社会問題

「親にも殴られたことのない顔を…」社会の到来

■「虐待の禁止」ではなく「体罰の禁止」

 漫画を読む人であれば、以下のような台詞をよく目にすると思う。

 「親にも殴られたことのない顔を…

 この台詞は、お上品な上流階級のボンボンが、今までの生涯で親からも殴られたことのない(綺麗な)顔を他人に初めて殴られた時に言う常套句のような台詞である。ちなみに、ここで言う「殴られた」とは「拳骨」ではなく、主に「平手打ち」のことを意味する。

 千葉県野田市の小学生の女児が「しつけ」を名目とした親からの虐待で死亡するという痛ましい事件があったことで、政府は「児童虐待防止法」の改正案を閣議決定し、親権者による「体罰の禁止」を法律に明記した。

 いかに子どもの肉親であろうと「虐待」を禁止するのは当然とも言える。しかし、ここで少し気になるのは「虐待の禁止」ではなく、一歩進んで「体罰の禁止」にまで踏み込んでいるところだ。
 言葉の定義からしても「虐待」と「体罰」は全く同じものではない。両者の間には一部被っている部分もあると思われるが、よく言われているように「しつけ」の部分は「虐待」や「体罰」とは少し距離を置く必要があるのではないかと思う。

■子どもは罪の意識を持たないモンスター

 私事で恐縮だが、私も子どもの頃は習い事をズル休みして親から切諫(何度も平手打ちで殴られる)されたことがある。その他にも悪いことをすれば何度も殴られたので、親が子どものしつけとして殴ることは当たり前だと思っていた。殴られて初めて悪いことをしたという認識が芽生えたこともある。

 誰でも身に覚えがあると思うが、子どもの頃というのは罪の意識を感じることなく動物や昆虫に対しても残虐な行為を平気でしてしまうことがある。悪いことをしても精神的な歯止め(ストッパー)がかからないという意味では、子どもは小さなモンスターでもある。見かけは小さくて可愛くても残虐なアライグマのようなものかもしれない。

 そんな自覚のないモンスターを叱るのは、親の仕事でもある。放っておくと何をしでかすか分からない子どもを躾けるのは親の責務でもある。
 その責務としてのしつけを行う時に、言葉だけで済ますのか、勢い余って手が出てしまうのか、その違いがあるわけだが、正直なところ、子どもに対して手を出す行為を全て暴力行為として扱い、法的に禁止にするというのはどうなのか?という疑問もある。

■漫画のキャラクターばかりになる近未来社会

 政府は「体罰」の段階を明確化するということなので、「しつけ」の全てを禁止するとまではいかないと思うが、世間の一部では「しつけも体罰も全て虐待だ!」と声を大にして言う人々が出てくると思う。そういう声に従わざるを得なくなると、子どもは絶対的に神聖不可侵な憲法のような物として取り扱われるようになり、触れることさえ危険な存在になってしまえば、少子化にもさらに拍車がかかる可能性が出てくる。
 しつけすら出来ないモンスターのような子どもよりも、しつけができる従順なペットの方がましだという人も大勢出てくるかもしれない。

 そういう意味で、「虐待」を「体罰」や「しつけ」と混同すれば非常に危険な制度になる可能性がある。他人(先生と生徒)だけでなく、親子のスキンシップすら否定する社会になってしまう危険性を孕んでいる。

 冒頭に述べた「親にも殴られたことのない顔を…」と言う漫画のようなキャラクターばかりになった近未来社会の姿を思い浮かべると、非常な危うさを感じる。
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行き過ぎ感のある芸能界の「連帯責任」

■薬物使用で連帯責任の是非

 有名な俳優が死亡すれば、その俳優が出演した過去のテレビ番組の特集が組まれ、有名なミュージシャンが死亡すれば、そのミュージシャンの過去のヒット曲を集めたCDが発売される。
 しかし、有名な俳優が薬物を使用していたことが判明すると、その俳優が出演している現在のテレビ番組だけでなく、過去に出演した映画やドラマも全てお蔵入り(販売中止)することになる。

 奇しくも、俳優でミュージシャンでもあるピエール瀧氏がコカイン使用で逮捕されたことで、この風潮を疑問視する声があがっているようだ。

 個人的には、これは確かに行き過ぎだと思う。現在撮影されている映画やテレビ番組は、当の俳優が逮捕されれば物理的に撮影不可能になり、倫理的にも世間の空気が許さないだろうから中止になっても仕方がないとは思う。(代役を立てれば中止する必要は無いと思う)

