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「国家には国民の命を守る義務がある」のなら…

■「自己責任」論は一種のタブー

 某ジャーナリストの拘束・解放問題で、またぞろ「自己責任」という言葉が飛び交っている。
 専ら、「弱者」というものを題材とした「自己責任」論は、日本では一種のタブーとして煙たがられる傾向にある。
 なぜそうなるのかと言えば、「弱者」の線引きというものが極めて曖昧なものであり、これが「弱者」ですというような明確な基準がないため、如何様にも批判が可能な厄介な代物だからである。

 たとえ正論であったとしても、「弱者の自己責任」などと言おうものなら、世間から猛バッシングされる危険性があるため、大手メディアも「自己責任」論からは一歩引き下がって傍観する傾向にある。

 一口に「弱者」と言っても、世の中には「病人」や「貧者」、最近で言えば「LGB」者、等、いろんな弱者と思えし人達が存在している。「拘束された」ということも「弱者」にカテゴライズされるのかもしれないが、その誰もが「好きで弱者になったわけではない」という思いは抱いているものなので、反論しようのない正論(そんなものは存在しない)でない限り、「自己責任」論が公に受け入れられるのは難しい。

■「国民」=「ジャーナリスト」=「拉致被害者」

 某ジャーナリストに対しても、個人攻撃をしても埒があかないと思われるので、もっと視野を拡げて、国家としての「自己責任」論に結び付けることが望ましい。また、そうすることによって、問題の本質がよりクリアに見えるようになると思う。
 そこで、次の言葉から、国家としての「自己責任」論を考えてみよう。

 「国家には国民の命を守る義務がある

 今回の拘束・解放問題でも、左派から盛んに聞かれた言葉だが、これは間違いなく正しい。しかし、それならば、なぜ、北朝鮮の拉致問題に対しても同じように「国家には国民の命を守る義務がある」と言ってこなかったのだろうか?

 1個人のジャーナリストの拘束と、多くの無辜の民の拉致のどちらが重大な問題かと言えば、どう考えても後者の「無辜の民」の方である。なぜなら、そこには国家の義務を放棄するに足る「個人の自己責任」的要素が全く存在しないからである。
 彼らは「自己責任」で北朝鮮に旅行に行ったわけでもなく、取材のために「自己責任」で危険を冒して密入国したのでもない。無理矢理に誘拐された国民の命は「自己責任」以前の問題である。

■「国家には拉致被害者の命を守る義務がある」

 少し前に拉致被害者の会のインタビューで次のような言葉が聞かれた。

 「やっとこの時がきた

 おそらくは、「やっと拉致問題に真剣に取り組んでくれる日がきた」という意味だったのだろうと思われる。しかし、本来、この場合の主語は「日本」でなければおかしいのだが、実際のところは「アメリカ」になっていた。トランプ大統領が北朝鮮と話し合うということで出てきたのが「やっとこの時がきた」という言葉だった。
 
 (本来)「やっと日本が拉致問題に取り組んでくれる日がきた」

 (実際)「やっとアメリカが拉致問題に取り組んでくれる日がきた」

 なぜこんなことになるのかと言えば、日本には国家主権が無いからである。国としての軍隊を持てないという意味で、日本には国家としての主権の一部が無い状態になっている。
 だからこそ、拉致問題を解決するためには、憲法を変えて、軍隊を持てるようにする必要があるわけだが、なぜか「国家には国民の命を守る義務がある」と言っているような人達が中心となって、そのことを妨げてきた。これは大いなる矛盾である。

 「国家には国民の命を守る義務がある

 「国家にはジャーナリストの命を守る義務がある

 「国家には拉致被害者の命を守る義務がある

 これは、個人の「自己責任」というものを考慮しなければ、どれも同じことである。

 正義感から、1ジャーナリストを擁護するために「国家には国民の命を守る義務がある」と勇ましく宣うのであれば、拉致被害者問題についても、もっと前のめりになって意見していただきたいものだ。
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サスペンスドラマ化している「米国中間選挙」

■爆発物を送りつけたのはテロリストなのか?

