経済・政治・国際

病膏肓に入る日本のリベラル

■『リベラルという病』と『「リベラル」という病』

 昨年、『リベラルという病』(山口真由著)という本が出たかと思うと、今年は『「リベラル」という病』(岩田 温著)という、ほとんど同名の書籍が出たので興味を抱き読んでみた。山口真由氏の本は主にアメリカのリベラルについて中立の立場で論じられた本だったが、岩田 温氏の本は、著者自らが述べられている通り、日本のリベラルを徹底的に批判するという骨太な本だった。

 しかし、「リベラル」=「病」としたタイトルの本が2冊も出るということは、それだけ現代の「リベラル」が特異な存在だということが広く認知されつつあるということなのかもしれない。

 日本には「病膏肓(やまいこうこう)に入(い)る」という諺がある。「膏」は心臓の下の部分、「肓」は横隔膜の上の部分、その部分には薬も針も通らないので、治療するのが極めて困難なため、治療の仕様がないことを意味した言葉だが、この2冊の本にネーミングされた「」という言葉には、そういった意味が込められているのかもしれない。

■「ガラパゴス左翼」にカテゴライズされた意外な人物

 本書には、「リベラル」にちなんで「ガラパゴス左翼」批判が実名で書かれていたが、まさか、あの博識で有名な著名人I氏がこのカテゴリーに入っているとは意外だった。ちなみにI氏は以前に「リベラル=左翼と呼ばれたくない人たちの自称。」と定義されている。

 私自身、I氏の本は1冊も読んだことがないので、I氏の思想が奈辺にあるのかは知る由もないが、岩田氏は図書館に籠ってI氏の膨大な著作を眼光紙背に徹して深く読み込まれたそうなので、そう思える何かがあったのかもしれない。

 岩田氏はI氏を「平家物語」に登場する「鵺(ぬえ)」に喩えている。「鵺」とは、顔は猿、体は狸、手足は虎、尾は蛇という正体不明のキャラクター(妖怪)だが、言っていることが「右」とも「左」とも受け取れるI氏の中立的な姿勢を「鵺」に喩えたのかもしれない。

 本書には、日本の立憲主義についても述べられており、吉田 茂の憲法解釈の変更によって日本の立憲主義は既に終わっているとも書かれている。
 立憲主義を破壊した政治家がいたとすれば、それはリベラルの言う安倍総理ではなく、吉田 茂だった。本来、持てないはずだった自衛隊を持てるようにし、敵が攻めてきた場合は戦えるようにしたのは吉田 茂だったというわけだ。
 「自衛隊は違憲だ!」と言わずして、「集団的自衛権の行使は違憲だ!」と言うのでは筋が通らない。「立憲主義を守り抜け!」と言うのであれば、まず自衛隊の存在についての自らの考えを示さなければならない。これはその通りだと思うが、こういった矛盾や欺瞞を知ってか知らずか都合よく無視するのが日本のリベラルの特徴なのだろう。

■リベラル政党を批判するリベラル政党の不思議

 ところで、日本では野党のことを「リベラル政党」と呼ぶ向きがあるが、アメリカで「リベラル政党」と言えば民主党になる。では、アメリカの民主党に近い日本の政党は?と言うと、実は「自民党」になる。このことは、先述した山口真由氏の『リベラルという病』にも書かれていたと記憶している。曰く、自民党が野党の立場(リベラル)を奪ってしまったと。

 先の「鵺」の話に擬えて言うと、自民党というのは「鵺」のような政党であり、顔は右翼、体は保守、手足はリベラル、尾は左翼という具合に、バランスよくまとまったチャンコ鍋のような政党なので、野党を必要としない無難な政党ということになってしまう。自民党一強の理由は、自民党が「鵺」政党であることも少なからず関係している。

 第1次安倍内閣は「中道右派」と思われていたが、現在の第2次安倍内閣は「中道左派」か「リベラル右派」と言ってもいいぐらい、少し左に寄っているように見える。
 そのリベラル政党でもある自民党を批判しているのがリベラル政党だというのだから、この時点で何かがおかしいことになる。リベラル政党である自民党を批判する政党があるとすれば、それは右翼政党・保守政党・左翼政党のいずれかということになる。では、「リベラル」を名乗る日本の野党はどれに該当するのか?

 アメリカにはトランプ大統領が属する共和党という保守政党があるが、日本の「リベラル」を名乗る野党は反トランプなので保守政党とは全く相容れない。となると、答えは自ずと決まってくる。右翼政党や中道右派の保守政党が自民党を批判するなら理解できるのだが、そうでない限り、リベラルを批判するのは…(以下省略)

(注記)本記事内の「リベラル」という言葉は、文脈によって意味が違っています。


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「リーマンショック以来の大暴落」の嘘

■「株価」を「体重」で考える

 今週はニューヨークダウの終値が1000ドル以上急落するという場面が2回あり、「リーマンショック以来の大暴落」というような言葉がテレビや新聞等で大きく報道された。ニュース番組でも「リーマンショック以来の下げ幅」ということで危機感を煽るような悲観的なニュースを伝えていた。
 
 確かに朝起きて、ニューヨークダウが1000ドル以上も下がっていると「何があったのか?」とショック症状に見舞われることは理解できるのだが、単純にリーマンショック時と比べるのは間違っている。
 現在のニューヨークダウとリーマンショック時では、株価に2倍以上の開きがあるので、「急落」であることには違いはないが、「暴落」というのは間違っている。正しくは「リーマンショック以来の暴落」ではなく、「リーマンショック以来の急落」と言うべきだった。

