読書

『評伝 小室直樹』を読んで。

■哲人小室直樹の一生

 8年前(2010年)に逝去された小室直樹氏の評伝『評伝 小室直樹』(村上篤直著)が出版されたので、早速、購入して読んでみた。上・下巻で計1500ページもあるという、評伝としては異例の大作だった。
 巻末資料だけで計200ページ以上あるので、実質的には1200ページの評伝ということになっている。しかし、これだけ分厚い本なのに、上・下巻ともに栞紐(しおりひも)が付いていなかった。

 

 私が小室直樹氏の本を読んでファンになったのは21世紀になってからの話なので、小室氏が20世紀にどういう活動(活躍)をされていたのかはあまり詳しくは知らなかった。テレビの生放送中の放送事故(所謂「小沢遼子足蹴り事件」)でメディアから干されたという話を聞いていた程度なので、少し変わった天才肌の学者という位の認識しか持っていなかった。

 しかし、本書を読んでみたことで、小室直樹という人間の破天荒極まりない学者人生の一端を垣間見ることができた。「○○と天才は紙一重」と言うけれど、ここまでその言葉がピッタリと当て嵌まる人物も珍しいと思う。本文中「破滅型の天才」という言葉があったが、その言動は、まさしく、マッドサイエンティストの如くで、良く言えば「天真爛漫」、悪く言えば「KY」という感じだろうか。しかし、その裏表の無い素直な性格さゆえに周りにいた多くの人々に愛された人物でもあった。

■「ルンペン学者」と呼ばれた男の素顔

 小室氏は、そのあまりにも高い能力ゆえにか、アカデミズムの世界では認められなかったが、ルンペン学者と言われながらも、飾ることなく、誰よりも純粋に学問を学び、学問を究めた人物だった。
 本書を読んで初めて知った破天荒な武勇伝の数々は、まるでマンガの主人公のようですらある。案外、本書を『小室直樹物語』として漫画化すれば面白いかもしれない。

 小学生の時点で「総理大臣に成る」という大望を抱いていたというのも驚きだが、中学校からの朋友であり保護者役だった渡部恒三氏は政治家となり、小室氏自身も総理大臣だった田中角栄氏と対談されている。

 小室氏のような人が、もし間違って総理大臣にでもなっていれば面白かっただろうな…と思う反面、ヘタをすると暗殺されていた可能性もあると思う。小室氏自身の著書にも「政治家として凶弾に倒れるのは男の本懐」というようなことが書かれてあったと記憶している。
 本音と建前を使い分ける人でないと日本の政治家は務まらないという悲しい現実があるので、たとえ正論者であっても本音だけで政治を行うような人は独裁者と判断されて潰される可能性がある。

 小室氏はかつて弁護士になるという道もあったのだそうだが、弁護士では多くの人を救うことはできないということで学者の道を選ばれたらしい。
 辞書を丸ごと暗記できるような人間離れした記憶力を持っていたそうなので、司法試験は十分にパスできたと思われるが、嘘がつけない真っ直ぐな性格なので実務は無理だったかもしれない。やはり小室氏には弁護士よりも学者の方が似合っていたと思える。
 小室氏の場合、記憶力だけでなく、自分自身で思考してオリジナルの理論を組み立てる能力の方が遥かに勝っていたと思われるので、きっと、学者に成るべくして生まれた人だったのだろう。

 こんな破天荒な学者(評論家)が現代にもいてくれれば面白いのだが、なかなかここまで希有なキャラは見当たらない。まさにその時代、唯一無二の存在だった学者、小室直樹。未だその才能は認められたとは言えないが、入念かつ膨大な取材によって彼の素顔を活写した本書は、きっと多くの人を魅了することだろう。
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『大人の道徳』を読んで。

■「道徳の時間」は「道徳科」になった

 先日、書店に行きウロウロと物色していると、ある言葉が視界に入り足を止めた。その言葉とは、以下のような言葉だった。

 「やりたいことをやりましょう」は〈奴隷〉の道徳です。

 興味を抱き、その本を手に取り、目次をパラパラとめくってみると、次のような衝撃的な言葉が目に入ってきた。

 「徴兵制は左翼の思想

 その他、非常に興味深いキャプションの数々に惹かれ、その本を購入した。
 その本のタイトルは『大人の道徳』(古川雄嗣著)。一見すると、取っ付きにくい地味なタイトルに思われるが、中身は素晴らしく明解で新鮮な思想解説本だったので、一気に読んでしまった。

 本書の各章のタイトルは全て「なぜ…」で始まっており、思想の根源にまで遡った考察が書かれている。普通、このての本は難解というイメージがあるが、本書に限って言えば、非常に平易な言葉で書かれているので、大人だけでなく学生でも、スラスラと読むことができると思う。

 これまでの小学校教育で「道徳」と言えば、「道徳の時間」とされ、教科以外の学問という位置付けだったが、2018年(中学校は2019年)からは道徳も「1教科」として数えられるようになったらしい。
 しかし、現在の学校教員で、「道徳」を何のために教えなければならないのかを解っている人はほとんどいないということで、その参考書として書かれたのが本書であるらしい。
 当初、教員向けに書かれた本を編集者の意向(アドバイス)によって、一般向けに書き直されたそうだが、その甲斐あってか、誰にでも読める面白い本に仕上がっている。

 単に時代的分割と思われている、古代・中世・近代の違いがそれぞれ明確に述べられており、近代哲学の祖であるデカルト、カント、ホッブス、ルソーといった偉人の思想もイラスト入りで解り易く述べられている。

■「自由」とは?

