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「LGBTの生産性発言」の真意を考える

■「個性」が「優劣」に変わる時に差別が生まれる

 自民党の杉田水脈氏の「LGBTの生産性発言」が物議を醸している。

 杉田氏の言うところの「LGBTのカップルのための税金」というのは、はたして、どんな税金を意味しているのかは不明だが、今回は、LGBTと差別について、少し考えてみたい。

 周知のように「LGBT」というのは、(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー)のことで、先の3つを翻訳すると(女性同性愛者・男性同性愛者・両性愛者)ということになる。トランスジェンダーは、性同一性障害者と訳す向きもあるが、実際は障害者ではない。総じて、見た目は普通の一般人と変わらないが、一般の人々とは少し違う性質を持った人々、つまり、性的少数者(マイノリティ)のことだと思えばいい。

 ゆえに、「LGBT者」と「非LGBT者」に分けることは別に差別ではない。男であることと女であることの違いが差別でないなら、「LGBT者」と「非LGBT者」を分けることも差別ではない。
 もし、「LGBT者」と「非LGBT者」を分けることが差別だと言うのであれば、その人物こそが差別をしている者だという証拠である。“マイノリティだから差別されている”という思い込みがあるのなら、その思い込みこそが差別だからである。

 先入観を持たない素直な目で見た時に、人間の個体差は「個性」の違いに過ぎないが、その「個性」の違いに優劣を付けようとする思考が生じた時点で差別が生まれる。
 差別というものは、個人の思い込みから派生するものであり、これが差別ですというような明確な基準はなく、あくまでも個人の人為的な感情によって作られた代物に過ぎない。

 考えるに、リベラル左翼(自分勝手な左翼の意)の言うところの「差別」というのは、差別的なことを口に出すか出さないかの違いがあるだけで、心の内面には差別心が有っても構わないということになってしまう。
 差別的な発言を行った人は差別主義者で、差別的なことを思っているだけの人は差別主義者ではないと言うのであれば、それは偽善と言うしかない。

■心の中にある「差別感情」こそが問題

 例えば、あなたの目の前に、男性と女性がいたとして、子供を産めない男性は生産性が無く、子供を産める女性は生産性が高いなどとは思わないだろう。しかしながら、それは厳然たる事実である。実際に男性は子供が産めない。しかし、だからといって、そんなことを差別だと言う人はいない。なぜいないのかと言えば、そこに差別心が介在していないからだ。男性は子供が産めない、しかし女性は子供が産める。それは誰もが認めている男女の肉体的違い(=区別)であるので、差別とは無縁なのである。

 「LGBT」もこれと同じで、男女間では子供が作れるが、同性愛者間では基本的に子供は作れない。そのことを差別心なく当たり前の違いだと素直に受け入れることができる人であれば、差別にはならない。それを差別だと思うのは、その人物の心の中に「LGBT」に対する差別感情が存在するからに他ならない。

 杉田氏は著書『なぜ私は左翼と戦うのか』で、こう述べられている。

>男性に子どもが産めるのでしょうか。赤ちゃんに授乳ができるのでしょうか。これらは絶対に不可能です。こうした性差による役割分担は神様がおつくりになったもので、人間にそれを否定することはできません。

 何年か前に「女は子どもを産む機械」発言が問題になったことがあったが、物は言いようで、女性自身が女性の役割として言えば、常識的な意見と受け取られる。

 おそらく杉田氏の言っている「生産性」も、ごく当たり前の常識的な話をしているつもりだったのだろうと思う。
 先述した通り、男女間では子供が作れるが、同性愛者間では基本的に子供は作れない。その当たり前のことを認識した上での発言だったのだろう。
 子供を作れないLGBTのカップルに税金を使う必要はないという意味ではなくて(実際に税金は分け隔てなく使われている)、必要性があると思えないことに税金を使用することは納税者の理解を得られないという意味だったのだろう。

 人間の個体の違いを認めることは差別ではない。その違いに優劣を付けることが差別なのだ。「LGBTは差別されている」という思いこそが差別の出発点なのである。


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「命にかかわる危険な…」という言葉

■「命にかかわる危険な暑さ」の違和感

 少し前に「命にかかわる危険な大雨」という言葉をテレビのニュースで何度も聞いた覚えがあるが、現在は、「命にかかわる危険な暑さ」という言葉を毎日のように耳にするようになった。そのどちらも気象庁から発表された警告(注意報)なわけだが、どこか違和感を感じてしまう。

