教育問題

「触らぬ生徒に祟りなし教育」の行く末

2013020201 正直なところ、体罰問題は一過性のもので、1ヶ月もすれば収束に向かうのだろうと高を括っていた。しかしその考えは甘かったようで、未だ全く騒ぎが収まる気配がなく、マスコミの煽り(過剰報道)のせいもあり、ますますエスカレートしつつあるように見受けられる。
 テレビを観ていても、連日のように「体罰を受けた」という生徒が名乗り出て、教師を訴えるというようなニュースが報道されており、オリンピックの柔道女子選手までもが、監督を告発するというような前代未聞の事態にまで発展してしまった。
 と言っても、私も柔道における暴力的な指導を肯定するつもりはないので、これに関しては行き過ぎた指導であったのだろうと思う。もともと、レスリングや柔道というような肉体を武器にしたスポーツ選手は血の気の多い人が多いと思われるので、少々暴力的な指導になるのは職業病だと言えなくもないが、選手から「ノー」を突き付けられたのであれば、謝罪するしかない。

 無駄な誤解を避けるために、まず始めに根本的なことをお断りしておくと、私は体罰は絶対的に必要だとは思っていない。悪い(または危険な)行為をした生徒を叱ることは必要だとは思うが、体罰制度を設ける必要が有るとは思わない。しかし、同時に「叱る」という行為の中には、暴力が伴ったとしても、それは仕方が無い場合も有ると思っている。

 こう書くと、「体罰は法律で禁止されている」という筋違いの反論が返ってくることになるのだが、「生徒を叱る」という行為を無条件に「体罰」だとするのは間違いだ。こういう反論をしてくる人は、まるで《生徒が全員、体罰を義務付けられる》というような錯覚(強迫観念)を抱いているのかもしれないが、大部分の真面目な生徒は体罰とは無縁だということを見失っているのではないかと思う。悪いことをしない限り、誰も教師から暴力行為を受けることはない。それは法律が保障している通りだ。しかし、犯罪行為を行った生徒にまで教師は指一本触れてはいけないということであれば、それはただの無法社会である。
 法律を盾にする人間が無意識的に無法社会を望んでいるというのだから、自己矛盾も甚だしい。

 現在、いじめ問題も大きくクローズアップされていることは周知の通りだが、多くの人がこう言っている。

 「いじめは犯罪行為だ!

 その通りだ。しかし、そうであるなら、いじめという犯罪行為を行った人物を「体罰は法律で禁止されている」というような理由で擁護することは明らかに矛盾している。
 「いじめは犯罪行為だ!」と言うのであれば、そのいじめを行った生徒は法的に裁かれなければならないということになるが、犯罪行為を行った生徒にすら手を出してはいけないということであれば、「いじめっこに対する体罰も法律で禁じられている」ということになる。こんな都合のよいデタラメな法律解釈があるだろうか?

 「いじめは犯罪だ」と言いながら、一方で「いじめっこも法律で保護されている」と言うのであれば、ただの詭弁でしかない。
 法律を犯した人間を裁くのは法律であるというのは理解できるが、法律を犯した人間を制止するのに同様の法律を適用するのは筋違いというものだ。

 少し前までは、「生徒と先生のスキンシップ」というものが大事だと言われていたが、この調子でいくと、教師は生徒に触れることもできないというような、教育におけるアンタッチャブル社会が構築されてしまうのではないかと心配になる。

 他人の所有物を盗んだとか、危険な行為を行ったということで、教師から拳骨や平手打ちされるような光景は何度も見たことがあるが、今後はそういったことまで「体罰」と見なされ、法律を犯した犯罪者のような扱いになってしまうのだろうか?
 もしそうだとすると、現在の教師達はまさに痴漢の冤罪者予備軍になったような気分だろうと思う。

 これまで教師と生徒との触れ合いを重要視してきた教育熱心な人権主義者達は、「体罰(と言うより暴力)事件」を境にして、生徒との触れ合いを禁ずるという、全く逆さまの価値観を伝播するに至ってしまった。
 そんな価値観が常態化するのであれば、もう生身の教師など必要無いということになってしまう。今後は、生徒は全員、学校などに行かずに、ネット中継されたテレビ画面の教師から教育されるというスタイルに切り替えた方が、教師にとっても生徒にとっても幸せかもしれない。学校に行かずに自宅で学習できるなら、いじめ問題は根絶するし、教師も生徒に触れて訴えられる危険性が無くなるし、良いことづくめかもしれない。まさに「触らぬ生徒に祟りなし教育社会」の到来だ。

 いじめも暴力も一切無い理想的な教育社会、それこそ彼ら人権主義者達が夢想したユートピアなのかもしれない。(無論、皮肉だが)

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体罰アレルギー論者達の矛盾と疑問(命と法律はどちらが重要か?)

2013011401 前回の記事では様々な意見を頂戴することになり、一応現時点での全てのコメント(BLOGOS及びlivedoorNEWSも含む)を読んだ上で一言述べさせていただくと、どうも誤解されている人が多いなというのが率直な感想だった。

 今回の大阪の桜宮高校の事件は、体罰よりも悪質な暴力事件(私はいびりと認識した)だということで、その批判も込めて、現在の「体罰」を前提とした世論自体が根本的に間違っているという指摘をしたつもりなのだが、多くの人が「体罰」という言葉に囚われたままで、中には、私が体罰を肯定し今回の事件のクラブ顧問を擁護していると誤解されている人もいた。これには流石に呆れてしまった。

 私は誰が読んでも理解できるように、なるべく平易な文章で書いているつもりなのだが、それでも全く逆さまに受け取られる人がいるようで、限られた文章で意見を伝えるのは難しいことだと改めて再認識した。
 斜め読みした印象だけで反論を書いているとしか思えない人もおられたが、間違いだらけの世論に気付いてもらおうと書いたものの、読まれた人の認識も間違いだらけだったという実に皮肉な結果になってしまった。

 記事の内容がどうであれ、「体罰」という言葉を使用しているだけでアレルギー反応的にその言葉を受け入れないという人がいることもよく分かった。「時と場合によっては体罰が必要だ」と述べただけでも、条件反射的に拒否反応を示す人々がいるようなので、言葉を変えて説明するしかないのかもしれない。

 ここで少し思考実験をしてみよう。

 あなたが、車の運転免許を持っている人だとして、ある日、あなたが運転免許証を携帯するのを忘れて徒歩で街に出かけたとしよう。その日、運の悪いことに、あなたの目の前で交通事故が発生し、事故を起こした運転手が轢き逃げした。その被害者は重傷で車で病院まで運ばないと命の危険がある。周りには、あなたと交通事故の被害者以外、誰もいない。しかし、運良くキーの付いた車だけが目の前に停まっていたとしたら?(ここでは電話は無いものとする)

 その時、あなたはどうするだろうか?

