心理学

「貧しさを否定する人は貧しくはならない」は真実か?

2012012601 前回の記事は、ブログのカテゴリーに新たに「心理学」という項目を設けて成功法則的な話を(初めて)書いてみた。話題性を考慮して、「金持ち」という言葉を敢えて使用してみると、案の定と言うべきか、危惧した通りと言うべきか、いくつかの反論を頂いた。しかし、どちらかというと理解を示してくれる人の方が多かったようなので少し安心もした。

 中にはコメントだけでは言い足りないのか、ブログ記事を書いて反論を述べておられる人も何人かおられたようなので、今回は少しでも誤解を解いてもらうために補足的な記事を書かせてもらおうと思う。

 前回は、「金持ちを否定する人は金持ちにはなれない」と書いた。では逆に、「貧乏人を否定する人は貧乏人にはなれない」というのは成り立つのか? おそらく、こういった反論や疑問を持たれた人が一番多かったのではないかと思う。(以下、「貧乏人」という言葉は「貧しさ」という言葉に変えさせてもらおうと思う。)

 「貧しさを否定する人は貧しくはならない

 一見、このロジックは成り立たないように見える。ゆえに、「金持ちを否定する人は金持ちにはなれない」などというのはデタラメ(詭弁・言葉遊び)だというわけだが、果たして本当にそうだろうか?

 確かに普段から「俺は貧乏が嫌いだ」と思っているような人は大勢いる。「そんな人に貧しい人はいないのか?」と問われれば、答えは「否」であり、実際に貧しい人は大勢いる。あるいは、「俺は金持ちに成りたい」と思っている人であっても、実際にはそうでない人は大勢いる。しかし、こんなことは当たり前の話であり、むしろ、こんな屁理屈を言うこと自体が「言葉遊び」の範疇から脱していないのである。

 「金持ちを否定する人は金持ちにはなれない」というのも「貧しさを否定する人は貧しくはならない」というのも、そこには、始めに思いありきの「行動」というものが必要であることは言うまでもない。

 例えば、東大に合格したいと思っているだけで東大に合格できるような人は(余程の天才は別として)いない。始めに《東大に合格したい》という思いがあって、実際に猛勉強するという行動を伴わない限り、東大に合格するようなことはまず有り得ない。
 無論、行動したからといって必ずその思いが実現するわけではないが、何事もまず目標というものを思い描き、行動しない限り、目標が達成する可能性は無いということである。

 貧しさを否定している人が、いつまでも勉強も仕事もせずにいられるだろうか? 貧しさを否定して前向きに努力している人が、いつまでも貧乏な状態であることが有り得るだろうか?(注意:ここで言う「貧乏」とは、必ずしもお金の有無を意味しない)

 それと、「別に金持ちには成りたくない」という意見もあった。こういった意見も「金持ち」という言葉に少し囚われ過ぎているのではないかと思う。先にも述べた通り、「金持ち」という言葉は、話題性のために敢えて使用しただけで、この言葉は「成功者」でも「幸せな人」でも同じである。「金持ちには成りたくない」と言う人がいたとしても、「幸せな人には成りたくない」と言う人はいないだろう。

 「お金が有ることは幸せとイコールではない」と言うのもその通りで、私は金持ちに成ることだけが幸福なことだとは一言も言って(書いて)いない。「金持ち」という言葉(または概念)はあくまでも現実的な喩えであり、その言葉の中には、「お金」だけでなく「成功」「発展」「幸せ」「富み」、そういった良い意味で使用される言葉の全てが含まれる。

 なぜか日本では(まともな「お金」の教育が行われていないせいか)「金持ち」という言葉が大いに誤解されている。「金持ち」=「金の亡者」というようなイメージが独り歩きしているように感じる。

 本当の意味での「金持ち」というのは、お金に囚われている人のことを言うのではなく、「心の富んだ者」のことを言う。いくら大金を持っていたとしても、お金は有限な物であり、使用すればいずれは無くなってしまう。仮にそういったスッカラカンの状態に陥ったとしても困らない人のことを本当の「金持ち」と言うのではないかと思う。それはどんな経済状態に置かれても、富を生み出すことができる人のことであり、現在ただいま、大金を持っている人のことではない。そういった人はただの「小金持ち(成金)」であり、「富んだ人(リッチ)」とは似て非なる存在だと言える。

 「お金」というものは数ある富の内の1つでしかなく、その1つの富のみに執着している人間のことを「金の亡者」と呼び、お金のみに執着の無い人間のことを「金持ち」と呼ぶのである。
 
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「金持ちを否定する人は金持ちにはなれない」は本当か?

