« 北朝鮮の歩み寄りに見る「戦争と平和」 | トップページ | BOOK『リベラルの毒に侵された日米の憂鬱』を読んで。 »

国民不在の「森友狂騒曲」の愚

■「国民・国益・国難」無視の「森友狂騒曲」

 まさか、この期に及んで「森友学園問題」が蒸し返すことになるとは思ってもいなかったが、またぞろ「内閣支持率」がどうのこうの…というような話が飛び交い、いつか観たような光景が再び、眼前に繰り広げられている。
 この現代日本に出現している国民無視・国益無視・国難無視の政治的茶番光景を未来からの視点で観れば、まさに「森友狂騒曲」と呼ぶに相応しい出来事なのだろうと思う。

 しかし、たかだか地方の学園創設の土地売却問題だけで、何故にこれほどまでの大疑獄事件であるかのように扱われなければいけないのだろうか? 事件の真相よりも、その謎の方が興味深い。

 重箱の隅を突き、出てきた問題を針小棒大に報じ、大山鳴動して鼠一匹にしか成り得ないような小さな事件が、まるで途方も無い巨大な事件であるかのような錯覚を生じさせる。こういった負の煽動メカニズムは、いつの時代でも禍いとなって人々を苦しめてきた。中世の「魔女狩り」がその良い例でもある。

■安倍総理の「口は禍いの元」

 以前にも、「安倍総理が口にしたことは不思議と実現する」というようなことを書いたことがあるが、昔から「口は禍いの門」とも「口は禍いの元」とも言われる。良い言葉を発して実現するなら良いのだが、悪い言葉を発して実現してしまえば元も子もなくなってしまう。

 森友問題が騒がれた当初、安倍総理の口から出た言葉が“禍いの元”になってしまったということは、当の安倍総理自身も「迂闊だった…」と後悔されているのかもしれない。

>「…私や妻が関係していたということになれば、まさにこれはもう私は、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員も辞めるということははっきりと申し上げておきたい。全く関係ないということは申し上げておきたいと思います。

 この言葉は、全く事実無根であるという絶対的な自信から発せられた言葉だと思われるが、「総理大臣も国会議員も辞める」というマイナスな言葉は含めるべきではなかったとも思う。

 では、どう言うべきだったのかというと、

 「私も妻もこの事件には全く関係がないということは申し上げておきます。それはもう間違いない事実ですので、総理大臣も国会議員も辞めるつもりがないことをはっきりと申し上げておきたいと思います。

 既に結果論だが、「総理大臣も国会議員も辞めるつもりがない」というプラスな言葉を使うべきだった。

■目を向けるべきは「スキャンダル問題」ではなく「政策問題」

 森友問題に限った話ではないが、現代の日本人は、あまりにも政治家に清廉潔白さを求め過ぎているきらいがあるように思う。
 政治家というのは、正しい政治を行えば、何兆円単位の国富が増加することになるが、間違った政治を行えば、逆に何兆円もの国富を失うことになる。本来、有権者である国民が政治家に対して目を向けるべきは、そういった大きな政策問題の是非であり、小さなスキャンダル問題の有無ではないはずだ。

 国民の生活に直結した政策の是非を争うことで政権の奪い合いをするのなら理解できるのだが、国民の生活と全く関係のないようなスキャンダルや、言葉遣い等で政治の良し悪しが決定されるような社会は、どう考えても間違っており、理想的な政治とは程遠いと言わざるを得ない。

 まともな政策論争ができずに、週刊誌報道と同レベルでのスキャンダル論争しかできない政治家こそ、有権者からそっぽを向かれて然るべき存在だとも言える。なぜそんな当たり前のことが分からないのだろうか?

 要は、国民の生活と直接的に関係する問題と、関係しない問題とに分けて考える必要があるということ。関係しない問題に対して、どれだけ騒いでも、国民の生活は良くならないどころか、余計に悪くなる可能性の方が高い。

 では、「森友問題」はどちらの問題に該当するのか? 答えは言うまでもない。
----------------------------------------------------------------------

にほんブログ村 経済ブログ 日本経済へ

【スポンサーリンク】

|

« 北朝鮮の歩み寄りに見る「戦争と平和」 | トップページ | BOOK『リベラルの毒に侵された日米の憂鬱』を読んで。 »

「経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

まだ確定した訳ではありませんが...
司法・立法・行政の三権分立が脅かされている可能性。
公文書が信用できないものにされている可能性。
これらが決して大した事ではないと?

投稿: tetsu | 2018年3月19日 (月) 19時03分

本問題は「たかが」と言える問題ではなくなったと思います。
国民無視の騒動ではなく、国民が無視していないからこそ狂騒曲となったと云うべきでしょう。
また公文書の改ざんがまかり通るようになることは国益にもならないでしょう。
国難を憂えるのであれば、なおさら、国難の種を撒いたものを批判し追求する態度が求められると思います。
騒動により山積する問題への対応が遅れることを懸念されての記事だとは存じますが、諸々の改ざんが常態化した社会への危機感も理解してほしいと思うところです。
また、「もっと重要な問題がある論法」こそが、本件のような腐敗を誘発する苗床となっているのではないでしょうか。

投稿: 自隷人 | 2018年3月19日 (月) 19時25分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/199859/66509424

この記事へのトラックバック一覧です: 国民不在の「森友狂騒曲」の愚:

« 北朝鮮の歩み寄りに見る「戦争と平和」 | トップページ | BOOK『リベラルの毒に侵された日米の憂鬱』を読んで。 »