経済・政治・国際

「北を挑発するべきではない」という詭弁

■「話し合いに応じるべき」は北朝鮮のみ

 緊迫感が増している米朝問題を前にして、「北朝鮮を挑発(刺激)するべきではない」という意見をよく耳にするようになってきた。「あくまでも話し合いで解決するべきだ」という意見も多いが、北朝鮮以外の国はこぞって話し合いに応じる柔軟な姿勢は崩していない。アメリカにしても「話し合いは金正恩氏の決断しだいだ」と述べている。話し合いを拒否しているのは、独り、北朝鮮のみなのだが、そのことについての言及があまりにも乏しく感じられる。

 現状において、国内の評論家や学者が言うべきは、「北を挑発するべきではない」ではなく、「北は話し合いに応じるべき」であるはずだが、いつの間にか、主語が入れ替わってしまっている。「日本はどうするべき」とか、「アメリカはどうするべき」というのは、論点がズレていると言わざるを得ない。

 毎度言うように、これは、ヤクザに対する姿勢とそっくり同じだと言える。ヤクザに脅されている庶民が、「ヤクザを挑発(刺激)するべきではない」と言っている姿とほとんど変わらない。
 「話し合いで解決するべきだ」というのは、他の誰でもない「(ヤクザは)話し合いで解決するべきだ」ということであり、「(庶民が)話し合いで解決するべきだ」では意味を為していないし、何の解決策にもならない。

■現代の「人質篭城事件」

 現在の北朝鮮は、ある意味、人質を取って篭城している連合赤軍のようなものであり、1つ大きく違うところは、立て篭った建物内で殺傷兵器を製造しているというところだ。通常の立て篭り事件と違い、兵糧攻めによる時間稼ぎが必ずしも功を奏すとは限らず、兵糧が尽きる前に、その殺傷兵器が完成してしまえば、皮肉なことに、その建物を包囲している警官達も逃げざるを得なくなるという危険性も同時進行中だ。

 テレビの刑事ドラマのように、ある者はこう言う。

 「甚大な被害が出る前に犯人を狙撃するべきだ

 しかし、ある者はこう言う。

 「犯人を挑発(刺激)するべきではない

 トランプ氏はこう言っている。

 「もし、警官に向かって発砲するような真似をすれば、突入する

 これに対して金正恩はこう述べている。

 「愚かな警察の行動をもう少し見守る

 まさに、「人質篭城事件」の様相を呈していると言えるが、ここでもう1度、先に述べた言葉を思い出してみよう。

 「北を挑発するべきではない

 この言葉が如何にズレた意見かが分かると思う。

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北朝鮮の核保有が認められない理由

■「唯物無神論無法独裁国家」の危険性

 昨晩、録画しておいた「朝まで生テレビ」を観てみた。ウーマンラッシュアワーの村本大輔氏が出演していたのは意外だったが、最近はゲスト席へのインタビュー等が無くなったので、世間一般の国民の代表者(?)的な意見を中間に用意したと考えれば、なかなか新鮮な試みだったのかもしれない。

 番組の中で「北朝鮮の核保有を認めるか否か?」というような話があった。他国の核保有を容認しているのだから、北朝鮮の核保有も認めるべきというような話が出て驚いた。

 「他国の核保有を容認しているのだから、北朝鮮の核保有も認めるべき

 一聴すると、もっともな話に聞こえるかもしれないが、これは無理な相談だと言える。その理由を書いてみようと思う。

 他の先進国が核武装しているのに、なぜ北朝鮮が核武装することがいけいないのか? それは、先進国や後進国であるという理由ではなく、なにをしでかすか分からない国だからというのが第一の理由だと言える。
 まずは、法治国家ではないということと、唯物無神論国家であるところが大きい。要するに、善悪の基準というものが曖昧であり、精神的に自らを律するものが存在しない国であるところが、世界の常識人からは極めて大きなリスクに映るからである。

 欧米の先進国はもとより、日本でも昔から「悪いことをすれば地獄に堕ちる」とか言われる。現在はどうか知らないが、子供の頃からそういった話を聞き、少なからず、宗教的な善悪を理解する環境が自然と出来上がっているが、北朝鮮のような共産主義国家にはそういったものは一切無い。

