映画・テレビ

映画『善き人のためのソナタ』に観る芸術

映画の舞台は、ベルリンの壁崩壊前の東ドイツ。レジスタンスを取り締まる秘密警察(国家保安省)の1局員の心情の変化を『盗聴』という行為を通して描いた作品。

静寂の中で淡々とストーリーが進むのはヨーロッパ映画の特徴でもあるが、この映画の場合、それに加えて、社会主義国家独特の不自由で窮屈な世界観が伝わってくる。言いたいことも言えず、国家が盗聴を認めているというトンデモない社会、そんな社会が20年前まで何の疑問も持たれず存在していたというのは今更ながら驚きだ。(未だに現存している国はある)

日本に住む我々日本人は、ベルリンの壁崩壊当時、それが何を意味しているのか理解していた人は少ない。歴史的な大事件を単なる異国の出来事だという認識でしか観ていなかった。
その壁の崩壊は、物理的に東西が繋がること以上に大きな意味を持っていた。世界を二分していた『自由』と『束縛』という思想が1つに混じり合うという歴史的瞬間を我々はテレビを通して傍観者として眺めていた。しかしてその出来事は、20年近くを経過して世界中を1つの市場にするという結果(=グローバル化)を齎した。その結果を齎したものとは、何だったのか? それこそが、自由を求める心だった。
20世紀という壮大な文明実験を通して、人々は自由と対極にある束縛を体現した社会が如何に人間性を喪失させることに繋がるのかを発見した。いや、証明したと言った方が正解かもしれない。

善き人のためのソナタを聴いた主人公は、涙する。皮肉なことに盗聴というものを通して、今まで見ることのできなかった世界を見ることになる。人間の心の内を。どのような国家にも決して縛ることのできない人間的な感情を知ることになる。そしてその感情はいつしか抑えることのできない激情へと変化する。

最後に主人公は言う。
「これは私のための本だ」
この言葉は下記の言葉と重なる
「善き人のためのソナタ」

つまり、この言葉を発するに到った主人公は、「善き人」になったことを物語っている。どういう風に善き人になったのか? 芸術を解する(=善き人のソナタを聞いた人は悪人になれない)心通った人間に生まれ変わったことを暗に示している。
「本」と「ソナタ」は双方とも芸術を意味するが、実はもう1つ、この映画には隠されたメッセージがある。それは「映画」、つまり、「善き人のための映画」だということ。
そういう映画をドイツで創作できるようになり、また観ることができるようになったことは、世界が変わったことを表している。そう、「我々は今、自由な世界に生きているのだ」という強烈なメッセージをこの映画は発している。

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映画『それでもボクはやってない』

 日本の裁判制度の盲点(暗部?)を突いた映画『それでもボクはやってない』をDVDで観てみた。
 映画の主人公は、運悪く満員電車での痴漢の犯人にされてしまい、逮捕拘留から裁判までを経験することになる。
 ありそうな話(痴漢と間違われること)ではあるのだが、よく考えると未だこういった社会派映画は日本では製作されていなかったようだ。痴漢の真犯人を見つけて晴れて無罪、ハッピーエンドというドラマならあったかもしれないが、裁判の現状を克明に描き出した映画はこれが初めてであり、かなり画期的でもあり、センセーショナルな映画だった。

 近代民主主義国家には「推定無罪」という言葉がある。一言で言えば、「疑わしきは罰せず」という意味となるが、この映画を観ていると、どうやら日本ではこの反対の「疑わしきは罰する」となっているように思われた。
 逮捕された人間を、無罪を前提に取り調べるのか、有罪を前提に取り調べるのか、この違いは実に大きい。本当に犯罪を犯した人間には推定有罪の適用は仕方がないとしても、無罪の人間に推定有罪を適用されては堪らない。冤罪者になった人間から見れば、警察官も検察官も裁判官も正義の味方ではなく、地獄の鬼のように見えるのかもしれない。

 この映画でも描かれていたが、日本の裁判制度というものは、その下地に官僚制度というものが存在するため、裁判自体が点数化されており、まるで融通の利かないムラ社会制度と成り果ててしまっているようだ。そのせいか有罪判決率は99.9%となっているらしいが、海外の知識人達はこの数字に皆、一様に驚くそうだ。そんな検挙率は冤罪が入っていない限り有り得ないと。
 有罪を取ることがプラスで、無罪となることがマイナスになるというふうに裁判を点数化されてしまっては、冤罪者の人権などは全く無視されているとしか思えない。一体、誰のための裁判なのか?と強い憤りを感じた。
 この映画はフィクションとはいえ、妙な現実味がある。監督の周防正行氏が「使命感を持って徹底的にリサーチして製作した」と言うだけあって、限りなくノン・フィクションに近いのではないかと思える。

 主人公は、都合十数回の公判を通して、日本の裁判制度の真実を発見するに至る。
 そして裁判官という存在の矛盾を視聴者である我々に容赦なく突き付ける。内容はネタバレになるので控えるが、大抵の人はここで膝を打って納得されられてしまう。

 裁判官とは、人が犯した罪を裁くことができる存在だと皆思ってきた。しかし、それは本当だろうか? 例えば、人を殺した犯罪者が裁判官に懲役10年を言い渡されたとして、刑期を大過なく無事に過ごせば罪が消えるだろうか? 確かに法的には消えるだろう。しかし、その犯罪者はそれで本当に納得するだろうか? 人を殺してしまったという事実がわずか10年で心から消えてしまうだろうか? おそらく、その犯罪者の心から殺人者という事実が消えることはないだろう。その犯罪者に良心が芽生えれば尚更のことだ。刑期を終えていたとしてもその犯罪者はこう思うだろう。自分の罪を償いたいと。刑期を終えた犯罪者が良心の呵責に苦しみ自殺をするというケースもあることが、そのことを如実に物語っている。つまり現実としては、裁判官に他人の罪を裁くことはできないのである。なぜ? 他人であるがゆえに。

 では裁判は不必要なのかと言えば、そんなことはない。もちろん必要だろう。罪を犯した人間に何の罰も与えられなくなれば、犯罪天国になってしまう危険性がある。そういう意味では裁判は必要だろう。しかし、裁判官の役目というものは、“犯罪者に罰を与えること”であって、“犯罪者の罪を裁くこと”ではないはずだ。裁判官が神様でもない限り、他人の犯した罪を裁ける資格などあろうはずもない。
 本来、自分の犯した罪を裁くことができるのは、罪を犯した本人しかいない。そして裁判官自身も罪を犯す存在であることを、この映画のラストで気付かせてもらった。


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