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安藤優子アナの発言は「不謹慎」だったのか?

■「神様が与えた試練」が否定された訳

 最近、誰かが言った「言葉(失言)」についての記事ばかり書いているような気がするのだが、今回も例に漏れず「失言」系の記事になる。
 今回のお題は、フジテレビの安藤優子アナが競泳の池江璃花子選手について語ったとされるの次のような発言について。

>「(池江璃花子さんは)可愛らしさとすべてを持ってらっしゃると思ったんですけど、神様がちょっと試練を与えたのかな…というふうにも思います。

 この意見が「不謹慎」であるとして大炎上したのはご存知の通り。

 おそらくは、池江璃花子選手の「神様は乗り越えられない試練は与えない」という言葉に影響されて思わず口から出た言葉だったのだろうと推察するが、この意見がなぜ「不謹慎」と受け取られてしまったのか?
 結論を先に言えば、「言うタイミングを間違ってしまった」、これに尽きると思う。

■病気を克服した後に言うべき台詞だった

 この意見自体は言うタイミングさえ間違わなければ素晴らしい意見でもある。では、そのタイミングはいつなのかというと、「病気が治った後」、もっと具体的に言えば、「病を克服し、水泳選手として復活し、更なる飛躍をした時」である。
 その時に、「あれ(病)は神様が彼女に与えた試練だったのかもしれない」と言うのであれば、感動的な美談と成り得るのだが、いかんせん、病気が判明した直後に言ったのがいけなかった。そういう意味での失言だったのだと思う。

 池江璃花子選手が、病気を克服し、大活躍されている時に、

 「あの病は、神様がちょっと試練を与えたのかな、というふうにも思います。

 これなら、誰もが納得して拍手喝采することだろう。

 しかし、池江璃花子選手が、病気を発表した直後に、

 「神様がちょっと試練を与えたのかな、というふうにも思います。

 これでは、あまりにも達観した意見過ぎて、一般の人々にはなかなか受け入れ難くなってしまう。

■言うタイミングを間違っただけ

 宗教や哲学に造詣が深い人であれば受け入れ易い言葉なのかもしれないが、特にリベラル左翼系のマスコミや言論人などは「神様」などという言葉を使用しただけで反発する人が多いので、余計にバッシングが酷くなってしまったのだろうと思われる。

 ちなみに、安藤優子アナはキリスト教系の上智大学出身者なので、宗教的な認識が前提にあって出てきた言葉なのだろうと思う。だから、以下の彼女の言葉通り、本当に悪気は全く無かったのだと思う。

>「すみません、私は本当に他意はなかったんです。ただ本当に池江さんには良くなっていただきたい、そう思っていただけなので…

 ということで、この問題は、単に、言うタイミングを間違ったという意味での「失言」だったということになるだろうか。
 皮肉なことに、安藤優子アナにとっては自ら試練を呼び込む言葉になってしまったが、今回のことだけで「アナウンサー失格」というのは言い過ぎだろうし、「テレビ番組降板」というのも行き過ぎだと思う。

 池江璃花子選手が本当に病を克服し、ご活躍されるようになれば、安藤優子アナの発言も肯定されるようになっていくだろう。願わくば、その日が1日も早く訪れんことを…。
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政治家は「言葉が命」なのか?

■「詩人」や「俳人」になってしまった政治家

 週末の某テレビ番組で桜田義孝五輪相の「がっかり」発言(失言)の話題を伝えていたので、少しだけ横目で観ていると、以下のような言葉が耳に入ってきた。

 「政治家は言葉が命

 これを聞いて「えっ!?」と思った。いつから政治家は「詩人」や「俳人」になってしまったのだろうか?…と。

 しかしその違和感とは別に、よくよく考えてみると、これほど国民を馬鹿にした言葉もないような気がする。なぜなら、この言葉の裏には「政治家は言葉さえ綺麗なら、馬鹿な国民は騙せる」という意味合い(ニュアンス)が込められているとも考えられるからである。もっと言えば、「二枚舌の偽善者であっても言葉さえ巧みに操れる人物なら政治家に向いている」ということになってしまう。