 このことは、「株価」というものを「体重」に置き換えて考えると解り易いと思う。
 例えば、体重50kgの人が45kgに減る場合と、体重100kgの人が95kgに減る場合を考えてみると、この両者の減量した体重はどちらも5kgだが、程度は全く違う。今回のニューヨークダウの急落(1日の動き)は、後者の体重100kgの人が95kgになったという状態であり、リーマンショック時の暴落は前者の50kgの人が45kgになったようなものである。
 体重50kgの人が45kgになれば「あなた、痩せましたね」ということになると思うが、体重100kgの人が95kgになっても痩せたということはほとんど分からない。この差を同列に扱うことに違和感を感じた投資家は多いと思う。

■即断即決のトランプ相場

 現状でのニューヨークダウの最高値は26616ドル(現在24190ドル)、日経ダウの最高値が24129円(現在21382円)なので、どちらの相場も短期間で1割程度下げたことになる。かつてトランプ氏が大統領に決まった時は、僅か1日で株価の調整が終了したということがあったが、彼が大統領在任中の株価の調整も極めて短期間で終了ということになるのかもしれない。何ヶ月間もかけてダラダラと株価が1割下がるよりも、10日間で1割下がって調整終了、それがトランプ相場の特徴なのかもしれない。

 マスコミでは、ニューヨークダウの終値だけが話題になる傾向にあり、場中の値動きにはあまり触れないことが多いが、昨晩のニューヨークダウの動きを見てみると、2時前に23360ドルで底値を付けてから、一気に1000ドル騰げており、チャート的には長い下髭を付ける格好になっているので、普通に考えると底を打ったと考える投資家は多いと思う。

 その日のニューヨークダウの終値だけで意見がコロコロ変わるマスコミ報道は、昨日、楽観的なことを話していたのに、わずか一晩で、悲観的な意見に変わるという場合をよく目にする。今回のニューヨークダウの「急落」を「暴落」と伝え、リーマンショックと準えることもまた、大局観を持たないマスコミ報道の特徴だとも言える。

 商品を安く売ってくれる人がいるなら、有り難く買う。
 商品を高く買ってくれる人がいるなら、有り難く売る。

 それが、株式相場での必勝の法則であるはずなのだが、「恐怖感」や「陶酔感」という感情が入るとそれができなくなり、全く逆のことを行うことになってしまう。

 商品を安く買ってくれる人がいるから、有り難く売る。
 商品を高く売ってくれる人がいるから、有り難く買う。

 危機感を煽るマスコミ報道には気を付けよう。

 ※株式投資は自己責任でお願いします。

【追記】2018.2.11
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>「これから高くなりそうなものを売ってくれる人がいるならありがたく買う」が正解です。
安い商品を買って、もっと安くなったらどうするんですか?

 「落ちてくるナイフを安易に掴むのは危険」、その通りです。私もそう思っていますので「買い下がる」という行為も重要になってきますが、そこまで細かく書く必要性を感じなかったので、シンプルに書いただけのことです。

>リアリティーが全く感じられませんよ、記事を書く資格がないんじゃないですかね?

 万人がリアリティを感じる突っ込みようのないブログ、そんなブログがどれだけあるんでしょうか? そんなことが要求されるなら、日本中のほとんどのブロガーはブログを書くことができなくなります。そもそも誰からも報酬をもらっていない非営利の個人の公開日記にイチャモンを付けられても困ります。リアリティーが感じられないなら、読まなければいいだけの話だと思いますので、どうぞ無視してください。


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銀行の「口座維持手数料」徴収は功を奏するか?

■「口座維持手数料」は誰から取るべきか?

 年末に3大メガバンクが「口座維持手数料」を徴収する可能性があるという驚きの報道があった。
 昨年の2月に『「貸し金庫業者」となった日本の銀行』というブログ記事を書き、最後に「貸金庫料も請求されるかもしれない」と締めくくったが、実際にその通りになってしまう可能性が極めて高くなってきた。

 3大メガバンクがこのような策を講じる理由は、1にも2にもマイナス金利の悪影響に尽きると思うが、この「口座維持手数料」というものは、預金額の高い人から累進的に徴収するのか、それとも預金額の少ない人から徴収するのかで大きな違いが生じると思う。

 海外の銀行では専ら、預金額の少ない人や口座利用の無い人から口座管理手数料を徴収しているので、これに準じるなら後者になる可能性が高い。例えば、預金額が0に近く、給料の出し入れだけに銀行口座を利用しているような顧客の場合、銀行にとってもあまりメリットが無いので、そういった口座を無くすことでコスト削減を狙っているのかもしれない。

■「口座維持手数料」を徴収するのであればサービスも改善するべき

 報道では、「口座維持手数料を徴収していないのは日本だけ」ということが書かれてあったが、海外の銀行の場合、自行のATM手数料は無料の場合が多く、休日も営業している場合が多いので、その辺の利便性も比較しないとフェアではない。

 100万円を1年間定期預金しても金利が100円という現在の銀行は、国民にとっては、お金を安全に管理してくれる「金庫」という認識が一般的だと思う。しかし、その「金庫」の管理料が発生するとなると、これまで複数の預金口座を持っていた人は、1つの預金口座に絞ることを真っ先に考えるだろう。しかし、日本の銀行はペイオフ制度で、1000万円以上のお金を預けると安全が担保されなくなるので、どうしても複数の口座で管理せざるを得ないという事情がある。
 では、どうするか? 1つの手段は、ペイオフと無関係で、口座管理手数料もかからない証券口座に入金する人が増えると思う。そうなると、株式バブルが発生するかもしれない。

