社会問題

「働き方改革」よりも「働き方革命」を欲する時代

■一罰百戒的な行政指導の必要性

 今年、最も注目された企業と言えば、2016年度のブラック企業大賞にも選ばれた「電通」ということになるのだろうか。
 「働き方改革」の影響もあるのか、一罰百戒的な意味合いで大手企業の電通が選ばれたということなのかもしれないが、最近も「労働時間の過少申告が行われていた疑いがある」として騒がれている。

 「労働時間の過少申告」というのは、早い話、「残業の過小申告」ということだが、上司から指示されて過小申告になっていたのか、それとも本人が自己判断で過小申告していたのかは分からない。あるいは、会社自体に過小申告するのが当たり前という空気があったという可能性もある。いずれにしても、そういった常態化を改善・改革するという意味合いで、一罰百戒的に行政指導が為されているのだろう。

 国が企業に命令するという行為は、どこか社会主義的な感じがして違和感も有るとはいえ、日本企業の場合、お上が指導しないと何も変えられないという悪しき伝統主義を抱えているので、最低限の行政指導は必要悪として容認するべきなのかもしれない。
 真夏の蒸し暑い時期に背広を着てネクタイを締めて通勤しなければならないという、傍から観ればストレスにしかならないようなことが伝統として維持されてきたのが日本企業である。そういった悪しき伝統は、本来であれば民間企業が率先して変えていくのが理想だが、残念ながら日本では、政治家(この場合は小池百合子氏)がそういう空気を作り出さなければ変えることができなかった。この一事をもってしても、最低限の行政指導が必要な国であることが分かる。

■悪しき伝統主義を破る「働き方革命」が必要

 ただ、行政指導も行き過ぎると問題になるので、線引きが非常に重要だと思う。
 残業の申請というのは、不況の影響もあってか、月給で雇用されている労働者は気を遣って過小申告する場合もある。かくいう私も、余程遅くまで仕事をした場合を除き残業はほとんど申請しておらず、毎月、数十時間はサービス残業している。別に「残業を付けるな」とも「残業を過小申告しろ」とも言われておらず、逆に「残業を付けるように」と言われたことはあるが、時間だけで計れる仕事ではないので、自己判断でサービス残業している。

 電通の仕事というのも、大部分は時間で計れるような仕事ではないと思うので、時給で働いている人でもない限り、誰も彼もが無条件にキッチリ残業申請するというのは考えものだと思う。法的に決められた8時間労働内でノルマ(給料)以上の仕事ができる人とノルマを達成できない人が同じように残業を申請するというのは、普通に考えれば不公平なわけで、嫉妬という感情が渦巻く日本企業では、それゆえに過小申告になる場合もある。況して多くの株主を抱えた電通のような上場企業であれば尚更で、人件費を無視したデタラメな経営では、いつ何時、問題視されてもおかしくない。

 企業にとって、売上を伸ばすことや利益を増やすという目的は伝統として残すべきだと思うが、長時間働くことを伝統にする必要はない。長時間働かなければ売上も利益も出ないという状態を維持することが難しくなっているのであれば、その部分を改革するしかないのではないかと思う。

 耳の痛い話かもしれないが、「残業の過小申告」問題を完全に無くすためには、労働者全員を月給ではなく時給で雇用するしか方法は無いのではないかと思う。長時間働かなければ帳尻が合わないような給料制度を廃止して、労働時間も給料も下げて、その分、人員を増員すれば、すぐに解決できる問題だと思われるのだが、これができない。なぜできないのか?と言えば、先程述べたように、一度決まったことは変えることができないという悪しき伝統主義が根付いているからである。

 この悪しき伝統主義を改革することができれば、それは「革命」とも言える。時代が欲しているのは「働き方改革」ではなく「働き方革命」なのかもしれない。

【関連記事】「8時間労働教」という宗教
      過労自殺の根本原因は「1度の失敗も許さない社会」
      有給休暇が取りづらい日本社会のお家事情

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過労自殺の根本原因は「1度の失敗も許さない社会」

■過労自殺の争点は「辞めるに辞めれない」こと

 大手広告代理店の電通に勤めていた女性の新人社員が過労自殺したことで大きな騒ぎになっている。中には「過労死」と「過労自殺」を混同しているような意見も見かけるが、総じて日本の長時間労働を問題視した意見が多いようだ。
 月100時間の時間外労働を行っていたということは、月20日勤務として考えれば、平均すると1日5時間の残業ということになる。17時が定時の会社なら毎晩22時まで仕事をしているという感じだろうか。休日出勤もしている場合は少し違ってくるが、確かに「働き過ぎ(拘束され過ぎ)」のレベルだとは言える。
 もともと広告代理店というのは、仕事柄、時間に不規則な業界でもあるので、そんなに早く帰れるような業種ではないとは思うが、入社早々、月100時間の時間外労働がずっと続くというようなことが判明すれば、鬱状態に陥っても仕方がないとは言える。

 先程、「過労死」と「過労自殺」と述べたが、この女性の場合、後者の「過労自殺」であったため、避けようと思えば避けられたはずだが、「なぜ避けられなかったのか?」、これがこの事件の最大の論争ポイントだと言える。そのポイントとは、「辞めるに辞めれない」ことだが、この部分をクリアしない限り、このような問題はいつまでも無くならないと思う。

■「いじめ自殺」の構造と似ている「過労自殺」

 この「辞めるに辞めれない」感情というのは、「いじめ」の構造と実によく似ている。学校でいじめに遭っている生徒が、いじめ自殺から解放される最も有効な手段は「学校を辞めること」だが、これがなかなかできない。なぜできないのか?と言えば、“やり直しがきかない”という不安感が邪魔をするからだ。“失敗を許さない社会”という認識が社会通念として常識化してしまっていることに、その原因を求めることができる。
 具体的に言えば、企業ではなく、社会そのものが「1度の失敗も許さない」という不自由で窮屈な社会に成り果てているということになるだろうか。

