社会問題

「こんな人たち」という言葉にご用心

■ユーモアも常識も通じない社会

 東京秋葉原での安倍総理の演説の一部

 「…こんな人たちに皆さん、私たちは負けるわけにはいかないんです…」

 このシーンをテレビで初めて観た時、「なかなかユーモアのあるアドリブだな…」と思ったが、なぜか世間ではそうは感じない(ジョークが通じない)生真面目な人もいるらしく、「安倍総理の看過できない暴言」とのことで「秋葉原発言」(秋葉原事件のもじり)と称して批判している人もいるらしい。

 「原因あれば結果あり」と言って、他人の話を邪魔立てするような悪因を作りたる者は、結果として誰からも話を聞いてもらえなくなるという結果を招く。その因果法則が正しく機能しているのならば、演説の最中に「安倍、辞めろ!」「安倍、帰れ!」などという罵声を大声で浴びせるような非常識な輩こそが、批判されて黙るべきところだが、どういうわけか、この国では、因果関係(常識)が逆転しており、悪因を作りたる者が正しいというような扱いになっている。

 「人の話を聞かず、公然と邪魔をするような人たち」に対して、聴衆の笑いをとる目的で簡略化されて発せられた「こんな人たち」という言葉。確かに1国の総理大臣が「そんな人たち」を逆利用して笑いを取ろうとした行いは軽はずみだったと言えなくはないだろうが、それでも、ここまで問題視されるような発言とは思えない。

■ステレオタイプ化された「こんな人たち」

 例えば、3野党の政治家が演説中、同じように「○○、辞めろ!」「○○、帰れ!」などという罵声を浴びせられた場合、その政治家が「こんな人たちに皆さん、私たちは負けるわけにはいかないんです」と言えば、どうなるのだろうか?
 その場合も、「政治家○○の看過できない暴言」と批判されるのだろうか? おそらく、その演説の場では、罵声にも屈しなかった勇気ある政治家として拍手・賞賛されるのではないだろうか? 今回の安倍総理の発言にしても、マスコミが批判的に報じなければ、これほど大きな騒ぎにはなっていなかったはずだ。

 その政治家の発言をどう捉えるかはマスコミの報道の仕方次第で如何様にも変えられる。そもそも、マスコミが政治家に忖度して報道しなければ、そんな出来事が有ったことさえ無しにできるのだから、内閣支持率などはマスコミの匙加減1つで如何様にも操れる。

 今回の一件からは、図らずも政治家はマスコミよりも低い立場にいることが分かる。
 以前、ある言論人が「政治家がマスコミを懐柔している」というような陰謀説を唱えていたが、実際のところ、日本では、第4権力であるマスコミの方が政治家よりも強い権力を有しているので、政治家がマスコミを懐柔するようなことはほとんどできない。同じ政治思想を持った者同士が協力し合うことはあるかもしれないが、それは懐柔ではない。

 政治家の話すことは全て国民に伝わっているわけではなく、どの部分を伝え、どの部分をカットするかは、マスコミによって取捨選択(コントロール)されていることは、今回の報道を見てもよく分かる。
 「こんな人たち」の為した悪因を無視し、安倍総理の「こんな人たち」という言葉以外を捨象し、恰も“弱者を威圧する権力者”の如く単純化されたイメージが作り出される。そのステレオタイプ化された分かり易いイメージだけで多くの国民は物事(善悪)を判断するようになる。これぞ、まさに洗脳である。
 
 「こんな人たち」という言葉に騙されないように注意しよう。

【追記】2017.7.16
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>自由人じゃなさそうな自由人という人のブログ。
国家権力に洗脳されてるってのが笑える。

 ペンネームの「自由人」の意味は「自由に考える人」なので、ブログに何を書こうが「なさそうな」というのは当て嵌まりません。
国家権力に洗脳されているのは残念ながら、あなたの方です。この場合の「国家権力」とはもちろん「自民党」のことではなく「マスコミ」のことです。第4権力であるマスコミが日本では実質的に国家第1権力になっていると書いたはずです。

>自分自身で書いてるように一国の総理が軽はずみな発言したのが問題なのであって単に政党党首の発言ではない。海外で報道される自覚がなさ過ぎる。

 あの程度の軽はずみな発言をしただけで総理を辞任しなければならないのであれば、日本で総理大臣が務まるような人は皆無になりますね。と言うよりも、正しいことを言って総理をクビになるのでは、誰も総理大臣などになろうとも思わないでしょうから。トランプやドゥテルテなんて、1日でクビになるでしょうね。

>「安倍やめろ」コールがあり、それに対して安倍ちゃんが「こんな人」と言ったという事実は正しく伝わっているわけで、切り取りだなんだはいいがかりでしょ。

 「安倍やめろ」を言うなら、演説が終わってから言えばいいのであって、なぜ、言論を封殺するような真似事をしなければいけないのか?ということです。その論点を逸らし「切り取り」云々などということ自体が言い掛かりでしかありません。

>それでも、彼らは国民だし、自分に否定的な国民を「こんな人達」呼ばわりする事を批判されているわけで。

 彼らが思っているように日本が本当の独裁国家で安倍総理がヒトラーのような人物であるなら、「こんな人たち」という以前に、演説を邪魔した時点で即逮捕、場合によっては投獄、死刑になります。「安倍やめろ!」などと公然と言えることが、どれだけ平和なことであるかを考えるべきです。

