「貧しさを否定する人は貧しくはならない」は真実か?
前回の記事は、ブログのカテゴリーに新たに「心理学」という項目を設けて成功法則的な話を(初めて)書いてみた。話題性を考慮して、「金持ち」という言葉を敢えて使用してみると、案の定と言うべきか、危惧した通りと言うべきか、いくつかの反論を頂いた。しかし、どちらかというと理解を示してくれる人の方が多かったようなので少し安心もした。
中にはコメントだけでは言い足りないのか、ブログ記事を書いて反論を述べておられる人も何人かおられたようなので、今回は少しでも誤解を解いてもらうために補足的な記事を書かせてもらおうと思う。
前回は、「金持ちを否定する人は金持ちにはなれない」と書いた。では逆に、「貧乏人を否定する人は貧乏人にはなれない」というのは成り立つのか? おそらく、こういった反論や疑問を持たれた人が一番多かったのではないかと思う。(以下、「貧乏人」という言葉は「貧しさ」という言葉に変えさせてもらおうと思う。)
「貧しさを否定する人は貧しくはならない」
一見、このロジックは成り立たないように見える。ゆえに、「金持ちを否定する人は金持ちにはなれない」などというのはデタラメ(詭弁・言葉遊び)だというわけだが、果たして本当にそうだろうか?
確かに普段から「俺は貧乏が嫌いだ」と思っているような人は大勢いる。「そんな人に貧しい人はいないのか?」と問われれば、答えは「否」であり、実際に貧しい人は大勢いる。あるいは、「俺は金持ちに成りたい」と思っている人であっても、実際にはそうでない人は大勢いる。しかし、こんなことは当たり前の話であり、むしろ、こんな屁理屈を言うこと自体が「言葉遊び」の範疇から脱していないのである。
「金持ちを否定する人は金持ちにはなれない」というのも「貧しさを否定する人は貧しくはならない」というのも、そこには、始めに思いありきの「行動」というものが必要であることは言うまでもない。
例えば、東大に合格したいと思っているだけで東大に合格できるような人は(余程の天才は別として)いない。始めに《東大に合格したい》という思いがあって、実際に猛勉強するという行動を伴わない限り、東大に合格するようなことはまず有り得ない。
無論、行動したからといって必ずその思いが実現するわけではないが、何事もまず目標というものを思い描き、行動しない限り、目標が達成する可能性は無いということである。
貧しさを否定している人が、いつまでも勉強も仕事もせずにいられるだろうか? 貧しさを否定して前向きに努力している人が、いつまでも貧乏な状態であることが有り得るだろうか?(注意:ここで言う「貧乏」とは、必ずしもお金の有無を意味しない)
それと、「別に金持ちには成りたくない」という意見もあった。こういった意見も「金持ち」という言葉に少し囚われ過ぎているのではないかと思う。先にも述べた通り、「金持ち」という言葉は、話題性のために敢えて使用しただけで、この言葉は「成功者」でも「幸せな人」でも同じである。「金持ちには成りたくない」と言う人がいたとしても、「幸せな人には成りたくない」と言う人はいないだろう。
「お金が有ることは幸せとイコールではない」と言うのもその通りで、私は金持ちに成ることだけが幸福なことだとは一言も言って(書いて)いない。「金持ち」という言葉(または概念)はあくまでも現実的な喩えであり、その言葉の中には、「お金」だけでなく「成功」「発展」「幸せ」「富み」、そういった良い意味で使用される言葉の全てが含まれる。
なぜか日本では(まともな「お金」の教育が行われていないせいか)「金持ち」という言葉が大いに誤解されている。「金持ち」=「金の亡者」というようなイメージが独り歩きしているように感じる。
本当の意味での「金持ち」というのは、お金に囚われている人のことを言うのではなく、「心の富んだ者」のことを言う。いくら大金を持っていたとしても、お金は有限な物であり、使用すればいずれは無くなってしまう。仮にそういったスッカラカンの状態に陥ったとしても困らない人のことを本当の「金持ち」と言うのではないかと思う。それはどんな経済状態に置かれても、富を生み出すことができる人のことであり、現在ただいま、大金を持っている人のことではない。そういった人はただの「小金持ち(成金)」であり、「富んだ人(リッチ)」とは似て非なる存在だと言える。
「お金」というものは数ある富の内の1つでしかなく、その1つの富のみに執着している人間のことを「金の亡者」と呼び、お金のみに執着の無い人間のことを「金持ち」と呼ぶのである。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント