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「新潮45」休刊が意味するもの

■「タブー視」が齎す予期せぬ事態

 件のLGBT発言問題により「新潮45」が休刊する運びとなり騒がれている。しかし、これを知って喜んだ人がどれだけいるのだろうか? 果たして、この判断を知った当のLGBT者達は一様に万歳三唱と喜んだのだろうか?

 今回の「新潮45」の休刊が出版界に齎すものは、間違いなく新たな「タブー」の誕生である。
 今後、「LGBT」という言葉は出版界でタブー視されることになり、人々は必然的にその存在を特別視するようになっていくだろう。本来、世間に特別視されないようにすることがLGBT者達の真の願いであったにも拘らず、特別視されることを余儀無くされるという皮肉な結果を招いてしまうことになる。

 「タブー」というのは「特別視」するという意味であり、言うまでもなく「差別」と同義語のようなものである。「特別視」は「差別視」を意味することになってしまうが、本当にそれで良いのだろうか?

 「タブー視」=「特別視」=「差別視

■「臭い物(新潮45)に蓋をした」悲劇

 世間一般の経験則として言うなら、こういったデリケートな問題は、よりオープンにして、どんどんと意見を交わすことによって世間の人々に認知されていくものではなかったのだろうか?
 他人と少し違う自らの特徴を隠すのではなく、逆にオープンにすることで、自らの特徴が個性として認知されていくものではなかったのだろうか?
 隠さなければならないと思っていることを、隠さなくてもよいと思える社会にすることこそが、LGBT者達の真の理想ではなかったのだろうか?

 この度の「新潮45」の休刊が「事勿れ(忖度)休刊」だったにせよ、「言論封殺」だったにせよ、失ったものは殊の外大きい。雑誌はタイトルを変えて復刊できても、タブー視は、そう簡単には無くならない。

 長い間、タブー視というものが続けば、「LGBT」という言葉自体を発することが「差別」と認定されることにも繋がりかねない。
 昨今のSNS社会における厳しい検閲の差別キーワードに「LGBT」という言葉まで追加されると、その「LGBT」という言葉だけでなく、「LGBT者」そのものまでが存在しないという扱いになってしまいかねない。

 「臭い物(新潮45)に蓋をした」結果が、「LGBT」の更なるマイノリティ化では誰も救われない。本当にそれで良いのだろうか?


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『大人の道徳』を読んで。

■「道徳の時間」は「道徳科」になった

 先日、書店に行きウロウロと物色していると、ある言葉が視界に入り足を止めた。その言葉とは、以下のような言葉だった。

 「やりたいことをやりましょう」は〈奴隷〉の道徳です。

 興味を抱き、その本を手に取り、目次をパラパラとめくってみると、次のような衝撃的な言葉が目に入ってきた。

 「徴兵制は左翼の思想

 その他、非常に興味深いキャプションの数々に惹かれ、その本を購入した。
 その本のタイトルは『大人の道徳』(古川雄嗣著)。一見すると、取っ付きにくい地味なタイトルに思われるが、中身は素晴らしく明解で新鮮な思想解説本だったので、一気に読んでしまった。

 本書の各章のタイトルは全て「なぜ…」で始まっており、思想の根源にまで遡った考察が書かれている。普通、このての本は難解というイメージがあるが、本書に限って言えば、非常に平易な言葉で書かれているので、大人だけでなく学生でも、スラスラと読むことができると思う。

 これまでの小学校教育で「道徳」と言えば、「道徳の時間」とされ、教科以外の学問という位置付けだったが、2018年(中学校は2019年)からは道徳も「1教科」として数えられるようになったらしい。
 しかし、現在の学校教員で、「道徳」を何のために教えなければならないのかを解っている人はほとんどいないということで、その参考書として書かれたのが本書であるらしい。
 当初、教員向けに書かれた本を編集者の意向(アドバイス)によって、一般向けに書き直されたそうだが、その甲斐あってか、誰にでも読める面白い本に仕上がっている。

 単に時代的分割と思われている、古代・中世・近代の違いがそれぞれ明確に述べられており、近代哲学の祖であるデカルト、カント、ホッブス、ルソーといった偉人の思想もイラスト入りで解り易く述べられている。

■「自由」とは?