 日本には「」の文化というものもあり、学校を辞めることや会社を辞めることは「恥」と思う人が多い。「学校を辞めること」や「会社を辞めること」は「失敗」とイコールの関係になっているため、最悪、自殺にまで追い込まれることになってしまう。
 「1度の失敗も許されない社会」が絶望感を増幅する手伝いをすることになり自殺を余儀無くされるという悲劇に至ってしまうのである。

 その失敗の許されない社会で苦労して入社した有名企業であれば尚更で、1度辞めると二度と同じ立場にはなれない(実際はなれると思うが)というような袋小路思考に陥ってしまうのかもしれない。言わば、1度きりのオリンピックに背水の陣で挑んでいるという感じだろうか。

 学校や会社を辞めてもどうにかなる。それは社会人を辞めるという意味ではなくて、もう1度、同じ社会人としてやり直しがきくということ。そういう当たり前のことが常識として認識される社会、言い換えれば、失敗が許される社会になれば、過労による自殺も無くなる。そのためには、年齢や学歴に拘り過ぎる現在の社会通念を変えていく必要がある。何度、失敗しても個人の能力とやる気と努力で這い上がれる社会であれば、失敗(=会社を辞めること)を気にする必要もない。自分に合わないと思う会社であれば、さっさと辞めてやり直せばいい。そんな当たり前のことができなくなっている窮屈で融通の利かない社会こそが根本的な問題なのである。

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「図書館有料化」のススメ

■図書館業務における「官製貧困」

 先日、図書館で働く女性の貧困問題を扱った『月収13万円、37歳女性を苦しめる「官製貧困」』という記事をネットで見かけたので、それとなく読んでみた。その女性は公共図書館に非正規雇用の図書館司書(嘱託職員)として勤務されており、年収は200万円程度と書かれていた。細かいことを言えば、月収17万円×12ヶ月=204万円ということらしい。(タイトルの13万円は税引きの手取り収入)

 この記事のタイトルにある「官製貧困」という言葉は、「一般的な正規雇用の公務員」と「非正規雇用の公務員(公共図書館司書は一応、公務員扱いになるらしい)」との間にある収入格差を表現したものだと思われるが、正規の地方公務員の平均年収が669万円ということなので、実に3倍以上の収入格差があることになる。ちなみに、図書館司書の7割位は非正規雇用であるらしい。

 この記事のコメント欄も読んでみると結構率直で辛辣な意見も書かれている。
 「そもそも正規公務員の給料が高過ぎるのではないか?」という意見もあるかもしれないが、今回は敢えてそのことには触れず、両者間の格差を無くすことだけを目的として思考実験的に話を進めてみようと思う。

 「公務員の世界にも同一労働同一賃金制度の導入を!」などと書いても、民間企業と同様に実現性は極めて乏しそうなので、全く違う観点から意見を述べてみたいと思う。その違う観点とは何か? ズバリ、「図書館の有料化」である。
 もっとも、「図書館法」というものによって公共図書館利用における対価は徴収してはいけないことになっているので、その法律自体を変えることを前提とした話になる。

 「図書館の有料化」と言っても、別に図書館を民営化せよというわけではなくて、高価な専門書の類いや児童書以外の本は、全て市販価格の数%の料金を手数料として徴収すればいいのではないかということ。書籍発行年度によって貸し出し料金の差別化を行ってもよいと思う。
 新刊の貸し出しについては以前にも書いたことだが、1年間貸し出し禁止にして、1年経過すれば10%、2年経過で5%、3年経過で3%という具合に徴収金額を徐々に引き下げていき、本の賞味期限が切れた頃(5〜10年)に無料にすればいい。
 その手数料収入の一部を非正規図書館司書の収入に当てればいいのではないかと思う。
 ついでに、その手数料の中に著作権料も含ませればいい。これまで蔑ろにされてきた著作権者への報酬も少しは発生することになるので一挙両得だ。
【関連記事】図書館に新刊本を置くことの意味とは?
      続・図書館に新刊本を置くことの意味とは?

■図書館の有料化で「官製貧困」と「官製不況」を軽減

 公共の電車やバスでも利用者に運賃を請求しているわけだから、公共の図書館が本を貸し出すサービスを全て無料で行わなければならない必要性も無いと思う。市販価格の10分の1以下で読めるだけでも十分な公共サービスだと言える。元々、公共の電車やバス、そして図書館というインフラは国民の税金で作られたものだが、本は違う。本は基本的に税金に頼ることなく、個人や民間企業が作り出した商品なので、本来ならば、無断・無料で貸し出せるアイテムではないと言えるかもしれない。

 こんなことを書くと、「法律で決められているのだから図書館の本は全て無料にするべきだ!」と反論してくる人がいるのだろうけれど、先に皮肉を言わせてもらえば、そういう融通の利かない人や時代にマッチしない法律が正規公務員と非正規公務員との間にある収入格差を生み出している一因ではないかと思える。
 たとえ、荒唐無稽であろうと、具体的な解決策を提案する方が、何の打開策も考えずに感情論だけで反論するよりも建設的だと思える。

 「図書館の本の貸し出しを有料にすれば、書店や古本屋の売上が落ちるのではないか?」と心配する人もいるかもしれないが、残念ながら、それは杞憂だろう。現在のように図書館が全て無料で本を貸し出していることの方が書店や古本屋にとっては有り難くないはずだから、有料にすれば、書店や古本屋の売上は上がり景気も幾分かは良くなると思う。

 図書館が無料で本を貸し出していることで書店の売上が落ちているのなら、図書館が有料で本を貸し出せば書店の売上は上がる。これは自明の理である。そして、図書館が無料で本を貸し出していることで「官製貧困」と「官製不況」が発生しているのなら、図書館が有料で本を貸し出せば「官製貧困」も「官製不況」も幾分か抑制することができる。これもまた自明の理である。
 
 公共図書館が国民の税金によって運営されているのであれば、現行のままでは無条件に収入を引き上げることは難しいと思う。現代のように街の書店が減少の一途を辿る中で、図書館だけがどんどん増加しているということ自体、よくよく考えれば不自然なわけで、本来であれば、書店の減少とともに図書館も減少しなければ、歪な社会構造となり、その歪みは必ずどこかにしわ寄せされることになる。
 非正規雇用の図書館司書もその中の1つに含まれるのかもしれないが、公共図書館のシステム自体を抜本的(法的)に変えることができれば、そのしわ寄せを幾分かは解消することができる。「図書館の有料化」こそが「官製貧困」を是正する最も有効で現実的な解決策だと思う。

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警察官の「破廉恥行為」は無くせるか?