 1、その車に無断で乗車して被害者を病院まで運ぶ。

 2、「運転免許証を持っていないので運転できない」と被害者に伝える。

 3、車の窃盗罪と運転免許の停止(剥奪)を恐れて逃げる。

 この質問は、「」と「法律」のどちらが重要かということを問うている。
 「命」を救うためには、時と場合によっては「法律」を破らなければならない時もあるということを述べているわけだが、法律で禁じられた「体罰」を絶対的に認めようとしない人々は「」や「」を選択するとでも言うのだろうか?

 常識的な一般人であれば、たとえ運転免許証を忘れたとしても、たとえ窃盗罪に問われる危険性があったとしても、「」を選択するのではないかと思う。
 その結果、法律を破ることになったとしても、被害者の命を救うために、仕方なく法律を犯したということであれば、情状酌量ということで免責されるというのが、良識ある社会の対応というものだろう。それを、「あいつは法律を犯したので、運転免許を取り上げるべきだ」と言っているのが、体罰を絶対悪とする人々の姿だと言えるのかもしれない。

 目の前で生徒が暴行を受けている時に、勇気を持って仲裁し、いじめを行っている生徒を殴って制止することも、これと同じことだ。そういった勇気ある教師に対し、「あいつは法律を犯したので教師を辞めさせるべきだ」と言うのは正しいのか?
 もしそれが正しい社会だというのであれば、それこそが狂気の社会であり、そんな社会でいじめ等の犯罪が無くなるはずもないだろう。(実際にそうなっているとも言える)

 これは体罰の有無がどうかという問題ではなく、目の前で犯罪が行われている時、それを制止するために暴力を使用することが悪になるかどうか?という問題であり、「法律で禁じられている」などと言うのは、話を摺り替えているだけだと思う。

 体罰を絶対悪だとする人々は、基本的に「命」を大事にする人々であると思われるが、一方では法律の遵守を絶対視する傾向にある。この矛盾をどう説明するつもりなのだろうか? 論理的に納得できる説明ができる人がいるのであれば、一度お聞きしてみたいものだ。

 「人を救うことよりも法律を守ることの方が大事だ」というのは、“融通が利かない”という意味では、「体罰は絶対悪だ」と言っているのと、ほとんど同じようなものだと言える。
 「法律が大事だ」と言うのであれば、「悪を止める」という行為自体も、人間として守るべき最も上位に位置する法(守り事)の1つであるはずだ。なぜこんな当たり前のことが理解できないのだろうか?

 もし、「そんなことは法律には書かれていない」と言うのであれば、あなたは人間性を欠いた「法律の奴隷」でしかないと思う。
【関連記事】法律の存在理由と法律万能教の信者の誕生

 自分の子供や兄弟が目の前で傷付けられようとしている時に、暴力は禁じられているという理由で黙ってその場を見ているのが本当に正しいことなのか? その結果、自分の子供がいじめを苦に自殺した場合、それが正しい選択(行為)だったと言えるのか?

 「言える」と言うのであれば、あなたの人間性を疑うともに、これ以上、もはや何も言うことはない。

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間違いだらけの「体罰批判」【“いじめ”と“いびり”】

2013011101 「いじめ問題の次は体罰問題だ」と言わんばかりに、突然、表面化した格好の庶民ネタに各メディア(特にマスメディア)は大騒ぎになっている。少し前の、「いじめを隠蔽していた学校」という言葉を「体罰を隠蔽していた学校」に置き換えたいだけのような煽情的かつ短絡的な報道が繰り返されている。

 毎度思うことながら、現在の報道を観ていると、なにやら「体罰」という言葉だけが独り歩きしているように感じられる。今回の事件の場合、「体罰という言葉を使用するのはおかしい」という比較的冷静な意見も聞かれるものの、では何がおかしいのかということになると、「暴力だ」「虐待だ」と言う意見が多いようだ。
 しかし、肉体への体罰を「暴力」だとし、それが生徒を自殺に追い込んだ原因であるから体罰を禁止しなければならないと言うのであれば、少しお門が違っている。

 暴力には、暴力を伴わない「言葉の暴力」というものがある。もし、今回の事件が物理的な暴力を伴わずに「言葉の暴力」のみで自殺問題に発展していた場合は何と言うのだろうか?

 この質問に対して「体罰だ」と言う人はおそらく誰もいないだろう。つまり、今回の問題は「体罰」ではなかったということになる。
 では何と言うべきなのか? 答えは「いびり」である。

 既に多くの人が述べていることだが、そもそも論として、「体罰」というものは、何か悪いことをした生徒に対して罰を与える行為を意味するので、単に試合に負けたとか、能力が足りないといった理由で生徒に暴力を振るうことは「体罰」では有り得ない。なぜなら、生徒を殴ったり蹴ったりしても、その生徒の能力が向上するわけではないからだ。こういう因果関係を無視した暴力行為は特訓的な意味合いの「しごき」にも該当しない。

 いじめを行ったという理由で、
   「顔面を平手打ち(ビンタ)」・・・・体罰

 試合に遅刻したという理由で、
   「校庭を100周走らせる」・・・・しごき

 能力が足りないという理由で、
   「生徒を殴る・蹴る」・・・・肉体的いびり
   「生徒を罵倒する」・・・・・精神的いびり

 簡単にまとめると以上のようになると思うが、教師が生徒に対して、その行為を行うことによって、事態の改善に繋がることであれば、体罰やしごきを特に問題視する必要もない。鼻血が出るとか骨折するような体罰や、健康を害するとか死の危険が伴うようなしごきは問題だが、通常の体罰であれば、有っても構わない…と言うよりも、全く体罰が無い学校の方が危険だと言える。

 例えば、生徒によるいじめ事件があれば、教師がいじめを行った生徒を平手打ち(ビンタ)することは仕方がない。それは必要悪というものである。
 まずは言葉で注意すべきであることは言うまでもないが、言葉で言っても解らない人間には、暴力をもって教えるしかない。他人の痛みが解らない人間には、自らも痛みをもって解らせるしか方法がない。
 正気を失った犯罪者を警官が暴力行為によって諌めるのと同様、他人を傷付けても心が痛まない異常者には正義の鉄槌が時には必要だ。学校には子供を叱るべき親がいないのだから、親に代わって教師が体罰を与える行為は事情によっては認めるべきだ。

 まともな体罰までも禁止にすれば、元々、事勿れ主義で無法化している学校が更なる無法地帯と化し、野獣の如く野放し状態となったいじめっこは、ますます手が付けられなくなってしまい、いじめによる自殺問題は更にエスカレートすることになるはずだ。そんな地獄のような学校なら、存在自体が悪であり、もう必要無いということになってしまう。「体罰は絶対悪」と言っているような人は、学校の更なる地獄化を望んでいるとしか思えない。

