社会問題

情報の賞味期限と思考停止病の蔓延

2009102901 毎年、この時期になると「インフルエンザ」という言葉を嫌でも耳にするようになる。今年は例外的に「新型」という言葉が先に定着してしまったので、その影に隠れた形になってはいるが、それでも毎年恒例の季節がやってきた。無論、「インフルエンザ・ワクチン接種」の季節である。

 一応、経過報告を述べておくと、1年前、当ブログに『インフルエンザ・ワクチンは打たないで!』という本の紹介記事を書かせてもらった。その本を読んでからの私はインフルエンザワクチンを注射していない。もちろん、ワクチン無しでもインフルエンザとは無縁の生活を送っている。わずか1000円の本で、この先、数十年間ワクチンを注射する必要が無くなったと思えば、経済的にも合理的であり、実のある読書投資になったと思っている。
 「インフルエンザワクチンは打たないで」というキーワードから、当ブログに訪問された人もこの1年間で数百人はいるだろうと思う。少なくともそのうちの数人は当ブログ経由でアマゾンで実際に本を買われたようなので、少しは私が書いた記事も世間のお役に立っている(?)のかもしれない。

 日本の大手新聞やテレビを観ていても、インフルエンザワクチンを打つことを勧める記事は見かけるが、打たないことを勧める記事は見たことも聞いたこともない。(インターネットには多数ある)
 何事にも対立するべき反対意見があると思うのだが、新聞やテレビでは完全に片方の意見に統一されてしまっている。この辺を見ても、マスコミというものがいかに閉鎖的な集団であるかが窺える。“異論は一切シャットアウト”という姿勢は、もはや報道機関としての体をなしていないと言っても過言ではないだろう。これだけ情報がオープン化された時代にこのような閉鎖的な報道姿勢を貫いていては、一般の顧客が離れていくのも止むを得ないだろうと思う。
 
 幸か不幸か、世界不況と同時に客離れが発生したので、日本のマスメディア関係者は景気が改善すれば客も戻ると考えているのかもしれないが、おそらく客が元に戻ることは無いだろう。なぜなら、客離れを起こしている最大の原因は“不況”ではないからだ。三橋氏の本にも書かれていたが、“時代のニーズに応えることができない”ということが最大の理由であるからだ。早い話、情報が生きていないのである。言い換えれば、ジャーナリズムが仮死状態に置かれているわけだ。
 「ジャーナリズム崩壊」という言葉(も本)もあるように、情報が死んでしまえば、誰もその情報には見向きもしなくなる。今までは情報の賞味期限というものが曖昧であったので運良く客数を維持することができたが、インターネットの影響で現代の一般人は情報に目敏くなり、情報の賞味期限を見分ける目を持つに至った。そんな状況下で賞味期限の切れた情報を押し売りの如く販売すればどうなるか? 誰も興味を示さなくなっていくだろうことは容易に想像できる。
 
 “賞味期限”に過剰なまで敏感(?)なマスコミであるならば、食料品ではなく、自らが取り扱っている“情報”の賞味期限にこそ着目するべきだろう。物体ではない目に見えない情報の賞味期限が問われる時代がやって来たということを知らなければならない。
 数年前、ホリエモンがニッポン放送を買収しようとした時に、テレビとインターネットの融合を説いていたことがあったが、(その実現性はともかくとしても)あの時にマスメディアは素直にホリエモンの言葉に耳を傾けるべきだったと思えるのは私だけではないと思う。

 話をインフルエンザに戻そう。現在は、小学校や中学校で学級閉鎖(休講)が増加しているとのことだが、会社そのものが閉鎖されているというような話はあまり聞かない。サラリーマンがインフルエンザで集団自宅待機などという話も聞かないし、民間よりも過保護(?)な公務員ですら役所閉鎖していないところを見ても、健常者である大人がそれほど大騒ぎするような病気とも思えない。
 ではなぜ、小・中学生がインフルエンザに感染しやすいのかと言えば、幼児や子供には未だ様々な病気に対する免疫ができていないし、病原菌に対する抵抗力も付いていないからだ。「老人にもインフルエンザ感染者が多いのではないか?」という意見もあるかもしれないが、それも、老化によって免疫力が落ちているという単純な理由で説明がつく。
 
 念のためにお断りしておくと、私は、『インフルエンザ・ワクチンは打たないで!』という本を読むことをオススメしてはいるが、「インフルエンザ・ワクチンは打つな」と言う気はない。もちろん私個人は「打たない方が良い」と判断したから打っていないわけだが、それを決めるのは、あくまでも自己判断であり自己責任だ。一応、インフルエンザも命に関わることもある病気であるので、他人に「打て」とも「打つな」とも強制することはできない。ただ、お上やマスコミが垂れ流す情報をそのまま鵜呑みにするのではなく、何が良くて何が悪いのか、または何が正しくて何が間違っているのかということを自分自身の頭で判断し、行動することだけは強くオススメする。

 しかし、その判断基準となる情報はテレビや新聞からは残念ながら得ることができない。判断するべき基準が無い(=一方的な意見しか書かれていない)のだから、どう転んでも「打つ」という判断にしかならない。「打つ」ことを前提とした情報しか入ってこないのだから、余程、疑り深い人間か、直感の優れた人間でない限り、「打つ」という判断にならざると得ないだろう。
 
 常識ある大人として大事なことは、必要以上にインフルエンザを恐れることではなくて、恐れる前に正しいインフルエンザの知識を身に付けることを考えることだ。そして、子供として大事なことは、感染することを過剰に恐れることではなく、感染しても耐えるだけの健康な身体を作ることに努めることだ。大人も子供も、他人から一方的に与えられた情報に右往左往するのではなく、冷静に物事の本質を考えて行動することこそが様々な病と付き合っていく上で最も重要なことだと思う。
 
 つまるところ、マスコミが異論を排除(シャットアウト)してきたことは、国民の思考停止病の蔓延にも一役かってきたわけだ。我々が本当に危惧すべきはインフルエンザの蔓延ではなく、むしろ思考停止病の蔓延であるのかもしれない。

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新天地へと向かう企業広告メディア(組織から個人へ)

2009101501 マスメディア(新聞・テレビ)の企業広告収入が激減していることはよく知られた話で、最近のテレビCMを観ていると、数年前のCMとは大きく様変わりしていることに気付かされる。中でもパチンコメーカーのCMが異常に多くなっていることに気が付いている人は多いと思う。CMだけでなく、番組の方もクイズ番組が異常なほど増えている。広告収入が激減しているためか、製作費用が安くつくクイズ番組に、比較的ギャラが安いと思われるお笑いタレントを数多く起用して番組が製作されている。現在のお笑いタレントブームの背景には、テレビ局の懐(ふところ)事情も関係している。(注記:別にお笑いタレントが悪いというわけではないので、誤解のないように)
 
 実際に、不況の影響から経費削減のために新聞やテレビに広告を出さなくなった大手メーカーもあるらしく、そういった企業と入れ替わる形でパチンコメーカーなどのCMが多くなってしまったようだ。無論、スポンサーが変更になったのは、テレビCMの利用料金が安くなっていることと無関係ではない。

 この消費不況の最中、高い広告料金を支払ってまでテレビCMを流しても、果たしてどれだけ消費に結び付いているのかが判らないという理由もあり、企業は広告宣伝費を大幅にカットした。その結果、売上は多少減少したのかもしれないが、利益率は増加した企業もあるらしい。これは当然と言えば当然の結果だが、要するに、既にある程度のネームバリューを構築してしまった大企業にとっては、テレビCMを大々的に流そうが流すまいが、商品の販売量にはそれほど影響しなかったというわけだ。利益率がアップしたということは、以前からもテレビCMに投資しただけの資金を回収できていなかった企業が有ったということだろう。
 この辺のところは前々回の記事でご紹介した三橋貴明氏の『マスゴミ崩壊』に詳しいので、興味のある方はそちらを見ていただきたいと思う。

 さて、では企業の商品コマーシャルは今後、減少していく一方なのか?というと、そうでもないらしい。これまで新聞やテレビを利用して出されていたコマーシャルは、インターネット広告という媒体に流れている。ヤフーのトップページの右上に出ているような宣伝がそれに該当する。そして注目すべきは、今まで“料金が高過ぎる”という理由でテレビには出せなかった(または製作されなかった)コマーシャルまでもがインターネットに流れていることだ。ブロードバンド環境の急速な普及により、新規ベンチャー企業や中小企業、はては個人の広告までもが、気軽にインターネット広告として出せるようになった。これは非常に大きな変化だと言える。
 インターネット広告の場合、テレビCMとは比較にならないほど安価であり、広告を出すサイトを選択することによって、ある程度の消費年齢層を絞ることが可能になる。加えて、実際にどれだけの人が広告を見てくれたのかを正確にトレースできる場合もある。不況の影響で経費削減を余儀なくされている企業にとっては、インターネット広告はまさに渡りに船で、良いことづくめという印象を受ける。

 こういった企業広告は、ポータルサイトだけではなく、個人のブログにも利用されている。当ブログにも上段左右(2009年10月現在)に企業広告欄を設けさせてもらっている。通常のアフィリエイト広告はクリックしない限り報酬は発生しないが、このテの広告は「インプレッション広告」といって、基本的にブログが表示されるたびにカウントされることになっている。アクセス数の多い人気ブログなどは、個別にスポンサーからオファーが入ることもある。(その場合はアクセス数ではなく、1日何円という計算になる)

 話は変わって、前回の記事を投稿した翌朝、ココログのアクセス解析を確認してみると、朝から200近いアクセス数があった。何かあったのかと調べてみると、「はてなブックマーク」に記事が記載されていたことが判った。(→該当記事
 その後、外出してから帰宅後に再度確認してみると、総アクセス数が1000を超えており、最終的にその日の総アクセス数は3000を超えた(下記グラフ図参照)。

Access20091015_6

 今までは多い日でも100程度のアクセス数だったものが、いきなり30倍のアクセス数に達したわけだから、少々驚いた。私は最初の記事に日々10000PVが第1目標と書いているが、実際に(一時的とはいえ)閲覧者が数十人から数千人に変わってしまうと、記事を書く責任性も大きくなるなと実感した。この、はてなブックマーク記載以来、リピーターが増加したらしく、日々のアクセス数は今のところ以前の2倍以上に上昇している。

 話を元に戻そう。企業の広告(テレビCM)は今後、インターネットに移っていくだろうことは想像に難くない。マスメディアが既に斜陽産業になってしまったということが多くのスポンサー企業に認識されてしまえば、この流れは決定的なものとなるだろうが、もはやその流れは変えられそうにない。
 巨大な護送船(マスメディア)ではなく、個人のいかだ船(ブログ)であっても多くの人を乗せて航海できる時代がやって来た。そこで求められるべきものは、目に見える“組織の大きさ”ではなく、目に見えない“個人の信用”になる時代がやってきたということでもある。
 大きな船であっても難破する危険な時代になれば、求められるべきものは、船の大きさではなく、舵をとる個人の能力や信用度に変化する。
 同じことは企業についても言える。これから伸びる企業は図体ばかりが大きいだけの企業ではなく、様々な需要を満たすことのできる融通性を持った信用ある企業だと言えるかもしれない。

 “組織”の時代から“個人”の時代へ。現在のマスメディアの動きをつぶさに観察すれば、それが向かうべき時代の方向性だということがよく分かる。その向かうべき方向に舵を切ることができなければ、新天地に辿り着くことは難しい。
 よく考えれば当たり前の話だが、それをなかなか改めようとしないのがマスコミを含む日本社会の困ったところでもある。護送船団日本号の舵は時代が変化しても微動だにしない。その方向はただひたすら時代に逆行しているかに見える。“新天地”ではなく“氷山”へと向かうことが判っていながら改めようとしない、まさにタイタニック号の悲劇そのものと言える。
 
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「国による教育統制」と「日教組による教育統制」

2009091301 今朝の新聞に、『教員免許更新制廃止』という記事が報じられていた。記者会見の場で民主党の輿石氏は「教員免許更新制は変えなければならない。できるだけ早くやる方向になる」と述べたらしい。
 『教員免許更新制』というものは、『10年に1度、教員としての資質を確かめるべく、30時間の教員講習を受講して試験を受けなければならない』という制度だが、日教組からは「国による教育統制が強まる」との批判の声が出ていた。
 
 日教組という組織は周知のように「日の丸反対」「国歌斉唱反対」という思想を持った組織なので、そういった試験で思想的なものを否定されると立場が無くなるという強い危惧感から「国による教育統制が強まる」と言っているのかもしれないが、逆に、生徒にしても、先生から「日の丸」がどうだとか、「国歌斉唱」がどうだとか統制されるのはいい迷惑だろうと思う。思想にかぶれた小・中学生などはそれほどいないと思うが、逆にいないからこそ、わざわざ思想教育(刷り込み教育)など行う必要はないと思う。大体、学校は道徳はともかく、思想を教える所ではない
 
 政権が自民党から民主党に移ったことで、安倍内閣からスタートした教員免許更新制が事実上、廃止に追いやられるという事態が現実のものとなりつつあるようだが、教職員ではない一般国民はどう思っているのだろうか? まさか「国による教育統制が強まる」との理由で廃止に賛成というわけではないだろう。私も教員免許更新制を導入するだけで現在の教育現場における様々な問題が即解決するとは思わないが、政権交代が実現しても、相変わらず国民不在の政治であるところは全く改善されていないようだ。
 
 公立の小・中学校の学力レベルが落ちているという理由から、子供を塾に通わせている人は多く、実質的に塾が主役になっているとの意見もある。本来であれば、塾などに通わせずとも、学校の公教育だけで受験に臨める学力を身に付けることができればよいのだろうが、日教組が主導した『ゆとり教育』などのせいで子供の学力は低下したとの声もよく聞かれる。そういった公教育の堕落から子供の学力を取り戻す意味合いもあってスタートした教育改革だが、国民の声ではなく、日教組出身の政治家からの鶴の一声でストップするというのは、どこかおかしい。
 
…とここまでは一般論であるが、教員免許更新制で行われる試験というものが具体的にどんなものであるのかは私も詳しくは知らないので、その試験を受講して試験に受かれば先生の資格を得るに相応しいと言えるのかどうかは判らない。しかし、適性試験であれ、学力試験であれ、その試験にさえパスすれば教員としての資質が無条件に上がるとも思えないので、試験制度が必ずしも必要だとは思わない。
 要は、そんな試験を受けなければ維持できないと思われるほどに公教育の現場が荒廃し、教員の資質が低下していることが問題であるのだから、学生と同じように無理矢理に試験を与えれば即解決というような簡単なものではないと思う。大事なことは、教員自らが教員としての自覚を持つということであり、教師に教育者としての自覚さえあれば、社会的な犯罪などは行わないという強い自制心が働くだろうし、教育者としての学習にしても誰に指図されるまでもなく、進んで勉学に励むはずだ。そういった気概を持った教師が自然に生まれない社会が問題なのであって、教師の資質だけに責任転嫁するのはおかしい。

 結局、何が言いたいのかというと、教師であれ生徒であれ、根本の教育自体を変えなければ意味がないということだ。試験に合格さえすれば良いという現代の風潮自体が間違っているわけで、そんな間違った(と言うより偏った)社会で、真っ当な教育者が育つと期待する方がおかしい。教育者という立場にある教師も、元から教師だったわけではなく、元をただせば1人の生徒だ。その生徒が教育という過程を得た後、教師になったというだけであり、その教育とは現在ただいま行われている教育と何ら変わりがないわけだ。その教育によって、堕落した教師が大量に発生しているのであれば、教師の資質を試す以前に、教師になる前の教育をこそ見直すべきだろう。その教育とはつまり、試験に受かればそれで良いとする偏った教育だ。
 
 お断りしておくが、私は日教組を擁護しているわけでない。日教組自体も既成の教育を押し進めてきた組織であることに変わりはないので、組織改革は必要だろうと思う。
 教師の不祥事が絶えず、生徒の学力レベルや向上心も希薄になっているという現状を創り出してしまっている張本人は、実は教師や生徒ではなく、現在の教育環境を管理している自分達自身ではないのか?という疑問を抱くことも必要だろう。教育改革に反対するよりも前に、自らの組織改革の是非をこそ問うべきだろう。
 
 いずれにしても、現代の公教育の堕落現象は、時代にそぐわない教育が齎した悲劇が表面化してきているだけのことだろう。“教育とは何か?”という根本的なところまで遡って解決策を練らないことには、この問題が改善されることはないだろう。教師や生徒に試験を与えて、その点数を競うだけの教育では、何の解決にもならないということを教育者自身が悟らないことには何も変わらない。つまり、「国による教育統制」も「日教組による教育統制」も、もはや何の役にも立たないということである。

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『お金と結婚と少子化』の因果関係

2009082501 麻生総理がまた『問題発言をした』ということが話題になっている。ある学生集会で、学生から少子化問題に関した質問があったらしく、以下のように答えたらしい。
 
学生「若者に結婚資金がなく、結婚の遅れが少子化につながっているのではないか?」
麻生「そりゃ金がねえなら結婚しない方がいい。うかつにそんなことはしない方がいい。

 この麻生氏の意見に対しては毎度のことながら、野党側からは批判のオンパレード、与党側からは釈明が行われたそうだ。しかし、この発言のどこが問題発言なのか、私には解らない。
 「お金が無ければ結婚しない方が良い」と言うことがなぜいけないのだろうか? この発言の後に「お金ができてから結婚した方が良い」と付け加えれば何の問題も無いと思えるのだが、言葉足らずであったことがいけなかったとでも言うのだろうか?

 確かに、現代の日本ではお金が無くても結婚はできるし、お金が無ければ結婚してはいけないという決まり事もない。どんな経済環境であれ、男女の合意の元で行う結婚は自由だし、経済的な事情で結婚を縛る規制もなければ法律もない。しかし、常識的には、ある程度のまとまったお金が無ければ、まともな結婚生活は営めないと考えるのが普通だろう。
 少しでも経済観念を有した人間であれば、結婚する前に、ある程度のお金は蓄えるものだろう。「貯金など無くても、いくらでもお金を稼げる」というようなズバ抜けた能力が有る人は別として、一般的な人であれば、今の時代、お金も無いのに結婚するなどというリスクはなるべく避けたいというのが正直なところだろう。その証拠に、「貯金の無い人や安定した収入の無い人とは結婚したくない」という女性は大勢いる。「愛があればお金なんていらない」という理想論を述べるのは個人の自由だが、大抵の人は“愛”だけでなく“現実”も見て結婚を考えるものだ。

 それに「お金が無いなら結婚しない方が良い」というのは、“比較論”であって“断定論”ではない。麻生氏は「貧乏人は結婚などするな!」と断言しているわけではなく、「結婚はお金を貯めてから行った方が良い」というごく当たり前のことを言いたかっただけだろう。これはむしろ常識的な意見であって、こんな意見に対して批判している人間の頭の方がどうかしているとも言える。

 想像するに、こういった批判は《麻生総理は麻生財閥の御曹子だから》という歪んだ先入観から生まれた邪推ではないかと思う。《お金持ちが貧乏人に対して見下した意見を言っている》という捻くれた思い込みが齎したものだとも考えられる。確かに麻生氏にはそういったところ(=庶民を見下すようなところ)が無いとは言えないが、今回の意見だけで判断するなら、特に問題視するような発言とは思えない。

 では、学生からの質問に対して、麻生氏が以下のように答えていればどうなっていただろうか?
 
(例)麻生「金なんて無くても結婚すればいい。いちいち金のことなんて考えない方がいい。

 おそらく、この場合でも、こんな批判が出ていたはずだ。「お金の心配がない麻生総理だから、そんな無責任なことが言えるのだ」「現代の深刻な若者の労働事情も考えずになんて言い草だ」と。
 つまり、余程、当たり障りのない無難な答えを用意できなければ、どちらに転んでも批判の的になっていたというわけだ。当たり障りのない無難な答えを用意するのは、口の達者な野党政治家達の十八番(オハコ)でもあるが、学生達もそんな建前を聞くために学生集会を催しているわけでもないだろう。

 無難な答えをここで言っても始まらないので、本音でこの質問に答えてみよう。
 
 まず、「若者に結婚資金が無い」というのは、全ての若者に当てはまるわけではない。《結婚するには結婚資金がいる》と思っているのであれば、その資金を貯めるように努力すれば(=働けば)いい。
 「結婚資金が無いから結婚するのが遅れて少子化につながっているのではないか?」というのも、一部の人間しか該当しないだろう。現在ただいまの資金が多かろうが少なかろうが、ほとんど関係がないと思う。重要なのは、現在の収入や貯金の額ではなく、将来的に得ることができるだろう収入の予想額の方だ。抽象的に言い換えれば、先行きに対する“希望”の有無だ。
 頭の良い若者ほど、そういった希望が見えないことに早く気がついてしまう。今の社会が何の変革もなくこのままダラダラと進めば、未来には希望が無いということに潜在的に気が付いているがために、結婚できない(正確に言えば“結婚しようと思わない”)社会になってしまっているわけだ。言わば、現代の少子化現象というのは、人間の本能が無意識的に機能した結果だとも言える。動物と同じように人間にも、未来を感じる予知能力のようなものが少なからずあり、本能的に《結婚すれば苦労する》という漠然とした不安感を抱いているためだろう。その不安感の正体を暴かないことには現在の少子化現象が止まることは無いだろう。

 要するに、“希望”というものを国民に見せることのできる政治家の出現が望まれるわけだ。政治家のちょっとした言葉尻を捉えて、政争の具に利用することしかできない政治家などは、これからの時代にお呼びではないのだ。なぜかって? そんな政治家が何万人出たところで、日本社会も日本経済も決して良くはならず、悪くなるだけだからだ。

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『覚せい剤使用』と『自殺未遂』の微妙な関係

2009081001 先週からテレビのニュース番組では、政治問題よりも「ノリピー」こと酒井法子の覚せい剤事件に焦点が当てられている。珍しく国民の一大感心事に成りかけていた政治問題は、この芸能ネタによって完全に霞んでしまったようだ。
 
 世間一般では、ノリピー批判も行われているようだが、多くの人はこう言っている。「ノリピーに裏切られた」「覚せい剤に手を出すなどケシカラン」と。
 
 初めにお断りしておくと、私は国民的元アイドルの芸能界ネタ(ノリピー批判)を書くつもりでこの記事を書いているのではなくて、この事件によって、ある意味で“思考停止状態”に陥っているかに見える国民的社会問題について述べている。扱うものが『覚せい剤』という反社会的なものであるので、誤解を招く恐れがあるかもしれないが、誤解を恐れずに少し述べてみたい。
 
 まず、「酒井法子は罪を犯したか?」
 
  「犯した」 より正確に言えば「法律を犯した
  
 では、「酒井法子は誰かを傷付けたか?」
 
  誰も傷付けていない。しかし、ファンや関係者の心は傷付けた。
  
 「あなたは、酒井法子の行為によって迷惑を被ったか?」
  
  「いいえ」【国民のほぼ全員
 
 つまり、酒井法子の犯した罪とは法律を守らなかったという個人的な罪であって、他人を傷付けたとか、迷惑をかけたという罪ではない。(親類や芸能関係者は迷惑を被ったが、赤の他人は迷惑を被っていない)
 「法律を破るなど倫理的にケシカラン」と憤っている人がいたとしても、その当人自身が迷惑を被ったわけではない。例えば、覚せい剤を使用したせいで万引きをしたとか、他人を殴ったとか、破廉恥行為を行ったとかいうのであれば、それは他人にも迷惑をかけることになるので万人が「ケシカラン」と言っても然るべきものだが、幸い、そこまでの罪は犯していないので、全く関係のない赤の他人が「ケシカラン」と言うのは少し感情的に成り過ぎているのではないかと思う。
 
 もちろん、放っておくと覚せい剤中毒となって他人を傷付ける可能性もあるので、覚せい剤の蔓延を取り締まる必要があることは言うまでもない。しかし、覚せい剤に手を出して真っ先に傷付く人間は誰かというと、覚せい剤に手を出した自分自身だ。覚せい剤に手を出して身を滅ぼすのは実は本人自身だということに注目しよう。
 
 覚せい剤取締法の目的は、主として2つある。1つは「個人の廃人化を防ぐ目的」、そしてもう1つが「世間一般に広まることを防ぐ目的」だ。この2段階のストッパーとして覚せい剤の使用・所持は規制されているわけだが、この2つはよく考えると似て非なるものだ。1段階目は『』の問題であり、2段階目は『』の問題という大きな違いがある。
 
 1段階目というのは、“個人の肉体を自分自身で傷付ける”という意味では、『自殺未遂』というものに似ているとも言える。
 もし、自殺というものが法律で禁止されていたとすれば、自殺未遂を図った人間は「ケシカラン」ということになるのだろう。それは法律を犯したことに対する「ケシカラン」であって、決して他人を傷付けたという意味での「ケシカラン」ではない。
 他人まで巻き添えにした自殺(自爆テロなど)は、万人が「ケシカラン」と言うべきものだが、誰にも迷惑をかけていない自殺を同じように「ケシカラン」と言うのはどうだろうか?
 無論、宗教・倫理的な意味合いで「自殺は悪だ」という別の観点から見た意見もあるだろうが、話の都合上、そういったものは省く。(ちなみに私も自殺否定論者です)

 酒井法子は確かに法を犯した。そして世間一般にもお騒がせしたことは事実であるので、擁護するつもりはさらさらないが、単に『覚せい剤』という言葉からイメージだけで批判している人には、もう少し冷静に考えてみることをオススメしたい。
 覚せい剤を使用することは確かに悪だ。しかし、その悪にも段階があるということも考えてみよう。何事についても条件反射的に決めつけるのではなく、別の見方もあるということを考えてみよう。そして、多くの国民にそういった複眼的な視点が欠けていることこそが、この国の閉塞感の主因になっているという事実にも目を向けよう。
 この記事で述べたかった結論はそういうこと(=思考停止注意報)であって、覚せい剤云々はあくまでも喩えであるので、話の本題を曲解しないように願います。

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環境保護政策から生まれたコンビニ規制緩和

2009062401 コンビニの売れ残り弁当の対処法がクローズアップされている。
 今まで、売れ残った弁当は廃棄処分が義務付けられていたそうだが、今後はコンビニでもタイムサービス的に値段を下げて販売することができるようになるのかどうかが取り沙汰されている。
 この問題で注目すべきは、規制を行っているのが毎度の政府側ではなく、民間企業(セブンイレブン)側だということに尽きる。見方によっては、珍しくまともな政府の対応だとも受け取れるが、果たして問題の本質は何なのだろうか?

 コンビニというのは“いつでも買える”という利便性を追求したショップであって、決して“安価で買える”ということを追求したショップではなかった。
 40年程前までの日本社会では、深夜に営業している大型スーパーなどが存在しなかった。そこに『24時間スーパー』という触れ込みでコンビニエンスストアというチェーン店が続々と出現した。その利便性の高い販売システムは消費者から支持され、その後、コンビニ市場は大きく花開いた。しかし、その利便性の代償として、売られている商品は基本的に全て定価販売という暗黙の了解が無条件にセットされていた。不思議なことに「コンビニではなぜ値引き販売しないのか?」と言い出す消費者は誰もいなかった。
 よくよく考えると、これは実に不思議なことでもある。特に食品には賞味期限というものがあるわけだから、賞味期限の近付いた商品は赤字を覚悟してでも投げ売りしたいというのが販売店の本音であるはずだ。それに、いくら定価販売のコンビニであろうと、タイムサービスを期待する消費者は少なからずいたはずだ。しかし、この販売店(加盟店)の声も、消費者の声も、これまで全くといっていいほど聞こえてこなかった。まるで、コンビニ業界のタブーであるかの如くに。

 これまでは「賞味期限の過ぎた弁当は全て廃棄してください。」というコンビニ本部からのお達しが誰にも文句を言われることなく受け入れられていたわけだが、弁当を廃棄することによって損害を被るのは加盟店のみだった。
 加盟店が売れ残った弁当を廃棄したところでコンビニ本部は痛くも痒くもなかった。仮に加盟店が売れ残った弁当を安値で叩き売ったとしてもコンビニ本部に入る利益は変わらなかった。ではなぜ廃棄にこだわったのか? 答えは言うまでもないが、「廃棄しなければ仕入れ回転数が上がらない」というのが1つの大きな理由だろう。もしそうだとすれば、これは明らかに「加盟店&消費者無視」だと言えるだろう。もっとも加盟店になる契約書にそう書かれてあっただろうから、加盟店側が「騙された」と言えるようなものではないのだが…。
 
 具体的な例で言えば、仮に500円で販売されている弁当があったとして、仕入れ原価が200円であれば、その200円の損失は加盟店のみがカバーしなければならないという実に理不尽なシステムだったわけだ。加盟店側の販売努力が充分ではなかったと言えるのかもしれないが、売れ残った弁当は店長が自分で処分している(=食べている)というのはよく聞かれる話だ。
 確かにこんな理不尽なシステムでは、いずれは苦情が出るだろうことは容易に想像がつく。況して、時代はエコブームなのだから、食物を無駄に廃棄することは、国策としても黙って放置しておくわけにはいかなくなったのかもしれない。本来、「規制!」「規制!」と無駄な規制ばかりを行っている政府(今回の場合は公正取引委員会)だが、国策のために仕方なくコンビニを敵に回してでも規制緩和に動いたというところだろうか。背(コンビニ規制緩和)に腹(環境保護政策)は代えられないといったところかもしれない。
 
 今回の問題における対処法として、セブンイレブン側は早速、廃棄弁当の損失額の15%を引き受けるという折衷案(?)を提示している。先の例で言えば、200円×15%=30円の負担ということになるが、そこまでしてでもタイムサービス(値引き競争)は避けたいらしい。まあ確かにコンビニ業界で安値競争スパイラルが発生すれば、15%どころの損失では済まないだろうから、多少の損をしてでも得を取るというビジネス戦法なのだろうが、はたしてそれで丸く収まるかどうかは注視する必要がありそうだ。
 
 しかし、マスコミは今回の問題に対して、「賞味期限の切れた弁当を廃棄するのは勿体ない!」とか「無駄な食料の廃棄はケシカラン!」と息巻いているようだが、少し前にあった賞味期限偽装問題では、「賞味期限を1日でも過ぎた商品を販売するなどはケシカラン!」と言っていたのではなかったのだろうか?
 これは言い換えると、「賞味期限を1日でも過ぎたものは即刻廃棄するべきだ!」と言っていたようなものだから、今回の事件では全く逆のことを言っていることになる。以前は『賞味期限シール』をまるで唯一絶対的な神のように祭り上げていたにも関わらず、よくもまあ、舌の根も乾かぬうちに、いけしゃあしゃあとこんな台詞が出てくるものだと感心してしまう。この国のマスコミには、言いたいことを言う自由があるだけで、恥も外聞も責任も無いらしい。

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有罪判決率99.8%から生まれた足利冤罪事件

2009061501

 今月、「足利事件」という言葉がテレビや新聞を賑わせた。恥ずかしながら、私もこれらのニュースを観るまで1990年に「足利事件」なるものがあったことを知らなかった。(全く記憶には残っていなかった)

 この事件を契機に、改めて『冤罪』というものが注目されている。当時のDNA検査自体が信憑性に欠け、現代から観ればほとんどデタラメに近いものだったということが今頃になって判ったとしても、無実の罪で17年間も服役させられた菅家さんの怒りは察するに余りある。「人生を返せ!」と怒鳴りたくなるのは誰しも共通の思いだろう。
 テレビのニュースでは「検察が謝罪するのは極めて異例」などと伝えられていたが、これは一体どういう意味なのだろうか? これまでの冤罪事件では検察は謝罪もなにもしてこなかったということだろうか? 間違いを犯したことに対して謝罪することがなぜ異例なのか?とお聞きしたいものだ。
 
 こういった冤罪事件が後を絶たないのはなぜかというと、世間一般では「取り調べが密室となっており、無理な取り調べが行われているからだ」という意見も多いようだ。そのために裁判員制度が必要だという意見もあるようだが、どうもピンとこない。
 確かに自白の強要というものは日常茶飯事的に行われているのかもしれないが、それを無くすだけでアッサリと冤罪というものが無くなるとは思えない。
 
 日本の有罪判決率は99.8(または99.9)%だということはよく知られた事実である。これは、容疑者が起訴された場合、1000人中、998(または999)人は有罪になることを意味している。この数字が意味するものは、“日本の検察は優秀だ”ということではなく、“日本の検察はデタラメだ”ということに他ならない。要するに、日本の検察は有罪、無罪を的確に見分けることに優れているのではなく、罪を犯していようがいまいが、“有罪にすることだけに優れている”ということを意味している。その証拠に諸外国の有罪判決率は60〜70%であり、99.8%などという数字はまともな民主主義国家では有り得ないというのが世界の常識だ。
 
 日本の官僚組織は自らの出世のために間違いを犯せない、そして間違いを認めないという特徴があるため、検察も同じ公務員であることから、起訴したからには有罪にしなければ立つ瀬がない(=出世に響く)という心理がどうしても働いてしまうのかもしれない。しかし、そんな個人的な内情で有罪になってしまった冤罪者は悲劇というしかない。この辺のところは映画『それでもボクはやってない』に詳しいので、そちらを観ていただきたいと思う。
 
 結局のところ、冤罪が後を絶たないのは役人の保身のためという、トンデモなく幼稚な理由が下地になっている。そんな下らないことで無理矢理に有罪にされ、17年間も刑務所での生活を余儀無くされたのでは、これはもう人権侵害以外のなにものでもない。
 その謝罪がマイクを通した「申し訳なく思う」だけでは、菅家さんの怒りが収まらないのも当然だろう。この事件に関わった警察および検察は全員、菅家さんの前で土下座して賠償金も支払うべきだろう。無論、賠償金は税金からではなく自腹で支払わなければ意味がない。間違いを犯していない人間が17年間も刑務所に入れられ、間違いを犯した人間が簡単な謝罪の一言で罪を免れるのであれば、それこそ、警察などいらないということになってしまう。「ごめんで済めば警察はいらない」とはよく言ったものだ。他人の罪を裁くべき人間が自分の犯した罪に甘いのでは話にならない。
 