 10月22日にジョージ・ソロス氏宅に爆発物が送りつけられたというニュースが報道されたばかりだが、今度は、ヒラリー・クリントン氏やオバマ元大統領などを含む複数の民主党幹部にも爆発物と見られる小包が送り届けられたらしい。

 当初は大富豪投資家のジョージ・ソロス氏に対する個人的な怨恨(怨みや嫉妬)による嫌がらせかと思われていたが、こうなると、事の真相が朧げながらに見え隠れしてきたようだ。

 周知のように、ジョージ・ソロス氏はトランプ大統領と敵対しているグローバリストでもあるので、爆発物の送付は同一犯(または同一グループ)による選挙絡みの事件である可能性が濃厚になったきた。

 はたして犯人は、アンチ民主党者なのか、それとも、アンチ共和党者なのか? それが注目すべきポイントだと言える。

■選挙期間中は、Trust no one.(誰も信じるな)

 もし本当に選挙絡みの事件だとすれば、次の2つのケースが考えられる。

 【A】勢いを増していると伝えられている民主党に対する嫌がらせ…(犯人は短絡的で感情的な人物)

 【B】爆発物を送りつけるような人が応援しているトランプ政権は危険だと思わせるイメージダウン戦略…(犯人は用意周到で狡猾な人物)

 どちらが正しいかは判らないが、現状ではどちらの場合も考えられるので、犯人がアンチ民主党者【A】であると決めつけるような報道は、時期尚早だと言える。
 現在のテレビ報道を観る限りでは、アンチ民主党(共和党側)の人物が、民主党側(アンチ共和党)に爆発物を送りつけたと、さも既成事実であるかのように伝えられているが、先入観を持たずに現状を眺めてみると、どちらのアンチでも有り得る行動だと言える。

 もし、今回送られた複数の爆発物の内の1つでも爆発して被害が出ているということであれば、アンチ民主党者が犯人である可能性が高くなるが、目下のところ、何も被害が出ていないので、アンチ共和党者が犯人である可能性も否定できない。

 まるで、ハリウッドのサスペンス映画のような話だが、世界を動かすような大きな選挙の舞台裏では、欲望が渦巻き、虚偽や陰謀など様々な醜い争いが水面下で起こっているはずだ。
 この時期、 センセーショナルなニュースの裏には、一般人が知る由もない隠された真実があるかもしれない。選挙期間中は何が起こるか分からないので、常に疑いの目を忘れてはいけない。
 選挙戦を正しく観察するためには、Trust no one.(誰も信じるな)位が、丁度よい姿勢だと言える。
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不摂生は「善」か「悪」か?

■「病気になった人」にも2種類ある

 自民党の麻生財務相が閣議後の記者会見で「いいことを言う」と述べたことで物議を醸している。
 麻生氏が「いいことを言う」と同調したのは、以下のような言葉らしい。

不摂生が原因で病気になった人の医療費を、健康のために努力している人が負担するのはあほらしい。

 ※不摂生…健康に気をつけないこと。健康に悪いことをすること。また、そのさま。

 「あほらしい」を「おかしい」に変えれば、普通によく聞くような台詞だが、はたして、これのどこが問題なのだろうか?

 まず初めにお断りしておくと、「病気になった人」と「不摂生が原因で病気になった人」とでは全く違うということを見落としてはいけない。前者は偶然だが、後者は必然という違いがある。

 「病気になった人」【偶然】

 「不摂生が原因で病気になった人」【必然】

 病気に偶然というものが有るのかどうかという問題は扨措くとしても、明らかに不摂生が原因で病気になった人に対してならば、麻生氏の意見はごく一般的な意見だと言える。

■「不摂生」にも2種類ある

 また、一口に「不摂生」と言っても、「回避できる不摂生」と「回避できない不摂生」がある。
 例えば、仕事が忙し過ぎて、健康的な生活を送ろうにも送れないような人の場合は、「回避できない不摂生」だと言えるので自己責任は適用できないが、自分の心掛け次第で「回避できる不摂生」なら、自己責任だと言える。
 麻生氏の言っているのは、おそらく、「回避できる不摂生」のことであり、多分、以下のような人を指しているのだろう。