■「核兵器」という危険な玩具

 大抵の日本人は、法律以前に、悪いことをすれば裁きがあることを知っている。法律に書かれていまいが、人を殺めることや傷付けることはいけないことであり、良心が咎めることであることも知っている。
 思想統制によって、そういった当たり前の感情を失っているということがどれほど恐ろしいことであるかを考える必要がある。

 「神」という存在の認識が無い共産主義国家では、「誰も見ていなければ、何をしても構わない」という精神が芽生える。殺人を犯そうが、人を傷付けようが、物品を盗もうが、誰も見ていなければ(見つからなければ)何をしても構わないという発想は、幼児の発想そのものである。つまり、精神的に大人になっていないという意味で、危険な玩具(核兵器)を持たせることは御法度なのである。

 北朝鮮では無法者である「将軍様」が「神」であり、将軍様が「法」であり、将軍様に逆らえば無慈悲に殺される。そんな理不尽なことが罷り通っている幼児国家を、まともな良識が根付いた国と同列に扱えるはずがない。

 まともな精神を持った人間なら、大量殺人兵器である核兵器を使用するなどということはできない。そんなことをすれば、良心の呵責に耐えられず、自ら死を選ぶ人がほとんどだろうと思う。敬虔なキリスト教徒や仏教徒であれば、死後、地獄の業火に焼かれ、永遠の苦しみを背負うことになるかもしれないという前提知識を持っているので、そんな割りの合わないことはできなくなる。できるとすれば、狂気の大量殺人者が出現した場合、その悪を止める場合には許されるという確信がある時のみだ。

 トランプ大統領が金正恩をそういう目で見ているのだとすれば、起こらないと思われている戦争も、「正義」の名のもとに実際に起こる可能性がある。

【追記】2017.8.14
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>その一方で著者のいう『無神教だからダメ』というのも違うと思う。宗教にどっぷりというテロリストもいるし核兵器を持ったら使いうると思うから。

 北朝鮮が現在のような状況を招いているのは無神論国家であることも大きな原因だということです。カルト教に嵌ったテロリストがいることはその通りですが、それは物事(この場合は宗教)の一面を捉えているに過ぎません。

>じゃあ中国の核兵器はどうなのよ?

 無論、北朝鮮と同じです。

>北朝鮮が「共産主義だから無神論」と言うのが間違い。

 北朝鮮は基本的に唯物論であるマルクス主義を信奉している国なので、無神論です。

>それなら、法治国家で、敬虔なクリスチャンの米は、なぜ核を使用したんだ? 法治国家でなく、道徳規範も高そうに思えない中国はなぜ使用しないんだ?

 戦時中のアメリカは戦局的にも思想的にも特殊な事情がありましたし、人類史上初めてのことでもあったので、どれほどの悲惨な事態になるかということも、それほど考えていなかったのでしょう。今だからこそ、核兵器は悪魔の兵器と言えますが、戦時中は日本でも核兵器を開発していたという話もあるぐらいですから。
 中国が核ミサイルを使用するか使用しないかは未だ不明ですが、既に日本の各都市にも照準がセットされています。

>現在の地球上で最も無宗教化された社会は日本だと思うがな。
敗戦で「神風」が吹かないことが嫌というほど実証され、
戦後GHQの統治下では国家神道は全否定され、
アメリカ流合理主義を叩き込まれた。

 そうですね。戦後の2年間は日本を共産主義化するのがGHQの目的でしたから。しかし日本の場合は、戦前から資本主義や勤勉の精神が根付いていたので、完全に共産主義化することはありませんでした。その代わりに、あなたが言うところの「無宗教化された」国になりましたが。