 しかし、過去に出演した映画まで販売中止、レンタル中止というのは、犯罪者に対する罰の範疇を超えて、何の罪もない多くの関係者や消費者に迷惑をかけるだけだと思われる。

 他人に対して殺人や強姦を犯したというなら、その俳優が出演している映画がお蔵入りするのはやむを得ないかもしれないが、更正可能な個人の罪で他の全ての関係者が迷惑を被るというのは行き過ぎだと言える。
 その人物が出演している映画を観るか観ないかは、各消費者が決めればいいことであり、「犯罪者が出演している映画なんて観たくない」と思う人は観ないだろうし、薬物に手を出した俳優が過去に出演している映画を観たからといって、その映画を観た人が薬物に手を出す危険性が上がるわけでもない。

■「個人の罪」を「全体の罪」にすり替えるリベラル

 例えば、1000人のキャストが出演している映画で、1人が犯罪行為を行えば、残りの999人のキャストも全て連帯責任に負うことになり、映画製作に関わったスタッフも全て連帯責任を負うことになる。
 これは、1000人の会社で1人が犯罪行為に手を染めれば、残りの999人および全株主、つまり会社そのものが連帯責任を負うようなものである。しかし、通常はその罪を犯した人物を解雇することで、会社の責任は免れるはずだ。

 芸能界における連帯責任も、その他の例に漏れることなく、現代の日本における可笑しな風習の1つだと言える。さらに可笑しなことは、日頃から「個人を尊重せよ」と言っているリベラル界隈の人々が、こういう時だけ「個人」の責任を無視して、「全体」の責任に転嫁してしまうところだ。
 リベラルが「個人の権利」に拘るのであれば、あくまでも「個人」の責任として取り扱えばいいと思うのだが、なぜかこういう時だけ「連帯責任」になってしまう。そのせいで、何の関係もない人々が「被害者」になってしまう。

 たった1人の犯罪行為によって、残りの全ての人々が水面下で連帯責任を背負わされ、被害者になってしまうという社会の構図、この風潮は考え直した方がよいかもしれない。
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「黒人ばかりのアカデミー賞」の違和感

■「白人ばかりのアカデミー賞」から「黒人ばかりのアカデミー賞」へ

 1年前に『ハリウッドのリベラル化を憂う』という記事を書いて、ハリウッド映画が政治的に利用され、おかしな方向に傾いていることを指摘したことがあるが、今年(2019年)のアカデミー賞を見ても、その傾向はますます深化しつつあるように思われた。

 今年、受賞した主な作品を見てみると、

 『グリーンブック』(作品賞・脚本賞・助演男優賞)
    ・・・・・・人種問題を描いた映画

 『ROMA ローマ』(監督賞・撮影賞・外国語映画賞)
    ・・・・・・メキシコが舞台の映画

 『ボヘミアン・ラプソディ』(主演男優賞・編集賞・録音賞・音響編集賞)
    ・・・・・・マイノリティを描いた伝記映画

 『ブラックパンサー』(衣装デザイン賞・作曲賞・美術賞)
    ・・・・・・黒人が主人公のエンタメ映画

 『スパイダーマン:スパイダーバース』(長編アニメ賞)
    ・・・・・・黒人少年が主人公のエンタメアニメ

 『ブラック・クランズマン』(脚色賞)
    ・・・・・・白人至上主義団体(KKK)を描いた犯罪映画

 こうやって並べてみると、黒人が目立つのは元より、明らかに政治色の強い民主党(リベラル)寄りの映画が並んでいることが分かる。以前に「白人ばかりのアカデミー賞」という批判があったせいもあるのか、敢えて、黒人に忖度しているのではないか?という疑問は拭えない。

 作品自体が本当に面白いのであれば、こういう結果になっても仕方がないと思うのだが、どうも、アカデミー賞選考の背景に政治的な思惑が反映されているような気がしてシックリとこない。

■ハリウッドよりもハリウッドらしい「中国資本映画」

 これは私だけが思っていることではなくて、ネット上でも、あちこちでそういうことを言っている(嘆いている)人を見かける。
 最近は、ディズニー映画にもそういう傾向が出ており、ハリウッド映画全体が、少し毛色が変わりつつあるように思う。

 昔ながらの、努力した人間は報われるというような感動的なストーリーが主流ではなくて、マイノリティにスポットライトを当てるという意味での社会派ドラマが主流に成りつつあるように思われる。

 逆に、中国資本映画の方が、かつてのハリウッド的な大味な映画が多いような感じを受ける。
 最近の映画で言えば、『MEG ザ・モンスター』や『スカイスクレイパー』等、有名ハリウッド俳優を起用した中国資本映画の方が、明るいエンタメに徹した作りになっているというのは実に皮肉だ。

 中国本国で『アバター』が上映禁止になったことは随分と前の話だが、ハリウッドに流入した中国資本映画には、そういった思想的制約があまり無いのかもしれない。

 映画はよく「総合芸術」とも言われるが、子どもの情操教育にも非常に大きな影響力を持った映像媒体でもある。
 では、教育上、子どもの精神に良い影響を及ぼす映画とはどんな映画だろうか?

 「強者が弱者を助けるヒーロー映画

 「弱者と強者の対立軸を描いた社会派映画

 この2つの映画があったとすれば、子どもにとって良い影響を与えるのはどちらだろうか?

 かつてのハリウッド映画の主流は前者であったと思うが、最近のハリウッド映画は、どうやら後者になってきつつあるようだ。保守系のトランプ氏が大統領になって少しは変化するのかと思っていたが、ハリウッドのリベラル化は、もはや歯止めが効かない深刻な状態に陥っているのかもしれない。

 
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安藤優子アナの発言は「不謹慎」だったのか?

■「神様が与えた試練」が否定された訳

 最近、誰かが言った「言葉(失言)」についての記事ばかり書いているような気がするのだが、今回も例に漏れず「失言」系の記事になる。
 今回のお題は、フジテレビの安藤優子アナが競泳の池江璃花子選手について語ったとされるの次のような発言について。

>「(池江璃花子さんは)可愛らしさとすべてを持ってらっしゃると思ったんですけど、神様がちょっと試練を与えたのかな…というふうにも思います。

 この意見が「不謹慎」であるとして大炎上したのはご存知の通り。

 おそらくは、池江璃花子選手の「神様は乗り越えられない試練は与えない」という言葉に影響されて思わず口から出た言葉だったのだろうと推察するが、この意見がなぜ「不謹慎」と受け取られてしまったのか?
 結論を先に言えば、「言うタイミングを間違ってしまった」、これに尽きると思う。

■病気を克服した後に言うべき台詞だった

 この意見自体は言うタイミングさえ間違わなければ素晴らしい意見でもある。では、そのタイミングはいつなのかというと、「病気が治った後」、もっと具体的に言えば、「病を克服し、水泳選手として復活し、更なる飛躍をした時」である。
 その時に、「あれ(病)は神様が彼女に与えた試練だったのかもしれない」と言うのであれば、感動的な美談と成り得るのだが、いかんせん、病気が判明した直後に言ったのがいけなかった。そういう意味での失言だったのだと思う。

 池江璃花子選手が、病気を克服し、大活躍されている時に、

 「あの病は、神様がちょっと試練を与えたのかな、というふうにも思います。

 これなら、誰もが納得して拍手喝采することだろう。

 しかし、池江璃花子選手が、病気を発表した直後に、

 「神様がちょっと試練を与えたのかな、というふうにも思います。

 これでは、あまりにも達観した意見過ぎて、一般の人々にはなかなか受け入れ難くなってしまう。

■言うタイミングを間違っただけ

 宗教や哲学に造詣が深い人であれば受け入れ易い言葉なのかもしれないが、特にリベラル左翼系のマスコミや言論人などは「神様」などという言葉を使用しただけで反発する人が多いので、余計にバッシングが酷くなってしまったのだろうと思われる。

 ちなみに、安藤優子アナはキリスト教系の上智大学出身者なので、宗教的な認識が前提にあって出てきた言葉なのだろうと思う。だから、以下の彼女の言葉通り、本当に悪気は全く無かったのだと思う。

