« 理想的な「同一労働同一賃金」とは? | トップページ | NHKネット同時配信の「妥当性」 »

オウム死刑執行「目には目を、歯には歯を、死には死を」

■23年後の青天の霹靂

 「地下鉄サリン事件」が発生したのは1995年のことだった。その後、2006年には松本智津夫被告の死刑判決が確定していたが、事件から四半世紀が経過しようとしていた現在になって、ようやく死刑が執行された。しかし、あまりにも突然の出来事だったせいか、驚きを隠せない人が多く、案の定、「オウムの罪」よりも「死刑の是非」を語る人も出てきたようだ。

 ハンムラビ法典に書かれた「目には目を、歯には歯を」という言葉は有名だが、その言葉に倣い「死には死を」というのが死刑というものの本質を表している。「死刑」という言葉には、「無実の人間を殺した者は己の死をもって償わなければならない」という意味が込められている。

 国家転覆を目的とした無差別テロを実行し、13名の死亡者を出した極左グループの死刑判決者が12人というのは、「死には死を」という言葉にピッタリと符号するが、死者以外にも数千人もの重軽傷者を出した罪を合算すれば、現行法では死刑は避けられないと言える。

 これだけの罪を犯しても死刑にならないということであれば、殺人者は死亡するまで一生、刑務所で生活することになる。
 ちなみに、戦時中、過激な共産主義者が刑務所に入っていたのは、戦争に行きたくない(死にたくない)からという裏事情もあったらしい。当時は、刑務所の中が1番、安全だったというわけだ。

■「死刑制度」と「共産主義」との関係性

 死刑廃止論者の言い分は、冤罪の可能性があった場合、取り返しのつかないことになるというものだが、場合によっては、それは確かにその通りだと思う。「十人の真犯人を逃がすとも一人の無辜(むこ)を罰するなかれ」という言葉もある通り、無実の人間を罰することほど罪深いものはない。
 しかしながら、このオウム事件に限って言えば、冤罪の可能性は0と言っていい。罪の深さや浅さを測り間違うことは有り得ても、大量無差別殺人を行ったという罪の重さが軽くなるわけではない。

 今回、死刑が執行された7人の中には、自らの犯した罪を後悔していた人もいるかもしれない。自らの犯した罪の重さに気付き、死刑になるのは当然だと思っていた人もいるかもしれない。
 オウム真理教の実体は真理を追求する宗教団体と言うよりも、破壊願望を内に秘めた極左テログループだったと言えるが、敢えて宗教的に言うなら、人間の為した罪というものは、本来、死後に清算されるという考えがある。キリスト教であれ仏教であれ皆そうなっている。そう考えると、現世における死刑制度というものは、“生前に罪を清算しなければならない”という考えであるとも言える。

 中国や北朝鮮、キューバ、ベトナムなど、共産主義と縁が深い唯物論国家には必ず死刑制度が残っているが、日本もある意味、共産主義と縁が深い国なので、死刑制度が無くならないのかもしれない。

【追記】2018.7.08
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>ハムラビの掟の本来の意味は、過剰な復習を禁止していることに本来の意味があります。

 本記事を書く前に一応、調べましたので、知っています。しかし、「復讐」ということには違いはありません。

>近代化とは合理性を進歩の基礎に置く社会のことだから、死刑に合理性がないことを理由に死刑制度を廃止するには社会の成熟が必要になる。

 「死刑制度は前近代的」ということを回りくどい言い方をすればそうなるのかもしれませんが、社会の成熟が進めば死刑制度が無くなるのでしょうか? 「社会の成熟」と「死刑制度」に因果関係が有るとは思えません。あなたの言うところの、死刑に合理性が有るか無いかを判断する社会の成熟とは具体的に何を意味しているのでしょうか?

>ハンムラビ法典の間違った解釈というか切り取りで、そうした復讐をしてはいけないという意味なので誤解なきよう。
だって、刈谷さんや坂本弁護士、松本、地下鉄両サリン事件といった沢山の犯罪を行い死者すら出していて、それを是としていた集団の報いが、本人の死のみで償えるはずはありません。

 先にも少し触れましたが、「目には歯を」とか「歯には命を」とか、釣り合いの取れない復讐を禁止しているのがハムラビ法典というだけで、「死には死を」というのが間違っているわけではないでしょう。
 「本人の死のみで償えるはずがない」というのはその通りで、死刑になったからといって償える罪などはありません。罪を裁くべき本人の良心が、無実の人間を殺したことで自分が死ねば罪を許せるのか?と言うと、そんなことは有り得ませんから。課された懲役に服せば、罪は無くなるのか?というと無くなるはずがありません。法的に罪が無くなるだけのことです。

>これは、犯罪を犯す側の持っているパワーの違いもあるので、死刑をなくしても成立しうる土壌が海外、西洋国家ではあるということ。
だから、日本ではよほど公平に裁判にどんな犯罪者でもかけられているし、海外では、安易にそうした犯罪者を殺したり、自死させている。

 ということは、西洋は近代的ではないということになりますね。「海外」には、死刑制度があっても、無慈悲に犯罪者でもない人を殺したり、自死させている国が日本の近隣にありますが。

>つまり死刑に反対するのは「どんな素養の人物であろうとも、社会規範が守れる様に更生させられる」と信じる人だと言うことになるし、死刑を受容する人は「個人の素養としてどんなに努力しても更生させられない人がいる」ということでしかない。

 「個人の素養としてどんなに努力しても更生させられない人がいる」だけなら、わざわざ死刑にしなくても、終身刑でよいと思いますが。
 「人を殺せば死刑になる」という厳しい厳罰を定めておかないと殺人を防止することができないということは、社会が未成熟なのではなく、個人の精神性が低いということです。宗教・倫理性が低いと言ってもよいかもしれませんが、その精神性の低さこそが、死刑制度の存続を余儀無くされる理由でもあります。人間の精神性を認めない共産主義国家は、精神性が低いからこそ、死刑制度を無くすことができない。本記事で書いたことは、そういうことです。

----------------------------------------------------------------------

にほんブログ村 経済ブログ 日本経済へ

【スポンサーリンク】

|

« 理想的な「同一労働同一賃金」とは? | トップページ | NHKネット同時配信の「妥当性」 »

社会問題」カテゴリの記事

コメント

追記しました。

投稿: 管理人 | 2018年7月 8日 (日) 18時56分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/199859/66911078

この記事へのトラックバック一覧です: オウム死刑執行「目には目を、歯には歯を、死には死を」:

« 理想的な「同一労働同一賃金」とは? | トップページ | NHKネット同時配信の「妥当性」 »