 政治家にとって最も重要なことは、言うまでもなく「正しい政治を行うこと」であって「綺麗な言葉で話すこと」ではない。言葉が汚なくても正しい政治を行える政治家と、言葉が綺麗でも正しい政治を行えない政治家なら、誰が何と言おうと前者こそが有能な政治家である。
 ちなみに、ここで言う「正しい政治」とは「国益に適った政治」のことを意味する。

 ゆえに、正しくは「政治家は政策が命」であって、言葉は二の次になる。

 「言葉が命」というのは、言葉によって人の感情を動かす職業に就いている人にこそ当て嵌まる言葉だと言える。良い意味で感情を揺さぶることができるのが「詩人」や「俳人」、悪い意味で感情を揺さぶることができるのが「詐欺師」である。

 「詩人(俳人)は言葉が命

 「詐欺師は言葉が命

 これならピッタリ当て嵌まる。

■「政治家は言葉が命取り」になっている日本社会

 政治家の行う「政策」よりも、政治家の「言葉遣い」を重要視するような社会は間違っている。政治の中身よりも外面ばかりに目を向ける社会は明らかにおかしい。
 政治の世界は、あくまでも「はじめに政策ありき」であって、「はじめに言葉ありき」ではない。

 同じテレビ番組内で、「政治家は、言葉よりも思想が重要だ」と言っている人もおられたが、思想が大事と言うなら、なぜ、言葉遣いを批判する必要があるのかサッパリ解らなかった。
 もしかすると、「思想が言葉を作る」と言いたかったのかもしれないが、言葉遣いが悪いことや失言することが、必ずしも思想に原因が有るとは言い切れない。正しい思想の持ち主であっても、失言することは有り得る。
 思想と言葉を強引に結び付けるのではなく、思想と政策を結び付けた批判をするべきだと思う。

 なぜ、こういう政策よりも言葉が重要などという本末転倒な風潮が蔓延るのかと言えば、結局、現代の日本では、「政治家は言葉が命」ではなく、「政治家は言葉が命取り」になってしまっていることが問題なのだと思う。だからいつまで経っても、政策に目が行かない。

 消費増税が目前に迫ったこの時期、もういいかげんに、上っ面(言葉)ばかりに目を向けるのではなく、肝心の中身(政策)にこそ目を向けた議論をしていただきたいものだ。
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映画『クワイエット・プレイス』にみる「言葉狩り社会」の恐怖

■「音を立てたら、即死。」と「失言をすれば、即死。」

 昨年、「音を立てたら、即死。」というキャッチフレーズが話題となって大ヒットしたホラー映画があった。その映画のタイトルは『クワイエット・プレイス』。著名な米国映画批評サイト「ロッテン・トマト」で95点をたたき出した作品でもある。

 少しネタバレになってしまうが、本作は、宇宙からの隕石によって侵入してきた盲目の生物(クリーチャー)が、音を立てれば攻撃してくるという設定で、盲目であるがゆえに聴覚が異常に発達した生物が人間を襲う恐怖を描いている。
 
 本作を観て、音を立てることが死に直結するという意味では、現代の日本でブームになっている「言葉狩り」というものがメタファー(比喩)として描かれているような気がした。
 映画が「声を発することで即死亡」なら、日本では「失言をすれば即死亡(社会的に抹殺されるという意味)」といったところだろうか。

 声を出すことが禁句になっている社会では、音を立てること及び、会話することで成り立っている文明は消滅し、誰ともまともに会話ができない人間社会の文化は廃れていく。そういう単純ながらも見落とされがちな恐怖をバックグラウンドで描いているところがこの映画の持ち味だが、その恐さを演出しているのは、結局のところ、“耳が良過ぎるクリーチャー”の存在である。

■「クワイエット・プレイス」化しつつある日本社会

 日本国内で他人の発する言葉に聞き耳を立てて、ほんの些細な言葉の綾(失言)に見つけることに狂奔し、執拗に「言葉狩り」を行っている人々の姿は、まるで、本作に登場するクリーチャーそのものだとも言える。
 虎視眈々と獲物が失言するのを待ち構え、失言を発したと同時に「待ってました」とばかりに一斉に飛びかかる姿を想像してみると、まさに“耳が良過ぎるクリーチャー”そのものである。