 家庭内でキッチリと子供の教育ができない不出来な親が「教師が生徒を殴ってはいけない」などと言う資格は無いし、教師がそんなクレーマーのような親の存在を許しておく必要もない。教師も生徒も言いたいことをハッキリと言える学校にすることこそが、今回のような問題を防ぐには最も重要なことである。

 今回、自殺した生徒も、おそらくは多くのいじめ自殺者と同様、「逃げ場が無い」と思ったのだろうと思う。単に暴力が嫌だったのではなく、クラブのキャプテンという責任ある立場(または将来ある地位)にいながら、期待通りにいかない状況に不安を感じ、そこに教師からの体罰という名のいびりが重なり、自殺に追い込まれたのだろうと推察する。
 実際はもっと複雑が事情が絡んでいるのかもしれないが、結局のところ、いじめ自殺問題同様、閉鎖された教育空間が齎した悲劇であることには違いはないだろう。


【追記】2013.01.12
 毎度のことながら、トンデモない曲解をしている人がおられるようなので追記しておくと、私は今回のクラブ顧問の教師を擁護しているわけではありません。念のため。

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『1クラス35人制』でイジメは減少するか?

2012091601 文部科学省は、現在、小学1・2年だけに実施している『1クラス35人の少人数学級』を今後5年かけて中学3年生にまで拡大する方針を明らかにした。
 早い話、義務教育課程における1クラスの定員数は全て35人にするということだが、その理由として「授業の分かりやすさや学力向上、いじめの早期発見につながる」としている。今回の発表では時節柄か「いじめ問題」を前面に出しているようだ。

 『1クラス35人制』については、以前にも記事を書いたことがあるので、そちらも参照して頂ければと思うが、今回は、「1クラス35人制にすれば、いじめは減少するのか?」という点に絞って考察してみたいと思う。

【関連記事】
『1クラス35人制』で教育効果は上がるか?

「1クラス35人制」というレトリック

 まず、1クラスの人数が減少すればイジメは減少するか?と言えば、確かに確率論的には減少する。クラス数が増加すれば“イジメっ子”と“イジメられっ子”が遭遇する(=同じクラスになる)確率も減少することになるので、そういう意味で言っているのだとすれば、その通りである。“イジメっ子”と“イジメられっ子”には相性の問題もあるが、1クラスの人数が減少すれば、イジメっ子が徒党を組む人数も減少することになるので、1クラスの人数は少ないに越したことはない。これは刑務所における同一牢屋内の囚人数を考えた場合と同じ理屈である。
 しかし、おそらく当の文科省は確率論で述べているわけではないだろう。あくまでも「1人の教師の目の届く範囲が縮まる」という極めて都合のよい性善説的な意味合いで「いじめが減少する」と述べているだけであることは想像に難くない。

 しかしながら、大津の中学校で問題となった教育関係者達のイジメ自殺隠蔽問題でも明らかなように、いくら教師の目が届いたところで、イジメが有ったことを認めない教師ばかりで、せいぜい「あまりやり過ぎるなよ」と言う程度の腰抜け教師しかいないわけだから、「いじめが減少する」などと言われても誰も素直には納得できないだろう。

 そもそも、現在の日本の教育体制では、教師がイジメを発見しイジメを無くす努力をすることが正当に評価されるという、まともな教育制度が成り立っていないわけだから、確率論は無意味である。
 もっとも、教師の方にも言い分はあるだろう。生徒を叱る(平手で殴る、拳骨する等)と、その叱った理由もまともに聞かずに文句(クレーム)を言ってくるような保護者がいることも問題だろうし、そういったゴネ得社会を放置し続けてきた日本社会にも責任の一端はある。義務を果たさずに権利だけを主張することを当然とした左翼的な歪んだ事勿れ社会の悪弊を追及するという義務を果たしてこなかったマスメディアにも問題がある。

 以前の記事でも書いたことだが、現在の小学3年から中学3年までを追加で35人体制にするためには、教師の数を2万人近く増員しなければならないらしい。推計では、新人教師1人当たりの人件費は667万円かかる計算なので、年間1300億円以上の税金が必要になることを意味する。これでイジメが大幅に減少するなら安い(?)と言えるかもしれないが、全く効果が無いようなら、ただの焼け太りである。

 「生徒の数を減らせばイジメは減少する」というような話を素直に認めていると、消費税の増税スパイラルと同じで、その人数はどんどん少なくなっていく危険性がある。35人から30人、25人、20人…と、少子化で生徒の数が減少しているのに、教師の数だけは一向に減らないということになってしまいかねない。「いじめを無くす」という、およそ実現不可能な大義名分の為に、際限の無い増税を受け入れることになってしまうということである。

 私が思うに、教師を増員して年間1300億円も血税を支払うぐらいなら、その100分の1(13億円)を、イジメを発見しイジメを無くす努力をした教師に対する報償金制度にでも活用した方が良いのではないかと思う。あるいは、非常に出来の悪い教師の給料を減給して、そのお金を報奨金として工面してもよい。そういった当たり前の評価制度を導入すれば、教師を増員する必要もなく、イジメは大幅に減少するに違いない。

…と書くと、ここぞとばかりに「お金」の問題に摺り替えて、反論してくる人がいるかもしれないので予めお断りしておこう。ここで述べていることは、金銭の問題ではなく、リスクの問題である。現在の日本の教育体制の中にあっては、教師がイジメが有ることを告発することが、企業における『内部告発』と同じ構図になっているということだ。つまり、イジメ(不正)が有ることを告発すれば、学校(会社)に居れなくなるという倒錯した教育環境が構築されているということである。

 企業の内部告発であれば、内部告発した人を評価するという社会が有るので、まだ救いがあるが、学校の場合はそうはいかない。残念ながら社会自体がそういった勇気ある教師を評価するようにはなっていない部分がある。イジメを見て見ぬ振りをする教師を擁護するつもりはないが、村社会に生きる公務員教師にとってイジメ告発は「ハイリスク・ノーリターン」どころか、「ハイリスク・マイナスリターン」になってしまっている。それをせめて「ハイリスク・ローリターン」にすれば、イジメを告発する教師が出てくる(=イジメが減る)のではないか?という当たり前のことを述べているだけなので、曲がった解釈はご遠慮願う。

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“いじめ空間”と化した公立学校の悲劇

2012071301_2 大津市の中学校でのいじめ問題は予想外に大きな騒ぎとなり、ついには警察まで動き出すという異例の事態となってしまった。この問題のせいもあってか、民主党のドタバタ劇も鳴りを潜め、政治情勢のニュースは陰に追いやられた格好だ。

 私も前回の記事で大津市“いじめ”問題を取り上げてみたが、初日の(BLOGOSの)PVが28000を超え、これまでで最高のアクセス数を記録した。「いじめ」問題というのは多くの人にとって政治問題よりも身近な関心事であるということなのかもしれない。

