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「疑わしき安倍は罰する」捜査の是非

■無限ループ化している森友問題

 森友問題における証人喚問の場で、理財局の佐川氏が「首相や官邸の指示がなかった」と述べた。これでようやくこの騒ぎも収束に向かうのか…と思ったのも束の間、なぜか、野党6党は「疑惑は深まった」とし、今度は安倍昭恵氏の証人喚問を求めているという有り様だ。

 一般人の感覚からすれば、佐川氏が「首相や官邸の指示がなかった」と述べた時点で、この問題は少なくとも政治的には収束に向かうべきだと思うのだが、佐川氏が一部、黙秘権を行使したことが気に入らないという人がいるようだ。
 おそらく、財務省内のことで言うに言えないことがあるのだろうと推察するが、どうしても政治家が関係していると思いたい人もいるのだろう。
 しかし、消費税の増税を延期することに、あれだけ財務省に気を遣っているように見えた安倍総理が、なぜその財務省に命令するとか口封じができると素直に思えるのかが不思議だ。

 佐川氏の証人喚問で判ったことは、結局、誰が何を言っても、何の解決にもならず、この問題を収束する気もないのではないか?ということ。仮に、安倍昭恵氏の証人喚問を行ったとしても、おそらく何の解決にもならないと思える。
 痴漢の冤罪者と同じで、たとえ無罪であろうと、罪を認めるまでは終わらないという無限ループに陥ってしまっている。

 これでは、たとえシロでも、クロと決めたものはクロにしないと気が済まないという、どこかの国の推定有罪論者の暗黒裁判と変わらないとも言える。
 民主主義を是とするはずの政治家が「疑わしきは罰せず」という民主主義の基本を無視して、「疑わしきは罰しろ」になってしまっている。弁護士資格を持った多くの政治家が「推定無罪」(つまり人権)を無視している姿は滑稽ですらある。

■8万円の窃盗事件に300万円の税金を費やせば?

 この森友問題で費やされた税金(国会の運営費)は、噂では既に300億円を超えているらしい。8億円の問題を解決するのに300億円もの税金が費やされた。この事件が解決したとしても税金が返ってくるわけでもないので、税金を真面目に支払っている一般人から観れば、単なるマッチポンプ騒ぎにしか見えない。
 本当に何も問題が出てこなかった場合、6野党が無駄になった税金を返納してくれるのだろうか? 

 喩えて言うなら、ある小学校で8万円の窃盗事件があったとして、その犯人を見つける捜査に300万円もの経費を費やしているようなものだとも言える。そんな無駄な捜査をするぐらいなら、その捜査費の300万円から8万円を被害者に支払った方が早い。それが300万円の税金を支払っている国民側から見た、当然の意見だと言える。

 政治家も国民も、いい加減に、そんな無駄な捜査に税金を払い続けて、一体、誰が得をするのかをよく考えていただきたい。確たる証拠があるならいざしらず、「疑わしきは罰する」捜査になっていないかどうかを冷静に考えるべきだ。
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BOOK『リベラルの毒に侵された日米の憂鬱』を読んで。

■「リベラル」の別名は「腹黒い」

 最近、保守論客として矢継ぎ早に書籍を刊行しているケント・ギルバート氏の最新刊『リベラルの毒に侵された日米の憂鬱』を読んでみた。

 ここ数年来、日本人の保守論客よりも外国人の保守論客の方が活躍しつつあるような傾向にある。ケント氏以外にも、ジェイソン・モーガン氏や、マックス・フォン・シュラー氏、ヘンリー・S・ストークス氏など、日本人以上にかつての日本を理解していると思われる親日外国人の意見は、変なバイアスがかかっていないだけに、言っていることに真実味がある。

 日本では「左翼」と呼ばれたくない人間が「リベラル」という言葉を使用する。これは既に有名な話だが、こういう現象(思想的化粧)が流行る背景には少なくとも日本では「リベラル」という言葉が良いイメージを持たれていることを意味している。
 しかし、ケント氏いわく、現代のアメリカ人が思い描く「リベラル」のイメージとは以下のようなものであるらしい。