 非常に興味深かったのは「自由」というイデオロギーの考察で、現代の日本では「自分のやりたいことをやること」が自由だと思われているフシがある。しかし、「自分のやりたいことをやること」は「奴隷の自由」だと書かれており、その意味を近代を語る上で欠かすことのできない「理性」という言葉を用いて論理的に説明されている。

 では本当の「自由」とは何なのか? ここでは細かい説明は省かせていただくが、それは「自然法則(本能)の支配から解放されて、自分で自分の行動を決定できるということ」。それが、人間の「自由」だと書かれている。

 古代では、奴隷には政治に参加する権利は無かったが、市民には参加する権利(自由)があった。
 動物は、自分の行動を自分で制御することはできない。空腹時に目の前に御馳走を置かれれば、「食べる」という選択肢しかない。しかし、人間は理性によって、例え空腹であったとしても「食べる」か「食べない」かを選択することができる。
 ゆえに「人間がやりたいことをやること」は、自らを制御できないという意味では、自由ではなく不自由だということになる。それは動物と同様、本能と欲望のままに生きることに他ならない。
 自分のやりたいことに逆らって、やるべきことをやる、それが人間の自由なのだ。

 ゆえに子どもに向かって「自分のやりたいようにやりましょう」「自分の好きなことをやりましょう」というのは、人間の道徳ではなく、奴隷の道徳だということになる。
 「自由」とは、身体の本能的欲求に逆らい、理性の道徳的命令に服従すること、それが近代における本来の人間の「自由」だった。
 実に逆説的だが、なるほどなと納得させられた。

■「人権」とは?

 「人権」という言葉の説明も興味深い。
 日本ではよく「人間が人間らしく生きる権利」とか「誰もが幸せに生きる権利」とか言われるが、本当の「人権」とは、「生命と財産を国家によって保護してもらう権利」「国家の法に反しない限りにおいて、自分がしたいことをする権利」というのが、憲法によって保障される「人権」ということになる。
 そうであるなら、現代の日本で叫ばれる「人権を守れ」はかなりズレていると言える。

 著者も指摘されているが、本書を読むと、日本には市民社会だけがあって、国家が存在しないということが解る。戦後の日本には打倒するべき国家がない状態であることがよく解る。
 そう考えると、国家の打倒を目指した学生運動とは一体何だったのだろうか?という疑問が生じてしまう。

 「私的(プライベート)な世界のなかだけで、自分の利益や快楽だけを追求して生きている人間は「奴隷」であり、そこから解放されて「公的(パブリック)」な世界に出ていくことによって、はじめて人は「市民」になることができた」(原文ママ)

 自らの個人的な欲得やイデオロギーを理性的に捨象し、公的な意味合いとして政治に参加することが市民(大人)の理想的な態度だとすれば、学生運動にのめり込んでいった人々は総じて道徳というものを理解していない子供だったのかもしれない。

 本書には、自民党と立憲民主党の関係について少しだけ触れられている箇所があり、その文章(「不正に目をつぶれ」という言葉)を読む限りでは、どうも著者はモリカケ問題の真相が解っておられないのかな…という感じがした。個人的にその部分だけは納得できなかったが、それ以外は、非常に示唆に富んだ良書だった。もっと注目されて然るべき本だと思うので、是非、多くの人に読んでいただきたいと思う。

【追記】2018.9.24
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>これを「奴隷の自由」とかわけのわからないマイ定義するドアホウは、この時点で詐欺師と言って差し支えない。詐欺師の著書の書評なんて無駄。

 著者や私が言っていることではなく、近代の有名な思想家達が言っていることです。あなたが詐欺師呼ばわりして認めたくなくても、世界中の思想家が認めている常識です。

>人間みんな、いずれは死ぬんだよw 自然法則(本能)の支配から解放されることはあり得ないよ。 不老不死になってからなw

 そこまで行くとプラトンの「自由」の話になります。今回は近代に限った話なので、お門違いです。

>国家が存在しない? 現実と乖離してますね。

 詳しくは本書を読んでくださいとしか言えませんが、主権者としての国家です。と言っても、本書の内容を理解しないと解らないことなので、読んでいない人には説明できませんが。

