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「1週間に卵を3〜4個食べると早死に」の衝撃

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■卵は3日に1個しか食べてはいけないのか?

 先日、「1週間に卵を3~4個食べる人は、そうでない人に比べて心疾患や早死にのリスクが高い」という調査結果がアメリカの医師会雑誌(JAMA)で発表された。

 「1日に卵3個」というなら、まだ理解できるのだが、「1週間に3個」というのは、ほぼ全員が対象になってしまうのではないか?と少々、疑問が涌いてしまった。

 卵(主にコレステロール)にまつわる健康話というのは、時代を経るごとにコロコロと変わってきた。  少し前までは、日本でも「卵は1日に1個しか食べてはいけない」というようなことも言われていた。これもコレステロールが悪いという前提で述べられていたことだったが、最近になって、これは実は間違いだったということが言われ始めた。

 厚労省のホームページにも書かれている通り、食事として体内に取り込むコレステロールは全体の2~3割しかなく、残りの7~8割は人体(肝臓)で合成されて作られているので、食事の制限だけでコレステロールを調整するというのはナンセンスということで、卵(コレステロール)悪玉説は否定されつつあった。

■「健康常識」という名の「健康仮説」

 そこにきて、今回の米国の発表。ここまで健康常識というものが二転三転すると、我々は一体なにを信用すればいいのか分からなくなってしまう。

 卵は「完全栄養食品」「物価の優等生」とも言われ、ビタミンCと食物繊維以外の栄養素が全て摂取でき、かつ物価(インフレ)に影響されず安価であることで庶民に最も愛されている食べ物でもある。 最近は、糖質制限をしている人も多いので、そういった人にも卵は欠かせない栄養補給食品でもある。

 それが、「1週間に卵を3個以上食べると早死にリスクが高まる」と言われてもピンと来ず、なかなか受け入れることができないという人も多いのではないかと思う。

 個人的には、こんな発表があっても、これまで通り、卵を1日に2~3個食べ続けようと思っている。人間は卵だけ食べて生活しているわけではないので、卵以外にも早死にリスクを高めている要素がいろいろと隠れているはずであり、このての研究は、いつの時代になっても見逃されている諸条件(物質的要素と精神的要素)が多々あると思っている。

 健康常識が時代を経てコロコロと変わってきたことがそのことを如実に物語っている。いかに現代の最先端と言われている研究結果であっても、所詮は通過点に過ぎず、今後も健康常識は、時代を経るごとにコロコロと二転三転して変わっていくだろうから、「健康常識」という名の「健康仮説」を妄信し過ぎないようにしたいと思う。 

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「親にも殴られたことのない顔を…」社会の到来

■「虐待の禁止」ではなく「体罰の禁止」

 漫画を読む人であれば、以下のような台詞をよく目にすると思う。

 「親にも殴られたことのない顔を…

 この台詞は、お上品な上流階級のボンボンが、今までの生涯で親からも殴られたことのない(綺麗な)顔を他人に初めて殴られた時に言う常套句のような台詞である。ちなみに、ここで言う「殴られた」とは「拳骨」ではなく、主に「平手打ち」のことを意味する。

 千葉県野田市の小学生の女児が「しつけ」を名目とした親からの虐待で死亡するという痛ましい事件があったことで、政府は「児童虐待防止法」の改正案を閣議決定し、親権者による「体罰の禁止」を法律に明記した。

 いかに子どもの肉親であろうと「虐待」を禁止するのは当然とも言える。しかし、ここで少し気になるのは「虐待の禁止」ではなく、一歩進んで「体罰の禁止」にまで踏み込んでいるところだ。
 言葉の定義からしても「虐待」と「体罰」は全く同じものではない。両者の間には一部被っている部分もあると思われるが、よく言われているように「しつけ」の部分は「虐待」や「体罰」とは少し距離を置く必要があるのではないかと思う。

■子どもは罪の意識を持たないモンスター

 私事で恐縮だが、私も子どもの頃は習い事をズル休みして親から切諫(何度も平手打ちで殴られる)されたことがある。その他にも悪いことをすれば何度も殴られたので、親が子どものしつけとして殴ることは当たり前だと思っていた。殴られて初めて悪いことをしたという認識が芽生えたこともある。

