社会問題

NHKネット同時配信の「妥当性」

■NHK視聴者の6分類

 少し前から話題になっていたNHKのネット同時配信を総務省が容認したということでネット上では大きな騒ぎになっている。総務省の見解は「一定の合理性、妥当性を認める」というもので、「受信料の体系を見直す」という条件付きで容認することが決定したらしい。
 より詳しく書けば、「国民・視聴者の理解が得られることを前提に、一定の合理性、妥当性がある」とのことらしいが、この場合の「国民・視聴者の理解」とは何を意味しているのだろうか?

 NHKにおける「国民・視聴者」というものは、実は多岐にわたっており、単純に考えられるだけでも、以下の6つのグループに分けられる。

A、受信料を支払い、NHK番組を好んで観ている人
B、受信料を支払い、NHK番組をあまり観ていない人
C、受信料を支払い、NHK番組を観ていない人
D、受信料を支払わず、NHK番組を好んで観ている人
E、受信料を支払わず、NHK番組をあまり観ていない人
F、受信料を支払わず、NHK番組を観ていない人

 「一定の合理性」というのは、基本的には上記の「」だけが享受できるものであり、割合的にどれだけいるのかは不明だ。
 私の場合、「」と「」の間に該当する(NHK番組は滅多に観ない)ので、ネット同時配信を行われても、特に何のメリットも感じられない。受信料が値下げされるならメリットと成り得るかもしれないが、これまでのことを鑑みれば、そこまで大きな値下げは期待できそうもない。

■「合理性」を追求する公共放送

 NHKの番組が、受信料を支払わなくても観れる人がいるのは、「公共放送」という大義名分が有るからだと言える。受信料を支払える人が、受信料を支払えない人の分まで支払うことで、無料で公共放送を観れる人がいる。それがNHKが謳っている「公共の福祉」というものだろう。
 そう考えると、NHKの受信料は一種の累進課税的な税金のようなものだと言えるのかもしれない。

 しかし、もしそうであるなら、なぜスマホで観るような高機能性が必要なのか?という疑問が生じる。受信料を支払えないような人がなぜ高価なスマホを持っているのか?という疑問が生じてしまう。

 公共放送が「合理性」の追求を行うことで「利便性」を感じられる視聴者とは誰のことを意味しているのだろうか? それは、受信料を支払っている人だろうか? それとも支払っていない人だろうか?
 どちらかと言えば、受信料を支払えない人のために存在していると言える公共放送が求めるべき合理性とは、如何なるものであるべきなのか? その辺の公共放送の本来の目的が曖昧に成り過ぎているような気がする。

■NHKの受信料が値上げに向かう可能性

 現代は、ネットでの定額動画配信サービスが注目を集め、NetflixやHulu、U-NEXT、dTV(順不同)など、次々と新しいネット動画配信企業が出現している。NHKもそんな時代の波に乗り遅れまいとネット動画配信に参入しようとしているのかもしれないが、先にあげた企業は全て民間企業だ。民間企業である限り、合理性の追求は必須課題であり、面白くない番組ばかりなら視聴者は愛想を尽かしてしまうし、スマホでも観れず、料金的にも割りに合わなければ、すぐに退会されてしまう。そんな厳しい環境下であれば、合理性の追求はやむを得ない。

 ところが、NHKの場合、合理性を追求せずとも、受信料を徴収できるシステムになっている。番組に魅力が無かろうが、料金が高かろうが、簡単には退会できないシステムの上に成り立っている公共放送が合理性を追求すれば、多くの識者が述べている通り、民業圧迫を招いてしまう。これは、図書館が必要以上に乱立すれば、民業圧迫になることと同じ理屈でもある。

 しかし、よくよく考えてみると、NHKがネット同時配信を行うことで、回収できる受信料収入は増加するのだろうか? そうなるためには、「ネット配信で便利になったので受信料を支払おう」という新規視聴者が増加しなければならないが、元々、全ての家庭から受信料を徴収していることになっているわけだから、今まで支払っていなかった人から徴収しない限り、受信料収入が増加することはない。となると、インターネット環境が有るだけで受信料を支払わなければならないということになるのだろう。もし、それでも支払わないという人がいれば、巨額の設備投資資金を回収するために、既存視聴者の受信料が値上げということになってしまうかもしれない。

 「合理性」を追求するのはよいとしても、その結果、受信料が値上げになるようなら「妥当性がある」とは言えない。
 視聴者から「NHKもネット配信するべき」という多くの要望があるということなら、値上げされても仕方がないかもしれないが、視聴者の意見を無視してのネット配信による値上げであるなら、妥当性以前の問題だと言える。
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オウム死刑執行「目には目を、歯には歯を、死には死を」

■23年後の青天の霹靂

 「地下鉄サリン事件」が発生したのは1995年のことだった。その後、2006年には松本智津夫被告の死刑判決が確定していたが、事件から四半世紀が経過しようとしていた現在になって、ようやく死刑が執行された。しかし、あまりにも突然の出来事だったせいか、驚きを隠せない人が多く、案の定、「オウムの罪」よりも「死刑の是非」を語る人も出てきたようだ。

 ハンムラビ法典に書かれた「目には目を、歯には歯を」という言葉は有名だが、その言葉に倣い「死には死を」というのが死刑というものの本質を表している。「死刑」という言葉には、「無実の人間を殺した者は己の死をもって償わなければならない」という意味が込められている。