■「警察官としてあるまじき行為」とは?

 今週は、俳優の高畑裕太氏が群馬県前橋市のビジネスホテルで強姦事件を起こし大きな騒ぎになったが、同日未明に、大阪府枚方市の路上でも、泥酔した警官が歩いていた20代の女性に背後から抱きつき、破廉恥な猥褻行為を行うという前代未聞の事件が発生した。(被害女性の夫が見ている前で堂々と破廉恥な猥褻行為を行ったことが前代未聞という意味)

 この事件について大阪府警は次のような謝罪コメントを発表している。

>「警察官としてあるまじき行為。被害者にお詫び申し上げ、捜査結果を踏まえ、厳正に対処する」

 一見すると、ごく普通の謝罪コメントに見えるが、この場合の「あるまじき行為」とは一体何を意味しているのだろうか?

 警察官が勤務時間外でお酒を飲むことも泥酔することも罪ではないので、この謝罪コメントが意味しているものは、おそらく「破廉恥行為」なのだろうと思われる。しかし、残念ながら「破廉恥行為」を禁じたところで、今後の再発防止策にはならない。
 もし本当に、この泥酔巡査の犯した破廉恥行為のみが「警官としてのあるまじき行為」だと認識されているのであれば、大阪府警は大きな誤解をしていることになる。

 誰が考えても解ることだと思うのだが、この事件の場合、「破廉恥行為」は結果であり、原因ではない。事件が発生した原因は「飲酒行為」にあるので、「泥酔するまで飲んではいけない」と戒めない限り、「警官の破廉恥行為」を無くすことはできないはずだ。

 「警察官としてあるまじき破廉恥行為。被害者にお詫び申し上げ、捜査結果を踏まえ、厳正に対処する」と言うのでは、ただの結果論である。今後の再発防止策について触れられていないのであれば、それは謝罪文ではなく反省文である。

■あるまじき行為とは「破廉恥行為」ではなく「飲酒による泥酔」

 以前、「飲んだら乗るな」という言葉の矛盾をブログ記事で指摘させていただいたが、今回の問題にも全く同じ理屈が適用できる。
【該当記事】飲酒運転(酔っぱらい)を法律で縛ろうとする愚かさ

 破廉恥行為を行った警官は、泥酔している時点で、既に理性を失っており、自らが警官であることはもとより、自らが良識ある大人であることさえ見失っているような状態だ。泥酔者というのは、ある意味、催眠術にかかった夢遊病者のようなものである。

 泥酔して「破廉恥行為」というものがどんな行為なのかすら認識できなくなってしまうことは、警察官であるないに拘らず、人間として恥ずべき状態だと言える。自らの肉体の許容限度を超えたアルコール摂取は、危険ドラッグと同じであり、「酒に飲まれること」は「法律を忘れること」とイコールの関係だ。だからこそ、法律違反を取り締まるべき警察官の「あるまじき行為」と成り得る。

 「警察官としてあるまじき行為」というのは、「泥酔するまで飲むこと」であるべきであり、この部分を禁じない限り、理性を失った警官の犯罪を未然に防止することはできない。無論、「破廉恥な猥褻行為」も「あるまじき行為」であることに違いはないが、それはあくまでも、副次的に起こった事件に過ぎない。

 警察の謝罪コメントも言葉足らずだと誤解を招くことになるので、もっと具体的なものにした方が良いと思う。
 今回の警察の謝罪コメントを少し具体的に言葉付けすると以下のような感じになるだろうか。

 「節度のない飲酒を行い泥酔してしまったことは警察官としてあるまじき行為。そのあるまじき行為によって破廉恥な猥褻行為に至ったことは警察官として恥ずべき失態であり、被害者および納税者である国民の皆様に深くお詫び申し上げるともに、今後の再発防止のために節度ある飲酒行為を守ることを戒め、厳正に対処いたします」

 如何なる責任ある立場にある人間であっても、泥酔者に法律を守らせることは不可能な無理ゲーなのだということを正しく理解した上で具体的な策を講じることが望まれる。

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マスコミのマスコミによるマスコミのためのテレビ報道

■オリンピック報道とSMAP報道の共通点

 4年に1度のオリンピックが始まると日本のテレビ局は挙ってオリンピック番組ばかり放送するようになる。まるで全ての国民がオリンピックを観たいと思っている…いや、観なければいけないと言わんばかりに。
 私のように元々テレビをほとんど観ない人間は、オリンピック時には逆にテレビを観る時間が少しだけ増えるだけなので、特に違和感は感じないのだが、年がら年中、民放テレビ番組に依存しているような人は、かなりの違和感を感じるのだろうと思う。

 しかし、4年後に自国で行われる東京オリンピックでフィーバー(過熱報道)するならまだ理解できるのだが、他国で行われているオリンピックに全テレビ局がこれほどまでに執着するのは確かに少々行き過ぎの感は否めない。いくらオリンピックに国威発揚効果があるとはいえ、日頃からスポーツにそれほど興味の無い人にとっては大きなお世話(有り難迷惑)かもしれない。