 今回のいじめ問題で明らかになったことは、教育委員会の無能ぶりと保身の構図であることは、もはや誰の目にも明らかであり、この期に及んで、教育委員会を擁護しようなどという酔狂な評論家は誰もいないようだ。マスコミの御用学者達もさすがに今回は分が悪いと判断したのか、比較的良心的な意見を述べているように感じられる。

 現在の教育委員会のインタビュー等を観ていると、映画『それでもボクはやってない』に登場した小日向文世演じる裁判官の姿がオーバーラップしたのは私だけではないと思う。この映画では、保身のために感情を失った冷酷な裁判官の姿が描かれていたが、あの異様な光景が頭に浮かんだ。大津市教育委員会がいじめを隠蔽しようとする目的も、まさにあの映画と同じ構図である。
 
 日本の教育界のトップに君臨するのは、言わずと知れた文部科学省であり、学校における教育問題の報告は単純化すれば以下のような順序で行われる。

 学校の教師 → 校長 → 教育委員会 → 文部科学省

 こういう順序で報告が行われるだろうことは誰でも想像がつくと思う。この序列は民間の製造業で言えば、商品の欠陥報告のようなものであるとも言える。言葉を置き換えれば、次のようになる。

 従業員 → 工場長 → 役員 → 経営者

 「日本の教育管理者にとって『いじめ』報告とは、企業における『商品の欠陥』報告と同じようなもの」という前提で話を進めよう。

 製造業では当然のことながら欠陥商品は少ない方が評価は上がる。工場等では「不良品0」というような目標を掲げたポスターをよく見かける。しかし、民間の製造業と同じ感覚で教育機関が「いじめ0」を目標としているのだとすれば、一歩間違うと非常に恐ろしいことになる。

 例えば、自動車会社で製造している商品に欠陥が発見されると直ぐさまリコールとなる。商品に欠陥が有ったことはマイナスだが、未然に大きな事故を防いだということにもなるので、マクロ的に見ればプラス評価にもなる。
 欠陥商品が市場に出回ることによって重大な事故でも発生すれば、大きなクレーム問題となり更なる被害や損害を齎すことになるため、民間企業では欠陥商品を発見すれば、そのことを隠すわけにはいかない。仮に隠していたことがバレた場合、その従業員がクビになることはもとより、会社経営自体が破綻しかねないからだ。

 しかし、公立学校の場合、『いじめ』という欠陥が見つかっても、そのことが表沙汰にならなければ、大きな問題にはならない。
 教師が校長に「いじめが有ります」と伝え、校長が教育委員会に、教育委員会が文部科学省に伝えたとしても、「いじめは有っては困る」「いじめが有れば減点だ」というような絶対的な減点主義が蔓延っていたとすれば、その組織内では、いじめを隠すことが最も無難な対処法だということになってしまう。現在の教育委員会の姿を観ていると、まさにそのまんまであることは疑いの余地がない。
 つまり、現在の公立学校では、「いじめを発見し、いじめを無くすことが評価される」という当たり前の教育原理が機能していないのである。「いじめを無くす」ことではなく、「いじめが無い」ことが評価されるというデタラメな評価基準が誰にも指摘されることなく罷り通っていることこそが問題なのだ。
 自浄作用が働かない組織で「いじめ0」運動などを行うのは無理があり、非常に危険なことなのである。

 私立学校の場合、いじめを行う生徒がいれば、いじめを受けた生徒や親は学校に文句(クレーム)を言うことができる。もし学校側がそのクレームを無視すれば、その学校の評判を口コミで世間に広めることもできる。例えば、「あの学校は酷いイジメがあっても誰も注意もしないような学校だから行かない方がよい」というような噂が広まると、その学校は死活問題となってくるので、酷いイジメっ子がいれば退学にすることも辞さない。
 私立学校では、いじめが有ると、生徒だけでなく経営者自身が困ることになる。もし学校内で殺人事件やいじめによる自殺などがあれば、誰も新しい生徒が入学して来なくなり学校自体が潰れてしまう危険性が有るからだ。そういう意味では、私立学校では当たり前の教育原理が機能していることになる。
 
 ところが公立学校の場合、どんな事故や事件があっても、生徒は新たに入ってくるし、学校が潰れることもない。もっと言うなら、公務員としての教師も失業するリスクが無いため、「いじめを無くさなければならない」というモチベーションが生まれない。もちろん、正義感の強い立派な教師がいることも否定しないが、そういった当たり前の教師が浮いてしまうことになる。
 結果、学校内の正義は失われ、不正義が支配する地獄のような教育環境が出来上がることになる。このジメジメとした陰鬱な空気が、いじめの温床となり、いじめが有っても、誰も注意せず、注意した者は生徒はおろか教師ですら仲間外れにされるというイジメ社会が構築される。言わば、学校自体がイジメ社会になってしまうわけだ。学校でいじめが有ることが問題と言うより、学校そのものが“いじめ空間”と化しているのである。
 その証拠に、今回のいじめ事件でも、教師は未だ誰一人、いじめが有ったことを認めようとしない。「いじめが有った」と言えば、仲間外れにされる(公職を失うことにも繋がる)からである。
 
 「なぜ、いじめを無くせないのか?」という意見をよく耳にするが、公立学校でいじめが無くならないのは、むしろ当然の帰結であり、この“いじめ空間”を健全な空間に変化させる力が働かない限り、未来永劫、悲劇は繰り返されることになる。
 現代の教師や教育委員会が無能なのは、その人物が元からダメ人間なのではなく、教育システム自体が間違っているため、誰もが無能にならざるを得ないところにある。

 悪事を無くそうとする善人の声が届かず、悪事を行う悪人の好き勝手が罷り通る。昔からそういう不条理な悪夢のような世界のことを人々はこう呼んできた、「地獄」と。
 いじめが原因で自殺した被害者の声が届かず、いじめを行った加害者の好き勝手が罷り通る現在の教育界は、やはり「地獄」という形容が似つかわしい。この歪んだ教育システムを根本的に改革しない限り、日本の公教育に未来はないだろう。

【追記】
 BLOGOSのコメント欄を見ていると、何人か誤解や曲解をしている人がいるようなので、少し追記しておきます。
 本記事では、“人間のいじめ”を“工場の商品”に喩えて書いていますが、私自身が、人間を“モノ”として認識しているわけではありません。むしろその逆で、私自身は、人間を“モノ”として認識しているかに見える現代の教育に異を唱える者です。本ブログ読者におかれましては、誤解・曲解の無いよう、お願いしておきます。
 
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いじめ防止策と教育委員会の詭弁

2012070501_2 昨年10月、滋賀県大津市で発生した中学校の飛び降り自殺問題で、自殺した生徒が「自殺の練習をさせられていた」ことが判明した。ところが、昨年の11月に行われた記者会見の場で、大津市の教育委員会がこの事実を隠していたことが表沙汰となり大きな問題となっている。