>一ミリも賛同出来ない本だな・・・・
法に触れない限り自由にやってよろしい!みたいなの正しいと思えないわ。

 別に法に触れなければ悪事を働いても構わないという意味ではありません。

>自由とは、束縛を受けない状況を指す。 義務であれ、常識であれ、身体的な能力であれ、何らかの束縛は常にあるが、束縛が減ることを実感しているとき、人は自由になったと感じる。
奴隷の自由、人間の自由、いずれも洗脳じみたこじつけの論理に過ぎない。

 それは狭義の自由であって、近代契約社会における広義の自由ではないのです。これも著者や私が言っているのではなく、歴史上の偉人達が述べていることです。福沢諭吉や中江兆民等も間接的に同じようなことを述べています。その思想が現代の主流になっているのだから、洗脳などと言われても困ります。

>知生体は肉体という檻に囚われているのだから、真の自由なんてありはしないのだよ

 その通りです。しかしそれもプラトンの言葉ですから、今回の記事とは関係ありません。

>薄っぺらいし、自由という観念をイデオロギーとわざと言い換えて見たり、意図が見え見えでゲロでそうですが。

 意図なんてありません。本書に書かれていた言葉をそのまま書いたまでのことです。嘘だと思うなら本を買って(または立ち読みして)確認してみてください。

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「憲法改正」が難しくなった理由(わけ)

■「衣食住足りて憲法を知る」
 
 「安倍 vs 石破」の自民党総裁選が終わった。同じ自民党内にあって未だにモリカケ問題に言及されている石破氏の姿を観ていると残念な気持ちになったが、結果は誰もが予想していた通りだった。
 これでようやく「憲法改正」に着手していく道順が見えてきたと言える。しかし、その道は舗装されていない障害物だらけの険しい山道であることも否定できない事実だ。

 現代では、憲法を変えることに拒絶反応を示す人々が少なからず存在しているが、昔は今ほどでもなかったと言う人もいる。
 終戦後、生きて(食べて)いくのが精一杯だった頃の日本では、「憲法を変える」と言っても、それほど反対する人はいなかった。「衣食住足りて礼節を知る」という言葉があるが、昔は「衣食住不足で憲法を知らない」という人が大勢いたので、憲法の内容などに興味を抱こうにも抱けなかったという時代だった。そんな時代の庶民にとっては、憲法が有ろうと無かろうと、変わろうが変わるまいが、どうでもよかったのである。

 その後、高度成長期を経て時代は変わり、「衣食住足りて憲法を知る」人々が出てきたが、その後、「衣食住が過ぎて憲法を知らない」という人々も大勢出てきた。

衣食住不足で憲法を知らない
      ↓
衣食住足りて憲法を知る
衣食住が過ぎて憲法を知らない

■最大のネックは「国民の無関心」

 貧しかった昔は、憲法よりも「食べ物」に関心が行き、裕福な現代では、憲法よりも「遊興」に関心が行くという具合だろうか。そんなことだから、憲法問題はいつも国民の最大関心事にはならない。

 衣食住に困らず、尚かつ、知的好奇心(問題意識)を持った人でないと憲法に興味を抱けない。ここに最大にネックがあるとも言える。
 「国民の無関心」というものが、憲法改正における最大のネックになっており、そのネックを利用して、なんとか憲法問題から国民の意識を遠避けようとする勢力も存在している。

 昔なら、その気があれば容易に変えることができたものが、現代では余計な知識が付いたせいで変えることができなくなった。これはつまり、いつの間にか、憲法というものに「既得権益」というものが染み込んでしまったということでもある。

■2つの「アメリカ」

 現在の日本国憲法は、GHQ製であることは広く知られている。しかし、GHQ製であるということの意味はあまり知られていない。

 「GHQ」と聞けば「アメリカ」と思う人が大半だと思うが、「アメリカ」というものは1枚岩ではなく、2つの「アメリカ」がある。
 1950年以前の「アメリカ」と1950年以後の「アメリカ」は全く違う。日本国憲法が制定されたのは1947年なので、1950年以前の「アメリカ」が憲法を作ったということになる。

 では、1950年以前と以後では何が違うのか? その大きな違いを一言で言えば、「容共」と「反共」の違いである。
 戦時中のアメリカは、「容共」であり、ソ連とも親和性があり、アメリカ民主党内部には、ソ連のスパイが大勢存在していた。
 マッカーシズム(赤狩り)を行ったマッカーシー共和党上院議員は、当時、嘘を言っていると批判の的にされたが、ソ連が崩壊した後、公に開示されたソ連の秘密文書によって、マッカーシーの言っていたことはほとんど正しかったということが判明した。