 ところで、今回のオリンピック放送では、意外なアクシデントが発生した。それは、SMAPの解散報道がオリンピックの真っ最中に入ったことだが、ここでも日本のテレビ局は、SMAP解散報道を緊急速報テロップで流し、報道番組のトップニュースがオリンピックからSMAPに入れ替わってしまった。まるで全ての国民がSMAPに興味がある…いや、興味を抱かなければいけないと言わんばかりに。

 多くの国民生活に直接的に影響のある喫緊の課題(尖閣問題や皇室問題)を過熱報道するならまだ理解できるのだが、一部のファンにしか影響のないことを全テレビ局がここまで執着するのも少々行き過ぎの感は否めない。SMAPやアイドルにそれほど興味の無い人にとっては大きなお世話(有り難迷惑)かもしれない。

■マスコミ全体主義の問題点

 先の東京都知事選でも、全テレビ局が、知名度の高い3候補者の活動だけを集中的に報道したことは記憶に新しい。まるで、国民はこの3候補者の中から東京都知事を選ぶだろう…いや、選ばなければいけないと言わんばかりに。
 現実的には、この3候補者のうちの誰かが都知事に選ばれるだろうことは誰もが事前に予想していたことだとはいえ、全てのテレビ局が挙ってお節介を焼くという姿勢も、不自然だと言わざるを得ないと思う。

 よく、「テレビ局は偏ったイデオロギー色を出さずに中立の姿勢で報道するべき」という意見を耳にするが、私は別に各テレビ局(NHKは除く)がイデオロギー色を出すのは構わないと思っている。問題は、イデオロギー色が無いが如く振る舞い、全てのテレビ局の報道が同じ方向に偏ってしまうことであり、国民に違った意見が有るということを報道しない姿勢こそが問題なのだと思う。その偏った姿勢こそが見えないイデオロギーになっているのだが、透明を装っているがために、多くの人が、そのイデオロギーに気が付かないことが問題なのである。

 あるテレビ局は保守政党(例:自民党)を応援し、あるテレビ局は革新政党(例:共産党)を応援しても構わない。それらの違った意見を国民が聞いた上で、どちらが正しいことを言っているのか、誰が信用できる人物なのかを判断する材料を国民に提供することがテレビ局の仕事だと思う。「様々な意見を公平に報道する」というのは、そういうことだろう。

 ネットで、あれだけ批判されていた鳥越氏が130万票以上も得票したことは、ネット社会とリアル社会に温度差があることの証明であり、如何にテレビや新聞の報道が偏向しているかを物語っていると言える。

 オリンピックの最中に、「オリンピックなんて興味がない」という人の意見や、SMAP解散ニュースで、「SMAPなんて興味がない」という人の意見も公平に報道する。事の善悪はともかく、そういう違った意見があることを国民が正しく知ることで、何が正しくて何が間違っているのかを判断することができるようになる。情報の違いを吟味し取捨選択していくことによって、社会はより良くなっていく。

 逆に「正しいことはこれだ」と言わんばかりに、テレビ局がお節介にも恣意的に情報をコントロールしていたのでは、社会はより良く成りようがない。

 この全体主義的な姿勢こそが、現在のテレビ局およびマスコミが抱える最大の問題点なのだろうと思う。そのお節介なシステムこそが、民主主義の発展を阻害するシステムに他ならない。


【追記】2016.08.15
(BLOGOS転載記事のコメントに対する反論になります)

>流れている情報を取捨選択することは当然で、足りないと思った情報に自分からアクセスすることがさらに大事だ。テレビを見て、新聞を読んで疑問に思えば、Webで情報を収集する。現代社会はそれを可能にしている。

 私自身、「テレビはほとんど観ない」と前置きした上で書いた通り、本記事は主にテレビや新聞からしか情報を入手していない人を対象として書いています。

>テレビにおんぶにだっこに肩車してもらって、どこまでも他律的に提供される情報で、民主主義を発展させてもらおうとか、時代遅れの化石の発想でしかない。

 これも「テレビや新聞からしか情報を入手していない人」に対しての批判にしかなっていません。民主主義というのは、国民の情報認識力を底上げすることによってしか精度を高めることはできないということであって、誰か(マスコミ?)に完全依存するという意味ではありません。

>それこそ「嫌なら見るな」でしょう。
これだけメディアが増えているのに、なぜ、テレビにこだわるのか。
テレビが絶対的なものといて崇め奉るのか。

 ネットで反論できる人にはピンと来ないかもしれませんが、現に、テレビしか観ない人は大勢存在しています。そういう人達に、「テレビを観るな」と言っても現実味がないでしょう。そういう人達が情報を得る手段は、これまでもこれからもテレビが中心にならざるを得ないわけです。ゆえに、そのテレビ報道自体が変わらない限り、何も変わらないということです。

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ヒトラー的「優生学」思想から発生した相模原殺傷事件

■目的のためには手段を選ばなかった平成の殺人鬼

 どのような経緯があったのか定かではないものの、障害者を抹殺することを正義と考えるに至った精神異常者が、大胆不敵にも、その狂気の妄想を実際に演じてのけるという前代未聞の殺傷事件が発生した。深夜の静寂を破り、「○○○に刃物」という言葉そのままに、何の罪もない数十人の人々に刃物で襲いかかり、19名もの命を奪った残虐行為は、如何なる事情があろうとも「鬼畜の所業」と言わざるを得ない。

 犯人は、「私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。」という目的を語っておきながら、その目的を達成する手段が“保護者の同意を無視した刃物による殺人”では筋が通らず、完全に狂っているとしか言い様がない。

 介護を要する重度の痴呆症の親を抱えた人などが、たまに介護疲れで殺人を犯すということがある。そういった社会問題を減少させるという意味で、「安楽死制度というものも場合によっては必要だ」と訴えるならともかく、「障害者を抹殺することが革命」とは恐れ入る。