>将軍様を「神」として崇めているのだとすれば、それは「無神論国家」ではなく「支配者神格化国家」とでもいうべきでしょう。

 目に見える「神」と、観念上の「神」は違います。目に見えるだけの独裁者を信仰の対象にすることは「無神論国家」であることの証です。

>神を信じてなくても、モラルは守れる。
モラルの大半は、共存のためのルールであり、その必要性を理解できるからだ。

 残念ながら、世界中でそんな話が通じるのは日本だけです。倫理観や道徳心は、頭で考えるだけで得られるものではありませんから。

>宗教がないではなく、良心がない国、と言うべきではないか?
神は信じなくとも、良心がある人はいるだろう。

 良心というものは、生まれつき備わっているものです。これを生得の智慧と呼びますが、良心の無いところに信仰や神などはありません。それが世界の常識です。

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『カエルの楽園』化している日本の政治

■『カエルの楽園』を読んで。

 今更ながら、百田尚樹氏の風刺寓話『カエルの楽園』を読んでみた。1年以上前から読もう、読もうと思っていたものの、後回し、後回しとなり、今頃になってしまった。私の場合、ノン・フィクション本や実用書を好んで読むタイプなので、このてのフィクション本は滅多に読まない。学生時代は主に小説等のフィクション本ばかり読んでいたが、大人になってからは、フィクション本はほとんど読まなくなった。(漫画は別)
 本書の前に読んだフィクション本が2007年に発売された橘 玲氏の『亜玖夢博士の経済入門』なので、実に10年ぶりのフィクション本となる。

 ちなみに、百田尚樹氏のベストセラー小説『永遠の0』や『海賊と呼ばれた男』も、映画では観たが小説は読んでいない。他の人気作家のミステリー小説なども時間の節約のために映像として観ることが多い。もちろん、小説には映画では描けない面白みがあることは承知しているが、分厚いフィクション小説は見ただけでゲップが出そうになるので、なかなか食指が動かない。

 前置きはこの辺にして本題に入ろう。本書にも、お約束のように以下の注意書きが書かれている。

 「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体等とは一切関係がありません。

 いつもは無味乾燥に思える注意書きも、本書ではピッタリ、マッチしている。この注意書きが無ければ、ノン・フィクションと言ってもおかしくないほどのシニカルな寓話だった。寓話と言うよりも予言書としての役割も持っていそうな本であり、クスクスと笑える内容でありながらも、実に重い警世の書でもある。本書が映像化されるのは難しそうなので、活字で読んで正解だったのかもしれない。

■政治家達の罵り合いは、さしずめ「学級会議」

 本書には何度も次のような台詞が登場する。

 「そうだ、そうだ、その通り!

 カエルが言うと愛嬌があるが、現在の日本の政治を観ても、同じような感じになっているな…と思えた。

 「あの政治家は失言したのでクビを切らねばなりません!」

 「そうだ、そうだ、その通り!

 という感じで、後先何も考えず、その場の空気と感情だけで物事を決めてしまう人々。そして、内心ではおかしいと思いつつも、そのことについて誰も異議を唱えない。なぜなら、異議を唱えると、今度はその人物が批判の対象にされるから。
 これはまさに「いじめ」の構図そのものであり、いじめを止めようとした人が、今度はいじめの標的になってしまうようなところは学校社会と実によく似ている。

 現代の日本の政治家達の罵り合い(揚げ足取り)を観ていると、まるで小中学生の学級会議での光景を彷彿とさせるものがある。誰かが悪口を言ったとか、誰かが給食費を盗んだとか、学業とはほとんど関係のないことで、「あーだ」「こーだ」と延々と言い争っているような姿がオーバーラップする。
 ここで、生徒達に対して「いいかげんにしなさい!」と注意する先生がいない。この場合、「先生」の役割を担うべきは、本来であれば「マスコミ」だが、その先生が率先して、「あーだ」「こーだ」と言って生徒達を引っ張っている(ミスリードしている)ような感じだろうか。

■『茹でガエルの失楽園』にならんことを…

 つい最近までは、「若者が右傾化した」などと言われていたが、最近の政治を観ていると、「国民が左傾化した」のではないか?と疑いたくなる時がある。声の大きな左傾化している人々ばかりがテレビに映されるので、そんな錯覚を感じるだけなのかもしれないが、いずれにしても、道理が通用せず、明らかに善悪が転倒しているような言論が罷り通っているような世の中に末恐ろしさを感じる時がある。その感情は本書を読んで感じた“やるせない憤り”と軌を一にしている。