 ●禁煙するように注意されているのに、1日にタバコを100本吸って、 COPDを患ってしまったような人。

 ●お酒を止めるように注意されているのに、毎日、浴びるようにお酒を飲んで、肝硬変を患ってしまったような人。

 上記のような100%自己都合によって病気になってしまった人がいたとして、その人物の治療費を、その人物に対して親切に注意を促していた人が支払わなければならないとなると、あまりにも不条理であり、どう考えても道理に合わない。
 だからと言って、実際に支払わなくてもよいというわけではないが、道理に合わないと考える人がいることを否定することはできない。

■「不摂生の自由」にも責任が伴う

 重要なことは、己の不摂生によって病気になってしまった人は悪くはないのか? 不摂生の自由にも責任はあるのではないか?ということ。

 なぜ、「健康な生活を心掛けましょう」というような言葉があるのかと言えば、不健康な生活は病気に繋がる危険性が高くなるからだろう。つまり、「不摂生」は悪いことだということを誰もが認めているということだ。ならば、自ら「不摂生」を行い、病気になってしまった人にも非が有るというのは暗黙の了解事項のはずだ。

 麻生氏の場合、そのことを口に出して「いいことを言う」と言ってしまっただけのことだろう。
 その言動に対して、「病気になった人に対する思いやりがない表現なので批判が出る可能性がある」などというのは、火のない所に煙を立てて、批判することを煽っているようにも聞こえる。

 こんな子供のようなポリコレごっこ(言葉狩り)で、世間に波風を立てるのは、あまりにも大人げないと言える。
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「有給休暇取得」の例え話

■「働いても給料が出ない」の意味

 昨日書いたブログ記事(「有給休暇」強制取得社会の始まり)で、「働かなくても給料が出る」=「働いても給料が出ない」と書くと、「解らない」とコメントしている人が数人おられた。(以下はBLOGOS転載記事のコメント)

>>「働かなくても給料が出る」=「働いても給料が出ない」

>→これ、おかしくね?

>>「働かなくても給料が出る」ということは、逆に言えば、「働いても給料が出ない」ことを意味するからだ。

>ちょっと何言ってるのかわからないんだけども。

>>「働かなくても給料が出る」ということは、逆に言えば、「働いても給料が出ない」ことを意味する

>この論理の根拠がわからない。

 コメントを書く人だけで数人もいるようだと、コメントを書かれない人の中にも解らなかった人が大勢いるかもしれないので、蛇足ながら少し説明しておこうと思う。

 有給休暇を取れば「働かなくても給料が出る」

 これは誰でも解ると思う。では、同じ職場で有給を取らなかった人はどうなるのか? そう考えて両者を比較すれば「働いても給料が出ない」ということになると書いたつもりだったが、まだピンとこないかもしれないので、もっと具体的な例を挙げて説明してみよう。

 例えば、年収300万円のAさんとBさんがいたとして、Aさんは毎年、有給休暇を全部取得しており、Bさんは有給休暇を全く取得していなかったとしよう。

 Aさん・・・年収300万円で有給休暇を全部取得

 Bさん・・・年収300万円で有給休暇を取得せず
 
 AさんとBさんは同期入社で、仕事の能力も同等だった場合、有給休暇を全部取得したとしても、全く取得しなかったとしても、年収が300万円と固定のままなら、どちらが得をして、どちらが損をしているのか?ということ。

 無論、誰が考えても、答えはAさんだ。
 年間出勤日が250日で有給休暇が年間20日間だった場合を考えてみよう。

 その場合、Aさんは230日間働いて300万円の年収を得たことになる。
 では、Bさんはどうかというと、250日間働いて300円の年収になる。
 そう考えると、両者の間には出勤日数に20日間の差があることになるが、収入は変わらないということになる。
 ということは、Aさんは20日間「働かなくても給料が出ている」ことになるが、Bさんは20日間「働いても給料が出なかった」ことになる。つまり、「Aさん」=「Bさん」、または、「300万円」=「300万円」、換言すると、働いても働かなくても結果は変わらないということ。

 これでお解り頂けただろうか?
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「有給休暇」強制取得社会の始まり