 しかし、こんな手紙を手渡された衆議院議長や、手紙に名前が書かれていた安倍総理にとっては迷惑この上ない話だろうと思う。まさか、こんな手紙の内容を真に受けるような人はいないと思うが、もし本気にするような人がいれば安倍総理が気の毒なので、擁護する側に立って少しだけ意見を書いておきたいと思う。

 この犯人は、自民党や安倍総理を独裁的な団体および指導者だと勝手に妄想しているという意味では、自民党をナチス、安倍総理をヒトラーなどと言って口撃しているような人々と同じような妄想気質が観て取れる。しかしながら、「反安倍」の人々とこの犯人の大きく違うところは、その妄想の根底に「優生学」思想というものが有ったことだろう。

■ヒトラー思想に同調した平成の殺人鬼

 ナチスが「優生学」を研究していたことは有名な話で、多くの障害者を計画的に抹殺したことも周知の通りだが、このナチスの安楽死計画は「T4作戦」と呼ばれた。

 今回の相模原事件の犯人は、事件を起こす少し前に「ヒトラーの思想が降りてきた」と語っていたそうだが、自らがヒトラー的な思想に被れていたからこその出来事だったとも言える。
 「優生学」というものを初めて提唱したのはチャールズ・ダーウィンの従兄弟(いとこ)にあたるフランシス・ゴルトンという遺伝学者だが、ゴルトンはダーウィンの仮説『種の起源』に強く影響を受けた人物であり、人間の才能は遺伝によって決まると固く信じていた。

 遺伝子というものが未だ解明されていない時代に生きたゴルトンは、遺伝、つまり血縁を操ることで社会は良くなる(進歩する)という考えを持つに至った。遺伝子を改良するのではなく、遺伝そのものが対象となったため、必然的に人種による優劣意識が生まれることになった。この考えは、人間の良し悪しは生まれながらに決まっているという差別主義に他ならないが、その唯物(社会科学)的妄想を現実のものとして実行したのがヒトラーだった。

 ヒトラーは右の社会主義者と言われるが、その本質は選民思想に被れた全体主義者(ファシスト)だった。人間の精神性を無視し“社会”を中心に物事を考えるようになるという意味では、極右も極左も行き着く先は同じく社会主義者である。
 社会主義者の最たる特徴は、人間をモノとしてしか見れなくなるというもので、だからこそ、障害者を単なる欠陥品としてしか見れなくなる。

■思想ではなく妄想で動いた平成の殺人鬼

 衆議院議長に宛てたとされる手紙の文体からは、なにやら「革命臭」がすることから、この事件の犯人を「思想犯」という括りでプロファイリングされている向きもあるが、この手紙の内容に目を通した限りでは、思想犯というよりも、ただの妄想狂だろうと思う。薬物の影響もあるのか自身の妄想が躁的に膨張し、何者かに操られるかの如く正気を失い、犯行(凶行)に及んだと考えるのが一般的な解釈だろうと思う。

 そもそも、単なる思想犯が、何の躊躇もなく無抵抗の人間を19人も殺せるわけがない。明らかに犯人の行動は狂気の沙汰であり、まともな精神状態でなかったことは明らかだ。間違った思想(優生思想)に被れていたことは推察できるが、その思想が暴走するに足る外的(内的)刺激が無ければ、このような凶行に及ぶまではいかないと思う。

 その刺激が薬物であったのどうかは不明だが、1つ確かなことは、事件の動機は安倍総理とは何の関係もないということ。安倍政治を《独裁政治》と勝手に思い込んだ人間が自らの歪んだ革命思想(妄想)を実践し勝手に殺人を犯したに過ぎない。仮に、現代日本の保守的回帰を右翼的回帰と曲解したことによる犯行だったとしても、事件を起こした責任は犯人にある。

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NHKは「押し売りビジネス」か?

■NHKの真ん中で「NHKをぶっ壊す」と叫ぶ

 東京都知事選に立候補している「NHKから国民を守る党」の立花孝志氏の「NHKをぶっ壊す」発言が注目を浴びている。唯一の公平な選挙放送と言えるNHKの政見放送に出演し、まるでテレビジャックの如く「NHKをぶっ壊す」を連発する立花氏の姿は実に痛快で皮肉が効いている。

 立花氏は、元NHKの職員であり、10年程前にNHKの不正経理を内部告発したことで話題になった人物でもあるらしい。

 立花氏の主な主張は、

  「NHK職員の年収が高過ぎる

  「借金取りのような受信料取りたてが酷い

  「NHK放送をスクランブル放送にせよ

 という、よく聞かれるNHK批判でしかないのだが、あの百田尚樹氏も立花氏を評価されているらしい。過激で個性的な泡沫候補者の1人として面白がられているだけかもしれないが、少なくともNHKに対する公約については支持したいと思う人は多そうだ。

■「押し売りビジネス」と「借金取りビジネス」

 ところで、NHKは「押し売りビジネス」と揶揄されることがあるが、個人的には「借金取りビジネス」と言った方が近いと思っていた。立花氏も政見放送内で「借金取り」という言葉を使用されていたのが印象的だった。

 「押し売りビジネス」と「借金取りビジネス」の違いは何かと言うと、世間体(人目)を気にするかどうかの違いと言えるだろうか。近所に住む人々がNHKの受信料を支払わないことが当たり前というような環境では、「押し売り」として批判できるが、逆に、近所の人々がNHKの受信料を支払うことが当たり前という環境だと、「借金取り」に変貌してしまう。
 自宅の前で大声で受信料を請求される姿は、傍から観れば借金取りから「借金を返せ」と請求されている姿に映ってしまう。別にNHKから借金しているわけでもない人が、周囲の空気によっては、借金しているかのような錯覚を覚えることになる。そう考えると、実に巧妙なビジネスモデルだとも言える。

 かくいう私もNHKの受信料は真面目に支払っている。支払っているので、こんなことが書けるのだが、本音を言えば、ほとんど観てもいない番組の受信料など支払いたくない。1日にテレビを観る時間はせいぜい1時間以内だし、NHKの番組ともなると、1ヶ月間で1時間も観ていないと思う(立花氏の政見放送もユーチューブで視聴)。
 家族の誰かが観ているとしても月々2230円というのは正直高過ぎると思う。

 私はWOWOWのドラマWのファン(DVDレンタルで視聴)なので、もし有料放送の「選択の自由」が認められるなら、NHKではなく、WOWOWを選択した方が理に適っている。観たい番組のためにお金を使えず、観たくもない番組のためにお金を使う、こんな不条理で理不尽なことがあるだろうか?