 冤罪事件発生のメカニズムというものは、行き過ぎた取り調べだけにあるのではなく、そういった取り調べを行わざるを得なくなっているシステムにこそある。そのシステムとは司法システムというよりは、もっと広義なものだ。それは旧態依然とした日本の社会システムそのものだとも言える。現代日本の閉塞感の元凶は実は司法の世界にも浸食しているということの証明として、足利事件のような冤罪事件が浮かび上がってきたと言えるのかもしれない。

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『思考停止国家』脱却のススメ

2009052901 ようやく、豚インフルエンザ騒ぎも沈静化しつつあるようだが、今回の一件で日本国民の思考停止ぶりが世界中に知れ渡ってしまったようだ。海外の知識人達は、豚インフルエンザにおける日本のパニックぶりを冷笑(嘲笑)しているらしい。ほとんど実害の無いウイルスに対して、よくもまあここまで馬鹿騒ぎができるものだと呆れ返っているという噂も耳にする。ある評論家が言うには、今回の一件で「日本はテロの標的国家になる危険性が出てきた」ということらしいのだが、なるほど、これはなかなかの慧眼だ。実際に今回の騒ぎを空港で目撃した海外の人々は「日本でまたテロ事件でも発生したのか!?」と疑ったそうなので、充分に考えられるケースだ。
 世界中のお金目当てのテロリストから観れば、こんなに簡単にパニックに陥ってくれる国があるのであれば、まさしく恰好の標的(カモ)だと思われても仕方がないかもしれない。偽の情報であろうが、不明の情報であろうが、実害を考慮しようともせずに簡単に踊らされてしまうのだから擁護のしようがない。“本人(本物)かどうかを確認せずにパニックに陥ってしまう”という意味では、まさに『振り込め詐欺国家』状態だとも言える。

 最近では、現代日本の思考停止状態を嘆いている本が続々と刊行されているが、ここでは次の3冊をご紹介したいと思う。

 『「知の衰退」からいかに脱出するか?』大前研一著
 『思考停止社会』郷原信郎著
 『会社に人生を預けるな』勝間和代著

 まず、大前氏の『「知の衰退」からいかに脱出するか?』は、日本の知の衰退ぶりを歯に衣を着せずに徹底的に掘り下げている。大前氏は本書の中で、少し前にベストセラーとなった『国家の品格』を「思考停止のすすめ」または「鎖国のすすめ」だと指摘している。
 ちなみに私は『国家の品格』は未読(正確に言うと数分間立ち読みして見切りをつけた)だが、この本が200万部も売れたというのは少し疑問に思っていた(周りにも読んだ人がいない)ので、大前氏の指摘に妙に納得してしまった。
 大前氏はこの本の中で先の『郵政選挙』についても鋭い指摘を行っている。当時、多くの国民は郵便局を“国営のまま”にするか“民営化”するかという二者択一に悩まされたが、本当は、“民営化する”か、それとも“廃止する”かという議論が起こるべきだったと述べている(大前氏の立場は無論“廃止”)。つまり、「国営という選択肢は初めから必要なかった」のだと。
 郵便局「国営 vs 民営」論ではなく、郵便局「民営 vs 廃止」論とは実に思い切った話だが、確かに言われてみれば、目からウロコの考察ではある。

 大前氏のように海外でも充分に生活していける人物は、国内の地位に固執して本音が言えずに汲々としている言論人とは実に対照的で、言いたいことをズバリ言ってくれるという痛快さがある。この本は最近の大前氏の本の中でも特にオススメできる万人向けの好著だと思う。『国家の品格』には申し訳ないが、こういう本が代わりに200万部売れた方が実際に日本のためになるだろうと思う。
 
 次に最近、サンデープロジェクトにもよく出演されている郷原氏の『思考停止社会』だが、彼自身が元検事ということもあってか、専門的な言葉が散見され、少し事務的(?)な文章なので、よく考えて読まないとウッカリ流し読みしてしまいそうになるのだが、集中して読むと、なるほど納得の目からウロコの思考啓発本(?)となっている。私が普段、ブログで指摘しているようなことを、より専門的な視点から掘り下げて述べられており、切り口も実にシャープだ。この本はまさに題名の通り「思考停止社会」の複雑な構図を明快に暴いており、ある意味で「警世の書」と呼べるかもしれない。氏の今後のご活躍に期待したいと思う。

 最後に、最近、女流経済評論家として頭角を現しつつある勝間和代氏の『会社に人生を預けるな』だが、この本は以前にヒットした『銀行にお金を預けるな』シリーズの続編に位置する。基本的には一般人向けのリスク・リテラシー啓発本になっている。
 勝間氏は政府関係の仕事も抱えているスーパーウーマンというイメージが強く、そのせいか反政府的な発言はできるだけ控えめにしているのかな?と思っていたのだが、この本ではズバリ本音を述べているように思われ、日本の終身雇用制度にもメスを入れており、堂々と「お上に人生を預けるな」と述べている。

 面白いのは、アメリカのヒーロー像というのは、スーパーマン、バットマン、スパイダーマンのように市民(個人)が主役だが、日本のヒーロー像というと、お上(遠山の金さん、水戸黄門、銭形平次、ウルトラマン、仮面ライダーなど)が主役になっていると指摘しているところだ。言われてみると確かにその通りではある。“お役人=正義の味方”という刷り込みが行われてきたのではないか?と疑われても仕方がないほどに偏っている。
 そして「寡頭制」という聞き慣れない日本の支配体制にも触れられており、多読家の勝間氏ならではの解釈で分かり易く書き連ねられている。勝間氏は大前氏と同じコンサルティング会社のマッキンゼー出身だけに、今後も合理的な視点から日本社会の問題点を指摘していってくれるのではないかと期待している。『銀行に〜』、『会社に〜』、とくれば、次は、『お上に生命を預けるな』の3部作刊行を期待したいところだ。

 以上、今回の新型インフルエンザ問題で、日本社会に別の意味での危機感を覚えた人は、是非、上記の3冊だけでも読んでいただきたいと思う。
 思考せずして正しい現実を認識することも理想を語ることもできない。思考せずして成功も発展もなく、思考せずして不況からの脱却もないということを知る上で格好の教材となるはずだ。

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『消費者いじめ』の薬事法暫定措置

2009052401 6月から施行されることになっていた『薬事法施行規則』(改正薬事法)の改正案が厚生労働省から発表された。その改正案とは、「2年間の経過措置」というもので、顧客が今までにネット販売を利用して購入していた薬に限り、2年間の通販を認めるというものらしい。早い話が、今まで購入していて問題なかったのだから、2年間位は購入し続けても何の問題もないだろうというものだ。無論、こんなのは建前であって、あまりにも世間一般からの反対意見が多かったので、渋々、暫定措置を採らざるを得なくなったというのが真相だろうと思う。
 
 しかし、販売店側に販売した薬の記録が残っていることが条件らしく、販売した記録が無ければ認められないらしい。ネット販売店であれば当然、記録は残っているのだろうが、一体、誰がそんなことを逐一調べるのだろうか? もしかして、新たに『ネット販売特別調査Gメン』でも設けるつもりだろうか?と勘ぐりたくもなる。
 
 薬というものは、販売店がメインの商品ではなく、消費者がメインの商品だ。置き薬屋は別として、通常、薬販売店が顧客に対して薬を売りつけるものではなく、顧客が病気になることで初めて需要が発生するものだ。つまり、“販売店が売りたい”よりも、“顧客が買いたい”が先にあるのである。言い換えれば、“売ってはいけない”ではなく、“買ってはいけない”というのが、今回の薬事法改正の本質なのだ。
 顧客が「買いたい」と思っても、その薬を以前にネットで購入したことがなければ、ネットでは買えない。顧客がネットでオーダー(注文)すると、販売店は「お客様は以前にそのお薬を購入しておられませんので、お売りできません」と言わなければならないことになる。これが「消費者保護」とは聞いて呆れる。
 もしそれが珍しい薬で、最短で手に入れるにはネットでしか不可能である場合はどうなるのだろう? なかなか市場に出回っていない奇病の薬を長時間ネット検索した結果、ようやく発見できたとしても、そのネット販売店では買うことができず、わざわざ足を運んで購入しに行かなければならないということであれば、それは消費者無視どころか、ただの消費者いじめではないのか? もし仮にそのことが原因で患者が重大な後遺症を残した場合や死亡してしまった場合、厚生労働省は責任を取ってくれるのだろうか?
 「我々は消費者保護に努めておりましたが、結果的に消費者を傷つけてしまいました」と公然と発表するだけの責任を自覚しているのだろうか?
 
 検討会委員の薬害被害者代表は「過去に同じ薬を売っていたことをチェックするのは難しく、これまで通り、誰でもネットで薬が買える事態になる」と批判しているそうだが、ネット販売を禁止したことで発生する危険はどうでもいいのか? そもそもこれまでにネット販売が原因となった薬害が有ったのだろうか? もしそんな事件があれば、とうの昔にネット販売規制は有無を言わさず施行されていただろう。
 
 昔から「毒を以て毒を制す」と言うが、薬というものは基本的には毒物だ。その証拠に、例えば、風邪薬であっても胃腸薬であっても、処方する量を誤れば死亡してしまうこともある。正露丸を1瓶まるごと飲んでしまえば死亡するかもしれないということは、それは充分に危険な毒物であるということだ。醤油やソースをカブ飲みした程度では死ぬことはないだろうが、薬をガブ飲みすれば死んでしまう。
 何が言いたいのかというと、結局、対面販売であろうがネット販売であろうが、薬の販売には常に危険が伴うということだ。リスクを伴わない薬販売などは無いのである。危険だという理由で禁止しなければならないというのであれば、対面販売も禁止しなければならないということになる。その結果は? 日本中で薬の販売も製造も中止され、病気を患った人間が大量に死亡して人口が激減というトンデモない事態を招くことになる。さて、そんな狂った事態を招いてしまった原因とは何だったのか? 答えは無意味な『消費者保護』ということになる。
  
 まあそれでも、一応は暫定措置が出ただけでも、この国が完全な独裁国家にまでは堕していなかったようで少し安堵した。私も僅か1票とはいえ、反対署名した甲斐があったというものだ。
 今後2年間の間に更なるネット販売の利便性と優位性、そして対面販売にこだわる無意味さを多くの人々が理解して、無意味な規制を撤廃する方向に世論が向かってくれればと思う。私もこの問題については今後も度々、ブログにて記事を書いて協力していきたいと思っている。こんな馬鹿な規制を行えば、ネット業者だけでなく、日本経済自体が停滞し、国民全員が迷惑する(=貧しくなる)ということを小出しに説明していきたいと思っている。

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お上依存国家の悲喜劇【パニック症候群】

2009052001 新型インフルエンザが猛威を振るっている(?)らしい。相変わらず、日本国中、テロリストでも入国したかのような騒ぎぶりで、大阪・兵庫では1人も感染した生徒が出ていないにも関わらず教育機関は停止(学級閉鎖)し、マスクを付けて通勤することを義務付けている企業もあるらしい。
 
 新型インフルエンザが関西の景気に悪影響を与えるのではないか?と懸念されつつも、世間一般ではマスクやインフルエンザ関連商品が飛ぶように売れ、まるでインフルエンザ特需にでも沸いているかのような雰囲気が漂っている。日経平均株価もインフルエンザ銘柄によって押し上げられる形で上昇しているという有り様で、景気に悪影響どころか、逆に良い影響すら与えているかにも見える。来月から始まる上場企業の株主総会でも参加者全員にマスクが配布されるだろうことは想像に難くない。
 
 しかし、以前にも指摘した(→豚インフルエンザとパンデミックパニック)通り、インフルエンザウイルスにマスクは無効だ。身も蓋もない言い方だが、これは科学的にも証明された事実であるので否定しようがない。
 まあ、国民の大部分がマスクを購入して景気が良くなるのであれば、黙っておいてもそれほど損害は出ない(マスク程度なら騙されて購入したとしてもたかがしれている)ので、とやかく言う気はないが、この右向け右の国民性には閉口せざるを得ない。
 とにかく、右を向くも左を向くも全てお上の発表次第。なるほど、確かに右を向いても左を向いても、自分の頭で物事を考えようとしない子供のような大人ばかりがマスクを付けて街中を徘徊しているかにも見える。
 そもそもマスクというものは、風邪をひいた本人が他人に風邪を伝染さないために気を遣って着用するものではなかったのだろうか? 企業が社員にマスク着用を指示しているのは、お客様に対する礼儀としての意味合いもあるのかもしれないが、単に風邪を伝染されたくないという意味合いでマスクを着用しろと言っているのだとすれば、効果が無いのだから、喜劇と言うしかない。

 さすがの政府も、国民の行き過ぎたパニックを危惧してか、冷静になるようにと指示を出し始めたようだが、悲しいかな、遅きに失した感がある。多くの国民の心には既にパニックウイルスに侵入し、豚インフルエンザよりも先に別の病気を患ってしまったようだ。病名は無論「パニック症候群」である。
 このパニックウイルスは豚インフルエンザ以上に感染スピードが速く、既に日本国中に蔓延してしまっている。このパニックウイルスに対しては抗体を持っている人もいる。その抗体は「思考」することによって得ることができる。元々、抗体を持っていない人であっても「自分の頭で考える」ことで体内にワクチンを作ることが可能だ。
 …と、ブラックジョークはこの辺で措いておくとして、豚インフルエンザに関しては、もういい加減に冷静になった方がいいのではないかと思う。集団感染の恐れがあるからという理由で学校を休みにしても、このままいくと日本全国の学校が学級閉鎖に追い込まれることは目に見えている。休んだ分は夏休みに振り替えるということだが、その夏休みに事態が収拾されているという保証もなく、逆に事態が悪化している可能性の方が高いかもしれない。こんな過剰な対応をいつまでも行っていると、1年中、学級閉鎖ということにも成りかねないということも考える必要があるだろう。そんなことになれば、学級閉鎖どころか、学校閉鎖(=学校崩壊)となり、全員進級できないという馬鹿な結果を招きかねない。
 
 大体、学校に行くか行かないかを、お上が勝手に決めてしまうことに対して、なぜ多くの人は疑問に思わないのだろうか? 私にはそれが不思議でならない。インフルエンザが流行っていようがいまいが、「学校に行って勉強がしたい」と言う学生は誰もいないのだろうか? 「自己責任で学校に行きます」という気概のある子供は誰もいないのだろうか? もちろん、いるだろう。「なぜ学ぶ権利自体までお上に一任しなければならないのか!」と言う気概のあるチルドレンやペアレンツが出現することを期待したい。無論、気概のあるティーチャーも歓迎だ。
 
(上記見解は、今回の新型インフルエンザが、通常の季節性インフルエンザと同等か、もしくはそれ以下の症状であるという前提から述べています。そしてそのことは既に証明されていますので、感情的なパニック反論やパニック批判はご遠慮願います。)

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豚インフルエンザとパンデミックパニック

2009051001 このところ、テレビや新聞では豚インフルエンザの話題でもちきりとなっているが、ついに大阪の寝屋川市の高校生ら3人が感染したということで、またまた大騒ぎ(ほとんどパニック状態)になっている。これまでも感染した疑いがあるというだけで散々騒いだ挙げ句、結局、陰性だったという人が何人もいたが、はたして感染前にあのような過剰な報道をする必要があったのだろうか?
 世界的にも少し過剰報道だったという反省も見られるようだが、日本だけは例外のようだ。まるで致死率数十%の新ペスト菌患者でも入国したような騒ぎぶりだが、実際のところは通常のインフルエンザと変わらない(むしろ症状的には軽い)らしく、諸外国でも感染して死亡に至っているケースは稀で、老人や幼児、または病気で体力(抵抗力)のない人に死亡リスクがある程度だということが判っている。
 
 「老人や幼児に死亡リスクがあるなら危険ではないか!」と批判される人がいるかもしれないが、それなら通常のインフルエンザと同様だということを考える必要がある。死亡リスクのないインフルエンザなどは存在しないということも併せて考える必要がある。通常のインフルエンザでも世界中で毎年、数万人の人が亡くなっているという現状を考慮すれば、新型の豚インフルエンザが流行すれば、当然、数万人の死者が出ることは避けられないと考えるべきだろう。(別に死亡者が出ることを肯定しているわけではありません、念のため)
 問題は、感染が世界中に拡がった場合、死亡者が数万人で済むかどうかということだったわけだが、先にも述べた通り、今回の豚インフルエンザは通常のインフルエンザよりも症状は軽いということが判明している。そして、タミフルなどが効かないというわけでもない。つまり、極論すれば、通常のインフルエンザが流行っているという程度のニュースなのである。決して軽いニュースではないのだが、通常のパンデミックの範囲内の出来事であり、かつてのスペインかぜペストコレラのような危機的なものでは有り得ないことは既に判明しているのである。
 
 インフルエンザが流行すると決まったようにマスクが爆発的に売れるそうだが、今回も例に漏れず、風邪用のマスクが飛ぶように売れているらしい。マスク関連株式銘柄(シキボウなど)は暴騰しているようだ。
 しかし、実際のところは、マスクではインフルエンザウイルスを完全に防ぐことはできない。マスクと肌の隙間からウイルスが侵入するだろうことは誰にでも想像できると思うが、実はマスク自体にもウイルスを遮断することはできない。インフルエンザウイルスを本当に遮断するためには、密閉型の防毒マスク(ガスマスク)でも付けるしかない。このことは以前にも当ブログで紹介した本『インフルエンザワクチンは打たないで』にも書かれているので間違いない。(該当記事→BOOK『インフルエンザワクチンは打たないで』)
 要するに、現在、マスク姿の人をよく見かけるが、残念ながら、それらは気休めにしか過ぎないということだ。もっとも、気休めであっても信じることによって(インフルエンザワクチンと同様?)プラシーボ効果はあるかもしれないが…。
 
 しかし、このままパニックを助長するマスコミの過剰報道が続けば、ウイルスを国内に持ち込んだ学生達は国賊(またはテロリスト)扱いになってしまうかもしれない。あるいは、高価な業務用のガスマスクが飛ぶように売れ、街行く人々がハロウィンの如く、様々なガスマスクを顔面に装着している姿を見ることになるかもしれない。
 まるで笑い話のようだが、実際に笑い話にしかならないようなことが平然と行えてしまうのがこの国の哀しき特徴でもあるので、心配の種もブログのネタも尽きない。

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『メーデー』という風化した記念日

2009050101 ゴールデンウィークのこの時期になると、毎年決まったように「メーデー」という言葉を耳にする。英語で表記すると「May Day」となるそうだが、国際的には『5月1日の労働者の日』という位置付けになるらしい。
 日本でもメーデーは“労働者の権利を主張する”という名目で開かれる組合主体の恒例行事となっているが、どうも観ていて違和感を感じてしまう。以前からもずっとその違和感を持ち続けていたのだが、現在のような世界的な不況の最中にあっては、もはや違和感を通り越して“異常感”とも言うべきものが漂っているような気がする。
 この違和感の正体が、『資本家 対 労働者』という古ぼけた闘争の構図であるということに気が付いたのは大分前のことになるが、現代ではそういった構図自体がもはや成り立っていないにも関わらず、相も変わらず労働者の権利を声高に主張している。そんなミスマッチな光景を観ても何も感じないことが私には不思議に思えてならない。

 昔のように土地を持っていなければ商売ができないというような時代であるなら、身分の違いだけで広大な土地を持っていた資本家を敵と見なし、労働奴隷として搾取されたお金の一部だけでも奪い返そうという気持ちが芽生えても仕方がないとは思うが、現代は別に土地を持っていなくても資本家(=経営者)になることが可能な時代だ。
 例えば、インターネットという環境の中で商売を行うのであれば、目に見える土地の大きさなどは関係がない。その世界にあるのは目に見えない広大無辺な仮想空間だけであり、その土地には限りがあるわけではないので、いくらでも所有することは可能だ。もちろん、その土地に人を呼び込む才能が無ければ商売は成り立たないだろうが、誰にでも分け隔てなく公平に開かれた空間が用意されている。グーグルの創設者にせよ、ソフトバンクの孫 正義氏にしても、元々、広大な土地や莫大な資産を持っていたわけではなく、その類い稀な先見性とアグレッシブな行動力によって他人よりも先に目に見えない空間を支配しただけのことであり、別に労働者から労働資本を搾取して成功者になったわけではない。そういった個人の商才を生かしリスクをとって成功した人間を「資本家」呼ばわりして批判の対象としてしまうのは、ただの嫉妬でしかないように思える。

 この目に見えない空間のことを詳細に述べた本に、大前研一氏の『新・資本論』(The Invisible Continent)という名著がある。大前氏の著作は非常な先見性に満ちていることで有名だが、その中でもこの本は出色の出来栄えと言え、まさに時代を先取りした予言書的な内容となっている。
 
 話をメーデーに戻そう。メーデー(5月1日)に先だって、4月29日にも連合メーデーというものが開かれたそうだが、代表者は締めくくりの挨拶として「第80回メーデーを契機に、日本社会の有り様に怒りを込め、正規労働者も非正規労働者も共に連帯し、勤労国民の先頭に立ってたたかおう」と述べたらしい。
 この言葉を3ブロックに分けて考えてみよう。
 
 「日本社会の有り様に怒りを込め」
 「正規労働者も非正規労働者も共に連帯し」
 「勤労国民の先頭に立ってたたかおう」

 まず初めの「日本社会の有り様に怒りを込め」という部分は極めて抽象的な言葉だ。日本の労働市場の有り様のことを述べているにしても、こんな抽象的な意見では何に対して怒りを感じているのかがよく分からない。この連合メーデーに集った36000人の参加者達も、果たして皆が同じものに対して怒りを感じていたのかは疑わしいと思う。単に政治に対して怒りを覚えていた人もいるだろうし、派遣社員のクビ切り問題に対して怒りを感じていた人もいるだろう。しかし残念ながら、そういったバラバラでまとまりのない近視眼的な怒りを個々人が持ったところで社会は良くはならないということを知る必要があると思う。
 問題は、こういったメーデーに集っている大勢の人間達が、怒りを感じるべき対象を正確に捕えていないことであり、まずは、そういったあやふやな社会こそを是正するべきだということが全く理解できていないところにある。つまり、自分達がメーデーに参加している明確な理由を理解できていないことこそが問題なのだ。
 
 次に「正規労働者も非正規労働者も共に連帯し」と続くが、よく考えるとこれもおかしいと思う。
 正規労働者と非正規労働者が共に連帯するべきだと言うのであれば、それは、現状の労働システムをそのまま維持することが前提という論理になってしまう。非正規労働者の労働条件を改善するためには、同一の仕事は同一の賃金という労働の公平性を目指す以外に問題を解決する術はない。まず、そういった公平性を実現した上での連帯でなければ何の解決にもならない。
 
 最後に「勤労国民の先頭に立ってたたかおう」とあるが、一体、誰と闘うというのだろうか? 強欲な資本家か? それとも悪どい大企業の経営者達とでも言うのだろうか? 大体、現在では、かつてはロクに働かずに所得を得ていた経営者達も、自ら汗水たらして働いている。(注意:民間企業に限る)
 現在の中小企業の経営者などは、自ら率先して働いており、厳しい不況の中、ギリギリの経営を行っている人も大勢いる。そういった会社で毎日顔を合わせて働いている社員達が、その経営者に対して「もっと給料を出せ!」と言って戦えと言うのだろうか?
 
 世の中には本当に悪どい守銭奴のような憎むべき経営者もいるのだろうが、ほとんどの経営者は、この不況で苦しい経営状態に追い込まれている。現在は、経営者という立場にありながら、労働者として働いている経営者が大勢いるわけで、そういった現実を直視すれば、もはや『資本家 対 労働者』などという古ぼけた価値観は“妄想”でしかないということに嫌でも気が付くはずだ。そんな古ぼけた価値観にいつまでもしがみついていることこそが、実はいつまで経っても労働条件が一向に改善しない最大の原因でもあるということを知るべきだろう。

 そもそも労働者というものは大きく2種類に分けられる。例えば、給料が30万円として、その給料分の仕事ができる人とできない人に大別することができる。具体的な例で言えば、60万円分の仕事をして30万円しか給料をもらえない人と、20万円分の仕事をして30万円も給料がもらえる人の2種類の労働者が存在している。
 前者が経営者に対して「もっと給料を出せ!」と言うのなら理解できるが、後者が「もっと給料を出せ!」と言うのは、どう考えてもおかしい。むしろ、経営者が「もっと働け!」と言う方が自然な状態だとも言える。

 身も蓋もない言い方かもしれないが、メーデーというものに参加している人達の中にも、こういった2種類の労働者達が混在しているということを知る必要があると思う。労働者の権利を主張するといっても、その労働者としての権利を主張するだけの条件を満たしていない労働者もいるわけだ。自らの足下も見えずに、権利を主張するだけなら、それはただの責任転嫁でしかないと思う。

 “組合が求めている労働条件の改善”と“非正規労働者達が漠然と抱いている労働条件の改善”は果たして同じものなのだろうか? もし両者の目的としているものが違ったものであれば、労働条件が良くなることは決して有り得ないと考えるべきだ。
 労働者達が、労働条件の改善を求めて組合主催のメーデーに参加していること自体が、既に自己矛盾に陥っているかもしれないという疑問に多くの労働者達が気が付かない限り、労働条件はいつまで経っても良くはならないだろう。こんなことはよく考えれば誰にでも解ることだと思うのだが、権利のみを主張する人間には、そういった当たり前のことすら見えなくなってしまうのだろうか? あるいは、それが解っていながら、1年に1回のお祭りとしてのメーデーごっこを行っているのだろうか? お祭り好きの日本人であるがゆえのメーデーごっこなら良いのだが、そうでないとしたら、日本の労働者達の未来は…(以下自粛)。

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情報の【付加価値】とは何か?

2009042301 今朝のニュース番組で、「携帯電話の販売台数が3割減少している」とのニュースが伝えられていた。この記事に対する司会者のコメントは、「携帯電話は4〜5万円と高くなったからね、高性能になったので使い捨てではなくなったんだ」という空疎なものだった。
 こういったコメントがいかに的外れであるかは説明するまでもないが、このような曲解を放っておくのは社会的にもマイナスだし、精神衛生上もあまりよろしくないと思われるので少し補足しておきたいと思う。

 携帯電話の販売台数が激減している理由は当ブログでも何回か述べたことがあるので、そちらを参考にしていただければと思う。(該当記事→ 4K不況(規制強化と信号増設の関係)「消費者心理」と「お役人心理」の乖離

 そもそも「携帯電話が高くなった」というのは、“原因”ではなく“結果”だということを考える必要がある。“通話料金が高いという理由で本体価格を無理矢理に値上げした”という結果に対する結果論を述べても無意味だ。なぜ携帯電話を値上げしなければならなかったのか?、そしてそれは正しい判断だったのか?ということまで考えた上でコメントを述べるべきだろう。「携帯電話が高くなったから販売台数が減少した」と言うだけでは、あまりにもお粗末であり、お世辞にもまともな有識者の意見とは言えないだろう。

 しかし、こんな表面的な事実を報道するだけで商売が成り立つのであれば、これほど楽な商売もないと思える。マスメディアに携わる人間の平均年収は1500万円にも上るというのはよく知られたことだが、それだけの高給を得ているのであれば、もう少し情報に『付加価値』というものを付けてもらいたいというのが正直なところではある。この場合の【付加価値】というのは、【考えた上での情報】のことを意味している。

 果たして彼らマスコミは、本当に真実が判らないほどに無能なのだろうか? それとも真実を理解した上で、仕方なく建前報道を行っているのだろうか? あるいは、意図的にデタラメな情報を垂れ流しているのだろうか? マスコミの報道姿勢における疑問点の選択肢をまとめてみると、以下のようになる。

 1、真実が判らないほどに無知無能

 2、真実を理解しているが、お上の目を気にして
   仕方なく建前報道を行っている

 3、お上と結託して確信犯的に誤った情報を
   垂れ流している

 どれが正解かは判らないが、そのいずれにしても、マスメディアとしての体をなしていないことだけは明白だろう。3つとも“真実を追求する”というマスメディアの本来の使命を放棄してしまっている姿であるからだ。

 少し前に『ジャーナリズム崩壊』(上杉 隆 著)という本が話題になったことがあるが、現代日本のマスコミは、ジャーナリズムなどとは無縁のデタラメ報道機関と疑われても仕方がないかもしれない。ある種、北朝鮮のデタラメ報道とオーバーラップして見えてしまうところが嘆かわしい。真実を追求するべき目的を持ったマスコミが、何も考えない国民を作ることを目的としてしまっては、その存在価値は低下せざるを得ないだろう。

 最近のマスコミ報道は、まるで小学生の学級会議か学級新聞の認識レベルにまで堕しており、まともな認識力を持った人には見る(聞く)に堪えないほど情報が陳腐化しているのではないだろうか? このところ、マスコミも経営が厳しくなったと囁かれてはいるが、一向にそのクローズドな姿勢を変えるつもりはないらしい。
 『需要のあるところにこそ供給がある』という経済原理的な視点で観れば、現代のマスコミの凋落は単なる不況の影響ではなく、世間一般の変化とはかけ離れたクローズドな報道姿勢にこそ、その原因が求められるのかもしれない。

 現代マスコミは、情報力を持った有識者達からは既に見放されて久しいが、一般人からも愛想を尽かされる日は意外と近いかもしれない。現代のマスコミに対する国民からの需要とは『真実が知りたい』という需要であって、決して『建前論が聞きたい』というものではないからだ。
 情報の付加価値は、真実を追求する姿勢からしか決して生まれることはない。つまり、真実を追求する姿勢を持たない限り、マスコミは不況から脱する術はないと言っても過言ではないのである。

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医薬品販売における『所得の移転』問題

2009042001 昨日の新聞に、医薬品の登録販売者のことが取り上げられており、今後、ドラッグストアは、スーパーやコンビニ、果ては大手家電量販店との熾烈な販売競争に巻き込まれるというようなことが書かれてあった。
 この記事を読んで「アレッ?」と思った。なぜそう思ったのかと言うと、もちろん、『ネット販売店』については全く触れられていなかったからである。まるで、医薬品のネット販売禁止が既に決定したかのような記事の進め方に非常な違和感を覚えた。こういった新聞記事も、記者クラブでお上から発表された情報をそのまま掲載しているだけなのか?と勘ぐってしまった。

 以前、タスポが導入されたことによっても、小さなタバコ販売店は無視され、「コンビニ特需」などという摺り替え記事が掲載された。「特需」などという言葉を聞くと、まるで販売数が増加して景気が良くなったかのような印象を国民に与えてしまいそうだが、実際のところは単に既存のタバコ販売店からコンビニに所得が移転しただけのことだ。今回の場合も同じようにネット販売店は都合良く無視され、「コンビニ特需」という摺り替え記事が掲載されることになってしまうのだろうか…。
 
 今まで医薬品を販売できなかったスーパー・コンビニ・家電量販店は、『医薬品』という絶対に売れる新たな商品が追加されるわけだから、どう転んでも売上アップになる。
 以下に予想結果を列記すると、
 
 ドラッグストア・・・・マイナス
 スーパー・・・・・・・プラス
 コンビニ・・・・・・・プラス
 家電量販店・・・・・・プラス
 ネット販売店・・・・・大幅なマイナス
 
 なんのことはない。医薬品の需要が大幅に伸びるわけでもないだろうから、今回も単に所得の移転が発生するだけだ。スーパー・コンビニ・家電量販店から見れば『特需』だが、ドラッグストアやネット販売店から見れば『特損』になるだけの話だ。いや、ネット販売店から見れば『全損』に成りかねない。

 話は変わって、数カ月前、会社から帰宅後、少し風邪気味だったので風邪薬を買いに某有名ドラッグストアに出かけた。しかし、なぜか医薬品のコーナーには大きなカーテンが降ろされており、よく見るとカーテンに『21時以降の医薬品の販売は薬剤師不在のためできません』と書かれた注意書きが貼られてあった。それまでは運良く(?)21時以降に薬を買いに出かけるということがなかったせいか、何も気に留めていなかったのだが、実際に薬が買えないという体験をすると、「これはとんでもなく融通の利かない不便なものだ」と感じた。これでは完全に消費者無視ではないかと思い、ドラッグストアの店員に文句でも言ってやろうかと思ったが、「お上のお達しなので…」という理由で体よく無視されるのがオチなので諦めたことがある。

 風邪薬や胃腸薬などの販売にわざわざ登録販売者が必要だとは思えないが、医薬品の登録販売者制度が出来上がると、確かにそういった不便さ(夜間に薬が買えないという不便さ)は無くなるのだろうと思う。少なくとも、薬剤師が常駐しなければ薬の販売もできないという窮屈な制度だけは緩和されることにはなる。
 その緩和だけなら、消費者の視点に立った制度と呼べなくもないだろうが、その制度を維持するために「ネット販売を禁止する必要がある」と言うのでは、なにをか言わんやである。

 よく考えると、薬をネットで購入する場合は、注文したその日に届くわけではないので、急を要する場合は、病院に行くか、対面販売を選択せざるを得ない。つまり、風邪薬や胃腸薬などは、わざわざネット販売を禁止しなくてもネットで購入する人はそれほどいないとも言えるわけだ。風邪薬や胃腸薬を買い溜めするという目的でわざわざネット販売を利用しているような人はほとんどいないのではないかと思う。ネットで購入する医薬品というのは、そんなメジャーな薬ではなく、もっとマイナーな薬だろう。例えば、水虫の薬とか、生理用品(薬)とか、対面で買うのが憚(はばか)られるような物が中心ではないかと思う。そういった物のネット販売を禁止するということは、まさしく「消費者迷惑」以外のなにものでもない。
 
 私も、医薬品のネット販売規制については反対署名をさせてもらったが、果たして何人の署名が集まれば、聞く耳を持ってもらえるのだろうか? 仮に1000万人の署名が集まったとしても、「過半数ではない」ということで無視されてしまうのだろうか? この国に真の民主主義が根付くのは一体いつの日になることやら…。

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「内定取り消し」と「内々定取り消し」の大いなる違い

2009041401 春になり、昨年の『内定取り消し』問題もひとまず落ち着いたかと思いきや、今度は、『内々定取り消し』問題が話題となっている。
 昨年の7月に某不動産会社から内々定をもらっていた福岡市の学生が10月に内々定を取り消されたということで、この不動産会社に対して訴えを起こしていたらしい。この訴えに対する福岡地裁の判決は、「内々定取り消しは違法」とのことで、会社側に75万円の支払いを命じたようだ。

 内定というものは通常、10月1日に出されるものだが、この学生に対する内々定取り消しは、内定式の2日前に行われたらしい。昨年の10月と言えば、急激に景気が冷え込んだ時期(しかも不動産業)でもあるので、企業側としては内定する前に取り消した方が良いと判断したのだろう。しかし、その判断(内々定取り消しならそれほど問題ないという判断)は、無効となってしまったようだ。
 
 この学生の弁護士は今回の判決に対して、「内々定でも労働契約が成立することが指摘された。泣き寝入りしている多くの学生を勇気づける画期的な決定」と評価しているそうだが、「その通りだ!」と言う前に、この会社は正式な採用決定を取り消したわけではないということに注意しよう。これまで問題とされてきた「内定取り消し」とは、“採用することを取り消した”ことを意味していたが、今回のケースは、“内定することを取り消した”ことを意味している。この(大きな)違いに注目する必要がある。
 今回の福岡地裁の判決は、別の言い方をすれば、「内定も内々定も同じものだ」ということを認めてしまったことを意味している。当然、これは初めての判断であったらしいが、この判断が、今後の企業の採用活動に少なからず影響を及ぼすだろうことは間違いないだろう。
 
 しかし、内定や内々定の取り消しが違法となり、賠償金を支払わなければならないということなら、学生側からの一方的な内定辞退や内々定辞退はどうなるのか?という問題もある。学生側が訴訟を起こすのなら、逆に企業側からも訴訟を起こすケースも出てくるかもしれない。
 私も学生時代に就職活動をして何社か内定を辞退したことがあるが、申し訳ないと思う気持ちはあっても、違法になるなどとは夢にも思っていなかった。逆に企業側から内定を取り消された学生がいたとしても、それで訴えを起こしているような人は聞いたことが無かった。まあ、景気の良い時であれば、1人に対して何社からも内定の連絡が来るので、その中の1社から内定を取り消されたからといって、訴える必要が無かったのかもしれないが…。
 
 企業側から見れば、「内定」と「内々定」とは、言葉が示す通り全く別のものだ。面接試験にも、一次面接試験、二次面接試験と段階があるのと同様に、内定にも段階を設けていたわけだが、今回の判決によって、この違いが失われてしまったとも言える。つまり、「内々定」というものが存在しなくなったと言っても過言ではないということだ。
 企業側にとって、「内々定」が無くなるということは、今後、学生に対しては、なかなか内定を出せなくなるということだから、就職活動は更に困難を極めることになるだろう。内々定を出すことに訴訟リスクが伴うのであれば、これは至極当然の帰結であって、今後、学生の就職活動が楽になるということは絶対に有り得ないと思った方がいいだろう。それが多くの学生にとって幸せなことであるかどうかは考えるまでもない。
 
…とは言え、私も転職活動中に、なかなか採用とも不採用とも連絡が来なかったことで、やきもきとした経験がある。連絡が遅れた挙げ句、結局、「不採用」などという誠意のない返事をもらった時などは、落胆とともに多少の憤りも感じたことがある。そう考えると、内々定の取り消しであろうと、誠意のない一方的な取り消しである場合は、訴えられても仕方がないと思う気持ちもある。だから、今回の福岡地裁の判決が、“内々定を取り消したことに対する賠償金”ではなく、“誠意のなかったことに対する慰謝料”であるのなら、致し方がないとは思う。

 この判決によって、今後、企業側は採用活動に慎重にならざるを得ないだろうが、同時に求職者に対しては誠意ある対応を取る方向にシフトしていってもらえればと思う。そして誠意のある企業に対しては、学生側も安易に訴えを起こすようなことはしないという懐の大きい社会になってもらいたいと思う。

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「婚活」ブームから「離活」ブームへ(?)

