« 2017年12月 | トップページ | 2018年2月 »

ハリウッドのリベラル化を憂う

■「リベラル・コレクトネス」の猛威

 最近のハリウッド映画を観ていて、よく感じるのは、創作(フィクション)であるはずの映画の世界にまでポリティカル・コレクトネス(以下「ポリ・コレ」)の影響が及んできているのではないか?ということ。

 「ポリ・コレ」というものはアメリカのリベラル思想と密接な関係があることはよく知られているが、オバマが大統領になってからは、特に深く浸透してしまったと言えるのかもしれない。

 有名なところで言えば、『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』という映画があった。本作はトランプ氏が大統領になる前の映画だが、大規模なテロを防ぐために一般市民を犠牲にすることの問題性を提起し、アベンジャーズを国際連合の管理下に置くという、およそ、これまでのヒーロー映画では考えられないような非現実的(と言うよりも現実的)なドラマが描かれていた。

 当時、映画館でこのシーンを観た時、非常な違和感を感じたことを記憶しているが、あの違和感の正体は、映画の世界に入り込んだリベラル思想そのものだったのだろうと思う。映画の中に「ポリ・コレ」思想というものが混入していたのだな…ということが今になって分かったような気がする。

■壮大な悲劇を演じているハリウッド

 2年前にもアカデミー賞で黒人俳優が全くノミネートされず、「白人ばかりのアカデミー賞」と揶揄した批判が問題になり騒がれたことがある。
 「ポリ・コレ」のことを知らない人がこんな話を聞くと、条件反射的に「黒人差別だ!」と憤るのかもしれないが、公平な判断の上で本当に黒人俳優にノミネート者がいない場合はどうするのか?ということも併せて考える必要があるのではないかと思う。

 個人的にはアカデミー賞自体が元々、権威主義に傾いていると思われるので、それほど高く評価しているわけでもないのだが、そのことは於いておくとしても、ハリウッド映画に出演している俳優の比率は黒人よりも白人の方が圧倒的に多いわけだから、たまには黒人が受賞できない年度があっても、それはそれで仕方がないことだとも言える。実際、出演比率の低い黄色人種もアカデミー賞にノミネートされるようなことは全くと言っていいほど無いが、誰も文句は言っていない。

 この騒ぎがあったこととも関係しているのかもしれないが、現在のハリウッド映画(海外ドラマも同様)には、どんな映画にも一定数の白人以外のキャストが出演する場合が多くなっているように感じられる。同時に、同性愛者を演じる俳優が多く登場するようになったとも感じられる。マイノリティの認知度を上げるという目的でそのようなことが行われているのかもしれないが、実社会における同性愛者の割合を考慮すれば、明らかに過剰な扱いになっているという違和感は拭えない。

 こういった特別扱いをすること自体が、実は差別そのものであると思われるのだが、「ポリ・コレ」を厚く信奉する人々には、そのことが見えなくなっているのかもしれない。どれだけ建前を飾ったところで、特別扱いしなければならない存在を自ら作り出し、腫れ物に触るかの如くタブーを作り出すことが、差別をより根深いものにするということが解らないというのは悲劇そのものだとも言える。

 ハリウッド映画の内容ではなく、ハリウッド映画界そのものが壮大な悲劇を演じているということが多くの人々に理解される日は訪れるのだろうか? もし、その日が来れば、それはアカデミー賞ものの栄誉ある瞬間だろう。

【追記】 『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』は『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』の間違いでした。訂正してお詫びいたします。

----------------------------------------------------------------------

にほんブログ村 経済ブログ 日本経済へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日本に輸入された「ポリティカル・コレクトネス」

■「ポリティカル・コレクトネス」の起源

 昨年末のダウンタウンの番組の中で、浜ちゃんが『ビバリーヒルズ・コップ』の黒人俳優エディ・マーフィのものまねのために顔を黒塗りしたことで物議を醸すという出来事があったらしい。
 私はダウンタウンのデビュー当時からのファンだが、年末恒例の特番番組はマンネリ感があるため数年前から観ていないのでニュースで知った。このニュースはアメリカでも報道されたそうだが、批判的な意見も結構あるらしいので、少し、ダウンタウンの擁護をしておきたいと思う。

 昨日、『アメリカ人が語る日本人に隠しておけないアメリカの“崩壊”』(マックス・フォン・シュラー著)という本を読んでみたが、奇しくも、この問題を考える上で非常に参考になる本だった。