 国家転覆を目的とした無差別テロを実行し、13名の死亡者を出した極左グループの死刑判決者が12人というのは、「死には死を」という言葉にピッタリと符号するが、死者以外にも数千人もの重軽傷者を出した罪を合算すれば、現行法では死刑は避けられないと言える。

 これだけの罪を犯しても死刑にならないということであれば、殺人者は死亡するまで一生、刑務所で生活することになる。
 ちなみに、戦時中、過激な共産主義者が刑務所に入っていたのは、戦争に行きたくない(死にたくない)からという裏事情もあったらしい。当時は、刑務所の中が1番、安全だったというわけだ。

■「死刑制度」と「共産主義」との関係性

 死刑廃止論者の言い分は、冤罪の可能性があった場合、取り返しのつかないことになるというものだが、場合によっては、それは確かにその通りだと思う。「十人の真犯人を逃がすとも一人の無辜(むこ)を罰するなかれ」という言葉もある通り、無実の人間を罰することほど罪深いものはない。
 しかしながら、このオウム事件に限って言えば、冤罪の可能性は0と言っていい。罪の深さや浅さを測り間違うことは有り得ても、大量無差別殺人を行ったという罪の重さが軽くなるわけではない。

 今回、死刑が執行された7人の中には、自らの犯した罪を後悔していた人もいるかもしれない。自らの犯した罪の重さに気付き、死刑になるのは当然だと思っていた人もいるかもしれない。
 オウム真理教の実体は真理を追求する宗教団体と言うよりも、破壊願望を内に秘めた極左テログループだったと言えるが、敢えて宗教的に言うなら、人間の為した罪というものは、本来、死後に清算されるという考えがある。キリスト教であれ仏教であれ皆そうなっている。そう考えると、現世における死刑制度というものは、“生前に罪を清算しなければならない”という考えであるとも言える。

 中国や北朝鮮、キューバ、ベトナムなど、共産主義と縁が深い唯物論国家には必ず死刑制度が残っているが、日本もある意味、共産主義と縁が深い国なので、死刑制度が無くならないのかもしれない。

【追記】2018.7.08
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>ハムラビの掟の本来の意味は、過剰な復習を禁止していることに本来の意味があります。

 本記事を書く前に一応、調べましたので、知っています。しかし、「復讐」ということには違いはありません。

>近代化とは合理性を進歩の基礎に置く社会のことだから、死刑に合理性がないことを理由に死刑制度を廃止するには社会の成熟が必要になる。

 「死刑制度は前近代的」ということを回りくどい言い方をすればそうなるのかもしれませんが、社会の成熟が進めば死刑制度が無くなるのでしょうか? 「社会の成熟」と「死刑制度」に因果関係が有るとは思えません。あなたの言うところの、死刑に合理性が有るか無いかを判断する社会の成熟とは具体的に何を意味しているのでしょうか?

>ハンムラビ法典の間違った解釈というか切り取りで、そうした復讐をしてはいけないという意味なので誤解なきよう。
だって、刈谷さんや坂本弁護士、松本、地下鉄両サリン事件といった沢山の犯罪を行い死者すら出していて、それを是としていた集団の報いが、本人の死のみで償えるはずはありません。

 先にも少し触れましたが、「目には歯を」とか「歯には命を」とか、釣り合いの取れない復讐を禁止しているのがハムラビ法典というだけで、「死には死を」というのが間違っているわけではないでしょう。
 「本人の死のみで償えるはずがない」というのはその通りで、死刑になったからといって償える罪などはありません。罪を裁くべき本人の良心が、無実の人間を殺したことで自分が死ねば罪を許せるのか?と言うと、そんなことは有り得ませんから。課された懲役に服せば、罪は無くなるのか?というと無くなるはずがありません。法的に罪が無くなるだけのことです。

>これは、犯罪を犯す側の持っているパワーの違いもあるので、死刑をなくしても成立しうる土壌が海外、西洋国家ではあるということ。
だから、日本ではよほど公平に裁判にどんな犯罪者でもかけられているし、海外では、安易にそうした犯罪者を殺したり、自死させている。

 ということは、西洋は近代的ではないということになりますね。「海外」には、死刑制度があっても、無慈悲に犯罪者でもない人を殺したり、自死させている国が日本の近隣にありますが。

>つまり死刑に反対するのは「どんな素養の人物であろうとも、社会規範が守れる様に更生させられる」と信じる人だと言うことになるし、死刑を受容する人は「個人の素養としてどんなに努力しても更生させられない人がいる」ということでしかない。

 「個人の素養としてどんなに努力しても更生させられない人がいる」だけなら、わざわざ死刑にしなくても、終身刑でよいと思いますが。
 「人を殺せば死刑になる」という厳しい厳罰を定めておかないと殺人を防止することができないということは、社会が未成熟なのではなく、個人の精神性が低いということです。宗教・倫理性が低いと言ってもよいかもしれませんが、その精神性の低さこそが、死刑制度の存続を余儀無くされる理由でもあります。人間の精神性を認めない共産主義国家は、精神性が低いからこそ、死刑制度を無くすことができない。本記事で書いたことは、そういうことです。

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新幹線に「持ち物検査」は必要か?

■もし普通列車で事件が発生していれば?