2009040601 少し前に、「婚活」という言葉が流行ったかと思っていたら、今度は「離活」という言葉が流行り出したらしく、NHKでもこの春から『コンカツ・リカツ』という題名の新ドラマがスタートしたらしい。
 「婚活」という言葉は、社会学者の山田昌弘氏の造語であるそうだが、当ブログでも以前、「婚活」現象を基にして現代の結婚の理想と現実を少し述べたことがある。(該当記事→『一億総結婚社会』の理想(恋愛)と現実(結婚)
 
 「結婚活動」が「婚活」であれば、「離活」とは当然「離婚活動」のことを意味しているのだろうが、こういった現象はなぜ発生しているのか?という原因を経済的な観点から少し探ってみたい。
 
 『「まだ結婚しないの?」に答える理論武装』(伊田広行著)という面白い本がある。この本では親や親戚、先輩や友人などから「なぜ結婚しないの?」という質問をされた場合にどのように返答すればよいのかということが現実的な視点から理論的に説かれている。
 結婚することが当たり前だった頃から、「なぜ結婚しないの?」という言葉は時代を超えた名文句のように使用されてきたが、現代のように結婚することが当然でなくなった時代であっても「なぜ結婚しないの?」という名文句を何の疑いもなく使用している人が大勢いる。まず他人にそういった疑問を投げかける前に、「なぜ結婚しない時代になったのか?」ということを自分の頭で考えるべきなのだろうが、そういったことを全く考えずに「なぜ結婚しないの?」と言われても、「はあ・・?」と言いたくなる人(未婚者)も結構多いのだろうと思う。
 
 現代という時代にあって「なぜ結婚しないの?」という言葉は、もはや時代の空気が読めない人間が発する象徴的な言葉(=KY語)になってしまった感がある。いつまでも結婚しない人を心配する気持ちは充分に理解できるのだが、その言葉を発すること自体が、自らが時代の空気が読めない疎い人間であることを証明してしまっているようにも感じられる。それほどまでに現代の結婚観は昔とは変わってしまったのである。(昔と言ってもほんの20年前位のことだが…)

 時代は、就職活動と同じように、結婚活動をしなければ結婚できないという時代になった。それは、誰も彼もが結婚できる時代ではなくなったということであり、結婚するためには、個人的な様々な努力が必要になったということである。それは、選び選ばれるためには自らを磨く必要があり、またそれくらいのことができなければ結婚したとしても、結婚生活を維持することは難しくなったということを意味している。
 ちょうどバブルが崩壊した1990年代に結婚を経験したロストジェネレーションの中に、現在になって結婚したことを後悔している人が大勢いるらしいが、この時代は就職氷河期とも言われ、多くの学生が就職できずにフリーターなどの職に就いた時代だ。しかし、以前からの結婚観を持ったままであった人の多くは、経済的なゆとりがなくても結婚を選択した。その後、定職に就けた人はよいとしても、そのまま不安定な生活を余儀無くされた人も大勢いたはずだ。
 そういった人の子供も今や10〜20歳という一番お金のかかる年齢に達しており、夫婦共働きでも生活していくのは経済的にも苦しい状態ではないかと推測される。そのためか、妻が夫に対して「かい性が無い!」と言って暴力を振るうドメスティック・バイオレンス的な夫婦喧嘩も後を絶たないらしい。
 
 バブルの絶頂期に土地を購入した人は、大損したと言われているが、バブルの絶頂期に子供を多くもうけた人も、現在では苦しい生活を余儀無くされている。土地は手放すことができるが、子供はそうはいかない。当時、2人でも3人でも面倒がみれると思って子供を産んでしまった人も、現代であれば、そんな悠長なことは言っていられない。その証拠に現代では子供が1人という夫婦が最も多い。それは経済的なストッパーがかかっているためであり、子供を育てることには大変なリスクが伴うということを認識しているからに他ならない。
 そのことは子供を産む以前の結婚という行為にも当てはまる。結婚というものにも大きなリスクがあるということを多くの人が認識しているが故に、結婚を選択する人間も減少しているわけだ。「離活」などというものが流行る背景には「結婚生活を続けるよりも離婚した方が楽だ」という女性(男性も?)が水面下に多く存在しているということを表しており、現在の3組に1組は離婚するという現象が、今後は2組に1組が離婚するというようなことになってしまう可能性も有るということだ。
 3組に1組でも以前の認識から考えれば異常なことだと思うが、これがそれ以上になると、さすがに「なぜ結婚しないの?」などと暢気なことを言う人も減少するかもしれない。それが良いことだとは私も思わないが、そういった時代認識を持つことは必要なことかもしれない。現代は「結婚しない人間は異常だ」と言っている人間こそが、ある意味では異常な(時代錯誤な)人間だと思われても不思議ではない時代なのである。
 
 結婚は誰も彼もが行うものではなくなり、結婚という行為は必ずしも幸せの片道切符ではなくなった。もともと安定志向で貯蓄志向が強いと言われる日本人が、同じようなリスクが結婚という行為に対しても伴うのであれば、必要以上に慎重になってしまうのは至極当然の結果と言えなくもない。
 現代の日本では、結婚は個人の選択と責任において行うリスクのあるものに変化してしまった。そういう時代認識を持てば、「なぜ結婚しないの?」という言葉が如何に時代に適合していないかがよく分かる。これからは「なぜそんなことを聞くの?」と返す人が多く出てくるのかもしれない。あるいは「なぜ結婚なんかするの?」と…いや、この先は止めておこう。

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『マンナンライフ事件』(“被害者”と“金の亡者”)

2009030701

 今週、またもや『マンナンライフ問題』が再燃した。なんでも、こんにゃくゼリーを食べて窒息死した被害者の家族がマンナンライフに対して(同時に)2件も訴えを起こしたらしい。
 当ブログでも何回か『マンナンライフ問題』を論じてきたが、こんにゃくゼリーが再販売されるようになったことからも、この事件もようやく収束に向かうのだろうと思っていた矢先に、まさかの再燃となってしまった。

 死亡した被害者は、それぞれ1歳半87歳という、共に極端な低高年齢者ということもあり、ネット言論界では「事故が発生したのは自己責任だ」とする意見が圧倒的に多いようだ。
 私も以前は、被害者の家族に対する同情もあったので、それほど厳しくは批判しなかったのだが、さすがに今回の訴えを聞いて「呆れた」というのが正直なところだ。おそらくマンナンライフの職員達も、建前上はともかくとして、本音では文句を言いたいところだろうと思う。しかし、この国のマスコミには建前論しか通用しないようで、マンナンライフを擁護している人間は全くと言っていいほど、テレビには登場しない。もう少し冷静な大人の意見も報道すればいいと思うのだが、あくまでも人権至上主義を貫きたいようだ。

 確かに被害者の家族の残念な気持ちは痛いほど理解できるのだが、はたして、亡くなった被害者は残された家族が訴えを起こすことを喜ぶのだろうか? 訴えを起こした人間(及び被害者)の名前は公表されていないとはいえ、よくよく考えると、訴えを起こすことは、逆に被害者の名を貶めていることになるのではないだろうか? 故人が草葉の陰から「そんな恥ずかしい真似は止めてくれ」と言っているような気がするのは私だけだろうか? こう言ってはなんだが、私には主客が転倒している(マンナンライフが被害者になってしまっている)ように見える。

 そもそもこの事件には“加害者”なるものが存在したのだろうか? マンナンライフがこんにゃくゼリーを製造することが罪でないのなら、もともと加害者などは存在しなかったはずだ。作ってはいけないもの(麻薬など)を作っていたというのなら加害者だと言えるだろうが、単なる健康食品を製造していた会社がなぜ加害者になってしまったのだろうか? のどに詰まり易い食べ物を製造・販売したから? はたしてそんなことで本当に加害者になってしまうものなのだろうか?

 例えば、フグ料理で毒にあたった場合などは、そのフグ料理を作った人間が加害者だと言えるだろう。なぜなら、食した誰にも被害を免れることはできないからだ。この場合であれば、料理人の過失として訴えることは可能であろうし、誰も文句は言わないだろう。
 では、鯛の刺身料理を食べて、不幸にもその鯛の骨が原因で死亡してしまった場合はどうだろうか? その場合、料理人が骨を残らず取らなかったから悪いと言えるだろうか? 鯛の骨は危険だという認識を持っていれば、普通の人間なら骨に気を付けて食べるだろう。
 ここで質問。あなたは、骨がのどに刺さったからといって、それを料理人のせいにする人を見たことがあるだろうか? おそらくそんな人はいないはずだ。しかし、この事件では、そんな通常では有り得ないことが起こっている。そして、多くの人がそんな異常な光景を観ても、なんら不思議に思わず、感情的なマスコミ報道に同調しているだけという、さらに有り得ない光景を、まともな人間が観ているという有り様だ。

 多くの人が述べているように、1歳や87歳という嚥下(口の中の物を飲み下すこと)する力の弱い人間に対して、“のどに詰まるかもしれない”という危険性を考慮していなかったのは、マンナンライフ側ではなく、実は被害者(の家族)の方だったとも言える。
 こんにゃくゼリーには今回の事件が発生する以前から、注意書きが書かれていた。その文字が小さかったのがいけなかったなどというのは、ただの言い掛かりに過ぎない。読めないほど小さい文字で書かれてあったというなら話は別だが、普通に読める文字で書かれてあったのであれば、それで充分だ。問題は文字の大小ではなく、その注意書きを読まなかった(気にも止めなかった)ことであるからだ。「文字を大きくしなければならない」というのは、突き詰めて考えれば、「この商品は危険だから買うな」と言っているのと同じことだ。商品を販売することが前提の健康食品に「この商品は買うな」などという注意書きを付け加えること自体、経済行為を無視した馬鹿げた対策と言うほかない。そんな注意書きを強調するくらいなら、企業としてはそんな危険な商品は初めから製造しない方が得策であるし、売上が下がるのが目に見えているのだから、販売すること自体がおかしいということになってしまう。
 マンナンライフにとって『こんにゃくゼリー』は主力商品であり、ヒット商品でもあるので、簡単に製造自体を廃止するわけにはいかない。おそらくマンナンライフ側も自分達が被害者だと認識しているだろうから、製造を再開したいと思うのは当然の帰結だ。

 しかし、マンナンライフとしても自社の製品を食べて死亡した人がいることは精神衛生上、あまり気持ちのよいものではないだろう。そして、被害者の家族がどこかに悲しみをぶつけたい気持ちもなかなか収まらないだろう。だからといって、被害者の家族がマンランライフに対して訴えを起こすというのはいただけない。そんなことをしても誰も喜ばない(喜ぶのは司法関係者だけ)し、観ていてあまり気持ちのいいものではない。
 私としては折衷案として、マンナンライフ側から被害者に対して、お詫びの意味も込めた見舞金でも手渡せばよいのではないかと思う。わざわざ裁判沙汰にしなくてもよいと思う。
 被害者が本当に欲しているものがあるとすれば、それは、お金ではなく謝罪であるはずだ。お金(しかも数千万円)でしか和解できないというのであれば、それは被害者の姿というよりは、金の亡者の姿でもあるということを助言しておきたい。少なくとも世間はそういう風にしか見ないだろう。そして『被害者』は『金の亡者』になることを決して喜ばないということも付け加えておこう。

 論理的かつ理性的に考えれば、こんな事件を裁判沙汰にすること自体が間違っていることは誰にでも解る。今回の訴えに対してどのような判決を出すべきかは明白だ。念のため、裁判所にも1つ忠告しておきたい。決して感情的な馬鹿な判決は出さないようにと。

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『厚生労働省』vs『楽天』の意味するところ

2009022701

 以前から、楽天の三木谷氏が厚生労働省に対して、医薬品のネット販売規制の中止を訴えていたことは周知の通りだが、このところの消費者からの苦情も相まってか、先日、舛添要一厚生労働大臣が中心となって、異例の検討会(医薬品新販売制度の円滑施行に関する検討会)が行われた。
 この検討会では『医薬品のネット販売の是非』を改めて話し合ったそうだが、「対面販売を基本としなくては安全性は担保できない」とする厚生労働省側の意見に対して、楽天側は「ネット販売業者いじめだ!」と真っ向から対立した。

 言葉だけで受け取ると厚生労働省側の言い分(消費者保護や犯罪防止)にも一理あるように見受けられるのだが、その一理のために残りの九十九理を無視する姿勢を容認するわけにはいかない。
 別の言葉に置き換えると、「一理」というのは役人を意味し、「九十九理」というのは国民を意味している。民主主義の基本は「国民の国民による国民のための政治」であって、決して「役人の役人による役人のための政治」ではない。この度の医薬品のネット販売規制は、事前にどれだけの世論調査を行って決められたのかを考えると、厚生労働省側は明らかに説明不足の感は否めず、まさしく「役人の役人による役人のための政治」になってしまっている。

 そもそも、医薬品のネット販売がどれだけ危険を伴うかということは、お役人が決定することではなく、市場が決めることだ。本当に危険だというのであれば、一般の消費者からの苦情が殺到するはずであり、その一般の消費者がほとんど問題視していない現状を見れば、わざわざ規制などを行う必要があるとは思えない。
 以前にも経済産業省から中古家電などのリサイクル販売を禁止するという無茶苦茶な規制が発足されかけたことがあったが、今回の規制も、これとどっこいどっこいの愚策と言える。

 厚生労働省が「対面販売」にこだわるところは、どこか、タバコ販売におけるタスポ規制を思い起こさせるが、何故に「対面販売」に固執するのだろうか? 対面販売であれば絶対的に安全で、ネット販売であれば危険を伴うという理屈はどう考えてもおかしい。対面販売であれば絶対的に安全だと言うのであれば、対面販売員の身分保証を絶対的なものにしなければならない。
 勘の鋭い人ならもうお気付きのことだと思うが、実はその対面販売員の身分保証制度というものが近い内に出来上がることになっている。現在は薬剤師が常駐しなければ医薬品の販売はできないことになっているが、2006年度の薬事法の改正によって2009年度(つまり今年)からは登録販売者がいれば、医薬品を販売できるようになる。要するに、ネット販売を禁止しなければ、この(登録販売者)試験制度が成り立たなくなってしまうわけだ。

 ネット言論内では、「医薬品のネット販売規制は当然だ」という意見もあり、「楽天の三木谷社長は自らのお金儲けのためにやっている」などという嫉妬丸出しの下衆な意見も聞こえてくるが、この問題はそんな小さな問題ではない。大多数の国民の声を無視し、ほんの少数の恣意的な意見が、なんの疑問も持たれることなく勝手に決定されてしまうという、まさに独裁国家さながらの国家の暴走を食い止めることができるかどうかという非常に重大な事件だとも言える。楽天の三木谷氏は「ネット販売業者いじめ」という、いかにも大衆受けする簡単な言葉を選んで抗戦しているかに見えているが、実は大きな改革を行っているとも言えるのだ。
 楽天の三木谷氏は以前、ライブドアとの球界への新規参入で男らしくない態度(?)をとったことがあるので、それ以来は応援するのを止めていた経緯があるが、今回の勇気ある行動に対しては応援したいと思っている。

反対署名を厚労省へ「ネットで薬が買えないと困る」

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不動産業界における矛盾(構造的な不況因子)

2009020701  東証1部上場企業の日本綜合地所が経営破綻した。負債総額は今年最大の1900億円にのぼるらしい。
 日本綜合地所というと、少し前にも『内定取り消し問題』で名を馳せた企業だが、内定を取り消された53名(全内定者)の学生達は今頃どんな心境なのだろうか?

 日本綜合地所が「内定取り消しは悪だ」という世論の声に従って内定取り消しを中止していれば、これらの学生達は補償金100万円を受け取ることもなく、自動的に入社前解雇ということになっていたはずだ。
 今回の日本綜合地所の経営破綻によって、「内定取り消しは悪だ!」とヒステリックに騒いでいた連中(主にマスコミ)も少しは目が覚めたかもしれない。(日本綜合地所には失礼だが)経営破綻することが目に見えている企業に無理に入社したところで何も得るものはなく、返って失うものが多くなるだけだということに気が付いたのかもしれない。

 経営破綻することが判っていながら1人につき100万円もの補償金を支払った日本綜合地所は、「内定取り消しを行った悪徳企業」というよりは、むしろ「良心的な企業」と言えるかもしれない。
 補償金100万円が、新入社員の5ヵ月分の給料と考えれば、慰謝料としては妥当なところであり、これ以上、日本綜合地所に文句を言う学生もいないだろう。
 もし、この期に及んでまだ「文句を言い足りない」「慰謝料100万円では安い」という人がいるのであれば、それは、この時期に上場企業という理由だけで安易(?)に『不動産業』を就職先に選択した学生側の責任も考慮するべきだろう。(この時期に53人もの雇用契約を結んでしまった日本綜合地所側にも“先行きが読めなかった”という意味では少しは責任があるのかもしれないが…)

 日本の不動産業界はアメリカのサブプライムローン問題が発覚する以前から、別の意味での構造的な不況因子を抱えていた。日本で耐震偽装問題が発覚した時点から、既に不動産業界が長期不況に突入するだろうことは目に見えていたことであるからだ。サブプライムローン問題がその不況に追い討ちをかけたことは事実ではあるが、それ以前から大きな問題を抱えていたのである。
 しかしその問題は、不動産業自体にあるわけではない。耐震偽装という不正行為を行なった建設会社があったことが問題なのではなく、耐震偽装を防止するために新たに作成された法律が問題なのだ。その法律(の山)がまるで岩山の如く不動産業の前に立ちはだかっていることが問題なのである。

 予めお断りしておくと、私は耐震偽装を行った不正企業を擁護する気はさらさらない。しかし、誤解を恐れずに敢えて言わせてもらえば、耐震偽装マンションだからといって人が住めないというわけではない。あくまでも定められた震度を超える地震が発生した場合に危険だというだけであって、大きな地震が発生しない限り、普通のマンションとなんら変わらないので、「その条件でもいい」と言う人がいれば、住む人がいてもおかしくないわけだ。
 リスクが高い分、家賃なども安くなるので、「それでも構わない」と言う人は必ず存在すると思う。ちょうど、賞味期限を過ぎた食べ物であっても、腐っていなければ構わないというのと同じ理屈だ。多少の賞味期限が過ぎていても販売価格を半額にすれば有り難く購入する人が大勢いることは誰にも否定できないはずだ。

 経済的な理由などから、木造の旧家屋に住んでいるような人であれば、耐震偽装マンションの方が安全とも言えなくはないので、家賃が安ければ住んでもよいという人は大勢いるだろう。
 『被害にあった時は自己責任』という条件さえ受け入れることができれば、耐震偽装マンションをゴミ(=資産価値0)のように扱う必要もないわけだ。それに、いかに耐震設計されたマンションだとしても、震度8や9の大地震が発生すれば倒壊しないという保証はない。そんな大地震が発生した時には、誰も責任は取れないのだから、法律に定められた震度などは必ずしも『補償』を意味するものとは言えない。想定を超えた大地震が発生すれば、そんな常識は一瞬にして崩れ去ってしまうからだ。

 耐震強度が足りないマンションであろうと、賞味期限を過ぎた食べ物であろうと、市場に流通させれば購入する人間は必ず現れる。しかし「それは危険だ」という一方的な理由で、お役人が介入して規制を行うと、マンションも食べ物も市場価値0のゴミと化してしまう。そのせいで、運悪く耐震偽装マンションを購入した人は売るに売れず、全く身動きが取れなくなる。
 『消費者を保護する』という目的のために安全第一主義に走り過ぎると、結局は目的を達成できなくなってしまう。これは大いなる矛盾であり、不動産業界における構造的な不況因子も、まさにこの矛盾から発生したものだと言える。

 再度、お断りしておくと、私は不正を行った企業に責任が無いと言っているわけではない。当然のことながら、不正は不正として厳罰に処されなければならないと思う。しかし、不正を行っていなかった真面目な企業や一般の消費者にまで迷惑が及ぶような法律は行き過ぎではないか?という疑問を常々抱いている。このことは私だけでなく多くの人が内心思っていることだと思う。
 日本経済が1日も早く不況から脱するためにも、この疑問に対する答えは追求していかなければならない。

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『年越し派遣村』の功罪【正社員神話の崩壊】

2009013101_2  言わずと知れたことではあるが、世の良識ある識者達の多くはマスコミの『派遣村騒ぎ』を「良し」とはしていない。こういった見せかけだけの弱者保護を唱ったところで事態は一向に好転せず、むしろ悪化する(景気も悪くなる)だけだということを多くの識者が述べている。
 しかしながら、一見、百害あって一利なしに見える『派遣村騒ぎ』にも思わぬ効用(?)があったらしい。その効用とは、『軽度の心の病(精神病)を患った人々が、派遣村騒ぎを見て復職しようとしている』というものだ。
 これは《派遣の次は正社員、その中でも休職中の正社員が解雇の対象者になる》という心理的な危機感が齎した効果であるらしい。

 彼らが復職しようと考えるようになった理由は、“派遣村の人々の姿を見たから”ではなく“不況の本質に気が付いたから”と言うべきかもしれないが、より具体的に言えば、“会社に行く”という不安感よりも“会社をクビになる”という恐怖心が大きくなってしまったということだろう。ということは、彼らは以前からそういった合理的な判断ができる精神状態にあったとも言えるわけで、本当に保護が必要な精神病患者ではなかったと言うこともできるだろう。

 今回の『派遣村騒動』によって幸か不幸か、今まで固定されたまま動かなかった【思考天秤】の左右の重さが逆転してしまったとも言える。
 その天秤の左側には“会社に行かずとも給料が支給されるという思考”、右側には“会社をクビになるという思考”が乗っていた。これまでは左側の天秤が圧倒的に重かったために、休職する理由を見つけることに羞恥心もなく、働かずに給料が支給されることにも何ら罪悪感を感じていなかった。しかし、正社員という立場も絶対的なものではないという当たり前の現実に気が付いたがために、天秤の右側が重くなってしまった。
 このことは、正社員であることが安全だという常識がもはや名実ともに成立しなくなったことを物語っている。正社員という肩書きさえあれば、会社に対してあらゆる権利を行使し、会社に保護されることを当然のことだと考えてきた人々が、もはや自分達を暖かく保護してくれるもの(会社)は存在しないということに気が付き始めた。これからは、企業に対してはテイク オンリー(奪うのみ)の姿勢ではなく、最低でもギブ アンド テイクの姿勢を持たない限り、雇用関係が成り立たないということに気が付き始めた。これは日本経済にとっては、ある意味でプラスであると言えるだろう。

 もちろん、本当に保護が必要な人には保護が必要だが、個人の努力如何によっては保護する必要がなくなる人にまで過剰な保護を与え続けることは無駄以外のなにものでもない。彼らは、《そんな不合理な社会システムがいつまでも続けられるはずがない》という至極単純な事実を発見したに過ぎない。

 現代のようなストレス社会では、精神を病んでしまう時があることは仕方がないとしても、いつまでもその状態にいることを是とし会社に依存することが当たり前となってしまっては、その会社はただの福祉企業となってしまう。
 お金が天から降ってくるものであれば、そういったボランティア企業の存在も許されるのだろうが、利益を出すことが難しくなってきた現在の企業環境下においては、そのような福祉企業は成り立たない。
 利益を追求しなくてもよい公の福祉団体は存在し得ても、利益を追求しなければならない民間の福祉企業などは本来、存在し得ない。今まで日本にそのような面倒見のよい企業が多数存在しているように見えていたのは、経済膨張期における錯覚、つまり、バブル経済が齎した陶酔的熱狂(ユーフォリア)でしかなかったのである。今回の派遣村問題で露(あらわ)になったものとは『正社員神話』の崩壊に他ならない。

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職業選択の有無は自己責任

2009012001  今朝、家を出る前に少しだけテレビ(みのもんたの朝ズバッ!)を観ていると、派遣切りされた労働者についてのニュースが流れていた。なんでも、派遣切りされた労働者達を気遣って慈善募集を行っている企業があるらしいのだが、肝心の派遣切り労働者からの応募がほとんどないというものだった。

 この件で珍しく司会のみのもんた氏と毎日新聞論説委員の与良正男氏の意見が対立していた。「甘い」と言うみの氏の意見に対して、与良氏が「甘いと言ってしまうとこの問題がそれで終わりにされてしまう」と述べていたが、はたして、どちらの言い分がまともと言えるだろうか?
 与良氏はこうも述べていた。「誰もが文化的な生活を営む権利がある」と。要するに「どのような立場にある人間であっても仕事を選ぶ権利はある」と述べているわけだが、はたして本当にそうだろうか?

 例えば、よくドラマなどで、生活費のない貧乏青年が空腹のため食堂の前で倒れ、その店の主人に食事を与えられて助けられるというようなシーンがある。その後、その店の主人は青年に対してこう言う「今後も食事を食べさせてあげるから、代わりに皿洗いをしてくれ」と。
 ドラマのシナリオでは通常、青年が御礼とお詫びの意味も込めて皿洗いの仕事を二つ返事で受け入れることになる。ここでもし青年が「皿洗いなんてやりたくない」「俺にも仕事を選ぶ権利がある」などと言ってしまえばどうなるだろうか?
 まともな神経をした人なら、「なんて恩知らずな図々しい奴だ」と思うだろう。
 しかし、どういうわけか、現実に国から『生活保護』という名の無償の援助(=食事)をもらった人間達に対してはそうは思わないらしい。

 与良氏の言う「誰もが仕事を選択する権利を有している」というのは確かにその通りだ。しかしその権利を得るためにはある条件を満たす必要がある。その条件とは何か? それは、『自ら自活できる』という条件だ。
 権利を求めるのであれば、まず義務を果たさなければならないというのは誰もが認めていることだ。例えば、税金を納めるという義務を果たした人間だけが、国民としての権利を得ることができるのと同じ理屈だ。中には税金を支払っていなくても権利を主張している人間もいるが、それらはあくまでも例外と考えるべきであり、基本は『働かざる者、食うべからず』であるべきだ。

 会社を解雇された時に、次の仕事を探す権利は誰にでもある。その権利を活かして次の仕事を探せばいいのだが、次の仕事が見つかるまでの生活費(経費)が必要になる。その経費を用意できる人間と用意できない人間の違いとは何かというと、『自活する能力』だ。
 不測の事態に陥った時に自らの力で対処できる人間であれば、権利の有無などを論じる必要がない。自活する能力があれば、同時に仕事を選択する権利も有しているわけだ。ところが、自らの責任で自活できない(=生活管理や貯蓄ができない)のであれば、次の仕事を探す余裕が無くなり、選択できる仕事の幅も自ずと縮小されてしまう。つまり、権利が無いのではなく、単に余裕(お金)が無いだけなのだ。そしてその余裕が無いのは、社会や会社の責任ではなく、自分自身の責任でもある。厳しく言ってしまえば、自分自身が自らの権利を縮小してしまっているだけのことなのだ。

 「甘いと言ってしまうとこの問題がそれで終わりにされてしまう」という意見もどこかおかしい。では逆に「甘くない」と言ってしまうとどうなるのか? 「甘くない」と言えば議論に花が咲くというのだろうか? 「甘い」か「甘くない」かを言い争った上で結論を導き出すのが本来のマスコミの姿ではないのか? 初めから「甘いと言ってはいけない」と言うのであれば、その言葉こそが問題をそれで終わりにしてしまう論法とは言えないだろうか? 「甘いと言ってはいけない」という一方的な決め付けに過ぎないのではないだろうか?