>「すみません、私は本当に他意はなかったんです。ただ本当に池江さんには良くなっていただきたい、そう思っていただけなので…

 ということで、この問題は、単に、言うタイミングを間違ったという意味での「失言」だったということになるだろうか。
 皮肉なことに、安藤優子アナにとっては自ら試練を呼び込む言葉になってしまったが、今回のことだけで「アナウンサー失格」というのは言い過ぎだろうし、「テレビ番組降板」というのも行き過ぎだと思う。

 池江璃花子選手が本当に病を克服し、ご活躍されるようになれば、安藤優子アナの発言も肯定されるようになっていくだろう。願わくば、その日が1日も早く訪れんことを…。
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映画『クワイエット・プレイス』にみる「言葉狩り社会」の恐怖

■「音を立てたら、即死。」と「失言をすれば、即死。」

 昨年、「音を立てたら、即死。」というキャッチフレーズが話題となって大ヒットしたホラー映画があった。その映画のタイトルは『クワイエット・プレイス』。著名な米国映画批評サイト「ロッテン・トマト」で95点をたたき出した作品でもある。

 少しネタバレになってしまうが、本作は、宇宙からの隕石によって侵入してきた盲目の生物(クリーチャー)が、音を立てれば攻撃してくるという設定で、盲目であるがゆえに聴覚が異常に発達した生物が人間を襲う恐怖を描いている。
 
 本作を観て、音を立てることが死に直結するという意味では、現代の日本でブームになっている「言葉狩り」というものがメタファー(比喩)として描かれているような気がした。
 映画が「声を発することで即死亡」なら、日本では「失言をすれば即死亡(社会的に抹殺されるという意味)」といったところだろうか。

 声を出すことが禁句になっている社会では、音を立てること及び、会話することで成り立っている文明は消滅し、誰ともまともに会話ができない人間社会の文化は廃れていく。そういう単純ながらも見落とされがちな恐怖をバックグラウンドで描いているところがこの映画の持ち味だが、その恐さを演出しているのは、結局のところ、“耳が良過ぎるクリーチャー”の存在である。

■「クワイエット・プレイス」化しつつある日本社会

 日本国内で他人の発する言葉に聞き耳を立てて、ほんの些細な言葉の綾(失言)に見つけることに狂奔し、執拗に「言葉狩り」を行っている人々の姿は、まるで、本作に登場するクリーチャーそのものだとも言える。
 虎視眈々と獲物が失言するのを待ち構え、失言を発したと同時に「待ってました」とばかりに一斉に飛びかかる姿を想像してみると、まさに“耳が良過ぎるクリーチャー”そのものである。

 少し穿った見方をすれば、本作は、あまりにも他人の言葉に敏感に成り過ぎた窮屈な社会は、文化が廃れていくということを暗に描いているのかもしれない。

 現代の日本では「言葉狩り」を得意とする“耳が良過ぎるクリーチャー”が跳梁跋扈し、その数は日増しに増殖しつつあるように見える。
 「言葉狩り」は「人間狩り」に通じる。小さな音(失言)を立てることにビクビクするような社会は、人間同士に不信感を募らせることで社会を荒廃させ、これまでに築いてきた文化そのものを崩壊させうる可能性を秘めている。

 人は誰でも普通に生きていれば、気が付かないうちに「失言」の1つや2つはするものであり、気が付かないうちに自分の発した言葉が他人の心を傷付けてしまっていることも多々ある。
 しかし、だからと言って、「失言」することが許されない「失言」の全く無い社会の構築などを目指しても、息苦しい社会になるだけである。

 「失言」の全く無い社会「クワイエット・プレイス」を理想とすることは「言論統制社会」の肯定に他ならない。日本の言論空間が「クワイエット・プレイス」にならないことを願う。
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「がっかり発言」を素直に考える

■意見が真っ二つに分かれている「がっかり発言」

 競泳選手である池江璃花子氏が白血病であることを公表したことで、桜田義孝五輪相が「本当にがっかりしている」と語ったことが大きな問題になっており、識者の間でも意見が分かれている。

 百田尚樹氏「(桜田氏の)その発想が情けない!