 6月9日に東海道新幹線のぞみ265号で殺人事件が発生した。どこか、10年前の秋葉原通り魔事件を彷彿とさせる殺傷事件だったが、事件の発生した日付が奇しくも秋葉原事件(6月8日)と近かったということで別の意味でも話題になっていた。

 しかし、マスコミ界隈では、案の定、「持ち物検査が必要」というような話が飛び交っているが、これには疑問を呈さざるを得ない。
 今回の事件は、たまたま新幹線内で起こったというだけのことであり、もし、普通の電車内で起こった場合は、どうするつもりなのだろうか?
 その場合、全国の電車に全て「持ち物検査」を導入するべきと言うのだろうか? 特急列車で起これば、特急列車で「持ち物検査」、地下鉄で起これば、地下鉄で「持ち物検査」、普通列車で起これば、普通列車で「持ち物検査」ということになるのだろうか?

 常識的に考えて、普通の電車なら必要なくて、新幹線は必要というような理屈は通らない。

■神出鬼没な「通り魔」に対症療法は無意味

 秋葉原事件の際も、犯人が逮捕された後でも、秋葉原で厳重警戒態勢が敷かれていたが、10年経った現在では何も行われていない。これは当たり前の話で、「通り魔」というものは神出鬼没であり、時と場所を変えて、何度も何度も出現する。いつどこで通り魔殺人が起こるかは誰にも予測できない。そういう意味では、地震とよく似ている。

 「秋葉原の街」や「新幹線の中」に通り魔が出現する可能性が必ずしも高いわけではないので、結局、このての「持ち物検査必要論」は後付けの結果論でしかない。このような対症療法を繰り返していると、終いには全国津々浦々で「持ち物検査」だらけになってしまう。

 「持ち物検査」に全く効果が無いとは言えないが、国民の不安心理を煽り、警察の仕事を増やし、民間業を圧迫する結果しか生まないだろうことは火を見るよりも明らかだ。

 痴呆症の老人が交通事故を起こせば、全国の老人ドライバーが全頭検査の如く痴呆症のチェックをされる。それでも、老人の交通事故は無くならないので、効果の割りに膨大な無駄が発生しているだろうことは誰にでも想像が付くと思う。
 新幹線の「持ち物検査」も同じようなもので、たった1人の通り魔のために、何の関係もない人々が全頭検査の如く「持ち物検査」をされる。しかし、それでも通り魔事件は無くならない。

 「通り魔撲滅」は良いことだが、地震と同様、いつどこで発生するか分からない通り魔事件を人為的に食い止めることは不可能だという厳しい現実を受け入れた上での現実的な対処法を考えるべきだ。
 秋葉原事件の時は殺傷武器となった「ナイフ」が悪者扱いされていたが、今回の事件も同様、悪いのは「通り魔」であって「新幹線」ではないという当たり前の現実を直視するべきだ。

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ドライバーの「睡眠不足」は本当にチェックできるのか?

■ある小学校の教室での1シーン(フィクション)

教師「最近はバスやトラックの交通事故のニュースをよく見かけるようになりましたが、皆さんは、どうすれば、交通事故が無くなると思いますか?」

生徒A「…はい!(手を挙げる)」

教師「はい、A君、なにか良い答えが浮かんだかな?」

生徒A「運転手が睡眠不足かどうかを確かめればいいと思います。」

生徒B「睡眠不足かどうかなんてどうやって調べるんだよ?」

(教室内一同笑)

教師「こらこら、みんな、A君を笑ってはいけません…クスクス…」

生徒B「先生も笑ってるじゃん」

(教室内一同爆笑)

■「睡眠不足者には運転させてはいけない」の是非

 なぜこんな話を冒頭に書いたのかというと、実際にこれと同じような答えが発表されたからに他ならない。

 バスやトラックの交通事故が目立つという理由から、国土交通省は、バスやトラックの運転手に来月(6月)から新たな規制(義務化)を設けることになった。その義務化とは「睡眠不足者には運転させてはいけない」というもので、ドライバーを雇用している事業者は、乗務前に「睡眠不足」の確認をしなければいけないということになった。

 この報道を聞いて、さすがに面食らった人が多かったのか、疑問視する声が圧倒的…と言うか、賛同している人がほぼ皆無という状況になっている。

 睡眠不足が居眠り運転の原因になるというのは確かにその通りなのだが、睡眠時間というものは相対的なものであり、誰も彼もが同じ睡眠時間を取れば居眠りしないというわけではない。世の中には、ショートスリーパーの人もいれば、ロングスリーパーの人もいるので、何時間眠れば疲れが取れるかも千差万別だ。
 睡眠の「質」というものもあるし、前日の仕事量や精神的なストレス、果ては、食事の量や栄養のバランスによっても疲労回復時間は変わってくるので、一概に寝不足状態を規定することはできない。

 充分な睡眠(8時間睡眠)を取れば絶対に交通事故を起こさないのか?と言えば、そんな保証はどこにもないし、誰にもできない。交通事故は万全の体調であったとしても運によっても左右される場合がある。こんなことは、実際に車の運転をしたことのある人であれば、誰でも解ることだと思う。

■「寝不足ではありません」の真偽は不明

 そして、正直に「寝不足ではありません」と言うドライバーと、「寝不足ではありません」と嘘をつくドライバーも出てくるはずだ。寝不足で仕事ができないということであれば仕事にならないので、馬鹿正直に「寝不足です」と言うような人がいるとは思えない。民間企業でそんな危ないドライバーをいつまでも雇用する会社が有るとは思えない。

ドライバー「今日は睡眠不足ですから運転できません」

事業者「あ、そう、やる気がないなら辞めてもらってもいいよ」

ドライバー「えっ・・・・・」

 こうなること請け合いだ。

 昼食を取ってから2時間程度経てば、急激な眠気に襲われることは誰もが知っている。夜間にぐっすり眠った人であっても、あの生理的な眠気を回避することは難しい。糖質制限者であれば、「できますよ」と言うかもしれないが、誰も彼もが極度の糖質制限者ではないので、現実味があるとは言えない。