 もともと思想統一された感のあるテレビ局の司会者とコメンテーターの意見が対立するというのは珍しいケースだと言える。まさか「甘い」と言ったことで、みの氏が失言の謝罪をするなどということはないと思うが、司会者の口からうっかり本音が出たというのが今朝の番組の見所であったのかもしれない。

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危険な『年越し派遣村』への道

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 世間では「年越し派遣村」という言葉がすっかり定着した感があるが、その「年越し派遣村」に集った約500人の内の半数以上(受給希望者全員)の人に生活保護が支給されることが決定したらしい。
 この問題については、既に賛否両論が交わされているが、否定的な見解が多数を占めているようだ。と言っても、否定しているのは主にネット論者であり、マスコミの大半は相変わらず、肯定的な報道を行っている。

 先日、親戚の叔父と会う機会があり、今話題の「派遣切り」について少し話したのだが、そこでその叔父から次のような質問をされた。

 「派遣切りされたからといって、住むところもお金もないというのはおかしくないか?」と。

 私は少し考えた後、「なるほど」と膝を打った。それはそうだ。如何に派遣労働者の賃金が安い(?)とはいえ、蓄えが全くないということの方がおかしいのではないか? 正社員であれ非正規社員であれ、失業するというリスクを抱えている人間が明日の生活費も蓄えずに生活していることの方が問題ではないか? 派遣社員として働いて得た賃金を全て使用するという刹那的な生活をしてきた人間にも問題があるのではないか?
 半年、1年先の職場や生活の目処が立たないというのならまだ理解できるが、派遣切りされたからといって、明日の住む所もお金も無いというのは、自己責任でもあるのではないか?というのがその叔父の言いたかったことなのだろうが、これには私も同感だ。

 世の大企業の正社員であっても、社宅に住んでいる人もいれば、賃貸住宅に住んでいる人もいるし、持ち家に住んでいる人もいる。その正社員が会社をクビになった場合、社宅を追い出されるのは当たり前だ。賃貸に住んでいる人であれば、クビになったとしても家賃を支払う蓄えがあれば、家を追い出されることはないし、持ち家の場合もローンを支払う蓄えがあれば家を出る必要もない。
 つまり、もしもの場合の貯金をしてこなかったことが、住む所を失う原因であるということだ。食費の心配も同様に、もしもの時の貯金さえしていれば、すぐさま困ることはないわけだ。

 そもそも、一体いつから派遣社員には生活する住居がセットで供給されるようになったのだろうか? 派遣社員には住む所を提供しなければならないというような法律でもあるのだろうか? 昔の出稼ぎ労働者であれば、企業から期間限定の社宅や寮のようなものが提供されるようなことがあったと思うが、現在、問題になっている派遣労働者とは、全て出稼ぎ労働者のことなのだろうか?
 しかし仮に出稼ぎ労働者であったとしても、給料の全てを家族の元に仕送りしているわけでもないだろう。住む場所を提供されているということは、少なくとも住居費は浮いているわけだから、その分、貯金する余裕ぐらいはあったのではないのだろうか? 酒やタバコやギャンブルもせずに真面目に派遣労働者として生活している人間が、明日の生活費も無いというのはどう考えても合点がいかない。

 「年越し派遣村」に集った人間に支給される生活保護費は12万円ということだが、そのお金は元をただせば国民から集めた税金であり、国が錬金術を用いて用意したわけではない。それでも支給するというのであれば、借用書付きで支給するべきだ。新しい職場が見つかり、無事に職に就くことができれば、その生活保護費は自己の責任において返却するべきだろう。無論、返却すべき相手は国ではなく税金を支払った国民にだ。

 生活保護というものは本来、本当に働けない人間や障害を持った不自由な人に対してのみ支給すべきものであり、単に仕事が見つからない人や働く気のない人まで対象者に入れてしまうと、その恩恵を利用して生活保護費を手に入れようとする集(たか)りのような輩が大挙として出てくることは想像に難くない。国の社会保障が行き過ぎると、かつての共産主義国家のような「衰退」という名の暗雲が国家を覆うことになる。
 「弱者を保護する」という言葉は美しい。逆に「弱者を叱責する」という言葉は醜く聞こえる。
 しかし、何度も述べたが、地獄へ至る道は綺麗に舗装されている。「生活保護」という甘い言葉に付いていくと、その先にあるのは奈落でしかない。

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『ペット税』よりも重要な『ペット罰則金』の導入

2008123001 自民党の動物愛護管理推進議員連盟(会長は鳩山氏)が、『ペット税』の導入に向けた議論を近く開始するらしい。
 現在、全国の自治体に引き取られるペット数は毎年37万匹を超えている(その内34万匹が殺処分されている)が、環境省は21万匹までに制限する方針を3年前から打ち出している。早い話、殺処分されるペット数を減らすことが目的だが、財政難にあえぐ自治体は、その対策費を補うために『ペット税』というものを思い付いた(?)らしい。

 ペット税の税収は以下の3点に利用されることになっている。

 1、ペットと飼い主の特定につながる鑑札や体内埋蔵型マイクロチップの普及
 2、自治体が運営する動物収容施設の収容期間を延長するための運営費
 3、マナー向上の啓発運動費用

 一見、妥当な利用例に見える。しかし、問題は税収を如何に使用するかではなく、どういう名目でペット税を徴収するかである。そして、ペット税を導入することでペットを取り巻く環境を改善することができるかどうかである。

 報道されている記事によれば、ペットを購入する際に消費税と同じように料金に上乗せという形でペット税を徴収するらしいが、はたしてペットの購入代金が少し上がるだけで、飼い主のモラルを向上させる(=ペットを捨てないようにする)ことに繋がるのだろうか?
 私はてっきり、ペットを飼う人に毎年、ペット税を支払う義務を付加するものと思っていたのだが、どうやら、そうではないらしい。

 ペットを飼うことで毎年、ペット税を支払わなければならないということであれば、安易にペットを購入することに歯止めをかけることができるので、少しはペットを飼う人間に責任を負わすことが可能になるかもしれない。しかし、“ペットを飼う”ではなく“ペットを買う”時にのみ税金を支払うだけでは、ほとんど意味がないと思える。「高い買い物をすればペットを大事にする」というような短絡的な発想から生まれた税であれば、結果がどうなるのかも大体の察しが付いてしまう。仮に、税収が活かされたとしても“ペットを取り巻く環境はさらに悪化する”という結果を齎すことになる可能性が高いと思う。

 元々、善良なモラルを持った飼い主にはペット税などというものは必要ない。最後までキチンと面倒をみることができる飼い主であれば、タダでもらったペットであっても大事に育てることができるはずだ。そういった善良な飼い主にまでペット税(買う税、飼う税の両方)の負担を強制するというのも考えものだ。
 現在は空前のペットブームであり、子供よりもペットの方が多いというような状況だ。孤独な老人などにとって、ペットは非常に重要な存在であり、まさに家族の一員と呼ぶに相応しい存在と化している。そんなペットを必要としている人達が、経済的な理由でペットを買う(飼う)ことができなくなってしまっては本末転倒もいいところだ。
 大事なことは、“ペットを飼う人を減少させること”ではなく、“ペットを捨てる人を減少させること”だ。飼う人が減少すれば捨てる人も減少するだろうが、その割合が減少しなければ改善したとは言えない。数字が減少しただけでは、モラルが向上したことにはならない。ペット税を導入することによって、結果的にモラルが向上しなければ善なる循環は生まれない=ペットを取り巻く環境も改善しない。

 しかしながら、飼い主のモラルを向上させることは、どんな方策を取ったとしても難しいと言わざるを得ない。それなら、お役人らしく毎度のように罰則を設ければいい。ペットを捨てた人間には、電化粗大ゴミを捨てた人間と同様の罰則でも設ければいいのではないだろうか? わざわざ全ての飼い主からペット税を徴収せずとも、モラルの無い飼い主から罰則金を徴収するようにした方が得策だろう。
 「捨てられたペットから飼い主を割り出すためには、ペットの体内埋蔵型マイクロチップが必要となるのでペット税は必要だ」というような意見もあるかもしれない。しかし、それは結局、モラルが無いと言っているのと同じことだ。マイクロチップを導入したとしても飼い主のモラルが向上するわけではない。モラルが向上するのではなく、罰則を恐れるようになるだけだ。つまり、ペナルティーを科すことでしかペットを取り巻く環境を改善することは難しいということだ。

 結論として言えることは、一律平等に全ての飼い主からペット税を徴収するよりも、違反行為を行った飼い主からのみペット罰則金を徴収した方がよいということだ。そのどちらにせよ、税金(または罰則金)を徴収する無駄な省庁部門が出来ることになるだろうが、それはモラルの低下した国民の責任でもあるので、甘んじて受け入れるしかないだろう。
 逆説的な結論を述べるならば、国民のモラルが向上すれば無駄な省庁もいらなくなり、日本経済も上向くことになる。国民のモラルが低下すればするほど、無駄な省庁機関が焼け太りすることになる。つまりは、モラルの向上は景気の向上を齎すということだ。

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理容業界の攻防(3600円 vs 1000円)

2008122601  1年前に当ブログで『床屋の経済学』と題して、現代の理髪店の姿を簡単にレポート(?)してみた。基本的に、これからの理容業界は自由競争の波に逆らうことはできないという結論を述べた。しかし、最近どうもその波に逆らおうとしている勢力があるようだ。

 現在は、整髪料金が3500円程度と1000円以下という3倍以上も料金設定が違う理髪店が混在している。昔からある既存の理容店は組合が設定した基本料金3600円を維持し続け、新規参入の理容店(以下、カットサロンと述べる)はQBハウスを筆頭に速くて安いことを売りに低料金を追求し続けている。

 いくらサービスが違うといっても、さすがに料金が3倍も違ってくると、不景気の煽りもあって、自然とお客は安い方に流れていくことになる。既存店はこれら新規参入店の猛威に畏怖したのか、ついにお上に泣きついたしまったようだ。
 全理連【全国理容生活衛生同業組合連合会】は、理容店や美容室に洗髪設備の設置を義務づける条例改正を提案したそうだが、どうやら2009年4月施行の見込みで可決されそうな雲行きだ。

 大部分の店舗に水道設備を設置していないQBハウスでは、カットした髪を専用ホースで吸い取る方式を採用している。しかし全理連は「吸引では、頭髪の付着物が完全には除去されず不衛生」だということで、洗髪台の設置の義務化を請願したらしい。
 しかし、もしこんな法令が施行されると、QBハウスだけでなく全国のカットサロンが新たに出店できないという大迷惑を被ることになり、安いカットサロンを利用してきた消費者も間接的に迷惑を被ることになる。(ちなみに私は既存店を利用している)

 QBハウス等のカットサロンが、昨今の食品加工会社のように衛生上で何か問題を起こしたというならまだ理解できなくもないが、今回の場合は何も問題は発生していない。別に消費者から「不衛生だ」という苦情があったわけでもない。
 大体、消費者からの苦情などはあるわけがない。なぜ? 苦情があるなら、店を変更すればいいだけだからだ。その不衛生な店に行き続けなければならない理由がないからだ。
 消費者は自らが納得した理容店やカットサロンを選ぶことができるのだから、不衛生だと思われる店が存在すれば、誰も客が寄り付かなくなり、放っておけば市場から淘汰されることになる。このことからも、わざわざお上が衛生上の問題に口出しする必要があるとは思えない。これはどう考えても『言い掛り』か『嫌がらせ』としか思えない。そもそもカットした髪が不衛生だと言うのであれば、それは本人の問題であって、カットサロンの問題ではない。

 確かに既存の理容店を観ていると、お客が激減し気の毒に思うことはある。しかし、だからといって、消費者無視の取って付けたような理由で新規参入店の締め出しを行うというのは考えものだ。
 タクシー業界では、深夜、免許を持たない安価な料金の『白タク』が蔓延り、よく警察に摘発されているそうだが、カットサロンは無免許で商売しているわけではない。ギリギリの料金でしのぎを削って商売を行なっているだけだ。その姿勢が気に入らないというお上の勝手な都合で、後付けの法律を付け足して規制(=業界からの締め出し)を行なうなどは、お門違いも甚だしいと言える。

 それでも「どうしても既存店を保護しなければならない」と言うのであれば、逆にカットサロン側にこう言えばいい、「料金を上げてくれ」と。「料金を2000〜3000円にしてくれ」と懇願すればいい。そうするとどうなるか? 消費者の足はカットサロンから既存店に向かうか? 確かに一部は向かうかもしれないが、余程、サービスアップしない限り、既存店がお客を取り戻すことは難しいだろう。そして消費者からの苦情が殺到することも間違いないだろう。

 元々、設備の乏しいカットサロンが既存店との差を埋めるために、企業努力をすることによって為し得たサービスに対抗するためには、同程度の企業努力を伴わない限り、挽回することはできないはずだ。元々、ハンディを背負ったカットサロンが、努力の上に為し得たシステムに対抗するものが、『お上の過保護な規制』では成功するはずもあるまい。
 努力しない者が努力した者に勝るような不公平な世の中を維持することだけはしてほしくないものだ。

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『無学問のススメ』を説く文部科学省

2008121601 橋下知事の「文科省はバカ」という発言が話題となっている。
 文部科学省は、次回テストでの情報管理を徹底する方針(特定のデータを提供しないこと )を表明した。
 市町村別成績データを開示した大阪府に対しての嫌がらせ(?)とも受け取れる措置をとったためか、橋下知事がキレた恰好だ。
 
 しかしなぜ、文部科学省の役人は成績データを公表することに抵抗するのだろうか? 私が思うに、どうも文部科学省は、現状の教育システムに固執するあまり、平等教育という建前社会に依存しなければ存在価値を見出せなくなっているのではないかと思う。
 
 社会学者の山田昌弘氏の『少子社会日本』という本の中に、官僚社会では、『平等』という建前だけは絶対に崩せないということを端的に表した箇所がある。
 
『私は、1994年頃から、日本では、収入の低い男性が結婚しにくいという事実を何度も指摘してきたし、単行本(『結婚の社会学』)にも書いてきた。この事実を公表しようとすると、様々なところからストップがかかった。新聞では表現を和らげるよう求められた(例えば、収入が低い→経済的に恵まれない)。自治体はこの事実を軒並み隠そうとし、削除を求めたり、有無を言わせず報告書から削除した自治体もあった。理由は、この事実を公表すると、低収入の男性はますます結婚できなくなり、差別を助長するというものであった。政府の研究会でも、多くの委員の方は理解してくれたが、ある官僚に「大学の先生はいいな、私が山田君のようなことを発言したら首が飛ぶよ」と言われたしまった。』(山田昌弘著『少子社会日本』より)

 このエピソードからは、官僚が公の場で格差を認めるような発言をすることは御法度だということが分かる。国民の税金を如何に無駄遣いしようと、ほとんど罪を問われない官僚達が、格差発言をするだけでクビになってしまうというのは、実に驚くべきことだ。まさに彼らは、『平等』という建前を信奉することによってのみ、その職務に就くことが許されている存在であると言えるのかもしれない。要するに、彼ら官僚達は、すべからく、社会(共産)主義者でもあるということができる。
 
 建前を重んじる彼ら官僚達にとって、競争原理などというものは、およそ理解し難い価値観であるのかもしれない。いや、理解し難いのではなく、理解できたとしても受け入れることができない価値観であると言った方が正解かもしれない。
 
 文部科学省の官僚達にとって困るのは、成績データを公表することではなく、実は成績データを公表することによって、人によっては学習格差があることを証明してしまうことなのかもしれない。
 少し前に、運動会で競争格差ができるのはマズいということで、生徒が手をつないで同時にゴールインするという笑い話としか思えないようなことが実際に行われていたそうだが、まさにこれと同じ理屈で、成績データを公表したくないのかもしれない。
 
 しかし、いつまでもこういった悪平等教育のままでは、確かに橋下知事の言う通り、「国民は不幸」だと思う。現在の文部科学省の教育は、福沢諭吉の『学問のススメ』とは全く逆の教育を行っていることになる。つまりは、『無学問のススメ』になる。
 これでは、日本の教育レベルが低下するのは至極当然の結果と言える。そして格差はいつまで経っても固定されたままとなる。悪平等教育を続けなければならない理由が、“国民の教育のため”ではなく“官僚の保身のため”だというのであれば、国民は不幸以外のなにものでもない。
 
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『派遣社員制度』と『年功序列制度』の関係性

 派遣社員の派遣切り(人員削減)が問題となり、大きくクローズアップされている。そのせいか、派遣社員を擁護する立場を表明する政治家も出てきつつあるようだ。
 
 この問題は少し複雑であるためか、問題の本質を見失いがちだ。この問題は、物事を片面でなく両面から観ない限り、非常に偏った意見になってしまう。
 例えば、「派遣社員は永遠に1社で雇用するべきだ」というような不可思議な意見と、「派遣社員は正社員ではないのだから、いつカットされても仕方がない」というぶっきらぼうな意見に分かれてしまう。そのどちらも短絡的な偏った意見であることは否めない。

 21世紀になってから日本経済自体が成熟期(=低成長時代)を迎えたことに気がついた多くの企業は、仕事の一部をアウトソース(=外注)するという手段を用いるようになった。このことはもはや周知の事実であり、仕事を外注することを否定するような人はいない。今時、「仕事を外注せずに社内で行え!」とか、「仕事を外注せずに正社員を増やせ!」とか言っているような人は、極めて少数派であることは間違いないだろう。
 
 企業が正社員ではなく派遣社員を意図的に雇用しているのも、まさしく上記の「アウトソース」と同じ理由による。要するに、“企業経営におけるリスク回避”という目的のために、派遣社員制度が導入されているわけだ。
 派遣社員にすることで、人件費を削減する理由があることは言うまでもないが、もう1つ重要なことは、正社員と違って「融通が利く」という理由もある。その中には、残念ながら『仕事が無い時はいつでも解雇できる』という理由も含まれている。
 
 …と言っても、話はここで終わりではない。もう少し、この問題の原点に戻って考えてみよう。
 確かに派遣社員制度は、現在の多くの企業にとっては必要不可欠な制度となっている。派遣社員制度を利用せずに、全て正社員として雇用してしまうと、仕事が減少した時には正社員を解雇せざるを得ない状況に追い込まれてしまう。
 ゆえに「派遣社員制度は必要だ」と言う意見は一見正しく聞こえる。しかしそれには条件がある。
 それが正しいと言えるのは、派遣社員制度というものが本当に“企業経営のリスク回避”という目的で利用されている場合だけであって、決して“正社員の地位を守るため”という理由であってはならないということだ。
 その企業における派遣社員制度の利用目的によっては、派遣社員制度の導入は、善にも悪にもなるということを見落としてはいけない。

 しかし、多くの非正規雇用否定論者(派遣切り否定論者)は、ここを見逃している。
 単に「派遣切りは悪だ!」と感情的な意見を述べるに止まっている政治家や評論家のいかに多いことか。
 派遣切りにも様々な理由によるものが存在することを考えず、派遣社員制度というものが存在している時代的背景も社会的背景(これが1番重要)も考えない。こんなのはただの『飯事(ままごと)論議』と言える。問題の本質を考えようともせずに、「派遣切りは悪だ!」などと叫んだところで、一向に問題は改善しない。むしろ悪くなるだけだ。
 
 企業内の合理化を行った上での派遣社員制度の導入は間違いではない。しかし、企業内が不合理なままで、自らの不合理さの帳尻を合わすという目的だけで派遣社員制度を導入することは間違っている。そして企業経営の悪化における前者の派遣切りは仕方のない判断と言えるが、後者の派遣切りは、結局は手前勝手な派遣切りと批判されても仕方がない。
 具体的に言うと、年功序列制度という年長者の既得権益を維持するためだけに、派遣社員制度を導入することは間違っている。なぜなら、その歪な給与体系を見直せば、さらに多くの正社員を雇用することができるからだ。同じ理由によって、派遣切りも最小限に抑えることができるはずだからだ。
 
 この問題を1企業ではなく全国的な視点に置き換えて考えれば、派遣社員問題の本質はさらにクッキリと浮かび上がる。日本全国の既得権益者達の歪な年功序列制度というものを見直せば、多くの正規雇用者が確保できるということだ。
 私は(双方共に)自由のある派遣社員制度が悪いとは思わないが、政治家が「非正規雇用や派遣社員制度が悪い」と言うのであれば、同時に年功序列制度も否定するべきだろう。派遣切りを否定するのであれば、お役所やマスコミを中心とした歪な既得権益をこそ否定せよと言いたい。それができないのであれば、その人物は物事の本質を理解していない似非論者か、あるいはただの偽善者でしかないということだ。
 
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『内定取消』問題から見えた『失われた15年問題』

 つい最近まで、「バブル期を超える就職超売り手市場」だと騒がれていたかと思っていると、今度は一転、再度「就職氷河期」でもやってきたかのような騒ぎになっている。そのことを象徴するものが「内定取消」という言葉だ。新聞、テレビに所狭しと「内定取消」という言葉がこだましている。
 
 学生は大体、春から夏にかけて企業から「内定通知」というものをもらうことになっている。通常、学生の方から内定を辞退しない限り、半年後にはめでたく入社という運びになるのだが、その待機期間中に企業側から内定を取り消されると、就職活動の努力が水泡と化したような気分になってしまう。実際にそう感じている人も多いと思う。
 私も転職活動中、職に就いていない空白の期間を過ごしたことがあるので、内定を取り消された学生の気持ちはある程度は理解できるし、同情も禁じ得ない。しかし、このところの「内定取消は絶対悪だ!」「内定を取り消した企業を公表しろ!」とかいうマスコミの論調には辟易としている。
 
 「企業=悪」という発想しかできない政党も相変わらず、愚にもつかない批判を行っているようだ。民主党の菅氏に至っては、「企業が内定取消をできないような法整備が必要」との見解を示しているようだが、これには呆れてものも言えない。こんな馬鹿な意見が政治家から出てくるのだから、まるで『政治ごっこ』の世界だ。
 企業が内定を取り消さなければいけなくなった原因は不況にあり、その不況原因の半分以上は、実は役人の無意味な規制強化によるところが大きい。このことからも、政治家が糾弾すべきは企業(結果)ではなく、官僚(原因)の方だと言えるが、完全に原因と結果を履き違えてしまっている。

 そもそも、企業自体も自社のイメージダウンにしかならない「内定取消」などは本来行いたくないはずだ。それでも「内定取消」を実行せざるを得ない状況に追い込まれていると考えるべきだ。
 そんな経営状態の企業に余剰人員として無理に入社させてもらっても、給料カット、ボーナスカット、おまけに仕事も無いという三重苦を経験することになるのは目に見えている。最悪、入社した途端に解雇や倒産すら有り得るかもしれない。その場合のショック(または被害)は、内定取消以上に大きなものになるかもしれない。
 
 企業が内定を取消できないような法律ができてしまうと、企業はおいそれと学生に内定通知などを出すことができなくなる。いや、むしろ、内定という制度自体が無くなってしまう可能性がある。企業は、仕事の有る時にだけ採用するいう手段を選択せざるを得なくなるだろう。それこそ、学生達にとっては悪夢のような社会かもしれない。要するにそれは、仕事の有る時にだけ採用し、仕事の無い時には誰も採用しないという、まさに派遣社員の採用制度と同じものになってしまうということだ。政府は、一方では「派遣社員を正社員に」と述べておきながら、一方では、派遣社員制度を拡張していることになる。その馬鹿さ加減に気が付くべきだろう。
 
 余計なお世話(アドバイス)かもしれないが、長い眼で考えると、「あの時、内定取消になって良かった」と思える人も実際に出てくるはずだ。「人生万事塞翁が馬」という諺もある通り、何が幸いするか分からないのが人生だ。
 大体、これからの時代は、どんな優良な企業であっても、一生安泰などということは有り得ない。国や企業が自分の人生の面倒をみてくれるような有り難い時代は既に終わったと考えた方が人生にとってはプラスだと思う。内定取消程度で、大騒ぎしていられるのも今のうちだけかもしれない。上記の理由(政府の馬鹿さ加減)によって、そうなる可能性が高いと考えた方がよいかもしれない。
 
 どうやら現在の政治家達の頭の中はバブル期のまま停止しているようだ。一昔前の“企業に入社すれば人生安泰”というような時代認識を持っていなければ、こんな馬鹿な意見が出てくるはずがない。『失われた15年』とはまさに、政治家達の頭の中が15年間思考停止していたことの証明であるのかもしれない。

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消費者団体の曲解(“追求”と“追及”)

 先週、マンナンライフのこんにゃくゼリーの製造再開の報道がなされた。マンナンライフ側は再発事故防止策として、以下の3点を実施した。

 1、外袋に大きな文字で「老人と幼児は食べないでください」と表記
 2、外袋だけでなく中身の1つ1つの容器にも警告マークを追加
 3、こんにゃく粉の割合を少なくして弾力性を低下させた

 この3点を見る限り、個人的にはこれで充分な対策だと思える。元々、老人と幼児さえ無理して食べなければ事故は起こりえないのだから、消費者さえ気を付ければ事故が再発する可能性は無いに等しい。

 しかし、案の定と言うべきか、ユニカねっと(消費者主役の新行政組織実現全国会議)という消費者団体が「事故の再発の可能性が否定できない」ということで販売の見送り声明を発表したらしい。同時に、この団体は、消費者庁関連法案の即刻審議入りを求める声明も発表しているようだが、どうも胡散臭い雰囲気が漂っている。

 ユニカねっとは、「客観的なデータに基づいて安全性が担保されない限り、安易に製造・販売を行うべきではない」と述べているそうだが、これが消費者団体を名乗る組織の台詞なのか?と疑いたくなる。一体どこまで『消費者保護』というお節介を焼いたら気が済むのかと言いたくなる。消費者を保護する姿勢はご立派だが、少しは製造者や消費者の迷惑も考えてもらいたいものだ。
 こんなのはハッキリ言って、チンピラのイチャモンの類いに過ぎず、ただの“マンナンライフいじめ”にしかなっていない。『安全性を担保する』などは、どんな食料であろうと不可能なことであり、無理な相談以外の何ものでもない。この世の中に100%安全な食料などというものは有り得ない。逆に、この団体が100%安全なものだと認めた商品で事故が発生した場合は、その責任が取れるのか?とお聞きしたいものだ。

 こんな無理難題なことを言い出すと、車もバイクも、およそ事故が起こる可能性のあるもの全てが製造も販売もできないということになってしまいかねない。こんな馬鹿な論法が通用するのであれば、フグ料理などは世の中から消えて無くなることになる。例えば、料理人のミスでフグの毒にあたった人が死亡したとすれば、全国の罪のないフグ料理屋が全て廃業に追い込まれることになる。そんな無茶苦茶なことが正しいと言えるだろうか?
 あるいは、タバコについても同じことが言える。タバコを吸って病気になる可能性がある(実際にある)のならば、タバコの製造も販売もできないはずだ。

 常識的に考えれば、ダイエット目的に製造されたこんにゃくゼリーよりも、百害あって一利なしの有害なタバコの方が規制の対象になってしかるべきはずだ。タバコを吸うことに対しては個人の自己責任(事故責任?)を適用する反面、なぜ、こんにゃくゼリーには自己責任を適用せずに、国(消費者団体)が管理しようとするのか?

 タバコは置いておくとしても、お餅・おにぎり・だんご・饅頭など、喉につまりそうな食べ物など数え上げればキリがない。その全てを危険だと言って販売規制などを行っていたのでは、何も食うものが無くなってしまい、とどのつまり、食文化、延いては人間社会の否定になってしまう。

 以前にも当ブログで、こんにゃくゼリーについては述べさせてもらったが、こんにゃくゼリー自体には元々、罪は無いのだ。製造者であるマンナンライフが殺人目的でこんにゃくゼリーを製造したわけではないだろうし、消費者も自殺するつもりでこんにゃくゼリーを食べているわけではない。製造者と消費者双方のほんの僅かな油断と不注意が悲しくも痛ましい事故を発生させてしまったというだけに過ぎない。誤解を恐れずに言わせてもらえば、単なる不慮の事故でしかなかったのだ。

 消費者団体が行うべきことは、二度とこのような事故が起こらないように消費者に注意を促すことであって、商品や消費自体を無くすことではないはずだ。
 商品を買う・買わない、商品を食べる・食べないを判断するのは、あくまでも一人一人の消費者であって、消費者団体ではないはずだ。消費者団体の仕事とは、製造者と消費者の間に立って、安全な食文化を追求することであって、加害者を追及することではないはずだ。
 消費者団体の本来の仕事とは、“安全を追求する”ことであって、決して“危険を追及する”ことではないのである。

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『文民統制』よりも危険な『情報統制』

2008111601 田母神論文問題がテレビ番組(サンデープロジェクト)で取り上げられたので、観てみた。他のテレビ番組では、とにかく「軍部の独走は危険だ」とか「日本のシビリアンコントロールは大丈夫か?」というような一方的な批判ばかりなので首を傾げていたのだが、ようやくマトモな意見も聞くことができたという感想を持った。
 しかし、田母神論文に肯定的な2名(志方俊之氏と潮 匡人氏)と軍事ジャーナリストの田岡俊次氏の態度が実に対照的だった。志方氏と潮氏は冷静に意見を述べているように見えたが、田岡氏の感情剥き出しの態度はお世辞にも良いとは言えず、視聴者に対してマイナスイメージを与えてしまっているように見受けられた。

 司会の田原氏いわく「ネットの世界では田母神氏は英雄扱いになっている」と言っていた。実際にネットのアンケート調査では、田母神論文は問題無しという意見が6割を占めているそうなので、民意としては「田母神氏の意見に賛成」ということなのだろう。
 田母神氏の論文が歴史認識的に正しいか間違っているかは置いておくとして、田母神氏がマスコミに対して述べていることは確かに正論であるし、筋が通っている。
 
 シビリアンコントロールというのは、『文民統制』という意味で、“国民が軍部の独走を防ぐことができる”ことを意味している。マスコミは今回の事件で、それができていないと言いたいらしいが、全く馬鹿げている。
 大体、田母神氏は「戦争を起こせ!」と言っているわけではない。単に日本の歴史認識が誤っているという意見を論文を通して述べているだけだ。仮にその論文が正しいものだったとしても戦争の肯定にはならないし、戦争に発展するわけでもない。逆に論文の内容が間違っているのであれば、どこがどう間違っているのかを指摘すればいいだけだろう。
 ならば、マスコミの仕事は、その論文の内容自体を精査し、意見を交わすことによって、歴史的な真実を追究することにこそあるはずだが、論文の内容にはほとんど触れず、形式的な無意味な批判ばかりを繰り返しているように見える。
 
 国民の大部分が「戦争責任がない」と思っている国で、「戦争責任がある」と言う人が出てくれば非難の的になるのは仕方がないかもしれないが、国民の大部分が「戦争責任がある」と思っている国で、「戦争責任がない」と言う人が出てきても非難の的となる。これはよく考えると実に可笑しな現象と言える。要するに、「自国が悪い」と言っているわけではなくて、「自国は悪くない」と褒めているわけだ。はたして、自国を褒められて、国民から非難の嵐が吹き荒れるような国が有るものなのだろうか?
 しかし、実はそんな国が存在している。どこに? ここに。この事件によって、日本が自虐国家であることだけは証明されてしまったとも言える。
 その自虐史観というものが、歴史の真実によって齎されたものなのか、それとも歴史の歪曲によって齎されたものであるのか、そのことを追究する姿勢が、現在の日本政府には無いように感じられる。まるで「日本が悪いということにしておけば問題はない」と言わんばかりに…。
 
 国会での田母神氏の証人喚問はテレビ中継されなかったが、これも国民の知る権利を無視した、およそ民主主義国家にあるまじき情報統制以外のなにものでもなかったと言える。文民統制だと騒いでいる政府やマスコミが、実は平然と情報統制を行っている。言わば、軍部の独走ではなく、国家の独走になってしまっている。そのことこそ、国民にとっては、はるかに危険なことでもある。

 本音を述べれば、田母神氏も中山氏同様、日本のタブーに触れてしまったということなのだろう。今まで、田母神氏のような意見や中山氏のような意見は、保守系の雑誌や書籍、あるいはネットの世界でしか目にすることはなかったが、なぜかテレビという大衆の目に触れる電波に乗り出してしまった。インターネットなき社会では、大衆の世論操作はいとも容易く行われたが、現代のような開かれた情報化社会では、世論操作などを行ってもすぐにバレてしまう。そして、この本音を述べる流れは止められそうもない。これらの事件は、もはや、閉ざされた社会を国民は欲していないということの証明であるのかもしれない。

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『パンの早食い』から『ゆとり食事』へ(?)

2008102501

 前回、パンの早食い死亡事故について感想を述べた。基本的に今回のケースでは学校側や教師には責任が無いということを述べた。しかし、現実はどうかというと、案の定、学校側が謝罪してしまった。事故があった小学校の校長いわく「早食いを誘発する状況があった。申し訳ないことをした」ということらしい。

 おそらくこの謝罪会見を見た視聴者の大半は「えっ?なんで学校が謝るの?」と思ったに違いない。あるいはこう思ったかもしれない「毎度の建前だけの謝罪会見か…」と。謝罪する側もおそらく内心こう思っているはずだ「とにかく謝罪さえしておけば波風を立てることもない。無意味なことは解っているが、この国の教育体制ではこうするしかない」と。つまり、謝罪の目的は“世論という長い物に巻かれること”になってしまっており、決して“物事の本質を追求した上での結論”にはなっていないということだ。

 自分の子供が学校で死亡した場合、子供の両親がその責任を学校側に求める姿勢は理解できなくはないが、死亡した原因が『早食い』にあると判明したのであれば話は別だ。校長は「早食いを誘発する状況があった」と述べているが、学校や教師が早食いすることを勧めていたわけではないだろう。また、早食いをしなければならない程に給食時間が短かったわけでもないだろう。早食いすることがいけないことだというのなら、その躾けを行うべきは教師ではなく親の方だろう。そもそも小学校6年生にもなって「躾け」云々などということ自体が既におかしい。小学校6年生にもなって、そんな躾けができていなかったことに原因を求めるのであれば、それは学校の責任ではなく親の責任であることを自ら認めているのと同じことだ。

 それに、教師による生徒への体罰という名の躾けを批判してきたのは、他ならぬ保護者達ではなかったのか? 教師から子供に注意することを良しとしない教育環境を創り出したのは、一体誰だったのか?とお聞きしたいものだ。もちろん、日教組などにもその責任があるかもしれないが、モンスターペアレントという存在にもその責任があるのではないのか? どちらにせよ、責任を他に転嫁することが常態化した現代の日本の風潮にこそ問題があると言える。役人から庶民に至るまで“自ら責任を取らずに他人のせいにする”という日本全体を覆っている無責任体制こそが大きな問題だとも言える。そしてそんな誤った社会に対して警鐘を鳴らすべきマスコミが、無責任体制の一翼を担っているという滅茶苦茶な構造が出来上がってしまっている。

 例えば、飲み屋である人が周りから煽られて一気飲みを行って死亡してしまった場合、その責任は誰にあるだろうか? まともに考えれば、一気飲みを勧めた周囲の人間か、一気飲みをしてしまった本人ではないだろうか? まさか一気飲みを止めなかった飲み屋ではないだろう。酔っている人間にはアルコール中毒となって事故が発生するかもしれないと判断することができないので、一気飲みを止めなかった店側が悪いというのでは無茶苦茶だ。

 上記の“酔っている”を“躾けができていない”に置き換えてみよう。
 躾けができていない小学校6年生のパンの早食いを止めることができなかったのは、学校の責任? そんな暴論が通用するのは、本当に躾けができていない保育園児くらいのものだ。

 このまま『早食いはいけない』ということが定着してしまうと、テレビ番組の早食い競争は制作中止になるかもしれない。『ゆとり教育』ならぬ『ゆとり食事』が定着し、ますます世界の辺境国家となってしまいかねない。こんな馬鹿な建前国家をいつまでも演じていては、日本の将来は暗いと言わざるを得ない。

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『食のシンクロニシティー事件』からの教訓

2008102301 こんにゃくゼリー問題がようやく落ち着いたかと思うと、今度は給食のパンを早食いした小学生がパンをノドを詰まらせて死亡したという痛ましい事件があった。このニュースは既に皆さん、ご存知の通りだと思う。
 都合悪く(?)この新たな事件が発生したことによって、こんにゃくゼリーを擁護する意見もチラホラと出てきつつあるようだ。まるで問題提起を起こすことが目的であったかのように発生したこの事件によって、人々は少なからず冷静さを取り戻しつつあるのかもしれない。

 今回の事件で死亡したのは小学校の6年生であり、死亡した原因はパンが大きかったからではなく、パンが固かったからでもない。悪ふざけをしてパンの早食いをしたことがそもそもの原因らしい。ゆえにマスコミも“パンが悪いわけではない”ということが理解できるのか、さすがにパンを責めるような記事は書いていないようだ。しかし、責任の矛先を今度は『学校』に求めてしまっているようだ。“教師の監督不届き”というのが、事件が発生した原因だということらしい。しかし、これは全く馬鹿げていると言える。
 
 もし、「小学校6年生の早食いを監視していなかった教師が悪い」と言うのなら、「こんにゃくゼリーを食べることを監視していなかった親が悪い」と言うのと同じ理屈になってしまう。自分で判断することができる小学校6年生を監視しなければならないというのであれば、自分で判断することができない乳幼児であればなおさら監視の目が必要ということになる。このことからも、これがいかにデタラメな暴論であるかが理解できると思う。それともマスコミは「親は監視する必要はないが、教師は監視する必要がある」とでも言うのだろうか?
 