 堀江貴文氏「マジでマスコミくそ

 あの百田尚樹氏が今回の発言を批判する側に回っていることは驚きだが、少し興味が湧いたので、桜田氏の発言の全文をネットで検索して読んでみた。(以下が全文)

>「正直なところ、びっくりしましたね。聞いて。本当に。病気のことなので、早く治療に専念していただいて、一日も早く元気な姿に戻ってもらいたいというのが、私の率直な気持ちですね」

 -競泳の中ではですね…

>「本当に、そう、金メダル候補ですからねえ。日本が本当に期待している選手ですからねえ。本当にがっかりしております。やはり、早く治療に専念していただいて、頑張っていただきたい。また元気な姿を見たいですよ。そうですね」

 -大臣はこれまで、池江選手の活躍をどのようにご覧になられてましたか

>「いやあ、日本が誇るべきスポーツの選手だと思いますよね。われわれがほんとに誇りとするものなので。最近水泳が非常に盛り上がっているときでもありますし、オリンピック担当大臣としては、オリンピックで水泳の部分をね、非常に期待している部分があるんですよね。一人リードする選手がいると、みんなその人につられてね、全体が盛り上がりますからね。そういった盛り上がりがね、若干下火にならないかなと思って、ちょっと心配していますよね。ですから、われわれも一生懸命頑張って、いろんな環境整備をやりますけど。とにかく治療に専念して、元気な姿を見せていただいて、また、スポーツ界の花形として、頑張っていただきたいというのが私の考えですね」

 -最後に一言だけ。池江選手にエールを送るとしたらどんな言葉を

>「とにかく治療を最優先にして、元気な姿を見たい。また、頑張っている姿をわれわれは期待してます、ということです」
【引用元】産経ニュース

■「インタビュー事故」としての「がっかり発言」

 実際に全文を読んでみると、確かに誤解を招いても仕方がない発言ではあるとは思えた。しかし同時に、これは「失言」と言うよりも「インタビュー事故」に近いのではないかとも思えた。
 図らずも、「-競泳の中ではですね…」という質問が、失言を招く煽り言葉になってしまっている。

 おそらく、桜田氏の「元気な姿に戻ってもらいたい」という言葉に対する受け言葉であり、失言を期待した意図的な誘導質問ではないだろうけれど、こう質問されると、オリンピックの話になってしまわざるを得ないので、この質問自体にも問題があったのではないかと思える。

 はたして堀江氏の「マジでマスコミくそ」というのが、そういう意味(意図的な誘導質問)で言っているのか、それとも単に毎度の「言葉の切り取り報道」を指しているのかは判らないが、偶発的な「放送事故」ならぬ「インタビュー事故」というのが今回の問題の本質ではないかと思う。

■池江璃花子氏は「失言問題」など気にしていない

 「がっかり」という言葉を「残念」という言葉にすれば、公的な意見として受け止められる可能性が高いが、「がっかり」というのは、公的と言うよりも、私的な意見として受け止められかねないので、あらぬ誤解を招いてしまう。

 当人(桜田氏)には悪気は毛頭なかったのだろうけれど、一言で言えば、池江璃花子氏を「1人の女性」として見た意見ではなく、「水泳の選手」と限定して意見したことが問題だったということになるだろうか。

 そういうことだから、誤解を招いたことを謝罪すれば済む問題だと思う。この失言で「政治家失格」とか、「辞任せよ」というのは行き過ぎだと思う。そもそも、「全く失言しないこと」が政治家の絶対条件になっているような社会はおかしいわけで、そんな社会が常態化してしまえば、いつまで経っても言葉狩り社会から脱皮することができない。
 当の池江璃花子氏が「ショックを受けた」と批判しているのであれば話は別だが、池江璃花子氏はそんな器量の小さい人物ではないと思う。こんな小さな失言問題で怒るような人物なら、「神様は乗り越えられない試練は与えない」というような立派な台詞を言えるわけがない。

 ここは外野は騒がずに、そっと池江璃花子氏を見守るのが大人の対応というものだろう。
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麻生発言は「少子高齢化問題」よりも重要なのか?

■「少子高齢化問題」が置いてきぼりの麻生批判

 自民党の麻生氏が講演の場で次のような発言をしたということで、またまた騒ぎになっている。

年寄りが悪いという変な野郎がいっぱいいるけど、間違っていますよ。子どもを産まなかった方が問題なんだから

 麻生氏は既に釈明(謝罪)を済まされたそうだが、この発言のどこが問題なのだろうか?