 ちなみにあの昼食後の眠気というのは、「グルコーススパイク」と言って、糖質を取ったことで上昇した血糖値がインスリンの働きによって急激に下がることで齎される(ということになっている)。
 脳が一時的に低血糖状態に置かれるので、思考力が低下することで眠気が齎される。
 私の場合、プチ糖質制限者(超緩めの糖質制限)なので、それ(眠くならないこと)が本当のことなのかどうか体験したことがないので断言はできないが、理論的には筋が通っているので多分、本当のことなのだろう。

■ドライバー不足に拍車がかかれば無意味

 話が横道に逸れたので元に戻そう。
 今回の規制(義務化)で最も危惧されるのは、ドライバーに成りたいと思う人が減少するのではないかということ。
 ネット販売の急増でただでさえ配送ドライバーが不足しているというのに、睡眠不足であれば運転できないというような規制を設けてしまうと、ますますドライバーが足りなくなってしまうのでないかと思う。人員が足りなくなれば、更にドライバーの睡眠不足に拍車がかかり、交通事故が増えるという悪循環に陥る可能性も否定できない。

 安全になるという予測で、安易に規制を設けても、予測とは裏腹にまた同じような交通事故が発生すれば、どう対処するのだろうか? 交通事故が減らないのに、規制だけが残るということになるのではないかと心配になる。本当にそんなことになると、経済にも悪影響を与えることに繋がってしまう。

 こういった人的に一律な規制を設けるよりも、いっそのこと、トラックやバスに居眠りを防止するシステムを取り付けた方がよいかもしれない。ドライバーの肉体反応をチェックするシステムや、自動運転アシスト機能でも付けた方が交通事故を減らせるのではないかと思うのだが…。


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「セクハラ」という言葉に御用心

■「セクハラ」と「ジョーク」の混同

 このところ、毎日のように「セクハラ」という言葉を耳にする。吉本新喜劇の「アホンダラ教の教祖」のように、「セクハラ」「セクハラ」…と連呼する「セクハラ教の教祖」のような人が実際に出てきそうで心配になる。

 麻生氏の「セクハラという罪は(日本には)無い。」という発言が物議を醸していたが、セクハラ罪の有無に拘らず、「セクハラ」というものの定義は極めて曖昧だ。普通に生活している分には、一体どこからどこまでが「セクハラ」に該当するのか分からず、線引きが難しいと思う人は多いと思う。

 財務省の福田淳一(前)事務次官の場合は、完全なセクハラ発言に該当すると思われるが、世間一般では、あそこまで露骨なセクハラ発言は稀だと思う。
 例えば、会社の忘年会などを考えてみると、乾杯するまでは皆一様に静まり返っていても、いざ乾杯して、お酒が入ると、人が変わったかのようにしゃべり出す人もいる。
 普段、真面目な話しかしない男性であっても、女性に対して冗談を言う人もおり、聞き様によってはセクハラだと思うようなことはいくらでもある。相手の女性も酔っているので、特に気にする素振りもなく、笑って話している。

 異性を嫌がらせることを目的とする「セクハラ」と、異性を笑わせることを目的とする「ジョーク」が、全て同じものだとするのは、明らかに行き過ぎだと思う。

 忘年会というのは、普段の窮屈な建前社会を忘れて、一時の「無礼講」を楽しむ行事でもあるので、その場における会話(下ネタ)に「セクハラ」という概念を持ち込むこと自体がナンセンスだとも言えるが、なんでもかんでも「セクハラ(罪)」ということになると、仕舞いには会社の忘年会なども無くなってしまうのではないかと危惧される。「セクハラ」「セクハラ」と騒いでいる人達は、忘年会で冗談も言えないような窮屈な社会を望んでいるのだろうか?

■現代の「メドゥーサの首」

 「セクハラ」と似た言葉に「差別」という言葉がある。何が似ているのかと言うと、定義は曖昧ながら、相手を黙らせることができる最も有効な言葉の1つとして。

 論理で勝てない相手に使用する「奥の手」として「差別だ!」という言葉を武器にする人がいる。この言葉はある意味、現代における「メドゥーサの首」とも言える。その言葉を耳にすると、大抵の相手は途端に石のようになって黙り込んでしまう。その言葉を聞いた周りの人々も、「差別だ!」と言われた人が無条件に悪人に見えるという魔法のような言葉だ。

 それゆえにこそ、こういった言葉には注意しなければいけない。人々を思考停止状態に追いやり、何が善(ジョーク)で何が悪(セクハラ)かを一瞬にして分からなくさせる呪文のような言葉であることを承知した上で、惑わされることなく、冷静に事の善悪を見定めなければいけない。

 「セクハラだ!」という言葉を聞いて、事の重要度を大小分別することなく感情的になった時点で、その人物は既にメドゥーサの術中に嵌まっているということを知らねばならない。

 「セクハラ」という言葉に注意しよう。
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「セクハラ問題」と「強制わいせつ問題」の共通点

■「セクハラ」と「強制わいせつ」の原因となったもの

 財務省の福田淳一(前)事務次官のセクハラ問題と、TOKIOの山口達也氏の強制わいせつ問題という2つの事件が騒がれている。

 山口達也氏の強制わいせつ事件は2ヶ月前に発生したことなので、都合良く同時期にこういった同じタイプの事件が問題になるということに不自然さを感じる向きもあるようだ。しかし今回はそのことは置いておいて、別の角度から、この2つの問題を取り上げてみたいと思う。