 「学校や教師が悪い」などというような意見が通るのは以下のような場合だけだ。
 
 1、物事の善し悪しを判断できない保育園児や幼稚園児の場合
 2、いじめや強制でパンを早食いさせられた場合
 3、教師が無理矢理にパンを食わせた場合
 
 考えられるのは、せいぜいこれくらいのケースだ。体育の授業でプールで溺れたとか、熱があるのに無理矢理に走らせて死亡したというのなら、教師の監督責任と言えなくもないだろうが、生徒個人が悪ふざけをして死亡してしまったのなら、それは自己責任以外の何ものでもない。死亡してしまった小学生には同情するが、どう考えても他に責任を転嫁できる事件とは思えない。
 
 今回の事件では国(野田聖子女史)はどんな判断をするのだろうか?と多くの人が注目しているようだが、こんな事件で政治家が御託宣を並べること自体が馬鹿げている。「給食はゆっくり食べましょう」「パンは小さくちぎって食べましょう」とか言うぐらいなら、小学生でも言えることだ。わざわざ政治家の御登場を願う必要などは全くない。まさか「給食ではパン食を禁止する」とは言わないだろう。
 
 こういう事件が発生した場合、小学生に限らず消費者達は誰かから指示されるまでもなく自分自身で判断できるようになるはずだ。「どんな食べ物であっても注意を怠ると命を落とす事故につながる」と。こんにゃくゼリーであろうと、お餅であろうと、パンであろうと、事故は起こるべくして起こる。誰かが注意を促したところで、ほとんど無意味に近いということに気が付くはずだ。マスコミや政治家は「そういう痛ましい事件がありました」と伝えるだけで、充分な予防策になるはずであり、それ以上に何かを求める(=規制する)必要などがあるとは思えない。
 
 そもそもマスコミや政治家は、本当に事故を防止するために騒いでいるのか?という疑問もある。穿った見方をするまでもなく、自分達の仕事(権益)を増やすためだけに騒いでいるのではないのか?と疑いたくもなる。よく言われているように『消費者庁』というような新たな省庁を創設するための理由付けのためだけに騒いでいるのではないのか?とも考えられる。そんな不謹慎なことを考えてしまいたくなるほどに、マスコミの言論や政府の対応はあまりにも常軌を逸していると言える。
 
 とにかく、偶然に起こった、この痛ましいシンクロニシティー事件(?)によって、多くの人が冷静な判断ができるようになることを願う。なぜ? これ以上、経済を停滞させないために。

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タバコ1000円試算の盲点

2008100701 タバコが1000円になると、その後20年間で死亡者が約6万人減少するとの試算が厚生労働省から発表された。これは正確に言えば、“タバコが値上がりすれば死亡者が減少する”のではなく、“禁煙者が増加すれば死亡者が減少する”という意味である。早い話、タバコを値上げぜずとも、禁煙する人(または吸う本数を減らす人)が増えれば同じ効果があるわけだ。
 
 ここで追求するべき問題は、『タバコを如何にして止めさせることができるか』ということであり、その手段を“タバコの値上げ”だけに限定する必要性が有るのか?ということだ。タバコの値上げ以外にも禁煙者を増加させる手段があるのであれば、そちらを選択するという手もあるはずだ。そして、より重要なことは、タバコを買えないほど高価なものにすることによって、逆に何の弊害も発生しないのか?ということだ。そちらの試算は都合よく無視してしまってもいいのだろうか?

 タバコの値段を上げることによって禁煙者が増加するのであれば、逆にタバコの値段を下げると喫煙者が増加するのだろうか? 例えば、タバコを1箱100円にすれば、喫煙者は増加して死亡者も増加するのだろうか? 私が思うに、確かに死亡者は増加することになるだろうと思う。しかし、それは喫煙者が増加した結果ではなく、元々の喫煙者の吸う本数が増加しての結果だろう。
 タバコの値段が下がったからといってタバコを吸い始める人が増加すると考えるのはあまりにも短絡的発想だと思える。タバコを吸わない人は、どれだけタバコが安くなっても吸わないだろうと思う。
 では、タバコの値段が上がれば、禁煙者が増えるか?というと、確かに増えることは間違いないだろう。しかし、大抵は禁煙まではいかずに吸う本数を少なくすることになるはずだ。吸う本数が絶対的に減少するのであれば、タバコが原因で死亡する人間は減少することも間違いないだろう。
 
 ということで、タバコを値上げすれば死亡者は減る。これは確かにその通りだ。しかし、ここからが問題だ。

 よく考えると20年間で6万人ということは、1年間で3000人しかいないということになる。日本では毎年3万人以上が自殺しているらしいので、その10分の1にしか満たない。
 では、そもそも喫煙が原因で死亡している人間は毎年どれくらいいるのか? 少し古いデータになるが、ネットで調べたところ、2000年の調査では11万4000人になるらしい。
 11万4000人中3000人ということは、喫煙者の38人に1人救える計算になる。これが多いと見るか少ないと見るかは微妙なところではある。
 
 厚生労働省の試算では、
 1000円にすれば6万人減少
  700円にすれば4万4000人減少
  500円にすれば2万人減少となっている。
 
 あくまでも試算ではあるが、いずれにしても、それほど大きな効果があるとは言い難い。
 1000円であれば38人に1人
  700円であれば52人に1人
  500円であれば57人に1人が救える計算になる。
   
 この程度の効果であるのなら、わざわざ大々的な値上げを行うまでもなく、単なる禁煙運動でも事足りるのではないか?というのが率直な感想だ。繰り返しになるが、1000円にすることによって発生するマイナス要因を考えると、危険な賭けであることは否定できない。
 以前にも書いたが、税収を上げるというもう1つの目的も、果たして実現できるかどうかも疑わしい。さらに死亡者を減少させるという試算も外れてしまうと、単にタバコが大幅に値上がりしただけということになり、より殺伐とした社会になる可能性も否定できない。タバコによる肉体的な影響は緩和されたとしても、精神的には悪影響を及ぼす可能性も否定できない。
 タバコを吸う人に共通して言えることは、タバコを吸うことで一時的に精神を落ち着かせているという事情がある。タバコを吸わない人にとってタバコは百害あって一利なしだと言えるが、吸っている人にとってはタバコにはストレスを和らげるという利点もあるわけだ。しかし、タバコが高価で買えないということになると、ストレスがより溜まることになる。ストレスが病気の原因になることはよく知られたことなので、タバコが吸えないという理由から病気になる人間が出てくると、まさに本末転倒な結果となってしまう。

 結論として言えることは、タバコを値上げすることによって生じるプラス面だけでなく、マイナス面の試算をこそ、もっと入念に行うべきだということだ。もっとも、そんな複雑な試算ができればの話ではあるが…。

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こんにゃくゼリー“事故”と汚染米“事件”

2008100401 マンナンライフのヒット商品『蒟蒻畑(こんにゃくばたけ)』を食べた幼児が窒息死したことで、野田聖子消費者行政担当相はマンナンライフに対して商品を自主回収するように指示したらしい。
 ネット上では既にこの事件について、様々な意見が飛び交っている。一般消費者からの意見は、「販売中止にするべきではない」「事件が起きたのは親の責任でもある」や、「確かにノドに詰まりやすいかもしれない」「商品をもう少し小さくするべきだ」などの賛否両論が飛び交っている。しかし、マスコミを通じては、相変わらず、一方的な意見しか出ていないようだ。マスコミには、「こんにゃくゼリー」を「殺人ゼリー」に仕立てあげなければならない理由でもあるのだろうか?
 
 この事件は、罪のない幼児が死亡してしまったという意味では非常に痛ましい事故であることは確かだ。子供を不慮の事故で失った親の気持ちを考えると、こんにゃくゼリーを販売していたマンナンライフに責任を求めてしまうのは、感情的には理解できる。しかし、関係のない他人が、「マンナンライフが悪い」とか「こんにゃくゼリーは悪だ」と言うのは少し理解に苦しむ。
 
 ノドを詰まらせて窒息死するという事故は、毎年、日本中で発生している。お餅を食べて窒息死したというニュースは毎年耳にするはずだ。では、お餅を食べた幼児や老人が窒息死した場合、「お餅が悪い」「餅米を作った農家が悪い」と言うだろうか?
 「お餅とこんにゃくゼリーは別だ」と言う人がいるかもしれない。では一体何がどう違うのかを納得できるように説明できるだろうか? 誰もが納得せざるを得ない答えを用意できる人間はいないはずだ。まさか「こんにゃくゼリーを責めても、損害を被るのはマンナンライフ関係企業だけだが、お餅を責めると日本中の農家が損害を被るので責めるわけにはいかない」とでも言うのだろうか?
 これはある意味、通り魔事件におけるナイフと包丁の関係に似ている。ナイフを規制してもそれほど困らないが、包丁を規制してしまうと日本中の家庭が困ってしまうというのと同じ理屈だと言える。つまり、結局、対症療法にしかなっていないということだ。

 さて、ここで少し角度を変えた質問をしよう。
 例えば、あなたの家の近所に池があった場合、その池の周りには『子供が遊ぶと危険』というような注意書きがあるはずだ。この池で運悪く子供が溺れた死亡してしまった場合、誰が悪いと言えるだろうか?
 
 1、子供
 2、親
 3、池
 4、池の所有者
 
 上記を今回の事件に置き換えると以下のようになる。
 
 1、幼児
 2、幼児の両親
 3、こんにゃくゼリー
 4、マンナンライフ
 
 おそらくまともな神経をした人なら、3、4は選択しないはずだ。しかし、マスコミや世間では、3と4のみが悪いと言っているように見える。
 
 とは言うものの、私も「幼児や両親が悪い」とは言うつもりはない。しかし、親の注意が足りなかったことは否定できないと思う。
 こんにゃくゼリーには小さいながらも「危険」という注意書きが入っている。老人や小さな子供が食べると事故が発生する可能性があることは初めから判っていたわけだ。私も以前に食べたことがあるが、普通のゼリーよりも固く弾力性があるので、注意書きを見るまでもなく、幼児には危険であることが分かる。
 野田聖子女史は「警告表示を大きくするように」とも言ったらしいが、実際に食べたことがある人なら、わざわざ表示を大きくするまでもなく、危険であることは認識していると思う。小さな子供がいる所に“子供に危険な食べ物を置いておくことは危険だ”という認識を持っていれば、このような事故は未然に防げる可能性もある。
 
 ニュース番組で報道されていたが、実際にこんにゃくゼリーを食べて窒息死した人はこれまでにも数多くいるらしい。しかし、10歳〜60歳の間には1人もいないそうだ。
 この数字から逆に言えることは、10歳〜60歳であれば食べても問題はないということだ。わざわざ全国に出回っている商品の全てを自主回収せずとも、10歳〜60歳の人のみに限定して販売することにすれば、損害も最小限に抑えることができるはずだ。こんにゃくゼリーが致死率の高いメタミドホス入りでもない限り、こんにゃくゼリーを殺人者に結び付ける必要性は感じられない。そんなことをして、一体誰が得をするというのだろうか。
 
 テレビのコメンテーターには、「こんにゃくゼリーが悪いと言うのは正論だ」というようなトンデモ評論家がいるようだが、こういう馬鹿な詭弁評論家に騙されてはいけない。
 幼児が死亡してしまったことは確かに痛ましい。しかし、だからといって、責任の所在を民間企業にのみ追及するというのは行き過ぎだと思う。彼らは三笠フーズや農水省のような後ろめたい商売を行っていたのではなく、故意に事件を起こしたわけではない。これは“事件”ではなく“事故”なのだということを冷静に考えるべきだ。
 まかり間違っても、役所の不祥事(汚染米問題)を隠すために、民間企業の事故を殊更騒ぎ立て、スケープゴートに利用するようなことだけは避けてもらたいものだ。

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タバコ自動販売機問題から見えた教育問題

2008092901 最近、顔認識機能付きのタバコ自動販売機が増えているらしい。当初、タスポカード認証自動販売機よりも実用性があると思われていたが、思わぬところに欠点があったようだ。その欠点とは、“いかに精巧な認識機能を備えた自動販売機であっても、人間の動作までは判断できなかった”という実に皮肉なものだった。
 その欠点は、未成年の少年達が、顔をしかめて自動販売機の前に立つと、(顔のシワを認識してか)成人と判断されてしまうということで明らかになった。これは、ほとんど笑い話とも言えるが、人間の狡賢さまでは現代の機械ではまだ判別不能であったという、笑えない現実を突き付けられた格好となった。
 
 この問題を役人流に解決するなら、「自動販売機の前では無表情でいなければならない。もし怪しいポーズを取ったと判断された場合は犯罪とする」などという、その場しのぎの対症療法になるのかもしれないが、この問題を解決する方法を見つけることは、おそらく現代では不可能だろう。
 タスポカード認証自動販売機にしても、顔認識機能付き自動販売機にしても、残念ながら、現実的なタバコの未成年者喫煙防止策にはならなかったというのが実際のところだ。未成年者喫煙防止をより完全に近づけるためには、結局、自動販売機によるタバコ販売を禁止するしか方法はないということが判明してしまったと言っても言い過ぎではないだろう。
 
 では、実際に全国のタバコの自動販売機を全て取り払ってしまえばいいのか?と言うと、良い訳がない。タバコがいくら身体に悪いといっても、タバコの自動販売機が世の中から無くなってしまえばいいのか?というと、良い訳がない。そんなことをすれば(タバコ販売関連業者の)暴動に発展しかねない。

 タバコが身体に悪いといくら説得したとしても吸う人は吸う。人体にいくら悪影響があると力説したところで、実際に病気にならなければタバコは止めない、止めれないという人が大半を占めている。
 親が子供に喫煙を勧めない限り、タバコは身体に悪いということぐらいは子供でも知っている。健康に悪いだけでなく、法律でも禁じられているにも関わらず、タバコを吸う未成年者は後を絶たない。
 タバコ自体は別にドラッグ(麻薬)ではない。1度吸う習慣がついてしまうとなかなか止めれないという意味ではドラッグに似ているが、吸うことによって犯罪性が増すという代物ではないし、止めようと思えば止めることができる。(私も止めました)
 
 タバコの煙が他人に迷惑を与えているというマイナス面は否定できないとしても、タバコを吸って被害を被るのは実は吸っている本人自身だ。喫煙者というのは、それを承知した上で(自己責任で)タバコを吸っているわけだ。無論、未成年者も例外ではない。タバコとは、自分自身の健康を破壊する危険なものであるかもしれないということが解っているにも関わらず、わざわざ自動販売機の前で顔をしかめてタバコを手に入れているわけだ。そういった人間達に「買ってはいけない」「吸ってはいけない」と言うのは、国の親心からなのだろうか? しかし、国が親の役目を果たすまでもなく、実の親が子供の健康に悪いということが解っているなら、親が子供に注意すれば済むことではないのだろうか? それでも、吸う子供がいるから国が厳重に監視しなければならないというのであれば、そもそも国がタバコを販売していること自体が間違いなのではないのか?という結論に行き着いてしまう。
 
 タバコの販売というものは、よくよく考えると矛盾している点がいくつも発見されるものだ。しかし、基本は親が子供にはタバコを吸わせないという教育を行うことが重要なのであって、それで事足りるのであれば、わざわざ未成年者の喫煙を法律で禁止せずとも、おのずとそういった社会になるはずだ。
 「親が吸っているのだから、子供に吸うなとは言えない」と言うような人もいるかもしれないが、子供の喫煙を監視するのは、国でも自動販売機でもなく、本来であれば、子供の教育を行うべき親であるはずだ。国や自動販売機に子供の教育を任せようというような甘えた社会こそが、いつまで経っても未成年者の喫煙が無くならない本当の理由ではないだろうか? タバコの未成年者喫煙問題とは、法律や機械の問題ではなくて、実は単なる親の教育の問題なのかもしれない。いや、きっとそうに違いない。

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「ゴネ得」国家の揚げ足取りごっこ

2008092701_2 中山国土交通相がインタビューで語った「ゴネ得」という言葉が批判の的になっているようだ。
 この報道に対して、ここぞとばかりに毎度の揚げ足取りごっこが始まったようだ。
 しかし、こんな下らないことで言い争っていて政治家が務まるのだから、日本は平和な国だ。いつから政治家の仕事は『揚げ足取り』になったのだろうか? 揚げ足取りに必死になることができるほどに仕事が暇なのであれば、さっさと政治家など引退したらどうかと言いたくなる。それとも、現代の政治家達は揚げ足取りを行うために政治家になったとでも言うつもりだろうか?
 
 この日、中山氏が語った問題発言は以下の3つだったらしい。
 
 1、「成田空港の拡張反対はゴネ得」
 2、「日本は単一民族」
 3、「教員汚職事件は、日本教職員組合(日教組)が原因」
 
 中山氏の口から、こういう言葉が出てくるということは、良いか悪いかはともかくとして、本人自身は内心そう思ってきたということの証明に他ならない。正直に内心を吐露した人間がなぜ直ぐさま批判の対象になってしまうのだろうか? そもそも批判を始めたのは中山氏の言葉を聞いた一般市民なのだろうか?
 なにやらテレビや新聞報道では「成田はゴネ得」という言葉が失言ということになっているようだが、ネット上では中山氏の発言は的を得ているという意見も多い。
 「大分の教員汚職事件は日教組が原因」発言にしても、書籍やネット上では日本の教育が堕落した原因は日教組にあるという声は多く、知識人の半常識になっている。
 このことから言えることは、中山氏は言い過ぎたのではなく、タブ−に触れてしまったということなのだろう。しかし、言いたいことを言えない政治家というのも困ったものだ。
 
 この事件から言えることは、政治家には言論の自由が許されていないということに尽きる。無論、言論の自由とは何を言ってもよいという自由ではないが、本当のことを言っても責任を追及されるのであれば、いつまで経っても政治家は建前しか語ることができないことになってしまう。はたして建前だけを語っていて、社会が良くなるのだろうか? そんな政治に意味があるのだろうか? たとえ間違ったことを述べたとしても、そのことを条件反射的に批判するのではなく、何がどう間違っていて、何がどう正しいのかをもっと深く吟味するべきではないのだろうか?
 
 条件反射的な批判とは、裏を返せば、「臭いものには蓋」的な何の進歩も生まない言論の封殺とも言い換えられる。もっと言えば、条件反射的な批判こそが、実は「ゴネ得」とも言えるかもしれない。ゴネた者勝ちというのは、何も成田だけの問題ではない。日本社会そのものが「ゴネ得」国家になってしまっている。むしろ、そのことの方が大きな問題だ。
 真に国民に知らせなければならないことでも、役人にとってタブーなことであれば一切、口にできず、言えば、四方八方から袋だたきに遭ってしまう。こんなことを繰り返していては、いつまで経っても日本社会は良い方向には向かわないだろう。悪循環の繰り返すだけの堂々巡りにはいい加減に辟易としてしまう。まさに税金の無駄遣い、ここに極まれりである。

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「メタミドホス米」という保護目的米(?)

 中国製冷凍ギョーザからメタミドホスが検出されたというニュースが聞かれなくなったかと思っていたら、今度は、お米からメタミドホスが検出された(メタミドホス米が販売されていた)というニュースで持ち切りになっている。
 しかし、ここで注意したいのは『事故米』だということ。三笠フーズによる事故米の不正転売が大きく取り沙汰されてはいるが、なぜ事故米なるものが市場に流通してしまったのか?ということがあまり(と言うより全く)報道されていない。
 そもそも、事故米とは何なのか?というと、食用にできない輸入米(糊などの別の用途に使用される)だ。ではなぜ食用にできないお米を輸入しなければならないのか? 食用にできない(利用価値の乏しい)事故米を必要以上に輸入していたのはなぜなのか? ここにこの問題の本質が隠されている。
 
 かつて、日本米が足りなくなった時、タイ米という細長いお米が日本米に混じって売られていたことは記憶に新しい。タイ米というのは通常、ピラフなどに使用される特殊なお米だが、それが通常のお米と混ぜられて売られていた。あるいは、タイ米のみで安価に売られてもいたが、日本の消費者からは「あまり美味しくない」という感想が聞かれた。しかし、これはむしろ当然の回答だった。なぜ美味しくないのかと言えば、わざわざ美味しくないタイ米を選んで輸入していたからだ。何のために? 日本米を美味しいお米だと思い込ませるために。つまり、平たく言えば、日本の農業(日本米)を保護するためである。

2008091201

 話を事故米に戻そう。農水省がかつてのように、事故米ではなくタイ米を輸入していれば、おそらく今回のような不正問題は発生していなかったと思われる。味も形も違うタイ米を日本米と偽って販売することは不可能だからだ。不正販売を行った三笠フーズの責任は重大ではあるが、国がある一定の割合でお米を輸入しなければならないからといって、わざわざ事故米を大量に輸入していた農水省にも大いに責任があると言える。(日本米>タイ米>事故米)という図式で考えればよく解るかもしれない。安くてマズいだけのタイ米なら不正が行われても人体には害はないが、汚染されて食えない事故米が不正に利用されると有害になる。“不正は行われるものだ”とする性悪説的な役人原理を前提に考えるなら、事故米などは必要最小限の輸入量に制限しておくべきではなかったのか。

 日本の農業を保護するために、わざわざ劣悪なお米を選別して輸入する。世界的にもべらぼうに高い日本米を消費者から遠避けないようにと最悪な事故米を輸入する(=安くて美味しいお米を国内に入れない)。そのような役所の行き過ぎた農業保護(実は自己保身?)が今回の事件を招いた原因だと言えば言い過ぎだろうか?
 
 しかし、この問題を契機に、また、農水省内に新しい管理機関でも創設されるのではないかと危惧される。問題の本質を追求せずにそんな無駄な機関を創設しても、ただのイタチゴッコにしかならない。
 原因を作っている張本人だと思われる機関が、自らを省みることなく、その内部に新たな機関を創設する。これではある意味『盗人に追い銭』と言えないだろうか?
 国民達も、もういい加減に騙されるのは止めにしたらどうだろうか?

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若者がキレる構造と日本の社会構造

2008000001_2 最近、キレる若者(子供)が増えているとのことで、文部科学省は、その原因が“脳”にあるのではないか?という憶測のもとに、数十億円をかけて新たな脳の研究に取り組むらしい。

 さすがにこれには呆れた。正直言って「馬鹿げている」というのが率直な感想だ。

 キレる原因が脳にあるのだとすれば、なにか脳に物理的な影響を与える薬物でも摂取していない限り起こり得ない(例えばタミフルの摂取など)。
 もしそういった薬物らしきものが食物などを通して無意識に摂取されているのだとすれば、キレる現象は世界中の老若男女全てに発生するはずであり、日本の若者だけがキレるという結果にはならないはずだ。日本の若者だけが食べている食品があるというなら考えられなくもないが、そんな食物があるとはとても思えない。
 食物に原因を求めるのであれば、おそらく遺伝子レベルの問題であって、キレる若者の脳を調べるより、両親の遺伝子を調べる方がまだ理に適っていると思える。

 しかしながら、キレる原因は“脳”でも“遺伝子”でもないはずだ。キレる原因を、そんな複雑怪奇なものに求める必要性はないだろう。
 誰でも1度や2度はキレる体験をしたことがあるはずだ。例えば、仕事が山のように溜まっている場合や、自分を取り囲む悪環境が思ったように改善しないといったストレスを抱えている時などは、少なからず欲求不満状態(=半分キレた状態)になることはある。神経が高ぶっている状態や、張り詰めている状態になることは誰にでも起こり得る。キレるということは、環境におけるフラストレーションがストレスとなって突発的に爆発したようなものであって、長期間、物理的な影響を受けて起こるようなものではない。どちらかと言えば、精神的な抑圧によるものだ。

 例えば、私が本文を書いている理由も、同じようなものかもしれない。ほとんど無意味なことだと判っていながら無駄な研究に莫大な費用(=国民の税金)を費やす愚行に業を煮やして本文を書いている。つまり、この文章を書いている間は半分キレた状態にあると言っても過言ではないかもしれない。果たしてその原因は、脳にあると言えるだろうか? 言えない。その原因はストレスであり、ストレスの元になっているのは、間違った環境だ。その環境を創り出しているものの正体こそが、ストレスの元であり、キレる原因の1つだと言える。
 何が言いたいのかというと、このような馬鹿な政策を行うこと自体がストレスの原因になっているのではないかということだ。研究自体が環境を改善するために行われているというよりは、むしろ悪化させるために行われているのではないか?という疑いこそがストレスの元になっているわけだ。

 脳は単に、何が正しくて何が間違っているのかを論理的に判断する器官であって、キレる直接の原因ではない。脳にキレる原因を追求するならば、解決策は“間違いに気が付かない脳”にでもするしか方法がないということになる。これでは原因はそっちのけの本末転倒な対応策としか思えない。これが馬鹿馬鹿しくなくて一体なんだと言うのだろうか?

 大体、こんな研究を始めるのなら、国民にその是非を問うてから始めるのが筋ではないだろうか? 国民の税金によって運営される組織が、なぜ税金を納めている国民に何の断わりもなく勝手に行動し決定してしまうのだろうか?
 脳構造の研究を行って満足な結果を出すことができなかった場合、一体、誰が責任を取るというのだろうか? 毎度のように「無駄な研究でした、スミマセンでした」で済まそうと考えているのだとすれば、ただの税金(給料)泥棒とは言えないだろうか?

 仮に「“脳”を調査します」というような理由で、民間の企業が株式上場して、投資家から資金を調達すれば、赤字の垂れ流しでは済まされない。済ますことができるとすれば、それはただの詐欺でしかない。
 文部科学省の場合、税金から勝手に資金を調達することができ、しかも預った資金を返還する必要がなく利益を出す必要もない。それ以前に“資金を預っている”という認識自体も持っているかどうか疑わしい。

 公務員という存在は、国民から見れば家政婦のような存在だ。家政婦が主人になんの相談もなく勝手に仕事を増やしている様を想像してみるといい。

家政婦
 「最近、どうもお子様の精神状態が悪いようです。
  私の見たところ、脳に問題があると思われますので、
  全国の脳を扱っている病院巡りに行って来ます。」
主人
 「ああ、そう。で、その診察料金と交通費は誰が支払うのかね?」
家政婦
 「もちろん、あなたです。」

 こういうのを「余計なお世話」と言う。こんな笑い話のようなことが実際に行われているのが、今の日本の姿だ。こんな社会では、ストレスが溜まらない方がおかしい。そう思っているのは私だけではないだろう。
 結論として言えることは、脳の構造などを研究するよりも、まず日本の社会構造を研究した方がよいということだ。その方が、まともな結果を見出せるに違いない。

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現代版「風が吹けば桶屋が儲かる」

 駐車違反取り締まりが強化されたことによって、都市圏の駐車場需要が増加した。これはほんの数ヶ月前まで変化なく続いていたことだ。そしてこういった状態が続いたことによって、「駐車場経営は儲かる」という摩訶不思議な空気が日本の都市圏を覆っていた。『規制の強化』という風が吹いたことによって、新たに駐車場経営に乗り出した(目敏い)人も少なからずいたはずだ。
 しかし、最近のガソリン高によって、不必要な車の運転をする人が激減したためか、駐車場の利用が減少傾向にあるらしい。
 
 私も先日、タイムズ駐車場を利用したが、料金が2割程下がっていた。 
 駐車場経営者は《駐車料金を下げれば駐車場利用者が増える》という考えを持っているのかもしれないが、これは恐らく的外れな対処法と言えるだろう。
 そもそも一般消費者(ドライバー)達は、駐車料金が高いから駐車場を利用しないわけではない。ガソリン代が高くなったので、運転すること自体を控えているということが根本的な問題だからだ。通勤にしても、マイカーを利用せずに電車やバスを利用している人が増えているのだから、駐車場を利用する人が減るのは当然の事態であって、駐車料金を下げても、車を運転する人がそうそう増えるとは思えない。

 もともと高い駐車場料金が下がることは大いに結構なことだが、多少、料金を下げても売上は上がらないだろうことは容易に想像がつく。もし、駐車場利用者が増える場合があるとすれば、ガソリン代として上がった分を駐車場代で相殺できる場合だけだろう。走行距離にもよるが、1.5倍になったガソリン代を駐車場代で相殺しようと思えば、駐車料金を半額以下にでもしない限り、駐車場利用者が増えることはないだろう。仮に増えたとしても、値引きした分を補う(この場合は半額なので2倍の利用者が必要)だけの売上には届かないと思える。
 
 「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺があるが、「規制が出れば○○○が儲かる」というのは現代でも当てはまる。しかし「駐車規制が出れば、駐車場経営者が儲かる」という諺は、ほんの1〜2年で通じなくなってしまった。
 「原油が騰がれば、駐車場経営者は廃業する」ということにならなければよいのだが、その兆しがほんの少し見え隠れしている。駐車場として整備した土地は、駐車場としての利用価値が無くなれば、別の商売をするための土地に変わってしまう。しかし、最低限の駐車場が無ければ、駐車違反ばかりが発生し、一般消費者にとっては踏んだり蹴ったりになってしまいかねない。
 
 少し極端な意見になるかもしれないが、都市圏の駐車場などは国が無料に近い形で供給すべきものなのかもしれない。今まで散々無駄な道路を造っている暇も金もあったのに、一体なにをしてきたのか?と言いたくもなる。
 諸外国には、高速道路も無料という国がいくらでもある。高速道路に異常に高い通行料を支払わされ、駐車場の無い所に数分間、車を駐停車するだけで、罰金を支払わされる。こんな踏んだり蹴ったりの状況でも、ほとんどの人は大して文句も言わず真面目に生活している。
 お役人にとっては、日本という国はまさにパラダイスなのかもしれない。そのお役人にパラダイス改革※などはできるはずがないというのは、確かにその通りだろう。「風が吹けば桶屋が儲かる」とはお役人に対する皮肉を込めた諺なのかもしれない。「国民が困ればお役人が儲かる」、この諺だけはなかなか変わりそうになさそうだ。
 
※パラダイス改革=公務員制度改革

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「学歴社会」と「官僚社会」の歪な共通点

 かつての日本社会では、大学に入学するためには、ある程度の学力が必要だったと思うが、現代の日本社会では、学費さえ支払うことができれば誰でも大学に入学できる時代となっている。もちろん名の通った一流大学に入学するためには、それなりの学力が必要とされるが、あまり人気のない大学などは定員割れするところもあるそうで、完全な売り手市場になっている。
 かつては大学の入試試験に合格することは、ある程度の学力があることを証明するものであったと思うが、現代では、必ずしもそうはなっていない。そのことからも、現代では大学に入学すること自体にそれほどの価値が無くなってきたと言えるかもしれない。

 大学生活を送る期間は、人生のモラトリアム期間※と言われることがある。これは日本独自の甘えた文化かもしれないが、このモラトリアム期間を過ごすということに対しては私も悪いとは思わない。人生にそういう期間があっても良いと思うからだ。
 義務教育を終了してすぐに企業に入ると、4年間のモラトリアム期間を過ごすことなく社会に出ることになる。それは立派なことでもあるのだが、4年間の自由な期間を過ごすことができないという意味では、少し勿体ないと言えるかもしれない。

※肉体的には成人しているが、社会的義務や責任を課せられない猶予の期間。また、そこにとどまっている心理状態。

 一応、お断りしておくと、私は単に大学で遊ぶことが良いと言っているのではない。いろいろと人生について考える(=つまり学習する)助走期間があった方が良いと言っているだけなので、別に大学に行かない人を見下しているわけではない。大学に行く行かないに関係なく、そういう期間があった方が良いという意味である。
 私も学生時代、大学に行かずに働いている人の方が、大学で遊んでいる大部分の人間よりは偉いと思っていた。私自身、大学生の時は完全なモラトリアム人間だったので、働いている人が妙に大人に見えたものだ。
 私の場合、本を買うためにアルバイトをしていたが、生活費を稼ぐために働いていたわけではなく、あくまでも社会勉強の一環として働いていたに過ぎなかった。しかし、その社会勉強ができる期間というものが実は大事だったのではないかと今更ながらに思うことがある。
 