>「腹黒くて、胡散臭い」
>「抑圧的で、批判ばかりで、うっとうしい」
>「自分たちだけが絶対的正義と考えていて傲慢」
>「口だけ達者な無責任な連中で自分の非を認めない」
>「身勝手で利己的だから、自分の自由のためなら他人の自由を平気で侵害する」
>「現実を無視してキレイごとばかり言う」

 なるほど、日本でも思い当たるフシが多々あり、頷ける内容だ。
 このイメージから言うと、少し前に話題になった「リベラル系議員」というのは「腹黒い系議員」ということになってしまうが、私なりにもう少し具体的な言葉にすると「本音と建前の乖離が甚だしい系議員」ということになるだろうか。

 政治家という職業は、少なからず「本音」と「建前」を使い分ける能力も問われるものだと思うが、その開きがあまりにも大きい人のことを「リベラル」と言うこともできると思う。「平和を愛する」と言っておきながら「戦争を招く」ような言動を行っているように見える政治家もいれば、「言論の自由」を語っておきながら「他人の話は聞かない」ようにしか見えない政治家もいる。

■絶海の孤島に誕生した「リベラル」

 ケント氏は日本のリベラルを「GHQチルドレン」と述べておられるが、言い得て妙だなと思う。

 元来、キリスト教が根付いたアメリカにおける「リベラル」とは、宗教的な戒律から「自由」になりたいという人々を意味していた。
 「信仰を持たない人間は何をするか分からない野蛮人」という認識が一般化したアメリカ人から見れば、「リベラル」は「神の意に反した気ままな人々」ということになってしまうのかもしれない。

 欧米の近代国家は全てキリスト教が根付いた国であり、キリスト教が倫理的な道徳観を教えることで成立したとも言われている。では、日本ではどうだったのかというと、明治時代、キリスト教の代わりに国が道徳を教えることにした。それが所謂「修身」というものだが、その甲斐もあってか非キリスト教国で初めて近代化に成功した国が日本だった。もちろん、それだけが理由ではなく、日本にはもっと以前から「勤勉の精神」が根付いていたこととも関係している。

 欧米では、宗教的な戒律からの自由や、王権神授説の拒否から派生したものが「リベラリズム」の源流だった。そう考えると、「リベラリズム」は日本人とはあまり馴染みのない思想ということになるが、戦後、GHQによって日本的な精神性を骨抜きにされた日本人に「リベラル」が根付いてしまった理由も解るような気がする。
 道徳観が希薄で放埒な自由をこよなく愛する世界でも例をみない気ままな似非リベラル、それが「GHQチルドレン」というものの正体なのだろう。

 戦後、絶海の孤島で行われた思想実験は、見事なまでに成功した。その秘密の実験によって、ほぼ全ての国民がその渦中に呑み込まれた。現代の日本で、その渦(洗脳)から抜け出た人々は、リベラルの欺瞞に気付いている。

 人間は基本的に、自らが洗脳されているかどうかを知ることはできない。それを知るためには、1つの条件をクリアしなければいけない。それは、“他人の話(異論)を聞く姿勢”があるかどうかという条件だ。
 もし、あなたが他人の話を聞く姿勢がないリベラルタイプな人であれば、1度、「洗脳されているかもしれない」と疑ってみることをオススメする。
 

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国民不在の「森友狂騒曲」の愚

■「国民・国益・国難」無視の「森友狂騒曲」

 まさか、この期に及んで「森友学園問題」が蒸し返すことになるとは思ってもいなかったが、またぞろ「内閣支持率」がどうのこうの…というような話が飛び交い、いつか観たような光景が再び、眼前に繰り広げられている。
 この現代日本に出現している国民無視・国益無視・国難無視の政治的茶番光景を未来からの視点で観れば、まさに「森友狂騒曲」と呼ぶに相応しい出来事なのだろうと思う。

 しかし、たかだか地方の学園創設の土地売却問題だけで、何故にこれほどまでの大疑獄事件であるかのように扱われなければいけないのだろうか? 事件の真相よりも、その謎の方が興味深い。