 まず、この2つの事件は、報道されていることが真実であるなら、どちらも「酔っぱらい」が起こした事件だということである。
 酩酊状態になり気分が高揚(理性が麻痺)した人間は、通常時では考えられないほど大胆な行動に出てしまうことは誰もが認めるところだ。
 重要な立場にいる官僚が、女性記者に対してセクハラ発言をしたり、有名芸能人が、未成年の女性を軽はずみに部屋に招き入れるといったことも、酔っぱらっているからこそできる行為だとも言える。

 女性記者と食事をして話すだけとか、未成年女性を部屋に呼んで話すだけなら、問題にならなかったことが、お酒を飲んだ影響で、ハメを外してしまったことが、2人の男性を窮地に陥れてしまった。つまり、この2つの事件における本当の問題は、「理性を失うまでお酒を飲んでしまった」ことにある。しかしそれは、お酒が悪いというわけではなく、お酒を飲み過ぎてしまったという意味では本人の問題であり、どちらも脇が甘過ぎたという意味では自業自得である。

■例え話で考える有名人と高校生の関係

 山口達也氏は悪い意味での「時の人」になってしまったが、彼は、以前にも、運転免許証の更新を忘れたことで謝罪会見をしたことがあった。当時、ブログ記事で彼を擁護した御縁もあるので、今回も少しだけ擁護しておきたいと思う。
【関連記事】3分間のお辞儀が行われる社会の是非

 「強制わいせつ」などという言葉を聞くと条件反射的に「悪だ!」と思い込んでしまい、論理を受け付けない人がいるかもしれないので、この問題を男女を入れ替えて考えてみよう。

 仮に、あなたが男子高校生だとして、綺麗な熟女芸能人に声をかけられて、女性の部屋まで付いて行った場合を考えてみよう。
 部屋で少し会話した後、酔っぱらった熟女芸能人からキスをされ、あなたは恐くなって部屋から逃げてしまう。その行為は別に普通だと思えるが、その後、その女性を強制わいせつ罪で訴えるというのは、普通に考えると不自然だと思う。

 あなたが熟女芸能人に強制的に部屋に連れて行かれ、無理矢理キスされたというなら理解もできるが、少なくとも、あなたは同意の上で、女性の部屋まで同行しているのだから、そこまでするほど悪質なケースとは言えないと思う。無論、強姦されたというなら話は別だが、部屋まで付いて行ったあなたにも全く責任が無いとは言えないはずだ。
 但し、あなたが、酔っぱらって理性を無くした人間がどれだけ性質(タチ)が悪いかを知らないほどにウブな少年だったというなら、これまた話は別だ。しかし、小学生や中学生ならともかく、今時の夜の街を徘徊している高校生が、そこまでウブだとは思えない。本当にウブな人なら、部屋まで付いて行くことすら拒否するだろう。

■「泥酔状態を憎んで人を憎まず」

 話を元に戻そう。
 結局、「セクハラ行為が悪い」、「強制わいせつ行為が悪い」、と言っても、今回の2つの事件に限って言えば、その悪い行為に及んだ人間は、素の状態でなく、どちらも酔っぱらっていた。その部分を無視して、罪状だけで「悪」と断罪するのは、結果だけしか見ていないということになる。

 このことは、ある意味、戦時下にある人間の精神状態と、平和時の人間の精神状態の違いを考慮せず、戦時下の人間の行為を断罪する姿勢と同じようなものだと言えるのかもしれない。

 「罪を憎んで人を憎まず」という有名な言葉があるが、酔っぱらいに対して「罪を憎んで人も憎む」になってしまっては救いが無い。「強制わいせつを憎んで山口達也も憎む」ではなく、「(強制わいせつに及んだ)泥酔状態を憎んで人は憎まず」という考えがあってもいいのではないかと思う。「泥酔するまで飲酒する行為」を憎んでこそ、今後、このような事件を未然に防ぐことに繋がる。
 逆に、「泥酔するまで飲酒する行為」を無視して、結果としての罪(強制わいせつ)を憎み、人も憎むでは、何の解決策にも繋がらない。

 幸いにして、被害者女性の家族も「この過ちで1人の人間の未来がすべて奪われてしまうことは、私たちも望んでいません」と述べておられるので、ここは、山口達也氏が、泥酔するまで飲まなくなるようになることを信じて、謹慎期間が過ぎるまで静かに時を待つのが大人の対応というものだと思う。

【追記】2018.4.28
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>どうして、夜の街を徘徊している高校生、と決めつけるのだろう。これが間違ってたらどこまで被害者を傷つけるかの想像も出来ないのだろうか。

  この記事で述べている「夜の街を徘徊している高校生」というのは、世間一般の女子高校生のことであり、今回の被害者のことではありません。まさか、そういう解釈をする人がいるとは意外でした。

>又、夜の町を徘徊している女子高生にはそのような事をしても良いとでも思ってるのだろうか?

