日記・コラム・つぶやき

「タクシー料金改定」で考える「ブックオフの価格改定」

■タクシー初乗り運賃410円の是非

 東京都心部で実施されたタクシー初乗り運賃410円の導入で、タクシー利用者数が増加したことが判明した。今のところ、賛否意見が定まらず二転三転しているものの、最終的には良い結果を生むことになりそうだ。

 実際のところ、初乗り730円というのは少し料金が高過ぎるわけで、「ちょい乗り」するには敷居が高い。730円も支払うなら「歩いて行こうか」という心理が働くことは否定できない。2km以内は全て一律料金(730円)というのも問題で、1kmや500mしか乗らない人にとっては、「歩いて行こうか」ということになってしまう。

 初乗り運賃410円にすれば、利用者数が増えることはテストするまでもないことで、問題となるのは、トータルの売上が上がるかどうかだ。410円にすることによって失われる利益分を集客数によって補えるかどうかが最大の問題点なわけだが、これもおそらく問題ないだろうと思われる。

 以前、「ワンコインタクシー」というものが問題になったことがあった。今回の初乗り410円は「ワンコインタクシー」よりも安価なわけだが、値下げしてマイナスになった利益分を補う手段が講じられている。それは、言うまでもなく、中・長距離利用客の料金が上がることだが、この中・長距離利用客が減少するかどうか、成否の鍵はここにある。

 短距離(2km以内)の利用者は100%増える。これは間違いない。では、料金が値上げされる2km以上の利用者はどうなるか? おそらく、それほど減少しないのではないかと思われる。

 私も飲会がある時などは最寄りの駅から自宅までタクシーを利用している。駅からかなり離れているので、歩いて帰るわけにはいかないという理由もあるのだが、少し値上がりしても利用しないというわけにはいかない。
 短距離の場合は、タクシーを利用するか利用しないかという選択ができるが、長距離の場合は、タクシー以外に選択する手段がない場合が多いと思われるので、それほど減少しないだろう。実に単純な理由だが、案外、そんなものだろうと思う。

■ブックオフ古本価格改定の是非

 さて、前置きはこの辺にして本題に入ろう。タクシー料金の改定ではなく、ブックオフの価格改定に話を移そう。

 私も一応、個人投資家なので、バフェット氏に習って自分自身がよく利用する企業の株主になっている。ブックオフもよく利用するショップなので、応援の意味も込めて株主になっている。1株主として、複数の店舗の様子を覗きに行くこともある(もちろん買い物もする)のだが、どうもここ数年は古本の値上げが著しい感じがする。

 昔は市販価格の半額だったものが、最近では定価の2割引程度になっている場合が多い。店舗によって多少の価格差があるものの、値上げしていることは一目瞭然となっている。
 私の場合、新刊はリアル書店で購入するので、ブックオフに出たばかりの新刊等が置いていなくても特に問題はないのだが、消費者心理というものを考えると、これはどうなのか?と思うことがある。

 以前は100円で販売されていた古本が200円に値上がりしていることも多く見かける。
 100円の古本を200円に値上げしても「買わない」という人はそれほどいないと思われるが、半額だった古本が3割も値上げになった場合は「買わない」という人が結構いると思われる。
 アマゾンで古本を購入する場合、送料250円が一律にかかるので、たとえ価格が1円の商品だったとしても、ブックオフで200円で買う方が安い。だから、200円で販売することは(株主として)賛成だ。(消費者は反対かもしれないが)

 しかし、半額だった商品を2割引きまで値上げすると、今度は、「新刊を買った方がいい」と思う人が増えることになる。ブックオフの大株主には出版関連企業が多いので、それが目的なのかもしれないが、古本の販売業としては、少し矛盾を感じてしまう。

 多くの消費者は、「ブックオフで買うなら新刊を買った方がいい」と思っても、「アマゾンで買うなら新刊を買った方がいい」とは思わない。この矛盾をクリアしない限り、問題は解決されない。
 タクシー料金と同様、古本料金の改定も、成否の鍵を握っているのは消費者心理だと思われるので、消費者心理に則した改善を期待したい。

【関連記事】アマゾン1円販売モデルの行方

【追記】2017.2.13
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>ブックオフは、家電からスマフォ、レコード、古着まで、なんでも扱う他品種へと拡大して乗り切ろうとしてますけど、成果はそれほどあがってません。
この状況では、主力の『古本』で利益をあげて穴を埋めるしかなく、値上げもやむなしでしょう。

 『古本』の販売が主力であるからこそ“消費者心理”を考慮した方が良いということであって、むやみに値上げすれば、返って売上が落ちる場合もあります。利益を求めて価格を上げれば、更に利益が逃げる。言わば、デフレスパイラルの逆現象です。

>ブックオフの買取価格が低すぎるという悪評で、売れ線の本をブックオフは確保できなくなっており、ある程度仕入れの供給を維持するためには、買取価格を上げねばならず、そのためには販売価格も上げざるを得ないのです。

 私自身、ブックオフに本を売ることもありますが、特に買取価格が上がっている様子はありませんが…。現場を見ずに憶測だけで批判するのは御遠慮願います。

>それならブックオフ側が自分たちでネットで売ったりした方が儲かるしその値段に店舗価格をあわせた方が合理的な気がする。

 ブックオフの筆頭株主はヤフーなので、もう随分前からブックオフはヤフオクでも古本を販売しています。

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ブログは本音メディアなのか?

■長いようで短かった10年

 当ブログを開始したのが2007年1月のことだったので、ブログを書き始めてから、早10年が経過したことになる。「短いようで長い」と「長いようで短い」という言葉のどちらかを選べと言われれば、後者になると思う。
 この年末年始に3本のブログ記事を書いたことで全記事数がちょうど500本になり、平均すると1年間で50本、1週間に1本のペースで書いてきたことになる。

 ブログを書いていて、この10年間で1番大きな出来事は、2011年にBLOGOS(当初はBLOGOS finance)に転載していただくようになったことだろうか。転載される少し前は私もBLOGOSの1読者だったので、BLOGOSに記載されている記事を目標に書いていた。
 ブログを書き始めた当初は、現在よりも文章が過激だったと思うが、BLOGOSに転載されるようになってからは、公的な意味も考えて、少し控え目になったことは確かだと思う。

 よくブログは「本音メディア」とも言われるが、実際のところ、完全な本音などはそうそう書けないと思う。「本音」と「建前」は読み手の解釈によっても左右されるので、どこまでが「本音」でどこまでが「建前」なのかという判断は難しいが、思っていることを包み隠さずストレートに言うことが「本音」あるいは「放言」「暴言」であるとするならば、私自身も完全な本音は書いていないと思う。やはり、どこかに遠慮というか、オブラートに包んだ書き方をしているとは思う。
 2ちゃんねる掲示板などには、どぎつい本音(?)が書かれていたりするが、ブログであんな書き方をすると炎上間違い無しだろうと思う。私自身は2ちゃんねる掲示板の雰囲気には馴染めないので、書き込みをしたことはない。