 少し穿った見方をすれば、本作は、あまりにも他人の言葉に敏感に成り過ぎた窮屈な社会は、文化が廃れていくということを暗に描いているのかもしれない。

 現代の日本では「言葉狩り」を得意とする“耳が良過ぎるクリーチャー”が跳梁跋扈し、その数は日増しに増殖しつつあるように見える。
 「言葉狩り」は「人間狩り」に通じる。小さな音(失言)を立てることにビクビクするような社会は、人間同士に不信感を募らせることで社会を荒廃させ、これまでに築いてきた文化そのものを崩壊させうる可能性を秘めている。

 人は誰でも普通に生きていれば、気が付かないうちに「失言」の1つや2つはするものであり、気が付かないうちに自分の発した言葉が他人の心を傷付けてしまっていることも多々ある。
 しかし、だからと言って、「失言」することが許されない「失言」の全く無い社会の構築などを目指しても、息苦しい社会になるだけである。

 「失言」の全く無い社会「クワイエット・プレイス」を理想とすることは「言論統制社会」の肯定に他ならない。日本の言論空間が「クワイエット・プレイス」にならないことを願う。
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「がっかり発言」を素直に考える

■意見が真っ二つに分かれている「がっかり発言」

 競泳選手である池江璃花子氏が白血病であることを公表したことで、桜田義孝五輪相が「本当にがっかりしている」と語ったことが大きな問題になっており、識者の間でも意見が分かれている。

 百田尚樹氏「(桜田氏の)その発想が情けない!

 堀江貴文氏「マジでマスコミくそ

 あの百田尚樹氏が今回の発言を批判する側に回っていることは驚きだが、少し興味が湧いたので、桜田氏の発言の全文をネットで検索して読んでみた。(以下が全文)

>「正直なところ、びっくりしましたね。聞いて。本当に。病気のことなので、早く治療に専念していただいて、一日も早く元気な姿に戻ってもらいたいというのが、私の率直な気持ちですね」

 -競泳の中ではですね…

>「本当に、そう、金メダル候補ですからねえ。日本が本当に期待している選手ですからねえ。本当にがっかりしております。やはり、早く治療に専念していただいて、頑張っていただきたい。また元気な姿を見たいですよ。そうですね」

 -大臣はこれまで、池江選手の活躍をどのようにご覧になられてましたか

>「いやあ、日本が誇るべきスポーツの選手だと思いますよね。われわれがほんとに誇りとするものなので。最近水泳が非常に盛り上がっているときでもありますし、オリンピック担当大臣としては、オリンピックで水泳の部分をね、非常に期待している部分があるんですよね。一人リードする選手がいると、みんなその人につられてね、全体が盛り上がりますからね。そういった盛り上がりがね、若干下火にならないかなと思って、ちょっと心配していますよね。ですから、われわれも一生懸命頑張って、いろんな環境整備をやりますけど。とにかく治療に専念して、元気な姿を見せていただいて、また、スポーツ界の花形として、頑張っていただきたいというのが私の考えですね」

 -最後に一言だけ。池江選手にエールを送るとしたらどんな言葉を

>「とにかく治療を最優先にして、元気な姿を見たい。また、頑張っている姿をわれわれは期待してます、ということです」
【引用元】産経ニュース

■「インタビュー事故」としての「がっかり発言」

 実際に全文を読んでみると、確かに誤解を招いても仕方がない発言ではあるとは思えた。しかし同時に、これは「失言」と言うよりも「インタビュー事故」に近いのではないかとも思えた。
 図らずも、「-競泳の中ではですね…」という質問が、失言を招く煽り言葉になってしまっている。

 おそらく、桜田氏の「元気な姿に戻ってもらいたい」という言葉に対する受け言葉であり、失言を期待した意図的な誘導質問ではないだろうけれど、こう質問されると、オリンピックの話になってしまわざるを得ないので、この質問自体にも問題があったのではないかと思える。

 はたして堀江氏の「マジでマスコミくそ」というのが、そういう意味(意図的な誘導質問)で言っているのか、それとも単に毎度の「言葉の切り取り報道」を指しているのかは判らないが、偶発的な「放送事故」ならぬ「インタビュー事故」というのが今回の問題の本質ではないかと思う。

■池江璃花子氏は「失言問題」など気にしていない

 「がっかり」という言葉を「残念」という言葉にすれば、公的な意見として受け止められる可能性が高いが、「がっかり」というのは、公的と言うよりも、私的な意見として受け止められかねないので、あらぬ誤解を招いてしまう。