 私の経験は置いておくとして、話を進めよう。現代は、大学に行く価値が低下したと述べたが、現状ではどうなっているかというと、相変わらず、大学に行く人が大半を占めている。実質的には“大卒”という価値が低下しているにも関わらず、「大学へ行く必要はない」という人は極めて少数派になる。
 これからの時代、企業サイドから見れば、一般常識に少し毛が生えた程度の大卒者など、それほど価値があるとは思われていない(理系は別かもしれない)というのが正直なところだと思う。学歴などよりも、実際の仕事をする実力の方が大事な時代であることは世界中の人達が理解しているはずだ。しかし、どうも日本だけは例外のようで、日本の学歴信仰だけは未だに根強く残っている。
 
 よくよく考えると、この“学歴”とは何なのだろうか? 人生が80年として、大学を卒業するまでの22年間(日本の場合、入学するまでの18年間と言った方が正解かもしれないが)で、どれだけ勉強したか(または暗記したか)によって、その後の数十年の人生が決まってしまうというのは、何かおかしくはないだろうか?
 そもそも人間が勉強できる期間は、学生時代だけではない。別に30歳から勉強する人がいてもいいはずだし、大学を卒業すれば、その先、勉強しなくてもいいわけではない。20歳で勉強を止めた人間より、20歳から80歳まで勉強した人間の方が、はるかに学歴は長いことになるし、知識も豊富なはずだ。
 「10代の頃は頭が柔軟で、勉強したことが最も頭に入り易いので、勉強するのは学生時代が向いている」というのは、確かにその通りだろうと思う。しかし、いくら頭が柔軟であっても、嫌々勉強するのと、好きで勉強するのとでは、呑み込み方が大きく違ってくる。10代に嫌々勉強をしている人間より、30歳を超えても、好きで勉強している人間の方が、物覚えが良いということは十分にあるはずだし、そういった自由のある柔軟な社会の方が人間として生活しやすい社会であることは疑いのないところだろう。
 
 この学歴信仰の頂点にいるのは、無論、東大法学部を卒業した官僚達だが、昨今の社会情勢を見ていると、その頂点であるはずの優秀な官僚達が、まるで諸悪の根源のように疎まれている。勉強はできるが、社会経験に乏しく、(勝手に)立案された法案は、どれも実際の庶民感覚からはかけ離れたミスマッチなものばかりで、ほとんどが余計なお世話(有り難迷惑)になってしまっている。
 本来、国の舵取り役は、実際の生きた社会経験をしている人間が行うべきであって、エリート意識だけが強いだけの世間知らず人間が行うべきものではないと思う。しかし、日本の異常なまでの学歴社会がいつまでも継続されると、いつまで経っても、官僚主導国家という悪循環からは抜け出すことはできないだろう。
 官僚が悪いと言っても、官僚達も元々悪人というわけではない。悪いのは、人間としての官僚ではなく、官僚社会の方だ。学歴もこれと同じで、学歴自体が悪いのでなはなく、学歴社会こそが問題なのだ。官僚社会も学歴社会も“学生時代に勉強ができた人間だけが報われる”という本来の理想からかけ離れた歪な社会になっていることが問題なのである。

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『一億総結婚社会』の理想(恋愛)と現実(結婚)

 現代の日本は、年々結婚しない人が増加し、結婚しないことが不思議でもなんでもないという社会になっている。
 つい20年程前までの日本社会は、誰でも結婚することが当たり前で、結婚しない人は白眼視されるというような『一億総結婚社会』だった。そう考えると、わずか20年程で、社会が完全に反転してしまったとも言える。それが良いか悪いかはともかくとして、結婚というものだけを取り上げても、過去の常識が全く通用しない時代になってしまったと言える。今まで良いとされていたものが悪い…とは言えないまでも、必ずしも良いことだとは認識されなくなってしまった。

 かつての日本社会では、恋愛からそのまま一直線に結婚へ進むというのが一般的なコースだと思われていたが、現代では恋愛というものが必ずしも結婚を前提としたものにはなっていない。「恋愛と結婚は別物だ」という考えの人が多数を占めるのではないかと思われる。
 とは言うものの、もともと“恋愛”と“結婚”というものは別個の概念である。それは“理想”と“現実”と同じようなニュアンスのものだとも言える。
 恋愛は理想論が通用するが、結婚は本来、理想論だけではなく現実論も必要なものだ。本来、経済的な支えなくして結婚生活は成り立たないものであるはずだが、その常識が以前の日本では通用しなかった。誰も彼もが結婚し、無事に結婚生活が営めるということが何の疑いも持たれることなく固く信じられていた。いや、信じる信じないに関係なくそれが運良く実現されていたとも言える。しかし、時代の変化によって、その“結婚信仰”が実は非常識(?)なことだったということに多くの人々が気付いてしまった。

 こんな身も蓋もないことを書くと、どこかから批判の声が聞こえてきそうだが、あくまでもこれは現実論だ。お金が無いのに結婚して子供をもうけて、未来永劫、理想的な生活を営み続けていくことは不可能なことだということを率直に述べているだけである。
 現実を直視することができる人であれば、私の言っていることがトンデモ論でもなければ無情論でも悲観論でもないことは理解していただけると思う。

 話を続けよう。
 最近では、「就職活動」という言葉にちなんで、「結婚活動」(略して婚活)という言葉がよく使われているそうだ。結婚も就職と同じように能動的に活動しないと勝ち取ることができないということらしい。
 しかし、ここで気を付けなければいけないことがある。
 かつての日本では就職活動して企業から内定をもらい、無事に入社できればそのまま定年まで大丈夫というような風潮だったが、現代の就職活動は、入社するまでのコースは同じであっても、その先が全く違うということだ。入社することができたとしても、いつまでその企業に勤めることができるのかは分からない。社会的な影響(倒産など)や個人的な影響(解雇など)という数々の障害物が用意されており、そのままストレートに定年(ゴール)まで勤めることは不可能に近い状況になってきている。運良く定年まで勤めることができたとしても、その先、生活に困らないだけの充分な年金が無事に支給されるという保障もない。
 「公務員だけは大丈夫だろう」という人がいるかもしれないが、おそらく近い将来、公務員も受難の時代を迎えることになるだろう。(希望的観測)
 話が少し脱線したが、結婚活動も基本的にこれと同じだと思って間違いない。就職と同じように、結婚したとしても、その後、幸せなだけの生活が待っているわけではない。昔から、人間関係的(嫁・姑関係など)に躓くということは有り得ただろうが、現代では、まず経済的に躓いてしまうケースが多い。その証拠に、経済的な理由によって生活が破綻して離婚してしまうという人は大勢いる。結婚という理想だけを夢見て勢い余って結婚し、いざ結婚生活を開始してみると、理想的な生活ではなく、普通の生活さえも成り立たないことに気が付く人もいるそうだ。
 この“離婚”というものも現代では大きなリスクとなっている。かつてのような“夫婦喧嘩して離婚するかもしれない”というリスクではなく、“離婚しても恥ずかしくないという認識を持っている”というリスクである。「結婚のゲーム化」と言えばよく解るかもしれない。

 ここで少し、かつての日本社会ではなぜ結婚することが当然だったのかを考えてみよう。現代と何がどう違うのかを考えることで、答えが少しでも明確になるかもしれない。

 以前の日本では、
 1、土地に価値があり、年々、地価が上昇していた。
 2、毎年、年齢とともに給料(賞与)が上がっていた。
 3、定期預金の利子が数%付いていた。

 学生は卒業してから企業に入社することによって、社会的な信用を得ることができた。ほとんどの企業は倒産リスクが無いに等しかったために、その信用を担保として銀行から多額のお金を借りること(ローン)も出来た。そのお金で住宅(土地)を購入すれば、年々、土地の価値が上昇し、給料も年々上昇する。貯まったお金は銀行に預けることで、さらに利子が付き、どんどん資産が増えていった。この繰り返しで、住宅環境自体もどんどん変化していった(=大きく広くなっていった)。大きくなった家には家族だけで住むには勿体ない。お嫁さんが住もうと子供が数人住もうと特に問題はない。お嫁さんを働かせる必要はなく、子供が生まれても教育費用に頭を悩ます必要もない。考えなければいけないのは子供の出来、不出来だけで事足りる。それなら取り敢えず、お見合いでもしよう、結婚でもしようということになった。

 上記は半分想像ではあるが、もしこういうケースがあったとすれば、確かに結婚することに経済的な現実論を持ち込む必要性は無かったと言えるかもしれない。小難しい現実論を考えずに理想論だけで結婚を語ることができたのかもしれない。

 逆に、現代においては、そのような状況を手にしている人間は皆無に近い。

 現代の日本では、
 1、土地の価値が下がり、年々、地価が下落している。
 2、毎年、年齢とともに給料(賞与)が上がらず、下がるケースもある。
 3、定期預金の利子が雀の涙(蟻の涙?)ほどしか付かない。

 極端な例とはいえ、全ての価値が逆転している。これだけ見事に前提がひっくり返ってしまうと、現代の人間が結婚しなくなったのは、むしろ当然の帰結と言えなくもない。結婚しなくなったのではなく、結婚できなくなったと言った方がより正確かもしれないが…。

 実際のところ、昇給があまり望めそうにない経済環境下で、物価だけが上昇していくような社会となれば、子供を作ることが極めて高リスクな賭けとなる。収入が固定されたまま、子供の養育費・教育費だけは年々増加していく。子供の成長とともに生活も困窮していくのであれば、まさに悪夢とも言える。
 現在、端から観れば幸せそうに見える新婚カップルであっても、そういったリスクとは常に隣り合わせであるということも忘れてはならない。

 かつては「子は鎹(かすがい)」と言われたそうだが、そのうち、「こんな時代に子供を産むなんて狂気の沙汰だ」と言われる日が来るのかもしれない。
 こんな身も蓋もないことを書くと、また、どこかから批判の声が聞こえてきそうだが、そんな悪夢のような国にしないためにも、国ばかりに頼ろうとせず、自立する精神が非常に重要だと言える。『お役人依存体質』という心の病を治療して、国民が健全な心を取り戻さないことには、本当に『一億総非婚社会』になってしまうかもしれない。脅しのように聞こえるかもしれないが、それが現実だと思っておいた方が賢明だろう。

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「ウナギロンダリング」よりも重要な「有害物質問題」

 新手(?)の食品偽装として、中国産ウナギ問題が話題になっている。「ウナギロンダリング」という言葉は、なかなか上手いネーミングだと感心したものの、毎度のことながら、論点が少しズレているようなので、中国産ウナギ問題の本質を考えてみたいと思う。
 
 まず、今回の魚秀による中国産ウナギは何が問題なのか? 考えられる問題点を列挙すると以下のようなものだろう。
 
 1、魚秀が消費者を騙して大儲けしていた。
 2、ウナギの産地を偽装していた。
 3、ウナギには有害物質が含まれていた。
 
 「魚秀はケシカラン!」と言っている一般消費者達は上記の1〜3のどの点が最も悪質だと思っているのだろうか? 「全部だ!」と言う人がいるかもしれないが、私は3が一番大きな問題だと思う。
 
 1の消費者を騙して大儲けするというのは食品業界だけでなく、他の業界でも大なり小なり存在している。今回の場合、騙されたと言っても消費者がウナギ自体を食べずにお金だけ奪われたというような詐欺行為の被害者になったわけではない。日本産ではなかったが、ウナギを食べたことには違いはない。安い商品を高く売られたという意味では詐欺の被害者かもしれないが、それだけであるなら、ここまで大騒ぎするほどのことではない。

 「中国産のウナギを食わされたのだから、大きな問題だ!」と言う人がいるかもしれないが、実はそうとも言えない事情がある(後述)。
 重大な問題があるとすれば、ウナギに有害物質が含まれていたことだ。つまり、「毒を食わされたのだから、大きな問題だ!」と言うべきだ。
 有害物質が含まれていることを知った上で商売を行っていたのだとすれば、それは詐欺というよりも犯罪行為だと言えるからだ。
 
 ウナギは主に東アジア(特に台湾、中国、日本)を中心に生息しているが、日本では浜名湖産が有名だ。ただ、浜名湖産と言っても、実際は養殖も行われているので、初めから全てが日本産というわけではない。市場に出回っているウナギには主に次の3種類のものがある。
 
 1、純日本産のウナギ
 2、中国産だが、出荷前に浜名湖(他にもある)に入れられた日本産(?)ウナギ
 3、純中国産(または台湾産)のウナギ
 
 では、2のハーフウナギ(?)は、どれ位の期間、浜名湖に入れられていれば、日本産に化けてしまうのかというと、驚くなかれ、たった1週間らしい。(現在は原産地表示が厳しくなったので、少しはマシになったらしいが…)

 しかし、僅か1週間で日本産になってしまうというのは問題ではないだろうか? ウナギの寿命が10年以上あることを考えると、1週間というのは、人間で言えば、単なる海外旅行みたいなものだ。日本のカップルが新婚旅行でハワイに行って泳げば、ハワイの人間になってしまうというようなものだ。
 こんな摩訶不思議なことが何の疑問も持たれる(気付かれる)ことなく罷り通っている市場で、中国産を日本産だと偽っただけで、大犯罪人のような扱いで報道するというのも考えものかもしれない。繰り返しになるが、有害物質が含まれていることを黙認していたのであれば話は別だ。
 
 というわけで、今回のウナギ偽装問題で追及すべき重大な問題点は、“産地偽装(ウナギロンダリング)問題”ではなく“有害物質問題”であるべきだ。マスコミには、その辺のところを踏まえた上で、公正な報道を行ってもらいたいものだ。

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サラリーマン社会は『減点主義社会』

 日本の企業社会は、横並びを良しとし、業績よりもミスに厳しい「減点主義社会」だと言われることがある。「減点主義社会」というのは、なるべくリスクを避け、平穏無事に済むのが一番という「事勿れ主義社会」とも言い換えることができるが、実はもう1つの言葉にも言い換えることができる。それは…

 私も以前に勤めていた(転職する前の)会社で、上司に次のような質問を(書面で)したことがある。

「1人の仕事量ノルマを100とするなら、200の仕事をして1つのミスをするのと、100の仕事をしてノーミスとでは、会社にとってどちらがプラスになるのか?」

 無論、この質問に対する回答は無かったが、答えは聞くまでもないだろう。
 100の仕事をする人(以下A)と、200の仕事をする人(以下B)がいたとすれば、AとBの間には仕事量に2倍の差があるわけだから、仮に1つの仕事が1万円とするなら、Aが100万円、Bが200万円の仕事をしたということになる。
 100万円でミスが無いなら100万円のままだが、200万円でミスをした場合、〈200万円−ミスした損害額(ミス×ミスの回数)〉という計算式が成り立つ。そのミスした損害額なるものが100万円以下であれば、ノルマは達成しており、単純にBの方が会社に貢献したということになる。
 ただ、人命を預かった仕事や、銀行のオンラインシステムのような絶対にミスが許されないような仕事(=量よりも質を問われる仕事)の場合は話は別で、Aの方が評価が高くなるという例外的な仕事はある。
 ここでは、そういった例外は考えないものとして話を進める。
 
 先の例では、仕事量100を基準にしており、標準的な仕事量をこなす人と、常人の2倍の仕事量をこなす人を例にあげたが、比率を少し変えて、70の仕事をする人(以下C)と140の仕事をする人(以下D)で考えてみよう。2人の仕事量ノルマが200であれば、CとDの合計仕事量は210なので、一応、ノルマはこなしていることになる。しかし、DがCの2倍の仕事をこなしているがゆえに、ノルマは達成できていることになる。この状態で、Dが1つのミスをしたとしよう。その損害額が仮に20万円であった場合、2人の合計は210−20で190万円となり、ノルマは達成されなくなる。
 
 さて、ここで質問。あなたが経営者の場合、CとDのどちらを評価しますか?
 
 常識的に考えれば、Cは70、Dはミスしても120の仕事をこなしているわけだから、量的な仕事で判断するなら、この場合でもDの方が評価されて然るべきはずだ。ノルマが達成されなかったのは、Dのせいではないからだ。Dがミスしたからノルマが達成されなかったのではなく、Cの仕事量が絶対的に少ないことがノルマを達成できなかった真の原因であるからだ。
 
 ここでもう1度、質問。あなたがDだった場合、上司から「ノルマが達成されなかったのは、お前の責任だ!」と言われて納得できますか?
 
 「できる」と言える人はご立派だと思う。
 
 ではもう1つ、質問。このミスによって、あなたの賞与査定がCよりも低かったとすればどうしますか?(もちろん、金額が少ないという意味)
 
 「自分がミスしたのだから仕方がない」と言えるだろうか? もしそう言えるのであれば、あなたは高度な倫理観を兼ね備えた大変立派な人格を持った人だと言えるだろう。 
 しかし、普通の人なら、次のように考えるだろう。
 「仕事量を半分にしてミスなく仕事すれば、文句を言われることもなく評価が上がるのであれば、真面目に仕事をしない方が得だ」と。
 それで、Dが故意に仕事量を70に減らすようになれば、CとDの合計は140となってしまい、ノルマは大幅に達成されなくなる。そうなると、Cが解雇され、Dは仕方なく100の仕事をこなすようになる。結果、会社の業績は縮小し、場合によっては経営が悪化してしまうという負の循環に陥ってしまうことになる。
 
 さて、この会社の経営が負の循環に陥った原因とは何だったのか? ミスをしたからか? 違う。ノルマを達成できなかったからか? 違う。Cの仕事が遅かったからか? 違う。答えは、Dがやる気を失ってしまったからだ。では、それはなぜか? 『減点主義』という誤った会社体制のためである。
 
 先述の「それは…」に話を戻そう。勘の鋭い人は既にお気付きだと思うが、「減点主義社会」とは、別名「共産主義社会」のことでもあるのである。
 
 上記の例からも分かる通り、個人の能力を認めない社会というのは、結果的に悪循環を生み、停滞を招くことになる。
 サッチャーが「お金持ちを貧乏にしても、貧乏人はお金持ちにはならない」と言ったことはあまりに有名だが、この「お金持ち」という言葉を「個人の能力」に置き換えることも可能かもしれない。「お金持ち(=個人の能力)を認めない社会は、全員が貧乏になる社会」というのは、まさに万古不易の名言と言えるだろう。

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『タスポ自販機』=『トロイの木馬』?

 タスポカードについて論じるのも今回で3回目となるが、1回目で述べた通り、コンビニのタバコ売上げが激増して、世間(マスコミ)では「タスポ特需」と呼ばれているそうだ。しかし、誰がネーミングしたのか知らないが、これは一般的な「特需」とは言えない。
 「特需」というのはその名の通り「特別な需要が発生する」ということであり、結果的に市場全体としてプラスになる場合のことを指す。今回のような、誰か(タバコ屋)が損をして誰か(コンビニ)が得をしただけでは、特需というよりも単なるゼロサムゲームだ。要するに、「タスポ特需」ではなく、ただの「タスポゲーム」だったわけだ。
 マスコミは格差を大きな問題とし、いつもは格差教の教祖の如く「格差!、格差!」と連呼しているわりには、タバコ業界に突如発生した格差は全く問題視しようとせず、逆に「特需だ!」と喜んでいるのだから、わけが分からない。
 
 高価なタスポ自販機を導入したことによって、売上げが激減してしまった一部のタバコ屋は、投資した資金も回収できずに廃業に追い込まれてしまったのだから、踏んだり蹴ったりのいい迷惑だろう。タバコ販売における売上げ格差を人為的に創っておいて、コンビニの売上げが激増したと喜んでいるのだから、甚だオメデタイと言うしかない。

 よく考えると、タスポ自販機というのは、現代の『トロイの木馬』※になってしまったとも言える。タバコ屋の味方と思われたタスポ自販機は、実はタバコ屋を壊滅させる危険性を秘めた『トロイの木馬』ならぬ『ジャパンの自販機』となってしまったわけだ。そのうち、そんな題名の小説か映画が出来るかもしれない。

※トロイの木馬…トロイ戦争で、ギリシャ軍がトロイ軍を欺き、攻略した故事から外見とは異なる物が送り込まれ、災いを招くたとえ。

 話は変わるが、タバコが1箱1000円になるかもしれないという話も飛び交っている。タバコを1箱1000円にすることで税収を上げ、消費税増税を回避するのが目的だそうだが、1箱1000円にすることで10兆円近い税収増が見込めるらしい。(ちなみに現在のタバコ税収は約2兆円)
 政府の試算では、3人に2人がタバコを止めると考えているらしく、その場合でも、3兆円の税収増が見込めると皮算用しているらしいが、その皮算用は“禁煙する人が減少しなければ”という条件しか考慮されておらず、“喫煙する本数が減少しなければ”という条件が入っていないので、おそらく実現不可能だろう。
 しかし、いくらインフレ傾向にあるとはいえ、物の値段がいきなり3倍になるというのはあまり現実味がないので、おそらく最高でも1.5倍程度に落ち着くのではないかと思う。(何十年もすれば本当に1000円になるかもしれないが…)
 
 健康のために、タバコの値段を上げることで禁煙者を増加させることが目的であれば、タバコの値段を上げることに賛成の人は結構多いとは思う。おそらく禁煙者はほとんど賛成だろうから、タバコの値段が今後も上がっていくことは避けられないだろう。
 日本では環境問題と健康問題を前面に出せば、大抵の法案はそのまま成立する可能性が高いため、喫煙者の抵抗は空しい抵抗に終わるかもしれない。しかし、その昔、アメリカで禁酒法という悪法が施行されたことも考える必要があるかもしれない。酒の製造・販売が禁止されたことで、酒の密造や犯罪が横行するという皮肉な結果になったことも歴史的な教訓(=反面教師)として考える必要があるかもしれない。
 
 先のタスポ問題についても言えることだが、タバコに関する法律の改正が、業者や消費者に与える影響をよく考えた上で決定されているとはとても思えない。政府もマスコミも「結果がどうなろうと知ったこっちゃない」という感じで、半ば開き直っている有り様だから心配になってしまう。罷り間違っても、禁酒法時代のような愚かな結果にならないことを願わずにはいられない。

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迷惑駐車違反を取り締まる『迷惑な駐車監視員達』

 グリーンのユニフォームに身を包んだ迷惑駐車を取り締まる『駐車監視員』が生まれて久しくなったが、先日、私が勤務している会社の営業も配達中、駐車違反に引っ掛かってしまったようだ。聞けば、5分以内に車に戻らなければ危ない(引っ掛かる可能性が高い)ということで、宅配便業者もよく引っ掛かっているのを見かけるらしい。

 まず初めにお断りしておくと、駐車監視員の主な仕事とは、『悪質な迷惑駐車を取り締まること』だ。
 
 一般車が駐車禁止区域に堂々と駐車しているというならともかく、商用車が仕事中、たった5分駐停車するだけでビクビクしながら仕事をしなければならないというのは、どう考えても納得できない。駐車違反に引っ掛かるのを避けるために、助手席に座る待機員を雇っている会社(主に大手)もあるらしいが、そんな余剰資金を用意できる会社はごく一部だろう。
 「雇うのが無理なら駐車場に停めればよい」というのが、コスト意識のない役人の常套句ではあるが、毎度毎度、駐車場料金を支払うのも馬鹿にならない。充分な利益のある仕事ばかりならともかく、ガソリン代も利益圧迫の要因になっている昨今、駐車場代まで支払っていては利益にならない(=仕事にならない)という会社も多いだろう。民間は公務員のように何でもかんでも経費で出るわけではないということをもう少し考えてもらいたいものだ。それに、駐車禁止を取り締まっているような都市部においては近隣に駐車場自体が無い場合も多い。このことは大前研一氏も言っているが、駐車違反を取り締まる前に、まず充分な駐車場を作るのが先ではないのか?と言いたくなる。
 
 大体、業者が得意先前に車を駐車することが、なぜ悪質な迷惑駐車になるのだろうか?
 “悪質”と“迷惑”ということで考えてみると、ビクビクしながら駐車している人間の心の中には、既にいらぬ罪悪感や不安感が伴っているわけだから、どう考えても悪質というのは当てはまらない。では迷惑はどうか? 近隣の住人や業者が邪魔で迷惑だと言うなら仕方がないだろう。しかし、実際に車を駐車して一番の迷惑を被るのはどこかというと、実は当の得意先(配達先)だ。なぜなら、会社の目の前に車を駐車しているからだ。「迷惑だ!」と文句を言う人がいるとすれば、その得意先であるはずだ。しかし、当の得意先は何も文句は言わない。なぜ? いちいち文句を言っていては仕事にならないからだ。迷惑であろうと何だろうと、仕事であるなら邪魔になるのは暗黙の了解事項であるからだ。車は止まっていようと仕事としては動いているからだ。迷惑駐車だと思っているのは、駐車監視員だけで、業者は誰も迷惑などとは思っていないのだ。
 その横から部外者である駐車監視員が「迷惑です」「駐車違反です」「減点です」「罰金です」「今後、注意してください」と言ってくるのだから、まるで駐車違反ごっこをしているかのようだ(しかし支払うのは本物の現金)。
 確かに交通ルールを破ったという意味では、駐車違反になるのかもしれないが、社会にはビジネスルールというものもある。彼らはビジネスルールを無視して、駐車違反を取り締まっている。彼らはビジネスルールに違反していることには気が付いていない。同時に、それが如何に迷惑なことかということにも気が付いていない。
 
 「そんなことは分かっています」と言う駐車監視員もいるかもしれない。しかし、不合理であることが分かっていながら、建前と慣習だけで、右にならえで業務を執行しているのであれば、その行動原理は役人と同じだと言える。民間委託になっても、中身は全く変わっていない。「わかっちゃいるけど止められない」という役人の行動原理に沿って駐車違反の取り締まりをされては、民間に委託している意味がないと言いたくなる。
 
 「わかっちゃいるけど駐車違反をする」ではなくて、
 「わかっちゃいるけど駐車違反取り締まりをする」では、たまらない。
 
 民間企業が不況で苦しんでいる時に、国にできることは規制を強化して息苦しい社会にすることではなく、無意味な規制を緩和・撤廃することであるはずだ。
 大事なことは、5分や10分の駐車違反を取り締まることによって利益を得ている一部の人間達を優先することではなく、5分や10分の駐車違反なら大目にみて、少しでも国民の圧迫感を無くすことであるはずだ。現在の駐車違反取り締まりを見ていると、主役は国民ではなく国になってしまっている。

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『居酒屋タクシー』問題に見る論点のすり替え

 昨今の省庁バッシングの勢いのせいか、今度は財務省の「居酒屋タクシー」問題が取り沙汰されているが、どうも今回の騒ぎは少々、毛色が違うのではないか?というのが率直な感想だ。
 役人の無駄使い(金銭感覚)が問題だと言っても、今回の場合、それほど大騒ぎするような問題とも思えない。こんな小さな問題で大騒ぎしている暇があったら、もっと大きな問題がないかを調査するべきではないのかとも言いたくなる。
 
 この問題について、国土交通省は「タクシーが客に現金を提供する行為は道路運送法に違反する(割り戻し行為に接触する)」との見解を示しているようだ。
 また、こういう意見もある。「客が欲しいタクシー業者の行動も理解できなくはないが、役人相手にやるのはモラル的に問題だ」と。

 まず、国土交通省の見解だが、タクシー業者がお得意客に対して、割引券や商品を提供する行為がなぜいけないのかよく解らない。
 「割り戻し」というのは、「運賃の一部を乗客に払い戻す行為」であると規定されているらしいが、これは、よく考えると“料金の割引”と同じ行為とも言える。 
 喩えて言うならこれは、10000円支払うところを9000円にまけることは問題なくて、事前に1000円割引することは法律に違反すると言っているのと同じだ。違法性はともかくとして、どちらもお客に対するサービスとして捉えれば、さほど問題ないように思える。
 
 役人相手にやるのはモラル的に問題だというのも可笑しい。役人相手ならモラル的に問題で、一般人相手ならモラル的に問題ないと言うのであれば、立脚点が役人ではなくタクシー業者になってしまっている。仮に問題があるとすれば、そういった過剰なサービスを公人として断ることなく平然と受け入れていた役人サイドにあるのであって、タクシー業者サイドが全面的に悪いというわけではないだろう。
 問題は、タクシー業者が「霞が関の役人なら深夜の長距離タクシー代もケチることはないだろう。多少の事前投資をしたとしても回収できるはずだ」と思っていたことにある。つまり、そう思わせてしまう社会体質に問題があるのである。

 この問題を契機として、タクシー運転手からは「利用客が減った」との悲鳴が上がっており、結果的に迷惑を被ったのは、役人ではなく民間人という毎度のパターンになってしまった。
 では、当の財務省の役人達はどうだろうか? 毎晩、深夜残業するほど忙しかったのだとすれば、
 1、帰宅には深夜タクシーを利用する
 2、マイカー通勤をする
 3、役所の近所に引っ越す
 4、役所の近所のホテルに寝泊まりする
 5、残業時間を減らすため、役人を増員する
 6、残業しなくてもいいように業務効率を上げる
 7、役人を辞めて転職する
ぐらいしか方法はない。6が理想ではあるが、7と同様まず有り得ないだろうから、残るは1〜5のどれかを選択することになる。客観的に見れば、1のまま継続するのが妥当と思われるが、1がいけないというバッシングが過ぎると、選択肢は2〜5のどれかになる。そのどれを選択したとしても、国民にとってはプラスにはならない。

 2の場合・・・税金によって、役所の近所に駐車場を建設する。
 3の場合・・・税金によって、役所の近所に住居を建設する。
        (税金によって、大幅に安い家賃のマンションが建設される)
 4の場合・・・税金によって、タクシーに乗る以上のホテル料金が発生する。
 5の場合・・・税金によって、膨大な人件費が費やされる。

 (注記:上記の対策は財務省だけでなく、その他の省庁全てに適用されることになる)

 結局のところ、小さな問題で国民が騒げば騒ぐほど、逆効果になってしまう可能性が高いと言える。役所やマスコミがそういう結果になることまで意図しているとは思いたくないが、国民にとって本末転倒な結果にならないことを願う。

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タスポカードとパスポートの関係

 先月、タスポカードは矛盾に満ちたトンデモカードだということを皮肉を込めて述べた(→タスポカード(taspo)というトンデモカード)が、その後もタスポカードの普及はほとんど進んでいないらしく、先日、某テレビ局が、「タスポカードの普及はなぜ進まないのか?」と報道していた。

 まともな常識を有した人であれば、こんな疑問は出てこないだろうと思われるが、この国のマスコミ人には世間一般の常識が通用しないのだろうか? それとも、敢えて疑問を投げかけることによって、タスポカードの普及を推し進めようというマスコミ特有の下心でも働いているのだろうか?
 どちらにせよ、マスコミの「タスポカードの普及はなぜ進まないのか?」という疑問に対する解答は至って簡単だ。
 
 答え「コンビニでもタバコが買えるから」
 
 まさにこの一言に尽きる。タスポカードを本気で普及させたいのであれば、『コンビニなどの対面販売でもタスポカードの提示が必要』とすればいいだけだ。そうすれば、あっという間にタスポカードの普及率が現在の12%から90%にまで跳ね上がるだろう。これは、おそらく間違いないと思う。こんな中学生でも解るようなことをなぜ実行に移さないのかは甚だ疑問だ。そうできない理由でもあるのではないか?と疑われても仕方がないと言える。

 さて、ここで質問。あなたは、顔写真の入っていないパスポートを見たことがあるだろうか?

 「そんなものは見たことがないが、それとタスポカードがどう関係があるんだ?」と言う人がいるかもしれない。しかし実は大いに関係がある。「そんなものは見たことがない」(=無意味な証明書)という意味において、まさしく同一の関係にあると言える。
 逆説的に言えば、写真入りのタスポカードとは、写真の入っていないパスポートと同じ代物だということになる。タバコのパスポートであるから、タスポ(ート)とネーミングしたのだろうが、パスポートは機械に入れるものではなく、対面で見せるものだ。対面で見せる必要のないパスポートに一体、どんな意味があると言うのだろうか?
 
 ○飛行機に乗るための証明書がパスポート
 ●自販機でタバコを購入するための証明書がタスポカード
 
 この2つの違いをよく考えてみよう。前者の場合は、飛行機に乗る前にまず人間がパスポートをチェックする。しかし、後者の場合は、ノーチェックだ。何が言いたいのかというと、飛行機の乗降口にパスポートを認識する自販機まがいの機械が設置されていたとして、その機械がパスポートを認識できたとして一体、何の意味があるのか?ということだ。それは、乗ってくる人間をチェックするのではなく、単にパスポートが本物かどうかをチェックしているだけということになる。こんな飛行機があれば、危険というしかない。同じように、タスポカードで買われたタバコも誰に吸われるか分からないという危険性を秘めている。その危険性を秘めているという意味においても同一の関係にある。
 
 皮肉ばかりで申し訳ないが、結論として言えることは、タスポカードとは、顔写真が入っていないパスポート、つまり、未成年であろうと子供であろうと誰でもタバコが買えるパスポートであるということができる。やれやれ…

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バスガイドさんから見た『改正道路交通法』

 改正道路交通法なるものが、6月1日から新たに施行されることになる。この施行により、高速道路走行中は車の後部座席同乗者のシートベルト着用も義務づけられることになる。(ちなみに違反した場合は、運転手が1点減点される)
 
 今までは前部座席(運転席と助手席)のみのシートベルト着用が義務づけられていたが、今後は後部座席に座った人間もシートベルトを着用しなければならなくなる。
 交通事故を起こした場合のことを考えると、後部座席に座っている人もシートベルトを着用するに越したことはないので、この法案を否定するつもりはないが、この新たな法案の施行によって、またしても有難迷惑を被っている人達がいる。それが、バスの案内役を職業にしているバスガイドさんだ。
 「後部座席の人にまでシートベルトの着用を義務づけるのであれば、立ったまま案内役を務めているバスガイドもシートベルトを着用できる体勢にしなければならない」という融通の利かない意見が出ているためだ。
 
 『運転中、全員のシートベルトの着用を義務づける』ということは、
=『運転中は、誰も立つことができない』ことを意味するので、バスガイドが立ったままでは法律上、矛盾が生じるという理屈らしい。

 しかし、バスガイドがシートベルトを着用して座ったまんまで、バスガイド役を務めることができるのかは大きな疑問だ。お客と同じ方向(つまり前方)を見て案内するバスガイドというのも考えもので、そんな人間味のない案内が常態化してしまえば、バスガイドに成りたいと志望する女性自体が激減、いや、誰もいなくなる可能性すら否定できない。これでは、女性の職業自立を妨げることにも繋がり、失業率も増加してしまう可能性がある。バスガイドがいなくなれば、バスの運転手がバスガイドと二役務めることにもなってしまいかねない。(これもある意味、危険な行為かもしれない)
 昔からバスガイドというのは女性が憧れる華やかな職業の1つでもあるが、安全と引き換えに、その華やかなイメージを破壊してしまってもいいのだろうか?
 