>政治家は時に乱暴な非難も受けるもんで、民主主義国家のの首相であればそういう厳しい声も受け止めるぐらいの器を見せてほしいもんですがね。

 普通に受け止めていると思いますが。民主主義国家の首相であるから、反論できずにいるんでしょう。もし独裁国家の首相なら、上のコメントに書いた通りです。

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今、既にある「行き過ぎた監視社会」

■クレームを煽る第3者の存在

 最近の日本の政治を観ていると、「政治家の能力」よりも「政治家の言葉」だけが重要視されているような気がする。これを企業に置き換えて考えれば、「仕事をする能力」よりも「顧客に対する言葉遣い」の方が重要だというようなことになるのだろうか。仕事はできても、顧客に誤解されるようなことを一言でも言えばクビになるような企業があれば恐ろしい社会だが、政治の世界ではそういう恐ろしい社会が実際に出来上がってしまっている。

 もちろん、企業の場合でも、従業員の言葉が原因となり顧客からのクレームが有ればクビになる可能性はあるだろうけれど、政治の世界では、わざわざ顧客のクレームを焚き付ける第3者が存在している。従業員の言葉遣いを逐一監視し、その言葉が悪い場合は、わざわざ顧客からクレームが出るように煽る勢力、それが、善意(悪意?)の第3者マスコミである。

■「行き過ぎた監視社会」を実践するマスコミ

 政治家の言葉は基本的に全てリアルタイム発言であり、公の場で話す言葉は全て記録される。ゆえに、その話す内容に少しでも齟齬や矛盾があれば、ここぞとばかりに「言葉狩り」が為される。1時間の話の中に1つでも問題点(ミス)があると、その1つの問題だけを殊更、針小棒大に報じ、残りの話の内容はまるで無かったかの如く扱いになる。これでは、予め話す内容を書面に書いて推敲を重ねた上で読むようなことでもしない限り、恐くておちおち喋ることもできなくなる。

 これも企業に喩えれば、100の仕事で99の仕事を無事にこなしても、1つのミスがあればクビになるというような感じに近いと言える。そんな企業があれば、ミスすることばかりに気を遣い、恐くておちおち仕事もできない。
 ミスが人の命に関わるような仕事(例:医療)であれば、1つのミスでもクビになる場合はある。しかし、政治家の言葉1つが国民の命に関わるようなことはないだろうし、況して、誤りを認めて謝罪を行っている政治家を殊更に責め立てるのは行き過ぎだ。
 政治家の言葉のミスで国民の命に関わるようなことがなくても、政治家の能力次第では国民の命に関わるようなことになる場合は有り得る。日本の防衛問題にしても、舵取りを誤ると多くの国民の命を危険に晒す事態になる可能性は大いにある。言葉のミスなら謝罪で済むが、防衛問題の選択ミスは謝罪では済まない。

 マスコミの行うべきことは、政治家の言葉のミスを責めることではなく、政治家の本来の仕事を監視することだ。政治家の言葉のミスを責めることに躍起に成り過ぎて、政治家が本来の仕事をできなくなるのでは本末転倒だろう。

 特に左派のマスコミは、共謀罪がどうたらこうたらと言っていたと思うが、その建前は「行き過ぎた監視社会」に反対というものだったのだろう。しかし、その左派のマスコミが政治家に対して行っていることは、まさしく「行き過ぎた監視社会」(密告社会)の実践に他ならない。

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NHK流の詰め将棋「王手受信料取り」

■「全世帯受信料徴収」の可能性

 「NHK受信料制度等検討委員会」は、2019年度からの実施が予定されているテレビ放送とインターネット放送の「常時同時通信」における受信料の中間答申原案を発表した。
 その案によると、テレビを持たず受信料を支払っていない世帯でも、インターネット接続端末を有する世帯には受信料を請求する方針となっている。ただし、現段階では「スマートフォンなどでネット受信アプリのダウンロードなどの手続きを済ませた者(世帯)」だけを対象としている。視聴アプリのダウンロード等を行わない限り、現状とさして違いはないと言えるが、今回の動きを全世帯受信料徴収の布石と見る人もいるらしく、ネット上では様々な憶測も飛び交っている。

 これまでNHK受信料を支払いたくないとの理由からテレビを買わない・見ない生活をし続けてきたような人にとっては、今回の発表は、驚きだったのではないかと思う。パソコンやスマホを持っているだけで受信料が請求されるようなことになれば、想定外の事態であり、口がアングリといったところかもしれない。
 もし本当にそんなことになると、さすがにテレビを買おうと開き直る人も出てきそうだが、逆に、テレビだけでなくパソコンやスマホまで持たないという人も出てきそうだ。パソコンやスマホが売れなくなれば、景気にも少なからず悪影響を及ぼすことになるかもしれない。(あくまでも悲観的観測)

■正直者が馬鹿をみる「悪平等放送」からの脱皮を

 「NHK受信料は支払わなければいけないもの」という前提で考えるならば、確かにテレビ放送だけ受信料を取り、インターネット放送は受信料を取らないというわけにはいかないだろうから、自ら能動的に受信アプリまで入れてスマホで観るという人なら受信料を請求されても仕方がないとは思う。受信料を支払うのが嫌なら観なければいい(アプリを入れなければいい)。これなら納得できる。

 このことはテレビ放送についても言えることで、NHK放送を毎日バンバン観ているような人が受信料を支払わないというのもおかしい。しかし反面、本当にNHKの番組を観たくもないし、実際に観ていない人は、どうすればいいのか?という最も重要な点が「公共放送」の名の下に無視されている。そのせいで、観ているのに受信料を支払わない人が大勢いる一方で、観ていないのに受信料を支払っている人(私も含む)がいるという極めて歪なシステムになっている。この構図はもはや「公共放送」と言うよりも、正直者が馬鹿をみる「悪平等放送」に近いとさえ思える。

 「公共放送」は誰もが皆、等しく、あまねく観る権利がある。しかし、受信料は誰もが皆、支払う義務がなく、実質的には、支払える人間が善意で支払うという曖昧なシステムになっている。これはある意味、広告収入に依存しない「ウィキペディア」と同様で、善意の寄付で成り立っているようなものだとも言える。
 「ウィキペディア」はたまにサイト上で寄付金を募っているが、NHKのように各家庭の玄関先まで徴収には来ない。「ウィキペディア」が、もし、パソコンやスマホを保有しているというだけで利用料を徴収するというなら、誰が考えてもおかしいと思うはずだが、NHKの場合は、そういった理屈が通用しなくなっている。

 「公共放送局」が営利企業のようにインターネット放送にまで手を出す必要が有るのかも疑問だが、そこまで利便性や営利を追求するのなら、もう民間企業に鞍替えした方が儲かるのではないか?と思えてしまう。
 現実的な妥協策としては、国営放送にして人頭税よろしく税金(500円以下)で徴収してくれた方が公平感があって有り難いような気もするが、果たして、この発表の行き着く先には何が待ち構えているのだろうか?