 古今東西、予言書というものは、「このままいくとこうなりますよ」という警鐘を鳴らす役割を持っている。日本が百田氏の予言の通りにならないことを切に願うが、現在の政治を観ていると、そう安穏とはしていられないかもしれないな…と不安になる。

 もし、本書の通りの現実が訪れれば、本書は予言の書だったということで歴史に名を残す名著となるだろう。逆に本書の予言が回避されても、過去の日本はこんな具合だったという社会的寓話として歴史に名を残すことになるかもしれない。もう既に多くの人が読まれた後だと思うが、まだ未読の人には是非、読んでいただきたい(未来の)名作だ。

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「内閣支持率」の誤謬性【「支持率」が意味するもの】

■ニュアンスで変わる「内閣支持率」

あなたは現在の内閣を支持しますか?

 こう聞かれると、現状では誰もが素直に「支持する」と答えるのは難しいのではないかと思う。「支持する」と答えるためには、現内閣に特に懸念事項が無いことが条件になるが、これだけ連日のようにテレビや新聞で与党批判がなされていると、その情報の真偽に関係なく、「支持する」と即答できる人は少なくなる。

 そのことを証明するかのように、自民党の内閣支持率は30%を切るという事態になっている。しかし、ネットでの内閣支持率は未だ50%を保っており、両者間に20%以上もの大きな開きがあることが問題視されているようだ。
 個人的な肌感覚ではネットの世論調査の方がより現実に近い数値だと思えるのだが、30%という数値もガン無視するわけにはいかないので、少しこの件について考えてみよう。

 この「内閣支持率」というものは、一体、何を意味しているのだろうか? そして、その「支持率」は本当に信憑性があるものだろうか?

 「内閣支持率」とは、無作為に選ばれた有権者に回答を求める世論調査(アンケート)の結果を表したものということになっている。しかし、仮にその世論調査に信憑性が有ったとしても、「支持」という言葉自体が、その信憑性を担保できないものにしている。なぜなら、「内閣支持」という言葉に対して個々の有権者が捉えるニュアンスは異なっており、そのニュアンスの違いによって、結果も大きく変わってくるからだ。

 例えば、「内閣支持」の意味を次の2点のニュアンスで考えてみよう。

 A、「与党として相応しい政党」という意味

 B、「現内閣に不満は無い」という意味

 この場合、「A」も「B」も反対という人は「支持できない」となるが、「A」も「B」も賛成という人は「支持する」となる。では、「A」は支持できても「B」は支持できないという人はどうなるのか? ここに「内閣支持率」の誤謬が隠されているような気がするのは私だけだろうか?

■「内閣支持率」と「内閣満足率」

 「内閣支持率」を「内閣満足率」とすれば、どうなるかを考えてみよう。

あなたは現在の内閣に満足していますか?

 こんな世論調査をすれば、「内閣満足率」は「内閣支持率」以上に下がるのではないかと思う。1つでも不満(疑惑)があれば、「内閣満足率」は急降下し「内閣不満率」は急上昇することになる。
 しかしそれは、あくまでも「満足」か「不満足」かというアンケートであって、「与党に相応しい」か「与党に相応しくない」とは別の意味合いであることに注意しよう。言葉の違い、言葉の捉え方の違いでも結果は大きく違ってくる。

 同じように「内閣支持率」というのも、何をもって「支持する」のか、何をもって「支持しない」のかがよく分からない。言葉自体に具体性がなく、あまりにも抽象的な言葉であるがために、曖昧模糊な世論調査という印象は拭えない。

 ところで、リアルとネットの間での「内閣支持率」が大きく違ってくるのはなぜだろうか?
 リアルの世論調査は対象者が無作為に人選されるが、ネットの世論調査は、ネット民である時点で既に選別されている。「政治知識」という名のフィルターをかけた分、支持率に差が生まれる。その差が、20%ということなのだろう。
 
 支持率50%と支持率30%の違いとは、簡単に言えば、2人に1人の支持者がいるか、3人に1人の支持者がいるかの違いである。
 よく言われるように、自分から能動的に情報を取得しに行く人と、マスメディアからの情報を受動的に待っている人の間には、情報格差が有る。マスコミ自身がフィルターをかけた偏った情報と、玉石混淆ながらもマスコミのフィルターがかかっていない情報の差、20%という差が意味するものは、案外、そんなものなのかもしれない。