 誰でも身に覚えがあると思うが、子どもの頃というのは罪の意識を感じることなく動物や昆虫に対しても残虐な行為を平気でしてしまうことがある。悪いことをしても精神的な歯止め(ストッパー)がかからないという意味では、子どもは小さなモンスターでもある。見かけは小さくて可愛くても残虐なアライグマのようなものかもしれない。

 そんな自覚のないモンスターを叱るのは、親の仕事でもある。放っておくと何をしでかすか分からない子どもを躾けるのは親の責務でもある。
 その責務としてのしつけを行う時に、言葉だけで済ますのか、勢い余って手が出てしまうのか、その違いがあるわけだが、正直なところ、子どもに対して手を出す行為を全て暴力行為として扱い、法的に禁止にするというのはどうなのか?という疑問もある。

■漫画のキャラクターばかりになる近未来社会

 政府は「体罰」の段階を明確化するということなので、「しつけ」の全てを禁止するとまではいかないと思うが、世間の一部では「しつけも体罰も全て虐待だ!」と声を大にして言う人々が出てくると思う。そういう声に従わざるを得なくなると、子どもは絶対的に神聖不可侵な憲法のような物として取り扱われるようになり、触れることさえ危険な存在になってしまえば、少子化にもさらに拍車がかかる可能性が出てくる。
 しつけすら出来ないモンスターのような子どもよりも、しつけができる従順なペットの方がましだという人も大勢出てくるかもしれない。

 そういう意味で、「虐待」を「体罰」や「しつけ」と混同すれば非常に危険な制度になる可能性がある。他人(先生と生徒)だけでなく、親子のスキンシップすら否定する社会になってしまう危険性を孕んでいる。

 冒頭に述べた「親にも殴られたことのない顔を…」と言う漫画のようなキャラクターばかりになった近未来社会の姿を思い浮かべると、非常な危うさを感じる。
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高血圧の基準値「130」は正しいか?

■年々、下がっていく高血圧の基準値

 現在、日本では高血圧の基準値が、上が140、下が90とされている。この数値が妥当な数値かどうかは扨措くとして、今年(2019年)の4月からは、基準値は据え置くらしいが、目標値をそれぞれ10引き下げて、上が130、下が80に改訂される可能性があるらしい。

 【現在の基準値】上140/下90

 【今後の目標値】上130/下80

 高血圧の基準値は、この30年間程で大きく低下した。

 1987年…上180/下100

 2000年…上140/下90

 2008年には上が130になったという説もあるが、いずれにしても、130になってしまえば、その差、なんと50。わずか30年間で高血圧の基準値(目標値)が1.4倍近くも下がることになってしまう。

■老化現象が無視されている血圧の基準値

 もし本当に130が正しい高血圧の基準値なのだとすれば、これまでの30年間は一体なんだったのか?という疑問が生じる。「これまでの30年間はハッキリとしたことが判らない時代でした」または「これまでの数値は全くの出鱈目でした」とでも言わなければ辻褄が合わなくなってしまう。

 昔から、高血圧の定義は、「年齢+90」と言われていた。

 40歳の人であれば、40+90=130

 50歳の人であれば、50+90=140

 60歳の人であれば、60+90=150

 70歳の人であれば、70+90=160

 こんな具合に、年齢によって高血圧の基準値は違うものというのが一般的な常識だった。実際に、血圧は年齢とともに上がっていくものなので、現在のように、成人であれば20代の人間も80代の人間も全く同じ基準値を適用しているというのは、人間の生理的な老化現象が全く考慮されていないことになる。

 これは身長や体重の差を考慮しないメタボ検診と同じようなものだと言える。以前、メタボ検診の基準値(85cm)は小型犬と大型犬の違いを考慮せずに腹囲を検査しているようなものだと指摘したことがあるが、血圧の基準値は、成犬と老犬の違いを考慮せずに検査しているようなものである。

■全国民の2人に1人が高血圧?