 非常に興味深かったのは「自由」というイデオロギーの考察で、現代の日本では「自分のやりたいことをやること」が自由だと思われているフシがある。しかし、「自分のやりたいことをやること」は「奴隷の自由」だと書かれており、その意味を近代を語る上で欠かすことのできない「理性」という言葉を用いて論理的に説明されている。

 では本当の「自由」とは何なのか? ここでは細かい説明は省かせていただくが、それは「自然法則(本能)の支配から解放されて、自分で自分の行動を決定できるということ」。それが、人間の「自由」だと書かれている。

 古代では、奴隷には政治に参加する権利は無かったが、市民には参加する権利(自由)があった。
 動物は、自分の行動を自分で制御することはできない。空腹時に目の前に御馳走を置かれれば、「食べる」という選択肢しかない。しかし、人間は理性によって、例え空腹であったとしても「食べる」か「食べない」かを選択することができる。
 ゆえに「人間がやりたいことをやること」は、自らを制御できないという意味では、自由ではなく不自由だということになる。それは動物と同様、本能と欲望のままに生きることに他ならない。
 自分のやりたいことに逆らって、やるべきことをやる、それが人間の自由なのだ。

 ゆえに子どもに向かって「自分のやりたいようにやりましょう」「自分の好きなことをやりましょう」というのは、人間の道徳ではなく、奴隷の道徳だということになる。
 「自由」とは、身体の本能的欲求に逆らい、理性の道徳的命令に服従すること、それが近代における本来の人間の「自由」だった。
 実に逆説的だが、なるほどなと納得させられた。

■「人権」とは?

 「人権」という言葉の説明も興味深い。
 日本ではよく「人間が人間らしく生きる権利」とか「誰もが幸せに生きる権利」とか言われるが、本当の「人権」とは、「生命と財産を国家によって保護してもらう権利」「国家の法に反しない限りにおいて、自分がしたいことをする権利」というのが、憲法によって保障される「人権」ということになる。
 そうであるなら、現代の日本で叫ばれる「人権を守れ」はかなりズレていると言える。

 著者も指摘されているが、本書を読むと、日本には市民社会だけがあって、国家が存在しないということが解る。戦後の日本には打倒するべき国家がない状態であることがよく解る。
 そう考えると、国家の打倒を目指した学生運動とは一体何だったのだろうか?という疑問が生じてしまう。

 「私的(プライベート)な世界のなかだけで、自分の利益や快楽だけを追求して生きている人間は「奴隷」であり、そこから解放されて「公的(パブリック)」な世界に出ていくことによって、はじめて人は「市民」になることができた」(原文ママ)

 自らの個人的な欲得やイデオロギーを理性的に捨象し、公的な意味合いとして政治に参加することが市民(大人)の理想的な態度だとすれば、学生運動にのめり込んでいった人々は総じて道徳というものを理解していない子供だったのかもしれない。

 本書には、自民党と立憲民主党の関係について少しだけ触れられている箇所があり、その文章(「不正に目をつぶれ」という言葉)を読む限りでは、どうも著者はモリカケ問題の真相が解っておられないのかな…という感じがした。個人的にその部分だけは納得できなかったが、それ以外は、非常に示唆に富んだ良書だった。もっと注目されて然るべき本だと思うので、是非、多くの人に読んでいただきたいと思う。

【追記】2018.9.24
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>これを「奴隷の自由」とかわけのわからないマイ定義するドアホウは、この時点で詐欺師と言って差し支えない。詐欺師の著書の書評なんて無駄。

 著者や私が言っていることではなく、近代の有名な思想家達が言っていることです。あなたが詐欺師呼ばわりして認めたくなくても、世界中の思想家が認めている常識です。

>人間みんな、いずれは死ぬんだよw 自然法則(本能)の支配から解放されることはあり得ないよ。 不老不死になってからなw

 そこまで行くとプラトンの「自由」の話になります。今回は近代に限った話なので、お門違いです。

>国家が存在しない? 現実と乖離してますね。

 詳しくは本書を読んでくださいとしか言えませんが、主権者としての国家です。と言っても、本書の内容を理解しないと解らないことなので、読んでいない人には説明できませんが。

>一ミリも賛同出来ない本だな・・・・
法に触れない限り自由にやってよろしい!みたいなの正しいと思えないわ。

 別に法に触れなければ悪事を働いても構わないという意味ではありません。

>自由とは、束縛を受けない状況を指す。 義務であれ、常識であれ、身体的な能力であれ、何らかの束縛は常にあるが、束縛が減ることを実感しているとき、人は自由になったと感じる。
奴隷の自由、人間の自由、いずれも洗脳じみたこじつけの論理に過ぎない。

 それは狭義の自由であって、近代契約社会における広義の自由ではないのです。これも著者や私が言っているのではなく、歴史上の偉人達が述べていることです。福沢諭吉や中江兆民等も間接的に同じようなことを述べています。その思想が現代の主流になっているのだから、洗脳などと言われても困ります。

>知生体は肉体という檻に囚われているのだから、真の自由なんてありはしないのだよ

 その通りです。しかしそれもプラトンの言葉ですから、今回の記事とは関係ありません。

>薄っぺらいし、自由という観念をイデオロギーとわざと言い換えて見たり、意図が見え見えでゲロでそうですが。

 意図なんてありません。本書に書かれていた言葉をそのまま書いたまでのことです。嘘だと思うなら本を買って(または立ち読みして)確認してみてください。

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『マルキシズムとは何か』を読んで

■新書1冊800円は高過ぎる?