■ブログで完全な本音が書けない理由

 「本音」ということで言えば、皮肉なことに現状では、ブログよりも書籍の方が規制が緩いと言うか、ブログ媒体よりも本音が書かれていることが多いように感じることがある。リアルタイムで多くの人に言論チェックされるブログよりも、書籍の方が誰にも気付かれることなく本音が出回っている場合がある。現代では発禁を喰らう書籍は滅多に無いが、炎上するブログは後を絶たない。メディア側が規制していなくても、読み手が(自覚が有る無いに拘らず)検閲のような真似事をしているため、書き手(ブロガー)自身が自主規制を敷くことになる。それが良いことなのか悪いことなのか分からないが、ブログ記事はそれだけ人目に触れる機会が多いということなのだろう。

 書籍の場合は、内容全てを読んだ上で反論や批判が為されるが、ブログの場合、直ぐさま反論や批判ができるオンライン構造ということもあり、内容云々よりも、タイトルや1つの言葉だけで言葉狩りに遭遇するリスクが高くなる。私も少し経験があるが、ブログのタイトルだけで批判してくるような人もおられる。
 本を読む人の場合、長文を読むことに慣れた人が多いせいか、文章すべてに目を通してから判断が為されるが、普段から本を読まない人の場合、ブログに訪れたとしても、どこまで読んでくれるか分からない。ブログ閲覧者が1PVとしてカウントされることに違いはなくても、内容をどこまで読んでくれたのか、また理解してくれたのかが分からないので、予期せぬ事態に及んでしまうリスクがある。
 そんな構造的問題を抱えているので、ブログが完全な「本音メディア」というのは少々無理があると思うし、完全な「本音メディア」である必要もないのかもしれないと思う時がある。

■ブログのコメント欄について

 この負の構造を理解されてか、世間の多くのブロガーはコメント欄を閉じている。あるいは条件付きでコメント欄を開かれている。当ブログは今のところ、コメント欄をオープンにしているが、あまりにも建設的でないコメントばかりになるようなら、条件付きのコメント欄にするかもしれない。
 BLOGOSの方でもコメント欄を閉じられているブロガーが多くおられる。私はコメント欄を閉じる気は無いが、閉じられている人の気持ちも理解できなくはないので、悩ましい問題だと思う。紳士的(建設的)にコメントされている人には失礼な言い方になるのかもしれないが、誹謗中傷のようなコメントは想像している以上にストレスになるものなので、その辺のところは仕方がないと思う。

 5年程前は、BLOGOS会員だけでなく、非会員もコメントできるようになっていたと思うので、今よりも賑やかで様々な意見が読めて興味深かったが、ブロガーと閲覧者の間で見解の相違が生まれると余計な問題が起こり得るので、ある程度の責任が持てる会員のみのコメント欄になってしまったのではないかと思う。
 その判断は正しいとは思うものの、コメントはできなくてもいいから、記事をどう判断するかというフェイスマーク等は残してもよかったのではないかと思う。Twitterのコメントも読めなくなった現在、会員以外の人が評価する何かしらの目に見えるシステムが有った方が良いのではないかと思う。

 最近では、BLOGOS内の様々な記事を見ていても「支持する」数よりも、Facebookの「いいね!」の数の方が多いという場合が多い。個人的に思うのは「支持する」という言葉は、どこかブロガーを上位に置き過ぎているような感じがするので、返って押しづらくなっているのではないかと思う。そういう意味では「いいね!」なら、フレンドリーな感じがしてそれほど気を遣う必要もない。
 「支持する」ボタンは有るのに「支持しない」ボタンが無いのはおかしいというようなコメントを見たことがあるが、「支持しない」ボタンが無いのは悪用される場合があることを考えてのことだろうと思う。これも、先のフェイスマーク(笑顔や怒り顔など)なら、気兼ねなく押下することができるのではないかと思うのだが…。

 話が少し横道に逸れてしまったので、元に戻そう。

 私がブログ記事を書く時は、書くネタを決めるのみで、記事の内容も結論もほとんど考えないで書くことが多い。そういう人も多いと思うが、書いている(考えている)うちに内容や結論が浮かんでくる場合がほとんどなので、タイトルもキャプションも後付けになる。

 正直なところ、10年前にブログを書き始めた時は、せいぜい50本、多くても100本でも書ければよい方かなと思っていた。しかし、実際に書き始めてみると不思議なもので、時間とネタさえあればいくらでも書けるという感じに変化していった。今後は1000本を目標に書いていきたいと思う。

 ブログを書くという行為も「案ずるより産むが易し」なので、能力や技術云々よりもまず「書こう」と思うことがスタートになる。ブログを書くか書かないかを迷っている人がいるなら、ケセラセラの精神で迷わず書き始めてほしいと思う。

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ドラマ『沈まぬ太陽』を観て。

■ホリエモンが涙した謎が解けた

 WOWOW開局25周年記念作品として製作されたドラマ『沈まぬ太陽』全20話を観てみた。
 『沈まぬ太陽』と言えば、故山崎豊子氏の「最高傑作」との呼び声も高い小説だが、何年か前にホリエモンが獄中で読んで涙した小説としても話題になった作品だ。私はこれまで小説も未読で、渡辺 謙が主演した映画の方も観ていなかったので、なぜ、ホリエモンが涙したのか謎だったのだが、本作を観て、ああなるほどな…と納得した。

 おそらく、堀江氏は、信念を貫くことで島流しの如く海外の僻地をたらい回しにされる主人公の不器用な生き方に、自らの姿をオーバーラップしたのだろうと思う。信念を貫いたことで執行猶予を蹴り、刑務所に収監されることになったホリエモンの姿は、本ドラマの主人公、恩地 元と確かにダブって見えた。間違っていたら申し訳ないが、多分そういうことなのだろうと思う。

■『沈まぬ太陽』に見る過労自殺問題の因子

 内容的には、日航機の墜落事故をモチーフに描かれたドラマなので、時代的にも昭和の空気が感じ取れる作品だった。“元アカ”の労働組合委員長が主人公という設定は、現代人の感覚からすると時代遅れな感じもするのだが、実直で正義感の強い主人公に感情移入することができたので、徐々に違和感は無くなり、面白く観ることができた。

 経営陣から危険分子として疎まれている主人公は「石の上にも3年」ならぬ「石の上にも10年」間、海外僻地への赴任辞令を何度も言い渡されるのだが、それでも辞めない。
 これも、現代人の感覚からすると、「普通、辞めるよね」とか「なぜ辞めないの?」と思ってしまうのだが、懲罰的な左遷人事に耐える主人公の姿は、どこか隷属的な感じがして妙な違和感を覚えた。
 昭和的価値観の為せる業なのか、大企業だから為せる業なのか、「辞令を断るとクビになる」という台詞が印象的だったが、本ドラマの主人公の場合、責任感と忍耐力のある硬派な人物なので、嫌でも辞めるわけにはいかないということになってしまう。
 少し毛色が違うとはいえ、責任感が有り過ぎるために過労死や過労自殺に至るビジネスマンは案外多いのかもしれない。現代の日本社会にも残存している過労自殺問題を考える意味でも参考になるドラマだった。