 当人(桜田氏)には悪気は毛頭なかったのだろうけれど、一言で言えば、池江璃花子氏を「1人の女性」として見た意見ではなく、「水泳の選手」と限定して意見したことが問題だったということになるだろうか。

 そういうことだから、誤解を招いたことを謝罪すれば済む問題だと思う。この失言で「政治家失格」とか、「辞任せよ」というのは行き過ぎだと思う。そもそも、「全く失言しないこと」が政治家の絶対条件になっているような社会はおかしいわけで、そんな社会が常態化してしまえば、いつまで経っても言葉狩り社会から脱皮することができない。
 当の池江璃花子氏が「ショックを受けた」と批判しているのであれば話は別だが、池江璃花子氏はそんな器量の小さい人物ではないと思う。こんな小さな失言問題で怒るような人物なら、「神様は乗り越えられない試練は与えない」というような立派な台詞を言えるわけがない。

 ここは外野は騒がずに、そっと池江璃花子氏を見守るのが大人の対応というものだろう。
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『一人の力で日経平均を動かせる男』のシンプルな成功法則

■「株式相場で230億円稼いだ男」の自伝本

 昨年末に書店で見かけて気になっていた書籍『一人の力で日経平均を動かせる男の投資哲学』を購入し読んでみた。

 本書は「一人の力で日経平均を動かせる男」という異名だけでなく、実際に「株式相場で230億円稼いだ男」として知る人ぞ知る相場師cis氏の初単行本になる。内容的にはハウツー(How to)本ではなく、cis氏個人のトレーダー人生を綴った自伝本だったが、実績のある相場師の生の体験談は非常に興味深く、目からウロコな話もあり、一気に読み終えた。

 アマゾンのレビュー欄を見てみると、具体的な株式の購入手法が書かれていないということで低評価の人が何人もいたが、cis氏の投資哲学なるものはハッキリと書かれてあったので、これはこれで一種のハウツー本としての機能も果たしているのではないかと思う。

■チビチビ損してガッツリ儲ける(損小利大)

 大物相場師がどんな売買をしているのかという興味は尽きないが、意外にもcis氏の場合、「上がっている株を買い、下がっている株は買わない」という順張りのトレーダーだった。株式投資を始めた頃は、順張りではなかったそうで、それゆえに儲けることができなかったらしい。

 「押し目買いはやってはいけない」とか「ナンピン買いは最悪のテクニック」とか、基本的に逆張り投資家の私には耳の痛い話も多かったが、逆にそこが新鮮だった。
 確か、村上世彰氏の自伝本『生涯投資家』にも「株は騰がり出したら買い、下がり出したら売る」と書かれていたので、やはり基本的には順張りの方が儲かるものなのかもしれない。

 順張り、逆張り以前に、チビチビ損してガッツリ儲ける(損小利大)が基本だと書かれていた。(そういう文章で書かれているわけではない)
 大部分のトレーダーは、チビチビ儲けてガッツリ損する(利小損大)になっているので儲けられない。これは確かにその通りなのだが、このルール(鉄則)を守るのは簡単なようで難しい。

■銘柄を買うのではなく、確率を買う

 cis氏の場合は、上がっている株はそのまま放置し、下がった株は即損切りを徹底しているらしい。
 確かに専業で短期売買(デイトレ)を行っている人なら、それが正しい投資スタイルなのかもしれない。しかし会社に勤めていながら副業や趣味で株式投資をしている人の場合は、相場にずっと張り付いているわけにはいかないので、実践するのはなかなか難しい。

 cis氏の投資哲学は実にシンプルな成功法則に基づいている。それは極論すれば、「騰がる確率」と「下がる確率」のどちらにベットするかというスタイルである。
 例えば、100銘柄の株式をマークしている人がいたとして、その中に騰がり基調にある株を10銘柄同時に購入したとしよう。その場合、ある一定の額までそのまま騰がる可能性が高いか、それともある一定の額まで下がる可能性が高いかを比較した場合、騰がり基調にある場合は、前者の騰がる可能性に賭けた方が勝てる確率が高くなるということなのだろうと思う。理論的には同じなのかもしれないが、人間心理というものが加わると確率に歪みが生じる。
 その場合、銘柄も業績もあまり関係がなくなる。選んだ10銘柄の内、6銘柄以上勝てば、トータルで儲けになるという実にシンプルな法則に基づいている。銘柄を買うのではなく、確率を買う。それが短期売買のシンプルな成功法則ということなのだろう。