 最近、書店に足を運び、新書コーナーに立ち寄る度に、「新書の値段が高過ぎるのではないか?」と思えてしまう。1冊800円(税抜)という価格設定が消費者の購買意欲を引き下げているのではないか?と思う時がある。これがワンコイン(500円)なら、もっと売れるのではないだろうか?と。

 実際は、本の価値なんて、あやふやなもので、本当に面白い本なら数千円出しても構わないし、全く面白くない本には100円も出したくない、それが消費者の本音だろうと思う。しかし、それはあくまでも読後の話であって、読む前にはその本にどれだけの価値が有るのか分からない。ゆえに、本を買うことが一種の賭けになってしまう。

 本の原価というものは、発行する部数によって大きく変わることはよく知られている。発行部数が大きくなればなるほど、原価は安くなっていく。売れることが分かっている人気漫画の『ワンピース』や『キングダム』などは、初版から大部数印刷できるので原価は大幅に下がり利益率も大幅にアップする。多くの本が売れなくても、一部のベストセラー本が出れば、それで潤うというのが、出版業界のビジネスモデルでもある。

 書店で販売されている新書の値段は200ページ程で700〜900円位が一般的だが、電子書籍でしか販売されていない本となると、ぐっと値段が下がる。電子書籍の場合、ページ数はマチマチで、中には数十ページという短い本もあるが、価格も比例して安くなる。
 私も昨年にKindleFire10を購入したので、たまに電子書籍を購入することがある。電子書籍としてしか販売されていない本に限られるが、まず初めに購入した本が現在、絶版になっている河合栄治郎氏の『マルキシズムとは何か』という本だった。

■戦前、全体主義と闘った思想家

 河合栄治郎(1891-1944)と言えば、知る人ぞ知る立志伝中の人物であり、戦前に左右の全体主義と闘った思想家としても有名な人物だ。最近は保守系の本でも度々、その名を見かける。例えば、『共産主義の誤謬』や『「リベラル」という病』にも河合栄治郎氏のことが紹介されていた。

 この『マルキシズムとは何か』は、僅か140ページの本ながら、実に興味深く面白い本だったので、既に何度か読み返している。戦前にこれだけのことが書ける人がいたとは驚きであり、53歳という若さで亡くなったことが悔やまれるほど惜しい人物だったと思えた。
 保守の重鎮だった渡部昇一氏が「河合栄治郎が長寿であったなら、
日本のインテリは、30年も早くマルキシズムの幻想から自由になっていたであろう」と述べていたことの意味が少しは解ったような気がした。

 ただ、河合氏は、左の全体主義者(=左翼)と右の全体主義者(=右翼)の双方を敵に回したため、その言論の一部が都合よく、左翼に利用されたり、右翼に利用されたりすることがあるらしいので、その辺は少し注意する必要がある。しかし本書は、河合氏本人が書かれた書物なので、脚色されている心配はなく、彼の素の意見が読める。

■マルクス主義の矛盾を一刀両断

 本書で、河合氏は「酔生夢死の徒※」という言葉を使用し、当時の東京帝大生(現在の東大生)の一部を思想的に分類されている。3000人の学生中、7割の学生が「酔生夢死の徒」であり、残った3割の内の1割が保守的学生であり、1割が進歩的傾向を持っている学生、そして残る1割がマルクス主義者だと述べている。要するに当時の東大生の1割(300人)がマルクス主義者だったということになる。しかし、その1割が全体の3000人を引っ張るだけの影響力を持っていたらしい。
 それというのも、当時は、学生を虜にするような思想が日本に無かったことが禍いして、優秀な学生がマルクス主義に惹かれることになったと書かれている。

※何等目的もなく、唯空々寂々にその日その日を送っている学生

 河合氏はマルクス主義の影響力は認めながらも、マルクス主義の矛盾については、哲学的な見地から論理的にバッサリと一刀両断されている。マルクスの誤りをここまで見事に論破した本も珍しい。特に、唯物論、唯物史観の反駁は白眉で痛快、深く納得させられた。
 戦後の著名な作家や評論家でも唯物史観にどっぷりと漬かったような人が多く見受けられるが、河合氏の聡明ぶりはそういった人々とは一線を画しており、まさに本物の知識人という印象を受けた。

 わずか180円でこれだけの知識を得られるというのも、紙の新書とは一線を画している。是非、多くの人に読んでいただきたいと思う。


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『「反日」という病』を読んで。

■裏返されていた2冊の本

 先日、行き着けのショッピングモールの書店に行き、政治・社会コーナーの書棚を覗いてみると、平積みされた2冊の本が裏返しになって置かれていた。何の本かと興味を抱き、手に取ってみると、以下の2冊の本だった。

 

 この2冊から推察するに、どんな人(人々)がこういうことをしたのかは大体の察しが付いてしまうが、私はこういう姑息な真似が嫌いなので、親切に表向けておいた。裏返した人(人々)からすれば営業妨害(?)と言われそうだが、こういうことをすると、余計に目立って印象が悪くなると思わないのだろうか?と疑問に思ってしまう。

■「善い日本人」と「悪い日本人」

 前置きは置いておいて、その日は同じコーナーに置かれていた『「反日」という病』(木佐芳男著)という本を購入した。


 
 本書は、戦時中、戦争を礼賛していたはずのメディアが、戦後、急速に左傾化(反日化)した原因を心理的に探った本であり、戦後のマインド・コントロールの実体を事細かに記しているのが印象的だった。
 キーワードとなるのは「善い日本人」と「悪い日本人」というもので、戦時中、戦争を煽ったメディアは、本来であれば「悪い日本人」にカテゴライズされるはずだったが、戦後、メディア自体が解体されなかったことによって、「善い日本人」の立場を演じることになった。
 戦後の「善い日本人」というのは、進歩的文化人のことであり、ガラパゴス化した平和主義者を意味した。

 逆に「悪い日本人」とは、どんな人々になるのかというと、「神仏や天皇制を含む伝統文化を重視し、ポリティカル・コレクトネスや共産主義、エセ平和主義などには本能的に大なり小なり抵抗を感じる人びと」(原文ママ)ということらしい。