 戦時中の民主党内には、米国の社会主義者とソ連の共産主義者が大勢おり、当然のことながら、GHQの中にも存在していた。その彼らが中心となり作ったものが、現在の日本国憲法だった。
 左翼の人達が(知ってか知らずか)日本国憲法を神聖視する理由の1つは、実はそこにあるのだと思う。

 ついでに言うと、「反米」というものにも2つの反米がある。上述した通り、1950年以前の「反米」と1950年以後の「反米」がある。そのどちらを意味しているかで、「反米」を語る論者の立ち位置が分かるが、その区別がつかずに「反米」を語っている人は、何も解っていないということになる。

■「憲法改正」が意味するもの

 自民党の党是である「憲法改正」とは、当初、GHQ製の「社会主義憲法」からの脱却を意味するものだったが、現在では、随分と譲歩されている。

 憲法の内容を時代に則してほんの少し変えるというだけで、嵐のような猛バッシングに晒される。他国では当たり前の憲法改正が、日本では何故にこれほどまでの無理難題になってしまったのか? その理由(歴史的経緯)を知ろうという人々が増えていかない限り、憲法改正はスムーズにはいかない。

 日本にとっての「憲法改正」とは、諸外国のように単に憲法を変えるという意味ではなく、「日本社会を変える」ことを意味している。現在のモラトリアムな半国家状態を良しとする人々には、自らのユートピアを破壊されるという抵抗感情があるのかもしれない。しかし、その感情を優先することは日本の間違った常識であって、世界の非常識であるということを知らねばならない。

  
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表面化しつつある「原発停止」による「大惨事」

■「地震」よりも恐い「ブラックアウト」

 震度7を記録した『北海道胆振(いぶり)東部地震』によって北海道電力(火力発電所)が「ブラックアウト」し、北海道全域に渡り停電が発生した。目下のところ、停電が解消される目処が立ったとはいえ、完全復旧するまでには、まだしばらくの時間がかかるらしい。

 東日本大震災によって全国の原発を停止し続けたことによる弊害がようやく顕在化したとも言えるが、多くの識者が述べているように、これが数ヶ月先の冬場に起こっていたとすれば、恐ろしい事態になっていただろうことは想像に難くない。天の慈悲か、不幸中の幸いか、これを機会に、いい加減に原発再稼働を真剣に考え直した方がよいのではないかと思われる。

 現在、北海道に住んでいる人達に以下のような質問をすれば、どういう回答が得られるだろうか?

 「あなたは、冬場に今回のような地震が発生した場合、原発が稼働していることと、稼働していないことのどちらがよいと思いますか?

 この質問の要諦(ポイント)は、小さな原発リスクを受け入れるのか、それとも大きな凍死リスクを受け入れるのかということ。

 おそらく、大部分の人の回答は前者の「稼働していること」のはずだ。「地震で死亡するリスク」と「停電によって死亡するリスク」を天秤にかければ、答えは火を見るより明らかだ。どう考えても「地震で死亡するリスク」よりも、「停電によって死亡(凍死)するリスク」の方が圧倒的に高いはずだ。死亡には至らなくても、生活難に陥る可能性は限りなく高い。

 地震による原発事故で被爆死するリスクがあると言う人がいるかもしれないが、その可能性は限りなく0に近い。

■今そこにある「大惨事リスク」

 東日本大震災が発生してから、既に7年半が経過したが、この7年間で原発事故に繋がる危険性のある地震は無かった。と考えると、原発を停止し続けたことによる国富の流出は、いかほどの金額になるのだろうか?
 原発停止コストは年間2兆円〜3兆円と言われているので、少なく見積もっても7年半で計15兆円以上の損失になる。国民1人当たり、既に10万円以上を失った計算になる。それだけのお金があれば、どれだけの人(貧困者や病人)を救えただろうか?