■小説の映像化における理想と現実

 WOWOWのオリジナルドラマは、通常5〜6話のものが多く、1冊の小説のテレビドラマ化に4〜5時間程度を費やしている。小説の分量に応じて臨機応変にじっくり製作できるため、小説の内容を端折らずに忠実に描くことができる。このメリットは実に大きい。小説を実写化した映画は、内容を端折り過ぎて、原作のイメージを損ないブーイングが出ることが多々あるが、これは物理的に仕方のないことなのだろうと思う。1冊の小説を120分(〜150分)程度の映画に収めるのは土台無理がある。渡辺 謙版の『沈まぬ太陽』は200分もある長編映画だが、それでもかなり端折られているらしい。映画版の『沈まぬ太陽』では前編のアフリカ篇があまり描かれていないらしいが、「沈まぬ太陽」という言葉の意味を実感するには、アフリカ篇を詳細に描かない限り、難しいのではないかと思う。

 長編小説の映画化(最近の例で言えば『64-ロクヨン』)となると、前編・後編に分かれたりするが、本作『沈まぬ太陽』のような3篇もある長編小説を映画化するにはハリウッドのヤングアダルト小説の映画化のように前編・中編・後編に分ける位が理想なのだろうと思う。
 しかし、SFアクション映画でもない限り、流石にそれは難しい。映画料金を考えても、2本立て、3本立てとなると、値が嵩むので観客動員数も伸びなくなる可能性がある。映画3本で鑑賞料5000円以上もかかるとなると、観る気を失くしてしまう人も出てくる。映画というのは、投資ビジネスでもあるので、そこまでのリスクを冒して投資資金が回収できなければ映画化する意味が無くなってしまう。

 今後、小説の映像化の主流は、映画ではなくテレビドラマに移っていくのではないかと思う。映画には映画の良さがあるとはいえ、物理(時間)的な制約が有るため、小説の微妙なニュアンスを伝えきれず内容自体も中途半端に成りがちだ。

 しかし、本作のような骨太なドラマは、民放のドラマ枠ではスポンサーの目を気にして製作できないだろうし、放送もできない。WOWOWのようなスポンサーに依存しない民間企業であればこそ製作できるドラマだと言える。
 昨年話題になった民放の『下町ロケット』も元々はWOWOWで製作されたドラマだし、他にも見応えのあるドラマが多くある。

 個人的に観たオススメドラマを新しい順に書いておくと、

 『誤断』(主演:玉山鉄二)
 『テミスの求刑』(主演:仲 里依紗)
 『天使のナイフ』(主演:小出恵介)
 『株価暴落』(主演:織田裕二)
 『マグマ』(主演:尾野真千子)
 『空飛ぶタイヤ』(主演:仲村トオル)
 『パンドラ』(主演:三上博史)

 最後に話を『沈まぬ太陽』に戻そう。本ドラマはWOWOWドラマの集大成的なドラマであり、WOWOWオールスターキャストとも言える豪華なドラマに仕上がっている。民放では観れない骨太で重厚な社会派ドラマであることはもとより、勇ましく荘厳なメインテーマ曲が実に素晴らしい。
 この年末年始に多くの人に観ていただきたいと思う。

 − 沈まぬ太陽 MAIN TITLEを聴きながら −

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映画『あまくない砂糖の話』を観て。

■スプーン40杯分の砂糖が人間に与える影響

 自身が糖質制限実践者でもあるオーストラリアの俳優デイモン・ガモーが監督・主演したドキュメンタリー映画『あまくない砂糖の話』を観てみた。昔、話題になったドキュメンタリー映画『スーパーサイズ・ミー』を彷彿とさせる映画だが、オーストラリア出身のメジャー俳優なども起用しており、なかなか面白い映画だった。

 普段、全くと言ってよいほど糖分を摂取していないガモー監督が毎日スプーン40杯分の砂糖を60日間摂取するとどうなるか?という興味深い実験を追ったドキュメンタリーになっている。

 私も(超ゆるめの)糖質制限実践者なので言えることだが、1度、糖質制限を経験した人が、糖分摂取過剰な生活に戻るというのは、かなり勇気のいることだと思う。ある意味、糖質制限を始めるよりも勇気のいることだと思われるが、自身の身体を実験台にして真実を追求する姿勢には好感が持てる。

 内容的には、糖質制限の知識がある人であれば、ほぼ既知の事実しか描かれていないのだが、それでも実際にこのような実験を映像化するという試みは新鮮であり、多くの人々の蒙を啓くという意味では、意義のある映画だと思う。
 字幕では「腎臓」となっているのに吹替では「肝臓」と言っているような箇所も見受けられたが、そこは御愛嬌と言ったところだろうか。

 スプーン40杯分の砂糖というのは、普通に食生活している現代人の一般的なレベルでもあるので、特に過剰に糖分を摂取しているわけでもないのだが、それでもそのような食生活を続けると身体に大きな変化が生じる。具体的に言えば、内臓脂肪が増えて、中性脂肪値が上昇し、脂肪肝になる。この辺は、私も体験済みなので否定のしようがない。

 良いか悪いはともかくとして、最近では寿司屋でも、にぎり寿司の「シャリ(米)の量を減らしてほしい」というような注文も多いらしく、数年前までは、それほど知られていなかった糖質制限食も、現在では多くの人々に認知され、既に市民権を得ている。現在では、糖質制限を行うことの是非(which)よりも、どこまでの糖質制限を行うことがベターで安全(how)なのか?という次世代の議論に移りつつある。

■知的好奇心が旺盛な人ほど健康にも敏感
 
 世間を観察していると、知的好奇心が旺盛な人ほど、健康にも敏感な人が多いように思える。
 一例を挙げると、著名人の成毛 眞氏も『このムダな努力をやめなさい』という本の中で糖質制限を行った成功談を書かれている。

 ネット社会では、多くの情報が無料で氾濫している。その情報の中には、真の情報もあれば、偽の情報もあり、まさに玉石混淆な百花繚乱状態だが、そこで最も重要なことは、入手する情報の質や量ではなく、情報を精査する能力だと思う。情報の質は、そもそも判断する能力がなければ高いか低いか分からないし、知り得た情報の量が多いからといって、それが正しい情報とは限らない。何万巻の書物を読んだ人であったとしても、その人物が正しい判断ができるかどうかは分からないし、正しい情報を得ているとも限らない。

 正しい情報を嗅ぎ分ける能力と、間違った情報に惑わされない判断力こそが重要だと思う。その能力の如何によっては、寿命を延ばすことも、寿命を縮めることも有り得る。自らの情報識別能力が健康を左右する。そんな社会の中に我々現代人は生きているが、多くの賢い人は、お節介にも、何が正しくて何が間違っているのかを語ろうとはしない。リスクを冒してまで、お節介を焼いても、何の得にもならないと思っている人は、黙って正しいと思うことを実践している。なぜなら、結局、全ては自己責任だと認識しているから。
 
 そういう意味で言うなら、この映画の監督はお節介にも、「これが正しい情報ですよ!」と語っている。そこにはもちろん、映画作りという意味でのコマーシャル活動も含まれているが、この映画で伝えているメッセージが本物であるのか、偽物であるのかを判断するのは、あくまでも、あなた自身だ。あなたが、知的好奇心旺盛(健康に敏感)な人であれば、観ることをオススメしたい。

