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BOOK『2011年 新聞・テレビ消滅』

2009120201 最近、各新聞社は軒並み赤字経営に陥り、テレビの視聴率も減少の一途を辿っている。このマスメディアの凋落現象は、少子化や金融不況とはほとんど関係がないとの認識がごく一般化しつつあるようだ。そういう時代であるからこそ、マスコミの凋落ぶりを描いた(ルポした)書籍というものも数多く刊行されてきている。少し前にも『マスゴミ崩壊』(三橋貴明 著)という単行本を当ブログでも紹介させてもらったが、さらに見聞を深めるため『2011年 新聞・テレビ消滅』(佐々木俊尚 著)という新書を購入して読んでみることにした。
 今流行りの『2012』という映画ではないが、いろんな意味で2011年にマスメディアは崩壊するということが書かれた本である。

 私は、新刊書籍はネット書店ではなく、なるべく通常の書店で購入するように努めている(既存書店の応援も込めて)が、この本に限って言えば、なぜかどこにも置いていなかった。発刊されたのが今年(2009年)の7月なので運悪く品切れ状態だったのかもしれないが、大型書店を数件回っても見つからなかったため、結局、アマゾンで購入することになってしまった。佐々木俊尚氏というと結構、知名度のある著者なのでどこにでも置いているだろうと思っていたのだがアテが外れてしまった。
 しかし、書店をいくつも梯子して見つからない本が、アマゾンではあっさりと買えてしまうのだから、ネット書店の便利さを改めて実感した。この本の中にもアマゾンについて書かれてあったが、なるほど、その優位性は認めざるを得ない。

 著者の佐々木氏は、主にIT関連の書物を数多く世に出している人物で、時代の最先端を報じることを得意とし、これまでも、『ヒルズな人たち』『ライブドア資本論』『ブログ論壇の登場』や『グーグル』関連の書物などをいくつか著しており、その先見性と洞察力には定評のある人物だ。
 数年前にもライブドア事件の最中、テレビ番組のサンデープロジェクトに出演し、《ライブドアは虚業》という四面楚歌の中、「ライブドアの技術力には定評がある」という持論を述べていた気骨のあるジャーナリストでもある。

 この本の場合、マスコミの凋落原因を、感情論抜き(?)で理論的に明らかにしている。現代という時代背景をよく見据えた上で、どう転んでもマスコミの崩壊は避けることができないという予測が明解に示されている。
 社会的観点からも、現代は「大衆(マス)の時代ではなく、少衆(パーソナリティ)の時代」だと述べ、マスメディアのビジネスモデルをプラットフォーム化(コンテンツ・コンテナ・コンベア)し、現代のマスメディアが抱えている構造的な問題点を簡略的に分かり易く説明している。
 “情報の編集権”【どの記事が重大かを自ら選別して大衆に与えるという権利】という強大な利権が既にネット業者に奪われてしまっている現状と、この先、そのネット業者と手を組まなければ全く商売にならないという現実、そして仮に手を結んだとしても(マス)メディアとしての業態縮小を余儀無くなくされるという極めて悲観的な予測が述べられている。
 
 「メディア産業はゼロサムゲーム」「現在の各写真週刊誌の発行部数」「新聞記事の日用品化」「電子書籍リーダー『キンドル』のアマゾンサイドの手数料」「TBSは不動産テレビ屋」「米国のテレビドラマはハリウッド製」など、興味深い記事がいくつも書かれてあったが、中でも面白かったのは、「インターネットが唯一の全国紙」という発想だ。
 日本にはテレビチャンネルも新聞も数種類しか選択の余地がない。その数少ない数種類のテレビチャンネルや新聞が同じような内容の情報を流しているだけであるならば、わざわざ分ける必要が無いとも言える。同じような情報しか流さ(せ)ないのであれば、テレビ局も新聞社も1つに統合してしまってもほとんど問題はないのではないか?という発想だ。
 「そんなことは不可能だ!」と言う人がいるかもしれないが、それを既に可能にしているのがインターネットのポータルサイトである。

 例えば、電機メーカーの場合、各メーカーが同じ製品(冷蔵庫・洗濯機・エアコン・携帯電話・デジタルカメラ・パソコンなど)を製造していたとしても、全く同じ商品を製造しているわけではない。製造業にはメーカーとしての商品の差別化があり、各メーカーが新たな機能や付加価値を競い合って商品価値を高めていくというシステムが自然に存在している。
 もし、これらの電機メーカーが、こぞって同一(またはほとんど変わらない)商品を製造するような体制になってしまえばどうなるか? それは何を意味するか?