 主にテレビや新聞から情報を得ているような人は、与党のことは理解したつもりになっていても、野党のことはあまり知らないという側面がある。
 逆に主にインターネットで情報を仕入れているような人は、与党よりもむしろ、野党(の残念さ)にも詳しい人が多いので、現内閣には不満があっても消去法的に与党としては認めざるを得ないという人が多くなる。

 本当の世論を知るためには、曖昧な「内閣支持率」の高低よりも、むしろ、リアルとネットにおける「内閣支持率」のにこそ注目するべきだ。


【追記】2017.7.24
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>高支持率のときは何の疑問もなく受け入れるのに下がってきたら支持率調査はおかしいとか言い出すんだよな。

 私は自民党の全ての政策を容認しているわけではありませんので、間違った政治だと思われる場合は、高支持率も問題視するつもりです。実際、これまでにも自民党の政策批判は何度も行っています。表面的な支持率よりも政策の中身を批判するのが筋ですから。

>マスコミを敢えて色分けすれば、新聞・テレビの安倍政権応援団は読売と日本テレビ、反安倍は朝日とTBSと仮にしてみよう。全て同じような内閣支持率である。他の各社も同じ。但し、これらは全て電話調査である。唯一面接調査なのは時事通信で、こちらは30%割れで傾向は同じ。つまり、筆者の言っている事に説得力はなく、何が「自由人」だ、と言いたい。「偏向人」の称号を贈ろう!

 30%という数値を問題にしているのではなくて、その中身を問題視しているのです。30%という数値は信憑性があることは認めても、判断基準が曖昧過ぎると言っているのです。数値だけに目が奪われて、中身が見えなくなってしまえば、それこそが偏向であり何も考えていないのと同じです。

>これは・・・、統計やアンケートをまともにやったことのない人の意見ですね。質問の解釈にブレが生じても、サンプルの数が十分なら相殺されると考えるのが自然でしょう。

 繰り返しになりますが、数値はどうでもいいのです。統計などという高尚な学問的問題ではなく、どちらかというと、もっと俗な心理的な要素を含んだ問題だと述べているのです。

>いろいろと、筆者だけでなく、コメント欄でも盛り上がっていますが、新聞社などのマスコミによる支持率調査と、投票による実際の結果について、ある程度の相関性が見出されているからこそ、学者はいうに及ばず、政治生命の生き死にが掛かっている当事者も重要視するわけです。

 ある意味、株価と一緒ですね。実質的な価値を伴わなくてもイメージだけで騰がる株もあれば、実質的な価値を有していても下がる株がある。しかし、株は個人の問題なので美人投票でもいいのですが、国民全ての生活に直結する政治が美人投票になっては困ります。内閣支持率調査が政治家の真の実力を測る調査ではなく、単なるイメージ調査に成り下がったままでよいのですか?というのが本記事の主旨です。

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「断じて容認できない」という空念仏

■「金正恩の耳に念仏」
 
 相次ぐ北朝鮮からのミサイル発射という挑発行為に対しての日本政府の対応ぶりにはゲンナリ、それが多くの国民が内心抱いている率直な感想ではないだろうか。ミサイルが発射された時の政府の発表は、以下の通りで全く変わりばえしない。

 5/14 弾道ミサイル発射 高度2000km達成

 「断じて容認できない

 5/21 固体燃料を使用した中距離弾道ミサイル発射

 「断じて容認できない

 5/29 精密誘導システム搭載の弾道ミサイル発射
     日本の排他的経済水域内に落下

 「断じて容認できない

 毎度、念仏のように唱えられる「断じて容認できない」という言葉には、いいかげんにウンザリという人は多いと思う。念力ならぬ軍事力を持ったトランプ神父が言えば、効き目があるかもしれないが、軍事力を持たない(ことになっている)日本の似非坊主では、全く効き目がないことは明らかであり、「馬(金正恩)の耳に念仏」にしかなっていない。