【追記】2016.10.19
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>そもそも、砂糖をそのまま食べるのと炭水化物として食べるのとでは吸収の速度も違うし、こんな雑な『実験』で「糖質制限は正しいンダー」とか言われてもねぇ。

 誤解する人がいるといけないのでお断りしておきますが、本映画の実験は、砂糖をそのまま食べる実験ではなくて、加工食品(炭水化物)を食べる実験です。

>燃費の悪い脳のエネルギー源は糖しかないのにバカじゃね?
結局その必要な糖を、脂肪分解したりタンパク質(まず筋肉)を分解して作ってるんだから効率が悪い事この上ない。

 あなたが、糖新生によるケトン体のことを書かれているのだとすれば、「エネルギー源は糖しかない」というのは矛盾して聞こえます。本記事で話していることは、効率が悪い云々の話ではなくて、許容量を超えた糖分の接種は身体に悪いというだけの話です。

>極端な例を一般化するのは可怪しい。
多くの食物が、量によって栄養にも薬にも毒にもなる。それぞれの体調や作業量に応じてバランスよく適度に食べるのが良いんだよ。糖質制限も過剰摂取もどっちもどっち。

 糖質制限というのは「糖質0」のことではありません。少しだけ糖分摂取を減らすだけでも立派な「糖質制限」です。
 「バランスよく適度に食べるのが良い」とのことですが、その通り、現代人は糖質過多に偏り過ぎているのでバランスが悪いと言っているのです。場合によってはスプーン100杯分以上の砂糖を毎日接種している人は大勢いると思われますが、常識的にも科学的にも、そんな偏った食事がバランスの良い食事であるはずがありません。

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「iPhone」という名の禁断の果実

2016031801■iPhoneは高額なのか?

 「モノが売れなくなった」と言われて久しい。昔(高度経済成長時代)と違って現代は「買うモノが無いからお金が動かない」ともよく言われる。家は買えない、車は乗らない、家電は全て揃い、パソコンは使わなくなり、本は図書館、マンガはレンタル、買うモノと言えばスマホしか思い付かないという人も案外多いのかもしれない。

 そんなモノが売れない時代にあって、バカ売れしているのがアップルのiPhoneだが、随分前から、次のような意見をよく耳にする。

 「デフレでモノが売れないと言っても、iPhoneは高額でも売れている。モノが売れないのは、買いたいと思う商品が作れないからだ。

 要約するに、「消費者の需要が満たせていないから、モノが売れないのだ。」ということなのだろうけれど、iPhoneに限って言うなら、これは少し違うのではないかと思う。

 まず、iPhoneは高額か?というと、高額とは思えない。「1台10万円」と聞けばイメージ的には“高い”となるのかもしれないが、費用対効果を考えると10万円でも破格値だと思う。これはiPhoneだけに限った話ではなく、iPhone以下の価格で販売されているスマホも同様で、利用する用途を考えれば(スマホにできることを数え挙げれば)、数万円という価格は激安だと思える。
 スマホがパソコンの代用品として利用できることは言うまでもないことだが、その他にも10点ぐらいの用途なら簡単に列挙できる。

 1、電話
 2、カメラ
 3、音楽プレーヤー
 4、ゲーム機
 5、電子手帳(スケジュール帳)
 6、カーナビ
 7、電子辞書
 8、時計(目覚まし時計)
 9、サウンドレコーダー
 10、電子ブック

■iPhoneはなぜ売れるのか?

 単純に、上記の10点だけでも一昔前であれば、全て揃えるとなると、数十万円になる。
 20年前ならインターネットもろくにできないようなパソコンでも30万円は当たり前だったことを考えると、高性能なマルチネットパソコンであるスマホが10万円以下で買えるのは、当時を知る人間なら、誰もが安いと思うだろう。

 「iPhoneは高額でも売れる」と言っても、数十万円なら売れるだろうか?

 「あなたはiPhoneが50万円なら買いますか?

 ほとんどの人が返答に窮するのではないかと思う。

 20年前の価値認識なら50万円でも売れるかもしれないが、デフレが定着した現代の価値認識では、あまり売れそうにない。昔のMacintoshはベラボウに高額な舶来マシンだったが、一部のマニアには売れた。同じように、iPhoneが50万円ではほとんどの人は見向きもしなくなり、一部のマニアにしか売れなくなるだろう。

 では、iPhoneが10万円なら、なぜ飛ぶように売れるのか? それは単純に、費用対効果が抜群に良いからだろう。
 つまり、iPhoneは「値段が高くても売れる」のではなく「価値が高いから売れる」のであり、換言するなら「安いから売れている」のである。

 どんな商品であれ、消費者の需要さえ満たせば必ず売れるというわけではなく、需要以前に費用対価値を満たせなければ売れるとは限らない。iPhoneもその他多くの商品と同様、価格以上の価値を満たせなければ売れないという意味では同じであり、決して例外的な商品ではない。1つのアイテムに詰め込めるだけの価値を詰め込み、本来の価値以下の安価な価格で提供している商品だと考えれば、まさにデフレアイテムの象徴だとも言える。

■アップルのロゴマークが意味する未来

 ちなみに私もiPhoneを使用している1ユーザーだが、このiPhoneという端末は、良い意味でも悪い意味でも、スティーブ・ジョブズ氏がこの世に残した置き土産的な存在となってしまった感じがする。この1台の端末を手に入れれば、今まで需要のあった、あらゆるアイテムが必要無くなり、ますますモノが売れなくなった。
 そういう意味では、まさしくアップルの名に相応しい「禁断の果実」だったと言えなくもない。

 アップルの社名の由来は、スティーブ・ジョブズ氏の伝記に書かれてあるそうだが、未だ真相は謎のままとも言われている。

 アップルの元々のロゴマークはニュートンのリンゴだったそうだが、意味深な齧(かじ)ったリンゴマークに変更されてからは、ロゴの由来にまつわる様々な仮説(珍説)が登場してきた。
 その中でも面白いのが、「禁断の果実(林檎)」説であり、現代の情報化社会を風刺する意味では、あながち外れてもいないかなと思えるようになってきた。

 街中で多くの道行く人々がその手に、齧(かじ)られたリンゴマークの付いたiPhoneを持っている姿を眺めていると、まるで、エデンの園にあったとされる知恵の樹からもぎ取られた「禁断の果実」を手にしている人々の姿がオーバーラップするかのようだ。
 現代人は、「iPhone(スマホ)」という名の禁断の果実に手を出してしまったことで知恵を得たが、その知恵を得たせいで、モノが売れない時代に更に拍車がかかるという予期せぬ事態を招いてしまった。

 アップルのロゴマークには、そんな予言的な意味が込められていたと考えられる時代に、ようやく我々は追い付いたのかもしれない。Apple創業時(40年程前)にスティーブ・ジョブズが描いていた未来とは、「禁断の果実」を手にした未来人(我々)の姿だったのかもしれない。
【無論、これも仮説(珍説)です。】