 (答え)電機メーカーは1つで事足りる。

 ということになるわけだ。マスメディアが消費者に対して同じような情報を提供することしかできないのであれば、全て合併して1つ(国営化?)にしてしまっても、なんら困らないとも言えるわけだ。

 「それでは独裁報道になる危険性がある」と言う人もいるかもしれない。
 その通り、同一の情報しか国民に与えることしかできないということは、その姿そのものが独裁報道でもあるわけだ。現代日本のマスコミの姿勢がどうであるかは言うまでもないだろう。
 “数社が同じ報道を行うこと”も“1社が同じ報道を行うこと”も本質的にはなんら変わらない。異論を全く報道しないという姿勢は、まさしく独裁国家の報道体制そのものであり、そこにはなんらの競争原理も働いていないわけだ。結果、情報の価値というものが一向に向上しない。そのことは、先の電機メーカーの例で考えればよく解ると思う。
 
 そんなことを考えていると、佐々木氏が言うように「マスメディアは本当に必要なのか?」と言いたくもなる。彼はこうも言っている「一回、つぶれた方が良いんじゃないの?」と。無論、それはメディアが終焉するという意味ではなく、時代に即した新たなメディアができればそれで良いのではないか?という意味だ。メディアというものは本来、ある特定の人間にしか創り出せないというものではない。

 一億総中流社会が生み出した大衆(マス)文化というものが翳りを見せ始めた現代にあって必要なメディアとは“大衆を満足させるメディア”ではなく、“個人を満足させるメディア”であっても良いわけだ。そのメディアには当然、「マス」という言葉は必要ない。テレビや新聞が消滅すると言っても全てのテレビや新聞が無くなるわけではない。マス文化としてのテレビや新聞が存在しなくなるという意味なのだろう。果たして2年後に本当にそんな社会が到来するのかは未だ分からない。しかし、残された2年の間に、時代の生き証人として“マス文明の崩壊”という現実を観ることになる可能性は高そうだ。
 
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BOOK『マスゴミ崩壊』

2009100601 数少ない日本経済楽観論者であり、2ちゃんねるからデビューしたという特異な経歴を持つ注目の経済評論家 三橋貴明氏の最新作。「マスゴミ」というネットスラング(隠語)を本のタイトルにするところなどは、如何にもネット論者という感じだが、内容の方は非常に真っ当な正論が展開されている。私は三橋氏の本は初めて読んだのだが、なるほど、その人気の秘密がよく解った。三橋氏は中小企業診断士を職業としておられるらしいが、コンサルタント的な視点から鋭くマスコミの問題点を糾弾している。日本のマスメディアの問題点を取り扱った書物は数多いが、この本は非常に分かりやすく書かれており、万人受けする内容だと思う。
 
 日本のマスコミのデタラメさ加減は知る人ぞ知るところだが、これまでは非常に強固なベールに覆われていたために、実際にマスコミ被害にあった人にしかその問題点は見えにくくなっていた。しかし、インターネットの急速な進展により、徐々にそのベールは剥がされようとしている。

 マスコミというものは、本来であれば国家権力を監視する役割を担った存在であり、司法、行政、立法に続く「第4権力」と呼ばれている。しかし、この国のマスコミは、権力を監視するというよりも、権力におもねるという感じになってしまっている。
 と言っても、マスコミに携わっている人間がデタラメな悪人ばかりだというわけではない。日本のマスメディアとしての構造自体がデタラメであるがために、その中に入った人間もその色に染まってしまっているというのが実情だろうと思う。誰も、はじめから権力におもねるためにマスコミに入るわけではない。大抵は夢と希望を持って、真実を追求し、社会悪を糾弾するという正義の心からマスコミの世界に入るのだろうが、そこに入った者は、どういうわけか“自らが社会悪となってしまう”という危険なリスクを背負うことになる。不幸にもそのリスクに破れてしまうと、権力の走狗と成り果ててしまう。
 社会悪と化したマスコミを監視する組織自体がないために、誰にもそれを止めることができない。なまじ、『国家第4権力』などという巨大な権力が与えられているがために、その暴走は『国家(権力)』と並ぶ程に始末に負えなくなる。