 あなたの言うところの「そのような事」が何を意味しているのか分かりませんが、私が言っているのは「(酔っぱらった)男性の部屋に行くこと」を意味しています。

>相手が大人ならまだしも児童福祉法で守られるべき年齢の少女にこのようなコメントはすべきでは無いだろう。

 児童福祉法で守られるべき年齢(の女性)であるなら、酔っぱらった成年男性の部屋に行くべきではないと思います。まあ、呼び出した方にも問題はありますが。

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「神事」としての相撲と「女人禁制」

■「土俵の上」から始まったリベラル論議

 先週、京都府舞鶴市の多々見市長が、大相撲の春巡業の場(土俵の上)で挨拶を行っていた最中、途中で倒れるという出来事があった。
 その場にいた一般女性が土俵の上に上がり、多々見市長の心臓マッサージを行っていたところ、「女性の方は土俵から降りてください」という場内アナウンスが流れた。場内にいた人々はきっと「えっ!?」と耳を疑っただろうことは想像に難くないが、この騒ぎに乗じて、またまた「女性差別だ!」という声が噴出しているようだ。

 海外の報道機関も同じように「女性差別」だと論じている向きもあるが、今や海外の報道機関もリベラルに傾いているので、ストレートに受け取らない方がよいかもしれない。

 結論から先に言うと、この問題の本質は、形骸化した相撲界の姿勢にあり、女性の差別問題と結び付けるのは無理があると思う。その単純な理由を以下に述べよう。

■「女人禁制」を「女性専用車両」で考えると…

 まず、「女人禁制」という古臭い言葉で考えると、バイアスが生じやすくなるので、現代風に「女性専用車両」に置き換えて考えてみよう。
 「女性専用車両」とは男性からの痴漢行為を防ぐために設けられた車両のことだが、この場合は「男人禁制」ということになる。
 その「男人禁制車両」の中で、ある女性が急に倒れ、その車両の入り口近くにいた一般男性が、その車両に駆け込み、倒れた女性の心臓マッサージをした場合を考えてみよう。

 その時に、「男性は車両に乗らないでください」というアナウンスが流れれば、確かに問題だろう。何が問題なのかと言えば、“融通が利かない”こと。人命救助という目的よりも、痴漢防止という目的が優先されるのでは本末転倒であり、その硬直した姿勢が批判されるのは仕方がない。
 そういう意味では、今回の「女性の方は土俵から降りてください」という意見も批判されても仕方がないとは思う。但し、それは伝統や差別とはあまり関係がなく、あくまでも“融通が利かない”という意味での批判だ。

■五穀豊穣の神様に愛想を尽かされた相撲界

 相撲の起源は諸説あるが、基本的には「神事」であり「祭事」であるということ。なぜ「神事」や「祭事」と言われるのかと言えば、相撲の本来の目的が「天下泰平・子孫繁栄・五穀豊穣・大漁」を祈る祭りであったことに依る。
 土俵の上で力士が塩をまくという行為が、相撲が宗教的な行事(神事)であることを物語っているが、その行為も別に女性とは関係がない。

 ではなぜ、女人禁制だったのかというと、か弱い女性が裸で相撲を行うわけにはいかないという理由もあったのかもしれないが、本当のところは、祈りを捧げる五穀豊穣の神様が宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)という女性神であったからという理由もあるらしい。
 女性の神様に対する祈りは異性である男性が行うべきという庶民的(?)な考えがあったということ。女神に対して裸の女性が相撲をとる行為は失礼にあたるという考えもあったのかもしれない。

 江戸時代には「女相撲」というものが興行的に行われるようになったが、それはあくまでも見せ物としての商売であり、神事とは無関係。ちなみに「女相撲」は風紀的な問題から明治時代になると禁止された。

 思うに、五穀豊穣の神様が今回の出来事を天の雲井から覗かれているとすれば、女性を土俵に上げたことよりも、神事としての相撲行事の本質を忘れ、形式だけに拘る現代の相撲界にこそ愛想を尽かされたことだろう。
 五穀豊穣の神様が、人間間の女性差別などに興味があるわけがないし、女性を土俵に上げても怒るわけもない。もし怒ることがあるとすれば、下らない建前に拘る人間が神事を執り行っていることに対してだろう。
 もう1つ付け加えれば、今回の出来事を女性差別にまで便上拡大解釈する人間に対しても、さぞお怒りのことだろうと思う。

【追記】2018.4.9
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>自由人がリベラルを批判するってどう言うことなんだ

  このブログ記事で述べている「リベラル」は、無論、本来の「リベラル」のことではなくて、(似非)リベラルを意味しています。(似非)リベラルとは、一言で言えば、「マルキスト」のことです。

>自由人は「リバタリアン」の自由ですか、やれやれ。

 何度も当ブログで述べていますが、私はリバタリアンではありません。BLOGOSのプロフィール欄にも書いていますが、「自由人」は「自由に考える人」という意味です。

>しかし、そうすると自由人の安倍政権支持は矛盾だらけですね。

 これも何度か書いていますが、私は安倍政権を擁護するだけでなくて、批判する時もあります。消費税増税時にも何度も苦言を呈しています。正しいと思う政策は支持し、正しくないと思う政策は支持しない。ただ、それだけのことです。

>この自由人とかいう投稿者はどう考えてても、頑迷固陋な安倍晋三教徒であり、ネオリベでもある矛盾した存在。自由を名乗るのが極めて不快である。

 私は安倍信者ではありませんし、ネオリベでもありませんので、誤解のないように。

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「社会正義のために戦う戦士」の正体

■「戦争できない」と「戦争しない」の違い

 現代のアメリカでは、社会正義のために戦う戦士のことを、文字通り「Social Justice Warrior」と呼ぶらしいが、日本にもこういった人々は大勢いる。例えば、有名人の不倫を暴くことを絶対的な社会正義だと思い込み、徹底的に叩くことを生き甲斐としているような戦士達もいる。不倫行為は法的にも「不貞行為」であるので、不倫をすることは決して褒められたことではないが、個人の不倫行為を万民に暴露することが必ずしも正義になるとは限らない。

