« 「憲法改正」が難しくなった理由(わけ) | トップページ | 「新潮45」休刊が意味するもの »

『大人の道徳』を読んで。

■「道徳の時間」は「道徳科」になった

 先日、書店に行きウロウロと物色していると、ある言葉が視界に入り足を止めた。その言葉とは、以下のような言葉だった。

 「やりたいことをやりましょう」は〈奴隷〉の道徳です。

 興味を抱き、その本を手に取り、目次をパラパラとめくってみると、次のような衝撃的な言葉が目に入ってきた。

 「徴兵制は左翼の思想

 その他、非常に興味深いキャプションの数々に惹かれ、その本を購入した。
 その本のタイトルは『大人の道徳』(古川雄嗣著)。一見すると、取っ付きにくい地味なタイトルに思われるが、中身は素晴らしく明解で新鮮な思想解説本だったので、一気に読んでしまった。

 本書の各章のタイトルは全て「なぜ…」で始まっており、思想の根源にまで遡った考察が書かれている。普通、このての本は難解というイメージがあるが、本書に限って言えば、非常に平易な言葉で書かれているので、大人だけでなく学生でも、スラスラと読むことができると思う。

 これまでの小学校教育で「道徳」と言えば、「道徳の時間」とされ、教科以外の学問という位置付けだったが、2018年(中学校は2019年)からは道徳も「1教科」として数えられるようになったらしい。
 しかし、現在の学校教員で、「道徳」を何のために教えなければならないのかを解っている人はほとんどいないということで、その参考書として書かれたのが本書であるらしい。
 当初、教員向けに書かれた本を編集者の意向(アドバイス)によって、一般向けに書き直されたそうだが、その甲斐あってか、誰にでも読める面白い本に仕上がっている。

 単に時代的分割と思われている、古代・中世・近代の違いがそれぞれ明確に述べられており、近代哲学の祖であるデカルト、カント、ホッブス、ルソーといった偉人の思想もイラスト入りで解り易く述べられている。

■「自由」とは?

 非常に興味深かったのは「自由」というイデオロギーの考察で、現代の日本では「自分のやりたいことをやること」が自由だと思われているフシがある。しかし、「自分のやりたいことをやること」は「奴隷の自由」だと書かれており、その意味を近代を語る上で欠かすことのできない「理性」という言葉を用いて論理的に説明されている。

 では本当の「自由」とは何なのか? ここでは細かい説明は省かせていただくが、それは「自然法則(本能)の支配から解放されて、自分で自分の行動を決定できるということ」。それが、人間の「自由」だと書かれている。

 古代では、奴隷には政治に参加する権利は無かったが、市民には参加する権利(自由)があった。
 動物は、自分の行動を自分で制御することはできない。空腹時に目の前に御馳走を置かれれば、「食べる」という選択肢しかない。しかし、人間は理性によって、例え空腹であったとしても「食べる」か「食べない」かを選択することができる。
 ゆえに「人間がやりたいことをやること」は、自らを制御できないという意味では、自由ではなく不自由だということになる。それは動物と同様、本能と欲望のままに生きることに他ならない。
 自分のやりたいことに逆らって、やるべきことをやる、それが人間の自由なのだ。

 ゆえに子どもに向かって「自分のやりたいようにやりましょう」「自分の好きなことをやりましょう」というのは、人間の道徳ではなく、奴隷の道徳だということになる。
 「自由」とは、身体の本能的欲求に逆らい、理性の道徳的命令に服従すること、それが近代における本来の人間の「自由」だった。
 実に逆説的だが、なるほどなと納得させられた。

■「人権」とは?