 「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という有名な諺があるが、日本のマスコミ社会というものは、虎穴に入ってしまえば自らが虎になってしまう。言わば、「ミイラ取りがミイラになる」というような社会になってしまっている。
 これは、ある意味で官僚の世界と同じ構図だとも言える。システム自体がデタラメなので、そこに入った人間が如何に優秀であっても無意味化してしまい、理想とは程遠い悲劇を演じることになる。
 それでも一部の優秀な人間は、大マスコミから独立して正論を述べるに至るが、その声はいつもマイノリティー(少数派)であり、マジョリティー(多数派)になることは難しい。そういった事情から、本音を捨てて建前の社会に閉じ篭ることになる。(この時点でジャーナリズム精神を失うことになる)
 この、現代マスコミ社会を覆っている悪循環を断ち切ることは不可能だと思われていたが、前世紀末に1つの希望が生まれた。それが、他ならぬIT革命(インターネット)だった。

 奇しくも冷戦の終結とともに、アメリカは戦争で利用されていた通信技術をオープンにした。その技術は秒進分歩で進化し、瞬く間に世界中に浸透した。インターネットが拡大するとどのような世界になるのかということが、時の権力者には理解できなかった。それゆえに、インターネットの拡大を取り締まるような権力者は(幸いにも)現れなかった。IT革命の行き着く先には、『真贋の分別』という開かれた社会が待っていることなど夢想だにしていなかった。
 
 21世紀が、総ての人に正しい情報を与え、誰にも邪魔されずにその情報を共有できる開かれた社会に向かって進んでいるのであれば、嘘で塗り固められた組織に未来はない。それは至極当然の帰結でもある。国家第4権力者たる日本の大マスコミであろうと、いつまでも閉ざされた社会に居座り続けていられるような時代ではないということを知るべきかもしれない。そのことは、他ならぬマスコミ人自身が1番理解しているのではないだろうか。『マスゴミ崩壊』とは実は、マスコミに携わる人間達こそが夢みた理想であるのかもしれない。

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BOOK『霞が関埋蔵金男が明かす「お国の経済」』

 「官僚すべてを敵にした男」という異名を持つ高橋洋一氏の新書『霞が関埋蔵金男が明かす「お国の経済」』を読んでみた。
 官僚を敵に回した人物というと、「官僚の天敵」という異名を持つ(?)大前研一氏が有名だが、この高橋洋一氏も大前氏と同様、理系出身らしく「中学生時代に大学生レベルの数学を理解できた」というくらい天才肌の人物らしい。あまり知られていないが、高橋氏は以前、現FRB議長バーナンキのもとで経済を学んでいたそうで、竹中平蔵氏とは知己の間柄なのだそうだ。
 
 高橋氏は「霞が関埋蔵金」の名付け親としても有名だが、この新書を読んでいると、タイトルの通り「お国の経済」(お国の内情)が良く理解できる。非常に頭の良い人のようで、難しい問題を論理的に面白おかしく語っている。これくらい頭の良い人だと、さすがの官僚達の詭弁も一切通用しないという感じで実に心地よい。そして日本という国が、いかに情報操作された国であるかということも嫌というほどに解ってしまう。
 日本は“議員内閣制”ではなく“官僚内閣制”であることはよく知られたことだが、そのことについても具体的な例をあげて述べられており、まるで官僚達による騙しのトリックの種明かしを聞いているようで興味深い。
 「マンデル・フレミング理論」や「国際金融システムのトリレンマ(固定相場制・独立した金融政策・自由な資本移動)」という日本では普段あまり聞かれない専門用語の説明(?)も解りやすく、ユーモアと皮肉を込めて述べられている。

 高橋氏は、日本は今後、地方分権の時代になると述べている。
 以前から道州制を勧めている識者は多く、先に登場した大前研一氏やPHP総合研究所の江口克彦氏などが有名だが、逆に地方分権や道州制を誤解している一般人や有名人も多いと述べられている。中央集権を愛する官僚達は、当然のことながら「地方分権」という言葉が大嫌いであるということも…。