 「命にかかわる危険な大雨

 「命にかかわる危険な暑さ

 「命にかかわる危険な大雨」というのは、庶民には、大雨によってどの程度の水害が起こるか分からないので、その危険性を事前に告げ知らすという意味では必要なことであったのだろうと思う。実際に、その告知によって避難して助かった人もいたことだろう。

 しかし、「命にかかわる危険な暑さ」というのは、誰でも肉体感覚として分かるわけで、体温以上に高い気温下では、健康上、問題が発生する危険性があることは体感として自分自身で判断できる。あまりにも暑い場合は、クーラー(冷房)をつける。それは、誰かに言われるまでもなく、誰もが自分の意思で行う行為でもある。テレビで「クーラーをつけてください」と言っているのでクーラーをつけたというような人は、まずいないと思う。もっとも、幼児や高齢の老人なら、自分で暑さが判断できないということはあるかもしれないが。

■警告が必要なのはエアコンが無い所

 昔は、一家に1台しかエアコンが無い家が多かったが、現在では随分と安価になったので、各部屋ごとにエアコンが設置されているのが普通になった。
 それとて、「エアコンを各部屋に取り付けてください」と言われて設置したわけではなくて、暑くて生活に支障をきたすので自分の判断で設置している。「暑くて眠れないのでクーラーが必要だ」「クーラーをつければ勉強も捗るので便利だ」「クーラーの無い生活なんて考えられない」、そういった考えは誰もが個人的に抱くわけであり、誰かに忠告されたからエアコンを取り付けたわけではない。
 誰も彼も、熱中症になる危険性があるからクーラーをつけるのではなく、暑いからつけている。当然、その行為は熱中症予防にも寄与している。

 「命にかかわる危険な暑さ」でエアコンが必要なのであれば、注意するべきは、エアコンの設置された家庭ではなく、エアコンが無い所だろう。
 つまり、必要なのは、「エアコンをつけてください」ではなく、「エアコンを取り付けてください」ということになる。

 例えば、随分前から問題視されている公立の小中学校などに対してこう言うべきだ。

 「命にかかわる危険な暑さなのでエアコンを設置してください

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NHKネット同時配信の「妥当性」

■NHK視聴者の6分類

 少し前から話題になっていたNHKのネット同時配信を総務省が容認したということでネット上では大きな騒ぎになっている。総務省の見解は「一定の合理性、妥当性を認める」というもので、「受信料の体系を見直す」という条件付きで容認することが決定したらしい。
 より詳しく書けば、「国民・視聴者の理解が得られることを前提に、一定の合理性、妥当性がある」とのことらしいが、この場合の「国民・視聴者の理解」とは何を意味しているのだろうか?

 NHKにおける「国民・視聴者」というものは、実は多岐にわたっており、単純に考えられるだけでも、以下の6つのグループに分けられる。

A、受信料を支払い、NHK番組を好んで観ている人
B、受信料を支払い、NHK番組をあまり観ていない人
C、受信料を支払い、NHK番組を観ていない人
D、受信料を支払わず、NHK番組を好んで観ている人
E、受信料を支払わず、NHK番組をあまり観ていない人
F、受信料を支払わず、NHK番組を観ていない人

 「一定の合理性」というのは、基本的には上記の「」だけが享受できるものであり、割合的にどれだけいるのかは不明だ。
 私の場合、「」と「」の間に該当する(NHK番組は滅多に観ない)ので、ネット同時配信を行われても、特に何のメリットも感じられない。受信料が値下げされるならメリットと成り得るかもしれないが、これまでのことを鑑みれば、そこまで大きな値下げは期待できそうもない。

■「合理性」を追求する公共放送

 NHKの番組が、受信料を支払わなくても観れる人がいるのは、「公共放送」という大義名分が有るからだと言える。受信料を支払える人が、受信料を支払えない人の分まで支払うことで、無料で公共放送を観れる人がいる。それがNHKが謳っている「公共の福祉」というものだろう。
 そう考えると、NHKの受信料は一種の累進課税的な税金のようなものだと言えるのかもしれない。