 そうなると、私も「悪い日本人」ということになってしまうのかもしれない。と言うか、大抵の日本人は「悪い日本人」にカテゴライズされてしまうことになると思われる。

■「産経辺りが世界の標準」

 日本の主要活字メディアを右から順番に列記すれば、次のようになるらしい。

  産経新聞
  読売新聞
  時事通信
  日本経済新聞
  毎日新聞
  共同通信
  朝日新聞

 私も現在、産経新聞を購読しているが、特に右寄りという感じはしない。著者も「産経辺りかその少し左が世界の標準」と述べておられる。

 本書は先にも少し触れた通り、全体を通して精神分析(プロファイリング)論風に記述されている。前半部の事実としてのマインド・コントロール論は興味深かったが、後半の精神分析論は、半分仮説のような体裁を採っているので、個人的にはあまりピンとこなかった。

 本書は『“戦争責任”とは何か—清算されなかったドイツの過去』という本の姉妹編らしいので、機会があればそちらも読んでみたいと思う。
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BOOK『パヨクニュース2018』を読んで。

■パヨクニュースのエバンジェリストとなったチバレイ

 これまで『さよならパヨク』『くたばれパヨク』と、自らの実体験を通してパヨクの実態をレポートしてきた千葉麗子氏の事実上、3冊目のパヨク解説本『パヨクニュース2018』。

 1作目がパヨク入門、2作目がパヨク概論だったと位置付ければ、本書はパヨクなニュースのダイジェスト版といったところだろうか。

 この1年間に起こった、都合50本のパヨクなニュースがブログスタイルの平易な文章で書き連ねられている。1年間に50本ということは、1週間に1回はパヨクなニュースが有ったということになる。

 2017年のニュースなのに、タイトルが「2018」になっているのは、千葉麗子氏からの年賀状というスタイルを狙ったものなのかもしれない。毎年、出版することを考えてのことなら、なかなか時流に乗った上手い商売だとも言える。マスコミが報道しない(または歪めて報道する)ニュースがストレートに読めるという意味では、結構、需要が有るのかもしれない。

 内容的には「どのような」ニュースだったのか?をまとめた本なので、「なぜ」まで踏み込んで知りたい人には少し物足りないかもしれないが、解説も付記されているので、前2作よりも一般向けになっていて読み易い。隠れた時事本として気軽に読める本だが、ピンク色を強調した表紙なので男性が書店で購入するには少し抵抗があるかもしれない。

■「マスメディア」ではなく「マスレフト」

 「メディア」という言葉の語源は「ミディアム」、つまり「中間」を意味している。メディアが中立であらねばならないというのは、「メディア」という言葉自体が「中間」という意味だからであり、それに反したメディアは既にメディアとは言えない。しかし、1つのメディアが左傾化、または右傾化しても、国全体で左右のバランスが取れていれば、「メディア」ということはできる。
【参考文献】『マスコミはなぜここまで反日なのか』(ケント・ギルバート著)

 ところが、日本のメディアは、そのどちらも満たしていないと思われるので「メディア」とは呼べないと思う。「左翼メディア」という言葉を直訳すれば「左翼中間」、「リベラルメディア」という言葉を直訳すれば「リベラル中間」となってしまうので、意味不明な言葉になってしまう。しかしながら、「メディア」という言葉を外せば、単に「左翼」「リベラル」となってしまうので、「メディア」という言葉の代わりに「インフォメーション」にした方がピッタリする。「左翼インフォメーション」「リベラルインフォメーション」という具合に。

 「マスメディア」という言葉も、国全体で左右のバランスが取れていればの言葉であり、バランスが一方(左)に傾いているのであれば、「マスレフト」と呼ぶのが正しいということになってしまう。

 そんな社会にあって、右、または保守寄りの情報媒体が増えることは望ましい。人々が何が正しい情報で何が間違った情報かを精査できる情報媒体が増えることは至って健全な姿だと言える。そういう意味では、千葉麗子氏の著作活動は、偏った報道体制に一石を投じる役目を果たしているのではないかと思う。

【追記】2018.1.3
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>「メディア」はwikiでは次のように定義されています。
【Media】 media(メディア)はmedium(メディウム)の複数形。medium は、中間にあるもの、間に取り入って媒介するもの。
だからメディアは「中間」ではなく「媒体」ですね。

 メディアが中間に入る媒体というのは、その通りです。それはケント氏自身も以下のように述べておられます。

 >情報元と大衆の「中間」にあって、情報を大衆に伝える役目を負っている

 メディアは中間にいるからこそ、正しく情報を伝えなければいけない。自分達の都合の良い情報は大きく報じ、都合の悪い情報は報じないでは、中間に入っているということにはならない。中立というのはそういう意味です。

 ケント氏の名誉のために書いておくと、本記事はケント氏の文章を引用したのではなく、参考にしただけです。だから、文章の最後ではなく、最初の方に【参考文献】と記しました。ケント氏の本で参考にしたのは、「メディアはミディアムという意味」という部分だけで、あとは私なりの持論です。早い話、中立でなければメディア(中間)ではないという話です。

>そもそも、全ての情報は言語化された時点で「中立」ではなくなる。何らかの「意見」が挿入される。完全に中立的な情報(正しい情報)なんて、あり得ないんですよ。

 情報に思想的な色を付けずにありのまま報じる、それだけで全体としては中立になります。正しい情報を判断するのは自分自身であり、情報の真偽を判断するための様々な情報を脚色することなく提供するのがメディアの役割です。


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BOOK『日本人にリベラリズムは必要ない。』を読んで

■「憲法」を「聖典」と認識している人々の存在

 今年は70回目の憲法記念日を迎えたということもあり、最近の北朝鮮情勢も手伝ってか、メディアでも例年以上に憲法論議が盛んに行われているような気がする。もちろん、主題は憲法9条をどうするのか?ということであり、自衛隊の有無と憲法9条の関係がメインテーマとなっている。
 しかしながら、「自衛隊を軍隊と認めるか否か?」と問うた時に、「軍隊ではない」などと言う人は誰もいない。これは海外でも同様で、日本の自衛隊を「軍隊ではない」などと言う人は皆無だろうと思う。世界でも日本の軍事力は10位以内に入っているとも言われている(本書では4位と書かれていた)ので、誰がどう見ても軍隊以外の何者でもない。ちなみに北朝鮮は30位以下。
 ところが、憲法9条2項に「・・・陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と書いてあるので、この矛盾をどうするのか?という議論が毎度、繰り広げられることになる。そして、いつも結果は有耶無耶になる。