■年間5日間の有給休暇取得の義務化

 2019年4月1日から、年間5日間の年次有給休暇の取得が義務化されることになる。そんな法案がいつの間に通ったのか気付きもしなかったが、2018年6月29日に成立していたらしい。

 年間10日間以上の有給休暇が付与されている労働者が対象ということだから、日本の正規労働者のほぼ全員が5日間は絶対に有給休暇を取得しなければならないということになる。
 私自身、有給休暇は年に1回取(れ)るかどうかという状態なので、有り難いと思う反面、本当に日本全国の労働者に適用できるのだろうか?という不安も同居している。

 この法案で注目すべきは、違反企業には30万円以下の罰金が課されるというところだ。政府が民間企業に命令するという意味では、完全な社会主義政策だとも言えるが、ここまでしないと日本の企業では有給休暇も満足に取れないということなのだろう。

 しかし、この場合、非正規雇用の人々はどうなるのか?という疑問も残る。最近はパートやアルバイトにも有給休暇が有る場合が多くなったとはいえ、不公平感が更に増すことになってしまうような気もする。自営業者等、出勤することによってしか給料が生じない人々には、休日が増えることは必ずしも喜びには繋がらない。

■「働かなくても給料が出る」=「働いても給料が出ない」

 日本人が有給休暇を取得できないのは、有給休暇制度そのものが不公平感を齎す制度だからでもある。
 有給休暇を多く取る人と有給休暇をほとんど取らない人がいた場合、両者の間には大きな不公平感が生じる。「働かなくても給料が出る」ということは、逆に言えば、「働いても給料が出ない」ことを意味するからだ。有給休暇を多く取る人は得をし、有給休暇をほとんど取らない人は損をするという不公平な悪平等制度であるために、真面目な人ほど、気兼ねして有給休暇を取れなくなる。

 そして、仕事ができる人が有給休暇を多く取れば嫉妬され、仕事ができない人が有給休暇を多く取れば憎まれる。そのため、どちらも気兼ねして有給が取れなくなる。
 公平な「無給休暇」であれば気兼ねすることなく取れるのだが、悪平等な「有給休暇」であるがために、気兼ねすることになってしまう。

■バランスを欠いた「やせ我慢社会」

 「嫉妬社会」であるがゆえに有給休暇制度が馴染まない。加えて、日本は、良くも悪くも「やせ我慢社会」なので、有給休暇制度が活かせない。「やせ我慢」は「武士道」に通じる概念で、責任ある立場にいる人間は休まないことが正しいという人生美学のようなものだが、幸か不幸か、その人生美学が「過労死」というものを作り出す元凶にもなっている。

 「休まずに働くことは良(善)いことだ」という高貴な精神は決して否定するべきものではないが、それが行き過ぎると「無理をしても休んではいけない」「健康に悪くても休んではいけない」ということになってしまう。

 人生に美学を持つことは大事なことだが、人生にはバランスも重要だ。働き過ぎも良くないし、遊び過ぎも良くない。働くことは良いことかもしれないが、加重なストレスを抱えながら働くことは良いことだとは言えない。
 このことは、身体を壊すほど働いた経験の有る人にしか解らないかもしれないが、実際に命の危険を感じたことの有る人なら解っていただけると思う。

 政府が罰金制度まで課さなければ有給休暇を取得できないというような社会は、明らかにバランスを欠いている。
 ついでに言うと、正規社員と非正規社員の待遇に差が有り過ぎることもバランスを欠いている。
 バランスを欠いた様々な欠陥制度をそのまま運用してきたがために、有給休暇取得の義務化などという問題も生じたのだと言える。


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「消費増税」は三度回避されるか?

■“消費増税は危険”と知った上での「消費増税」

 安倍総理は、15日の臨時閣議で、「消費税率については、法律に定められた通り、平成31年10月1日に現行の8%から10%に2%引き上げる予定だ。」と述べ、予定通り、消費増税を行う方針を示した。
 ちなみに、平成31年10月1日という日はない(元号が変わるため)。

 しかし、消費増税による景気の落ち込みを想定してか、大小様々な対策も発表している。

 その対策というのが、
  「幼児教育の無償化」
  「飲食料品に軽減税率を導入」
  「中小企業にポイント還元」
  「自動車の税負担軽減」
  「住宅購入の負担軽減」

 これらの対策案を見る限り、明らかに“消費増税は危険”との認識を持っていることが窺える。

 少し前にも「携帯電話料金の4割減」というものがあったが、ここまで入念で複雑な対策を練る位なら、いっそのこと、消費増税など止めてしまった方がよいのではないか?と思えてしまうのだが、それでも断行しなければならない理由が有るのだろうか?