 逆に少額預金者から徴収するという世界共通のスタイルにすると、銀行の預金離れに拍車がかかると思う。企業の給料支払いは本当に現金手渡しになっていく可能性もある。

 100万円の普通預金が1年間で10円しか付かないのに、毎月、100円の手数料を支払ってATMで出金しているような人は、年間1200円もの手数料を支払っていることになる。その差、なんと120倍、そこに追い打ちをかけるかのように「口座維持手数料」徴収では「高利貸し」と言われて逃げられても仕方がないような気がする。

■2018年版の金融ビッグバンの是非

 銀行にはバブル崩壊に繋がったと噂される「BIS規制」というものがあり、銀行は貸し出す金額の8%の資産を持っていなければならないということになっている。簡単に言えば、8万円の資金があれば、100万円の資金を貸し出せるというものであるが、この信用創造システムは、金利が有ることで維持されてきた。

 例えば、あなたが8万円の資金を持って、100万円の金貸しをすれば詐欺罪で御用となってしまうが、銀行ならノープロブレムになる。100万円を貸しても、8万円を徴収できれば損はしないという、ある意味で非常に恵まれたシステムだったわけだが、マイナス金利によって、そのシステムに問題が生じたため、改革を余儀無くされたというのがメガバンクならぬ全ての銀行が抱えた現状なのだろうと思う。
 そう考えると、ゆくゆくはメガバンクだけではなく、その他の銀行も護送船団方式よろしく、右向け右で「口座維持手数料」の徴収に乗り出す可能性は極めて高いと考えるべきかもしれない。

 この新たな金融ビッグバンは、どちらに転んでもあまり良い結果を招かないような予感がする。この問題をクリアする最善の方法は、「マイナス金利」を止めることなのかもしれない。

【関連記事】「貸し金庫業者」となった日本の銀行

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リベラル化しつつある「働き方改革」

■「楽をする改革」と思われている「働き方改革」

 最近、これまで以上に「働き方改革」という言葉を耳にする機会が多くなってきた。年明けからは様々な企業で経営者からの年頭の挨拶(訓示)がなされるが、おそらくこの「働き方改革」という言葉を使用する人は相当数いるのだろうと思う。
 しかし、現在この国で話されている「働き方改革」論議を観ていると、どうも単なる「楽をする改革」だと誤解している人が多いような気がする。
 「働き方改革」の目的は「労働生産性を上げること」が暗黙の了解事項だと思われるのだが、前提条件であるはずの「労働生産性」を全く考慮していないのではないか?と疑いたくなるような話もよく耳にする。

 例えば、「職場を綺麗にしなければいけない」とか、「残業時間はとにかく少なくしなければいけない」とか、「有給休暇はなるべく多く取得しなければいけない」という具合に、「〜しなければいけない」づくしになっている。
 確かにそういった理想を求めることは否定するべきものではないにしても、「労働生産性」とはほとんど関係がない…と言うよりも、逆に「労働生産性」を下げることに繋がる場合が多いと思われるのだが、そんなことはお構い無しに臆面もなく「働き方改悪」を語られている人がいる。
 そういう人達を観ていると、一昔前に「ゆとり教育」を礼賛していた評論家達とダブって見える。「楽ができればそれでいい」という結果を無視した無責任論が罷り通っており、非常に危うい感じがする。

■「本当の残業」と「居残り残業」の違い

 「残業時間」を例に挙げると、「残業」にもいろんな残業がある。本当に仕事が忙しい状態を意味した残業もあれば、ミスをしたことによる居残り残業もある。「本当の残業」と「居残り残業」は分けて考えなければいけない。その違いは以下のような会話スタイルで考えると分かり易いかもしれない。

 ●「本当の残業」の場合
   従業員「今日は仕事が忙しいので残業します。」
   経営者「ああ、そうしてくれると助かるよ。」
   従業員「残業代を付けてもいいですか?」
   経営者「もちろん、そうしてくれ。」

 ●「居残り残業」の場合
   従業員「今日はミスをしてしまったので残業します。」
   経営者「ああ、そうしてくれ。」
   従業員「残業代を付けてもいいですか?」
   経営者「えっ!?………」

 自分自身が仕事をミスして損失を出したのであれば、普通は以下のような会話になると思う。

  従業員「今日はミスをしてしまったので残業します。」
  経営者「ああ、そうしてくれ。」
  従業員「残業代はいりません。」
  経営者「そうか、頑張ってくれ。」

 残業には、会社にとって「プラスになる残業」と「マイナスになる残業」がある。ミスの有無はもとより、その人の能力によっても「プラスになる残業」と「マイナスになる残業」がある。
 そういった違いがあるのに、その違いを全く考慮せずに、全ての残業時間を減らすという名目のもとに「働き方改革」を進めると、以下のようになってしまうかもしれない。

  従業員「今日はミスをしましたが残業はしません。」
  経営者「えっ!?、いや、残業してくれないと困るよ。」
  従業員「では、残業代を請求させていただきます。」
  経営者「・・・・・・・・・・」

■「労働生産性」を無視するべからず

 上記の例でも解る通り、全ての残業時間を減らすというのは誰が考えてもおかしいわけで、なぜおかしいのかと言えば、仕事における「責任」というものがスッポリと抜け落ちているからだと言える。ノルマを果たした上での残業と、損害を出した場合の残業は全く違う。
 かつての社会保険庁を例に言えば、まともに働いている場合の残業と、デタラメな仕事をした場合の残業は違うということ。デタラメな仕事をして膨大な税金の無駄遣いをした挙げ句、なおかつ、その訂正作業に残業代を請求するというのは、自分で火をつけて自分で火を消しているようなものだ。そういう意味では「マッチポンプ残業」だと言える。

