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映画『クワイエット・プレイス』にみる「言葉狩り社会」の恐怖

■「音を立てたら、即死。」と「失言をすれば、即死。」

 昨年、「音を立てたら、即死。」というキャッチフレーズが話題となって大ヒットしたホラー映画があった。その映画のタイトルは『クワイエット・プレイス』。著名な米国映画批評サイト「ロッテン・トマト」で95点をたたき出した作品でもある。

 少しネタバレになってしまうが、本作は、宇宙からの隕石によって侵入してきた盲目の生物(クリーチャー)が、音を立てれば攻撃してくるという設定で、盲目であるがゆえに聴覚が異常に発達した生物が人間を襲う恐怖を描いている。
 
 本作を観て、音を立てることが死に直結するという意味では、現代の日本でブームになっている「言葉狩り」というものがメタファー(比喩)として描かれているような気がした。
 映画が「声を発することで即死亡」なら、日本では「失言をすれば即死亡(社会的に抹殺されるという意味)」といったところだろうか。

 声を出すことが禁句になっている社会では、音を立てること及び、会話することで成り立っている文明は消滅し、誰ともまともに会話ができない人間社会の文化は廃れていく。そういう単純ながらも見落とされがちな恐怖をバックグラウンドで描いているところがこの映画の持ち味だが、その恐さを演出しているのは、結局のところ、“耳が良過ぎるクリーチャー”の存在である。

■「クワイエット・プレイス」化しつつある日本社会

 日本国内で他人の発する言葉に聞き耳を立てて、ほんの些細な言葉の綾(失言)に見つけることに狂奔し、執拗に「言葉狩り」を行っている人々の姿は、まるで、本作に登場するクリーチャーそのものだとも言える。
 虎視眈々と獲物が失言するのを待ち構え、失言を発したと同時に「待ってました」とばかりに一斉に飛びかかる姿を想像してみると、まさに“耳が良過ぎるクリーチャー”そのものである。

 少し穿った見方をすれば、本作は、あまりにも他人の言葉に敏感に成り過ぎた窮屈な社会は、文化が廃れていくということを暗に描いているのかもしれない。

 現代の日本では「言葉狩り」を得意とする“耳が良過ぎるクリーチャー”が跳梁跋扈し、その数は日増しに増殖しつつあるように見える。
 「言葉狩り」は「人間狩り」に通じる。小さな音(失言)を立てることにビクビクするような社会は、人間同士に不信感を募らせることで社会を荒廃させ、これまでに築いてきた文化そのものを崩壊させうる可能性を秘めている。

 人は誰でも普通に生きていれば、気が付かないうちに「失言」の1つや2つはするものであり、気が付かないうちに自分の発した言葉が他人の心を傷付けてしまっていることも多々ある。
 しかし、だからと言って、「失言」することが許されない「失言」の全く無い社会の構築などを目指しても、息苦しい社会になるだけである。

 「失言」の全く無い社会「クワイエット・プレイス」を理想とすることは「言論統制社会」の肯定に他ならない。日本の言論空間が「クワイエット・プレイス」にならないことを願う。
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