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年賀ハガキの販売枚数を増加させる簡単な方法

■「年賀状の宝くじ化」という逆転の発想

 多忙な師走になり、今年も年賀状を書く時期を迎えた。年賀状を書く(出す)人が年々減少傾向にあることは言わずと知れたことだが、来年(2016年)用の年賀ハガキの発行枚数は約30億枚だったそうで、前年比で6%もダウンしたらしい。日本郵便は国民の「年賀状離れ」に待ったをかけるべく、人気アイドルグループの嵐をCMに起用し「年賀状ください」と訴えかけていたが、果たしてどれだけの効果があったのだろうか?
 2014年度からは年賀ハガキの賞品として初の「現金(1万円)」が加えられたが、あまり効果がなかったのか、2016年度は賞金額が10倍の10万円に引き上げられた。(無論、当選確率は10分の1になった)
 その効果のほどもあまり芳しくなかったようだが、正直なところ「インパクトが弱過ぎるのではないか」と思う。10万円程度で人心を動かそうとすることに無理があるとも言える。

 年賀ハガキの販売数が伸びないせいか、郵便局員には年賀状の販売ノルマというものがあることはよく知られており、自費で購入する「自爆営業」というものも社会問題化している。
 善いか悪いかはともかくとして、20年ほど前から流行りだした電子メールのおかげで、手紙を書くという文化が衰退してしまい、加えてデフレ社会におけるコスト削減意識が定着してしまったためか、年賀状そのものを無駄遣いと捉える向きもある。

 悲観的に考えれば、年賀状文化の先行きには暗雲が棚引いているかに見えるが、実はこの年賀状文化を再び、発展・隆盛させる簡単な方法がある。その方策を講じれば、間違いなく年賀状の販売枚数は増加する。その方策とは何かというと「年賀状の宝くじ化」である。

 「えっ? 年賀状って、もともとお年玉くじが付いているのではないの?」と思った人がいるかもしれない。しかし、ここで述べているのは、そんなスケールの小さな話ではない。「年賀状にお年玉を付ける」という発想ではなく、「宝くじに年賀状を付ける」という逆転の発想、それが「年賀状の宝くじ化」である。

■「年賀状の宝くじ化」を邪魔するものはない

 現在の年賀ハガキを1枚10円値上げして、その値上げした分を宝くじ化(ギャンブル化)すればいい。今年で30億枚売れたということは、1枚10円の値上げで300億円調達できるわけだから、そのお金を全て宝くじの賞金とすればいい。1億円300本でもいいし、1000万円3000本でもいいと思う。
 無論、一般の宝くじのようなテラ銭は抜きで実施することが望ましい。偽装防止処理で少し予算が必要かもしれないが、その分は販売数増加で儲けたお金を充当すればいいと思う。年賀ハガキ発行枚数は30億枚から50億枚以上に激増するだろうから、テラ銭を取らなくても充分に利益は出ると思う。

 現在(2016年度)は年賀ハガキ100万枚に1枚の割合で10万円が当選することになっている。30億枚販売すれば(30億枚÷100万枚=)3000本の当選が出るということなので、(10万円×3000本=)計3億円分が賞金金額になっていることになる。
 この計算で考えれば、現在は年賀ハガキ1枚当たり10銭しかギャンブル化されていないことになる。これを1枚当たり100倍の10円に増やせばいい。1枚10円分のコストは消費者が支払ってくれるので、何の問題もない。

 「10円も値上げすれば逆に売れなくなるのでは?」と思った人がいるかもしれないが、その心配はない。年賀ハガキを買わなくなる人よりも買う人の方が増えるはずなので、ノープロブレムだ。日本は、1枚300円もする紙切れ(宝くじ)にホイホイお金を出す人が大勢いる国なので、ハガキとして使用できる価値ある年賀ハガキに60円程度支払うことを厭う理由はない。300円で5枚も買える宝くじを「高い」と感じるギャンブラーはほとんどいないはずだ。

 「年賀状文化にギャンブル性を持ち込むとは何事か!」と憤る人もいるかもしれないが、そもそも年賀状は昔からギャンブル要素を抱えているものである。賞金10万円までならよくて、1000万円になればギャンブルだと言うのでは可笑しい。

 「年賀状を宝くじ化すれば、年末ドリームジャンボ宝くじが売れなくなるではないか!」という販売者側の意見もあるかもしれないが、年賀ハガキを10円値上げした程度で宝くじを買わなくなる人がいるとは思えないので、これも杞憂だろう。

■「年賀状の宝くじ化」で景気もよくなる

 年賀状を宝くじ化することにおけるメリットは計り知れない。少し列挙すると、

 1、余っても宝くじとしての価値は残るし、ハズレてもハガキとして利用できるので、損失感が少ない。

 「宝くじ」という価値を付加すれば、必要枚数キッチリでセコセコ買う必要がなくなるので販売数は更に伸びる。

 2、年賀状の返事が返ってくるようになる。

 毎年、年賀状を出しても返ってこない人がいるが、そういった人も年賀状を返すようになる。なぜなら、もらう物は「年賀状」ではなく「宝くじ」という認識になるので、ギブアンドテイク感が強くなるため。当選すれば1億円にもなる価値ある物をもらって、何も返さないというのは、さすがに気が引けるという人が出てくる。
 当選した人は、年賀状をもらった人に数%の報酬を返すというルールを(もちろん任意で)設けてもよいと思う。1億円当たった人は、100万円(1%)を相手にお返しするような決まり事が習慣化されれば、年賀状を出す(書く)人はもっと増える。

 3、郵便局員が自爆営業をせずとも、郵便局の前に行列ができる。

 自爆営業のストレスで病気になるような人がいなくなるのは良いことだ。

 4、関連会社(印刷会社や製紙会社 etc.)の景気も良くなり、雇用も増える。

 その他諸々、数え挙げればキリがない。

■「年賀状の宝くじ化」で億万長者が生まれる時代

 年賀状の文化が衰退し始めて早20年、多くの人はネット社会の前では、この衰退に歯止めをかけることはできないと思いがちだ。しかし、紙という媒体を変えることができなくても、制度を変えれば、まだまだ衰退せずに発展できる。年賀ハガキの賞金を大幅に上げて、人々の認識を「年賀ハガキ」から「宝くじハガキ」に上書きすることができれば、年賀状文化はこの先、人口が減っても数十年は安泰だろう。

 ネット社会で人々は、お金が有るにも拘らず、お金を使用しなくなった。無料で手に入るものまであるため、気が付かないうちに値段ばかりを気にするような守銭奴と化しているような人も大勢いる。そんな社会では、人々にお金を使わせることをまず考えなければいけない。そのためには、言葉は悪いかもしれないが、人間の欲望(この場合は金銭欲)を利用するのが1番てっとり早い。
 先にも述べた通り、そういった欲望を目の敵にして「けしからん」と言うような融通の利かない頭の固い人々が年賀状文化を破壊することになるのである。

 これまでは、株で億万長者になる人や、宝くじで億万長者になる人はいたが、これからは年賀状で億万長者になる人がいてもいい。年賀状で1億円当選して人生が変わる人がいてもいい。毎年、そういった幸せな人を数百人、数千人出していくことで、自然発生的にトリクルダウンが生じて景気も良くなっていく。

 日本郵便(日本郵政)も今年、上場企業となったわけだから、これまでのように地味な景品や賞金に囚われずに大々的に変革を行った方が良いのではないかと思う。来年は上場1周年記念として「年賀状の宝くじ化」を目指してもらいたい。
 来年の年賀状CMは「年賀状ください」ではなく「宝くじください」になることを願う。

【関連記事】『6億円宝くじ』にみる不可思議な現象

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続・図書館に新刊本を置くことの意味とは?