■「消費増税」 or 「原発再稼働」?

 消費税を未来永劫10%にすれば、日本の財政問題が全て解決するというのなら、10%にすることもやぶさかではないが、最終的にどこまで上がるかも判らない税率を「法律に定められた」という理由だけで安易に上げてしまうのは大きな問題だ。
 
 軽減税率等によって実質的には半分(1%分)は消費者に還元するということになっているらしいので、正味のところ、消費税は9%程度になるということなのだろう。
 しかし、たった1%上げるだけなら、原発を再稼働すれば、1%分の税収(2兆円)は確保できる。

 ここで質問。
 あなたは、次の2案のどちらが良いと思いますか?

 【A案】消費税を10%にして軽減税率を設ける。

 【B案】消費税を8%のままで原発を再稼働する。

 普通の人なら【B案】を選択すると思うが、原発再稼働反対の人達は【A案】を選択するのだろうか?
 原発再稼働反対の人達は、こぞって「消費増税反対!」とも叫んでいるが、どこか矛盾していないだろうか?

■南海トラフ地震級の大災害が起こる危険性

 以前から安倍総理は「リーマンショック級の出来事が起こらない限り消費増税を行う」と述べているが、おそらく少し前までは、米朝戦争が起こると予想して、消費増税は中止になると踏んでいたのではないかと推察する。
 しかし、幸か不幸か、米朝二国間に限って言えば、険悪なムードが後退し、完全にトランプ大統領のペースになっている。
 中国についても、無血戦争たる貿易戦争に終始しているので、当分の間、戦争は起こらないだろう。

 となると、消費増税を回避するためには、戦争以外のリーマンショック級の出来事が起こらなければならないということになるが、トランプ大統領が舵取りしている限りは景気は良さそうなので、金融危機的なこともそうそう起こりそうにない。
 では、戦争や経済問題以外でのリーマンショック級の出来事はあるかというと、自然災害くらいしか残っていない。

 消費増税は与党たる自民党政権にとっては命取りになりかねない悪手だと思われるが、安倍総理は強運の持ち主と言われており、前回の増税時にも熊本地震が発生したことによって消費増税を延期したという経緯がある。
 被災地の人にとっては甚だ迷惑な話だが、安倍総理の強運(悪運の強さ)が本物なら、あるいは今回も大災害が発生して消費増税は回避されるのかもしれない。

 消費増税も大災害もどちらも望まないが、リーマンショック級ならぬ、南海トラフ地震級の大災害が起こらないことを切に願う。
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「世界同時株安ごっこ」の罠

■悲観的なメディアが作り出す空気

 先週、ニューヨークダウが急落し、その影響が全世界の株式市場に連鎖したことで、またまた「世界同時株安」という言葉が喧伝された。その出来事を伝えるメディアのコメンテーターも神妙な顔付きでニュースを伝え、悲観ムード1色という様相を呈していた。

 毎度思うことながら、メディアの悲観的な空気を作り出す演出には感心してしまう。あの空気に逆らえる人はなかなかいないのかもしれない。全メディアが悲観的なことを伝えると、まるで全国民がそのことを動かしようのない既成事実だと錯覚してしまう。

 今年の1月にNYダウが1000ドル以上下げた場面でも「リーマンショック以来の下げ幅」と言って、まるでリーマンショックの再来でも来るかのような悲観ムードを作り出していたが、結局、元の株価まで戻した。

 今回は、ちょうどチャート的にもダブルトップを形成したので、様々な思惑が絡んで押し目の調整が入ったのだろう。その調整と自動売買が重なり、またぞろ、予想以上に大きな急落場面を作り出してしまったというのが実情だろう。