 人間は加齢とともに血液の流れが悪くなるので、血液を身体の隅々まで送り届けるために、生理現象として血圧が上がるようになっている。

 そう考えると、高齢者がある一定の水準まで血圧が上がるのは、むしろ健康である証拠でもある。その一定水準を超えて上がる分には対処が必要になってくるが、ほんの少し血圧が上がる程度なら、肉体の防御システムが機能していると考えるべきだろう。

 これは、風邪のウイルスが身体に侵入すれば、肉体の免疫システムが機能して体温が上がる(熱が出る)のと同じようなものとも言える。

 高血圧の基準値が140から130に引き下げられることで、高血圧と診断される人は現在の4000万人(これでも多過ぎる)から、実に6000万人以上に拡大されるらしい。本当にそんなことになると、全国民の2人に1人が高血圧患者として病人扱いになってしまう。

 医者が足りないと言われている時代に、無闇に高血圧の基準値を引き下げて、病人の数を増やす意味があるとは思えない。国民の半数を“病人”にカテコライズしてしまう基準値が本当に正しい基準値と言えるのかは甚だ疑問である。
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行き過ぎ感のある芸能界の「連帯責任」

■薬物使用で連帯責任の是非

 有名な俳優が死亡すれば、その俳優が出演した過去のテレビ番組の特集が組まれ、有名なミュージシャンが死亡すれば、そのミュージシャンの過去のヒット曲を集めたCDが発売される。
 しかし、有名な俳優が薬物を使用していたことが判明すると、その俳優が出演している現在のテレビ番組だけでなく、過去に出演した映画やドラマも全てお蔵入り(販売中止)することになる。

 奇しくも、俳優でミュージシャンでもあるピエール瀧氏がコカイン使用で逮捕されたことで、この風潮を疑問視する声があがっているようだ。

 個人的には、これは確かに行き過ぎだと思う。現在撮影されている映画やテレビ番組は、当の俳優が逮捕されれば物理的に撮影不可能になり、倫理的にも世間の空気が許さないだろうから中止になっても仕方がないとは思う。(代役を立てれば中止する必要は無いと思う)

 しかし、過去に出演した映画まで販売中止、レンタル中止というのは、犯罪者に対する罰の範疇を超えて、何の罪もない多くの関係者や消費者に迷惑をかけるだけだと思われる。

 他人に対して殺人や強姦を犯したというなら、その俳優が出演している映画がお蔵入りするのはやむを得ないかもしれないが、更正可能な個人の罪で他の全ての関係者が迷惑を被るというのは行き過ぎだと言える。
 その人物が出演している映画を観るか観ないかは、各消費者が決めればいいことであり、「犯罪者が出演している映画なんて観たくない」と思う人は観ないだろうし、薬物に手を出した俳優が過去に出演している映画を観たからといって、その映画を観た人が薬物に手を出す危険性が上がるわけでもない。

■「個人の罪」を「全体の罪」にすり替えるリベラル

 例えば、1000人のキャストが出演している映画で、1人が犯罪行為を行えば、残りの999人のキャストも全て連帯責任に負うことになり、映画製作に関わったスタッフも全て連帯責任を負うことになる。
 これは、1000人の会社で1人が犯罪行為に手を染めれば、残りの999人および全株主、つまり会社そのものが連帯責任を負うようなものである。しかし、通常はその罪を犯した人物を解雇することで、会社の責任は免れるはずだ。

 芸能界における連帯責任も、その他の例に漏れることなく、現代の日本における可笑しな風習の1つだと言える。さらに可笑しなことは、日頃から「個人を尊重せよ」と言っているリベラル界隈の人々が、こういう時だけ「個人」の責任を無視して、「全体」の責任に転嫁してしまうところだ。
 リベラルが「個人の権利」に拘るのであれば、あくまでも「個人」の責任として取り扱えばいいと思うのだが、なぜかこういう時だけ「連帯責任」になってしまう。そのせいで、何の関係もない人々が「被害者」になってしまう。

 たった1人の犯罪行為によって、残りの全ての人々が水面下で連帯責任を背負わされ、被害者になってしまうという社会の構図、この風潮は考え直した方がよいかもしれない。
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「黒人ばかりのアカデミー賞」の違和感

■「白人ばかりのアカデミー賞」から「黒人ばかりのアカデミー賞」へ

 1年前に『ハリウッドのリベラル化を憂う』という記事を書いて、ハリウッド映画が政治的に利用され、おかしな方向に傾いていることを指摘したことがあるが、今年(2019年)のアカデミー賞を見ても、その傾向はますます深化しつつあるように思われた。