■本作りは「経済活動」であってボランティアではない

 前回の記事で、書評まじりに「図書館に新刊は置かない方がよい」ということを書いてみると、賛否両論があったとはいえ、否定派の方も結構見受けられたので、再度、この問題に触れておこうと思う。
 個人的には「図書館に新刊は置かない方がよい」というのは、ごく当たり前のことだと思われるので、「認められない」と言う人がいることの方が驚きだったが、なぜ、このような見解の相違が生まれるのかを考えてみたい。

 まず、以下のような意見があった。

>「貧乏人は新刊本を読んではいけないのか?

 その「貧乏人」という範疇に、一体どこからどこまでの人が入るのか定かではないが、「お金を支払って読む人」と「お金を支払わずに読む人」がいた場合、販売者サイドから見れば、どちらが有り難いお客だと言えるだろうか? 普通に考えれば、誰が考えてもきちんと対価を支払ってくれる「前者」の方だろう。
 「前者」が存在することによって販売者側は本を作るという仕事ができ、「前者」がいてこそ、「後者」の存在も許される。もし「後者」だけで「前者」がいなければ、作家は無報酬となり、ただのボランティアと化してしまうので、「後者」が新刊を読む機会は本当に失われてしまうかもしれない。

 本を発刊するためには、実に様々なコストがかかっている。作家だけでなく、出版会社の企画編集者、コピーライターやカメラマン、印刷会社のデザイナー、DTPオペレーター、印刷機の職人さん、製版会社や製本会社のオペレーターなど様々な業者が各工程を経て、1つの本が出来上がっている。
 その本を市場で販売することは、その他多くの商売と同様、かかったコスト以上の利潤を得るための経済活動であり投資活動でもあることを意味している。製作サイドがリスクを背負って、それぞれの業者がコストを支払い、利潤(給料)を得るために知恵を絞り、汗水たらし、時には涙や血も流し、1つの商品を作り出している。
 その本が市場に出回ったら、「すぐに無料で読みたい」、「対価など支払う必要がない」と言う人がいることに不自然さを感じることが、なぜ可笑しいことなのだろうか?

 そのこと(無料で新刊本を読むこと)に不自然さを感じないという人は、「本を作っている人間に給料など支払う必要はない、そういった連中はブラック企業で奴隷のように働けばいいのだ。」とでも言うのだろうか?

■図書館は「税金」で成り立っている

 また、BLOGOS内には、それぞれ次のような意見もあった。BLOGOSのコメント欄に直接書いてもいいのだが、全部の意見に対して書くわけにもいかないし、収拾がつかなくなると困るので、ブログ記事としてまとめて応えておこうと思う。

>「貧しい人が知識を得る権利を守る事は大切だ

 それはその通りかもしれないが、なぜそこまで新刊本に拘らなければいけないのかが解らない。図書館には新刊を除いても知識を得るに困らないだけの膨大な書物がある。一生かかっても読めないほどの知識の山が目の前に有るのに、出て間もない新刊に拘る必要がどこにあるのかが解らない。
 個人的には、自分の人生に良い影響を与えるような本というのは、新刊よりも評価の定まった古典の方が良いのではないかと思う。

>「ただで読める環境が子供には必要だ

 これも同じ。別に新刊本に拘る必要性が感じられない。百田氏も私も「図書館が必要ない」と言っているわけではなくて、単純に「図書館には新刊本を一定期間置かない方がよい」と言っているだけなので、勝手に拡大解釈されても困ってしまう。

>「図書館問題を論ずる時は「経済」ではなく「福祉・貧困」の視点で考えるべきだ

 先に述べた通り、日本では本作りというもの自体が経済活動となっているので、経済を抜きには語れないと思う。「福祉・貧困」問題として考えるのは「本を買うお金が本当に無い人」を対象とすべきであり、単に「本を買うのが勿体ない」というだけの人まで対象にする必要はないと思う。
「お金が無い」と「お金が勿体ない」は全く違う。

>「税金の話はお門違いだ

 その通り。私は「税金」のことを持ち出すお門違いな人がいることを事前に戒めるために税金の話を絡めた(皮肉った)だけで、「税金を支払っていない人は図書館を利用する権利が無い」などとは書いていない。
 問題は、利用者の方ではなくて、「税金」で成り立っている図書館が「税金」を納めている民間企業の経済活動を邪魔するのは可笑しいのではないか?ということ。

 本来、税収が増えれば、いくらでも図書館に並べられる本も増え、無料で読める本も増えるという好循環が生まれるが、税金を納めるはずの民間企業や民間人の経済活動を邪魔すれば税収が減少し、図書館も減少、図書館の本も減少という悪循環に陥ることになる。
 そういう本末転倒な事態に陥るのを避けるために、図書館に新刊本を置くのは控えた方がよいのでないか?ということ。(実際は、税収減でも図書館は増えているが)

■「無料図書館」という実現不可能なユートピア

 誰も彼もが本を無料で読める社会、それは確かに理想的な社会かもしれないが、そんな社会を構築するとなると、国は国民に対し、働かなくても(生産活動を行わなくても)生活資金が自動的に入ってくるというような制度を設けなければいけなくなる。そのような社会であるなら、誰も彼もが本を無料で読める社会の実現は可能かもしれないが、それはあくまでも理想論であり、この世では実現不可能な理想郷でしかない。

 「図書館に新刊を置かなければ日本文化の衰退をもたらす」と書かれている人もおられたが、その図書館に置く本そのものが無くなるという意味での文化の衰退も有り得る。
 「図書館に新刊を置けば日本文化の衰退をもたらす」 どちらも極論ではあるが、まだこちらの方が現実味があると思う。
 苦労して書いた本が全て無料で配布されるような社会であれば、作家に成ろうと思う人もいなくなるかもしれない。本を書く作家がいなければ本自体が無くなる。置く本が無ければ、図書館自体も衰退することになる。これこそが、本当の意味での日本文化の衰退であり、図書館に新刊本を置くことが意味するものである。

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図書館に新刊本を置くことの意味とは?