 常識的に考えると、現在の自衛隊の存在は、明らかに違憲状態であるので、この矛盾を是正するためには、憲法を変えるか、自衛隊を無くすしかないことになる。しかし、軍事力を持たない国家などは有り得ないので、常識的には憲法を変えるしかない。
 これは子供が考えても、そう成らざるを得ない帰結であると思われるのだが、なぜか日本では聖書でもない憲法を少しでも変えることに拒絶反応(脊椎反射)を示す勢力が存在するため、全く事態が進行しない。いや、むしろ、「憲法」を「聖典」と認識している人々が存在しているがために変えることができないと言った方が正解だろうか。

■「リベラル」とは「隠れマルクス主義者」のこと

 前置きはこの辺にして、昨日、『日本人にリベラリズムは必要ない。』(田中英道著)という新刊を読んでみた。ちょうど、本書には憲法9条のことについてもタイムリーな話が書かれてあったので、レビューがてらに少し紹介しておきたいと思う。

 「3度の食事よりも○○が好き」という言葉があるが、最近の私の知的好物は、リベラル研究本の類いで、書名に「リベラル」と付く本は、大抵、目を通している。
 これまで何冊もリベラル研究本を読んできたが、本書はその中でも出色の出来映えで、3食とはいかずとも、1食抜いても読む価値が充分に有る本であり、蒙が啓かれたような気がした。(寝食を忘れてしまうほど夢中になって読んだという意味)

 「リベラル」や「リベラリズム」という言葉の定義から成り立ち、そして日本国憲法についても、テレビや新聞のような表層をなぞっただけの「How(どのように)」論議ではなく、思想的な「Why(なぜ)」にまで遡って平易に詳述されている。内容的にはディープでありながら、文章的には非常に解り易くシンプルに書かれていたのが印象的だった。著者があとがきで、「小難しい書物を捨てよ」と書かれていたことの意味がよく解る。

 本書のタイトルである「日本人にリベラリズムは必要ない」理由が、理論的に書かれており、これまでなぜ憲法9条を変えることができなかったのかも、歴史に秘された出来事を通してズバリ書かれている。「歴史に秘された」と言っても、陰謀論の類いではない。

 著者は「リベラル」とは「隠れマルクス主義者」であり「偽装された左翼」と位置づけている。元々は「左翼リベラル」だったものが、ソ連の崩壊を機に、「左翼」をカットして「リベラル」になったと書かれている。
 具体的に言えば、革命のターゲットを「経済」から「文化」に切り換えた。つまり、左翼は経済を破壊することが目的だったが、リベラルは文化を破壊することが目的になったということ。

 左派野党が何でもかんでも反対するという万年風物詩的な言動も、実は意味のある活動であり、「批判理論」というものが、そのベースになっているらしい。「批判理論」については『病むアメリカ、滅びゆく西洋』(パトリック・ブキャナン著)に詳述されている。

■「リベラル」という化粧言葉

 「リベラル」という言葉は、日本でもアメリカでも、「隠す」あるいは「化粧する」という目的を持って使用されてきたという経緯がある。日本の場合は本書に書かれてあった通り、「左翼」であることを隠すために使用された経緯があり、アメリカでは、ニューディール政策という社会主義的な経済政策を行うことで国民から毛嫌いされることを恐れて、当時の民主党が「リベラル」という言葉を使用した(化粧した)という経緯がある。大恐慌を境として、アメリカのリベラルもまた「自由」とは正反対の概念にすり替わってしまったわけだ。

 それ以前に、リベラリズムは、当初、啓蒙主義という考え方であり、西洋におけるキリスト教からの「自由」を意味するものだった。だから、日本人には向かないし、また必要のない思想だということらしい。

 昭和20年から22年の間に行われた『新憲法発布』『財閥解体』『農地解放』は民主主義運動ではなく、実は社会主義運動だったというくだりは興味深かった。1945年に社会主義者であったルーズベルト大統領が死去したことによって、偶然にも翌年、アメリカは反共産主義に舵を切り直した。しかし、当時、既に日本で行われてしまった社会主義運動によって生じた負の遺産は残り続け、現代の日本にも悪影響を与え続けている。
 本書を通読すれば、憲法を変えることができなかったことも、その悪影響の1つであることが腑に落ちる。是非、多くの人に読んでいただきたいと思う。

【追記】2017.5.5
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>この著作を読んだことはありませんが、筆者が共感・納得している範囲でいうと、戦後の「財閥解体」「農地改革」は社会主義の思想に基づくもので、これらは有害なものであり、今日までも弊害を及ぼし続けているということでしょうか。

 よく読んでいただければ分かると思いますが、『財閥解体』や『農地解放』は単に一例として挙げただけで、GHQが行ったとされる社会主義政策は多岐に渡るものです。それら全てを引っ括めて「負の遺産」と書いたわけです。

>仮に財閥解体がなかったとすれば、たとえば三菱と名の付く各企業は、すべてオーナーの岩崎一族が支配する同族企業集団でしかなく、もちろん三井や住友も同様に三井一族や住友一族の支配下にあったわけであり、今の韓国と同じような経済構造になっていたことでしょう。

 『財閥解体』がGHQの占領政策の一環で行われたことは事実ですし、それが戦争資金を断つという目的のために行われた政策であることも事実です。とはいえ、「財閥解体」にも当然、メリットとデメリットがあります。実際に行った場合(現実)と行わなかった場合(仮定)を比べることはできませんが、ここで重要なことは、民主化を目的に行われたものであったのか、それとも社会主義化を目的に行われたものだったのかということです。前者である場合の『財閥解体』と、後者である場合の『財閥解体』を同一線上で考えるのは無理があります。結果が同じであっても評価は違ってきますから。