■数字の錯覚を伝えないメディア

 NYダウが急落したといっても、1日にたかだか3%下げただけで、2日間でも5%下げた程度だ。今年の1月にも同じような記事を書いたが、株価が10000ドルの時と26000ドルの時では、全く意味合いが違ってくる。

【関連記事】「リーマンショック以来の大暴落」の嘘

 「日経平均株価が1000円以上急落しました」と大ニュース化しても、株価が10000円の時なら、せいぜい400円程度の下げであり、大したニュースにはならなかったはずだ。
 世に言う「ブラックマンデー」の時の1日の急落率は22.6%で、連動した日経平均株価の急落率も14.9%もあった。それらに比べると3%などというのは暴落とは言えない。

 しかし、こういった数字の錯覚を正確に伝えるメディアが存在していないのはなぜなのだろうか?
 人々に錯覚を伝えず、株価を更に引き下げる(株を投げ売りさせる)ことでも狙っているのではないか?と勘ぐりたくもなる。
 どうせ元に戻ることが判っていながら、下げるだけ下げて儲けようとする。これで騙される人が大勢いるなら、まさに「世界同時株安ごっこ」だと言える。
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『評伝 小室直樹』を読んで。

■哲人小室直樹の一生

 8年前(2010年)に逝去された小室直樹氏の評伝『評伝 小室直樹』(村上篤直著)が出版されたので、早速、購入して読んでみた。上・下巻で計1500ページもあるという、評伝としては異例の大作だった。
 巻末資料だけで計200ページ以上あるので、実質的には1200ページの評伝ということになっている。しかし、これだけ分厚い本なのに、上・下巻ともに栞紐(しおりひも)が付いていなかった。

 

 私が小室直樹氏の本を読んでファンになったのは21世紀になってからの話なので、小室氏が20世紀にどういう活動(活躍)をされていたのかはあまり詳しくは知らなかった。テレビの生放送中の放送事故(所謂「小沢遼子足蹴り事件」)でメディアから干されたという話を聞いていた程度なので、少し変わった天才肌の学者という位の認識しか持っていなかった。

 しかし、本書を読んでみたことで、小室直樹という人間の破天荒極まりない学者人生の一端を垣間見ることができた。「○○と天才は紙一重」と言うけれど、ここまでその言葉がピッタリと当て嵌まる人物も珍しいと思う。本文中「破滅型の天才」という言葉があったが、その言動は、まさしく、マッドサイエンティストの如くで、良く言えば「天真爛漫」、悪く言えば「KY」という感じだろうか。しかし、その裏表の無い素直な性格さゆえに周りにいた多くの人々に愛された人物でもあった。

■「ルンペン学者」と呼ばれた男の素顔

 小室氏は、そのあまりにも高い能力ゆえにか、アカデミズムの世界では認められなかったが、ルンペン学者と言われながらも、飾ることなく、誰よりも純粋に学問を学び、学問を究めた人物だった。
 本書を読んで初めて知った破天荒な武勇伝の数々は、まるでマンガの主人公のようですらある。案外、本書を『小室直樹物語』として漫画化すれば面白いかもしれない。

 小学生の時点で「総理大臣に成る」という大望を抱いていたというのも驚きだが、中学校からの朋友であり保護者役だった渡部恒三氏は政治家となり、小室氏自身も総理大臣だった田中角栄氏と対談されている。

 小室氏のような人が、もし間違って総理大臣にでもなっていれば面白かっただろうな…と思う反面、ヘタをすると暗殺されていた可能性もあると思う。小室氏自身の著書にも「政治家として凶弾に倒れるのは男の本懐」というようなことが書かれてあったと記憶している。
 本音と建前を使い分ける人でないと日本の政治家は務まらないという悲しい現実があるので、たとえ正論者であっても本音だけで政治を行うような人は独裁者と判断されて潰される可能性がある。

 小室氏はかつて弁護士になるという道もあったのだそうだが、弁護士では多くの人を救うことはできないということで学者の道を選ばれたらしい。
 辞書を丸ごと暗記できるような人間離れした記憶力を持っていたそうなので、司法試験は十分にパスできたと思われるが、嘘がつけない真っ直ぐな性格なので実務は無理だったかもしれない。やはり小室氏には弁護士よりも学者の方が似合っていたと思える。
 小室氏の場合、記憶力だけでなく、自分自身で思考してオリジナルの理論を組み立てる能力の方が遥かに勝っていたと思われるので、きっと、学者に成るべくして生まれた人だったのだろう。