 現代の日本において、政治家達は与党・野党を問わず、「少子高齢化は深刻な問題だ」と言い続けてきた。これはマスコミも同様で、「少子高齢化問題は日本の最も重要な社会問題だ」と口角泡を飛ばして口が酸っぱくなるほどに宣ってきたはずだ。

 本当にそう思うのであれば、「子どもを大勢産むこと」と「子どもを産まないこと」のどちらが問題なのかと問われれば、当然、後者の「子どもを産まないこと」でなければ筋が通らないことになる。良いか悪いかはともかくとして、それを認めずして、少子高齢化問題に取り組むなど笑止千万であり有り得ない話だからだ。

■「少子高齢化」よりも「言葉狩り社会」の是正を

 それに今回の麻生氏の発言は単なる比較論である。「子どもを産まないことが悪い」と批判しているのではなく、単に「子どもを産まなかった方が問題だ」と言っているに過ぎない。

 麻生氏の言葉足らずを補うと以下のようになるだろうか。

 「少子高齢化問題というのは、昔、子どもを大勢産んだ現在の高齢者達よりも、子どもをあまり産まなくなった現代の若年者達の問題だ

 要するに、「少子高齢化問題を解決できるのは、過去の高齢者ではなく、現在の若年者でしかない」ということなのだろう。

 子どもを産むか産まないかは個人の自由だ。しかし、少子高齢化が悪いことだと喧伝し、その解決策を模索している側の人間達が、「子どもを産むこと」と「子どもを産まないこと」を天秤にかけて、「子どもを産まないこと」を問題視しようとせず、恰も、子どもを産むことが悪いことであるかのように宣う姿勢は矛盾している。

 麻生氏が何を言ったかよりも、こんな些細な発言(言葉の綾)を問題視し、本丸の「少子高齢化問題」が置き去りになっていることの方がよっぽど問題だと言える。

 「少子高齢化問題」を本当に解決したくば、先に糾されるべきは、子どもを産まないことではなく、むしろ現代の「言葉狩り(ポリコレ)社会」の是正の方が重要かもしれない。
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「既得権(取得した権利)」と「利権(利益を伴う権利)」

■「○○が日本を滅ぼす」

 社会関連の書籍において「日本を滅ぼす」というタイトルは定番中の定番であり、毎年のように発売されている。一例を挙げると、

 『憲法が日本を滅ぼす
 『裁判官が日本を滅ぼす
 『財務省が日本を滅ぼす
 『マスコミと官僚の小ウソが日本を滅ぼす
 『リベラルの中国認識が日本を滅ぼす

 以上はほんの一部だが、先日、新たに発売された『日本を亡ぼす岩盤規制』(上念 司著)という本を購入して読んでみた。

 本書のサブタイトルは「既得権益者の正体を暴く」というもので、そのタイトル通り、既得権益がらみの大御所がズラッと並んでいる。(以下参照)

 1、財務省
 2、農業
 3、放送・通信
 4、銀行
 5、NHK
 6、医療・病院
 7、保育園
 8、朝日新聞

 スーパーで牛乳は山積みで販売されているのに、なぜバターが品切れなのか? テレビのリモコンの1チャンネルボタンはなぜ「NHK総合」なのか? 等々、岩盤規制にまつわる一般人が知らされていない数々の不都合な真実的トリヴィアを知ることができる。詳細は本書に譲るとして、初めて知ったことも多く興味深く読むことができた。

 本書のあとがきにはこう書かれている。

 「いわゆる「新自由主義批判」の家元で、反グローバリズム運動の理論的支柱と言われるデヴィット・ハーヴェイ(イギリスの地理学者)は、政府が税金免除、補助金、参入障壁としての法規制などで特定の企業を儲けさせ、そこからバックマージンを受け取る構造こそが「新自由主義」だと定義している。この定義に従うなら、天下りや利権とセットになっている日本の岩盤規制こそが「新自由主義」の権化だ。
 ところが、日本で新自由主義を批判している一部勢力は、自由化よりもむしろ規制強化で新自由主義政策がなくなると吹聴している。本書をここまでお読みいただいた諸君なら、これが完全な誤解であり、皮肉にも彼らの主張はむしろ新自由主義を擁護、強化するものであることが分かるだろう。救いようのないバカである。」(原文ママ)