 しかし、もしそうであるなら、なぜスマホで観るような高機能性が必要なのか?という疑問が生じる。受信料を支払えないような人がなぜ高価なスマホを持っているのか?という疑問が生じてしまう。

 公共放送が「合理性」の追求を行うことで「利便性」を感じられる視聴者とは誰のことを意味しているのだろうか? それは、受信料を支払っている人だろうか? それとも支払っていない人だろうか?
 どちらかと言えば、受信料を支払えない人のために存在していると言える公共放送が求めるべき合理性とは、如何なるものであるべきなのか? その辺の公共放送の本来の目的が曖昧に成り過ぎているような気がする。

■NHKの受信料が値上げに向かう可能性

 現代は、ネットでの定額動画配信サービスが注目を集め、NetflixやHulu、U-NEXT、dTV(順不同)など、次々と新しいネット動画配信企業が出現している。NHKもそんな時代の波に乗り遅れまいとネット動画配信に参入しようとしているのかもしれないが、先にあげた企業は全て民間企業だ。民間企業である限り、合理性の追求は必須課題であり、面白くない番組ばかりなら視聴者は愛想を尽かしてしまうし、スマホでも観れず、料金的にも割りに合わなければ、すぐに退会されてしまう。そんな厳しい環境下であれば、合理性の追求はやむを得ない。

 ところが、NHKの場合、合理性を追求せずとも、受信料を徴収できるシステムになっている。番組に魅力が無かろうが、料金が高かろうが、簡単には退会できないシステムの上に成り立っている公共放送が合理性を追求すれば、多くの識者が述べている通り、民業圧迫を招いてしまう。これは、図書館が必要以上に乱立すれば、民業圧迫になることと同じ理屈でもある。

 しかし、よくよく考えてみると、NHKがネット同時配信を行うことで、回収できる受信料収入は増加するのだろうか? そうなるためには、「ネット配信で便利になったので受信料を支払おう」という新規視聴者が増加しなければならないが、元々、全ての家庭から受信料を徴収していることになっているわけだから、今まで支払っていなかった人から徴収しない限り、受信料収入が増加することはない。となると、インターネット環境が有るだけで受信料を支払わなければならないということになるのだろう。もし、それでも支払わないという人がいれば、巨額の設備投資資金を回収するために、既存視聴者の受信料が値上げということになってしまうかもしれない。

 「合理性」を追求するのはよいとしても、その結果、受信料が値上げになるようなら「妥当性がある」とは言えない。
 視聴者から「NHKもネット配信するべき」という多くの要望があるということなら、値上げされても仕方がないかもしれないが、視聴者の意見を無視してのネット配信による値上げであるなら、妥当性以前の問題だと言える。
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オウム死刑執行「目には目を、歯には歯を、死には死を」

■23年後の青天の霹靂

 「地下鉄サリン事件」が発生したのは1995年のことだった。その後、2006年には松本智津夫被告の死刑判決が確定していたが、事件から四半世紀が経過しようとしていた現在になって、ようやく死刑が執行された。しかし、あまりにも突然の出来事だったせいか、驚きを隠せない人が多く、案の定、「オウムの罪」よりも「死刑の是非」を語る人も出てきたようだ。

 ハンムラビ法典に書かれた「目には目を、歯には歯を」という言葉は有名だが、その言葉に倣い「死には死を」というのが死刑というものの本質を表している。「死刑」という言葉には、「無実の人間を殺した者は己の死をもって償わなければならない」という意味が込められている。

 国家転覆を目的とした無差別テロを実行し、13名の死亡者を出した極左グループの死刑判決者が12人というのは、「死には死を」という言葉にピッタリと符号するが、死者以外にも数千人もの重軽傷者を出した罪を合算すれば、現行法では死刑は避けられないと言える。

 これだけの罪を犯しても死刑にならないということであれば、殺人者は死亡するまで一生、刑務所で生活することになる。
 ちなみに、戦時中、過激な共産主義者が刑務所に入っていたのは、戦争に行きたくない(死にたくない)からという裏事情もあったらしい。当時は、刑務所の中が1番、安全だったというわけだ。