 大富豪に成るような人は無駄遣いをしないとよく言われるが、それはcis氏にも当て嵌まる。億万長者であっても効率重視で、自宅は買わない、高級車も買わない、ブランドものにも興味がないという徹底ぶり。
 自らの体験談も混じえた「不動産投資は罰ゲーム」という話は非常に参考になった。こういう貴重な意見を読めただけでもお金を出して購入した価値がある。

 未だ読まれていない個人投資家の人や株式投資に興味が有る人に、強くオススメしたい。
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「悪夢のような民主党政権」という言葉の是非

■民主党時代は悪夢のような時代だった

 衆院予算委員会における安倍総理の「悪夢のような民主党政権」という発言が物議を醸している。

 「民主党時代は悪夢だった」というような話は、これまでにもいろんなところで耳にしてきたので、今更、話題になるほど新鮮な発言とも思えないのだが、安倍総理の脳裏にそういった言葉の断片が記憶として残っていたため、つい口に出てしまったのだろう。
 保守系の論客、山村明義氏の著書に『民主党政権-悪夢と恐怖の3年3ヶ月』というタイトルの本があったので、ひょっとすると、以前にこの本を読まれたのかもしれない。

 「民主党時代は悪夢だった」というのは、一般的には主に就職難の時代だったというのが大きいと思う。リーマンショックで経済が瀕死の状態だったにも拘らず、景気対策としての有効な経済政策が全く打てなかったため、なんのセーフティネットも構築できないまま、ただ、ひたすら経済状況が悪化していくのを指を咥えたまま呆然と眺めているしかないような時代だった。あの時代、不況の煽りを受けて職を失った人にとっては悪夢と言うより地獄だったかもしれない。

 個人的なことを書かせてもらうと、個人投資家にとっても、投資難の時代だった。来る日も来る日も、株価は下がる一方で、ネット証券のログインパスワードを忘れてしまうほどだった。ある証券会社からは、取引が全く無いせいか、「口座管理料を徴収します」というようなメールが来たこともあった。
 そこへ、泣きっ面に蜂の如く、東日本大震災が発生、まるで日本全体が貧乏神にでも取り憑かれたかのような暗澹たる時代だった。

■国内の政治家発言ではなく、海外の政治家発言について言い争うべき

 野党の政治家が自民党に対して「悪夢のような自民党政権」と言っても、何のお咎めもなく、安倍総理に対して「悪の独裁者」と言っても、何のお咎めもなし。しかし、安倍総理が「悪夢のような民主党政権」と言うだけで袋叩きにされるのでは、あまりにも理不尽で偏っている。

 「悪夢のような民主党政権」と言うより、「悪夢のような民主党時代」と言えば、誰もが認めざるを得ないので、安倍総理もここまでバッシングされることもなかったのかもしれない。

 しかしながら、おそらく、憲法改正に反対の政党は現在ただいまも「悪夢のような自民党政権」と思っているだろうから、お互い様だろうと思う。なんでもかんでも、やることなすこと、「反対!」「反対!」と言われるのでは、「悪夢のようだ」と思われても仕方がない。

 何度も言うように、政治家の言葉の善し悪しを政治家同士で言い争われても、国民にとってはしらけるだけで何のメリットもなく国益にもならない。与党と野党の国内の政治家同士がどうのこうのと言い争うぐらいなら、政党の垣根を超えて他国の政治家の言葉に対して、言い争うべきだ。

 例えば、韓国国会議長の「従軍慰安婦問題は天皇の謝罪の一言で解決される」という発言が問題になっているが、そういった発言に対して与党の政治家や野党の政治家という立場ではなく、“日本の政治家”という立場で言い争いをするべきだ。
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官僚の不正行為が無くならない理由

■変わらない「官僚>政治家」の構図

 厚生労働省の統計不正の発覚が大きな問題となり騒がれている。先の財務省の決裁文書改竄問題と同様、官僚の不正、隠蔽問題は枚挙に暇がないが、なぜかこの国では、官僚の不正行為が全て政治家の責任に転嫁される傾向にある。