 自らを正義のヒーローだと錯覚し、他人の人生を破壊しても恬として恥じない、そんな独りよがりの独善者は数多いが、「憲法を変えないこと」を正義だと思い込み、改憲論を徹底的に叩くことを生き甲斐としているような戦士達もいる。

 憲法を変えると「戦争できる国になる」と言い、まるで「戦争できない国」が正義であるかのように思っている人もいる。しかし、国家としての理想は「戦争はできるが戦争をしない国」であって、単なる「戦争できない国」ではない。「できない」と「しない」は全く違う。

 喩えて言うなら、人間は誰しも窃盗(泥棒)をすることはできる。「盗もうという気持ち」と「盗みを行う手」があれば、窃盗行為を行うことはできる。しかし、多くの人は理性があるので、法律で禁止された窃盗行為をしない。窃盗行為を行うことはできるが、理性的に「しない」という選択をする。
 もし、人間の「しない」という理性を無視して、人間が窃盗できないようにするためには、両手を動かないようにする(切断する)ことが正義だということになってしまう。これが、「しない」と「できない」の違いだ。

■迷惑な「社会正義のために戦う戦士」

 北朝鮮のような独裁者が牛耳る無法国家には、人間の本能を縛る法律が無いようなものなので、人間の理性には期待できない。独裁者の鶴の一声で「しない」という選択肢は吹っ飛んでしまう。ゆえに「戦争できない国」にすることは彼らにこそ必要な施策だと言えるのだが、どういうわけか日本では、どの国よりも理性的だと思われる国民に「戦争できない国」を適用しようとする人々が存在している。

 本能的に動く他国が「いつでも戦争できる国」であるにも拘らず、理性的に動く自国を「いつまでも戦争できない国」にすることを生き甲斐にしている。これぞ、まさに独りよがりの独善であり、自らを社会正義のために戦う戦士だと勝手に思い込んでいる「Social Justice Warrior」そのものだと言える。

 社会正義のために戦う戦士が、自国の国民の理性を信じず、両腕を動かないようにすることを正義だと思い込み、自ら国家を破壊していることに気が付かない。彼らにこそ自らの行動を縛る「理性」が必要だと言える。

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ハリウッドのリベラル化を憂う

■「リベラル・コレクトネス」の猛威

 最近のハリウッド映画を観ていて、よく感じるのは、創作(フィクション)であるはずの映画の世界にまでポリティカル・コレクトネス(以下「ポリ・コレ」)の影響が及んできているのではないか?ということ。

 「ポリ・コレ」というものはアメリカのリベラル思想と密接な関係があることはよく知られているが、オバマが大統領になってからは、特に深く浸透してしまったと言えるのかもしれない。

 有名なところで言えば、『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』という映画があった。本作はトランプ氏が大統領になる前の映画だが、大規模なテロを防ぐために一般市民を犠牲にすることの問題性を提起し、アベンジャーズを国際連合の管理下に置くという、およそ、これまでのヒーロー映画では考えられないような非現実的(と言うよりも現実的)なドラマが描かれていた。

 当時、映画館でこのシーンを観た時、非常な違和感を感じたことを記憶しているが、あの違和感の正体は、映画の世界に入り込んだリベラル思想そのものだったのだろうと思う。映画の中に「ポリ・コレ」思想というものが混入していたのだな…ということが今になって分かったような気がする。

■壮大な悲劇を演じているハリウッド

 2年前にもアカデミー賞で黒人俳優が全くノミネートされず、「白人ばかりのアカデミー賞」と揶揄した批判が問題になり騒がれたことがある。
 「ポリ・コレ」のことを知らない人がこんな話を聞くと、条件反射的に「黒人差別だ!」と憤るのかもしれないが、公平な判断の上で本当に黒人俳優にノミネート者がいない場合はどうするのか?ということも併せて考える必要があるのではないかと思う。

 個人的にはアカデミー賞自体が元々、権威主義に傾いていると思われるので、それほど高く評価しているわけでもないのだが、そのことは於いておくとしても、ハリウッド映画に出演している俳優の比率は黒人よりも白人の方が圧倒的に多いわけだから、たまには黒人が受賞できない年度があっても、それはそれで仕方がないことだとも言える。実際、出演比率の低い黄色人種もアカデミー賞にノミネートされるようなことは全くと言っていいほど無いが、誰も文句は言っていない。

 この騒ぎがあったこととも関係しているのかもしれないが、現在のハリウッド映画(海外ドラマも同様)には、どんな映画にも一定数の白人以外のキャストが出演する場合が多くなっているように感じられる。同時に、同性愛者を演じる俳優が多く登場するようになったとも感じられる。マイノリティの認知度を上げるという目的でそのようなことが行われているのかもしれないが、実社会における同性愛者の割合を考慮すれば、明らかに過剰な扱いになっているという違和感は拭えない。

 こういった特別扱いをすること自体が、実は差別そのものであると思われるのだが、「ポリ・コレ」を厚く信奉する人々には、そのことが見えなくなっているのかもしれない。どれだけ建前を飾ったところで、特別扱いしなければならない存在を自ら作り出し、腫れ物に触るかの如くタブーを作り出すことが、差別をより根深いものにするということが解らないというのは悲劇そのものだとも言える。