 重箱の隅を突き、出てきた問題を針小棒大に報じ、大山鳴動して鼠一匹にしか成り得ないような小さな事件が、まるで途方も無い巨大な事件であるかのような錯覚を生じさせる。こういった負の煽動メカニズムは、いつの時代でも禍いとなって人々を苦しめてきた。中世の「魔女狩り」がその良い例でもある。

■安倍総理の「口は禍いの元」

 以前にも、「安倍総理が口にしたことは不思議と実現する」というようなことを書いたことがあるが、昔から「口は禍いの門」とも「口は禍いの元」とも言われる。良い言葉を発して実現するなら良いのだが、悪い言葉を発して実現してしまえば元も子もなくなってしまう。

 森友問題が騒がれた当初、安倍総理の口から出た言葉が“禍いの元”になってしまったということは、当の安倍総理自身も「迂闊だった…」と後悔されているのかもしれない。

>「…私や妻が関係していたということになれば、まさにこれはもう私は、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員も辞めるということははっきりと申し上げておきたい。全く関係ないということは申し上げておきたいと思います。

 この言葉は、全く事実無根であるという絶対的な自信から発せられた言葉だと思われるが、「総理大臣も国会議員も辞める」というマイナスな言葉は含めるべきではなかったとも思う。

 では、どう言うべきだったのかというと、

 「私も妻もこの事件には全く関係がないということは申し上げておきます。それはもう間違いない事実ですので、総理大臣も国会議員も辞めるつもりがないことをはっきりと申し上げておきたいと思います。

 既に結果論だが、「総理大臣も国会議員も辞めるつもりがない」というプラスな言葉を使うべきだった。

■目を向けるべきは「スキャンダル問題」ではなく「政策問題」

 森友問題に限った話ではないが、現代の日本人は、あまりにも政治家に清廉潔白さを求め過ぎているきらいがあるように思う。
 政治家というのは、正しい政治を行えば、何兆円単位の国富が増加することになるが、間違った政治を行えば、逆に何兆円もの国富を失うことになる。本来、有権者である国民が政治家に対して目を向けるべきは、そういった大きな政策問題の是非であり、小さなスキャンダル問題の有無ではないはずだ。

 国民の生活に直結した政策の是非を争うことで政権の奪い合いをするのなら理解できるのだが、国民の生活と全く関係のないようなスキャンダルや、言葉遣い等で政治の良し悪しが決定されるような社会は、どう考えても間違っており、理想的な政治とは程遠いと言わざるを得ない。

 まともな政策論争ができずに、週刊誌報道と同レベルでのスキャンダル論争しかできない政治家こそ、有権者からそっぽを向かれて然るべき存在だとも言える。なぜそんな当たり前のことが分からないのだろうか?

 要は、国民の生活と直接的に関係する問題と、関係しない問題とに分けて考える必要があるということ。関係しない問題に対して、どれだけ騒いでも、国民の生活は良くならないどころか、余計に悪くなる可能性の方が高い。

 では、「森友問題」はどちらの問題に該当するのか? 答えは言うまでもない。
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北朝鮮の歩み寄りに見る「戦争と平和」

■「戦争」は「平和」を齎す最終手段

 今年(2018年)は、高い確率で「米朝戦争」が起こるものと思われていたが、ここに来て、北朝鮮が国際社会(主にアメリカ)に歩み寄る姿勢を見せるという意外な展開を迎えた。平昌オリンピックで見せた北朝鮮の「微笑外交」を、今度は金正恩自身が演じるという姿勢を見せており、遂にトランプ大統領と会談するとまで伝えられている。

 「平昌オリンピックが終了した後、アメリカが北朝鮮を攻撃する」というような噂話が実しやかに出回っていたので、さすがの金正恩も焦りを禁じ得なかったのかもしれない。
 現状を観ると、チキンレースを制したのはトランプだったということになるのかもしれないが、これまでの北朝鮮の言動を鑑みると、単なる時間稼ぎか、何か別の思惑があるのではないか?と勘ぐりたくもなる。