 もう少し掘り下げて考えると、例えば、飛行機に搭乗しているスチュワーデスはどうだろうか? 飛行機が飛行している最中、座席に座ってシートベルトをしているだろうか? 飛行機の場合、車のように停止することはないので、四六時中シートベルトをしなければならなくなる。
 もしシートベルトを着用して四六時中、座席に座ったままのスチュワーデスがいたとすれば、お客はどう思うだろうか? そんなスチュワーデスがいれば、当然、お客に対するサービスもできないので、スチュワーデス自体が不要になってしまう。いくら安全のためとは言え、飛行機にスチュワーデスが居なくなってしまえば本末転倒ではないだろうか?
 
 スチュワーデスもバスガイドもプロの仕事であり、当然、お客よりもリスクを背負っている。飛行機の事故であれ、バスでの事故であれ、お客以上の危険を承知の上でスチュワーデスは飛行機に乗り、バスガイドはバスに乗っているはずだ。
 交通事故が起こった後で、「お客様と同じようにシートベルトをしていれば良かった」と文句を言うようなタイプの人なら初めからバスガイドには成らないだろう。
 要するに、これは職業人としてのプロ意識の問題だ。お客と同じ条件に立つことばかり考えているようなら、それは職業人の態度とは言えない。バスガイドは初めからお客よりも危険であることは暗黙の了解事項であるはずだ。そこに横から「シートベルトの着用を!」などと注意されると、バスガイドは立つ瀬が無くなってしまう。プロ根性を捨ててまで、バスガイドを続けろというのも酷な話だ。
 
 大事なことは、バスガイドがシートベルトをすることによって、お客の安全性は増すのか?ということだ。お客の安全性が増すのであれば、バスガイドのシートベルト着用も一理あると思われるが、実際のところは、バスガイドがシートベルトを着用しようがしまいが、お客の安全性には全く影響がない。お客の安全性に影響があると思われるのはバスの運転手の方だ。バスガイドがシートベルトを着用しなかったとしても、お客を危険に晒すわけではなくて、バスガイド自身が危険なだけだ。
 現在も、バスガイドさん達は“シートベルトを着用していない”という危険を承知して業務に携わっているのだから、本人達が「シートベルトを着用したい」と言わない限り、わざわざ他人がシートベルトの着用を強要すべきではないのではないだろうか?
 
 法令遵守が重要だと言っても、何事にも例外はある。その例外さえ認められないというのであれば、これほど窮屈な社会もない。バスガイドの存在は既に日本だけでなく世界中の文化でもある。日本だけが窮屈な思考でその文化を破壊する方向に傾かないことを願いたい。

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NHKは公共団体 or 営利団体?

 NHK職員の相次ぐ不祥事問題などを経て、NHK受信料の不払いが深刻化していることから、『公平負担のための受信料体系の現状と課題に関する研究会』(総務省)は、「NHKはスクランブル方式※を採用するべきだ」という結論に達したようだ。(衛生放送のみ)

※スクランブル方式……料金を払わないと番組を見られなくする方式
 
 同研究会は受信料を公平に集めるにはスクランブル化が有効だと判断したそうだが、これには少し驚いた。言うまでもなく、お役人が一時的にでもNHKの敵に回った(?)ことに。
 まあ、それだけ受信料を支払っていない人が多いということかもしれないが、私もスクランブル方式を採用することには賛成だ。衛生放送だけでなく、全てのNHK放送をスクランブル化してもらっても一向に構わない。おそらく、NHK放送のスクランブル化は国民の総意ではないかと思う。

 これに対するNHK側は、以下のように反論している。
「スクランブルをかけ、受信料を支払わない方に放送番組を視聴できないようにするという方法は、一見合理的に見えますが、全国どこでも放送を分け隔てなく視聴できるようにするという公共放送の理念と矛盾する」

 この意見は一見、正論っぽく聞こえるが、よく考えるとこの意見自体が矛盾している。「公共放送の理念と矛盾する」と言っているが、矛盾しているのは、NHK側の言い分も同様だ。
 「全国どこでも放送を分け隔てなく視聴できるようにする」という理念は立派だが、肝心な部分が抜け落ちている。それは、「視聴料を支払った者」という言葉だ。
 「全国どこでも放送を分け隔てなく視聴できるようにする」という言葉だけでは、お金を払おうが払うまいが、誰にでも視聴できる権利が有るということになってしまう。視聴できる権利を唱うのはいいが、視聴できる条件が公共という名のもとに省かれてしまっている。これでは受信料を支払わない人間が増えるのは仕方がないと言える。
 “公共放送の理念”というのは一体、何を意味しているのだろうか? その理念自体が極めて曖昧であるがゆえに、NHK側の言い分は単なる詭弁ごっこになってしまっている。
 そもそも、公共の仕事に携わっているNHK職員が、公共人にあるまじき行為を行っていたことが受信料不払いの一因になっているのだから、「公共」という言葉を錦の御旗に掲げるのは可笑しい。

 NHK側は、以下のようにも述べている。
「市場原理によらず、視聴者の視点にたって、特定の利益や視聴率に左右されず、多様で良質な番組を放送することが公共放送の重要な役割です。(途中省略)様々な価値観を相互に尊重しあう寛容な社会の構築に役立っていくことは、民主主義社会の発展にとって大事なことだと考えています。」

 これも完全に矛盾している。「視聴者の視点」に立つのであれば、視聴者がどう思っているのかをマーケット調査して、スクランブル化した方が良いという意見が多数を占めるのであれば、その通りに判断するのが本当の民主主義社会だ。視聴者がこう思っているだろうと勝手に判断して、放送を押し付けてしまうのであれば、それは民主主義ではなく、社会主義の発想だ。
 
 NHK側は、結論として「NHKではスクランブル方式をとるべきではないと考えています。」と述べているが、スクランブル方式を採用するか採用しないかを決定するのは、本来であれば国民の判断に委ねるべきだろう。
 NHKが決定権を持っているのであれば、NHKは公共団体ではなく、企業ということになってしまう。公共団体であるからこそ、国民の判断に委ねるべきであり、それができないというのであれば、それはもはや公共の団体ではなく、私的な営利団体だということを自ら認めているようなものだ。
 
 真面目なNHK職員まで否定するつもりはないが、NHK職員には、『公共』という言葉の意味をもう少し考えてもらいたい。本来、国民に受け入れられない公共団体などは有り得ないということを。

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タスポカード(taspo)というトンデモカード

 今年の3月から順次taspoの導入が始まり、ようやく全国的にtaspoが知れ渡ったところで、案の定、問題点が表面化してきたようだ。
 その問題とは、ズバリ「自動販売機でタバコが売れなくなる」というものである。
 
 既に全国の9割の自動販売機にはtaspoが導入されているそうだが、実際にタスポカードを持っているのは喫煙者の12%しかいないらしい(2008年5月現在)。これでは、自動販売機によるタバコの販売が激減するのは当然の結果と言える。と言っても、タバコを吸う人が減少したわけではないので、逆に対面販売であるコンビニなどでのタバコの販売(売上)は激増していることだろう。
 
 私は数年前から禁煙しているので、タスポカードが有ろうと無かろうと別に構わないが、私の周りでタスポカードを持っている人は未だ見たことがない。そしてタスポカードの存在を認めている喫煙者にも会ったことがない。
 一体、このtaspoとは何なのだろうか? taspoの導入目的は「未成年者の喫煙を防止するため」と唱われているが、よく考えると矛盾していると思われる可笑しなところが多々あるように思われる。
 
 まず第一に、自動販売機での購入がいけないのに、なぜコンビニなどの対面販売ではタスポカードの提示は必要ないのか?ということだ。この一事だけ取り上げても、トンデモない矛盾であることに気付かされる。タスポカードは本人の顔写真付きであることは周知の通りだが、自動販売機で購入する場合、わざわざ顔写真などを入れる必要性は全くない。顔写真を入れる目的は、顔写真と本人が同一人物であるかを確認するためにある。ということは、本来であれば、コンビニで購入する場合にこそ、タスポカードを提示するべきであり、顔の判断ができない自動販売機に顔写真など無用の長物であることは誰にでも判るはずだ。
 本来のあるべき姿は、以下の通り。
  ・タバコの自動販売機は深夜販売を停止する。
  ・深夜はコンビニにてタスポカードを提示する。
 この2点を原則とすれば、未成年者の喫煙はある程度は防止することができるが、実際にはこの2点とも満たしていない。
 現代の自動販売機にタバコを買いに来た人間の顔を自動認証する高度なシステムが搭載されているならともかく、代理の人間(未成年者)が買いに来ても全く反応しない自動販売機になぜ顔写真が必要なのかは大いなる謎と言える。まさか、数十年先の自動販売機での販売を見越しているという訳でもないだろう。

 タスポカードの目的が本当に「未成年者の喫煙を防止するため」であるのなら、その目的を実現するためには、カードの携帯と本人確認を徹底するしか方法はない。つまり、どこでタバコを購入しようがタスポカードが必須という制度にしない限り、目的が達成されることは有り得ない。コンビニはOKだが自販機はNGなどという中途半端な抜け道だらけの制度では全くの無駄であり無意味な制度と言うしかない。
 
 余計な心配かもしれないが、taspoの導入は「未成年者であってもタスポカードを借りれば自販機でタバコが買える」という本末転倒な制度になってはいないだろうか? 結果的に、タバコではなく、taspo付き自動販売機自体の販売増を狙った制度になってしまったのではないだろうか?
 いずれにしても現在のところ、タスポカードの導入は明らかな失敗と言えそうだ。

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通信簿のインフレにみる封建社会

 本日の産経新聞に世相を反映したナイスなネーミング記事があった。そのタイトルは『公立中で通信簿の“インフレ”』
 記事の中身はというと、最近の公立中学校での成績評価が絶対的に高くなっているというもので、酷いところになると、なんと生徒の90%が5(5段階評価)という教科もあるらしい。反対に、評価が1だった生徒は誰もいないらしい。
 
 最近は少子化のせいもあり、1クラスの生徒数も少ないそうなので、ある意味、先生と生徒が緊密なマンツーマン的な関係になり、人情的にも評価1という成績は付けにくくなったということはあるかもしれない。しかし、だからといって、ほとんどの生徒を評価5にするというのはいただけない。これでは“成績評価”ではなくただの“態度評価”になってしまう。
 
 態度評価で成績が決定してしまうのであれば、極論すれば、授業自体を真面目に受けているだけで成績が5となってしまうことになる。授業で教えている学習内容を理解しようと覚えようと関係なく、ただ授業を聞いているだけで成績が5となってしまう可能性があることを意味している。こんな評価基準では最近の大学生も真っ青のレジャーランド中学校になってしまいかねない。大体、そんなデタラメな評価では、真面目に試験勉強している生徒が浮かばれないし、やる気を削いでしまうことになる。
 これはある意味、肝心の仕事ができなくても勤務態度が良いだけで評価されたという昔のサラリーマン社会と同じ構図とも言える。

 大人の社会が激しく変化している時代に、現代の公立中学校では時代と逆行した教育を行っているようだ。中学生に対して時代に逆行した封建社会的な価値観を教え込んでしまうことは、お世辞にも時代にマッチした教育とは言えない。教師達が意識せずとも、時代に敏感な生徒は潜在的に違和感を感じているはずで、その違和感が無気力感につながってしまえば、教師達の明らかな教育ミスになる。

 さらに、「成績が他のクラスと比べて低い」と苦情を言ってくる保護者もいるらしい。
 教師も保護者もどっちもどっちだが、ここまでくると、はたして成績評価なるものが本当に必要なのか?と思ってしまう。生徒個人の本当の学力よりも、他人の判断した評価を重視しているようにしか見えない。その姿はまさに時代錯誤な封建社会教育そのものと言える。これでは、生徒に学力で競争することを否定した教育を行っているのと同じであり、そんな教育で受験に臨む学力を付けさせようというのだから、呆れてしまう。たとえ受験に成功したとしても、社会に出た時に上司の機嫌を取ることしか考えず、また上司の機嫌を取りさえすれば出世できるという勘違いをした社会人を大量に量産することになってしまう危険性がある。

 通信簿のインフレ現象とは、受験競争が激しくない時代であるがゆえの珍騒動とでも言うべきか、それとも、既に学歴が通用する時代ではなくなっているがゆえの珍騒動と言うべきだろうか…。

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「名ばかり管理職」という問題提起

 マクドナルドの店長による残業代未払いの訴訟事件に端を発し、「名ばかり管理職」なる言葉がクローズアップされている。
 名ばかり管理職制度というものは、ある従業員に対して「管理職」という称号を与えることで、原則としてその従業員には残業代は支払わなくてもよいというもので、雇用する側にとっては極めて都合のよい制度ではある。その制度の濫用(?)が事実上、野放しになっていることが問題になっているらしい。
 このての問題は、ずっと前からあるにはあった。私の周りにも以前、「管理職になると残業代が付かなくなるので平社員のままでいい」という人がいた。
 “管理職になること”と“残業代が付くこと”を天秤にかけると、一般的にはどちらを選択するだろうか? この場合、“管理職手当”と“残業手当”を天秤にかけてみて、どちらが得かということが判断の分かれ目となるはずだ。
 例えば、残業代の時給が2000円と考えてみると、一月平均50時間残業したとすれば、一月の残業代は10万円になる。管理職手当が10万円以上付くということであれば、管理職になることを選択する人がいるかもしれないが、管理職手当がそれ以下ということであれば、管理職を辞して残業代を取った方が合理的な判断とも言える。もし管理職手当がゼロということであれば、答えは明白だろう。

 ここで管理監督者の条件を見てみると、以下の4点を満たしているものが管理職と呼べるものらしい。

1、労務を管理する立場にある
2、経営者と同じような立場で判断できる
3、勤務時間や休暇などの規定にしばられない
4、一般社員と比べて賃金面で充分に優遇されている

 ここで注目すべきは3だ。管理職というものは良い意味(=早退してもOK)でも悪い意味(=長時間労働もOK)でも、時間に縛られないということが必要条件になっている。要するに、管理職というものは、時給で働いているわけではないということであり、仕事の責任さえ果たせば、何時に出社しようと何時に帰宅しようと自由だと規定されていることになる。
 ただ、現代では悪い意味での自由だけを背負わされてしまう(=不自由になる)ことになってしまいがちなので、「名ばかり管理職」となってしまうわけだ。当然のことながら、4という十分条件も満たしていない。3と4の条件のどちらか一方だけでも満たしていなければ、管理職になるメリットは乏しいと言わざるをえない。いわんや、両方を満たしていないのであれば、まさしく「名ばかり管理職」だと言える。

 さて、残業代を支払わない企業側を批判するだけでは能がないので、「残業」というものを少し考えてみよう。一口に残業と言っても、仕事にはいろんな業種が存在するので、なにをもって「残業した」と呼べるのかも考える必要がある。
 流れ作業を行っている人や、製造機械のスピードに依存する業務に携わっている人は、企業側が生産量を考慮した時給(時給月給制)で雇用されているわけだから、残業した分については残業代は当然、支給されなければならない。もし生産量的に残業代が支払えないということであれば、基本的な時給自体を下げてでも残業代を支払うようにするべきだろう。
 同じ製造業であっても、機械ではなく本人の能力に依存する仕事(プログラマーやデザイナーなど)の場合は、どこからどこまでが残業になるのかは正確には判断できない。これらの職種の場合は、時間ではなく物量で計るべきものなので、残業したと言っても、決まった物量をこなしていないのであれば、それはただの居残りであって残業とは言えない。逆に他人の2倍3倍の仕事をこなす人であれば、残業代を支給されたとしても割が合わない。そういう理由から、企業側は、仕事ができる人に対しては能力給よりも時給を適用したがることになる。残業代は支払われるとはいえ、これもある意味、「名ばかり残業」と言えるかもしれない。
 営業職や販売職なども、どこからどこまでが残業になるかは判断が難しい。営業職の場合、勤務時間中に空き時間があることもあり、一日中、動きっぱなしというわけではないだろうし、販売職にしても、1日中、接客しているわけでもなく、売上も一定しているわけでもない。

 ということで、「残業代を支払え!」と言っても、それを言う資格が有る人と無い人がいることを見落としてはいけない。如何に正論ぶった批判のように聞こえても、中には愚痴にしかなっていない人も存在することを忘れてはいけない。
 基本的に「残業代を支払え!」と言うためには2つの条件を満たしている必要がある。その条件の1つは、その企業が残業代を支払うほど経営に余裕があること。もう1つが、その従業員自身が残業代を貰うだけの仕事量をこなしていることだ。
 バブルが弾けるまでは、仕事をしていなくても会社に残るだけで残業代が無条件に支給されるという夢のような時代だったのかもしれないが、現代では仕事の実績をあげるという条件を満たさない限り、残業代は支給されなくなってきている。(これは常識的に考えればごく当たり前の姿だと言えるのだが) そして、仕事を行うという義務もろくに果たさずに「残業代を支払え!」と言うような(権利ばかり要求する)社員ばかりでは、将来的にはその残業代どころか給料ですらまともに支払うことができなくなってしまうという企業側の言い分も無視できない。
“企業=悪”“労働者=善”というような労働組合的(?)なステレオタイプ発想はもはや通用する時代ではない。なぜなら、企業も無い袖は振れないからだ。
 名ばかり管理職問題というものは、要するに、時間で残業代を支給するのではなく、能力に応じた残業代を支払う方向に企業がシフトしていかなければいけないという問題を提起しているのである。

(余談)
 世間では中間管理職がリストラの対象になったと言われてきた反面、なぜか、名ばかりの管理職だけは増加してしまったようだ。しかし、管理職というもの自体がほとんど必要ない現代にあっては、名があろうとなかろうと、名ばかり管理職でしかないのかもしれない。どちらにせよ、もはや管理職というもの自体が虚構であると思った方がよさそうだ。

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“たらい回し事件”の本質とは何か?

 最近、妊婦や救急患者の“たらい回し事件”というものが頻発しており、中には救急車で10件以上の病院をたらい回しにされるという人もいるらしい。もちろん、これは笑い話ではない。実際にたらい回しにされた挙げ句、亡くなった人まで出ているのだから、事態はより深刻だ。患者や家族の身になって考えると、これはまさに恐怖以外の何ものでもないと思える。

 こういった事件が増えてきたことで、病院の医療体制自体を非難する声もあるが、何が問題なのかを少し考えてみよう。
 まず、救急患者をすぐに受け入れることができない理由とは何だろうか?
常識的に考えれば、次のような理由が考えられる。

 1、病室が満杯状態
 2、医者や看護師が不足していて対処できない
 3、医者が余分な仕事に時間を費やしている。または治療の必要のないような
   患者を多く抱え過ぎている

 その病院が人気のある美容院よろしく物凄く評判が良くて、そのせいでいつも満員だというのならともかく、救急車で10数件回った病院すべてが同時期に満員というのはあまりに不自然だ。では病院が嘘をついているのかというと、そうではないだろう。おそらく考えられるべき答えは、「需要が供給を大きく超えてしまっている」ということだろう。つまり、病院も医者も看護師も足りていないのではないか?ということだ。この場合、上記の1と2は現象面における理由となるが、3も全く無関係というわけではないだろう。

 高齢化社会にあっては、当然の如く、病人の数は増える。これには疑いの余地はない。ではなぜ、医者の数が比例して増えないのだろうか? その中でも特に産婦人科医が増えないのはなぜだろうか? 少子化であるがゆえに産婦人科医が減少しているからだろうか? しかし、少子化が理由で産婦人科医が減少しているのであれば、高齢化が理由となって内科医や外科医は増加して然るべきはずだ。しかし、そうはなっていない。つまり、市場原理の法則が機能していないということになる。需要の無い所も需要の有る所も同じように人手が足りていない(供給が追い付いていない)。これはなぜだろうか?

 産婦人科医というのは、時間的にも不規則な勤務となるそうだ。そして死産などの事故が発生してしまうと訴訟事件に発展してしまうというリスクも背負っている。そう考えると、産婦人科医が減少してしまう理由は少子化以外にもあるのかもしれないが、ここでは少し別の角度から問題を掘り下げてみよう。
 産婦人科医が“医療業界の中では比較的、労働条件が悪い”ということが成り立つのであれば、収入はどうなっているのだろうか? 成り手がいないのであれば、収入が高いと思われがちだが、実際はそうではないらしい。
 心理的な面だけでなく、経済的な面でも市場原理が機能していない。なぜか? 答えは到って簡単、それは様々な規制のためである。

 日本では、医者に成れる人数も、医療における収入も医療にかかる費用も厚生労働省の管理下に置かれている。病人が増えようが減ろうが、役人が勝手に医者の人数を規定してしまっているのだから、市場原理など機能するはずもなく、必然的に需要と供給のバランスが崩れてしまうことになる。
 このことについては、経済学者の蔵 研也氏も著書『国家は、いらない』で詳しく述べておられる。
 もう1つ、ついでに述べると、高齢化社会では医者の需要は増加するが、その先にある人口減少社会が訪れれば、医者の需要は減少することになる。その場合は当然、医者が余ってしまうことになるので、医者になる人数は減少して然るべきはずだが、そうはならない。役人の勝手な規制のために、またまた市場原理が機能せず、医者余りが社会問題となってしまう。医者余りはある意味で、医者が足りないことよりも大きな問題となるかもしれない。

 “たらい回し事件”が社会問題となり、成り手のいない産婦人科医を増やしたいのであれば、産婦人科医の収入が上がるようにするべき(=医療費を上げる)だろう。一生に数回の出産費が上がることに不平不満を言う人はそうそういないだろう。そもそも病院をたらい回しにされるぐらいなら、少々、医療費が高くても仕方がないと思うはずだ。しかし、そういった自由な判断(医療費の差別化)が、様々な規制のためにできなくなってしまっているところに問題の根源がある。
 これは医療だけでなく全てについて言えることだが、役人達のいらぬお節介のために、様々な弊害が発生しているということだ。
 “たらい回し事件”が発生する根本的な原因は、病院の体制にあるのではなく、日本の医療制度そのものにあると言える。そしてその制度の根っこに存在しているものこそ、社会主義という悪平等思想だ。つまり、“たらい回し事件”とは、純粋な医療問題ではなく、不純(?)な政治問題なのである。



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少子化は社会変革期のメッセージ

 『少子高齢化』という言葉が検索エンジンに引っ掛かり、当ブログを閲覧される人が多いようなので、改めて、少子高齢化について考えてみたい。
 少子高齢化に歯止めがかからないということは既に述べた。政府(=国家)の力が弱くなったことが少子高齢化の一因であり、国ではなく、個人が主役の時代が訪れつつあるのではないかという仮説も簡単に述べた。
 これについては、別のブログで反論(?)する人も出てきたが、気にせずにさらに少し話を進めてみたい。

 まず、少子高齢化は良いことなのか、それとも悪いことなのか? これについては様々な意見を述べている人が存在している。悪いという人が圧倒的多数を占めていることは言うまでもないことだが、中には良いことだと言っている人もいる。その場合の「良い」と言うのは、『少子高齢化』が良いというよりも、『人口が減少すること』は良いことだという限定的な意味なのかもしれないが。
 では逆に、多子低齢化は良いことだろうか、それとも悪いことだろうか? これに対する意見は聞いた記憶がないが、あまり良いとは言えないだろう。なぜなら、それは読んで字の如く寿命が極めて短い社会と言えるからだ。おそらく、子供を3人以上産み、産んでからの余生が短い、年齢でいうなら50歳程度で寿命を迎えてしまうような社会だろう。要するに、これは、これから人口が増加していくという発展途上国のような社会と言える。(この場合の子供が3人というのは、産まれた子供が病死や餓死をしないということが前提)

 少子高齢化が悪いことだとする理由は、高齢者の面倒をみる人が足りなくなること、そして高齢者の生活を保障するための経済的資金が足りなくなること、そういった福祉対策を考慮しなければならない反面、若年者の労働力が低下するということ、そのせいで、国の経済力自体も低下してしまうことなど、実に様々な問題がある。
 政府からは少子高齢化対策と言えるような抜本的な政策は何1つ聞こえてこない。聞こえてくるのは、取って付けたようなその場凌ぎの策ばかりで、どこまで本気に少子化について考えているのか疑わしいと言わざるを得ない。

 では、何か策があるのかということだが、その前に、何か対策を立てれば解決する問題なのか?ということを考えてみたい。例えば、給料所得を上げるという政策を講じたとして、果たして少子化が解決されるだろうか?
 既に結婚していて子供がいるという人であれば、もう1人子供を産むことは考えられるが、多くの結婚していない人達が結婚し、子供を設けようと思うところまでガラッと心境が変化するかというと、私にはそうなるとはとても思えない。一部の国民が少子化から抜け出したとしても、総ての国民が揃って少子化から抜け出すことになるとはとても思えない。現在の日本の少子化が、単に経済的な問題だけで起こっているものだとは思えないからだ。中にはそういう人もいるだろうが、現在の少子化の進行には、時代的にそうならざるを得ない何かがあるのではないかという気がしてならない。もし、少子化自体が必然的に発生している現象であるのだとすれば、人為的に如何なる対策を講じたところで、完全に解決できるはずがないと思われるからである。

 日本という国の経済が、人間の身体と同じように既に“成熟期”を迎えたのであれば、過去の“成長期”に戻ることは難しい…というより不可能に近い。それに、一国の経済が成熟期を迎えたにも関わらず、途上国並みに人口が増加し続けても、別の問題が発生してしまう可能性がある。(例えば、就職難など)
 日本がモノ作りを中心とした農業・工業国であり続けていた間は、仕事はあっても人手が足りないということで子供はどんどん増えていっても、さして問題は発生しなかった。しかし現代のような知的情報化社会にあっては、子供の数が増えれば増えるだけ、競争が激しくなり、普通に生活していくことが更に難しくなるかもしれない。時代的背景を考えずに子供が増え過ぎても、逆に生活苦が待っている可能性がある。
 あるいはこうも言えるかもしれない。今までの日本は時代的背景などはほとんど考えずに生きてこれた。それは物凄く希有なことであり、運が良かったのだと。もう少し具体的に言うと、市場原理を無視して生きてこれた社会だった。つまり、統制経済の色が濃かった時代だったとも言える。
 個人の人生が画一的なものとして統一化され、国民はそれを当然のこととして受け入れていた。そういった空気が社会を支配していたため、誰もそのことを疑わなかった。
 ところが、現代の日本社会は、市場原理が機能し始めたことによって、結婚を例にあげても、離婚する人、非婚の人、晩婚の人など様々なタイプの人達が存在することになったのではないだろうか? 管理された社会ではなく、ある意味、自由な選択が許される社会になったと言えないだろうか?

 国家は、自らが生き長らえるために国民を管理し束縛したい。しかし、社会自体が一足お先に自由な時代を迎えてしまった。国家は時代に乗り遅れた。いや、自由と国家とは相反するものであるのだから、元々、自由な時代と国家が交差することはない。本来、国家の幸福は国民の不幸であり、国家の不幸は国民にとっては幸福なものであるからだ。
 日本の高度経済成長期には、その常識が通用せずに、国家と国民の双方が幸福になれる(=WinWinな関係)という幸せな時代だった。この幸せな時期をとらえて、諸外国の人々は日本を「世界で初めて成功した社会主義国」だと皮肉った。しかし、それは奇跡的な偶然が齎した夢のような幻想期間でもあったのだということに多くの国民が気付き始めた。

 国家は、自らの命を延命させるために是が非でも子供を増やしたい。しかし、束縛よりも自由を求めつつある国民は素直に言うことを聞かない。
 途上国では国が子供を産むなと言っても、自然と子供は増える。逆に、成熟国では、国がいくら子供を産めと言っても、自然と子供は減少する。この違いは統制経済と自由経済の違いであると言えなくもない。そのことからも、少子化や多子化というものは、そもそも人為的に操作できるものではないとも言える。そしてこうも言える、少子化は国民から国家に対する目に見えない社会変革期のメッセージであると。

 そうであるなら、政府が考えるべきことは、少子化から脱することではなく、少子化時代を如何に生きていくかを追究することなのかもしれない。時計の針を過去に戻そうとするのではなく、時計の針に追い付くためにはどうすれば良いのかを考えることこそ重要なのではないだろうか。
 国家(政府)が人間を統制することはできても、時代を統制することはできないという当たり前の事実を受け入れること、それが現在の政府がまず行うべき対策であり、また、行わねばならない試練なのかもしれない。

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官僚がおかしくなった訳

 昨今、官僚バッシングが盛んになった。これほど官僚に対するイメージが悪化したことは国民にとって良いことなのか悪いことなのか、その判断は難しいと言えるかもしれない。
 某新聞の記事にも、守谷事務次官を例に出し、官僚バッシングの行き過ぎに警鐘を鳴らすようなことが書かれていた。官僚バッシングが過ぎると、官僚のイメージダウンにつながり、優秀な人材が国家公務員試験を受けなくなり、誰も官僚に成りたがらなくなるというものだった。
 確かに、その通りかもしれないが、はたして21世紀の現代にあって優秀な一握りの官僚達に国家の運営を任せることが重要なことなのかどうかという疑問は残る。実際に現在、最も優秀な学生達は官僚にはなっていないらしいので、その理由が単に官僚のイメージダウンからくるものだとは思えない。

 さて、ではそもそもなぜ、現代の官僚はこれほどまでにバッシングを受けるようになってしまったのだろうか? かつて、官僚と言えば日本で最も優秀な人達という意味で国民からは尊敬の念を持たれていたものらしいが、なぜこれほど忌み嫌われる存在に堕してしまったのか? その謎を解明しない限り、いくら官僚バッシングを行ってもあまり意味がないのではないだろうか?

 官僚バッシングで有名(?)な経済学博士の加藤 寛氏の本には次のようなことが述べられている。

 「官僚の質が落ちたのは、公務員年金法が改正されて、官僚を退職した後の年金額が大きく減額されてからです」と。

 要するに、彼ら官僚が天下り先作りに奔走するのは、官僚に対する老後の保障が低下した(=無くなった)からだというものだが、私もこの意見には同感だ。
 仕事における優劣はないとは言うものの、日本の屋台骨を支える重要な要職に就いている人間が、一般のサラリーマンと同じ待遇では、確かに文句の1つも言いたくなるかもしれない。苦労して勉学に励み、東大の法学部に入学し、国家公務員試験に晴れて合格して、日本国家の運営を任されたという立場の人間(と言っても、頭脳が良いこと=優秀な人間とは限らない)が、一般の人々と同じ待遇ではやってられないというのは人情というものだろう。企業の社長と社員が同じ待遇では「社長などやっていられるか!」というのと同じ理屈だ。

 「どのように大事な仕事を任された優秀な人間であったとしても、老後の保障は一般人と全く同じにしなければいけない」という意見もあるだろうが、ほんの少数の官僚達に対してそういう縛りを設けてしまったがために、官僚達はまさに一般人と同じように“日本の将来の心配”ではなく、“自らの老後の安定”だけを目的として天下り先の確保に走る結果となってしまった。これでは本末転倒ではないだろうか?