 アメリカにおける過剰なまでの「言葉狩り」は「ポリティカル・コレクトネス」という言葉で知られている。現在のアメリカでは、少しでも差別に繋がるような言動は徹底的に糾弾される社会が出来上がっており、ほんの些細な言葉が原因となり、社会的に抹殺されるという窮屈な社会になっている。
 ある意味、日本とよく似ているとも言えるが、実際のところは、ポリ・コレの歴史が長いだけあって日本よりも酷いらしい。アメリカが「訴訟社会」というのは、実は「ポリティカル・コレクトネス社会」であることを意味しているのかもしれない。

 この「ポリティカル・コレクトネス」というものは、一般的には1960年代のベトナム戦争の抗議活動に端を発するとされているが、実のところは、1920年代にドイツに誕生したフランクフルト学派にあるらしい。
 新しいマルクス主義の研究組織であるフランクフルト学派は、ドイツでナチスが誕生したのを契機として、アメリカに移った(逃げた)。戦争が終わると大部分のメンバーはドイツに帰ったが、一部のメンバーがアメリカに残り、左派運動の中心となっていった。その1人であるヘルベルト・マルクーゼは「ポリティカル・コレクトネス運動の父」と呼ばれている。

 「社会的弱者」という概念を作り出し、人心を荒廃させることで国(の文化)を破壊し革命を起こすことを目的とした彼らの理論のことを「批判理論」と言う。

■「ものまね文化」も破壊する「ポリティカル・コレクトネス」

 日本には「お笑い文化」というものがあり、これまでにも様々なものまねが行われてきた。禿げた頭、太い眉、大きな目、大きな鼻、出っ歯、厚い唇、長い顎、太った身体、短い足、その他諸々、そういったものまねは得てして、個人の特徴を上手くとらえて、その部分を強調することで笑いを得るというシステムだった。
 ここで「個人の特徴」を「個人の欠点」に摺り替えて、「欠点を指摘するのは差別だ!」ということが国是になってしまうと、ものまねタレントは仕事を失い、お笑い芸人も仕事の幅が狭くなってしまう。加えて、ものまねされるタレントも知名度を失ってしまう。それは、まさしく文化の破壊を意味する。

 アメリカには黒人を奴隷にしたという負の宿業が有るので、その結果として現在のような白人いじめが行われているのかもしれないが、日本にはそのような宿業はない。他人の欠点を指摘することや笑うことは決して良いことだとは言えないが、ものまねされている本人がヘイト(嫌悪)感情を持っていないのであれば、第三者(赤の他人)が文句を言うのは余計なお節介だとも言える。

 問題はダウンタウンの浜ちゃんに黒人を差別する意識が有ったのかどうかということであり、該当するシーンを観た限りでは、そのようなものは感じられない。もし差別心があれば、こんなメイクはできないと思う。
 不快な思いをした人には謝罪が必要かもしれないが、アメリカでは白人が黒人のものまねをすることは御法度だということを日本のお笑い芸人に適用するのは少々、行き過ぎかもしれない。

 差別というものは、差別だと思う人がいることによって起こる。ものまねしている当の本人が、肌の黒いことを劣ったことだと思っていなくても、ものまねを観た人が「差別だ」と言えば、それが差別になってしまうという実に厄介な代物だ。

 肌の黒いことをお笑いネタにしているのであれば問題かもしれないが、単なるハリウッドスターのものまねであるなら、笑って受け入れるだけの度量は持っていただきたいものだ。

【追記】2018.1.8
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>ポリティカルコレクトネスを語るなら、そんないい加減な言い逃れは駄目です。問答無用です。物まねだからとか、芸人だからとか,日本人だとか,そんな話は端っから通用しないのです。駄目なものは駄目。それだけです。それが世界の常識です。

 その「世界の常識」が行き過ぎて反感を買い過ぎたために、その歪んだ常識に異を唱えていたトランプ大統領が当選したわけです。黒人の20%近くもトランプ氏に投票しました。だから、その「世界の常識」は今後、「過去の常識」となり、常識ではなくなっていくと思われます。

>それを見て不快に感じる人がどれだけいるか/ どれだけ深く不快に感じているか、が一番重要だろう。

 多分、不快に思った人よりも、不快に思わなかった人の方が圧倒的に多いと思いますが、不快に思わなかった人の意見は重要ではないんでしょうか?