 今回の発表が将棋で言うところの「王手飛車取り」ならぬ、「王手受信料取り」に発展しないことを願う。この機会に、公平感のある制度の見直しを期待したい。

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過剰な「おもてなし」と化しているアマゾン配送業務

■ヤマトの値上げ理由は何なのか?という問題

 先週、アマゾンが「当日配送ができる独自配送網の拡大に乗り出している」との報道があった。
 この一報からは、アマゾンが配送業も内製化するのではないか?との憶測話も流れたが、実際のところは、丸和運輸機関【証券コード9090】という物流会社に委託するとのことだった。丸和運輸機関は2500人程度の中堅の物流業者であり「桃太郎便」としても有名だ。しかし、従業員4万7000人の佐川が匙を投げ、従業員16万人(2017年3月時点)を擁するヤマトが窮しているアマゾンのネット配送業務の肩代わりが本当にできるのかどうかは未だ不透明感が拭えない。

 しかし、もしこのままアマゾンが配送料の値上げをせずに事を収めた場合、ヤマトの10月からの値上げ理由は何なのか?という問題が浮上することになる。個人的には27年間も値上げせずにきたのだから、デフレ緩和のためにも値上げには賛成だが、そうは思わない人の方が多いのではないかと思う。
 ヤマトはアマゾンの当日配送業務の請負を減少させているにも拘らず、一般の基本配送料を値上げしたということになれば、アマゾンの配送で発生した損失分をアマゾン利用客ではない人々が肩代わりしているということになってしまいかねない。既にそういった意見はネット上でも広く出回っており、一般消費者からは素直に納得を得られない便乗値上げとなってしまう可能性がある。

■「お客様は神様(=店員は奴隷)」が招いている悲劇

 数年前、滝川クリステル氏の「お・も・て・な・し」発言から「(お)もてなし」という言葉が脚光を浴びて話題になったが、日本企業では過剰に成り過ぎた「おもてなし」が問題視されるようにもなってきた。それは「お客様は神様」というような価値観が企業哲学として深く浸透してしまい、過剰なまでのサービスを要求され、またそのサービスに文句1つ言わず黙って従うことが善しとされる過剰労働社会の問題だ。

例えば、

 コンビニのアルバイトに百貨店の店員のサービスを要求する。

 ファストフード店のアルバイトに高級レストランのサービスを要求する。

 など、ろくな対価も支払わずに、対価以上のサービスを要求することが当たり前で、消費者自身が「お客様は神様だ」と勘違いしているような人もたまに見かけることがある。
 以前、牛丼屋のレジで店員に向かってお金(小銭)を投げている人を見かけたことがあるが、その態度は、まるで店員を奴隷か何かと勘違いしているように見え、憤りを覚えたことがある。そんな消費者に限って、自らがサービスを提供する側(生産者)に回ると、奴隷根性丸出しの態度に豹変するのだろうけれど、「お客様は神様(=店員は奴隷)」などというさもしい感情を持っていると、その悪循環から永遠に抜け出すことができない。因果が解らない人間とはどこまでも愚かだ。

■「おもてなし」とは「心のこもった待遇」のこと

 翻って、アマゾンの「当日配送」というのも、少々、「おもてなし」が過ぎるのではないかと思える。このことも既に多くの識者が述べられていることだが、「当日配送」を求めている消費者は本当にそれほど多いのだろうか?

 私自身も会社の備品を購入する時、アマゾンを利用することがあるが、例えば週末の金曜日に注文した場合、商品の到着は週明けの月曜日で構わないのだが、大抵は休日の間に1度、会社に届けに来ているようで、月曜日に再配達するようなシステムになってしまっている。これなど、明らかに必要の無い過剰なサービスだと言える。
 個人で注文した場合は休日に届いた方が有り難いが、法人として注文したものが休日に届いても有り難迷惑であり、そこまで急いで配送してもらうと逆に気を遣ってしまう。そのため、週末に注文することは避けて、週が明けてから注文するというようなことになってしまう。そうなると月曜日に受け取れるものが火曜日、水曜日にずれ込んでしまうことになり、結果的に配送が遅延していることになる。
 発注日(アマゾンから見れば受注日)を敢えて遅らせることはアマゾン側にとってもマイナスなはずだが、この辺の無駄なシステムは特に見直すこともなく続けられているようだ。それにより、配送業者が悲鳴をあげることになるのだから、まさに過剰サービスが招いている皮肉であり、「おもてなし」サービスの弊害とも言える。

 企業相手では1日でも速く商品を届けることは至上命題であることも確かだが、それは時と場合、商品と都合にもよる。1日でも速く届けて欲しいのであれば、企業側がプラスαとして追加料金を支払うのが筋であり、何の追加料金も要求せずに、良かれと思って、休日ですら配送する。これでは思考停止業務であり、本当の意味での「おもてなし」になっていないのではないかと思う。

 「おもてなし」とは「心のこもった待遇」のことであり、対価を一方的に下げることでも無ければ、無用なサービスを提供することでもない。
 「消費者は神様」ではなく「生産者は奴隷」ではない。「心を擦り減らすまでの過剰な待遇」を「おもてなし」と考えるのはもう止めよう。