 毎度のことながらマスコミは、こういった「いじめ自殺」問題が発生すると「痛ましいニュース」として伝えるだけで、決して根本的な問題を追及しようとはしない。教育委員会という組織も、いじめ事件を隠蔽することだけに躍起になっているようにしか見えず、本当にいじめを無くす気など、さらさら無いように見える。

 奇しくも大津市の女性市長は当人も子供時代にいじめを経験し自殺を考えたこともあるという理由から「いじめの無い大津市」というものを目標に掲げていたそうだが、そんな目標は、当の教育委員会にとっては馬耳東風であったらしい。
 教育委員会いわく、「自殺の練習をさせられていたとの確証は得られなかった」「いじめと自殺との因果関係は判断できない」ということらしいのだが、常識的な視点で観れば、誰が見ても「いじめ」を理由とした自殺としか考えられない。
 遺書が無ければ、自殺の原因は断定できないということなのかもしれないが、こういった詭弁を放置しておくと、仮に遺書が有ったとしても、「その遺書の内容が本当だとは限らない」ということになってしまいかねない。

 そもそも、事件が起こった当初から15人もの生徒が「自殺の練習をさせられていた」とアンケートで回答しているのだから、因果関係の有る無いに拘わらず、世間から「自殺の原因はいじめだ」と疑われるようなことを無くすべく努めるのが、教育委員会の仕事だろう。口先だけで「いじめを無くそう」などという綺麗事を言っているだけでは、何の解決にもならないのである。

 皮肉なことに、現在の教育委員会の教育姿勢は、いじめによって自殺した生徒ではなく、いじめを行っていた生徒達を庇うという構図になってしまっており、その構図は恰も、暴力団にヘコヘコと媚びを売り、間接的に犯罪に加担している取り巻きのようですらある。
 現代の中学生の陰湿ないじめ行為というものは、ある意味で暴力団よりも性質(タチ)が悪いかもしれない。遊び感覚で他人を傷付け自殺に追い込んだとしても、教師や教育委員会が庇ってくれる(隠してくれる)のだから、自分自身を律することのできないヤクザ紛いの生徒にとっては、まさにやりたい放題である。

 無論、いじめ問題というものは、もっと根が深いものである。単に暴力的な生徒がいるというだけの問題ではなく、家庭の事情や生い立ち、ストレスや劣等感、そういった様々な負の感情が引き金となって発生するものでもある。性善説的な立場に立てば、「いじめ」という行為が生まれること自体が、人間社会の悲劇であるとも言える。
 しかし、だからといって性善説的な考えでは、いじめ問題を解決することはできない。いじめ行為を人為的に無くすことが難しいのであれば、採るべき手段は、次の2つになる。

 1、いじめ行為を行った生徒には徹底的に厳罰を与える。

 2、いじめは無くせないという前提に立ち、教育制度を改める。

 は、いじめを行った人間は、たとえ未成年であろうと全国に名前と素顔を晒し懲役刑にする。そういった厳罰を与えれば、いじめを行おうと考える生徒は激減するだろうし、どんなにいい加減な親でも「いじめはするな」と子供に注意するだろう。しかし、こういった手段は、世間一般にはあまり受け入れられそうにないし、冤罪を生む可能性もあるので私も反対だ。

 の場合は、いじめを絶対的に回避するために、学校という制度自体を無くすことを意味する。
 学校内という閉ざされた空間でいじめが発生し、逃げ場がないのであれば、その逃げ場を作ってやればいい。そう、学校に行かずとも、教育を受ける場を与えてやればいいのである。これができれば、いじめによる自殺は綺麗サッパリ無くなる。この件については、以前にも書いたことがあるので、下記の記事も参照していただければと思う。

【関連記事】いじめによる自殺を無くす唯一の方法

 日本の教育委員会にとっては、生徒達が互いに傷付け合い、罵り合うという「いじめ」行為は有ってはならないものなのかもしれないが、いじめの被害にあっている生徒にとっては、そのような教育委員会の体制自体が有ってもらっては困るものである。
 教育委員会にとっては、現在の教育制度を改めるということは死活問題にも成りかねないので、とにかく波風立てずに現状の教育制度を維持したいのだろうと思う。学校というものが、どんなに理想から掛け離れた場所に落ちぶれていようが、あくまでも理想的な教育環境であることをアピールしたいのだろう。
 しかし、いじめ等の不都合な問題を隠蔽することによって、現在の教育環境を飾ろうとするのはいただけない。現在の教育制度を維持したいのであれば、本当に理想的な教育環境を構築することを目標に据え、いじめ問題の解決にも前向きに取り込んでいくことこそが求められる。
 
 現在の公立学校の教育体制は、いじめを発見した教師を評価するというものになっておらず、どちらかと言えば、いじめが無いことを評価するという事勿れ体制になってしまっている。そんな官僚的な組織が取り仕切っている無法地帯のような場で教育を受けさせられる真面目な生徒は堪ったものではないだろう。
 特に公立学校では、基本的にどんな生徒であっても辞めさせることができない。いじめの加害者を退学にすることができないだけでなく、いじめの被害者も学校を辞めることができない。これではまさしく、刑務所である。

 「刑務所はオーバーな表現だ」と言う人がいるかもしれないが、追いつめられた生徒は『自殺』という最悪の選択をするしか、いじめから解放される手段が無いと考えたのだ。それはなぜか? 少なくとも、その自殺した生徒にとって学校は刑務所に近い場所だったということであり、“自殺を選択した”という事実自体がそのことを如実に物語っている。

 刑務所のような現在の教育環境を改めない限り、いじめ問題は決して無くならない。野口悠紀雄氏の『1940年体制』ではないが、教育の場に戦時経済体制を敷いたことによって、教育の自由が失われてしまったことが、いじめ問題の遠因になっていると言えるのかもしれない。
 いずれにせよ、教育委員会自身が現在の事勿れ主義を改めない限り、いじめ問題は一向に解決に向かわないということである。
 
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日本型『詰め込み教育』の正体

2012011201 このところの学校教師によるセクハラ事件や、生徒による暴力、いじめ、窃盗事件など、学校にまつわる不祥事は枚挙に暇がなく、まるで現在の教育現場の歪みを暗に訴えかけているかのようでもある。
 この年末年始にちょうど1冊、教育関係の古本を読み終えたので、この機会にその本の感想とともに、日本の教育について少し述べてみたいと思う。