 今年、受賞した主な作品を見てみると、

 『グリーンブック』(作品賞・脚本賞・助演男優賞)
    ・・・・・・人種問題を描いた映画

 『ROMA ローマ』(監督賞・撮影賞・外国語映画賞)
    ・・・・・・メキシコが舞台の映画

 『ボヘミアン・ラプソディ』(主演男優賞・編集賞・録音賞・音響編集賞)
    ・・・・・・マイノリティを描いた伝記映画

 『ブラックパンサー』(衣装デザイン賞・作曲賞・美術賞)
    ・・・・・・黒人が主人公のエンタメ映画

 『スパイダーマン:スパイダーバース』(長編アニメ賞)
    ・・・・・・黒人少年が主人公のエンタメアニメ

 『ブラック・クランズマン』(脚色賞)
    ・・・・・・白人至上主義団体(KKK)を描いた犯罪映画

 こうやって並べてみると、黒人が目立つのは元より、明らかに政治色の強い民主党(リベラル)寄りの映画が並んでいることが分かる。以前に「白人ばかりのアカデミー賞」という批判があったせいもあるのか、敢えて、黒人に忖度しているのではないか?という疑問は拭えない。

 作品自体が本当に面白いのであれば、こういう結果になっても仕方がないと思うのだが、どうも、アカデミー賞選考の背景に政治的な思惑が反映されているような気がしてシックリとこない。

■ハリウッドよりもハリウッドらしい「中国資本映画」

 これは私だけが思っていることではなくて、ネット上でも、あちこちでそういうことを言っている(嘆いている)人を見かける。
 最近は、ディズニー映画にもそういう傾向が出ており、ハリウッド映画全体が、少し毛色が変わりつつあるように思う。

 昔ながらの、努力した人間は報われるというような感動的なストーリーが主流ではなくて、マイノリティにスポットライトを当てるという意味での社会派ドラマが主流に成りつつあるように思われる。

 逆に、中国資本映画の方が、かつてのハリウッド的な大味な映画が多いような感じを受ける。
 最近の映画で言えば、『MEG ザ・モンスター』や『スカイスクレイパー』等、有名ハリウッド俳優を起用した中国資本映画の方が、明るいエンタメに徹した作りになっているというのは実に皮肉だ。

 中国本国で『アバター』が上映禁止になったことは随分と前の話だが、ハリウッドに流入した中国資本映画には、そういった思想的制約があまり無いのかもしれない。

 映画はよく「総合芸術」とも言われるが、子どもの情操教育にも非常に大きな影響力を持った映像媒体でもある。
 では、教育上、子どもの精神に良い影響を及ぼす映画とはどんな映画だろうか?

 「強者が弱者を助けるヒーロー映画

 「弱者と強者の対立軸を描いた社会派映画

 この2つの映画があったとすれば、子どもにとって良い影響を与えるのはどちらだろうか?

 かつてのハリウッド映画の主流は前者であったと思うが、最近のハリウッド映画は、どうやら後者になってきつつあるようだ。保守系のトランプ氏が大統領になって少しは変化するのかと思っていたが、ハリウッドのリベラル化は、もはや歯止めが効かない深刻な状態に陥っているのかもしれない。

 
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「人質司法」を問題視しない「人権派」の謎

■「人質司法」は「推定有罪司法」

 逮捕拘留から108日間が経過して、ようやくゴーン氏が保釈された。
 確実な証拠も出揃わないまま、本人が罪を否定しているにも拘らず、3ヶ月間も冷暖房の無い異国の狭い密室に閉じ込められた心境は如何ばかりだろうか? 他人事ながら、肉体的にも精神的にもゾッとするような悪夢体験だったのではないかと同情してしまう。

 海外では「不思議の国のゴーン」と揶揄されたそうだが、ゴーン氏の心境からすれば「不思議の国」と言うよりも、さしずめ、「悪夢の中のゴーン」だったに違いない。

 ゴーン氏逮捕後、巷では「人質司法」という言葉を何度も耳にした。この間、日本の恥部とも言える前近代的な「人質司法」の問題点を俎上に載せて糾弾している言論人も少なからずいたようで、これほどまでに日本の「人質司法」の実態が世界に向けて発信され、その歪んだ姿がリアルに浮かび上がったことはかつてなく、ゴーンショックにおける「怪我の功名」だったと言えるのかもしれない。