【関連記事】

ヤマト運輸問題でアマゾン配送料は値上げに向かう

アマゾン「無料配送」ビジネスの功罪

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現代社会における学園祭(講演会)のあり方

■KODAIRA祭講演会中止問題を考える

 本日10日は、本来であれば東京の一橋大学園祭において百田尚樹氏の講演会『現代社会におけるマスコミのあり方』が行われるはずだったが、2日に急遽、中止の発表があったことで大きな物議を醸すことになった。百田氏自身は「サヨクの連中から凄まじい脅迫と圧力を受け続けていたらしい」と述べておられるが、その中止した事情というのは曖昧なままで、どうも釈然としない。
 ネット上では講演会中止の署名運動まで行われていたそうだが、その文面には「テロと差別を煽動する百田尚樹」という言葉が書かれているらしい。

 正直なところ、百田氏が「テロと差別を煽動する」というのは、違和感を通り越して滑稽ですらある。百田氏の差別的な話を聞いた学生が触発されてテロを行う危険性があるということなのだろうか? 私にはむしろ、今回の講演会中止の背景にこそ「テロ」という言葉がピッタリと当て嵌まるような気がする。

 少し前にも千葉麗子氏のサイン会が中止になり騒がれたことがあったが、今回の場合も、同じような構図に見える。
 講演会の題名からすると、別に百田氏が学生の差別意識を助長したり、いかがわしいことを吹聴するわけでもなく、いつもの調子でざっくばらんに百田節を披露するだけだと思われるのだが、学生に何か吹き込まれて困ることでもあるのだろうか?

■講演会中止の理由は「見えないテロリスト」

 この講演会中止問題は、誰が悪かったのだろうか? これまでの世間の評価は大きく分けると以下の3つに分かれている。

 1、講演会を企画および中止した大学側が悪い

 2、百田尚樹氏が悪い

 3、中止するようにクレームを入れた勢力が悪い

 普通に考えると、この中で、問題となるのは「1」か「3」だろう。
 今回の場合、どう考えても百田氏は被害者サイドであり、加害者では有り得ない。
 このことはイデオロギー抜きで考えれば、よく解る。例えば、あるノンポリのロックミュージシャンが学園祭のコンサートに呼ばれ、チラシが刷られ、チケットも配られ、ギャラ交渉も済んだ後に、突然、アンチファンからの苦情が大学に入り、その苦情を真に受けて、コンサートが中止されたとすれば、どう考えても、そのロックミュージシャンは被害者でしかない。

 では、「1」と「3」のどこが悪いのかというと、「1」はコンサートを企画した時点で既にコンサート参加者に対しての契約責任が生じている。如何なる事情があろうとも、その契約責任を放棄したことに変わりはないので批判の誹りは免れない。人道的には罪はなくても、契約上の責任を放棄したことに対しては責任を取る必要がある。

 では「3」はどうか? これもイデオロギー抜きで考えれば、営業妨害そのものだと言える。自分達の好みに合わないロックミュージシャンという理由だけで、苦情を入れて、学生にそのロックミュージシャンの音楽を聴かせないというのでは、営業妨害であるだけでなく人権侵害でもある。

 学園祭で公序良俗に反するような催しが行われるとかいうなら、中止を進言するのも理解できなくはないが、単なる社会的なスピーチを邪魔立てするのが目的ということなら、それは紛れもなく言論封殺である。
 間違った発言をしたことで批判することと、何も言っていない時点で発言を止めることは全く次元が異なる。言論というものは、言ったことに対しての責任が生じるものであり、まだ結果も出ていない(何も話していない)のに、その言動を取り締まるのでは、恐怖政治そのものだ。

 今回の講演会中止問題の要諦は、この「3」に該当する人々(特定の団体ではない)が、大学側に“なにをしでかすか分からない”と思われたところにある。つまり、大学側は「3」をテロリストの類いと認識し、その危険性を感じたからこそ中止せざるを得なくなったというのが本当の事情ではないかと思う。

 先程の「1」「2」「3」をそれぞれ具体的に言うなら、次のようになる。

 1、テロに恐怖し逃げ出した人

 2、テロの標的にされた人

 3、見えないテロリスト

■リトマス試験紙としての百田尚樹氏

 百田尚樹氏は舌鋒鋭い論客として有名であり、その歯に衣着せぬストレートな物言いは、どこかトランプ大統領を彷彿とさせるものがある。ズケズケ(堂々)と冗談混じりに本音を述べられるので、建前の中に閉じこもった理想論しか語れないサヨク(敢えて「左翼」とは書かない)からは、蛇蝎の如く忌み嫌われており、サヨクにとってはまさに不倶戴天の敵のように受け取られているフシがある。「百田尚樹」という文字が視界に入っただけで理性を失い、条件反射的に罵詈雑言を浴びせにかかる左翼人士も珍しくない。サヨクを毒蛇のハブに喩えるなら、百田氏はさしずめ、天敵のマングースみたいなものなのかもしれない。(失礼)

 ある意味、百田氏は思想的なリトマス試験紙的な役割を持った人物とも言える。彼の存在を肯定的にとらえる人は「青色」に、否定的にとらえる人は「赤色」に変化するという具合に。百田氏の本音話を聞いて、顔が真っ赤に紅潮するようなら、その人物はサヨク、実に分かり易い判断基準だ。