 加藤氏も言われているが、これは要するに社会主義思想が生んだ弊害と言える。
 万人が平等(結果の平等)でなければならないとする社会主義思想こそが、官僚がおかしくなった原因であり、この諸悪の根源である根っこを引き抜き、新しい種を蒔かない限り日本の将来はないというのは確かにその通りだろう。
 しかし、だからといって現代の官僚を擁護するつもりはない。なぜなら、その社会主義思想を日本に蔓延させたのは他ならぬ官僚達自身でもあるからだ。
 官僚達は自らが創り出した日本独自の社会主義システムによって、自らが堕落に追い込まれるという事態を招いてしまった。つまり、自業自得だ。

 もはや、日本型社会主義では日本株式会社の経営は成り立たなくなっていることは周知の事実であるので、官僚達は自分達のためにも、そして日本の将来のためにも大きく舵取りする必要があるのかもしれない。そして国民達も表面的な人間としての官僚バッシングではなく、その奥にあるシステムとしての官僚バッシング(=社会主義バッシング)に切り換えるべき時が来ているのかもしれない。

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食品加工会社のジレンマ(減価償却と廃棄焼却)

 ここ数年で、自動車を始め電化製品などの消費財が『受注生産』という形に徐々に変化してきていることは、一般消費者なら誰もが気が付いていると思う。
 受注生産方式が一般化される一昔前までは、大量生産方式が採用され、商品を注文前(需要が発生する前)に大量に生産し、メーカーは多くの在庫商品を抱えているというのが当たり前の状態だった。しかし、昨今のパソコンを見ればよく分かるように、商品の日進月歩が激しく、余分な在庫などを抱えていると減価償却できずに赤字になってしまうという時代になってしまった。

 パソコンのように半年に1回モデルチェンジを行っていれば、売れ残った商品の在庫がアッという間に山積みとなってしまう。しかもその時点で如何に高性能なパソコンであろうとも、数年経てば例外なく陳腐化してしまい、二足三文の価値しか持たなくなってしまう。そんな時代であれば、いかに時代に疎い経営者であっても、在庫などを抱えている場合ではないことに気が付くだろう。そして実際にそうなっている。

 基本的に、全ての電化製品等は受注生産に切り換えることは可能だろう。携帯電話しかり、音楽プレーヤーしかり、DVDレコーダーしかりだ。しかし、世の中には、いくら在庫するのを嫌がっても受注生産化できないものがある。それは商品としての価値が極めて短期間(有限)であるもの、つまり、食料品である。 無論、例外的な食料品は存在するが、ここでは一般論として述べる。

 食料品は基本的に長期間の在庫はできない。賞味期限内に売ることができなければ、かつての大量生産時代のように、商品を廃棄しなければならなくなる。食料品はパソコンと違って、中古品として販売することもできず、部品を分解して再生産するという芸当もできない。当然のことながら、売れ残った商品の数だけマイナスとなる。売れた商品の利益でマイナス分を補うことができればいいが、薄利多売の商品であれば、大きな赤字になる可能性がある。ここに、最近の賞味期限改竄事件の裏事情を垣間見ることができるかもしれない。

 世間(マスコミ)では、「賞味期限の徹底」を訴えてはいるが、“賞味期限の厳守”とは=“商品の廃棄焼却”を意味する。「賞味期限の切れた商品は速やかに廃棄してください。」というのは、消費者側から見れば当然のことであるのだが、生産者側から見れば、場合によっては死活問題に関わってくる。もっとも、賞味期限の改竄が発覚した時点で別の意味での死活問題を抱えてしまったことになるのだが。

 賞味期限を厳守することが企業の第一目的になってしまえば、問題となった食品加工会社が選択できる道は2つしかない。
 1つは、在庫を極力抱えないように、需要を上回る生産を避けること。(=大幅なリストラ)
 もう1つは、商品の賞味期限を延ばす方向に経営の舵取りをすること。(=新商品の開発)

 そのどちらを選択するにしても、企業として大幅な改革が必要になる。はっきり言ってしまうと、利益追及をひとまず置いておいて、法令遵守に努める方向に傾いてしまうことになる。しかし、これらの食品加工会社にそんな悠長なことを行っている余裕があるのかは疑問の域を出ない。そしてもう1つ見落としてはならないことは、どちらに転ぼうと“商品の値段が上がるかもしれない”ということだ。あるいは、商品自体が市場から消えることになる可能性もある。(=経営不可能=倒産)

 マスコミは「賞味期限の徹底」を訴える前にまず、これらの食品加工会社が賞味期限の改竄を行っていた動機を考える必要があるかもしれない。その理由が、単にお金儲け主義、悪く言えば、欲から出たものであるのか、それとも、そうしなければ、経営が成り立たなくなっていたがゆえに仕方なく行っていたのか。
 前者であるなら、「賞味期限の徹底」を訴えることは正しい選択だろう。しかし、後者であった場合は「賞味期限の徹底」を訴えても、ナンセンスかもしれない。後者である場合はむしろ、経営自体を根本的に変革する必要がある。つまり、「賞味期限の徹底」ではなく「企業改革の徹底」を行わないことには、解決できない問題とも言える。
 時代が進歩したにも関わらず、大量生産時代の方式を採らざるを得ない食品加工会社のジレンマ、そのジレンマを追究しないことにはこの問題の解決策を見い出すことはできないだろう。

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『内部告発』というシンクロニシティ

 不二家〜石屋製菓〜赤福と、賞味期限を偽った食品加工会社の不祥事が続いている。
 それぞれ、ペコちゃんキャンディー、白い恋人、赤福餅と、日本の食文化が生んだとも言えるような有名な和洋菓子の改竄事件だけに大きな話題を呼んだ。
 しかし、これらの事件には興味深い2つの共通点がある。
 1つは、『被害者はいなかった』ということ。もちろん、賞味期限を偽った商品を買わされたとする金銭的被害と精神的被害は存在するが、その商品を食べたことによって齎された被害は無かった。
 そして、もう1つの共通点は、すべての偽装は内部告発によって発覚したというものだ。(食中毒が出たわけではないので、これは当然のことではあるのだが)

 最近の赤福を例にとると、賞味期限の改竄と言っても、大きく分けると2種類の改竄があった。1つは、単に賞味期限表示を偽ったというもので、もう1つが、冷凍することによって、商品自体の賞味期限を延ばしていたというものだ。
 前者の場合、賞味期限表示を実際よりも故意に引き延ばしていたわけだが、賞味期限を延ばしていても、商品が腐っていたわけではなかった。つまり、わざわざそんな姑息なことをせずとも、赤福餅はもう少し賞味期限を延ばしても問題はないということにすれば、事件にはならなかったとも言える。
 本来、3日間とされていた賞味期限を5日なり7日なりに変更しても商品が腐っていないのであれば、大勢には影響がなかったかもしれない。要するに、昔から3日間だと限定されていたものにこだわり過ぎたのが仇となってしまったと言えなくもない。
 後者の場合も、冷凍していることを隠さずに、冷凍の赤福餅ということにして少し安価で販売していれば、なんの問題もなかったかもしれない。なぜなら、皮肉にも消費者の誰一人として冷凍の赤福餅であることが分からなかったのだから。(つまり、食した味はほとんど変わらなかったことを意味する)
 この場合も、昔からの決まり事を守り過ぎたことが仇になったと言えるかもしれない。老舗である赤福が設立された江戸時代には当然、冷凍技術などというものは存在しなかったのだから、冷凍の赤福餅など販売しているはずがない。だからと言って、伝統を守るために冷凍技術の発達した現代にあって、冷凍処理した赤福餅を販売してはならないということにはならないはずだ。
 赤福の伝統を守るために行っていたことが、結果的に赤福の伝統を破壊することになってしまったというのであれば、本末転倒もいいところだ。

 こういった食品加工会社の不正事件が内部告発によってしか明らかにならないという背景には、その食品加工会社自体が極めてクローズドな社風であることを物語っている。数年、数十年間も不正がバレずに済んでいたということは、その会社内で働く会社員自身が、会社と一蓮托生だったからと言えなくもない。不当解雇もリストラもなかった昔ながらの終身雇用制度が根付いた会社では、会社員は全員、運命をともにする家族のようなものであったので、不正や改竄があっても誰も告発するようなことはしなかった。しかし幸か不幸か、そういう昔ながらのムラ社会が崩壊したがために、続々と内部告発者が出現してきたのかもしれない。まるで、心理学で言うところのシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)現象のように。そのシンクロニシティ現象が、クローズドな社会から開かれた社会に変化する過程において現れる浄化現象であるのなら、今後も同じような内部告発が続くかもしれない。
 しかし、実質的に被害者のいないこれらの食品加工会社よりも、むしろ、本当に被害者が出ている役所(薬害肝炎問題の厚生労働省など)の内部告発を期待したいところだ。閉鎖的過ぎる役所にこそシンクロニシティ(浄化現象)は必要かもしれない。

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日本の年功序列制度の問題点

 今となっては、日本企業の年功序列制度や終身雇用制度は完全に崩壊したと言っても過言ではないが、かつて(バブルが崩壊する以前)は、当然のこととして受け入れられていた。一度、会社に入社すると、定年を迎えるまで、給料が段階的に右肩上がりに上昇するという常識が何の疑いも持たれることなく罷り通っていた。
 さて、ここで年功序列制度というものを少し考えてみよう。
 「年功序列」という言葉をそのままストレートに考えれば、“年々、年齢とともに一定の割合で給料が上がっていく”ということを意味しているのだろうが、より詳しく考えると次の2種類のケースが考えられる。

 A、勤続年数とともに仕事が上達するので、その分の給料が上がっていく。
 B、仕事の質にも量にも関係なく、年齢を重ねるだけで給料が上がっていく。

 上記のAであるなら、年功序列制度というものもある程度(ある一定年齢まで)は合理的な制度ということができる。こういう制度であるなら年功序列制度もそれほど悪くないかもしれない。
 しかし、Bの場合は、仕事の出来、不出来に関係なく、無条件に給料が上がっていくことになるので、極めて不合理(=不条理)な制度と言える。
 それでは、かつての日本企業はAとBのどちらが支配的だったのかというと、残念ながらBだろう。
 しかしBは、言葉通りの単なる年功序列制度とは言えない。“年齢が上がるたびに給料が上がる”だけでなく、“仕事の量は逆に減少したとしても問題なし”という見えない制度が暗黙の内に付加されていることになる。極言するなら、“仕事をしなくても給料が出る”制度だと言うこともできる。
 つまり、日本企業の年功序列制度というものは、年功序列に年功搾取という制度がくっついているという極めて御都合主義的な制度(=年功搾取制度)だったのである。無論、仕事をしない人には都合が良いという意味である。

 特に人口が増加していた時代は、同時に経済成長時代だったということも手伝い、定年を迎える人以上に数多くの新入社員が入ってくるような時代だったので、この年功序列制度はまさしく、ねずみ講の如く威力を発揮した。とにかく若い者に仕事を任せておいて、年功者はろくに仕事もせずに高給という現代(の中小企業)ではおよそ想像もつかないようなデタラメが通用した時代だった。それはまるで、年功者=全員公務員とも呼べるような平和な時代だったと言えるかもしれない。

 ところがバブルが崩壊して一転、坂道を転げ落ちるかのように、日本企業の年功序列制度が瓦解した。これは偶然がもたらした出来事というよりは、むしろ歴史の必然であったとも言える。
 しかし、よく「日本的経営」という言葉を持ち出して、かつての日本企業の年功序列制度を絶賛し、隙あらば、回復させようとする動きがある。彼らはこう言う。「日本独特の日本的経営を維持していくことは、グローバル化した現代にこそ必要だ」と。
 彼らの意見は、一見まともそうに聞こえるのだが、彼らの言う日本的経営とは戦中戦後からのごく短期間の出来事をとらえているだけに過ぎない。まあ確かに、“のんびりと仕事ができる生活”というのも悪いものではないだろうし、全員がのんびりと仕事してやっていけるなら大いに結構だ。しかし、それには条件がいる。その条件とは、『その状態を続けても世界経済の中を生きていける』という条件だ。それが可能だと言うのであれば、鎖国でもして日本的経営で暮らしていけばよいかもしれない。しかし現実的には、そんなことは不可能だ。日本的経営がいくら良いといっても、それを続けていくことは、現実をより悪化させることに繋がってしまう。ゆえに、続けるわけにはいかないのである。

 お断りしておくが、私は年功序列制度や日本的経営を否定しているのではない。働かずして給料が出る制度を否定しているだけだ。本来、実体経済下では、給料やボーナスというものは利益を出して初めて得ることができるものだと言っているに過ぎない。(マネー経済下ではこの限りではない)
 今後、個人が仕事をしていく上では合理化というものは無視できないと言っているだけであり、日本的な経営自体を否定しているわけではない。
 そもそも、日本的経営というものは何も年功序列制度だけにこだわる必要性はない。そして、過去の経営方法にもこだわる必要性もない。年功序列制度や終身雇用制度だけにとらわれない世界に誇れるような本当の日本的経営を今後、新しく創っていけばいいのである。具体的な案は今後、考えていくことにしょう。

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一風変わった国民の義務

 国民の義務というものにはいろいろとある。
 『納税の義務』『勤労の義務』『教育を受けさせる義務』が国民の三大義務と言われているが、一風変わったものに、『NHK受信料を支払う義務(注1)』というものがある。
 これは誰もが知っている。しかし、誰もがその義務を果たしているわけではない。
 では義務を果たしていない人は法律を犯していることになるのかと言えば、これは実に難しい(?)問題だ。

 NHK側は、受信料を支払わない人を対象に、裁判沙汰にするというような脅し文句も使用しているようだが、それでも払わない人は払わない。なぜ払わないのかというと、その理由は様々だ。よく聞く理由を以下に列挙すると、

1、単にお金を払いたくない
2、視聴していない
3、NHKの思想信条が合わない(例えば、反日寄りの報道など)
4、徴収制度が時代遅れ(従量制にするべき)
5、番組がつまらない
6、NHKは不祥事を起こしている
7、NHK職員の年収が1000万円以上もあるのはおかしい

 1と7は論外として、多く人は「納得できない」というのがその答えとなっている。つまり、真面目に支払うことよりも、支払わない方にも意義があると思っているようだ。
 確かにこの考えには一理ある。実際にNHKの番組を必要としていない人がいるのは確かだし、それらの人達は本当にNHKの番組を視聴していない。視聴もしていないのに、なぜ受信料を支払わなければいけないのか?という疑問は至極当然の疑問だと言える。

 これらの意見に対するNHK側の回答は、「テレビを置いているから」「法律で定められているから」の二点張りらしいが、どうも説得力に欠ける。これでは、「車が走行していない時でも、赤信号を無視してはいけない」「あなたはその赤信号を無視したので罰金を支払わなければならない」と言っているのと同じようなもので、全く融通が利かない回答とも言える。さすがの警察もここまで言うことはないだろうが、NHKの職員はある意味、警察以上に融通が利かないと思われているのかもしれない。

 現代では、NHKの番組だけに依存しているような人は、残念ながらほとんどいない。民放でもニュース番組は放送されているし、インターネットでも即時、流れている。
 一方、有料の衛生放送などもいろいろと存在しているが、あくまでも視聴したいという視聴者の任意契約が前提となっている。NHKと同じ月額固定料金とはいえ、観たくない人まで強制的に視聴料を徴収したりはしていない。
 これはむしろ当然のことであって、需要と供給のバランスを無視したNHKのような料金取り立ては、悪く言えば、番組の押し売りだと言われても仕方がない面がある。
 例えば、置き薬に喩えてみればよく解るかもしれない。ただ置いているだけで、使用料を支払わなければならない置き薬というものがあれば、誰もそんな置き薬屋と契約などしないだろう。置き薬は使ってナンボだ。しかしNHKは観てナンボではなく、置いてナンボとなってしまっている。テレビ本体がNHKのレンタルというのならまだ理解できそうなものだが…。

 法律は正しいと言っても、法律が時代を超えて必ず正しいというわけではない。法律も時代環境とともに変化していくものだ。戦時中の常識が現代でも必ず常識になっているわけではないのと同様に、NHKの受信料を支払うという常識も、もはや常識では無くなっているとも考えられる。

 全国民から一律に受信料を徴収しなければならないのであれば、いっそのこと、税金にしてしまえばいいのではないか?とも考えられるが、これはできないらしい。
 なぜかと言えば、“万人が等しく視聴する権利がある福祉番組”というのがNHKの立場だということ。しかしこの論法でいくと、貧しい人間は視聴料を支払わなくてもいいという論理になってしまう。福祉番組であるなら、視聴していても視聴料を支払えないなら支払わなくてもいいということになってしまう。ゆえに、視聴料の支払いは“強制”ではなく“任意”という結論になってしまわざるを得ない。
 NHKはこの矛盾を直すことを考えた方がいいかもしれない。しかし、この矛盾を直そうとした場合、避けては通れないのがNHKの民営化だ。
 結局のところ、時代がそれを望んでいるのかもしれない。現在のNHKが意識しなければいけないものは、未納受信料の回収ではなく、テレビ局としての市場原理だろう。つまり、受信料を支払うことを義務化することではなく、放送会社としての義務を考えることだろう。言わば“NHKの義務”だ。その義務とは? 無論、他社と競争するという義務である。

(注1)NHK受信料の支払いは法律的に義務化されているわけではありません。世間一般では義務だと思われているという意味を込めて、『義務』という言葉を使用しています。

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公務員天国の終わり

 社会保険庁では現在、宙に浮いた5000万件以上のデータ照合を行うために、派遣会社から人材を集めている。
 確かに社会保険庁職員だけでは、人数が足りないことは明白なので派遣会社に頼るのも無理はない…と言いたいところだが、これはハッキリ言えば掟破りの対処法と言える。
 社会保険庁の役員はテレビのインタビューでこう応えていた。

 「所定の人員だけでは手が一杯なので、派遣の臨時職員を募集して対処していきます」

 何も考えずに聞いていると、自信に満ちた意見に聞こえるのかもしれないが、よく考えるとこの意見は少し可笑しい。通常であれば「ちょっと待った!」という反論があって然るべきところだ。
 この役員の意見を正確に言い換えると次のようになる。

 「所定の人員だけでは手が一杯なので、国民の税金で派遣の臨時職員を雇い、対処していきます」

 派遣人員を雇うのは構わないが、その人件費は誰が支払うのか?という部分がすっぽりと抜け落ちており、一番重要なところを言及していない。つまり、ミスを犯した組織の自己責任論が全く入っていないのだ。
 地震などの災害で偶発的にデータが失われたというのなら、そこに国民の税金を投入して解決するのは止むを得ないだろうが、今回のミスは明らかな人為的ミスであり、必然的に発生したミスだ。今まで隠していたことも考慮すれば、ミスと言うよりも悪質な不正事件とも言える。
 どんなミスや不正を行っても、自分達の腹は痛まず、全て国民の税金でなんとかなるのなら、そこには何の責任も伴っていないことになる。そんな無責任な組織が今後も年金保険料の管理を行っていけるのかどうかは疑わしい限りだ。

 また、覚書なるものが存在しているらしく、その覚書にはこんなことが書いてあるらしい。

 『コンピュータ導入における1日のキータッチは平均5000文字以内』

 これはもう冗談にもならない。常識の範疇を超えている。
 5000文字以上と言うのならまだしも、5000文字以内にしなければならない理由とは何なのか? 通常、民間企業では仕事のノルマというものが存在するが、社会保険庁の場合、ノルマではなく逆ノルマになってしまっている。
 『仕事はこれ以上しなければならない』ではなく、『仕事をこれ以上してはいけない』という民間企業とは逆さまの論理が罷り通っていたことになる。
 民間企業のキーパンチャーが文字入力を行った場合、5000文字程度なら早い人なら数分、遅くてもせいぜい30分もあれば充分だろう。5000文字を入力して1日の仕事が終わるのなら、これほど楽な仕事はない。と言うよりも、こんなのは仕事とは言えない。民間企業で1日5000文字しか文字入力できないのなら、仕事にならない。当然、給料も支払えないので、即日クビだろう。それ以前に、面接で「1日5000文字しか入力できません」と言った時点で採用されることはないだろう。

 この他にも『1時間のうち、15分間は休憩を取らなければいけない』とか、『有給休暇は必ず取得しなければならない』とか、公務員の世界では民間企業では有り得ない時代遅れな暢気な制度が未だに延々と続けられているようだ。しかもこれに加えて普通の民間企業よりも高給というのだから、悪い冗談のようだ。真面目に働いているサラリーマンが浮かばれないのも無理はない。
 1日5000文字しか文字入力できないのなら、月給はせいぜい1〜2万円も出ればいいところだろう。しかし実際はこの数十倍の給料が支給されているのだから、「税金泥棒」というそしりは免れないだろう。

 公務員天国とはよく言ったものだが、今回の社会保険庁問題では、多くの人が、その意味をよく理解したかもしれない。公務員天国というものが誰の迷惑にもならずに機能しているのなら悪いとは言わないが、その天国が、サラリーマン地獄の上に成り立っているのなら、そんなエセ天国が永遠に続くことはないだろう。

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5000万件という数字に隠されたメッセージ

 年金保険料の納付記録5000万件分が該当者不明ということで大きな問題となっている。
 5000件程度ならまだ理解できるが、5000万件というのは想像の域を遥かに超えている。この数字が真実なら、もはやミスというレベルの問題ではないだろう。
 普段、自分には関係ないと思っている人々も今回だけはさすがにこう思ったはずだ。「もしかして自分も入っているのではないだろうか…」と。
 納付者の多くがこれだけ当事者意識を持つに至っては、社会保険庁バッシングが今後、更に加速することは間違いないだろうと思われる。
 しかし、こんな問題がなぜ今更クローズアップされるのかは不思議なところだ。こんなこと(該当者不明の納付記録があること)はずっと以前から判明していたことだろう。なんせ5000万件というのだから、今迄全く問題にならずに判明していなかったということは有り得ないし、どう考えても納得できない。
 しかし、5000万件もの不明分を調査するだけでも、とんでもない費用(人件費)が必要になるだろう。一体、その費用は誰が支払うのか?

 テレビではこんなことを言っている人もいた。「年金手帳」を「年金通帳」にするべきだと。つまり、銀行の預金通帳のように、誰が、いつ、どれだけの年金保険料を納めたのかを逐一記録し、証拠として納付者本人が持つべきだと。
 確かにこれは一理ある。しかし、誤解を招く可能性もある。
 国民年金の場合は、毎月納める金額が決っているのだから、金額までを管理する必要はないと思う。納めたか納めていないかを厳重に管理すればいいのであって、金額まで管理する必要性はあまり感じられない。なぜかと言えば、年金は積立方式ではないからだ。支払った金額まで管理するというのであれば、年金の支給金額(支給期間)も制限されなければ辻褄が合わない。支払った金額にだけこだわって、支給金額(支給期間)は無制限というのでは、都合が良過ぎるというものだ。
 社会保険庁を擁護しても仕方がないが、納付記録は必要最小限での管理が望ましい。
 杜撰な管理であったことは間違いないだろうが、今更、いたれりつくせりの管理体制を敷いて莫大なシステム管理費と人件費が必要となるのであれば本末転倒と言える。

 年金制度というものは、基本的に積立方式ではなく賦課方式となっている。賦課方式というのは、若い世代が老いた世代の面倒をみるという世代間扶養のことを意味している。それゆえに年金制度は少子高齢化社会では致命的な欠陥制度(=ねずみ講)に変化してしまう。
 年金制度ができた当初は、これは確かに良心的な福祉制度であったと言えるが、現代にあっては、良心的な福祉制度とはとても言えない。維持していくことが不可能に近いと思われるからだ。
 社会保険庁問題がいろいろと取り沙汰されるのは、時代の趨勢として避けては通れないことだと思う。管理の杜撰さや怠慢さがクローズアップされがちだが、本当の問題は、もっと深い所にある。

 今回の事件は、いつまで経っても当事者意識を持たない国民に対しての隠されたメッセージかもしれない。もう社会保険庁は解体するしかないという国の意思表示として、こんな大きな問題を発表したのかもしれない。しかし解体したとしてどうするか? 民営化して解決できるのか? できないのならどうする? そんなことを試行錯誤している猶予はあるのか?
 現在の年金制度をこのままの状態で維持していくことは、極めて難しい。いつまでもそのことに気が付かずに“年金制度は永久に不滅だ”などと暢気な気分でいることこそ危険なことだ。
 ダンテもこう言っている、「地獄へ至る道は綺麗に舗装されている」と。

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保険金の不払い問題の核心とは?

 生命保険会社における保険金の不払いが社会問題となっている。
 某新聞の発表では、生命保険会社38社を対象とすると、過去5年間で284億円もの不払いがあったらしい。しかしこれはあくまでも表面化したものだけの数字なので、実際はこの発表の数倍の金額になることは間違いないだろう。
 なぜこんなことが発生するのかをよく考えると、いくつかの原因が考えられる。
 この記事でも伝えられてはいるが、まず“契約者から請求がない”ということが大きな理由らしい。より正確に言うなら、“契約者から請求がない”ではなく“契約者が気付いていない”ということだろう。

 実際、ハッキリと死亡したケースなどで不払いになることは無いだろうし、そんなケースで不払いがあった場合はすぐに発覚してしまう。しかし未だに発覚せずに水面下に眠っている不払いが多くあるということは、結局のところ、契約者自身、保険金が入ることに気が付いていないケースが多々あることを物語っている。要するに、どのような状態(病状など)ならどんな保険金(一時金や通院費など)が入ってくるのかを理解していないわけだ。
 このような人達に対しては、保険会社の人間からお節介(?)を焼かなければ、保険金が出ないまま放っておかれ、数年後に気が付いたとしても、その時には保険金の申請期限切れで、保険金が支給されないという結果になってしまいかねない。

 保険契約の詳細を把握していない契約者サイドにも全く責任がないとは言えないが、契約者自身が気付かない限り、保険金は支払わなくてもよいなどという言い訳が通用するとても思えない。よく詐欺事件で、小さな文字で重要な契約内容が書かれている契約書などが問題になることがあるが、ある意味あれとよく似ていると言えるかもしれない。「契約書を読んでいない者が悪い」などと言うのでは、詐欺とほとんど変わらない。

…と、ここまでは一般論だが、不払いの原因をもう少し突っ込んで考えると、保険会社の経済的事情と時代的背景を無視するわけにはいかないだろう。
 保険会社というものも他の業種と同じように需要と供給のバランスで成り立っている商売ではあるが、他の業種とは少し趣が異なる。製造業の場合は需要が増えて供給が追い付かないことは有り難いことになるが、保険会社の場合はこの逆で、供給以上に需要が増えると有難迷惑となる。
 保険会社は基本的に全ての保険契約者から入ってくるお金の総額以上の支払いはできない。保険金を受け取る人(需要)よりも、受け取っていない保険契約者(供給)が圧倒的に多くなければ成り立たない商売であることは誰にでも解る。長引く不況で保険契約者が減少する一方で、逆に高齢者がどんどん増加しているような社会では、保険会社は儲からない。儲からないがゆえに、余計な出費は極力避けたい。つまり保険会社の経費削減が形を変えて保険金不払いとなっているとも考えられる。しかしこの場合、経費削減ではなく、ただの契約違反であることは言うまでもない。

 現在の生命保険というものも、年金と同じ問題を抱えている。ある制約の上でしか成り立たない商売であるという点で。具体的に言えば、人口が増加していく(少なくとも減少しない)時代でしか通用しないルールの基でお金の運用を行っているという点では同じようなものだ。良く言えば自転車操業、悪く言えばねずみ講という点でも同じだと言える。
 保険会社も例に漏れず、社会的環境の変化によって、制度自体が破綻しかかっている業界であることは確かだろうと思う。
 よく言われることだが、統計的には1970年代から既に日本が少子高齢化社会を迎えることになるだろうことはほぼ判明していたらしい。その後、30年を経過してようやくその問題が様々なところで表面化してきたということかもしれない。生命保険会社もその1つだろう。
 以前、年金問題では、政治家の未納問題という小さな問題がクローズアップされて、本当に大きな問題が霞んでしまったことがあったが、生命保険問題も同じかもしれない。
 生命保険問題の核心も、“保険金の不払いがあった”ことではなく、“保険金制度が破綻している”ことだと考えた方が正解かもしれない。

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格差問題の本質は階級社会

 ここ数年、新聞、テレビなどで「格差」という言葉をよく目にするようになった。
 政治の世界でも、格差というものが取り沙汰され、大きな問題になっている。
 この格差というものは何を表しているのかと言えば、まず国民の収入の格差が大きくなっているということらしい。
 日本は世界の中でも最も格差のない国とも言われてきたが、このところ、パートや派遣社員、フリーターなどの職種が増加していることで、“格差のない国”という常識が崩れかかっている。今までの常識から考えれば、確かにこれは問題かもしれないが、本当に憂慮しなければならない問題は別のところにあると思われる。

 給料の差というものは昔から存在する。会社の経営者と従業員では収入に数倍の差があるのはザラだし、能力のある優秀な人物なら高給な場合は多々ある。
 しかしその程度の差なら大した問題とは思えない。海外では企業の経営者と従業員では数百倍以上の収入格差があるわけだし、従業員の中でも日本以上に収入格差があることはよく知られていることだ。
 海外から観れば、現在でもまだ収入格差の少ない日本が、その海外よりも大きな問題を抱えていることがあるとすれば、それは収入の格差ではなく、収入の格差の固定、つまり、現状の格差を挽回できるチャンスが極めて少ないという機会の不平等問題だと言える。
 同じ仕事をしている人間が、その立場が違うという理由だけで収入格差が開いてしまうという不公平な社会(=固定された階級社会)にこそ問題があると思われる。

 例えば、非常に能力のある人にしかできない仕事をしている人が高給で、平凡な仕事をしている人が高給ではないというなら、格差が開いてもそれは仕方がない。しかし、同じ仕事をしているのに評価が絶対的に異なるというのは問題だ。
 具体的に言えば、正社員よりも優秀でよく働く派遣社員がいたとしても、その派遣社員が正社員よりも高給になることは有り得ないとする固定された階級格差が問題なのである。

 1時間に100の仕事をする人と、50の仕事しかできない人がいたとしよう。100の仕事をした人は50の仕事をした人よりも2倍の収入を得ていたとしても、それは格差とは言えない。それは能力の差としての評価であって、格差ではない。ところが、現在の日本では、いくら能力があっても、それを正当に評価されない人達がいる。評価されない人がいることも問題には違いないが、それ以上に“評価されない人はいつまでもそのまんま”という閉鎖された階級社会に問題があるのだ。(公務員とサラリーマンの関係も実はこれに近いと言えるかもしれない。)

 政府が「格差を是正しなければならない」と言うのなら、真っ先に行うべきことは、収入の格差を小さくすることではなくて、階級の格差を無くすことだ。それをまず考えなければ何の解決にもならない。
 例えば、IT長者と一般サラリーマンでは大きな収入格差があるかもしれない。しかし、そんなものを是正しても意味がない。その一般サラリーマンがIT長者になれる可能性が開けているのなら、それでいいのだ。問題は、能力のある者が学歴や職歴などの関係で、本来の立場に登れなくなってしまっている悪平等社会(縁故社会)にあるのだ。 

 平等というものには“機会の平等”と“結果の平等”というものがあるが、今の政府が行おうとしている格差是正は後者の“結果の平等”になってしまっている。これは大きな誤解で、本当に行わなければならないのは、前者の“機会の平等”だ。
 “機会の平等”と“結果の平等”が両方成立することは有り得ない。
 “機会の平等”を認めるということは、=結果の不平等を認めることになる。つまり格差を認めるということを意味する。それは、努力した人間がそれにふさわしい対価を得ることは当然とする考え方だ。
 逆に格差を認めない社会とは、機会の平等を認めない社会だと言うこともできる。それが現代の日本社会が陥っているジレンマ状態だ。“結果の平等”を認めようとしないだけでなく“機会の平等”も認めていないという支離滅裂な社会体制が問題なのだ。よって、格差が大きな問題なのではない、階級の固定、すなわち、機会の不平等こそが是正すべき大きな問題なのだ。

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『役所の休日』に対する大いなる疑問

 一般的なサラリーマンの休日と言えば、通常は土曜日か日曜日と決まっている。
 一般人相手の商売(販売業など)は土曜も日曜も営業してはいるが、土曜、日曜に休日を取っている一般人が圧倒的に多いのは事実であり誰もが認めるところだ。

 百貨店やスーパー、レジャーランドが土日に営業しているのは実に単純な理由だ。その理由とは、“客が最も多い日だから”に尽きる。つまり、利用したいという需要が圧倒的に多いからに他ならない。そして需要が多いということは、イコール売り上げアップに繋がるからだ。一体、どこの世界に土日に休業している百貨店やスーパーがあるだろうか?
 ところが、誰にも文句を言われることなく、それを実現している所がある。それはどこかって? もちろん日本全国の役所である。

 先程、“一般人相手の商売”と書いたが、その最たる所はどこかと言うと、実は役所ではないのか?という疑問が浮かんでくる。土日に役所を利用したいという一般人は圧倒的に多いはずだ。会社の近所に役所があるならともかく、土日にしか休日を取れない一般サラリーマンは、場合によっては役所に行くためにわざわざ有給休暇を取得しなければならないかもしれない。
 役所の休日が一般人と同じ土曜・日曜になっているというのは、常識的に考えれば不思議なことだ。大体、公務員というものが国民への奉仕者であるべきなら、土日に営業するのは当然のことと思える。

 「土日も休まずに働けというのか!」という人がいるかもしれないので、予め断っておくと、なにも土日も休まずに働けと言っているわけではない。交代制のシフト勤務にすればいいと言っているだけなので誤解しないように。全員が全員、毎週土日に休む必要はないと言っているだけだ。
 「土日に休日が取れないなら公務員になった意味がない!」と言う人がいるかもしれないが、そんなのは公務員の本分を理解していないただの我が侭に過ぎない。
 公務員になったことで“特権”を得られるなどと思い込むのは勝手だが、公務員の給料は国が支払っているのではない。土日に役所を利用したいとする一般国民が支払っているということをもっと考える必要がある。公務員に特権があるというのなら、それは『(なかなか)クビにならない』『(ほとんど)倒産の心配がない』『(仕事の割りには)比較的に高給』だけで充分だろう。

 役所の存在理由は、納税者である国民の生活の利便性向上のためにこそある。国民の意見も生活も無視した自己中心的な役所であるなら、そのレーゾンデートル(存在理由)は失われてしまうということを考える必要がある。役所は公的な機関であって、私的な機関ではないのである。つまり、役所であるためには、個人的な意見(土日に休みたい)よりも公的な意見(土日に営業してほしい)を重視しなければならないということだ。
 日本では江戸時代からのお上意識が未だに根付いているのかもしれないが、本来、民主主義社会の主役は納税者である国民であるはずだ。民主主義社会における公務員とは、国民から支払われた税金によって雇用されている家政婦のような存在でもある。そういう認識を持つことができれば、土曜・日曜に営業しない役所というのは、自分達の本来の使命を放棄しているということが理解できるはずである。

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『給食費未納』という税金の食い逃げ

 公立の小中学校の給食費の未納が22億円にも上るということが社会問題となっている。
 給食費を支払えない貧しい家庭が多いということで問題になるなら理解できるが、未納の理由たるや、単に支払いたくないということで『食い逃げ』の論理を振りかざす人が多いらしい。

 義務教