■図書館に新刊本を置くことで不利益を被る人々

 舌鋒鋭い論者として有名な百田尚樹氏の話題の新刊『大放言』を読んでみた。新書の帯に「炎上覚悟。」と謳うだけあって、言いたい放題の痛快な本だった。全て納得できたというわけではないものの、図書館についての考察は私が以前に書いた記事(→図書館は「フリービジネス」と成り得るか?)と同じようなことが書かれていた。

 百田氏いわく「図書館は無料の貸本業者と化している」「図書館には新刊本は置くな」ということだが、私もこれには同感だ。百田氏の場合、自身が物書きでもあるので本が売れなくなると困るという私情が入っていると誤解されがちだが、そういった疑念はお門違い(的外れ)であり、私情は一切関係が無いとお断りされている。

 では、物書きでもない(本を出してお金儲けはしていないという意味)1消費者の私がなぜ図書館に新刊を置くことに反対なのかというと、それが経済を衰退させる一因になっていると思われるからだ。百田氏もそのことには少し触れておられたが、どう考えてもこれは民業圧迫以外のなにものでもない。本作りに携わっている人々(作家、出版社、印刷会社、製本会社、書店)の仕事(と利益)を間接的に奪っていることに他ならず、経済の衰退にも一役買っているものと思われる。

 経済というものは生き物であり、ある一部の業界でボトルネックが生まれ、お金の巡りが悪くなると、その影響は全ての業種に波及していくことになる。人間の身体に喩えると、身体の一部、例えば右足の血管に血栓ができるだけで身体全体に支障をきたすことになるのと同じだ。
 つまり、「図書館に新刊本を置くことで不利益を被る人々」とは、「国民全員」を意味することになる。

■新刊本予約が数千人待ちという異常事態

 本書にも書かれていたが、人気の新刊本ともなると図書館での予約待ち人数が数千人にも登るらしい。新刊本の初版が3000部とか6000部と言われている時代にあって、それ以上の数の予約待ちが入る本が存在しているという事実、これが如何に異常な状況であるかを考える必要があると思う。
【関連記事】「本を読まなくなった」というけれど

 例えば、人気漫画コミック(例:ONE PIECE)が発売されて直ぐに図書館で無料で貸し出された場合を考えてみよう。あるいは、人気アーティスト(例:Mr.Children)の新譜CDが発売されて直ぐに図書館で無料で貸し出されていればどうなるか? 人気のハリウッド映画(例:ジュラシック・ワールド)がDVD発売と同時に図書館で無料で貸し出された場合は? etc.
 そう考えていくと、漫画家もアーティストも俳優も、そして彼らをプロデュースしている関係者全てが割りを食う…と言うより、仕事が成り立たなくなる可能性すらある。
 一応、著作権料を支払っているレンタル業者でさえ、新譜CDのレンタル開始は少し間をおいて貸し出しているのだから、著作権料を支払っていない図書館が新刊本をレンタルする場合は、ある程度の日数が経過してから入荷するべきだ。
 百田氏は最低1年間はブランクを開けるべきと書かれていたが、大体その程度が妥当なところだと思う。本当に読みたい人は1年間も待とうとは思わないだろうから、新刊は需要が去った頃合いに図書館に置くようにすることが望ましい。もっとも、著作権に厳しい国では、それすら許さないというところもある。
 そもそも、何かを調べる目的で本の一部を読むだけというなら図書館で本を借りるのは合理的な発想だと思うが、丸ごと1冊読む本を図書館で借りようという発想自体が可笑しいのではないか?と疑ってみる必要があると思える。

 「税金を支払っているのだから、図書館を利用する権利がある」と言う人がいるかもしれないが、世の中には納税していても図書館を利用していない人は大勢いる。そういった人々には、税金の還付が有るわけでもない。私も税金は真面目に支払っているが、図書館は一切利用せず、読みたい本は全て自腹で購入している。

 「不景気でお金が勿体ないから図書館を利用する」という人もいるかもしれない。しかしながら、経済的な因果論で考えるならば、不景気だからこそ図書館で新刊を借りずに、きちんとお金を支払って購入するというのが正解だ。そうでなければ、いつまでも不景気のままということになってしまう。
 「不景気でお金が勿体ないから図書館を利用する」というような人々が増えることが、景気が悪くなる原因になっているという単純な事実にも目を向けなければならない。

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「長財布を持てば、お金持ちになる」の“真”と“偽”

■「英雄色を好む」と「長財布を持てば、お金持ちになる」

 最近はあまり聞かれなくなったものの、「長財布を持てば、お金持ちになる」という有名な言葉がある。お金持ちを研究した多くの人が、「私が出会ったお金持ちは必ずと言っていいほど長財布を使用していた」と言っているが、はたして「長財布を持てば、お金持ちになる」というのは本当のことなのだろうか?

 おそらく大抵の人は「嘘だ」と即答するのではないかと思われるが、この言葉の虚実を、少し冷静になって再考してみよう。

 例えば、「英雄色を好む」という諺があるが、この言葉の意味するところは次の2つになる。

 1、英雄(有名)になったから色を好む(女好き)ようになった。

 2、色を好むようなエネルギッシュな人だからこそ英雄になれた。

 さて、この場合、どちらが正解だろうか?

 「英雄色を好む」を字義通りに解釈すれば「」を表現したものなのだろう。しかし、よくよく考えると、英雄(有名)になったからといって誰もが好色になるわけではない。英雄になれば女性にモテるかもしれないが、必ずしも好色になるかと言えば、少し疑わしい。
 「英雄色を寄せる」(英雄になれば女性にモテる)なら正解かもしれないが、「英雄色を好む」(英雄になれば女好きになる)では無理がある。英雄にならなくても色を好む人は大勢いる。

 では、「」はどうだろうか? 「エネルギッシュな人だから英雄になれた」 もう少し具体的な言い方をすれば、「精力(性欲)が強い人だから英雄になれた」 これなら、なんとなく理解できる。「人一倍、欲が強い人であったからこそ英雄になれた」 これなら、誰も否定できないと思う。
 要するに、「英雄色を好む」という言葉は、「英雄」と「色」を置き換えることで、納得できる言葉に変化するわけだ。

 「長財布を持てば、お金持ちになる」というのもこれと一緒で、前後の言葉を入れ換えて「お金持ちであれば長財布を持つ」とすれば違和感なく聞こえる。もっとも現代のようなカード社会を通り越したキャッシュレス社会では、お札を入れる財布自体を持たない人も少なからず存在しているので、違う意味での違和感を感じる人がいるかもしれないが…。

 …と、ここで終わると面白くもなんともない。上記で述べたことはあくまでも常識的な一般論なので、どこか物足りなさを感じる。「偽」の部分の考察だけではアンフェアなので、以下で「真」の部分にも光を当ててみよう。

■「長財布を持てば、お金持ちになる」の本当の意味

 「お金持ちだから長財布を使うのだ」 これは結果論としてはその通りだろう。では、この言葉が本当だとするなら、彼らはお金持ちになったから長財布を使うようになったのだろうか? お金持ちになる以前は長財布を使っていなかったのだろうか?
 答えは、案外、どちらも「ノー」かもしれない。

 世の中には、「長財布を持てば、お金持ちになる」という言葉を聞いて長財布を買う人がいる一方で、そんな言葉を聞くまでもなく、自らの意思で長財布を使用している人がいる。この両者の違いとは何だろうか? それは一言で言うなら、メンタリティー(心の傾向性)の違いだと思う。この部分を考えずに「長財布を持てば、お金持ちになるというのはデタラメだ」と言うだけでは、あまりにも短絡的な意見だと言わざるを得ない。
 個々の人間のメンタリティーの違いにおける因果論の考察、少なくともこの部分にまで言及しないことには、この言葉の本質は理解できないのではないかと思う。