 官僚機構は時の政権と一蓮托生ということなのかもしれないが、政治家を叩いて官僚の不正行為が無くなるとは到底思えない。官僚が政治家の言いなりになる完全な事務方に徹しているのであれば、そういった理屈も成り立つかもしれないが、日本の場合、どう見ても、政治家よりも官僚の方が立場が上になっているように見える。一国の総理大臣ですら、財務省に対して命令できない(消費増税を止めろと言えない)ところを見ても、そのこと(官僚>政治家)は明白だ。

■スケープゴートにされる政治家

 実際に不正行為を行った官僚をスルーして、批判の矛先を政治家(与党)に向けるという行為自体が、皮肉なことに官僚の不正を許す構図になってしまっており、こういった本末転倒な風潮を改めない限り、いつまで経っても官僚の不正行為は無くならないと思う。

 当事者が罪を犯しても他人がスケープゴートにされることが端から判っているようなものであり、これは言うなれば、飲酒運転の身代わり代行のようなものである。
 当事者がお酒を飲んで交通事故を起こしても、マスコミや評論家の批判の矛先が当事者に向かわず、他人に向かうようなものである。運送会社の社員が交通事故を起こしても、その責任の全てが運送会社の経営者に転嫁されるようなものであり、そんな筋違いなことを繰り返している限り、一向に社員の不正行為(この場合は飲酒行為)は無くならない。

■筋違いな批判が不正を深刻化させる

 もっと卑近な例で言えば、学校のいじめに置き換えても同じことが言える。批判の矛先が実際にいじめを行った生徒ではなく、教師や校長に向かうということであれば、一向にいじめは無くならないのと同じことだ。

 財務省が不正を行えば「財務大臣が悪い!」、厚生労働省が不正行為を行えば「厚生労働大臣が悪い!」、延いては、その大臣を任命した「総理大臣が悪い!」では、一向に問題解決に向かわない。

 お役所での不正行為も、学校でのいじめ行為も、罪を犯した当事者を批判・糾弾してこそ問題解決に向かう。しかし、“違う目的”を優先するがためだけの批判に堕してしまえば、問題が解決に向かうどころか、逆に問題が深刻化してしまう。

 いじめの“加害者の人権を守る”という目的が優先され、筋違いの批判を繰り返しても、いじめはより深刻化するのと同様に、“与党を批判する”という目的が優先され、筋違いの批判を繰り返しても官僚の不正行為は無くならないどころか、より深刻化する。(実際にそうなっている)

 筋違いな批判こそが、社会全体を悪い方向に引っ張る力になっているということを知らねばならない。
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麻生発言は「少子高齢化問題」よりも重要なのか?

■「少子高齢化問題」が置いてきぼりの麻生批判

 自民党の麻生氏が講演の場で次のような発言をしたということで、またまた騒ぎになっている。

年寄りが悪いという変な野郎がいっぱいいるけど、間違っていますよ。子どもを産まなかった方が問題なんだから

 麻生氏は既に釈明(謝罪)を済まされたそうだが、この発言のどこが問題なのだろうか?

 現代の日本において、政治家達は与党・野党を問わず、「少子高齢化は深刻な問題だ」と言い続けてきた。これはマスコミも同様で、「少子高齢化問題は日本の最も重要な社会問題だ」と口角泡を飛ばして口が酸っぱくなるほどに宣ってきたはずだ。

 本当にそう思うのであれば、「子どもを大勢産むこと」と「子どもを産まないこと」のどちらが問題なのかと問われれば、当然、後者の「子どもを産まないこと」でなければ筋が通らないことになる。良いか悪いかはともかくとして、それを認めずして、少子高齢化問題に取り組むなど笑止千万であり有り得ない話だからだ。

■「少子高齢化」よりも「言葉狩り社会」の是正を

 それに今回の麻生氏の発言は単なる比較論である。「子どもを産まないことが悪い」と批判しているのではなく、単に「子どもを産まなかった方が問題だ」と言っているに過ぎない。