 卑近な例を挙げると、最近、将棋の世界で名を馳せている藤井聡太氏は百田尚樹本のファンであるらしいので「青色」と判断できる。

 「ポリティカル・コレクトネス」がどうだこうだと騒がれ、言葉狩りが常態化している窮屈な日本社会において、あれだけ本音をハッキリと言ってくれる人がいることは学生にとっても良いことだと思う。話をする相手は物心の付いた大学生であり、森友学園のような幼児ではないのだから、話を聞いてどう思うかは各人がおのおの判断すればいいのであって、大の大人がお節介を焼いて仲裁に入るようなことではない。そもそも講演会自体、強制的に学生に参加させるようなものではなく、各学生には聞く自由、聞かない自由が与えられているのだから、聞きたくなければ参加しなければいいだけの話だ。

 百田氏は少々、口が悪く、アクが強いというだけであり、言っていることは筋が通っている。私自身は、以前に百田氏の本『大放言』の書評(ブログ記事)を書いたことがある程度であり、特にコアな百田ファンというわけでもない。本ブログ記事もイデオロギー的なバイアス抜きで書いているので、「ネトウヨだ」などと言われても困ってしまうが、ごく常識的に判断すれば「百田氏は被害者」でしかないというだけの話である。

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「働き方改革」よりも「働き方革命」を欲する時代

■一罰百戒的な行政指導の必要性

 今年、最も注目された企業と言えば、2016年度のブラック企業大賞にも選ばれた「電通」ということになるのだろうか。
 「働き方改革」の影響もあるのか、一罰百戒的な意味合いで大手企業の電通が選ばれたということなのかもしれないが、最近も「労働時間の過少申告が行われていた疑いがある」として騒がれている。

 「労働時間の過少申告」というのは、早い話、「残業の過小申告」ということだが、上司から指示されて過小申告になっていたのか、それとも本人が自己判断で過小申告していたのかは分からない。あるいは、会社自体に過小申告するのが当たり前という空気があったという可能性もある。いずれにしても、そういった常態化を改善・改革するという意味合いで、一罰百戒的に行政指導が為されているのだろう。

 国が企業に命令するという行為は、どこか社会主義的な感じがして違和感も有るとはいえ、日本企業の場合、お上が指導しないと何も変えられないという悪しき伝統主義を抱えているので、最低限の行政指導は必要悪として容認するべきなのかもしれない。
 真夏の蒸し暑い時期に背広を着てネクタイを締めて通勤しなければならないという、傍から観ればストレスにしかならないようなことが伝統として維持されてきたのが日本企業である。そういった悪しき伝統は、本来であれば民間企業が率先して変えていくのが理想だが、残念ながら日本では、政治家(この場合は小池百合子氏)がそういう空気を作り出さなければ変えることができなかった。この一事をもってしても、最低限の行政指導が必要な国であることが分かる。

■悪しき伝統主義を破る「働き方革命」が必要

 ただ、行政指導も行き過ぎると問題になるので、線引きが非常に重要だと思う。
 残業の申請というのは、不況の影響もあってか、月給で雇用されている労働者は気を遣って過小申告する場合もある。かくいう私も、余程遅くまで仕事をした場合を除き残業はほとんど申請しておらず、毎月、数十時間はサービス残業している。別に「残業を付けるな」とも「残業を過小申告しろ」とも言われておらず、逆に「残業を付けるように」と言われたことはあるが、時間だけで計れる仕事ではないので、自己判断でサービス残業している。

 電通の仕事というのも、大部分は時間で計れるような仕事ではないと思うので、時給で働いている人でもない限り、誰も彼もが無条件にキッチリ残業申請するというのは考えものだと思う。法的に決められた8時間労働内でノルマ(給料)以上の仕事ができる人とノルマを達成できない人が同じように残業を申請するというのは、普通に考えれば不公平なわけで、嫉妬という感情が渦巻く日本企業では、それゆえに過小申告になる場合もある。況して多くの株主を抱えた電通のような上場企業であれば尚更で、人件費を無視したデタラメな経営では、いつ何時、問題視されてもおかしくない。

 企業にとって、売上を伸ばすことや利益を増やすという目的は伝統として残すべきだと思うが、長時間働くことを伝統にする必要はない。長時間働かなければ売上も利益も出ないという状態を維持することが難しくなっているのであれば、その部分を改革するしかないのではないかと思う。

 耳の痛い話かもしれないが、「残業の過小申告」問題を完全に無くすためには、労働者全員を月給ではなく時給で雇用するしか方法は無いのではないかと思う。長時間働かなければ帳尻が合わないような給料制度を廃止して、労働時間も給料も下げて、その分、人員を増員すれば、すぐに解決できる問題だと思われるのだが、これができない。なぜできないのか?と言えば、先程述べたように、一度決まったことは変えることができないという悪しき伝統主義が根付いているからである。

 この悪しき伝統主義を改革することができれば、それは「革命」とも言える。時代が欲しているのは「働き方改革」ではなく「働き方革命」なのかもしれない。

【関連記事】「8時間労働教」という宗教
      過労自殺の根本原因は「1度の失敗も許さない社会」
      有給休暇が取りづらい日本社会のお家事情

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過労自殺の根本原因は「1度の失敗も許さない社会」

■過労自殺の争点は「辞めるに辞めれない」こと

 大手広告代理店の電通に勤めていた女性の新人社員が過労自殺したことで大きな騒ぎになっている。中には「過労死」と「過労自殺」を混同しているような意見も見かけるが、総じて日本の長時間労働を問題視した意見が多いようだ。
 月100時間の時間外労働を行っていたということは、月20日勤務として考えれば、平均すると1日5時間の残業ということになる。17時が定時の会社なら毎晩22時まで仕事をしているという感じだろうか。休日出勤もしている場合は少し違ってくるが、確かに「働き過ぎ(拘束され過ぎ)」のレベルだとは言える。
 もともと広告代理店というのは、仕事柄、時間に不規則な業界でもあるので、そんなに早く帰れるような業種ではないとは思うが、入社早々、月100時間の時間外労働がずっと続くというようなことが判明すれば、鬱状態に陥っても仕方がないとは言える。