 私が思うに、お金持ちになる人の多くは、誰に勧められるのでもなく、誰に影響されるのでもなく、自ら長財布を選ぶというメンタリティーを有した人なのだろうと思う。(注意:全員が全員そうだというわけではない)

 「長財布を持てば、お金持ちになりますよ」と言われて、ホイホイと長財布を買うようでは既にメンタリティー的にお金持ちでは有り得ないし、そのようなアイテムを手に入れさえすれば運勢が変わるというような占いレベルの認識では、長財布を持ってもお金持ちになるはずがないので、トンデモ論だということになってしまう。その挙げ句、「長財布を持てば、お金持ちになる」という言葉は「お金持ちだから長財布を使う」という無難な結果論に翻訳されてしまうことになる。

 「長財布を持てば、お金持ちになる」 これは“偽”だ。
 しかしながら、「お金持ちだから長財布を使う」 これもただの結果論であり、因果論を無視しているという意味では“真”ではない。

 現代では必ずしも当て嵌まらないが、本当のところは、次のようなものではないかと思う。

 「現在、お金持ちであるないに拘らず、将来的にお金持ちになる人の多くは、自らの意思のみで自然と長財布を使うようになる

 「長財布」は、お金持ちになる手段でもなければ、お金持ちが目指す目的でもない。お金持ちになる原因は「長財布」という物体にあるのではなく、「人間の心」の傾向性にある。これなら、少しは納得できるという人もいるのではないだろうか?

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「スマホ老眼」の正体【スマホという老眼鏡】

2015062701■「散髪しながらスマホ」という新手のコミュニケーション

 昨今のMVMO(仮想移動体通信事業者)の流行りもあり、私自身も遅ればせながら、今年からスマホ(iphone)を使用している。現在はガラケーとスマホを2台併用しているという感じだが、いずれはスマホオンリーになるかもしれない。スマホは電池持ちが悪いので、なかなかガラケーからは卒業できないかもしれないが…。

 私の場合、仕事でパソコンが必要だし、趣味でブログを書いている身でもあるので、特にスマホをパソコン代わりに使用しようなどとは全く思っていないので、今後もスマホがメインになることは有り得ないと思うが、それでも使用していると便利だなと思うことがある。
 書店やレンタルショップで、面白そうな本や映画を見つけると、その場でネット上での書評やレビューを調べることができるので、非常に助かっている。以前はipodで聴いていた音楽もiphoneで聴くようになった(主にBluetoothで車内で聴いている)ので、ipodもいらなくなってしまった。

 飲みに出かける時、たまに電車に乗ると、ほとんどの人がうつむいて小さなスマホの画面を覗き込んでいる光景を目にする。数年前、電車通勤(現在は車通勤)をしていた頃に観ていた光景とは全く様変わりしてしまい、同じ車両で本を読んでいるのは私だけということもある。

 「ながらスマホ」という言葉をよく耳にするようになったが、世の中には、散髪中でもスマホをいじっていないと気が済まないという人もいるらしく、店員とのコミュニケーションはそっちのけでスマホに夢中になっている人もいるらしい。

 私が思うに、タバコは対人関係が苦手な人の誤摩化しアイテム(話の間を繋ぐアイテムという意味)という側面もあるので、散髪屋での誤摩化しアイテムとしてスマホを使用しているという人もいるのかもしれない。

■「スマホ老眼」と「スマホ疲労眼」

 世の中には「良い習慣」と「悪い習慣」というものがあるが、後者の「悪い習慣」というものは、得てして「依存症」に陥る傾向にある。
 ニコチン、アルコール、ドラッグ、ギャンブル等、中毒性の強いものが依存症に陥る対象となるが、スマホの場合、単独の依存症というわけではなく、オンラインゲーム中毒、ネット閲覧中毒、SNS中毒、ネット活字中毒、ネット株中毒、ネット漫画中毒、ネット動画中毒など、様々な依存症が絡み合っている。
 そのどれもが、特に致命的な依存症だとは思えないのだが、最近では「スマホ老眼」という言葉も聞かれるようになり、視力に悪影響を及ぼすということだけは無視できそうにない。

 「スマホ老眼」というのは、近くのものばかり見ていると、目の筋肉を酷使することになるので、スマホばかり見ていると老眼と同じような症状が短期的に現れるということなのだろうけれど、老眼のように治らないというわけではない。スマホによる老眼症状は、ピントの調整機能が衰えることによって生じる老化現象ではなく、目の筋肉を酷使したことによる一時的な疲労現象なので、老眼とまでは言えないと思う。
 今後、10代からスマホで目を酷使し続けた結果、30歳で老眼を発症するというような人は出てくるかもしれないが、現状ではそこまでは証明できないので、単なるスマホ疲労眼に過ぎないと思う。

 「近視眼的」という言葉は、あまり良い意味合いでは使用されない言葉だが、「大局を見通せず、目先の事だけにとらわれているさま」という意味になる。
 スマホの見過ぎというのは、スマホの奥にある仮想空間の中にある価値に夢中になっているという意味では、必ずしも近視眼的になっているとは言えないのだが、物理的には近視眼的になっている。夢中になっているのはスマホの奥にある世界なのだが、物理的な焦点はスマホの小さな画面となる。
 スマホを見ている間はなんともないのに、スマホから離れると老眼状態になる。この状態は、見方を変えると、スマホの画面自体が人間と仮想空間を繋ぐ老眼鏡になっていることを意味していると言える。
 スマホの使い過ぎで、目が疲れるだけなら、スマホの使用時間を減らすことで回復できるが、一日中、スマホがないと生きれないというような依存症に陥ってしまうと、スマホという老眼鏡をずっとかけている状態となるので、実質的には本当の老眼と変わらないことになってしまう。この状態を「スマホ老眼」と言うのであれば、治る見込みが無いという意味では正解かもしれない。
 
■「すごい経済ニュース」という無料アプリ

 話を戻そう。スマホは便利なツールだが、ブログを書く上で、スマホはあまり役に立たない。あんな小さな画面で文章を書く気力も忍耐力も無いし、画像の加工もできそうにない。仮に書けたとしても、書いた文章を推敲する手間を考えると遠慮せざるを得なくなる。
 ツイッターの文字数ならスマホに軍配が上がると思うが、どう考えてもスマホはブロガー向きではない。
 しかし、読むだけなら、スマホの方が便利だと思う時がある。個人的には読む場合もパソコンの大画面で読んでいるが、いつでもどこでも読めるという意味では、スマホに軍配が上がる。

 当ブログも、パソコンで読まれる人とスマホで読まれる人の割合は、現在ではスマホの方が多くなってきている。
 BLOGOSに記事を転載していただいた場合の閲覧者の割合は判らないが、おそらくスマホで閲覧されている人の方が多いのだろうと思う。

 スマホを始めたことによって最近、知ったのだが、「すごい経済ニュース」という無料のスマホアプリでも当ブログが読める(と言うかリンクされている)ようになっている。2013年頃から始まっているようなので、既に2年以上経過しているのだが、今まで気が付かなかった。
 本アプリの作者である「Shumpei Hayashi」氏には、遅ればせながら、この場を借りてお礼申し上げたいと思う。紹介していただき有り難うございます。

 下記のテクジョサイトでも紹介されています(2年前に)。

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