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「多様性」の無理解が「全体主義」を生む

■「多様性」と「画一性」

 「多様性」、その言葉が意味するところは、「いろんな人々がいる」ということに尽きるが、いろんな人々がいるということは、「いろんな考えがある」ということでもある。

 少数のLGBT者と多数の非LGBT者が存在することも多様性なら、LGBTに理解を示す人と、LGBTに無理解な人がいることも多様性である。多種多様な考えが有ることを認めた上で、何が正しくて何が間違っているのか、そこを話し合いを通して詰めていくことによって、妥協点を見つける。それが、本来の多様性を認めた社会の姿である。

 ところが現状は、「少数派のLGBT者に無理解の者は火炙り(炎上)の刑だ!」と言わんばかりの、およそ多様性とは全く逆の「画一性」が蔓延っているかに見える。

 「画一性」とは様々な考えを統一するということなので、思想的には「全体主義」を意味している。
 様々な考えの妥協点を探るというのが「多様性」、様々な考えを1つに統一するのが「画一性」ということになる。この違いは小さいようで実に大きい。なぜなら、「画一性」とは「多様性」を認めないという意味だからである。

■「多様性」を認めるとはどういうことか?

 LGBT者と非LGBT者では何がどう違うのか? 両者がお互いを尊重するにはどういった社会を構築すべきなのか? 両者がストレスなく生きていくためには、どういったルールを作ることが正しい社会の在り方なのか? そういった社会のルールを構築していく過程において、LGBTの理解も深まり、無理解であった人も少しずつ理解していくことが可能となる。それこそ、多様性社会の有るべき姿のはずだ。

 「LGBTに無理解な人間は差別主義者だ!」「LGBTを差別するような発言は許されない!」、最近、そういった言葉をよく見聞きするが、結局、そういった意見は、何も話し合うことなく、初めからルールが決まっているようなものであり、「話し合う」という過程そのものがスッポリと抜け落ちてしまっている状態だとも言える。
 話し合うことで初めて「多様性」の妥協点が見つかるはずが、その過程をゴッソリと省いてしまっているわけだから、端から「多様性」を認めないということになってしまう。

■「多様性」の意味の再考を

 「話し合いなどするまでもなく差別をすることは悪いことだ!」と言う人がいるかもしれない。しかし、その「差別」というものも「多様性」と同様、「話し合う」という過程を経ないことによって深刻化するものである。

 なるほど、確かに現代における差別は、全て話し合うことのないタブーとなっている。そのタブーはなぜ生まれたのか? 話し合うことを行ってこなかったことにより差別は固定化されてきたはずだ。「多様性」ではなく「画一性」が、多くの「差別」を解決不可能な難題にしてしまったはずだ。
 「多様性」を認めることこそが「差別」を無くす手段と成り得ても、「多様性」を認めない「画一性」(全体主義)が「多様性」のことだと曲解していては差別が無くなるはずもない。

 初めに多様性とは、「いろんな人々がおり、いろんな考えがある」と書いたが、現代の日本での「多様性」は、「いろんな人々がいるが、いろんな考えは認めない」になってしまっている。これがなぜ多様性を認める社会になるのか解らない。

 ○「いろんな人々がおり、いろんな考えがある

 ●「いろんな人々がいるが、いろんな考えは認めない

 我々は、もう一度、「多様性」の意味を考え直す必要があるのではないだろうか。

【追記】2018.10.2
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>詭弁だな。
議員が「少数に無理解」は素人が消防士や警官やってるようなものでトラブルの種にしかならない。

 議員が「少数に無理解」ではいけないかもしれませんが、“議員が「少数に無理解」”だと勝手に判断しているだけなら、議員でなくても問題です。

>エントリ主の主張が「内心」にあれば、批判はされません。 口に出したら、その瞬間から批判を受ける可能性があります。

 だから、その姿勢が差別を深刻化すると言っているのです。

>まさか、いじめる自由とか人権を蹂躙する自由とか言うんじゃないだろうね?

 それは自由ではなく放埒です。それに、多様性の問題といじめ問題は全く無関係です。いじめや人権をマイノリティと結び付けることに無理があります。

>このエントリーは一般論としては正しい。
ただし杉田氏の話をネタ元にしているのならちょっと違う。

 無論、一般論です。私は杉田氏の批判は行っていません。

>今回の騒動は、
ある言論が圧倒的多数から批判されたというだけのこと。
言論を批判するのも言論の自由の一つ。
それを画一性とは呼ばない。

 杉田氏は以前から著書であのような類いのことを書いていました。しかし、なぜその本は全くスルーなのに、今回の雑誌に限って批判されることになったのでしょうか? 言論の自由以前に、その不自然さをこそを問題にするべきです。

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追記しました。

投稿: 管理人 | 2018年10月 2日 (火) 22時19分

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