----------------------------------------------------------------------

にほんブログ村 経済ブログ 日本経済へ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

BOOK『パヨクニュース2018』を読んで。

■パヨクニュースのエバンジェリストとなったチバレイ

 これまで『さよならパヨク』『くたばれパヨク』と、自らの実体験を通してパヨクの実態をレポートしてきた千葉麗子氏の事実上、3冊目のパヨク解説本『パヨクニュース2018』。

 1作目がパヨク入門、2作目がパヨク概論だったと位置付ければ、本書はパヨクなニュースのダイジェスト版といったところだろうか。

 この1年間に起こった、都合50本のパヨクなニュースがブログスタイルの平易な文章で書き連ねられている。1年間に50本ということは、1週間に1回はパヨクなニュースが有ったということになる。

 2017年のニュースなのに、タイトルが「2018」になっているのは、千葉麗子氏からの年賀状というスタイルを狙ったものなのかもしれない。毎年、出版することを考えてのことなら、なかなか時流に乗った上手い商売だとも言える。マスコミが報道しない(または歪めて報道する)ニュースがストレートに読めるという意味では、結構、需要が有るのかもしれない。

 内容的には「どのような」ニュースだったのか?をまとめた本なので、「なぜ」まで踏み込んで知りたい人には少し物足りないかもしれないが、解説も付記されているので、前2作よりも一般向けになっていて読み易い。隠れた時事本として気軽に読める本だが、ピンク色を強調した表紙なので男性が書店で購入するには少し抵抗があるかもしれない。

■「マスメディア」ではなく「マスレフト」

 「メディア」という言葉の語源は「ミディアム」、つまり「中間」を意味している。メディアが中立であらねばならないというのは、「メディア」という言葉自体が「中間」という意味だからであり、それに反したメディアは既にメディアとは言えない。しかし、1つのメディアが左傾化、または右傾化しても、国全体で左右のバランスが取れていれば、「メディア」ということはできる。
【参考文献】『マスコミはなぜここまで反日なのか』(ケント・ギルバート著)

 ところが、日本のメディアは、そのどちらも満たしていないと思われるので「メディア」とは呼べないと思う。「左翼メディア」という言葉を直訳すれば「左翼中間」、「リベラルメディア」という言葉を直訳すれば「リベラル中間」となってしまうので、意味不明な言葉になってしまう。しかしながら、「メディア」という言葉を外せば、単に「左翼」「リベラル」となってしまうので、「メディア」という言葉の代わりに「インフォメーション」にした方がピッタリする。「左翼インフォメーション」「リベラルインフォメーション」という具合に。

 「マスメディア」という言葉も、国全体で左右のバランスが取れていればの言葉であり、バランスが一方(左)に傾いているのであれば、「マスレフト」と呼ぶのが正しいということになってしまう。

 そんな社会にあって、右、または保守寄りの情報媒体が増えることは望ましい。人々が何が正しい情報で何が間違った情報かを精査できる情報媒体が増えることは至って健全な姿だと言える。そういう意味では、千葉麗子氏の著作活動は、偏った報道体制に一石を投じる役目を果たしているのではないかと思う。

【追記】2018.1.3
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>「メディア」はwikiでは次のように定義されています。
【Media】 media(メディア)はmedium(メディウム)の複数形。medium は、中間にあるもの、間に取り入って媒介するもの。
だからメディアは「中間」ではなく「媒体」ですね。

 メディアが中間に入る媒体というのは、その通りです。それはケント氏自身も以下のように述べておられます。

 >情報元と大衆の「中間」にあって、情報を大衆に伝える役目を負っている

 メディアは中間にいるからこそ、正しく情報を伝えなければいけない。自分達の都合の良い情報は大きく報じ、都合の悪い情報は報じないでは、中間に入っているということにはならない。中立というのはそういう意味です。

 ケント氏の名誉のために書いておくと、本記事はケント氏の文章を引用したのではなく、参考にしただけです。だから、文章の最後ではなく、最初の方に【参考文献】と記しました。ケント氏の本で参考にしたのは、「メディアはミディアムという意味」という部分だけで、あとは私なりの持論です。早い話、中立でなければメディア(中間)ではないという話です。

>そもそも、全ての情報は言語化された時点で「中立」ではなくなる。何らかの「意見」が挿入される。完全に中立的な情報(正しい情報)なんて、あり得ないんですよ。

 情報に思想的な色を付けずにありのまま報じる、それだけで全体としては中立になります。正しい情報を判断するのは自分自身であり、情報の真偽を判断するための様々な情報を脚色することなく提供するのがメディアの役割です。


----------------------------------------------------------------------

にほんブログ村 経済ブログ 日本経済へ

| | コメント (1) | トラックバック (0)

銀行の「口座維持手数料」徴収は功を奏するか?