 そういった違いを分別考慮し、時間に囚われない当たり前の労働基準に改定すること。それが「多様な働き方」を認めた本当の「働き方改革」というものだろう。
 仕事が出来る人間も仕事ができない人間も皆同じ、仕事の早い人間も仕事が遅い人間も皆同じ、ノルマを果たした人間もミスをした人間も皆同じでは、結局、仕事ではなく“時間”だけに囚われていることになってしまう。日本企業の労働生産性が低い理由は、時間に縛られ過ぎていることに起因している。ゆえに、時間に囚われたままでは「労働生産性」は上がらず、逆に下がってしまう可能性の方が高い。

 如何なる「労働」にも当然の如く「責任」が伴う。その「責任」を考慮しない「働き方改革」に堕してしまうと「労働生産性」は下がらざるを得なくなる。
 政府が主導するからには「労働生産性」の向上というものを前提とした「働き方改革」でなければ意味が無い。もし、「ゆとり教育」のような「ゆとり労働」のみを目指しているのであれば「労働生産性」が下がることは間違いない。なぜなら、その改革は「責任を伴わない自由」に根ざしているからである。

 「無責任」という言葉は日本のリベラルの専売特許のようなものだが、リベラルの自由である「責任を伴わない自由」は、いつの間にか「働き方改革」にも浸食しつつあるのかもしれない。

(補足)この記事で述べた「ミス」とは、自分の給料分以上のミスを意味しています。

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「平等」と「公平」の経済学【日本の給与制度編】

■平等思想に根ざした「月給制」

 日本の多くの企業では、基本的に「月給制」が採用されている。「月給制」とは、1ヶ月間の決められた労働時間内(残業時間は含まない)にどれだけの仕事をしてもしなくても結果は変わらないという制度である。
 その月の所定労働日数が20日間であろうと25日間であろうと結果は同じ、つまり、時間単位の労働価値が曖昧な制度とも言える。
 これに対し、時間給制(パートタイム制)というのは、時間単位の労働価値がはっきりと定められた制度だと言える。8時間働けば8時間分の労働価値(=給料)が支払われる。20日間働けば20日分の給料が支払われ、25日間働けば25日分の給料が支払われる。残業時間もこれに倣っている。
 そう考えると、前者は「平等」、後者は「公平」に根ざしているとも言える。ミクロ的に見れば「時間給制」も「平等」に根ざしていると言えなくもないが、ここではマクロ的に見た考察を述べている。

■多義性を持った「給料が安い」という言葉

 時間給制で働いている人が言う「給料が安い」は、概ね自らの仕事の質量に対する評価を意味したものになるが、月給制で働いている人の言う「給料が安い」は、仕事の質量ではなく、他者との比較を意味したものに成りがちで、実際にそういった光景を目の当たりにすることもある。

 例えば、1ヶ月間に25万円分の仕事をこなして20万円の給料をもらっている人【A】と、1ヶ月間に10万円の仕事をして15万円の給料をもらっている人【B】がいたとすれば、この両者のどちらが「給料が安い」と言えるだろうか?

 仕事の質量に関係なく額面だけで判断すれば、15万円の給料をもらっている【B】よりも、20万円の給料をもらっている【A】の方が「給料が高い」ことにはなる。しかし、本来、給料の高低は、仕事の質量というものを抜きにしては考えられないものである。
 【B】が言う「給料が安い」は、あくまでも【A】との比較においての「安い」であり、【A】の言う「給料が安い」は、自らの仕事の質量においての「安い」を意味することになる。

 「給料が安い」という言葉には、多義性があり、一義牲で受け取ることができない代物だが、なぜか日本では「給料が安い」という言葉は、仕事の質量はあまり考慮されず、字義通り、給料の額面だけでの判断に成りがちだ。その原因は「月給制」というものが、「平等」思想に根ざしているからである。

■「年功序列給与制」は有り難い制度か?

 前述の例の場合、【A】が「給料が安い」というのはその通りかもしれないが、【A】から見れば【B】の「給料は高い」。25万円分の仕事をして20万円の評価(80%)をされている人と、10万円の仕事をして15万円の評価(150%)をされている人のどちらが高給取りかと言えば、考えるまでもなく【B】である。【B】は【A】の2倍近い高給取りだと言える。この当たり前のことが、平等思想が根付いた空間では、当たり前で無くなってしまう。

 日本のサラリーマン社会において、「給料が安い」と言うべきなのは【A】なのだが、実際は声の大きい【B】に属する人々が「給料が安い」と言ってきた。
 【A】は【B】の仕事の足らざるを補ってきたにも拘らず、スポットライトはいつも声の大きい【B】に当たってきた。

 年々、給料が少しずつ上がる年功序列給与制というものも、【B】にとっては有り難い制度でも、【A】にとっては有難迷惑な制度だということも無視され続けてきた。

 例えば、初任給20万円で年々5千円ずつ昇給する給与制度であったとすれば、40年勤めれば40万円ということになるが、初めから40万円以上の仕事ができる人であれば、全く意味を為さない有難迷惑な制度になってしまう。しかし、元々20万円の仕事しかできない人が年々給料が上がって遂には40万円になるのであれば、これほど都合の良い給与制度もない。

 正社員の年功給与制を外から否定する向きもあるが、実のところ、正社員の中にも年功給与制を否定したい人は大勢いる。昔から正社員の年功給与制は、全ての正社員にとって有り難い制度とは言えなかったのだが、この辺の声も全く無いものとして扱われてきたフシがある。
 なぜそうなったのかと言えば、戦後の日本社会が「公平」よりも「平等」に重きを置いてきたからに他ならない。

 なお、本記事は「終身雇用制」は無いものとして述べています。
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コンテンツビジネスは「奉仕ビジネス」と化している