■「死刑制度」と「共産主義」との関係性

 死刑廃止論者の言い分は、冤罪の可能性があった場合、取り返しのつかないことになるというものだが、場合によっては、それは確かにその通りだと思う。「十人の真犯人を逃がすとも一人の無辜(むこ)を罰するなかれ」という言葉もある通り、無実の人間を罰することほど罪深いものはない。
 しかしながら、このオウム事件に限って言えば、冤罪の可能性は0と言っていい。罪の深さや浅さを測り間違うことは有り得ても、大量無差別殺人を行ったという罪の重さが軽くなるわけではない。

 今回、死刑が執行された7人の中には、自らの犯した罪を後悔していた人もいるかもしれない。自らの犯した罪の重さに気付き、死刑になるのは当然だと思っていた人もいるかもしれない。
 オウム真理教の実体は真理を追求する宗教団体と言うよりも、破壊願望を内に秘めた極左テログループだったと言えるが、敢えて宗教的に言うなら、人間の為した罪というものは、本来、死後に清算されるという考えがある。キリスト教であれ仏教であれ皆そうなっている。そう考えると、現世における死刑制度というものは、“生前に罪を清算しなければならない”という考えであるとも言える。

 中国や北朝鮮、キューバ、ベトナムなど、共産主義と縁が深い唯物論国家には必ず死刑制度が残っているが、日本もある意味、共産主義と縁が深い国なので、死刑制度が無くならないのかもしれない。

【追記】2018.7.08
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>ハムラビの掟の本来の意味は、過剰な復習を禁止していることに本来の意味があります。

 本記事を書く前に一応、調べましたので、知っています。しかし、「復讐」ということには違いはありません。

>近代化とは合理性を進歩の基礎に置く社会のことだから、死刑に合理性がないことを理由に死刑制度を廃止するには社会の成熟が必要になる。

 「死刑制度は前近代的」ということを回りくどい言い方をすればそうなるのかもしれませんが、社会の成熟が進めば死刑制度が無くなるのでしょうか? 「社会の成熟」と「死刑制度」に因果関係が有るとは思えません。あなたの言うところの、死刑に合理性が有るか無いかを判断する社会の成熟とは具体的に何を意味しているのでしょうか?

>ハンムラビ法典の間違った解釈というか切り取りで、そうした復讐をしてはいけないという意味なので誤解なきよう。
だって、刈谷さんや坂本弁護士、松本、地下鉄両サリン事件といった沢山の犯罪を行い死者すら出していて、それを是としていた集団の報いが、本人の死のみで償えるはずはありません。

 先にも少し触れましたが、「目には歯を」とか「歯には命を」とか、釣り合いの取れない復讐を禁止しているのがハムラビ法典というだけで、「死には死を」というのが間違っているわけではないでしょう。
 「本人の死のみで償えるはずがない」というのはその通りで、死刑になったからといって償える罪などはありません。罪を裁くべき本人の良心が、無実の人間を殺したことで自分が死ねば罪を許せるのか?と言うと、そんなことは有り得ませんから。課された懲役に服せば、罪は無くなるのか?というと無くなるはずがありません。法的に罪が無くなるだけのことです。

>これは、犯罪を犯す側の持っているパワーの違いもあるので、死刑をなくしても成立しうる土壌が海外、西洋国家ではあるということ。
だから、日本ではよほど公平に裁判にどんな犯罪者でもかけられているし、海外では、安易にそうした犯罪者を殺したり、自死させている。

 ということは、西洋は近代的ではないということになりますね。「海外」には、死刑制度があっても、無慈悲に犯罪者でもない人を殺したり、自死させている国が日本の近隣にありますが。

>つまり死刑に反対するのは「どんな素養の人物であろうとも、社会規範が守れる様に更生させられる」と信じる人だと言うことになるし、死刑を受容する人は「個人の素養としてどんなに努力しても更生させられない人がいる」ということでしかない。

 「個人の素養としてどんなに努力しても更生させられない人がいる」だけなら、わざわざ死刑にしなくても、終身刑でよいと思いますが。
 「人を殺せば死刑になる」という厳しい厳罰を定めておかないと殺人を防止することができないということは、社会が未成熟なのではなく、個人の精神性が低いということです。宗教・倫理性が低いと言ってもよいかもしれませんが、その精神性の低さこそが、死刑制度の存続を余儀無くされる理由でもあります。人間の精神性を認めない共産主義国家は、精神性が低いからこそ、死刑制度を無くすことができない。本記事で書いたことは、そういうことです。

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理想的な「同一労働同一賃金」とは?