 こんな破天荒な学者(評論家)が現代にもいてくれれば面白いのだが、なかなかここまで希有なキャラは見当たらない。まさにその時代、唯一無二の存在だった学者、小室直樹。未だその才能は認められたとは言えないが、入念かつ膨大な取材によって彼の素顔を活写した本書は、きっと多くの人を魅了することだろう。
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「教育勅語」は危険思想なのか?

■「教育勅語」=「教育に関する天皇のお言葉」

 自民党の柴山文科相が会見の場で、「教育勅語」について「道徳などに使うことができる分野は十分ある」と述べたことで、「戦前回帰だ!」というような批判が出ているらしい。

 「教育勅語」は戦前の教育の柱になっていた思想だが、中編の内容(現代語訳)の方を見てみると、

>国民の皆さんは、
>子は親に孝養を尽くし、
>兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、
>夫婦は仲睦まじく解け合い、
>友人は胸襟を開いて信じ合い、
>そして自分の言動を慎み、
>全ての人々に愛の手を差し伸べ、
>学問を怠らず、
>職業に専念し、
>知識を養い、
>人格を磨き、
>さらに進んで、社会公共のために貢献し、
>また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、

 ここまでは全く当たり前のことを言っているだけで、特に否定するべき要素は見当たらないと思うが、この続きに、

>非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の務めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

 この部分が、軍国主義的な感じがするということで否定的な意見が出てくるのだろうと思われる。

 周知の通り、「教育勅語」はGHQによって禁止された。当時の占領軍は日本の天皇を北朝鮮の独裁者のような存在だと誤解していたフシがある(実際、終戦後、占領軍によって刑務所から解放された共産主義者達は占領軍のことを「解放軍」と呼んだ)ので、こういった国民感情を1つにするようなものは危険思想と判断されたとする向きもある。

 しかしそれならそれで、その部分だけを削除すればよかったのだが、まともな道徳訓までもパージしてしまった。それも意図的だったのかもしれないが、そのせいで、自分勝手な個人主義者が大量生産され、道徳観が欠如した連帯感を持たない利己主義者(所謂、リベラル左翼)が跋扈するようになった。
 良くも悪くも日本人の純粋無垢なところが仇になってしまったと言える。

■危険なのは「教育勅語」ではなく「思想統制」

 その程度の思想統制で簡単に洗脳されるというのは、単純と言えば単純だが、古今東西、人間というものは毎日聞いて(触れて)いる思想に影響されやすい生き物なのだろう。だからこそ、思想というものは重要な役割を果たすことになる。

 柴山文科相の「道徳などに使うことができる分野は十分ある」というのは、「部分的に使えるものがある」ということだから間違っていない。上で見た通り、ごく当たり前の道徳教育に使える要素は十分にある。だからといって「教育勅語」を復活する必要性は感じられないが、道徳教育に普遍的なものを使用することは全く問題ない。

 逆に、「教育勅語」に書かれているものは全て間違いだとする意見は間違っている。未だにGHQの意見をそのまま伝えているだけだとも言える。天皇の存在を肯定しながら、天皇の言葉を危険だとするのは明らかに矛盾している。
 日本のリベラル左翼が「GHQチルドレン」と言われるのは、こういう姿勢からもよく分かる。GHQの思想統制という社会実験が招いた結果としての悲劇がここにある。
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「多様性」の無理解が「全体主義」を生む

■「多様性」と「画一性」

 「多様性」、その言葉が意味するところは、「いろんな人々がいる」ということに尽きるが、いろんな人々がいるということは、「いろんな考えがある」ということでもある。

 少数のLGBT者と多数の非LGBT者が存在することも多様性なら、LGBTに理解を示す人と、LGBTに無理解な人がいることも多様性である。多種多様な考えが有ることを認めた上で、何が正しくて何が間違っているのか、そこを話し合いを通して詰めていくことによって、妥協点を見つける。それが、本来の多様性を認めた社会の姿である。