 本のタイトルは『子どもが学校に行かなくなったら赤飯をたきなさい!』というもので、10年も前の本ながら非常に示唆に富んだ興味深い内容だった。現在の教育環境にもそのまま当て嵌まる…と言うよりも、ある意味で時代を先取りした教育論が書かれていた。一見、挑発的なイメージのするタイトルだが、内容は至ってまともで、現代の日本の教育というものを真正面からとらえており、本音の教育論が語られている。
 著者の大越俊夫氏は『師友塾』という不登校児童の教育を行う私塾的な学校を経営されており、教育界では名の知れた有名な方であるらしい。

 大越氏によると、不登校児童には共通する3つの特徴があり、それは次のようなものであるらしい。

 1、他人の世話をやたらとしたがる。
 2、自然や動物に対して異常にやさしい。
 3、競争を極度にイヤがる。

 これまでの世間一般の常識では、「不登校」というと、どこか落ちこぼれ的な意味合いで使用される場合が多かったと思うが、この3点の特徴を見てもお分かりのように、この本では、「不登校」になる生徒こそ人間的(精神的)に優れている場合が多く、将来的にも見所があるということが述べられている。
 実際、カナダなどでは「不登校」という概念が無いらしく、自ら学校に行かない生徒こそ、決められた枠に収まりきらない個性を持った人物だということで評価されるらしい。
 アメリカでも、個性ある人物が尊重されることはよく知られているが、こういった国々では、日本のように就職浪人するようなことで人物の評価が落ちるというようなこともないのかもしれない。

 現代の敏感な子供達は、現在の日本の教育システムに乗っかっても未来が無いということを直観的に感じ取っているとも書かれていたが、私もその通りだと思う。

 現在の日本の教育課程は昔と変わらず、将来、大人になってから役に立たない知識を満遍なく教え込むというスタイルを採っている。こういった全体主義的な平等教育は、もはや時代遅れであり、変化の激しい現代社会とは明らかにマッチしていない。
 教育とは本来、“社会に出てから困らないための基礎学習”と“社会に出てから役に立つための専門学習”とに分けられる。しかし現在の日本の教育が後者を満たしているかどうかは甚だ疑問である。

 現代社会で、学生が就職するために必要な知識は、一般常識、国語、英語、社会、パソコン、そして、お金の計算ができること位かもしれない。高度な数学や複雑な物理学などは、そういった専門の職業に就く人には必要かもしれないが、大抵の一般人には全く無縁の代物(無用の長物)とも言える。
 例えば、学生時代に因数分解の公式などを覚えたところで、将来的にそんな知識が必要となることはまず有り得ないし、大人になれば綺麗さっぱり忘れているというのが常である。
 以前、「分数のできない大学生」というものが話題になったことがある。確かに分数ができないというのは格好悪いことかもしれないが、これとて、社会に出てから本当に役立つかどうかは別問題である。

 英語教育にしても、実際に英語で会話する能力を養うことこそが重要だと思うのだが、細かい文法やら単語の綴りなどを間違わないことに重点を置いた教育になっているように思える。現在の日本の英語教育では、引っ掛け問題を解く能力だけは養われる。しかし本来は、多少のスペルや文法を間違えたとしても、英語で意思疎通することのできる能力の方が重要であるはずだ。実際、社会に出てから引っ掛け問題を解く能力など何の役にも立たない。

 現在の日本の教育は、基本的には中国の『科挙』の制度がモデルになっていると言われている。これはどういうことかというと、目指すべきゴールが『仕事のできる人間に成ること』ではなく、『官僚に成ること』になってしまっているということである。つまり、官僚や公務員にならない一般人にとってはほとんど意味の無い教育課程でもあるわけだ。
 社会に出てからほとんど役に立たない膨大な知識を頭に詰め込み、学歴社会の頂点に立ち、晴れて官僚になれた人はまだ良い(?)としても、通常のサラリーマンや商売人になる人にとっては、ほとんど仕事に活かせない。勉強したことが全て無駄になるとまでは言わないが、あまりにも無駄が多過ぎることだけは間違いない。

 生きていく上でほとんど必要のない知識を覚えるために学校だけでなく塾にも通い、遊び盛りの子供の頃から寸暇を惜しんで真夜中まで勉強する。それが学歴信仰が根付いた現代の日本の詰め込み教育の実態でもあるが、はたしてこれがまともな社会の姿なのだろうか?
 将来の夢に向かって寸暇を惜しんで勉強するというなら結構な話だが、単なる学歴を競うためだけの学習にどれだけの意味があるというのだろうか?
 昔のように、お国の発展のために官僚になるというならともかく、自分の生活の安定のため(悪く言えば楽をするため)に官僚や公務員になるというのでは、なんのための教育か解らない。

 「学生の就職難」と言われて久しいが、義務教育課程の段階から就職するに相応しい能力を磨く教育を行っていれば、今とは違った就職環境になっていたかもしれない。
 大企業に就職すれば、ほとんど能力が無くてもなんとかなった時代ならともかく、現代のように明日も知れない生き馬の目を抜くような厳しいビジネス環境の中では、仕事に活かせる能力的な武器を携えて就職活動を行うというのが本来の姿だと言える。しかし、現在の教育ではそういった能力を身に付けるのは難しいと言わざるを得ない。

 本来、教育というものは、将来的に役に立ってこそ行う価値が有り、また行う意欲も涌いてくるものだ。逆に、将来的に全く役に立たないことが判れば、学ぶ意欲を失ってしまって当然である。
 現在の受験競争というものが、官僚を養成する目的のために行われているものだとすれば、そのシステムから抜け出したいと思う生徒が出てきたとしても何ら不思議ではないと思う。小さい子供の頃から明確な自分の将来像を持っている人であればあるほど、現在の教育システムに疑問を抱いてしまうものなのかもしれない。
 
 現在の日本の教育現場に必要なものは、官僚を養成するための詰め込み教育ではなく、起業人や企業人を養成する将来を見据えた生きた教育であるべきだ。
 
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性悪説論者と社会主義者の類似性

2011121001 世の中には“性善説を唱える性善説論者”と“性悪説を唱える性悪説論者”の2種類の人々が存在する。性善説と性悪説については様々な諸説が有るので、どういったものが性善説であるか性悪説であるかの判断は難しいが、ここでは単純に、人間は生まれ持って性善なるものか、それとも性悪なるものかという判断に基づいて話を進めようと思う。

 まず、私自身は基本的には性善説論者だと思っている。世の中には何でもかんでも白黒をハッキリさせないと気が済まないという人もいるが、私の場合、白の中にも黒が有り、黒の中にも白が有るという考えを持っているので、「この人は善人、あの人は悪人」というように白黒を付けるのはあまり好きではない。

 一方、性悪説論者と言われる人々は、何でもかんでも白黒を付けたがるという精神的特徴を持っているように見える。「白黒を付ける」というのは、言葉を変えれば「レッテルを貼る」ということなので、性悪説論者というのは人間的に観ても好き嫌いが激しいタイプの人なのだろうと思う。