■目標が曖昧模糊な「同一労働同一賃金」

 6月29日に政府肝いりの「働き方改革法」が成立した。
 この法案の中身については、賛成できるものもあれば、反対したくなるものもあり、一概に評価し難いものがあるが、結果的には「改善」だけではなく「改悪」となる部分もありそうだ。

 政府は、これまでにも『ハッピーマンデー』や『プレミアムフライデー』など、世間一般の民間企業の労働環境を無視したかのような浮世離れした制度を実施してきた経緯があるので、『働き方改革』についても今後の成り行きを注意深く観察する必要がある。

【関連記事】
 形骸化している『ハッピーマンデー制度』

 「プレミアムフライデー」よりも「バリューサースデー」

 「働き方改革」において最も注目すべきは、やはり「同一労働同一賃金」の実現だろうか。その実現の成否はともかくとして、政府は「正社員と非正規労働者の不合理な待遇差を無くす」ことを目的としている。しかし、具体的にどうするのかは未だ判らず、曖昧な目標を掲げている状態だ。

■見落としがちな「会社への貢献度」

 以前のブログ記事で、「正社員と非正規労働者の給料の額面を同じにしても同一労働同一賃金にならない」と書いたことがある。正社員限定の各種の福利厚生を無視して、給料だけを同額にしてもトータル的には同一労働同一賃金にはならないと書いた。

【関連記事】
 「同一労働同一賃金」という言葉を都合よく利用する人々

 しかしながら、「会社への貢献度」における給料の違いというものも考える必要があると思う。こう書くと「年功序列制度」と混同してしまうかもしれないが、「年功序列制度」というのは、会社に勤めているだけで誰でも自動的に給料が上がっていくというシステムなので異なる。
 「会社への貢献度」というのは、貢献した度合いによって、評価が違ってくる制度のことを意味する。無論、正社員であっても非正規労働者であっても変わらない。

 例えば、長年、勤続して、時には会社の経営危機を救ったような人物と、今年入社したばかりの人物が、表面上、全く同じ仕事をしているからといって、給料が全く同じでは「会社への貢献度」というものが全く考慮されていないことになってしまう。
 ただ会社に勤めているだけで年々、給料が自動的に上がっていくという「年功序列制度」は歪な制度だが、「会社への貢献度」を無視した同一労働同一賃金もまた歪な制度だと言える。

 同じ仕事をしている労働者を次のような4つのグループに分けてみよう。

 A、仕事がよくできて、会社への貢献度も高い人
 B、仕事はできるが、会社への貢献度は低い人
 C、仕事はあまりできないが、会社への貢献度は高い人
 D、仕事はできず、会社への貢献度も低い人

 こういったA〜Dの労働者がいるとすれば、それぞれ給料が違って然るべきだと思う。しかし、Aに属する人同士は同じ給料、Dに属する人同士は同じ給料とするのが、本当の意味での「同一労働同一賃金」だと言える。「同一労働同一賃金」というものは、マクロ的(グループ的)には同じでも、ミクロ的(個別的)には違うのである。

■「同一労働同一賃金」の要諦は「公平」

 会社への貢献度の高低は評価が非常に難しいかもしれないが、「同一労働同一賃金」は「平等」ではなく「公平」に根ざした制度でなければ意味がない。年功序列は「平等」を意味するが、会社への貢献度は「公平」を意味している。
 「同一労働同一賃金」とは、どんな労働者でも賃金は一律平等にしなければならないという意味ではなくて、個別の労働力と貢献度の度合いによって賃金を公平にする(=不平等にする)ことを意味する。

 労働の質と量、会社への貢献度の度合いによって給料の差異を設けるが、同じ労働と貢献をしている人間には差異を設けないという公平な制度こそが理想的な「同一労働同一賃金」だと言える。

 「同一労働同一賃金」も、共産主義的な悪平等な制度に堕すれば、労働者は皆、やる気を失い、失敗するということを肝に命じなければならない。
 「働き方改革」の要諦は、「悪平等」な制度を「公平」な制度に変えていくことにある。目指すべき「公平」が、いつの間にか「平等」に掏り替わらないように注視しなければならない。

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