■あなたも私も既得権益者

 昔から言われているように、「規制」というものの背景には必ずと言っていいほど「既得権益」というものが存在するが、本書で述べられているのは、ただの「規制」ではなく「岩盤規制」というもので、その名の通り、岩のように固定された社会主義的な規制を意味している。
 「規制」と「既得権益」が密接な関係にあるなら、「岩盤規制」と密接な関係にあるものとは何だろうか。それは「利権」である。

 「既得権益」という言葉はよく耳にするが、なぜか日本では単純に“既得権益=悪”と思い込んでいる人が大勢いる。
 しかし、よくよく考えてみると、実はほとんど全ての人が既得権益者でもある。どんな職業に就いていようと、既得権益者でない人など、ほとんどいない。
 例えば、最先端技術を有したIT企業に勤めているような人であっても、更に新しい技術が開発されれば、直ぐさま既得権益など吹っ飛んでしまう。どれだけ有能な作家であろうと、芸術家であろうと、さらに能力の有る人物が出てくると、あっという間に立場は失われてしまう。学者であろうと、スポーツ選手であろうと、お笑い芸人であろうと、それは変わらない。

 世の中の誰もが「既得権益者」であり、いつ、その「既得権益」を奪われるかは分からない。そんな不安定な社会であるからこそ、誰も彼もが自らの「既得権益=(日々の生活)」を守ろうとする。それは言わば人間の本能のようなものでもあり、そういった感情を持つことは人間の生存本能として必ずしも否定されるべきものではないと思う。

 しかし、世の中には普通の「既得権益」を守るだけでは飽き足らず、個人の「既得権益」を超えた、もっと巨大な「利権」という温床を作り出す人々が存在している。本書で紹介されている「岩盤規制」を守る既得権益者とは、まさにそういった人々のことを指しているのだろうと思う。


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「国家には国民の命を守る義務がある」のなら…

■「自己責任」論は一種のタブー

 某ジャーナリストの拘束・解放問題で、またぞろ「自己責任」という言葉が飛び交っている。
 専ら、「弱者」というものを題材とした「自己責任」論は、日本では一種のタブーとして煙たがられる傾向にある。
 なぜそうなるのかと言えば、「弱者」の線引きというものが極めて曖昧なものであり、これが「弱者」ですというような明確な基準がないため、如何様にも批判が可能な厄介な代物だからである。

 たとえ正論であったとしても、「弱者の自己責任」などと言おうものなら、世間から猛バッシングされる危険性があるため、大手メディアも「自己責任」論からは一歩引き下がって傍観する傾向にある。

 一口に「弱者」と言っても、世の中には「病人」や「貧者」、最近で言えば「LGB」者、等、いろんな弱者と思えし人達が存在している。「拘束された」ということも「弱者」にカテゴライズされるのかもしれないが、その誰もが「好きで弱者になったわけではない」という思いは抱いているものなので、反論しようのない正論(そんなものは存在しない)でない限り、「自己責任」論が公に受け入れられるのは難しい。

■「国民」=「ジャーナリスト」=「拉致被害者」

 某ジャーナリストに対しても、個人攻撃をしても埒があかないと思われるので、もっと視野を拡げて、国家としての「自己責任」論に結び付けることが望ましい。また、そうすることによって、問題の本質がよりクリアに見えるようになると思う。
 そこで、次の言葉から、国家としての「自己責任」論を考えてみよう。

 「国家には国民の命を守る義務がある

 今回の拘束・解放問題でも、左派から盛んに聞かれた言葉だが、これは間違いなく正しい。しかし、それならば、なぜ、北朝鮮の拉致問題に対しても同じように「国家には国民の命を守る義務がある」と言ってこなかったのだろうか?

 1個人のジャーナリストの拘束と、多くの無辜の民の拉致のどちらが重大な問題かと言えば、どう考えても後者の「無辜の民」の方である。なぜなら、そこには国家の義務を放棄するに足る「個人の自己責任」的要素が全く存在しないからである。
 彼らは「自己責任」で北朝鮮に旅行に行ったわけでもなく、取材のために「自己責任」で危険を冒して密入国したのでもない。無理矢理に誘拐された国民の命は「自己責任」以前の問題である。