 先程、「過労死」と「過労自殺」と述べたが、この女性の場合、後者の「過労自殺」であったため、避けようと思えば避けられたはずだが、「なぜ避けられなかったのか?」、これがこの事件の最大の論争ポイントだと言える。そのポイントとは、「辞めるに辞めれない」ことだが、この部分をクリアしない限り、このような問題はいつまでも無くならないと思う。

■「いじめ自殺」の構造と似ている「過労自殺」

 この「辞めるに辞めれない」感情というのは、「いじめ」の構造と実によく似ている。学校でいじめに遭っている生徒が、いじめ自殺から解放される最も有効な手段は「学校を辞めること」だが、これがなかなかできない。なぜできないのか?と言えば、“やり直しがきかない”という不安感が邪魔をするからだ。“失敗を許さない社会”という認識が社会通念として常識化してしまっていることに、その原因を求めることができる。
 具体的に言えば、企業ではなく、社会そのものが「1度の失敗も許さない」という不自由で窮屈な社会に成り果てているということになるだろうか。

 日本には「」の文化というものもあり、学校を辞めることや会社を辞めることは「恥」と思う人が多い。「学校を辞めること」や「会社を辞めること」は「失敗」とイコールの関係になっているため、最悪、自殺にまで追い込まれることになってしまう。
 「1度の失敗も許されない社会」が絶望感を増幅する手伝いをすることになり自殺を余儀無くされるという悲劇に至ってしまうのである。

 その失敗の許されない社会で苦労して入社した有名企業であれば尚更で、1度辞めると二度と同じ立場にはなれない(実際はなれると思うが)というような袋小路思考に陥ってしまうのかもしれない。言わば、1度きりのオリンピックに背水の陣で挑んでいるという感じだろうか。

 学校や会社を辞めてもどうにかなる。それは社会人を辞めるという意味ではなくて、もう1度、同じ社会人としてやり直しがきくということ。そういう当たり前のことが常識として認識される社会、言い換えれば、失敗が許される社会になれば、過労による自殺も無くなる。そのためには、年齢や学歴に拘り過ぎる現在の社会通念を変えていく必要がある。何度、失敗しても個人の能力とやる気と努力で這い上がれる社会であれば、失敗(=会社を辞めること)を気にする必要もない。自分に合わないと思う会社であれば、さっさと辞めてやり直せばいい。そんな当たり前のことができなくなっている窮屈で融通の利かない社会こそが根本的な問題なのである。

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「図書館有料化」のススメ

■図書館業務における「官製貧困」

 先日、図書館で働く女性の貧困問題を扱った『月収13万円、37歳女性を苦しめる「官製貧困」』という記事をネットで見かけたので、それとなく読んでみた。その女性は公共図書館に非正規雇用の図書館司書(嘱託職員)として勤務されており、年収は200万円程度と書かれていた。細かいことを言えば、月収17万円×12ヶ月=204万円ということらしい。(タイトルの13万円は税引きの手取り収入)

 この記事のタイトルにある「官製貧困」という言葉は、「一般的な正規雇用の公務員」と「非正規雇用の公務員(公共図書館司書は一応、公務員扱いになるらしい)」との間にある収入格差を表現したものだと思われるが、正規の地方公務員の平均年収が669万円ということなので、実に3倍以上の収入格差があることになる。ちなみに、図書館司書の7割位は非正規雇用であるらしい。

 この記事のコメント欄も読んでみると結構率直で辛辣な意見も書かれている。
 「そもそも正規公務員の給料が高過ぎるのではないか?」という意見もあるかもしれないが、今回は敢えてそのことには触れず、両者間の格差を無くすことだけを目的として思考実験的に話を進めてみようと思う。

 「公務員の世界にも同一労働同一賃金制度の導入を!」などと書いても、民間企業と同様に実現性は極めて乏しそうなので、全く違う観点から意見を述べてみたいと思う。その違う観点とは何か? ズバリ、「図書館の有料化」である。
 もっとも、「図書館法」というものによって公共図書館利用における対価は徴収してはいけないことになっているので、その法律自体を変えることを前提とした話になる。

 「図書館の有料化」と言っても、別に図書館を民営化せよというわけではなくて、高価な専門書の類いや児童書以外の本は、全て市販価格の数%の料金を手数料として徴収すればいいのではないかということ。書籍発行年度によって貸し出し料金の差別化を行ってもよいと思う。
 新刊の貸し出しについては以前にも書いたことだが、1年間貸し出し禁止にして、1年経過すれば10%、2年経過で5%、3年経過で3%という具合に徴収金額を徐々に引き下げていき、本の賞味期限が切れた頃(5〜10年)に無料にすればいい。
 その手数料収入の一部を非正規図書館司書の収入に当てればいいのではないかと思う。
 ついでに、その手数料の中に著作権料も含ませればいい。これまで蔑ろにされてきた著作権者への報酬も少しは発生することになるので一挙両得だ。
【関連記事】図書館に新刊本を置くことの意味とは?
      続・図書館に新刊本を置くことの意味とは?