■「口座維持手数料」は誰から取るべきか?

 年末に3大メガバンクが「口座維持手数料」を徴収する可能性があるという驚きの報道があった。
 昨年の2月に『「貸し金庫業者」となった日本の銀行』というブログ記事を書き、最後に「貸金庫料も請求されるかもしれない」と締めくくったが、実際にその通りになってしまう可能性が極めて高くなってきた。

 3大メガバンクがこのような策を講じる理由は、1にも2にもマイナス金利の悪影響に尽きると思うが、この「口座維持手数料」というものは、預金額の高い人から累進的に徴収するのか、それとも預金額の少ない人から徴収するのかで大きな違いが生じると思う。

 海外の銀行では専ら、預金額の少ない人や口座利用の無い人から口座管理手数料を徴収しているので、これに準じるなら後者になる可能性が高い。例えば、預金額が0に近く、給料の出し入れだけに銀行口座を利用しているような顧客の場合、銀行にとってもあまりメリットが無いので、そういった口座を無くすことでコスト削減を狙っているのかもしれない。

■「口座維持手数料」を徴収するのであればサービスも改善するべき

 報道では、「口座維持手数料を徴収していないのは日本だけ」ということが書かれてあったが、海外の銀行の場合、自行のATM手数料は無料の場合が多く、休日も営業している場合が多いので、その辺の利便性も比較しないとフェアではない。

 100万円を1年間定期預金しても金利が100円という現在の銀行は、国民にとっては、お金を安全に管理してくれる「金庫」という認識が一般的だと思う。しかし、その「金庫」の管理料が発生するとなると、これまで複数の預金口座を持っていた人は、1つの預金口座に絞ることを真っ先に考えるだろう。しかし、日本の銀行はペイオフ制度で、1000万円以上のお金を預けると安全が担保されなくなるので、どうしても複数の口座で管理せざるを得ないという事情がある。
 では、どうするか? 1つの手段は、ペイオフと無関係で、口座管理手数料もかからない証券口座に入金する人が増えると思う。そうなると、株式バブルが発生するかもしれない。

 逆に少額預金者から徴収するという世界共通のスタイルにすると、銀行の預金離れに拍車がかかると思う。企業の給料支払いは本当に現金手渡しになっていく可能性もある。

 100万円の普通預金が1年間で10円しか付かないのに、毎月、100円の手数料を支払ってATMで出金しているような人は、年間1200円もの手数料を支払っていることになる。その差、なんと120倍、そこに追い打ちをかけるかのように「口座維持手数料」徴収では「高利貸し」と言われて逃げられても仕方がないような気がする。

■2018年版の金融ビッグバンの是非

 銀行にはバブル崩壊に繋がったと噂される「BIS規制」というものがあり、銀行は貸し出す金額の8%の資産を持っていなければならないということになっている。簡単に言えば、8万円の資金があれば、100万円の資金を貸し出せるというものであるが、この信用創造システムは、金利が有ることで維持されてきた。

 例えば、あなたが8万円の資金を持って、100万円の金貸しをすれば詐欺罪で御用となってしまうが、銀行ならノープロブレムになる。100万円を貸しても、8万円を徴収できれば損はしないという、ある意味で非常に恵まれたシステムだったわけだが、マイナス金利によって、そのシステムに問題が生じたため、改革を余儀無くされたというのがメガバンクならぬ全ての銀行が抱えた現状なのだろうと思う。
 そう考えると、ゆくゆくはメガバンクだけではなく、その他の銀行も護送船団方式よろしく、右向け右で「口座維持手数料」の徴収に乗り出す可能性は極めて高いと考えるべきかもしれない。

 この新たな金融ビッグバンは、どちらに転んでもあまり良い結果を招かないような予感がする。この問題をクリアする最善の方法は、「マイナス金利」を止めることなのかもしれない。

【関連記事】「貸し金庫業者」となった日本の銀行

----------------------------------------------------------------------

にほんブログ村 経済ブログ 日本経済へ

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2017年12月 | トップページ | 2018年2月 »