■タイムリミットは100日後の「7月15日」

 4月6日から7日にかけて行われたトランプ大統領と習近平国家主席の米中会談において、トランプ氏が習近平氏に対して、北朝鮮問題の説得猶予期間を「100日間」と述べたことが既に明らかになっている。
 その会談後は少し大人しくなり効果があったのかと思いきや、5月になってからは、これまで以上に北朝鮮のミサイル発射が頻繁に行われるように変化してきており、非常に危なかしい空気が東アジアに充満しつつある。

 アメリカ側は、カール・ビンソン、ロナルド・レーガンに次いで、今度はニミッツと、3隻もの空母を出撃し、弾道ミサイルの迎撃テストまで実際に行っている。単なる脅しだけでここまでするのは不自然であり、北朝鮮を覆っている不穏な空気は、いつ爆発するか分からないような状況になってきつつある。

 北朝鮮をこのまま放置しておくと、近い内にアメリカ本土まで正確に到達する核ミサイルが完成してしまうことは、ほぼ確実視されている。それまでの間に北朝鮮問題にケリをつけることはアメリカにとっても至上命題であるため、北朝鮮が核兵器開発を止めない限り、アメリカとの軍事衝突は、どのみち必ず起こるとみて間違いない。仮に今回、無事に済んだとしても、せいぜい数年延びるかどうかの違いがあるだけだろう。
 中国からの北朝鮮への話し合いでケリがつくに越したことはないが、現状を観る限りでは、話し合いで解決できるとは到底思えない。

 アメリカが具体的な行動をとるまでの猶予期間が「100日間」だと考えると、4月6日から100日後は「7月15日」ということになるので、日本で言えば、7月15日から17日の3連休辺りが「Xデー」になる可能性はまんざら否定できない。

■「断じて容認できない」のは獅子身中の虫

 実質的には北朝鮮は既に詰んでいるわけであり、命綱としての核開発を止めることは、金政権の死を意味するので、亡命する逃げ道でも用意されない限り、悲惨な最期を迎える可能性が高いと言える。
 
 しかし、これまでに自国民を虫けらのように扱い殺害してきた独裁者に、逃げるなどという手段があるとは思えないし、いつ殺されてもおかしくないほどの悪業を背負っている人物でもあるので、どんな最期を迎えても、それは自業自得としか言いようがない。同情するべき相手は独裁者ではなく、「地上の地獄」に囚われている無辜の北朝鮮国民の方だろう。そこを間違えてはいけない。


 
 7月1●日 米軍が北朝鮮に爆撃開始
       北朝鮮からの弾道ミサイルが日本本土に着弾

 「断じて容認できない

 …とならないことを祈りたいところだが、残念ながら、軍事力(自国防衛力)を持たない国では、そういう台詞を言うことしかできない。そんな台詞を言う人が悪いのではなく、そんな台詞しか言えなくなっている戦後の日本社会にこそ問題があると言える。

 それは恰も、武装した銀行強盗に銃口を向けられ、「断じて容認できない」と言っている武器を持たない銀行員のようなものであり、防犯ブザーを鳴らしても、駆けつける警察官がいない。そして、その銀行員は、銀行強盗に対してさえ暴言を吐けば、行内規程により、その銀行をクビになってしまうという、そんな不条理な社会が出来上がってしまっている。

 「断じて容認できない」という台詞は、現状では、日本から北朝鮮に対して言う台詞ではなく、日本にミサイルが着弾しなければ、考えを改めようとしない人々の存在に対してこそ言うべき台詞なのかもしれない。本当の敵は身中にいる。

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「プレミアムフライデー」よりも「バリューサースデー」

■どこ吹く風の「プレミアムフライデー」

 今年の2月から「プレミアムフライデー(プレ金)」なるものが実施され、この間、既に4回もの「プレミアムフライデー」が過ぎ去ったことになるが、労働組合の無い一般企業では、“どこ吹く風”という感じで、会社内でも「プレミアムフライデー」のことが話題にすらならない。このような浮世離れした制度を創っても、毎度のことながら、一部の大企業だけしか実施できないわけで、これで個人消費が喚起されて景気が良くなるなどというのは絵空事でしかないような気がする。