■ますますデフレ化が進むコンテンツビジネス
 
 先月から「TSUTAYAプレミアム」なるものが開始された。今更、説明するまでもないかもしれないが、一応、書いておくと、【月額1,000円で旧作DVD借り放題&ネットで旧作動画配信見放題】というサービス。

 コンテンツビジネスにおける低料金化(デフレ化)の波はとどまることを知らず、ここ数年でますます加速化しつつある。しかし、エンタメ系のコンテンツビジネスの進化は、消費者にこの上ない利便性を与える反面、消費者の使用するお金の量がどんどん減少するという諸刃の剣を抱えている。ネット社会に功罪は付き物だが、現在のような、お金が動かなくなりつつあるインターネット経済は、「功」よりも「罪」の比率の方が大きくなってきているような気がしないでもない。

 かくゆう私も、最近、アマゾンのプライム会員になり、フルHD対応になったKindleタブレット(FireHD10)を購入した。当初の目的は、電子書籍でしか読めない本を入手するためだったが、実際に使用してみると、付随サービスであるプライムビデオの便利さに圧倒されてしまった。パソコンディスプレイでも観ることができるが、タブレット用アームを取り付ければ、横になって寝ながらでも映画が観れるので、非常に便利だ。

 私の場合、年間に100本以上の映画を観るので、本当にすぐに観たい映画は映画館で観て、あとはDVDレンタル(新作)で観るようにしている。そのため、Hulu、NETFLIX、U-NEXT、プライムビデオ等のVOD(ビデオ・オン・デマンド)は、新作であれば追加料金が発生するので特に必要性を感じていなかった。しかし、レンタルし損なった旧作等については、わざわざ旧作をレンタルせずとも、プライムビデオで観ることができる商品が意外にも多いことが判った。昔に観て、もう1度観たいような映画や名場面シーンもデータベース感覚で観ることができるので重宝する。月額325円(年換算)で多くの旧作が観れるとなると、レンタルDVD店の旧作の価値は限りなく低下していかざるを得なくなる。

 そういった現状を鑑みて、アナログ世代もデジタル世代も取り込める「TSUTAYAプレミアム」のようなサービスが誕生したのかもしれないが、大画面・大音響の映画館で観たいとか、新作DVDをすぐに観たいという欲を持たない人であれば、映像系のエンタメ消費は限りなく無料に近い料金で楽しむことができるようになっている。これはもう、コストパフォーマンスが良いとかいうレベルの話ではなく、ほとんど奉仕ビジネスに近いとも言える。

 ちなみに、アマゾンのプライム会員は日本では全会員数の20%にも満たないらしいが、アメリカでは60%以上の人が加入している。料金も日本では年間3,900円だが、アメリカでは年間99ドル(1ドル113円で計算すると11,187円)もするらしい。
 こうやって比較してみると、アメリカの料金が高いと言うよりも、日本の料金が安過ぎるのだと思われる。ひょっとすると、プライム会員数が伸びないがゆえに、破格的な低料金のまま据え置かれているのかもしれない。日本のプライム加入者数が増加するに従って、プライム会員費も値上がりしていくのかもしれない。(プライム会員が増えれば増えるほど赤字になるという意味)

■インターネット技術とベーシックインカム制度の親和性

 映画館の客がレンタルビデオ店に奪われ、レンタルビデオ店の客がVOD配信企業に奪われる。それは時代の趨勢と言えなくもないが、1人の人間が一生に観れる映画本数には限りがあるので、コンテンツ自体が膨大な数に膨れ上がれば、旧い情報としての旧作コンテンツの価値が低下していくことは避けられない。1日に1本の映画を観たとしても、一生に内にせいぜい3万本観るのが限界だろうから、物理的にも世に出回っている映画のほんの一部しか観ることはできない。価値が高くなるのは、製作されたばかりの新作と、評価の定まった名作ぐらいのもので、その他は、情報の洪水の中に埋もれたまま、多くの人の目に触れることもなく放置されることになる。

 しかし、この問題の着眼すべき点は、そういった時代の栄枯盛衰ではなく、始めに書いた通り“お金が動かなくなってきていること”だと思う。インターネット技術の進歩は、当初の予想を遥かに超えて社会に急速な変化を齎しつつあり、多くの人々はその逆らいようのない巨大な波に呑み込まれている。
 最近、インターネットという怪物が巨大化した時のための保険的な緩衝材として、ベーシックインカム的な経済システムがまず存在するべきだったのかもしれないなと思う時がある。ベーシックインカム制度については、8年前にもブログ記事を書いたことがあるが、ここ数年の価格破壊ビジネスの台頭や、コピー商品が出回るアングラ経済の様相を見るにつけ、実際に必要な時代に既に突入しているのかもしれないという感じが強くなってきた。

 技術の進歩とともに、お金がどんどん動かなくなるのであれば、人々はこれからの将来、どうやってお金を稼いで生活していけるのだろうか?と考えざるを得ない。インターネット社会はデフレ社会の定義と同様、消費者にとっては天国かもしれないが、生産者にとっては地獄とも言える。一部の富裕層や年金生活者を除き、多くの人々は消費者であると同時に生産者でもある。その微妙なバランスの上に現在の経済(多くの人々の生活)が成り立っていることを考えると、急速な技術の進歩やサービスの無料化を手放しで喜んでばかりはいられないのではないか?と思えてしまう。お金が動かなければ雇用も生まれないという厳然たる事実にもっと目を向けて然るべき時代ではないかと思う。

 日本の政治家達には、国民の生活や幸福に全く寄与しない政治家同士の足の引っ張り合いを止めて、もっと将来を見据えた経済システムの構築に目を向け、経世済民的な視点を持って政治活動に精を出していただきたいものだ。
 それにしても、これだけ消費量が減退していく時代に、なおも消費税を上げるなどというのは、向かうべき方向性が全く見えていないと言わざるを得ない。


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日本の株式市場はバブルなのか?

