安藤優子アナの発言は「不謹慎」だったのか?
■「神様が与えた試練」が否定された訳
最近、誰かが言った「言葉(失言)」についての記事ばかり書いているような気がするのだが、今回も例に漏れず「失言」系の記事になる。
今回のお題は、フジテレビの安藤優子アナが競泳の池江璃花子選手について語ったとされるの次のような発言について。
>「(池江璃花子さんは)可愛らしさとすべてを持ってらっしゃると思ったんですけど、神様がちょっと試練を与えたのかな…というふうにも思います。」
この意見が「不謹慎」であるとして大炎上したのはご存知の通り。
おそらくは、池江璃花子選手の「神様は乗り越えられない試練は与えない」という言葉に影響されて思わず口から出た言葉だったのだろうと推察するが、この意見がなぜ「不謹慎」と受け取られてしまったのか?
結論を先に言えば、「言うタイミングを間違ってしまった」、これに尽きると思う。
■病気を克服した後に言うべき台詞だった
この意見自体は言うタイミングさえ間違わなければ素晴らしい意見でもある。では、そのタイミングはいつなのかというと、「病気が治った後」、もっと具体的に言えば、「病を克服し、水泳選手として復活し、更なる飛躍をした時」である。
その時に、「あれ(病)は神様が彼女に与えた試練だったのかもしれない」と言うのであれば、感動的な美談と成り得るのだが、いかんせん、病気が判明した直後に言ったのがいけなかった。そういう意味での失言だったのだと思う。
池江璃花子選手が、病気を克服し、大活躍されている時に、
「あの病は、神様がちょっと試練を与えたのかな、というふうにも思います。」
これなら、誰もが納得して拍手喝采することだろう。
しかし、池江璃花子選手が、病気を発表した直後に、
「神様がちょっと試練を与えたのかな、というふうにも思います。」
これでは、あまりにも達観した意見過ぎて、一般の人々にはなかなか受け入れ難くなってしまう。
■言うタイミングを間違っただけ
宗教や哲学に造詣が深い人であれば受け入れ易い言葉なのかもしれないが、特にリベラル左翼系のマスコミや言論人などは「神様」などという言葉を使用しただけで反発する人が多いので、余計にバッシングが酷くなってしまったのだろうと思われる。
ちなみに、安藤優子アナはキリスト教系の上智大学出身者なので、宗教的な認識が前提にあって出てきた言葉なのだろうと思う。だから、以下の彼女の言葉通り、本当に悪気は全く無かったのだと思う。
>「すみません、私は本当に他意はなかったんです。ただ本当に池江さんには良くなっていただきたい、そう思っていただけなので…」
ということで、この問題は、単に、言うタイミングを間違ったという意味での「失言」だったということになるだろうか。
皮肉なことに、安藤優子アナにとっては自ら試練を呼び込む言葉になってしまったが、今回のことだけで「アナウンサー失格」というのは言い過ぎだろうし、「テレビ番組降板」というのも行き過ぎだと思う。
池江璃花子選手が本当に病を克服し、ご活躍されるようになれば、安藤優子アナの発言も肯定されるようになっていくだろう。願わくば、その日が1日も早く訪れんことを…。
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