 この世に完璧な人間などいないのだから、人間的に完全に真っ白な人間などいないだろうし、その逆の完全に真っ黒な人間もいない。人間に対して明確に白黒をハッキリ付けるという行為は、人間というものの評価を“四捨五入”しているということである。それは同時に、人間というものが成長(または変化)する存在だということを無視した姿でもある。
 「50点以上は白」、「50点以下は黒」といった具合に、自らの尺度で人間をバッサリと切り分けているのが性悪説論者と言われる人々の姿だと言える。先述したように、性悪説論者というのは他人にレッテルを貼ることを好む精神を持ち合わせた人々(=レッテラー)だと言うことができると思う。

 このレッテラーというのは、実は社会主義者の精神的特徴でもある。彼らは、「人間は元々、性悪な生き物だから管理しなければ人間として正しく生きることができない」というようなメンタリティーを心の内に抱えている。その思考形態は、「お役人」と呼ばれる人々の精神構造とも軌を一にしている。

 日本では、高校を卒業するまでの間は、基本的に社会主義教育の中で生活することになる。「義務教育」と言えば聞こえは良いが、強制的にコンクリート校舎の中に閉じ込めて教育を行うという点だけ見れば、明らかに社会主義教育である。(高校は退学する自由が認められているので、正確には社会主義教育とは言えない部分があるかもしれないが…)
 そしてその後、大学や専門学校に入学することによって、ほんの少しだけ自由主義教育の空気に触れることになる。

 私も経験があるが、大学に入学して初めて教育というものに“自由”という空気を感じた。受講科目を自分の意思で選択でき、出欠も自分に任される。この当たり前の単純なことにある種のカルチャーショックを覚えたことを記憶している。

 多くの人々にとって、本当の自由を満喫できるのは、「レジャーランド」と言われて久しい大学や専門学校の中にいる時だけなのかもしれない。そういう意味では、この時期というのは貴重な時間なのだろうと思う。

 例えば、小中高大と全て国公立の学校に通い、組まれたカリキュラム通りに授業を受け、その後そのまま公務員になったというような人であれば、実体験として自由教育や市場経済というものを経験していないとも言えるので、社会主義しか知らないということも有り得るということである。

 頭脳は明晰でも、実体経済の中にその身を置いた経験のないお役人がトンチンカンな経済音痴政策ばかりを繰り出すのも、結局のところ、身も心も社会主義にドップリと漬かり過ぎている(しかも本人はそのことに気付いていない)せいだと言えるのかもしれない。
 社会主義教育しか受けてこなかった人物が、市場経済の舵取りを行うことの危険性は言うに及ばないが、当人達は自らが社会主義教育しか受けてこなかった生っ粋の社会主義者であるということなど夢想だにしていないのかもしれない。
 そんな人々が今度は教育する側に立って、無意識的に社会主義教育を行い、国民の思想を真っ赤に染めていくことになる。
 
 本当の自由教育とは、国民が主役の教育のことであり、選択する自由が与えられていない教育のことを自由教育とは呼ばないことは明白である。
 「国民達を管理せずに放っておくと、きっと悪さをするに違いない」というような性悪説的な思考に基づいた管理教育とは、実は社会主義教育のことなのである。
 
 一応お断りしておくと、私は義務教育自体を否定しているわけではない。最大の問題点は、ほとんどの国民が現在の日本の教育が社会主義教育だと認識していないと思われることにある。つまり、実質的に教育における選択の自由が与えられていないことが問題なのである。
 
 あなたがもし性悪説論者であるならば、「自らは社会主義者に近いタイプの人間であるかもしれない」という疑いを1度持ってみることをオススメする。
 
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『1クラス35人制』で教育効果は上がるか?

2011091901 先週、文科省から新たな教育方針が発表された。その教育方針とは、昨年に小学1年生のみに導入された『1クラス35人制』を今年度から小学2年生にも適用するというもので、文科省いわく「少人数学級の実施状況を検証してきたが、学力向上や不登校などの課題に対応する教育効果を得られる」というのが判断理由であるらしい。
 
 しかしこの文面からは、検証における結果というものが本当に得られたのかどうか判らない。1クラス35人制にして不登校やイジメが減少したという確かなデータが有れば納得もできるが、本当にそういった結果が得られたのだろうか?
 
 以前にも『35人学級制』の導入については少し(反論を)述べたことがあるが、今回も率直な感想を述べさせてもらうと、これは非常に怪しいと思う。なぜなら、小学1年生の段階では不登校やイジメなどはまだあまり無いのではないかと思われるからだ。
 いくら現代っ子がマセているとはいえ、小学1年生では、まだ他人と自分を比較するというようなさもしい心(嫉妬心)はあまり持ち併せていないだろうし、学校に行くのが嫌だというような悩み事を抱えた生徒もほとんどいない(いたとしても登校拒否までは考えない)のではないかと思う。
 まだ純真な心を持った小学1年生に35人制を導入したとしても、不登校が減少したというような結果が得られるとは思えないし、そもそも、1年前まで幼稚園児だった生徒が小学1年生になった途端に35人制を導入されても、その違いなど分かるはずがない。
 
 例えば、小学1年から3年まで40人学級だとして、4年から35人学級になるというなら、その違いをデータ化することは可能(実際は高学年の方がイジメは多いのであまり意味がないが)だろうが、幼稚園と小学校を比較しても、まともな結果など得られるはずがないと思う。
 
 少人数制によって生徒が得られるメリットとは、教師が1人当たりの生徒に割く時間が増えるので教育効果が上がるというものだが、これとて、教師も同じ個性を持ったロボットではないのだから一概には言えないものがある。優秀な教師であれば40人学級であっても教育効果は上がるだろうし、ダメ教師であれば、いくら生徒数を減らしても教育効果の向上などは望めないだろう。
 
 結局、何が言いたいのかというと、少人数クラス制の是非論というものには、教師の能力や努力というものをどうするのかという教育する側の視点というものが完全に欠けているということである。40人制を35人制に変えるだけで単純に教育効果が上がると考えるよりも、教師自身が1人当たりの教育生産性を上げるという発想が全く無いように感じられる。
 
 こういった制度の導入は、単純に「税率を上げれば税収が上がる」という現在の政府の安易な姿勢とダブって見える。税金を上げる前にすべきことを行わずに増税を考える政府と、教師が本来行わなければならない努力をせずに、生徒数を減少させればいいという考えには相通じるものがあると思えるのは私だけではないだろう。
 