■「空売り天国」から「空売り地獄」へ

 昨年の夏、日本の株式市場の空売り比率が40%を超えて、空前の50%に近付いているという記事を書いたことがあるが、トランプ氏が大統領になると決まってからは、アメリカだけでなく日本も、これといった調整もないまま、一本調子でうなぎ登りに株価は上昇してきた。
 昨年の11月、トランプ氏が大統領に選ばれた時には、「NYダウは2万ドルに向かう」という予測を書いたが、実際に大統領に就任した時点で、あっさりと2万ドルを突破し、現在、2万3000ドルを超えている。

 昨年の「空売り天国」から一転、今年は「空売り地獄」とも呼べるような株価上昇が続いているとも言えるが、株式投資(投機)で最も恐いのは「空売り」だ。
 現物で株を買っている分には、株価が0になることはあってもマイナスになることはない。しかし、空売りの場合、株価が青天井になった場合、どんどんと損失が膨らみ、場合によっては借金を抱えることになってしまう。特に新興市場の人気銘柄等は、株価が10倍とか20倍になることもあるので、そのまま放置すると、10倍、20倍の借金を背負うことになる。
 昔から世間でよく言われる「株で破産した」というのは、そういう「空売り」(信用取引)の危険性を言い表したものだと思われるので、かなりの誇張が入っていると言える。

■NYダウは3万ドルに向かう

 マスコミでは、トランプ大統領の実像はあまり伝えられていないが、トランプ大統領は確りとした減税路線を打ち出しており、経済にも極めて明るいタイプの人物だと言える。有言実行力と国民の支持が伴えば、株価が上昇することは明らかなので、このまま行けば、トランプ大統領在任中に3万ドルを突破すると言っても言い過ぎにはならないと思う。
 日本でも、民主党時代から株価が2倍になったわけだから、アメリカでも、民主党のオバマ時代の2倍になっても別段、不思議でもない。

 しかし、これも以前の記事で書いたことだが、地政学的リスクがあるため、大きな調整が入ることは十分に考えられる。今年から来年にかけて、北朝鮮有事が起これば、一時的に大きな調整が入ることは避けられない。
 ただ、先日の米中会談を観た限りでは、少し様相が変わりつつあるようにも感じられた。中国がアメリカ寄りになったことを金正恩がどう思っているのか定かではないが、たとえ中国側のブラフであったとしても、見かけ上、北朝鮮包囲網がより完全になったことは間違いないので、先読み判断がより難しくなってきたと言える。

 北朝鮮からミサイルが飛んできた夏頃に手持ちの株式を一旦処分した人も多いと思われるので、結果的にかなり儲け損なった人も多いのかもしれない。まさか、これだけ地政学的にリスキーな時期に、バブルの如く株価が上昇し続けるとは予想できなかった。

■日本の株価はアメリカ次第

 現在の株価上昇は「官製相場」とも言われているが、日本の株式市場は株価収益率(PER)的にも、まだバブルとは呼べない水準なので、アメリカの株式市場次第では、まだまだ上昇する余地はあると思われる。
 一昨年に読んだ藤野英人氏の『日本株は、バブルではない』には、日経平均2万円の心理的節目について書かれていたが、現在は、確かにバブルではないという実感が多くの投資家に浸透しつつあるように思う。

 昨年まで、日経平均株価が2万円以上になるというような大胆な予測をしているエコノミストはほとんどいなかったが、このままいくと、楽観論の大御所、長谷川慶太郎氏の「2万5000円超え」もまんざらでもなくなってきたと言える。

 しかし、なんといっても、日本の株価は、結局、アメリカ次第かもしれない。現在のところ、今年のNYダウの最高値は11月7日につけた23,452ドルだが、日本もそれに倣うかのように(超えないように?)11月9日に23,382円で下落に転じている。ドルと円なので単位も価値も違うのだが、“日本はアメリカの数値を超えてはいけない”という暗黙の了解(忖度)でもあるのではないか?と疑いたくなる。この奇妙な一致は偶然なのだろうか?



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憲法論議をもっとシンプルに。

■「憲法」を守ることは、なぜ重要なのか?

 この度の衆議院選挙では「立憲」という言葉を使用する政党も現れたので、憲法論議がこれまで以上に盛んになりそうな気がする。しかし、元々、憲法というものに関心を持っていない世間一般の人々は、「立憲」などという小難しい言葉を聞いても何のことか分からないのではないかと思う。
 「立憲」とは「憲法に立脚する」の短縮語だが、「立憲主義がどうのこうの…」と言われても、自分達とは別世界の話だと思って馬耳東風で聞き流してしまう人も大勢いるのではないだろうか。こういったあまり馴染みのないアカデミックな専門用語を使用せずに、もっとシンプルに憲法というものを考えた方が分かり易いかもしれない。

 周知の通り、日本には憲法を変えることを頑に拒否する人々がいる。世界でも例を見ないこのての人々は、なぜ、そこまで憲法を護持することに拘るのだろうか? この点をシンプルに考えてみよう。

 現代における「自由」とは、基本的には「国家権力からの自由」を意味している。そして、国家権力から個人の自由を保証するために憲法がある。それゆえにこそ、憲法を守ることは重要と成り得るのだが、この国で行われている憲法論議は、「個人の自由を保証することの重要性」はそっちのけで、ただ単に、憲法を変えるか変えないかというような方法論的な話だけが論じられる傾向にある。