 ハリウッド映画の内容ではなく、ハリウッド映画界そのものが壮大な悲劇を演じているということが多くの人々に理解される日は訪れるのだろうか? もし、その日が来れば、それはアカデミー賞ものの栄誉ある瞬間だろう。

【追記】 『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』は『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』の間違いでした。訂正してお詫びいたします。

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日本に輸入された「ポリティカル・コレクトネス」

■「ポリティカル・コレクトネス」の起源

 昨年末のダウンタウンの番組の中で、浜ちゃんが『ビバリーヒルズ・コップ』の黒人俳優エディ・マーフィのものまねのために顔を黒塗りしたことで物議を醸すという出来事があったらしい。
 私はダウンタウンのデビュー当時からのファンだが、年末恒例の特番番組はマンネリ感があるため数年前から観ていないのでニュースで知った。このニュースはアメリカでも報道されたそうだが、批判的な意見も結構あるらしいので、少し、ダウンタウンの擁護をしておきたいと思う。

 昨日、『アメリカ人が語る日本人に隠しておけないアメリカの“崩壊”』(マックス・フォン・シュラー著)という本を読んでみたが、奇しくも、この問題を考える上で非常に参考になる本だった。

 アメリカにおける過剰なまでの「言葉狩り」は「ポリティカル・コレクトネス」という言葉で知られている。現在のアメリカでは、少しでも差別に繋がるような言動は徹底的に糾弾される社会が出来上がっており、ほんの些細な言葉が原因となり、社会的に抹殺されるという窮屈な社会になっている。
 ある意味、日本とよく似ているとも言えるが、実際のところは、ポリ・コレの歴史が長いだけあって日本よりも酷いらしい。アメリカが「訴訟社会」というのは、実は「ポリティカル・コレクトネス社会」であることを意味しているのかもしれない。

 この「ポリティカル・コレクトネス」というものは、一般的には1960年代のベトナム戦争の抗議活動に端を発するとされているが、実のところは、1920年代にドイツに誕生したフランクフルト学派にあるらしい。
 新しいマルクス主義の研究組織であるフランクフルト学派は、ドイツでナチスが誕生したのを契機として、アメリカに移った(逃げた)。戦争が終わると大部分のメンバーはドイツに帰ったが、一部のメンバーがアメリカに残り、左派運動の中心となっていった。その1人であるヘルベルト・マルクーゼは「ポリティカル・コレクトネス運動の父」と呼ばれている。

 「社会的弱者」という概念を作り出し、人心を荒廃させることで国(の文化)を破壊し革命を起こすことを目的とした彼らの理論のことを「批判理論」と言う。

■「ものまね文化」も破壊する「ポリティカル・コレクトネス」

 日本には「お笑い文化」というものがあり、これまでにも様々なものまねが行われてきた。禿げた頭、太い眉、大きな目、大きな鼻、出っ歯、厚い唇、長い顎、太った身体、短い足、その他諸々、そういったものまねは得てして、個人の特徴を上手くとらえて、その部分を強調することで笑いを得るというシステムだった。
 ここで「個人の特徴」を「個人の欠点」に摺り替えて、「欠点を指摘するのは差別だ!」ということが国是になってしまうと、ものまねタレントは仕事を失い、お笑い芸人も仕事の幅が狭くなってしまう。加えて、ものまねされるタレントも知名度を失ってしまう。それは、まさしく文化の破壊を意味する。

 アメリカには黒人を奴隷にしたという負の宿業が有るので、その結果として現在のような白人いじめが行われているのかもしれないが、日本にはそのような宿業はない。他人の欠点を指摘することや笑うことは決して良いことだとは言えないが、ものまねされている本人がヘイト(嫌悪)感情を持っていないのであれば、第三者(赤の他人)が文句を言うのは余計なお節介だとも言える。

 問題はダウンタウンの浜ちゃんに黒人を差別する意識が有ったのかどうかということであり、該当するシーンを観た限りでは、そのようなものは感じられない。もし差別心があれば、こんなメイクはできないと思う。
 不快な思いをした人には謝罪が必要かもしれないが、アメリカでは白人が黒人のものまねをすることは御法度だということを日本のお笑い芸人に適用するのは少々、行き過ぎかもしれない。

 差別というものは、差別だと思う人がいることによって起こる。ものまねしている当の本人が、肌の黒いことを劣ったことだと思っていなくても、ものまねを観た人が「差別だ」と言えば、それが差別になってしまうという実に厄介な代物だ。

 肌の黒いことをお笑いネタにしているのであれば問題かもしれないが、単なるハリウッドスターのものまねであるなら、笑って受け入れるだけの度量は持っていただきたいものだ。

【追記】2018.1.8
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>ポリティカルコレクトネスを語るなら、そんないい加減な言い逃れは駄目です。問答無用です。物まねだからとか、芸人だからとか,日本人だとか,そんな話は端っから通用しないのです。駄目なものは駄目。それだけです。それが世界の常識です。

 その「世界の常識」が行き過ぎて反感を買い過ぎたために、その歪んだ常識に異を唱えていたトランプ大統領が当選したわけです。黒人の20%近くもトランプ氏に投票しました。だから、その「世界の常識」は今後、「過去の常識」となり、常識ではなくなっていくと思われます。

>それを見て不快に感じる人がどれだけいるか/ どれだけ深く不快に感じているか、が一番重要だろう。

 多分、不快に思った人よりも、不快に思わなかった人の方が圧倒的に多いと思いますが、不快に思わなかった人の意見は重要ではないんでしょうか?


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