2012012101 「金持ちを否定する人は金持ちにはなれない

 たまに、成功法則的な本や心理学的な本を読んでみると、上記のような言葉を見かけることがある。こんな言葉を聞くと、鼻で笑って一笑に付す人もいるのではないかと思うが、今回はこの言葉の意味を少し考察してみたいと思う。

 「金持ちにはなれない」などという挑発的な言葉を聞くと、条件反射的に「そんな馬鹿なことがあるか!」と否定する人が大勢いると思われるので、ここでは論理はそのままにして言葉だけを少し変えてみたいと思う。

 「犯罪者を否定する人は犯罪者にはなれない

 これなら、納得する人が大部分だろうと思う。この「犯罪者」という言葉を「殺人者」や「泥棒」「詐欺師」という言葉に置き換えても同様である。精神論的にストレートに述べると拒絶する人であっても、少し具体性を持たせて述べれば、その言葉の持つ意味を冷静に分析することができるようになる。

 ここで言えることは次のことである。

 「人間は普段から憎しみを抱いている対象には成り得ない

 常日頃から犯罪者を憎んでいるような人が意識的に犯罪を犯すなどということは、余程のことがない限り有り得ない。
 この理屈が理解できれば、難解な潜在意識論を述べるまでもなく、「金持ちを否定する人は金持ちにはなれない」という言葉には一理あることが解る。

 昔、『人間は自分が考えているような人間になる!!』という本を読んだことがあるが、この言葉を裏返すと、「人間は自分が考えていない人間にはならない」となり、もう少し掘り下げて言うと、「人間は自分が拒絶している人間には絶対にならない」ということになる。
 もし、この言葉が本当であれば、「金持ちを拒絶している人間は金持ちにはならない」ということになる。なぜなら、その人は、自分が金持ちになるということ自体も自ら否定してしまっていることになるからだ。

 本心ではお金が欲しいのに、「お金は嫌いだ」
 本心では家が欲しいのに、「家は嫌いだ」
 本心では車が欲しいのに、「車は嫌いだ」

 普段からこういった本音とは裏腹な台詞を吐いている人は、皮肉なことに本心とは裏腹にその言葉が実現してしまうような人生を歩むことになる場合がある。

 少し誤解される方がいるかもしれないので補足しておくと、“金持ち”ではなく、“金持ちの言動”などを否定する行為はまた別である。“金持ちの行為”を否定することと、“金持ちという概念”自体を否定することは全く違う。

 例えば、ある金持ちが悪質な脱税行為を行ったとかいうなら、その罪を否定するのは当然のことであるし一向に構わない。“金持ち”ではなく“罪”を否定する行為であるなら、何の問題もない。ただ、その罪を断罪する行為の裏に“嫉妬”という感情が入り込むと、また話は逆転してしまう場合がある。

 例えば、あるIT企業経営者が粉飾決算を行ったということで、その罪の真偽を確かめようともせずに、嫉妬の感情を出発点として(罪を憎んでいる振りをしながら)批判するという行為は「金持ちを否定する」ことになってしまうということである。

 日本には「罪を憎んで人を憎まず」という諺があるが、「罪を考えずに金持ちを憎む」ではいけないのである。
 数年前に実際にこの例と同じ事件が起こったが、当時、そういった人が大勢現れたことは記憶に新しい。そのせいもあって現在の日本経済は“貧乏”になってしまった。

 「金持ちを否定する人は金持ちにはなれない」という法則を理解している人であれば、感情的に金持ち(という概念)を否定するような愚かな行為(=心の貧しい行為)はしないと思う。

 マーガレット・サッチャーの「お金持ちを貧乏にしても、貧乏な人はお金持ちになりません。」という言葉と「金持ちを否定する人は金持ちにはなれない」という言葉はどこか似ている。この2つの言葉の根底にあるものが、人間の「嫉妬」という感情であることが理解できれば、日本経済の発展を阻害しているものが何であるかがよく解るかもしれない。
 
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