 憲法がなぜ重要なのかと言えば、非力な個人を強大な国家権力から守ってくれる決まり事が書かれているからだ(注:字義通りに書かれているわけではない)。国家権力が暴走し、好き勝手に財産を没収されたり、恣意的に拘束されたり逮捕されたりするようなことを防ぐために憲法は存在している。だからこそ、憲法は国民が主導して、より良いものに変えていくことが必要となる。そのより良きものに変化していく過程において民意を体現した憲法になるからこそ、それを守ることが重要となる。

■「憲法」はコンピューターのOSのようなもの

 少し喩え話をしよう。コンピューターの基本OSは、時代や環境の変化とともに、どんどん便利に進化していくが、時にバグが発生したり、より非効率になったりすることがある。その場合、次のOSにアップデートする時に、非効率だった部分に改良が加えられる。ユーザーから「不便になった」という声があがれば、その要望を聞き入れて、改良を加える。それがユーザーの利便性を考慮した対応というものだ。
 もしそこで、「たとえ非効率になっても、一度、決まったものは変えることができません」というようなことであれば、ユーザーから苦情が出るはずだ。「改悪されて不自由になった部分をなんとかして欲しい」と。その意見が多くのユーザーの真の願いであるならば迷わず変更する、それが民意を反映するということである。

 憲法もある意味、OSと同じであり、国民が不自由だと思っている部分は時代とともに変えていかなければいけない。もはやインターネットを利用できなくなっているようなWindows95MacOS8をいつまでも使い続けなくてはならないということであれば、誰もが不満を抱えて文句を言うはずだ。

 例えば、「北朝鮮の軍事的脅威が我々の生活を不自由にしている」ということであれば、その不自由を齎しているシステムを部分的に変えるように努力する。それが政府の仕事であり役割でもある。そういった不断の努力によって更新を重ね、現在進行形でブラッシュアップされていく憲法を守っていく姿勢こそが重要なのであり、一切、更新もせず民意が反映されない旧いままの憲法を、神様が創った十戒の如く護っていくことが重要なのではない。こんなことは、少し考えれば誰にでも解ることだと思う。

■屈折した「国家権力からの自由」とは?

 先に「憲法は国家権力からの自由を保証するためにある」と書いた。この言葉における「自由」とは普通の一般人には当たり前の自由だが、国家権力を良しと思っていない人々には、全く毛色の違った「屈折した自由」に変化する。
 例えば、テロリストのような人々の場合は、テロを起こすためには国家権力が邪魔になるので、「不完全な憲法こそが国家権力から我が身を守る最大の武器」になってしまうことになる。現在の日本国憲法は国家権力を縛り過ぎているため、テロリスト達にとっては都合が良いということになる。だから、旧いままの憲法を護持することに全精力を傾ける。国家を打倒し、革命を起こそうと夢想しているような勢力にとっては、憲法を変えられて国家権力(警察や軍隊)に力を付けられては困るので、現状の憲法を護ることが至上命題になってしまう。
 そもそも憲法というものは国家が有って初めて機能するものなので、国家を破壊することを目的としている人々が憲法を護るということ自体、矛盾していると言える。
 
 正しい憲法であるか、間違った憲法であるか、あるいは、完璧な憲法であるか、不完全な憲法であるかによって「立憲主義」というものは全く違ったものに変化してしまう。「憲法に立脚する」ことが無条件に正しいのではなく、立脚するべき憲法を民意によって正すことこそが重要なのである。

 憲法というものは国家権力を縛るものであるが、その「縛る」という行為も人によっては認識が異なるものであり、憲法を変えるというごく当たり前のことが、ある人々にとっては、絶対に譲ることのできない代物と化してしまう。
 しかし、憲法が大多数の善良な国民のために存在するのであれば、一部の人間の革命思想のために利用されることは避けなければならない。一部の人間が「国家権力からの自由」を盾にして、どれだけ憲法を変えることに反対したとしても、大多数の国民が憲法をより良く変えることを望んでいるのであれば、憲法を変えることこそが正義と成り得る。なぜなら、それが真の民意だからである。

(注)文中、「守る」と「護る」を使い分けています。
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タイタニック(民進党)と氷山(希望の党)の喩え話

■「希望の党」が「失望の党」になった原因

 大方の予想通り、「希望の党」は「失望の党」になってしまったようだが、小池氏自身、これほどまでの痛手を被るとは予想だにしていなかったのではないかと思う。
 その敗因は準備期間というものが絶望的に足りなかったことも大きく関係していると思われる。そう考えると、上手い具合に、その隙を突かれたということなのかもしれない。権謀術数に長けた政治家のことだから、充分に考えられる。
 あくまでも想像だが、東京都知事選・東京都議選における小池百合子氏の人気の高さに恐れをなした自民党は、小池氏が新党を立ち上げる前に解散総選挙に打って出た。ちょうど、北朝鮮問題が騒がれ出した時期でもあったので、一石二鳥とばかりに先手を打って賭けに出たというのが、自民党の戦略だったのかもしれない。(もちろん、メインは北朝鮮問題だが)

 しかし、先手を打たれた小池氏も黙って見ているわけにもいかず、急ごしらえで「希望の党」を立ち上げた。しかしながら、意表を突かれた上での結党だったせいもあり、人員的にも政策的にもてんでバラバラでまとまりが無く、ポピュリズム丸出しの寄せ集め政策であることが裏目に出て、有権者からそっぽを向かれ惨敗に喫した。焦りが生じて感情的になり、踏み越えるべき順序を誤ったことが最大の敗因だったと言えるだろうか。