■視聴料は「取れるところ」からではなく、「取るべきところ」から取るべき

 先日、総務省の第三者機関である「放送を巡る諸課題に関する検討会」がNHK受信料の値下げを検討しているとの報道があったばかりだが、その骨子は「公平負担を確保し、国民・視聴者にとって納得感のあるものとする観点から検討が必要」とのことらしい。

 しかし、受信料を値下げすると言っても、1割、2割の値引きでは国民は到底納得できないだろうから、一気に500円程度にまで引き下げることが望ましいと思う。理想はスクランブル放送化だが、国営化も民営化もせずに、あくまでも公共放送に拘るのであれば、受信料を大幅に下げるしかない。

 立花氏の話では、東京都民は半数しか受信料を支払っていないそうだが、以前に読んだ本(大マスコミ 疑惑の報道)には、大阪府民は3分の1しか支払っていないと書かれていた。そんな状態でも充分に経営していける(平均年収は1800万円)のだから、毎月500円に下げても大丈夫だろう。むしろ、契約者も増えて、それほど受信料収入も目減りせずに済むのではないかと思える。

 この機会にNHK受信料は、これまでのように「取れるところから取る」ではなく、「取るべきところから取る」という真っ当な制度に切り替えていくべきだと思う。国民から批判されることが当たり前の公共放送局から、誰もが認める真っ当な公共放送局に生まれ変わるべきだ。

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有給休暇が取りづらい日本社会のお家事情

■有給休暇制度の改善を望む人々の出現

 昨日、BLOGOSで有給休暇についての記事(転載元はキャリコネニュース)が出ていたので興味を抱いて読んでみると、なんと私の記事の紹介が書かれてあって驚いた。元々はキャリアパークというサイトの記事がメインであり、そのサイトに書かれてある記事の内容と私の3年前に書いた記事が同じような内容だったため、ご紹介に預かったらしい。

 実際にキャリアパークの記事を読んでみると、なるほど、内容的にも私の書いた記事と非常によく似ていて驚いた。
 「有給休暇 廃止」でググるとBLOGOSに掲載された私の記事がトップページの1番目に出てくるので、参考にして頂いたのかもしれないが、もし偶然だとすれば、シンクロニシティのようで驚きだ…と言うか、実際に現場で働いている人であれば、同じような感想を抱くということの証明とも言えるだろうか。

 3年前に「有給休暇」について書いた記事は、全国の有給休暇が取得できずに悩んでいる会社員の気持ちを代弁するべく大真面目に書いたつもりだったのだが、タイトルが釣り記事っぽくなってしまったためか、タイトルだけを見て批判していると思われる人が大勢いた(外部サイトも含む)。曰く「有給休暇の廃止を勧めている狂人がいる」という具合に。
 これにはさすがに面食らってしまったので、補足の弁解記事を書いて理解していただこうとしたのだが、はたしてどこまで理解していただけたのかは判らない。元々、内容を読まずに批判してくる人に弁解記事を読んでもらうことを期待すること自体、野暮なのかもしれないが…。

■嫉妬社会ゆえに生まれた有給休暇問題

 基本的に日本の会社(企業という言葉はあえて使用しない)は有給休暇が取りづらい。それは、仕事ができる、できないとは、あまり関係がなくて、仕事のできない人は負い目を感じて取得しづらいだろうし、仕事のできる人は、「自分は仕事ができる」と威張っているような感じがして遠慮してしまう。結局、周囲の人が自分をどう思うのか?ということに敏感な人(A型の人が多いかもしれない)ほど、有給休暇が取れなくなってしまう。
 「仕事ができる人間はどんどん有給休暇を取ればいい」というような意見も見かけたが、良いか悪いかはともかく、気配りができる人ほど有給が取れないと言えば、納得していただける人も多いのではないだろうか?

 日本社会は「嫉妬社会」とも言われる通り、日本の会社というものも“嫉妬”という感情とは切っても切れない関係にある。「出る杭は打たれる」とも言われるが、長い間、集団行動することを要求され続けてきた組織の中にあっては、多くの人々が、その社会の中で育まれてきた独自の文化を疑うことなく、当然のこととして受け入れているため、そのシステムが可笑しいと気付いた人間がいたとしても、組織の中では絶対的少数派となるため、なかなか声を大にしては言えないだろうし、そういった本音を言えなくする空気が日本の会社には確かにある。

 だから、組織の中における“嫉妬”という感情を避けて通る方法論として、「有給休暇を無くせばいい」という結論になってしまった。しかしそれは字義通り、有給休暇を無くせという意味ではなくて、有給休暇で取るべき日数分を初めから休日とし、それ以上に休んだ分は欠勤扱いにすればいいという、ごく当たり前の提案のつもりだった。

 現代の多くの会社では、かつての高度経済成長時代のように、年中、四六時中仕事が多忙なわけではないだろうし、オートメーション化やIT化により仕事自体もより多様化・複雑化しているため、個人の能力によっても仕事の生産性が大きく違ってくるようになった。
 そんな時代では、どうしても仕事と休暇の線引きは曖昧に成りがちだ。しかし、だからこそ、その線引きは個人個人が責任を持って管理するべきであり、有給休暇を取るか取らないかも個人でマネージメントするべきだと思う。組織の事情がどうだのというような理不尽な理由で、暇な時ですら、休みが取れないというような状況は明らかに不自然だ。