 私事で恐縮だが、私の中学生時代には男性と女性の2人の社会教師がいた。1人では全クラスを担当できないので、2人の教師で分担していたわけだが、男性の教師よりも女性の教師の方が教えるのが上手かったので、それぞれが受け持ったクラスのテスト成績には大きな差があった。しかし、その教育効果における差に対しての評価があったのか?というと、おそらく無かったのではないかと思う。と言うより、男性の教師の方が女性の教師よりも年上であったので、おそらく給料は男性の教師の方が高かったのではないかと思う。
 常識的に考えると、これは非常におかしなことである。教師の教える能力によって収入に差が生まれるのではなく、単に年上であるというだけで収入が決まってしまうというのは、年功序列制度の悪弊そのまんまだが、こんな教育環境で教師に対して努力しろという方がどうかしているとも言える。どんな非効率な教え方をしても、どれだけ効率的な教え方をしても、その教え方に対して何の評価も為されないのであれば、余程優秀な教師でない限り生産性向上などは望めるはずもない。
 
 これは、イジメ問題においても言えることで、イジメが有ることを発見し、イジメを無くすことに貢献した教師は評価されるという制度があれば、イジメ問題も少しは改善されるはずである。逆に、イジメが無いことが良しとされる事勿れ主義が根付いた教育環境では、イジメが有っても隠すことが評価されることになってしまい、教師がイジメを見て見ぬふりをするという悪循環に陥ることになる。
 
 聞いたところによると、現代の公立小中学校の退廃ぶりは凄まじいらしく、経済的に余裕のある親は、公立の小中学校には子供を通わせないという人も多いらしい。
 そういった退廃が生まれた原因には、少子化という表向きの理由だけでなく、教師の教育という行為に対する正当な評価が無いという理由も隠れているはずである。

 一頃、生徒に対する悪平等教育が問題視されたことがあるが、実は教師に対しても悪平等評価が為されているがゆえに、公立の小中学校の退廃に歯止めがかからなくなってしまっていると言えるのではないだろうか。
 そのような悪循環を抱えた教育環境にいくら少人数制を導入したとしても、ほとんど教育効果が上がらないのは至極当然の帰結であり、単なる税金の無駄遣いに堕するのは目に見えている。
 教育効果を上げるために必要なことは、1クラスの生徒数を減少させることではなく、教師の教育における生産性を向上させ、その能力を正当に評価するという当たり前のシステムを導入した方が良い結果が齎されるのではないかと思う。政治にしても教育にしても、なぜそういった当たり前の改善案が出てこないのだろうか?
 
【関連記事】「1クラス35人制」というレトリック
 
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『椅子取りゲーム』と化した就職活動

2010010601 昨今の就職難の影響からか、大学生の就職活動時期は年々早まっており、学生達は未だ卒業の見込みすら立たない時期から就職活動を行わなければならなくなっている。この異常な状況を改善するため、日本経団連は企業説明会の時期を遅らせることで対応しようとしているらしい。

 かつての大学生は4回生になってから就職活動をするのが当たり前だった。真面目に授業に出ている学生であれば、3回生の時点で既に卒業を満たす単位はほぼ修得済みであるため、時間に余裕のある4回生になってから就職活動をするのが当然であったし、それでも充分に間に合った。

 通常、企業の採用試験を受ける時には『成績証明書』と共に『卒業見込証明書』を提出するのが一般的な習わしだったが、現在の大学生は3回生の早い時期から既に就職活動を始めるのが当たり前になっている。そのような状態では大学側としても、『成績証明書』はともかく『卒業見込証明書』まで用意するわけにはいかないだろう。
 学習することが本業であるはずの学生が、就職することに焦るあまり授業そっちのけで就職活動を行っている。この現状を打開するための策が『企業説明会の時期を遅らせる』では少々心許無いと思えるのは私だけだろうか?

 元々、日本の学生の多くは勉学に励むために大学に進学しているのではなく、有利な就職をする(=就職活動を楽にする)ために大学に入学しているというのが本音だと思う。そう考えると、授業などはそっちのけで就職活動を行うのは、ある意味で合理的な行動だと言えなくもない。しかし、“授業の単位を修得すること”よりも“就職の内定を獲得すること”の方が優先されてしまうという現状は、学生としての本分を考えれば、まさに本末転倒な事態だと言える。

 このような本末転倒な事態を迎えてしまった原因は、日本の大学教育そのものにあるとも言える。
 海外の大学は基本的に「入学するのは易しく、卒業するのが難しい」と言われている。しかし、日本の場合はこの逆で、「入学するのが難しく、卒業するのは易しい」…というのは過去の話で、現在では「入学するのは易しく、卒業するのも易しい」というのが日本の一般的な大学の実態である。(一部の大学は除く)

 常識的に考えると、就職するのが難しいのであれば、就職するために勉強するという方向に気持ちを切り替えるのが本来の学生の姿であるべきだと思う。勉学を修めて卒業証書をもらうこと自体に就職するに値する価値が有るのであれば、多くの学生は真剣に授業に取り組むだろう。しかし、入学さえすれば誰もが簡単に卒業証書を手に入れることができるような社会であればどうだろうか? 結果は見ての通りである。

 大学で受講している授業を真剣に学べば就職という活路が見出せるのであれば、学生もそうするはずである。しかし、授業で学ぶことが即、就職に繋がるのは一部の技術系の大学のみであり、多くの文系大学の学生は授業に精を出したところで就職が有利になるようなことはほとんどない。昔であれば、授業の成績が良ければ面接時にも優秀な生徒だと思われて受けが良かったというようなことがあったかもしれないが、現在では『成績証明書』などはほとんど何の効果も無いように思われる。

 現代の多くの学生は、就職するために自らの能力を高めるという努力をせずに、他人よりも早く就職先を見つけることだけに努力しているように見える。『努力する』という方向性が“能力”の高い低いではなく“時間”の早い遅いに向いている。これは言うなれば、実力よりも早い者勝ち競争になってしまっているということであり、言葉を変えれば、ただの椅子取りゲームを行っているということである。
 限られた「就職」という名の椅子を奪うために、授業そっちのけ、ついでに能力もそっちのけで椅子を奪い合う。それが現代の日本の大学生達の姿だと言えば言い過ぎだろうか?
 いずれにせよ、『大学は就職するための能力を身に付ける場所』という表向きの常識(建前)が現代では見事に崩壊してしまっているわけだ。

 こういった事態を招いてしまったのは大学に入学しても勉強しない不真面目な学生だけが悪いのではない。大学に入学さえすれば、半自動的に卒業も就職もできるというような大学のレジャーランド化をそのまま放置してきた日本の教育行政にも大きな責任があると言える。

 企業側から観ても、単に椅子取りゲームで勝つ能力だけに長けた人間よりも、椅子取りゲームなどには見向きもせずに大学で就職に活かせる能力を身に付けた人間をこそ採用したいはずだ。『企業説明会の時期を遅らせる』というようなその場しのぎの対症療法では、多くの学生は浮かばれないままだろう。歪んだ教育の間違った常識自体を変えていかない限り、大学生の悲劇は今後も量産され続けるだろうことは想像に難くない。

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