 「そんなのは結果論だ」と言う人がいるかもしれないが、こうなることは当初からほぼ判り切っていたことである。

 東日本大震災時にも述べたことだが、これは要するに、限りなく0%に近いリスクのために、年間2〜3兆円の掛け捨て保険に強制加入させられているようなものである。
 消費税を1%上げれば、税収が2兆円増えると言われているので、実質的には現在の消費税は9%のようなものだとも言える。

 現代の日本は、万が一のリスクよりも、今そこにある現実的なリスクに目を向けなければならない時期に来ている。現実を無視し、万が一のリスクのために生命も財産も犠牲にして、一体誰が幸せになるというのだろうか? 生命も財産も守れない反原発(原発停止)にどれだけの価値があるというのだろうか? こんなことをいつまでも続けていると、別の大惨事が発生する可能性の方がはるかに高いと思える。北海道における凍死リスクもその大惨事の一例に過ぎない。

 反原発は国民の生命を守るのではなく、国民から生命と財産を奪いかねないということがようやく表面化しつつある。しかし、それが本当に表面化してからでは手遅れになる。生命を守るという名目で原発を停止し続けたことによって、結果的に、数万、数十万の人々が凍死するのであれば本末転倒もいいところだ。
 今こそ、「万が一のリスク」ではなく、今そこにある「大惨事リスク」に目を向けるべきだ。


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「南海トラフ地震」は予測できるのか?

■過去に発生した「南海トラフ地震」

 ここ数年、テレビ等で「南海トラフ地震」の危険性を煽る番組をよく見かけるようになった。言わずと知れたように、「南海トラフ地震」とは、四国沖で90〜150年周期で発生している大地震のことだが、今後30年以内に発生する確率は70〜80%と言われている。

 しかしながら、その予測確率がどこから出てきたのかというと、おそらくは、これまでに発生した地震年度から割り出した平均値としての数値にしか過ぎず、「南海トラフ地震」がいつ起こるかは実際のところ、誰にも分からない。明日起こるかもしれないし、1000年後かもしれないし、起こらないかもしれない。

 過去の「南海トラフ地震」を時系列で表記すると以下のようになっている。

 1498年(明応地震)

 それから107年後 1605年(慶長地震)※

 それから102年後 1707年(宝永地震)

 それから147年後 1854年(安政東海地震)

 それから90年後 1944年(昭和東南海地震)

 それから2年後 1946年(昭和南海地震)

(※)慶長地震は南海トラフ地震ではないという説もある。

 昭和の2度の地震は同時期と考えると、直近5回の「南海トラフ地震」の発生周期が90年から147年になっている。次も同じような周期で発生すると考えれば、2036年〜2093年に必ず起こるという目算があるのだろう。

 (107+102+147+90)/4=111.5年

 1946年+111年=2056年

 このての計算(実際はもう少し対象地震が多い)で、30年後(2048年)までに発生する確率が凡そ70〜80%ということなのだろう。
 しかし、先にも述べたように1944年(昭和東南海地震)と1946年(昭和南海地震)の間にはわずか2年しか空いていないわけで、実際のところは過去の統計だけで未来の地震を予測するのは無理があると言える。

■「余震震度」の予測は不可能

 今年6月に発生した「大阪府北部地震」や、今回発生した「北海道地震」を見ても分かるように、現代人には地震の予知などできないし、統計だけで判るようなら誰も苦労しない。
 全国津々浦々どこででも巨大地震が起こる可能性が有るわけだから、「南海トラフ地震」だけに拘るのはある意味、ナンセンスだとも言える。

 気象庁の発表も、震度6強の地震が発生すれば、

 「今後、震度6強程度の余震が発生する可能性があります」と言い、

 震度6強が震度7に変更されると、

 「今後、震度7程度の余震が発生する可能性があります」と言う。

 震度7以上の地震は原則無いわけだから、「震度7」と言っておけば絶対にハズレないということなのかもしれないが、これでは、全く判らないと言っているに等しい。実際、2年前の熊本地震では、本震と発表されていた地震が予震(前震)で、2日後に本震が発生したということもあった。

 今回の地震でも同じ発表ミスがあってはいけないので、保険をかけてわざわざ「震度7」と言い換えたのだと思われるが、そんなことなら、わざわざ「震度何」などと言わずに、「大きな余震」と言えば済むのではないかと思う。なぜ、判りもしないのに、予言者の如く「震度何」などと言う必要があるのか解らない。

 地震がどこで起こるか判らない、予震か本震かも判らないのに、なぜ正確な震度を予測することができるのだろうか?