 おそらく、閉塞した日本国家の行く末を決定づけるキーワードこそ「地方分権」であり「道州制」であるのかもしれない。高橋氏はこうも述べている。「国家を信じるな」と。間違った地方分権論や、偏見に満ちた道州制反対論を鵜呑みにすることなく「正しい知識を身に付けましょう」と。

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BOOK『内側から見た富士通「成果主義」の崩壊』

 2004年に出版された光文社ペーパーバックス『内側から見た富士通「成果主義」の崩壊』を今更ながら購入し、読んでみた。
 タイトルから考えて、少し前までは、単なる成果主義の批判本かと思っていたのだが、実はそうではなかったようだ。タイトルに騙された(?)とはまさにこのことをいうのだろうが、良い意味で期待を裏切られてしまった。
 この本には、「成果主義」の崩壊というサブタイトルが付けられてはいるが、正確に言うなら、『中途半端な成果主義の崩壊』か『日本型成果主義の崩壊』と付けた方がピッタリとくる。より具体的に言えば、『年功序列制度の弊害による成果主義の崩壊』という長題が相応しいかもしれない。つまり、この本は成果主義について述べたものではなく、年功序列社会に対する強烈な批判本だったわけである。
 成果主義という手段を取り入れることによって、歪んだ年功序列制度が浮き彫りになってしまったという格好のケーススタディー(事例研究法)となっている。

 日本の最先端を歩いていた巨大企業の秘められた実態と業績低迷の謎。その真相を赤裸々に述べた本書は、単なる一企業の暴露本という趣きを超えて、実は日本社会の構図そのものを露呈する書物に仕上がっている。著者の実体験を踏まえた上での、あからさまな考察は実に興味深いものだった。

 最も面白く目を引いたのは、著者も在籍していたという人事部の存在だが、富士通という会社を日本に置き換えてみると、現代の日本社会の実情が垣間見えるような気がした。
 さて、富士通の人事部というものは、日本株式会社の中では、どこに該当するのか? 言うまでもなく、日本全体の人事を統括している組織だ。中でも「本社人事部」というのが酷かったらしいが、これも「霞ヶ関人事部」と置き替えると面白い。本の中には、「人事天国」、「人事独裁体制」、「ゲシュタポ人事部」、「生え抜きのエリート集団」など、どこかで聞いたような皮肉めいた言葉が並ぶ。

 著者はこのように言う。「現場を知らない人間の集団が、叩き込まれた制度や規則だけを基に、常に人を上から見下ろして物事を決定するため、現場とのギャップに気付かない。彼らの仕事の相手は、顧客でもなく市場でもなく、社内の従業員達なのである」と。これもまさに、日本社会の腐敗した構図そのものをズバリ言い表わしているような気がする。

 負けているのに負けを認めないというエリート集団独特のプライドから発生する無責任体制、それが富士通という巨大企業を蝕んでいった1つの原因であるのなら、現代の日本社会を蝕んでいるものの正体も朧げながらに見えてくる。

 つい先日のニュースでも、大きな不祥事を起こした社会保険庁の職員(一部)の職務評価がA評価だったということで騒がれていた。確かに社会保険庁にも優秀な職員もいるとは思うが、あれだけ大きな問題を起こした組織であるのなら、通常は連帯責任の適用が当然であり、職務評価は全員C(A〜Cの3段階評価として)とするのが妥当なところだろう。
 もし許される例外があるとすれば、今回の納付者不明問題を告発した職員か、不明問題解決の陣頭指揮に当たり、大きな成果を上げた職員ぐらいのものだろう。もっとも、そんな職員がもし存在していたなら、逆にC評価となってしまうかもしれないが…。(評価するのは国民ではなく、上司であるため)
社会保険庁職員の仕事相手も結局のところ、顧客でもなく市場でもなかったのかもしれない。国民という顧客からの信用が失墜したことも気が付かず、もはや自らが必要とされていないという市場の声にも耳を傾けようともしない。そしてほとんど反省の色も見えない。あるのは、かつての富士通と同様、年功序列という縦割り社会(=ムラ社会)の中での己の地位や評価のみ。

 一時、大企業の官僚化という問題が取り沙汰されたことがあるが、富士通が成果主義を取り入れることによって映し出されたものとは、実は、大企業の官僚化問題であったとも言える。これは富士通だけの問題ではないだけに、更に由々しき問題かもしれない。



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