■「国家には拉致被害者の命を守る義務がある」

 少し前に拉致被害者の会のインタビューで次のような言葉が聞かれた。

 「やっとこの時がきた

 おそらくは、「やっと拉致問題に真剣に取り組んでくれる日がきた」という意味だったのだろうと思われる。しかし、本来、この場合の主語は「日本」でなければおかしいのだが、実際のところは「アメリカ」になっていた。トランプ大統領が北朝鮮と話し合うということで出てきたのが「やっとこの時がきた」という言葉だった。
 
 (本来)「やっと日本が拉致問題に取り組んでくれる日がきた」

 (実際)「やっとアメリカが拉致問題に取り組んでくれる日がきた」

 なぜこんなことになるのかと言えば、日本には国家主権が無いからである。国としての軍隊を持てないという意味で、日本には国家としての主権の一部が無い状態になっている。
 だからこそ、拉致問題を解決するためには、憲法を変えて、軍隊を持てるようにする必要があるわけだが、なぜか「国家には国民の命を守る義務がある」と言っているような人達が中心となって、そのことを妨げてきた。これは大いなる矛盾である。

 「国家には国民の命を守る義務がある

 「国家にはジャーナリストの命を守る義務がある

 「国家には拉致被害者の命を守る義務がある

 これは、個人の「自己責任」というものを考慮しなければ、どれも同じことである。

 正義感から、1ジャーナリストを擁護するために「国家には国民の命を守る義務がある」と勇ましく宣うのであれば、拉致被害者問題についても、もっと前のめりになって意見していただきたいものだ。
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「教育勅語」は危険思想なのか?

■「教育勅語」=「教育に関する天皇のお言葉」

 自民党の柴山文科相が会見の場で、「教育勅語」について「道徳などに使うことができる分野は十分ある」と述べたことで、「戦前回帰だ!」というような批判が出ているらしい。

 「教育勅語」は戦前の教育の柱になっていた思想だが、中編の内容(現代語訳)の方を見てみると、

>国民の皆さんは、
>子は親に孝養を尽くし、
>兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、
>夫婦は仲睦まじく解け合い、
>友人は胸襟を開いて信じ合い、
>そして自分の言動を慎み、
>全ての人々に愛の手を差し伸べ、
>学問を怠らず、
>職業に専念し、
>知識を養い、
>人格を磨き、
>さらに進んで、社会公共のために貢献し、
>また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、

 ここまでは全く当たり前のことを言っているだけで、特に否定するべき要素は見当たらないと思うが、この続きに、

>非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の務めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

 この部分が、軍国主義的な感じがするということで否定的な意見が出てくるのだろうと思われる。

 周知の通り、「教育勅語」はGHQによって禁止された。当時の占領軍は日本の天皇を北朝鮮の独裁者のような存在だと誤解していたフシがある(実際、終戦後、占領軍によって刑務所から解放された共産主義者達は占領軍のことを「解放軍」と呼んだ)ので、こういった国民感情を1つにするようなものは危険思想と判断されたとする向きもある。

 しかしそれならそれで、その部分だけを削除すればよかったのだが、まともな道徳訓までもパージしてしまった。それも意図的だったのかもしれないが、そのせいで、自分勝手な個人主義者が大量生産され、道徳観が欠如した連帯感を持たない利己主義者(所謂、リベラル左翼)が跋扈するようになった。
 良くも悪くも日本人の純粋無垢なところが仇になってしまったと言える。

■危険なのは「教育勅語」ではなく「思想統制」

 その程度の思想統制で簡単に洗脳されるというのは、単純と言えば単純だが、古今東西、人間というものは毎日聞いて(触れて)いる思想に影響されやすい生き物なのだろう。だからこそ、思想というものは重要な役割を果たすことになる。

 柴山文科相の「道徳などに使うことができる分野は十分ある」というのは、「部分的に使えるものがある」ということだから間違っていない。上で見た通り、ごく当たり前の道徳教育に使える要素は十分にある。だからといって「教育勅語」を復活する必要性は感じられないが、道徳教育に普遍的なものを使用することは全く問題ない。

 逆に、「教育勅語」に書かれているものは全て間違いだとする意見は間違っている。未だにGHQの意見をそのまま伝えているだけだとも言える。天皇の存在を肯定しながら、天皇の言葉を危険だとするのは明らかに矛盾している。
 日本のリベラル左翼が「GHQチルドレン」と言われるのは、こういう姿勢からもよく分かる。GHQの思想統制という社会実験が招いた結果としての悲劇がここにある。
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