 忙しい時には文句を言わず残業や休日出勤もし、逆に暇な時は遠慮なく休暇を取る、それが自然な労働の形だと思うのだが、現代の日本の会社では、前者は意識されても後者は無視されがちという歪な労働環境になっているように思われる。その本来の姿から乖離した労働システムの歪さが、多くの労働者のストレスに繋がっているではないかと思う。
 それもこれも、正社員制度というものが招いた悲劇だと言えるのかもしれないが…。

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アンタッチャブル教育が齎した「体罰・暴言事件」

■感情的な怒りは「体罰」とは言えない

 大阪市の市立小学校で起こった37歳の男性教諭による体罰及び暴言事件が波紋を呼んでいる。
 放課後、居残り学習(補修授業)中に席に着かずウロウロと立ち歩いていた児童(小学5年生)に対し、男性教諭が「座りなさい」と注意したものの、指示に従わなかったので、児童のアゴを掴み壁に頭を押し付けたというものらしい。

 「児童のアゴを掴み壁に頭を押し付けた」という行為のみを見れば、確かに「体罰」に該当するのかもしれないが、どうも違和感があり釈然としない。この事件の場合、「体罰」とは少しニュアンスが違うのではないかと思う。
 この教師は、予め「体罰」だと称して生徒に掴みかかったわけではなく、「座りなさい」と注意しても座らなかったので、「早く座れ!」とキレてしまっただけではないかと思う。一時的に怒りの感情が爆発してしまったことによる暴力行為と暴言を「体罰」とは言わないだろう。
 この生徒が教師の言うことを聞かなかったのは今回が初めてだったのか、それとも、これまでにも何度も教師の言うことを無視し続けてきたのか、そういった違いによっても判断は変わってくると思われるので、ただ単に結果だけを見て「体罰」と決めつけてしまうのは無理があると思う。

 キレてしまった教師にも問題があるとはいえ、注意しても言うことを聞かなかった生徒側には全く落ち度が無かったのだろうか? 何もしていない生徒に手を出すのは問題だが、口頭で注意しても言うことを聞かない生徒に対して教師はどうすればよかったのだろうか?

 「いかなる理由があろうと生徒に暴力を振るってはいけない」と言う人はいるだろうけれど、そういう人達に「生徒は教師の言うことを聞かなくてもいいのですか?」と問えば、どう返答するのだろうか?

 なにやら、最近読んだベストセラー本の『幸せになる勇気』に書かれていた「教師と生徒の関係」とダブってしまうような話だが、この生徒の場合もアドラー心理学に照らせば「注目喚起」に該当するのだろうか?

■「先生がクビになったら」という言葉の意味するところ

 伝えられているところでは、この教師は生徒に対して「これで先生がクビになったら、一生許さへんからな」と暴言を吐いたことになっているが、当人の事後釈明では「一生をかけても男児を指導するという意味だった」とも弁解している。
 この苦しい言い訳では批判されても仕方がないと思われるが、怒りの感情から発した「これで先生がクビになったら、一生許さへんからな」という間引かれた言葉を、そのまま字義通りに受け止めるのもどうかと思う。おそらく、この言葉の中には以下のような意味が込められていたのではないかと想像する。

 「生徒に手を出せば、体罰として問題になることは承知しているが、お前が素直に言うことを聞かないので、先生は仕方なしに手を出した。お前が先生の言うことを聞かなかったことを悪いと思うのなら、黙って従って欲しい。これで先生がクビになったら、お前も俺も一生後悔することになる。

 実際の暴言の中にも「先生がクビになったら」という言葉を使用しているということは、本当にクビになるかもしれないという危険性は充分認識していたということだから、単なる感情的な脅し文句だったと受け取るのは短絡的過ぎるような気がする。少なくとも「体罰」を意識している人間の口から出る言葉ではないと言える。

 ネット上では案の定、「教師が悪い」vs「生徒が悪い」という具合に賛否が分かれているようだ。
 今回の事件を起こした教師の人柄は全く分からないので、ここでは、あくまでも「暴力を行使するに至った教師」という括りで一般論を述べるに止めたいと思うが、生徒に触れてはいけないという現在の教育環境では、今後も、言うことを聞かない生徒に対してキレる教師が出てくることは避けられないと思う。

■生徒が“アンタッチャブル”化したことによる悲劇

 事件の後、この小学校の校長が生徒宅に出向いて謝罪したそうだが、教師の言うことを無視した生徒の行動は全くお咎め無しでスルーなのだろうか? 結果的には暴力を振るった教師が悪いということは理解できるが、その原因を作ったのは他ならぬ生徒の方なのだから、生徒の方にも少なからず謝る必要があるのではないのだろうか?

 この事件を傍から観ていると、暴力を伴わない精神的ないじめに遭っている生徒が、我慢の限界を超えて、いじめっ子に暴力を振るえば、そのいじめられっ子が加害者として非難されるというような理不尽な光景が浮かんでしまう。ある意味で、生徒による教師いじめが許される教育環境が出来上がってしまっているようにすら感じられる。冒頭で述べた「釈然としない違和感」の正体は、まさにその部分だと思う。
 ここでもう1度、お断りしておくと、私はこの教諭を擁護しているのではなく、あくまでも「暴力を行使するに至った教師」(キレる教師すべてが対象)という仮定の括りで一般論を述べている。そこは誤解のないように。

