では「標語」とも言われ、企業活動を行うにおいて非常に重要なものとされている。
 標語(スローガン)を考える上で大事なことは、達成できる目標か否かではなく、その言葉の中に積極的かつ前向きな理念が入っているかどうか、これが重要になる。

 例えば、政治の世界では「1億総活躍社会」というスローガンが記憶に新しい。この言葉はおそらく達成不可能でも、そういった理想の社会を目指すという意味では正しいスローガンだと言える。一方で、もう少し前に「最小不幸社会」というスローガンがあった。これなどは、スローガンとしては非常に悪い例だと言える。なぜ、そう言えるのかを企業に置き換えて考えてみよう。

 まず、「最小不幸社会」という言葉を企業的に置き換えて言うと、「最小赤字企業」ということになるが、あなたの知っている会社で、そんな悲観的なスローガンを掲げている会社が有るだろうか? おそらく無いと思う。まともな企業であれば、スローガンに「赤字」などという悲観的な言葉は絶対に使用しないし、「最小」というような消極的な言葉も使用しない。
 「最大黒字企業を目指す」という目標は有り得ても、「最小赤字企業を目指す」というような企業は存在しないと思う。
 「最小ミス」なら有るのでは?と言う人がいるかもしれないが、それなら、「ミスゼロ」とするのが一般的だ。
 そもそも、どう転んでも赤字というような企業なら、存在する意味がない。そう考えると、「最小不幸社会」というような言葉は、スローガンとしては以ての外ということになる。どう転んでも不幸な社会などを目指されたら、まともな国民はたまったものではない。

■「シンクビッグ」と「ビッグマウス」

 「最小不幸」という言葉の中には、“国民は幸せになってはいけない”というようなニュアンスが含まれて(隠れて)いるように思える。超訳すると「国民は不幸になって当然だが、その不幸は最小にすることが望ましい。」 
 まるで、国民が原罪でも背負っているかのような後ろ向きなスローガンだと言える。罪深い人間は幸せになってはいけないとするカルト教の教義のようなものだとも言えるかもしれない。

 スローガンに掲げる目標は、大きければ大きいほどいい。トランプ大統領の言葉などは、その見本のようなもので、シンクビッグ(大きく考える)だからこそ、ビッグマウス(大口を叩く)になる。
 スローガンの本来の目的は、この逆で、ビッグマウスだからこそ、シンクビッグになれるというもの。大きな目標を掲げてこそ、大きな理想に向かえるという意味が隠されている。達成不可能な目標でも、それを目指せば、ある程度の目標は達成されるということを意味する。

 ということで、間違っても、スローガンに悲観的な言葉を入れてはいけない。それは自ら(国民)を小さくする(不幸にする)呪文になってしまう危険性がある。悲観的なスローガンを掲げる人には注意しよう。

(注記)「ビッグマウス」が「大口を叩く」というのは誤訳ですが、話の都合上、敢えてそのまま使用しています。


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「受信料徴収ライセンス」を得たNHK

■「公平」ではなく「悪平等」なNHK受信料

 NHKの受信料契約を巡って訴えを起こしていた男性が敗訴し、最高裁判所はNHK受信料の支払い義務を認める判決を(初めて)下した。
 ある意味、予想していた通りの判決だったとはいえ、1人の男性に対する判決が、実は全国民に適用されてしまう可能性を有しており、“悪しき前例”と成り得るこの判決に危機感を感じた多くの国民は非難囂々となり、特にネット上では大きな騒ぎになっている。

 最高裁の「お墨付き」を得たNHKは、007の「殺しのライセンス」ならぬ「受信料徴収ライセンス」を得たことになる。果たして今後、NHKの受信料徴収システムにどのような変化が生じることになるのだろうか?

 私も嫌々ながらNHKの受信料を支払っているので、今回の訴えを起こした男性の気持ちも、不満を抱いた多くの国民の気持ちも理解できる。NHK側は「公共」や「福祉」という言葉とともに「公平」という言葉をよく用いているが、現状のNHKの受信料徴収システムは、どう考えても公平では有り得ず、お金を支払わずにバンバン観ている人の視聴料を、ほとんど観ていない人が代わりに支払っているような不公平な構図になっている。
 「公平」とは、テレビを観た時間に応じて視聴料を徴収することであり、観る観ないに関係なく等しく視聴料を徴収することではない。もっとも、それすら満たしていないのだから、公平云々と言うよりも、単に悪平等なシステムだと言った方が正解かもしれない。

■「公共団体」が「権力機関」に見える不思議

 批判意見の中には、マスコミ(NHK)と司法(裁判所)の癒着を疑っているような意見もみられる。しかしこれは、「癒着」と言うよりも、流行りの言葉で言えば「忖度」に近いのではないかと思う。日本では不条理だということが分かっていながらも変えることができないと思い込まれているものが多い。そのほとんどは、戦後すぐに創られた社会主義システムに依拠しているが、NHKもその範疇に入る組織でもあるので、裁判所自体が「護憲派」ならぬ「護派」になってしまっているということなのだろう。

 おそらく、現状のNHKの受信料システムに不満を抱き疑問を感じている人は日本に1億人以上いることだろう。民主主義が多数決の原理で成り立っていると仮定するなら、今回の最高裁の判決は、到底、民主的な判決とは言えないことになる。まともな民主主義国なら、大規模なデモが発生してもおかしくないところだが、幸か不幸か、そういったことも起こらない。仮に起こったとしても、マスコミが「報道しない自由」を行使すれば、無いことになってしまうので、それが解っている人は大人しく黙っているだけということになってしまう。

 皮肉なことに、ネットの掲示板等が国民のガス抜きの場と化しているとも言える。せいぜい、NHKに対する批判的なコメントを見て溜飲を下げているような状態だと言えるのではないだろうか。
 そう考えると、NHKと日本国民との関係は、中国共産党と嫌々ながら付き合っている中国国民との関係に似ていると言えるのかもしれない。国民にとっての「公共団体」が「権力機関」と同じように見えてしまうのだから、何をか言わんやである。

 「最高裁判所」というのは、建前上、公明正大な判決を下す正義の機関ということになっているが、今回のような国民から不平不満ばかりが出てくるような無理筋の判決だと、国民は一体、何を信じていいのか分からなくなってしまう。少しは救いのある玉虫色の判決にできなかったのだろうかと悔やまれる。

 現在、不祥事で騒がれている角界(相撲界)同様、「建前」、「忖度」、「八百長」、「出来レース」、「茶番」、そんなマイナスなイメージだけが日本社会全体を覆っているかのようだ。
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