 ところが現状は、「少数派のLGBT者に無理解の者は火炙り(炎上)の刑だ!」と言わんばかりの、およそ多様性とは全く逆の「画一性」が蔓延っているかに見える。

 「画一性」とは様々な考えを統一するということなので、思想的には「全体主義」を意味している。
 様々な考えの妥協点を探るというのが「多様性」、様々な考えを1つに統一するのが「画一性」ということになる。この違いは小さいようで実に大きい。なぜなら、「画一性」とは「多様性」を認めないという意味だからである。

■「多様性」を認めるとはどういうことか?

 LGBT者と非LGBT者では何がどう違うのか? 両者がお互いを尊重するにはどういった社会を構築すべきなのか? 両者がストレスなく生きていくためには、どういったルールを作ることが正しい社会の在り方なのか? そういった社会のルールを構築していく過程において、LGBTの理解も深まり、無理解であった人も少しずつ理解していくことが可能となる。それこそ、多様性社会の有るべき姿のはずだ。

 「LGBTに無理解な人間は差別主義者だ!」「LGBTを差別するような発言は許されない!」、最近、そういった言葉をよく見聞きするが、結局、そういった意見は、何も話し合うことなく、初めからルールが決まっているようなものであり、「話し合う」という過程そのものがスッポリと抜け落ちてしまっている状態だとも言える。
 話し合うことで初めて「多様性」の妥協点が見つかるはずが、その過程をゴッソリと省いてしまっているわけだから、端から「多様性」を認めないということになってしまう。

■「多様性」の意味の再考を

 「話し合いなどするまでもなく差別をすることは悪いことだ!」と言う人がいるかもしれない。しかし、その「差別」というものも「多様性」と同様、「話し合う」という過程を経ないことによって深刻化するものである。

 なるほど、確かに現代における差別は、全て話し合うことのないタブーとなっている。そのタブーはなぜ生まれたのか? 話し合うことを行ってこなかったことにより差別は固定化されてきたはずだ。「多様性」ではなく「画一性」が、多くの「差別」を解決不可能な難題にしてしまったはずだ。
 「多様性」を認めることこそが「差別」を無くす手段と成り得ても、「多様性」を認めない「画一性」(全体主義)が「多様性」のことだと曲解していては差別が無くなるはずもない。

 初めに多様性とは、「いろんな人々がおり、いろんな考えがある」と書いたが、現代の日本での「多様性」は、「いろんな人々がいるが、いろんな考えは認めない」になってしまっている。これがなぜ多様性を認める社会になるのか解らない。

 ○「いろんな人々がおり、いろんな考えがある

 ●「いろんな人々がいるが、いろんな考えは認めない

 我々は、もう一度、「多様性」の意味を考え直す必要があるのではないだろうか。

【追記】2018.10.2
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>詭弁だな。
議員が「少数に無理解」は素人が消防士や警官やってるようなものでトラブルの種にしかならない。

 議員が「少数に無理解」ではいけないかもしれませんが、“議員が「少数に無理解」”だと勝手に判断しているだけなら、議員でなくても問題です。

>エントリ主の主張が「内心」にあれば、批判はされません。 口に出したら、その瞬間から批判を受ける可能性があります。

 だから、その姿勢が差別を深刻化すると言っているのです。

>まさか、いじめる自由とか人権を蹂躙する自由とか言うんじゃないだろうね?

 それは自由ではなく放埒です。それに、多様性の問題といじめ問題は全く無関係です。いじめや人権をマイノリティと結び付けることに無理があります。

>このエントリーは一般論としては正しい。
ただし杉田氏の話をネタ元にしているのならちょっと違う。

 無論、一般論です。私は杉田氏の批判は行っていません。

>今回の騒動は、
ある言論が圧倒的多数から批判されたというだけのこと。
言論を批判するのも言論の自由の一つ。
それを画一性とは呼ばない。

 杉田氏は以前から著書であのような類いのことを書いていました。しかし、なぜその本は全くスルーなのに、今回の雑誌に限って批判されることになったのでしょうか? 言論の自由以前に、その不自然さをこそを問題にするべきです。

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