>また農地改革がなかったとすれば、農民のほとんどは大地主から土地を借りて生活する小作人でしかなく、少し前の中南米のような状況になっていたと思います。

 これも同上で、メリットとデメリットが有ります。行わなかった場合のデメリットだけに目を向けても、あまり意味があるとは思えません。

>この筆者「自由人」という人の過去のエントリを見ると、それとは真逆の、個人主義的・自由主義的な社会指向の人ではないかと思います。

 「過去のエントリ」と書いていますが、あなたは当ブログの記事をどれだけ読んだ上で言っているのでしょうか? 私は「自由人」と名乗っていますが、自由主義者という限定した意味ではありませんし、個人主義者でもありません。「自由人」というのは、「物事を自由に考える人」という意味合いで使用しています。

>こーいう印象操作をやっちゃうからリバタリアンも信用が無くなっちゃうのですね。

 私はリバタリアンではありませんが…。

>そもそも、いまどきマルクスを読んでマルクス主義者になった日本人がどれほどいるのだろうか。
ほとんどいないだろう。
結局、【「隠れマルクス主義者」として「リベラル」】なる者は、脳内仮想敵にすぎず、実際にはほとんど存在しないのではなかろうか。

 その通り、ほとんど存在しません。ではなぜ、左翼過激派による暴動や学生運動などの血なまぐさい活動が20世紀に存在したのでしょうか? それはそういった破壊活動を行わせるに足る思想が明らかに存在したということでしょう。しかし、当時の学生達がマルクス主義を理解していたのか?というと、これも理解せずに空気で(妄想で)動かされていただけでしょう。あなたの言葉で言えば、「脳内仮想敵」ということになりますが、「脳内仮想敵」を作った人々(=妄想家)という意味では当時も今もマルクス主義者は確かに存在しているのです。(本人に自覚が有るかどうかは分かりませんが)

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BOOK『歯はみがいてはいけない』を読んで。

■「食後すぐに歯みがきしてはいけない」が世界の常識

 昨年の夏頃に発売された新書『歯はみがいてはいけない』(森 昭著)を読んでみた。

 本書のタイトル「歯はみがいてはいけない」というのは、もちろん誇張表現であり、言葉を端折らずに正しく書くならば、「歯は(食後すぐに)みがいてはいけない」となる。
 それでも、「えっ!?」と驚く人が多そうだが、本書によると、食後すぐに歯みがきする習慣がある国は「日本」と「韓国」だけであるらしい。無論、日本と韓国が世界に先んじて食後に歯みがきを行うようになったという美談ではなく、その逆で、世界の常識から隔絶してしまったという意味である。
 韓国の場合は、日本の歯みがき文化を真似たそうなので、食後に歯みがきする習慣を最初に作り出した国は「日本」ということになる。翻って、世界に目を向けてみると、「食後すぐに歯みがきしてはいけない」という真逆の常識が根付いているらしい。

 ではなぜ、日本でそのような特異な習慣が出来上がってしまったのか?と言うと、1960年代に始まったとされる「3・3・3運動※」というものが提唱されたことに依る。それ以来、この運動が国民の間で“常識”として根付いてしまい、歯みがき習慣に関してもまた、日本の常識だけは世界の非常識となってしまったというわけだ。

※「毎食後3分以内に3分間、一日3回歯をみがこう」というキャンペーン

■「3・3・3運動」から生まれた悪弊

 私の場合、いつの頃からか朝起きてすぐ歯磨きし、就寝前に歯磨きするという習慣が出来上がっていたので、運良く驚かずに済んだが、自らの歯みがき習慣が世界の非常識だったことを知って「えー?!」と驚いた人も結構いるのではないだろうか?

 夜間、寝ている間に口腔内に雑菌が大量に繁殖しているので、朝起きて歯を磨かないまま食事をすると気持ちが悪いし、寝る前も口の中を清潔にしておかないと余計に雑菌が繁殖しそうなので歯を磨く。普通に考えれば、これはごく自然に根付くべき習慣だと思われるのだが、日本ではそうはならなかった。
 良かれと思い人為的に作られた習慣(この場合は「3・3・3運動」)が、皮肉なことに当たり前の習慣が定着することを阻害し、間違った悪習慣を根付かせることに役立ってしまう。こういった悪弊を回避するためには、常に世の中の常識というものが、いつ、どうやって生まれたのか?ということに思いを巡らせる必要がある。

 実際は、雑菌が気持ち悪いというような感覚的な理由だけでなく、食後すぐに歯みがきしてはいけない科学的な理由も本書には詳しく書かれている。詳細は本書に譲らせていただくが、間違った歯みがき習慣を何十年も続けてきた人々にとってはショッキングかつ有益な情報が書かれている。

■「増え過ぎた歯科医」と「安過ぎる治療費」が齎した悲劇

 朝食を食べる前に歯みがきすると、食事の味が変わってしまうので、仕方なく食事の後に歯をみがいているという人は多いと思う。歯をみがいた後は、歯みがき粉に含まれている界面活性剤やメントール成分が口中に残っているので、食事が苦く感じる。そのため、食前はうがいだけにして、食後に歯みがきする習慣が身に付いたという人も案外多いのではないかと思う。
 私の場合、この(苦い)問題をクリアするために「せっけんハミガキ」を使用している。これだと、ほとんど無味無臭なので、食前に歯みがきしても、食事の味は損なわれないのでオススメだ。

 本書には、現在の歯科業界が陥っている問題点もいくつか指摘されている。アメリカでは1本の歯の根を治療するのに10万8000円かかるが、日本では5800円らしく、20倍近くもの差があるらしい。国民皆保険制度のおかげで治療費が(他の国と比較して)安価に成り過ぎているためか、歯科医には様々なジレンマもあるらしい。