 「人権」という言葉の説明も興味深い。
 日本ではよく「人間が人間らしく生きる権利」とか「誰もが幸せに生きる権利」とか言われるが、本当の「人権」とは、「生命と財産を国家によって保護してもらう権利」「国家の法に反しない限りにおいて、自分がしたいことをする権利」というのが、憲法によって保障される「人権」ということになる。
 そうであるなら、現代の日本で叫ばれる「人権を守れ」はかなりズレていると言える。

 著者も指摘されているが、本書を読むと、日本には市民社会だけがあって、国家が存在しないということが解る。戦後の日本には打倒するべき国家がない状態であることがよく解る。
 そう考えると、国家の打倒を目指した学生運動とは一体何だったのだろうか?という疑問が生じてしまう。

 「私的(プライベート)な世界のなかだけで、自分の利益や快楽だけを追求して生きている人間は「奴隷」であり、そこから解放されて「公的(パブリック)」な世界に出ていくことによって、はじめて人は「市民」になることができた」(原文ママ)

 自らの個人的な欲得やイデオロギーを理性的に捨象し、公的な意味合いとして政治に参加することが市民(大人)の理想的な態度だとすれば、学生運動にのめり込んでいった人々は総じて道徳というものを理解していない子供だったのかもしれない。

 本書には、自民党と立憲民主党の関係について少しだけ触れられている箇所があり、その文章(「不正に目をつぶれ」という言葉)を読む限りでは、どうも著者はモリカケ問題の真相が解っておられないのかな…という感じがした。個人的にその部分だけは納得できなかったが、それ以外は、非常に示唆に富んだ良書だった。もっと注目されて然るべき本だと思うので、是非、多くの人に読んでいただきたいと思う。

【追記】2018.9.24
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>これを「奴隷の自由」とかわけのわからないマイ定義するドアホウは、この時点で詐欺師と言って差し支えない。詐欺師の著書の書評なんて無駄。

 著者や私が言っていることではなく、近代の有名な思想家達が言っていることです。あなたが詐欺師呼ばわりして認めたくなくても、世界中の思想家が認めている常識です。

>人間みんな、いずれは死ぬんだよw 自然法則(本能)の支配から解放されることはあり得ないよ。 不老不死になってからなw

 そこまで行くとプラトンの「自由」の話になります。今回は近代に限った話なので、お門違いです。

>国家が存在しない? 現実と乖離してますね。

 詳しくは本書を読んでくださいとしか言えませんが、主権者としての国家です。と言っても、本書の内容を理解しないと解らないことなので、読んでいない人には説明できませんが。

>一ミリも賛同出来ない本だな・・・・
法に触れない限り自由にやってよろしい!みたいなの正しいと思えないわ。

 別に法に触れなければ悪事を働いても構わないという意味ではありません。

>自由とは、束縛を受けない状況を指す。 義務であれ、常識であれ、身体的な能力であれ、何らかの束縛は常にあるが、束縛が減ることを実感しているとき、人は自由になったと感じる。
奴隷の自由、人間の自由、いずれも洗脳じみたこじつけの論理に過ぎない。

 それは狭義の自由であって、近代契約社会における広義の自由ではないのです。これも著者や私が言っているのではなく、歴史上の偉人達が述べていることです。福沢諭吉や中江兆民等も間接的に同じようなことを述べています。その思想が現代の主流になっているのだから、洗脳などと言われても困ります。

>知生体は肉体という檻に囚われているのだから、真の自由なんてありはしないのだよ

 その通りです。しかしそれもプラトンの言葉ですから、今回の記事とは関係ありません。

>薄っぺらいし、自由という観念をイデオロギーとわざと言い換えて見たり、意図が見え見えでゲロでそうですが。

 意図なんてありません。本書に書かれていた言葉をそのまま書いたまでのことです。嘘だと思うなら本を買って(または立ち読みして)確認してみてください。

----------------------------------------------------------------------

にほんブログ村 経済ブログ 日本経済へ

【スポンサーリンク】

|

« 「憲法改正」が難しくなった理由(わけ) | トップページ | 「新潮45」休刊が意味するもの »

読書」カテゴリの記事

コメント

追記しました。

投稿: 管理人 | 2018年9月24日 (月) 22時20分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/199859/67202675

この記事へのトラックバック一覧です: 『大人の道徳』を読んで。:

« 「憲法改正」が難しくなった理由(わけ) | トップページ | 「新潮45」休刊が意味するもの »