■ある中学校の教室での1シーン(フィクション)

【教室Aの場合】
教師A「昨日は震度6の地震が発生しましたが、今後、大きなの余震が発生する可能性がありますので、皆さん気を付けてくださいね。」

生徒達「はい、わかりました。」

【教室Bの場合】
教師B「昨日は震度6の地震が発生しましたが、今後、震度6程度の余震が発生する可能性がありますので、皆さん気を付けてくださいね。」

生徒A「え?、なんで震度6と分かるんですか?」
生徒B「震度なんて分かるわけないじゃん。」
生徒C「先生は予言者なんですか?」

教師B「・・・」

 結論として言えることは、「現代人には地震の予測はできない」、その一言に尽きる。
 ゆえに、地震対策をしなければならないのは、「南海トラフ地震」の被害想定に入っている地域の人々だけでなく、全ての日本人が対象と言える。予測もできない巨大地震を煽り、一部の地域の人々だけが危険であるかのような予言をすることはミスリードであり、別の意味で危険とも言える。


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コーヒーを飲むと寿命は延びるのか?

20180902■コーヒーと病気の因果関係

 毎年、何回か、コーヒーと病気の関係を示す研究結果が発表される。最近ではアメリカで、コーヒーに含まれるアクリルアミドに発がん性物質が有るというニュースで騒がれたかと思いきや、今度は、コーヒーを1日に3〜4杯飲めば総死亡リスクが10~20%程度低下するとのニュースもあったばかりだ。
 ちなみにアクリルアミドの含有率は、深煎りコーヒーよりも焙煎の浅いコーヒーの方が高いという意外な研究結果が出ている。

 以前からもコーヒーには大腸がんや心臓病を抑制する働きがあるという研究データもあったので、個人的にはバランスを考慮すれば問題無いという認識を持っているが、毎年発表される情報は錯綜していて、何を信じていいのか分からなくなる時がある。

 ただ、コーヒーを1日に何杯飲めばどういう効果があるという研究発表には、毎度、何かが欠けているようにも思える。単純にコーヒーをどれだけ飲めばどうなるという発表の陰には、全く考慮されていない重要な要素が有るのではないかと思う。それは、コーヒーを飲む人が個人的に抱えているであろうストレスの量である。

■ストレスと病気の因果関係

 例えば、毎日、多忙で長時間労働を余儀無くされている人が、目を覚ますために何杯ものコーヒーをカブ飲みしているような場合と、優雅な生活を送っている人が1日に数回、寛(くつろ)ぎの時間を設けてコーヒーを飲んでいる場合があるとして、その2つのケースが全く同じ結果になるとは到底思えない。

 私も1日に1〜2杯、レギュラーコーヒーを飲んでいるが、最近はコンビニのコーヒーに嵌っている。自宅でコーヒーを飲む時というのは、ストレスを感じている時ではなく、読書をしている時とか映画を観ている時とか、落ち着いている時が多い。「寛ぎの一杯」という言葉もあるように、おそらく大抵の人は、リラックスしている時にコーヒーを飲んでいるのだと思う。

 逆にコーヒーを飲まない人というのは、元々、コーヒーが嫌いな人を除けば、時間に追われて悠長にコーヒーを飲んでいる暇もないという人が多いのではないだろうか。慢性的にストレスを抱えているような人はコーヒーよりもタバコに意識が向いてしまうのではないだろうか。
 「俺はタバコも吸うがコーヒーも同時に飲む」と言う人がいるかもしれないが、それはそれほど忙しくない時ではないだろうか。

 個人的に、コーヒーと病気の因果関係とは、その多くは、ストレスと病気の因果関係に近いのではないかと思っている。
 コーヒーの飲酒量が病気に関わっているというよりも、ストレスの多寡が病気と関わっているのではないかと思う。

 ゆえに、コーヒーとストレスの関係を考慮しない人間機械論的な研究データは、必ずしも本質を捉えていないのではないかと思う。
 数十万人規模の大規模調査であれば、個々人の肉体的違いはクリアできるかもしれないが、個々人の抱えたストレスおよびメンタル的違いはクリアしていることにはならない。その部分にスポットライトを当てない限り、いつまで経っても正確な研究結果は得られないはずだ。


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