 麻生氏の言葉足らずを補うと以下のようになるだろうか。

 「少子高齢化問題というのは、昔、子どもを大勢産んだ現在の高齢者達よりも、子どもをあまり産まなくなった現代の若年者達の問題だ

 要するに、「少子高齢化問題を解決できるのは、過去の高齢者ではなく、現在の若年者でしかない」ということなのだろう。

 子どもを産むか産まないかは個人の自由だ。しかし、少子高齢化が悪いことだと喧伝し、その解決策を模索している側の人間達が、「子どもを産むこと」と「子どもを産まないこと」を天秤にかけて、「子どもを産まないこと」を問題視しようとせず、恰も、子どもを産むことが悪いことであるかのように宣う姿勢は矛盾している。

 麻生氏が何を言ったかよりも、こんな些細な発言(言葉の綾)を問題視し、本丸の「少子高齢化問題」が置き去りになっていることの方がよっぽど問題だと言える。

 「少子高齢化問題」を本当に解決したくば、先に糾されるべきは、子どもを産まないことではなく、むしろ現代の「言葉狩り(ポリコレ)社会」の是正の方が重要かもしれない。
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「インフルエンザ集団感染」で判明したこと

■インフルエンザワクチンは有効なのか?

 今週、長野県松本市の病院でインフルエンザの集団感染が発生し、老齢の入院患者が2人死亡したというニュースがあった。毎年、インフルエンザで死亡する高齢者はいるが、今回のニュースで特筆すべきは、入院患者だけでなく、病院の職員が30数人もインフルエンザに感染しているところだろうか。しかも、その職員達はインフルエンザワクチンを摂取していたと伝えられている。

 ここで疑問となるのは、インフルエンザワクチンは有効なのか?ということだが、ほとんどのインフルエンザウイルスには無効というのが実際のところらしい。たまに流行しているウイルスの型とピッタリと合った時だけ有効ということはよく知られている。
 ウイルスというのは毎年、進化(変異)を繰り返しており、次の年に流行するウイルスをピッタリ当てるというような芸当は誰にもできないため、ほとんど無効というのが実情らしい。そもそも流行する型が判ったとしても、そんな型通りのワクチンを作れるのかどうかも疑問だが。

■根拠のない思い込みには注意が必要

 毎年、ワクチンを摂取していてもインフルエンザに罹ってしまう人がいることは周知の事実で、実際、私の知人も病院に勤めているが、ワクチンを摂取していてもインフルエンザに罹っていたことがある。しかもかなり重い症状だったという。

 私自身は10年程前まではワクチンを摂取していたが、この10年来、ワクチンは摂取していない。この10年間で1度だけインフルエンザに感染(家族のインフルエンザが伝染った)したことがあるが、処方された薬(タミフル)もリスクを考慮して飲んでいない。

 インフルエンザウイルスに対する抵抗力(免疫力)が低い乳幼児や高齢者でなければ、大抵のインフルエンザは風邪と同じように薬は飲まなくても寝ていれば治ると言われている。
 薬が全く無効というわけではないが、乳幼児や高齢者であれば、抵抗力の問題で逆に薬自体の副作用リスクも高くなる。インフルエンザで死亡する人もいれば、薬の副作用で死亡する人もいるので、この辺は悩ましい問題でもあるが、抵抗力と症状の重篤性をみて臨機応変に対処する必要がある。

 「ワクチンを摂取すれば安心」「薬を飲めば安心」と思い込むことはプラシーボ効果的には良い面があっても、医学的には必ずしも安全ではないという現実も併せて考えなければいけない。

■インフルエンザの判定法

 ところで、インフルエンザに罹ったかどうかは病院に行って調べなければ判らないので、病院に行かざるを得ず、それが原因でインフルエンザに罹ってしまった(病院で伝染った)という人が大勢いるかもしれない。

 これは確かに難しい問題だが、インフルエンザ経験者としてアドバイスさせていただくと、普通の風邪とインフルエンザでは症状に1つ大きな違いがある。それは、味覚が無くなってしまうこと。

 風邪をひくと食欲が無くなることがあるが、インフルエンザに罹ると食欲ではなく味覚が無くなる。苦く感じると言った方が近いかもしれないが、インフルエンザを発症してしばらくすると体内の亜鉛が欠乏してしまうため、何を食べても味が分からなくなってしまう。
 どんなインフルエンザにも適用できるかどうかは分からないが、インフルエンザかどうかを判別する1つの指標にはなると思うので参考までに。
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