 「戦争」というのは「付ける薬がない人間に付ける薬」とも言われる。

 この言葉には、世界の平和を維持するための最終手段という意味が込められている。「戦争」と「平和」は対立する概念ではなく、互いに密接に関係している概念でもある。
 何を言っても聞く耳を持たず、平和を乱す狂気の独裁者には、「戦争」こそが世界に「平和」を齎す最終手段に成り得るというのは、これまでの北朝鮮の暴走を観れば、認めざるを得ないという人も多いと思う。
【参考文献】『日本人のための戦争と平和』(小室直樹著)

 ただ、もし仮に今後の米朝会談が上手くいったとしても、それは北朝鮮がアメリカに対しての歩み寄りを見せたというだけのことであり、日本に対しての姿勢が変わるとまでは言えない。
 傍若無人ないじめっこ(北朝鮮)が警察(アメリカ)に歩み寄りを見せたというだけのことであり、いじめられっこ(日本)は素直に喜べるような状況にないことは正しく理解しなければいけない。

■日本には「いじめられっこ」からの脱却が必要

 日本に目を転じれば、未だに憲法改正すらできない状況は変わっておらず、全く予断を許さない状況となっている。
 何が「予断を許さない」のかというと、「戦争」を回避するべき「平和装置」が機能していないということに尽きる。

 ここで、「戦争」を「いじめ」に置き換えて憲法を考えてみよう。

【前文の一部】
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」

 これを「いじめ」に置き換えると、

「生徒達は、いじめのない平穏を念願し、生徒相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、いじめのない平穏を愛する諸生徒の公正と信義に信頼して、生徒達の安全と生存を保持しようと決意した。」

 これは別におかしくない。では今度は、9条1項を見てみよう。

【9条1項】
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

 これを「いじめ」に置き換えると、

「生徒達は、正義と秩序を基調とするいじめのない教育現場を誠実に希求し、いじめっこによるいじめと、腕力による威嚇又は暴力の行使は、いじめを解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

 これも別におかしくない。では次は、9条2項を見てみよう。

【9条2項】
「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

 これを「いじめ」に置き換えると、

「前項の目的を達するため、いじめられっこの反撃する力は、これを保持しない。教師達はこれを認めない」

 ここで、途端におかしくなる。「いじめられっこ」は「いじめっこ」に反撃する権利を持たず、教師達も反撃を認めないというのでは、明らかにおかしい。これでは「いじめ」が無くなるわけがない。「いじめ」というのは、つまり「戦争」のことだ。

 先に「戦争」と「平和」は密接な関係にあると書いた。トランプ大統領は北朝鮮に対して「戦争」をちらつかせたことが「平和」を齎す手段であることを我々に教えてくれている。自国の安全を守るためには、戦争というものを研究し、圧倒的な軍事力を持つことによって、相手国を制するという手段もあるということを暗に教えてくれている。

 「戦争」を忌避するだけでは、自国の安全(平和)を守ることはできない。そんな当たり前の真実に気が付いた時には「時既に遅し」ということにだけはなってほしくないものだ。


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「日本的経営」と「裁量労働制」の関係性

■頓挫した「裁量労働制」の導入

 厚生労働省の発表データが杜撰だったということで、「働き方改革」の目玉政策の1つだった「裁量労働制」の導入が頓挫するという事態になってしまったらしく、連日のように「裁量労働制」という、一般人にはあまり聞き慣れない言葉が耳に入ってくる。

 「裁量労働制」とは、一言で言えば、「仕事が(時間に囚われずに)労働者の自由に委ねられる」というものであり、主に時間で計ることが難しい仕事に適用される制度のことである。
 例えば、デザイナーやプログラマーや弁護士や税理士など、時間ではなく個人の能力によって成果を計る方が合理的な仕事に適用される制度である。無論、労使間の合意が必要となる制度であり、経営者や労働者の一方が独断で採用できる制度ではない。

 そう考えると、昨今、問題になっている日本企業の「労働生産性」を向上させるためには、かなり有効な手段だとも思えるのだが、なぜか日本では、受け入れ難いという人が多いようだ。
 しかし、反対している面々を観察していると、どうも、「裁量労働制」が適用されるような職種に就いている人ではなくて、「裁量労働制」とはあまり関係が無いような人が多いように見受けられる。この辺のところは、年収1075万円以上を対象とした「ホワイトカラーエグゼンプション」に反対していた人と共通しているとも言える。