 「人質司法」というのは、換言すれば、「推定有罪司法」と言うことができると思う。
 例えば、あなたが痴漢と間違われて(または嵌められて)逮捕されたとして、その罪を認めるまで延々と拘留されるようなものである。
 その場合、「証拠隠滅の可能性が有るから保釈できない」などと言われても、やってもいない証拠など隠滅も何もないわけで、絶望感に打ちひしがれ、根負けして「痴漢しました」と嘘を言うまで独房の中に監禁されることになる。
 それでようやく保釈されたとしても、事情を知らない世間の人々からは「やっぱり、あいつは痴漢だった」「あいつは嘘つきだ」と皮肉にもならない批判をされることになる。これでは、まるで悪夢そのものだ。

■法律や人権よりも感情を優先する「人権派」

 「人質司法」というものは、人権無視の独裁国家の司法であり、海外の人々から見れば、日本も中国や北朝鮮と変わらないと思われているかもしれない。

 しかし、常日頃から「人権」を最重要視する人権派の人々は、なぜ、「人質司法」については黙りを決め込んでいるのだろうか? これほど、世間の同情心を得ることができる格好の題材が目の前に転がっているというのに、なぜ、見て見ぬ振りをするのだろうか?

 おそらく、その答えは、

 「相手が大金持ちのカルロス・ゴーンだから

 それが1つの大きな理由だろうと思われる。

 人権派の人々というのは、人権を「錦の御旗」にしてはいるものの、同時に“金持ちを憎むこと”を教義とするマルクス教の信者である場合が多いので、他人の「人権」よりも自分の「思想」が優先されてしまうのかもしれない。
 大金持ちのゴーン氏が逮捕されたら罪状の有無に関係なく狂喜乱舞して溜飲を下げ、不当に拘留され続けて保釈時の窶れた姿を衆目に晒しても、内心では「ざまあみろ」と思っているのかもしれない。

 法律や人権よりも感情(嫉妬)が優先、これで「人権派」と名乗っているのだとすれば、その欺瞞性には開いた口が塞がらない。

 最後に、本記事は「推定無罪」の原則に則って書いています。
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3度目の米朝首脳会談がタイムリミット

■平和的提案を反故にしてしまった少年

 山賊の貧しい少年が大都会の大富豪の邸宅に招待され、その圧倒的な生活水準の違いに魅せられ目をキラキラと輝かせるかのような温和な雰囲気を醸し出していた前回の米朝首脳会談とは打って変わり、今回の米朝首脳会談は、交渉決裂となってしまった。

 優しい大富豪からの平和的提案を快諾せずに、山賊としての我欲を通そうとする少年の姿に呆れてしまったというところだろうか。山賊としての武器を全て捨てる覚悟を見せれば、無条件に富を分け与えてあげようとする平和的提案を反故にしてしまった少年の行為は愚かとしか言い様がない。

 米朝首脳会談が成功する、たった1つの条件は、

 「完全武装解除」=「完全制裁解除

 初めから、これしかない。

 「一部武装解除」=「完全制裁解除

 というような都合の良い展開は有り得ない。

 「完全に武装解除してくれれば、あなた方が現代社会で生きるための最大限の協力を惜しみません。共に発展しましょう。」というのが大富豪からの提案だった。しかし、山賊少年は、「一部の武装解除をするので、制裁を全て解除してくれ。」と言ってきた。これでは、愛想を尽かされても仕方がないと言える。

■トランプ流の「お前はクビだ!」になる可能性

 「正恩もおだてりゃ非核化する」というトランプ大統領の思惑はどうやら上手くいかなかったようだ。

 北朝鮮の完全非核化などは、普通に考えても、金正恩が国を捨てて亡命でもしない限りできないわけで、アメリカ側がその手助けをするというような密約でも交わさない限り、土台無理な話なのかもしれない。会談では、そういう密約も含まれていたのかもしれないが、将軍の立場を捨てて、1民間人として生きていくというのは、どう考えても無理がある。

 これまでに多くの人々を無慈悲に処刑してきた独裁者が、誰からも非難されずに生きていくというのは虫が良過ぎるわけで、結局は、独裁者として生きていくしか道がないということなのかもしれない。

 3度目の米朝首脳会談が有るかどうかは分からないが、今回の交渉が決裂したことの失敗をビジネスライクで謙虚に受け止め、相手方に誠意を見せないことには先が無いということ、それだけ自らが追い込まれた状態にあることを知らねば、トランプ流の「お前はクビだ!」になってしまう可能性が出てきた。


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