 私も何年か前に、歯の詰め物が1年で取れたので歯医者に行った。その詰め物をした当の歯医者だったのだが、いつまで経っても治療完了とならず、通う度に「あと何回です」とどんどん延びていったので、途中でお断りしたことがある。1回や2回で終わりそうな治療をどこまで引っ張るのか?と疑念を抱き、患者を無視した押し売り的な姿勢に憤りを感じたことを覚えている。
 そういった出来事もまた、増え過ぎた歯科医と安過ぎる治療費が齎した悲劇であったのかもしれない。

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BOOK『くたばれパヨク』を読んで。

■チバレイ流パヨク論考 第2弾

 最近は本当にリベラルやサヨクに対する研究・批判本が多くなり、本音で書かれた活字を読むことも多くなった。少し前までなら一部の保守論客の本でしか読めなかったような正論が、様々なタイプの論客から聞かれるようになったので、自然と購入する本も多くなり積読本がますます増える傾向にある。
 そんな状態だから、なるべく薄く平易な文章で書かれた興味深い本から優先的に読むことになる。人間は心理的に簡単な問題から先に解決していく傾向にあるので、難解で読みづらい分厚い本は最後まで残ってしまうのかもしれない。

 前置きはこの辺にして、この年末に平易で興味深い本の1つ『くたばれパヨク』を一気読みした。昨年ベストセラーになった千葉麗子氏の『さよならパヨク』の続編的な位置付けになる本だが、文章量的には少し増えた感じがしたものの、内容的には前作同様、パヨク(劣化した左翼)の暴露本というか、入門書という趣きの本だった。ある程度の保守的な知識のある人には少々物足りなく感じるかもしれないが、大部分の日本人はパヨクに関しては素人だと思われるので、これはこれでよいのかもしれない。

 前書同様、詳細は省かせていただくが、大きく分類すると、「芸能界とパヨク」「教育とパヨク」「若者とパヨク」という感じでパヨクの実態を彼女なりに簡易レポートしたエッセイ風の書物になっている。タイトルは「さよなら」から「くたばれ」と過激になっているが、内容的には逆に大人しめになっている。

 「芸能界とパヨク」では、パヨク芸能人を断罪するというスタイルではなく、ある意味で、同情的なことが書かれていた。千葉麗子氏曰く「(芸能人の)主要な得意先であるマスメディアがパヨれば、それに合わせて芸能人もパヨるのもある意味仕方がないことなので、既存メディア以外でも(芸能人が)活躍できる場を考えなければならない」(原文ではない)とのことだが、これは全く同感だった。

 「教育とパヨク」では、「(戦後)70年以上かけてパヨった教育は、さらに長い年月をかけないと取り戻せない」と書かれていた。

 私が中学生の時の社会科の教師は、なぜか、日本の歴史よりも中国の歴史を熱心に教える教師だった。中国の元号は熱心に教え込むのに、日本の元号は教えないという教師だったせいか、中国の元号はキッチリ覚えているが、日本の元号はほとんど覚えていない生徒ばかりという有り様だった。
 中学時代の私には、思想的な知識も探究心も無かったので、「先生、なぜ中国の元号は教えるのに、日本の元号は教えてくれないのですか?」というような質問もできなかったが、今考えると、あの教育は一体なんだったのか?と思う時がある。

 「若者とパヨク」では、「環境パヨク」「人権パヨク」「反戦パヨク」と3つのカテゴリーの説明が書かれており、かつて「反原発」という「環境パヨク」にハマってしまった自らを反面教師として、若者にアドバイスされている。

 しかし、つい2〜3年前まで反原発アイドルだった人物が、これだけの短期間で見事に転身できるということは、驚きであると同時に可能性を感じさせもする。「70年以上かけてパヨった教育は、さらに長い年月をかけないと取り戻せない」という彼女の言葉に照らせば、実際はもっと短期間で取り戻すことが可能であることを身をもって証明してくれているかのようだ。今後の更なるご活躍に期待したい。

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BOOK『いよいよ歴史戦のカラクリを発信する日本人』を読んで。

■「日本の歪んだ常識」のカラクリ

 親日家として知られるケント・ギルバート氏の新刊『いよいよ歴史戦のカラクリを発信する日本人』を読み終えた。
 『まだGHQの洗脳に縛られている日本人』、『やっと自虐史観のアホらしさに気づいた日本人』に続くPHPシリーズ3作目となる本書は、非常に興味深く示唆に富み、知的好奇心を刺激してくれる本だった。
 『いよいよ歴史戦のカラクリを発信する日本人』と言うよりも、現状では『いよいよ歴史戦のカラクリを発信したケント・ギルバート』という段階かもしれないが、非常にフランクに正論を語られているのが印象的だった。

 例えば、共産主義に関して、ケント氏は以下のように述べられている。

>人間に欲望や個性が必ず存在するかぎり、結果の完全平等とは、悪平等にしかなり得ないのです。共産主義者は、根本的な人間理解に欠けています。人間のことを、大量生産の歯車と同じだと考えているからです。共産主義とは、有能な人間のやる気を失わせ、無能な人間はますます無能な怠け者になるという仕組みです。人間の精神面を確実に腐らせ、社会を後退させます。だから、ソ連や東欧諸国は破綻したのです。

 まるで、日本の多くの会社にもそのまま当て嵌まりそうだが、私も同じようなことを書いたことがあるので共感を覚えた。上記のような認識は、まともな先進国では常識なのだろうけれど、日本だけは随分と違うらしく、ケント氏は40年前に来日した時から違和感を感じられていたらしい。