■「裁量労働制」は「能率給」に近い制度

 「裁量労働制」が適用されると困る人というのは、結局のところ、能率給で給料を貰うよりも、時間給で給料を貰った方が得だという人なのだろうと思う。
 これは別に「裁量労働制」に限らず、単位時間当たりの仕事量と比較して、自らの給料が「高い」と思うのか、「安い」と思うのかということと密接な関係にあり、前者なら「反対」、後者なら「賛成」という単純な図式になるのだろう。

 企業に雇用されていないフリーランスなどは、必然的に「裁量労働制」を採用していることになる。しかし、企業に雇用されている場合は、そうはいかない。
 例えば、デザイナーやプログラマーを例に挙げると、8時間分の仕事を4時間でできる能力を持っていたとしても、企業に属している限り、時間に縛られることになる。4時間で仕事が終わっても、8時間分の給料を貰うためには、残りの4時間も仕事をしなければならなくなる。ここで重要なことは、“仕事の有無”に拘らず仕事をしなけれないけないということである。

 そこで、「その残りの4時間は自由にしてもよいですよ」というのが、「裁量労働制」の基本理念だと言える。企業に属していながら、フリーランスのような働き方ができるので、無駄な労働時間が無くなり労働生産性は飛躍的にアップする。

■「裁量労働制」で「得をする人」と「損をする人」

 しかし、8時間分の仕事ができないデザイナーやプログラマーの場合は、「裁量労働制」などを導入されると、逆に今まで以上に働かなければならないということに成りかねない。そうはならなくとも、仕事の早い人がさっさと仕事をこなして自由を満喫しているのを横目に、嫉妬を抱えて悶々と仕事をするのは精神衛生上もよろしくない。
 ちょうど、小学生時代の給食を食べるのが「速い生徒」と「遅い生徒」のようなもので、食べるのが速い生徒は、食べるのが遅い生徒が食べ終わるのを待たなければいけないという具合に…。

 …というような理由から、仕事の早い人には、犠牲になってもらう(自由な時間を犠牲にするという意味)のは仕方がないというのが、日本的経営(共産主義的経営)の負の側面でもあるので、「裁量労働制」はなかなか根付きそうにない。
 「水」と「油」の関係のように、本来、能率給である「裁量労働制」は、時間給である「日本的経営」と分離して浮かぶものであるはずだが、それを掻き混ぜることによって帳尻を合わしている。

 「労働時間」を絶対とするのは、マルクス(リベラル)思想の影響かもしれないが、そうした方が得だという人がそれだけ多いということを意味している。
 「8時間労働」に縛られて「得をする人」と「損をする人」がいる。この部分をクリアしない限り、残念ながら日本での「裁量労働制」の導入は難しいのかもしれない。

【追記】2018.3.4
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>筆者は、「フリーランスは裁量労働制」などと言っており、裁量労働制の意味が理解できていないのだろう。
裁量労働制とは、「企業(実際には上司)と労働者がノルマ・目標を定めて合意し、それを達成できていれば達成にかかる労働時間は問わない勤務評価制度」のことだ。

  言葉足らずだったのかもしれませんが、ノルマを達成した後の“残った時間”の過ごし方がフリーランスのようなものだと言っているのです。

>自由人さんは『問題になっている日本企業の「労働生産性」を向上させるためには、かなり有効な手段だとも思えるのだが』と書いてますが、需要を抑制したのでは、生産効率は向上しても生産性(付加価値生産性)は向上しないわけですね。

 あなたの言っていることは、ある条件下でマクロ的に観れば正しいのかもしれませんが、仕事における“個人の能力”というものが全く考慮されていないように感じられます。人一倍、真面目に仕事をしている人間が正しく評価されなくても、全体(マクロ)における総需要が増加すればそれでよいという発想は、実現不可能な理想論と思えます。仕事をしていようが、遊んでいようが、トータルでプラスになればそれでいいというのでは、人間個人の労働には意味が無いという国家社会主義になります。

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