 結果的に、当の教師は戒告処分【別の学校へ異動】で済んだということだから、幸いクビにはならなかったようだが、もしこれで、マスコミが必要以上に騒ぎ、本当に懲戒免職【教師をクビ】にでもなっていれば、この教師だけでなく、生徒の方も後悔する日が訪れることになっていただろうと思う。「自分が教師の言うことを聞かなかったという下らない理由で、1人の教師の人生を狂わせてしまった…」と。
 まさか、「俺は教師を無視したことで体罰教師をクビに追い込んだヒーローだ」などとは思わないだろう。

 現代の日本の教育現場では「体罰」がいけないという理由から、教師と生徒間のスキンシップまで全廃されることになり、生徒が神聖な“アンタッチャブル”と化してしまった。
 この事件は、そんな行き過ぎた過保護な教育環境が齎した悲劇だったと言えるのかもしれない。あるいは、これまで生徒間のいじめ行為を見て見ぬふりをする事勿れ環境にどっぷりと漬かってきた教師達が、皮肉にも、自らも理不尽な環境に追いやられることになってしまったという意味での悲劇なのかもしれないが…。
 いずれにしても、なにか「嫌なものを観てしまった」かのような違和感が拭えない。

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BOOK『あの日』を読んで。

■事実は報道よりもシンプルだったSTAP細胞事件

 先月末に急遽発売され現在ベストセラーとなっている小保方晴子氏の手記『あの日』を購入した。
 発売当初からいろんな書店に足を運んでみたのだが、どこの書店でも売り切れで、アマゾンでも売り切れ状態だったので、増刷待ちの状態が続いていたが、ようやく入手(結局、アマゾンで購入)することができ、読み終えた。

 長らくベールに覆い隠され見えなくなっていたSTAP細胞事件の真相(経緯と顛末)が当事者である小保方氏本人の口から語られた意義は大きい。推測や憶測だけで書かれた書物とは、その重みが全く違う。全てを失った小保方氏の魂の叫びとも呼べる手記だった。
 ここでは詳細は書かないが、実際、その内容は驚くべきものであり、これまで朧げながらにしか見えなかった疑問点が氷解し、多くの謎が解明されたと言っても過言ではない。本書に実名で登場した多くの関係者から反論と呼べる反論が出ていないところを見ても、本書に書かれていることがフィクションでないことを物語っている。

 先月末の時点では、小保方氏の手記が出版されるというニュース記事が報じられたが、なぜか発売後は、急に静まり返ってしまい、ほとんど報じられなくなった。
 推測するに、おそらく、発売前は「どうせ言い訳がましい手記だろう」と高を括っていたマスコミ関係者が、いざ発売されて読んでみると、あまりにも理路整然と赤裸裸に書かれた痛ましい手記に唖然としてしまった格好だろうと思う。事件当時に小保方氏に対し罵詈雑言を浴びせかけていた言論人の多くも臍を噛んでいるのか、黙りを決め込んでいるかに見える。

■公然とストーカー行為を行うマスコミの罪

 マスコミ報道とは裏腹に、アマゾンのレビュー欄を見ても評判は上々のようで、現在のレビュー数は500に迫る勢いだ。

 中でも興味深かったのは、著名人である小谷野 敦氏がレビュー欄でお詫びを書かれていることだった。
 言論の自由を履き違えた無責任な言論人は、好き勝手なことを言うだけで、他人の心に取り返しのつかないほどの傷を負わせる発言を行っても何の謝罪もないが、そんな中にあって小谷野氏のこの姿勢はご立派だと思う。

 笹井氏が自殺に追い込まれた最大の理由も本書にはそれとなく書かれてあったが、STAP細胞の有無に関係なく、マスコミの人権を無視した報道姿勢は看過できるものではなく強い憤りを感じた。
 本書を読むと、マスコミの(一部の)記者というのは公然とストーカー行為を行っているようなものだと思わざるを得なかった。己の思い込みから、自らを正義の仕置人と勘違いし、間違った正義の名の下に人権を踏みにじる行為を平然と行っているわけだから、その悪鬼の如き所業は罪深いと言わざるを得ない。本書を読まれた多くの人がそう感じたことだろう。

■笹井氏が述べた科学者の本分

 本書を読んで、小保方氏が優秀な科学者であり、努力型の天才肌の人物ということがイメージできた。同様に笹井氏も科学者として純粋で非常に有能な人物だったことが窺え、死を選ばなければならないほどに追いつめられたことが残念に思えた。

 本書の中に書かれていた笹井氏の次の言葉が印象的だった。

 「僕はね、科学者は神の使徒だと思ってるんだ。科学の神様はね、時々しか見せてくれないんだけど、チラッと扉の向こうを見せてくれる瞬間があってね、そこを捉えられる人間は神様に選ばれているんだよ。だから真の科学者は神の使徒なんだ。その美しい神の世界を人間にわかる言葉に翻訳するのが科学者の仕事なんだよ…(以下省略)」

 まさに真の科学者でしか到達しえない境地であり、素晴らしい至言だと思う。同じく本書の中にあったが、「こんなどろどろした業界なかなかないぞ」という言葉のような世界にあって、これだけの認識力を持った有能な科学者を失った日本の科学界の損失は大きいと言わざるを得ない。

 小保方氏が当ブログを読まれることは多分ないだろうけれど、最後に、私なりのアドバイスを書きとめておきたいと思う。

 「多くの心ない人々があなたを批判し非難したことで、あなたの心は大きく傷付き、名状し難い悲しみと絶望感に襲われたことと思いますが、そんな腐ったかに見える社会でも、素直な目であなたを正しく見ている人間も大勢いることを忘れないでください。本書を発刊されたことが契機となり、更に多くの人が幻想から目を覚ますことでしょう。きっといつかまた、ピペットマンを持ち、科学者として認められる日が来ることを信じて頑張ってください。」(自由人)

【お詫びと訂正】

 文中の「科学者は神の使途」は「科学者は神の使徒」の間違いでした。訂正してお詫びします。今朝、会社で気が付いていたのですが、知らせていただいた2人方(マルドメ、コスモス様、多次貞二)有り難うございました。

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