 GHQの影響を受けなかったアメリカ人の目から冷静に観察した戦後の日本社会の様相が具体的に書かれており、読む人によっては、スパイドラマを観ているかのような錯覚を覚えるかもしれない。歴史の裏に隠された真相を知ることで、世界の常識から乖離した日本の歪んだ常識を形作ってきた巧妙なカラクリの一部が垣間見えるかもしれない。

■「戦争は情報戦から始まる」カラクリ

 永世中立国であり国民徴兵制度のあるスイスの国民は、以下の2点を常識として認識しているらしい。

 「軍事力によってこそ国の独立は守られる
 「戦争は情報戦から始まる

 日本では「はあ?」と言うような人も多そうだが、残念ながら、「はあ?」などという言葉が出てくること自体、「私は平和ぼけしています」と白状しているようなものだろうと思う。ケント氏も日本人の「平和ボケ」と「知的怠慢」を嘆かれている。

 スイス政府が冷戦時代に出版し一般家庭に配布した『民間防衛』という本の中にある「武力を使わない情報戦争」の手順とは、次のようなものであるらしい。

 第1段階
  工作員を政府中枢に送り込む。

 第2段階
  宣伝工作。メディアを掌握し、大衆の意識を操作する。

 第3段階
  教育現場に入り込み、国民の「国家意識」を破壊する。

 第4段階
  抵抗意志を徐々に破壊し、「平和」や「人間愛」をプロパガンダに利用する。

 第5段階
  テレビなどの宣伝メディアを利用し、「自分で考える力」を国民から奪っていく。

 最終段階
  ターゲット国の民衆が無抵抗で腑抜けになったとき、大量植民で国を乗っ取る。

 ケント氏は、この文章を読んで、これは日本のことを書いたものではないか?と戦慄を覚えられたそうだが、なるほどな…と考えさせられる。

 本書は、現代の日本が置かれている状況というものを正しく認識し、再確認する上でも重要な位置付けの本になると思う。興味を抱いた方には是非、読んでいただきたいと思う。

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BOOK『99%の会社はいらない』を読んで。

■99%の人は、自分の時間を生きていない

 ホリエモンこと堀江貴文氏の新刊『99%の会社はいらない』を読んでみた。

 「99%の会社はいらない」などという過激なタイトルを付けると、また多くの人(本を読まない人)からバッシングされそうだが、この数字には意味があって、本書曰く、「会社勤めをしながら、自分の時間を生きている人は100人中1人位しかいないので、99%の会社はいらない」ということらしい。
 本書の要諦は前書きにも書かれてある通り「自分の時間を生きる」ということになるのだろうか。“他人の時間を生きて苦しむ”のでなく、“自分の時間を生きて楽しむ”ことが、これからの仕事のテーマになっていくと書かれている。

 「ホリエモン曰く」ではなく、「本書曰く」としたのにも理由があって、本書は堀江氏が1人で書いたわけではなく、別の人の協力を得て書かれているらしい。文体を見る限り1冊丸ごと同じ個性で書かれてあるので、章ごとに分担して書かれたわけではなさそうだ。ある事柄についてインタビュー取材した内容を編集し、ゴーストライター的な役割を持った人が1人で書かれたのかもしれない。しかし、内容的にはホリエモン個人の体験談が多かったので、それを別人が書いているというのは驚きだった。

■「クール・ビズ」が唯一の成功例

 私は堀江氏の本は『稼ぐが勝ち』から、ほとんど全て目を通している。以前、同書内の「人の心は金で買える」という過激な発言が話題になりバッシングされたことがあったが、あの言葉も実は編集者の案だったというようなことが別の本に書かれてあったと記憶している。しかし当時のマスコミや評論家は、彼の本を読んでいなかったのか、そういったバックグラウンドを無視して好き勝手に「拝金主義者だ」とホリエモンバッシングを行っていたので、少し気の毒に思っていた。冒頭でも触れたが、本(資料)も読まずにイメージだけで批判する人は一般人だけでないということがよく判ったエピソードだった。

 本書の冒頭では、日本の会社の矛盾点がいくつか書かれてあったが、無意味化している日本企業の古くからの習わしを崩すことに成功した、たった1人の人物として小池百合子氏のことが紹介されていた。無論、「クール・ビズ」のことだが、これだけが唯一、融通の利かない日本企業で変革(と言うより改善)されたことであるらしい。

 そう言えば、先の東京都知事選で、堀江氏は舛添氏の続投を望む発言をされていたが、小池百合子氏が新都知事になったことは、どう思われているのだろうか? 案外、結果オーライだったのかもしれないが…。

■エンターテインメント業界のビジネスモデル

 これからは仕事が遊びになる時代が来るということで、そこで真っ先に注目を浴びるエンターテインメント業界のビジネスモデルが書かれていた。

 そのビジネスモデルというのは、以下の4つに分類されるらしい。

 1、[メジャー&高収入]/超有名人型
 2、[マイナー&高収入]/ネット著名人型
 3、[メジャー&低収入]/売れない芸人型
 4、[マイナー&低収入]/一般ブロガー型

 私などはブロガーが本業ではない一般人なので、どれにも該当しないが、強いて選ぶなら「4」に分類されるのだろうか。しかし、一般ブロガーがブログで商売していけるようになるのは、正直、かなりハードルが高いような気がする。あまり後ろ向きなことは書きたくないのだが、世間一般のブロガーがブログを書くという遊びを仕事として認識できるようになるためには、ブログというシステム自体も、大きく変わっていく必要が有るのではないかと思う。それを具体的に説明しろと言われてもできないが、もし、ブログを書くという遊びが仕事に変化する未来が訪れるのであれば、その時は現在とは違ったシステムが構築されているような気がする。

 本書は全体を通して、ひたすら前向きなホリエモン流のリアルな行動哲学という趣きの本だった。簡単なようでも一般人にはなかなか真似の出来ないことが多そうだが、行動派ホリエモンの現在を知るには最適な本だと思う。

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