■図書館の有料化で「官製貧困」と「官製不況」を軽減

 公共の電車やバスでも利用者に運賃を請求しているわけだから、公共の図書館が本を貸し出すサービスを全て無料で行わなければならない必要性も無いと思う。市販価格の10分の1以下で読めるだけでも十分な公共サービスだと言える。元々、公共の電車やバス、そして図書館というインフラは国民の税金で作られたものだが、本は違う。本は基本的に税金に頼ることなく、個人や民間企業が作り出した商品なので、本来ならば、無断・無料で貸し出せるアイテムではないと言えるかもしれない。

 こんなことを書くと、「法律で決められているのだから図書館の本は全て無料にするべきだ!」と反論してくる人がいるのだろうけれど、先に皮肉を言わせてもらえば、そういう融通の利かない人や時代にマッチしない法律が正規公務員と非正規公務員との間にある収入格差を生み出している一因ではないかと思える。
 たとえ、荒唐無稽であろうと、具体的な解決策を提案する方が、何の打開策も考えずに感情論だけで反論するよりも建設的だと思える。

 「図書館の本の貸し出しを有料にすれば、書店や古本屋の売上が落ちるのではないか?」と心配する人もいるかもしれないが、残念ながら、それは杞憂だろう。現在のように図書館が全て無料で本を貸し出していることの方が書店や古本屋にとっては有り難くないはずだから、有料にすれば、書店や古本屋の売上は上がり景気も幾分かは良くなると思う。

 図書館が無料で本を貸し出していることで書店の売上が落ちているのなら、図書館が有料で本を貸し出せば書店の売上は上がる。これは自明の理である。そして、図書館が無料で本を貸し出していることで「官製貧困」と「官製不況」が発生しているのなら、図書館が有料で本を貸し出せば「官製貧困」も「官製不況」も幾分か抑制することができる。これもまた自明の理である。
 
 公共図書館が国民の税金によって運営されているのであれば、現行のままでは無条件に収入を引き上げることは難しいと思う。現代のように街の書店が減少の一途を辿る中で、図書館だけがどんどん増加しているということ自体、よくよく考えれば不自然なわけで、本来であれば、書店の減少とともに図書館も減少しなければ、歪な社会構造となり、その歪みは必ずどこかにしわ寄せされることになる。
 非正規雇用の図書館司書もその中の1つに含まれるのかもしれないが、公共図書館のシステム自体を抜本的(法的)に変えることができれば、そのしわ寄せを幾分かは解消することができる。「図書館の有料化」こそが「官製貧困」を是正する最も有効で現実的な解決策だと思う。

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警察官の「破廉恥行為」は無くせるか?

■「警察官としてあるまじき行為」とは?

 今週は、俳優の高畑裕太氏が群馬県前橋市のビジネスホテルで強姦事件を起こし大きな騒ぎになったが、同日未明に、大阪府枚方市の路上でも、泥酔した警官が歩いていた20代の女性に背後から抱きつき、破廉恥な猥褻行為を行うという前代未聞の事件が発生した。(被害女性の夫が見ている前で堂々と破廉恥な猥褻行為を行ったことが前代未聞という意味)

 この事件について大阪府警は次のような謝罪コメントを発表している。

>「警察官としてあるまじき行為。被害者にお詫び申し上げ、捜査結果を踏まえ、厳正に対処する」

 一見すると、ごく普通の謝罪コメントに見えるが、この場合の「あるまじき行為」とは一体何を意味しているのだろうか?

 警察官が勤務時間外でお酒を飲むことも泥酔することも罪ではないので、この謝罪コメントが意味しているものは、おそらく「破廉恥行為」なのだろうと思われる。しかし、残念ながら「破廉恥行為」を禁じたところで、今後の再発防止策にはならない。
 もし本当に、この泥酔巡査の犯した破廉恥行為のみが「警官としてのあるまじき行為」だと認識されているのであれば、大阪府警は大きな誤解をしていることになる。

 誰が考えても解ることだと思うのだが、この事件の場合、「破廉恥行為」は結果であり、原因ではない。事件が発生した原因は「飲酒行為」にあるので、「泥酔するまで飲んではいけない」と戒めない限り、「警官の破廉恥行為」を無くすことはできないはずだ。

 「警察官としてあるまじき破廉恥行為。被害者にお詫び申し上げ、捜査結果を踏まえ、厳正に対処する」と言うのでは、ただの結果論である。今後の再発防止策について触れられていないのであれば、それは謝罪文ではなく反省文である。

■あるまじき行為とは「破廉恥行為」ではなく「飲酒による泥酔」

 以前、「飲んだら乗るな」という言葉の矛盾をブログ記事で指摘させていただいたが、今回の問題にも全く同じ理屈が適用できる。
【該当記事】飲酒運転(酔っぱらい)を法律で縛ろうとする愚かさ

 破廉恥行為を行った警官は、泥酔している時点で、既に理性を失っており、自らが警官であることはもとより、自らが良識ある大人であることさえ見失っているような状態だ。泥酔者というのは、ある意味、催眠術にかかった夢遊病者のようなものである。

 泥酔して「破廉恥行為」というものがどんな行為なのかすら認識できなくなってしまうことは、警察官であるないに拘らず、人間として恥ずべき状態だと言える。自らの肉体の許容限度を超えたアルコール摂取は、危険ドラッグと同じであり、「酒に飲まれること」は「法律を忘れること」とイコールの関係だ。だからこそ、法律違反を取り締まるべき警察官の「あるまじき行為」と成り得る。

 「警察官としてあるまじき行為」というのは、「泥酔するまで飲むこと」であるべきであり、この部分を禁じない限り、理性を失った警官の犯罪を未然に防止することはできない。無論、「破廉恥な猥褻行為」も「あるまじき行為」であることに違いはないが、それはあくまでも、副次的に起こった事件に過ぎない。

 警察の謝罪コメントも言葉足らずだと誤解を招くことになるので、もっと具体的なものにした方が良いと思う。
 今回の警察の謝罪コメントを少し具体的に言葉付けすると以下のような感じになるだろうか。

 「節度のない飲酒を行い泥酔してしまったことは警察官としてあるまじき行為。そのあるまじき行為によって破廉恥な猥褻行為に至ったことは警察官として恥ずべき失態であり、被害者および納税者である国民の皆様に深くお詫び申し上げるともに、今後の再発防止のために節度ある飲酒行為を守ることを戒め、厳正に対処いたします」