■「政治は小説よりも奇なり」【氷山に救われたタイタニック】

 つい先日まで、誰が見ても泥舟と化していた民進党は、藁にも縋る気持ちで「希望の党」に飛び付いた。しかし、リベラル政党(?)である民進党をそのまま吸収するわけにはいかないので、民進党員は思想的な篩いにかけられた。その篩いの上に残った者が「希望の党」に、篩いの下に転落した者は「立憲民主党」に吸収されることになった。

 タイタニックと化していた民進党の前に出現した小池氏率いる「希望の党」は、まさに「氷山」そのものだった。タイタニックを真っ二つに割り、一方が沈んで一方が残る、これで民進党は「改憲派」と「護憲派」に分かれ、「改憲派」のみが沈まずに生き残るはずだった。

 しかし、運命の悪戯か、その氷山はタイタニックの前に出現したのではなく、タイタニックを持ち上げる形で下から姿を現したため、タイタニックは真っ二つに割れたものの、どちらも氷山の上に残ってしまった。海上ではなく氷上であるため、今のところ身動きはできないが、氷山のお陰で海の底に沈むことは避けられた。この氷山が溶ける前に、真っ二つに割れたタイタニックを修理する人が出現すれば、タイタニックは再び、沈まぬ泥船として海上を進むことになるかもしれない。

 泥舟を沈めるために出現したかに見えた「氷山」は、皮肉なことに泥舟を助けることになってしまった。そう、まさに「希望の党」とは、国民ではなく「民進党」にとっての「希望」だったのである。

 「政治は小説よりも奇なり」、今回の総選挙で起こった出来事は、おそらく誰にも(自民党にも)想像できなかったに違いない。


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「嘘も百回言えば真実になる」のはなぜか?

■「社会主義現代化強国」=「情報統制独裁国」

 第19回中国共産党大会において、習近平氏は2050年までに「社会主義現代化強国の建設を目指す」と語った。中国は文化統制を強化する姿勢も強めており、ネットの検索規制も強化している。中国ではグーグルだけでなくヤフーの検索も利用できなくなったことも大きな問題になっており、情報統制がこれまでになく強化される国になっていくということなのかもしれない。

 人間が正しさを認識するためには、考え方(思想)の両極端を知る必要がある。極右を知り、極左を知れば、その中間が分かる。しかし、その両極端を知ることができなければ、人は何が正しくて何が間違っているのかということを判断できなくなる。
 それが真実であることは現在の北朝鮮や、かつてのオウムのようなカルト教を観ればよく解る。僅かな範囲の情報や思想しか知ることができない人々は、ものの見事に洗脳されてしまう。何が正しいか、何が間違っているのかが分からない環境下に置かれているからである。

■「朱に交われば赤くなる」原理

 では日本はどうだろう。戦後のGHQの洗脳プログラムによって、右側の思想をシャットアウトされ、左側の思想ばかりが伝播された戦後の日本も、やはり同じように何が正しくて、何が間違っているのかが分かりづらい国になってしまったと言える。
 戦後の新聞やテレビは総じて左側だったので、インターネットの無い時代は、一部の読書家でしか右側の保守的な思想に触れることができなかった。
 左側の思想という限られた範囲内で、正しさを判断しなければならないので、どちらに転んでも、左側が正しいということになってしまう。保守は存在せず、リベラルと左翼のどちらが正しいか?という狭い範囲で善悪を判断しなければならない場合、どちらも正しくない場合でもリベラルが正しいということになってしまう。

 人は、たとえ興味が無いことであっても、繰り返し聞かされることにより、自然と覚えてしまうという特性を持っている。例えば、興味のないアーティストの音楽であっても、毎日観ているテレビ番組のバックグラウンドミュージックで流れていれば、その曲を自然と覚えてしまい、自然と口ずさみ、興味を持つに至ることがある。これなども、一種の洗脳の原理が機能している証拠であり、潜在意識に繰り返し同じ曲や言葉が刷り込まれると、気付かないうちに、その曲や言葉が、自分の思想の一部になってしまうことがある。

 「嘘も百回言えば真実になる」という言葉の通り、当初は、たとえフェイクニュースであると分かっていたとしても、何度も何度もフェイクニュースが流され、それを聞いているうちに、知らず知らずのうちに、そのフェイクニュースの影響を受けることになる。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と言うが、しっかりとした善悪観を持っている人でないと、「ミイラ取りがミイラになる」や「朱に交われば赤くなる」ということになってしまう。

■「情報の解放」が「情報を濾過」する役目を果たす

 卑近な例で言えば、悲観的な言葉ばかりを使用する両親に育てられた子供は、自然と悲観的な言葉が心にインプットされ、悲観的な人間に成長してしまうことがある。間違ったことばかり言っている両親であっても、これは同じであり、「日本は悪い国だった」という戦後教育もこれに準じている。

 真実の情報を流さずに嘘の情報ばかりが流れるメディアというものは、ある意味、汚染された水を海に流す工場のようなものであり、その汚染された海から得た情報は人間の精神性を破壊する毒にも成り得る。そういった毒水を飲み過ぎて思想的な病を発症した人々は、今度は自ら毒水をまき散らし、無意識的に社会を蝕んでいく手伝いをすることになる。

 「情報統制」とは、工場から流れる汚染水を取り締まることなく、流し続けるようなものだと言える。つまり、「情報の統制」とは、裏を返せば「汚染水の解放」に他ならないのである。「汚染水」を規制したくば、「情報の解放」を行い「情報を濾過」しなければならない。
 「情報の濾過」こそが嘘情報から身を守り、正しい社会を築くための処方箋になると考えれば、中国の行っていることは真逆の政策ということになる。


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