 如何なる責任ある立場にある人間であっても、泥酔者に法律を守らせることは不可能な無理ゲーなのだということを正しく理解した上で具体的な策を講じることが望まれる。

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マスコミのマスコミによるマスコミのためのテレビ報道

■オリンピック報道とSMAP報道の共通点

 4年に1度のオリンピックが始まると日本のテレビ局は挙ってオリンピック番組ばかり放送するようになる。まるで全ての国民がオリンピックを観たいと思っている…いや、観なければいけないと言わんばかりに。
 私のように元々テレビをほとんど観ない人間は、オリンピック時には逆にテレビを観る時間が少しだけ増えるだけなので、特に違和感は感じないのだが、年がら年中、民放テレビ番組に依存しているような人は、かなりの違和感を感じるのだろうと思う。

 しかし、4年後に自国で行われる東京オリンピックでフィーバー(過熱報道)するならまだ理解できるのだが、他国で行われているオリンピックに全テレビ局がこれほどまでに執着するのは確かに少々行き過ぎの感は否めない。いくらオリンピックに国威発揚効果があるとはいえ、日頃からスポーツにそれほど興味の無い人にとっては大きなお世話(有り難迷惑)かもしれない。

 ところで、今回のオリンピック放送では、意外なアクシデントが発生した。それは、SMAPの解散報道がオリンピックの真っ最中に入ったことだが、ここでも日本のテレビ局は、SMAP解散報道を緊急速報テロップで流し、報道番組のトップニュースがオリンピックからSMAPに入れ替わってしまった。まるで全ての国民がSMAPに興味がある…いや、興味を抱かなければいけないと言わんばかりに。

 多くの国民生活に直接的に影響のある喫緊の課題(尖閣問題や皇室問題)を過熱報道するならまだ理解できるのだが、一部のファンにしか影響のないことを全テレビ局がここまで執着するのも少々行き過ぎの感は否めない。SMAPやアイドルにそれほど興味の無い人にとっては大きなお世話(有り難迷惑)かもしれない。

■マスコミ全体主義の問題点

 先の東京都知事選でも、全テレビ局が、知名度の高い3候補者の活動だけを集中的に報道したことは記憶に新しい。まるで、国民はこの3候補者の中から東京都知事を選ぶだろう…いや、選ばなければいけないと言わんばかりに。
 現実的には、この3候補者のうちの誰かが都知事に選ばれるだろうことは誰もが事前に予想していたことだとはいえ、全てのテレビ局が挙ってお節介を焼くという姿勢も、不自然だと言わざるを得ないと思う。

 よく、「テレビ局は偏ったイデオロギー色を出さずに中立の姿勢で報道するべき」という意見を耳にするが、私は別に各テレビ局(NHKは除く)がイデオロギー色を出すのは構わないと思っている。問題は、イデオロギー色が無いが如く振る舞い、全てのテレビ局の報道が同じ方向に偏ってしまうことであり、国民に違った意見が有るということを報道しない姿勢こそが問題なのだと思う。その偏った姿勢こそが見えないイデオロギーになっているのだが、透明を装っているがために、多くの人が、そのイデオロギーに気が付かないことが問題なのである。

 あるテレビ局は保守政党(例:自民党)を応援し、あるテレビ局は革新政党(例:共産党)を応援しても構わない。それらの違った意見を国民が聞いた上で、どちらが正しいことを言っているのか、誰が信用できる人物なのかを判断する材料を国民に提供することがテレビ局の仕事だと思う。「様々な意見を公平に報道する」というのは、そういうことだろう。

 ネットで、あれだけ批判されていた鳥越氏が130万票以上も得票したことは、ネット社会とリアル社会に温度差があることの証明であり、如何にテレビや新聞の報道が偏向しているかを物語っていると言える。

 オリンピックの最中に、「オリンピックなんて興味がない」という人の意見や、SMAP解散ニュースで、「SMAPなんて興味がない」という人の意見も公平に報道する。事の善悪はともかく、そういう違った意見があることを国民が正しく知ることで、何が正しくて何が間違っているのかを判断することができるようになる。情報の違いを吟味し取捨選択していくことによって、社会はより良くなっていく。

 逆に「正しいことはこれだ」と言わんばかりに、テレビ局がお節介にも恣意的に情報をコントロールしていたのでは、社会はより良く成りようがない。

 この全体主義的な姿勢こそが、現在のテレビ局およびマスコミが抱える最大の問題点なのだろうと思う。そのお節介なシステムこそが、民主主義の発展を阻害するシステムに他ならない。


【追記】2016.08.15
(BLOGOS転載記事のコメントに対する反論になります)

>流れている情報を取捨選択することは当然で、足りないと思った情報に自分からアクセスすることがさらに大事だ。テレビを見て、新聞を読んで疑問に思えば、Webで情報を収集する。現代社会はそれを可能にしている。

 私自身、「テレビはほとんど観ない」と前置きした上で書いた通り、本記事は主にテレビや新聞からしか情報を入手していない人を対象として書いています。

>テレビにおんぶにだっこに肩車してもらって、どこまでも他律的に提供される情報で、民主主義を発展させてもらおうとか、時代遅れの化石の発想でしかない。

 これも「テレビや新聞からしか情報を入手していない人」に対しての批判にしかなっていません。民主主義というのは、国民の情報認識力を底上げすることによってしか精度を高めることはできないということであって、誰か(マスコミ?)に完全依存するという意味ではありません。

>それこそ「嫌なら見るな」でしょう。
これだけメディアが増えているのに、なぜ、テレビにこだわるのか。
テレビが絶対的なものといて崇め奉るのか。

 ネットで反論できる人にはピンと来ないかもしれませんが、現に、テレビしか観ない人は大勢存在しています。そういう人達に、「テレビを観るな」と言っても現実味がないでしょう。そういう人達が情報を得る手段は、これまでもこれからもテレビが中心にならざるを得ないわけです。ゆえに、そのテレビ報道自体が変わらない限り、何も変わらないということです。

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