 個人消費を喚起することが目的であるのならば、「プレミアムフライデー」のようなほとんど効果の見込めない制度よりも、確実に効果が出るもっと良い方策がある。それは、「土曜日の休日を木曜日に変える」という制度、言わば「バリューサースデー」(価値ある木曜日)だ。

 なぜ、土曜日の休日を木曜日に変えることが個人消費を上向かせることに繋がるのか? その理屈をシンプルに説明してみようと思う。

■重要なのは「次の日が休みであること」

 まず、「プレミアムフライデー」というのは、午後3時(15時)に仕事を切り上げることで、仕事帰りに買い物や食事や遊興を行う人が増えるという考えが基にある。なるほど、確かに自分自身が午後3時に仕事を切り上げれるなら、ショッピングや映画でも観に行こうかという気にはなるかもしれない。

 しかし、食事(飲み)に出かけるとまでは、あまり考えない。普段から、食事(飲み)に行く時というのは、早く帰れる日ではなく、次の日が休みの日であることが重要な条件だ。「プレ金」でなくても「花金(花の金曜日)」なら、食事(飲み)に出かけるという人は大勢いる。
 次の日が休日だからこそ、夜遅くまで食事(飲み)ができるという気持ちの緩みが生まれるわけであり、いくら早く終業時間を迎えたとしても、次の日が出勤日なら、なかなか食事(飲み)に出かけようとはならない。

 日本では(世界でも)、週休2日制というのは、基本的に土曜日と日曜日の2連休になっている場合がほとんどだが、2連休だからといっても、食事(飲み)に出かけるのは金曜日の晩だけという人がほとんどだろうと思う。「花金」が「花金」である理由は、次の日が休みだということが大きい。次の日が休みという高揚感と安堵感こそが、自然と個人消費を喚起させるのである。

 次の日が休日であれば、仕事帰りに食事(飲み)に行く人が多くなる。そうであるならば、仕事帰りに食事(飲み)に行ける日を増やせばいい。そのためには、土日の連休は止めて、休日を分割すればいいのである。
 例えば、木曜日と日曜日が指定休日であれば、水曜日の午後「花の水曜日」と土曜日の午後「花の土曜日」に食事(飲み)に行く人が増える。その場合、わざわざ15時に終業する必要もなく、少し仕事帰りが遅くなったとしても食事(飲み)に行く人は増えるはずだ。“次の日が休み”という気持ちの緩みは、財布の紐の緩みにも通じている。

■実現可能で価値のある「休み方改革」を。

 これなら、現在の労働時間を変えることなく可能となるし、一部の大企業でしか実施できないというようなこともない。“働かない”“働けない”“働きたくない”というような、無い無い尽くしの「働き方改悪」ではなく、本当の意味での「働き方改革」が可能となる。
 労働時間を変更するのではなく、休日を変更するだけで個人消費は必ず上向く。これぞ価値のある「休み方改革」(休日革命)だ。

 個人消費云々以前に、実際に社会人として働いている者としては、月曜から金曜まで連続して働いて土日にまとめて休むよりも、月・火・水と働いて、木曜日に休み、金・土と働いて日曜日に休んだ方が肉体的にも精神的にも楽だと思う。どうしても連休が欲しいというなら、有給休暇を取得すればいいし、悪名高い「ハッピーマンデー制度」も2連休制度として活かせる。

 私個人の場合、土曜日も年間に半分程度は出勤日であるので、半分は他人事でしかないが、それでも2連休よりも、木曜日辺りに中休みが有った方が有り難い。
 働き過ぎで過労やストレスを感じる時というのは、連続勤務にも大いに原因があると思われるので、土曜日の代わりに木曜日を休日にすることで、3日間以上の連続勤務が無くなり、過労で倒れるような人も減少するのではないかと思う。

 そもそも、なぜ土曜日が休日になったのかというと、諸説あるらしいが、日本の場合は明治時代に公官庁で「土曜半休」が定められたことによるらしい。所謂「半ドン」のことだが、半ドンにすることで、1日半の連続休暇となり、それが進歩して1980年頃に2日間の土日連休制度(完全週休2日制度)が誕生した。

 土日連休制度は世界的な標準でもあるので、簡単には変えられないかもしれないが、政府が率先して推奨すれば、試しに導入する企業も出てくるのではないかと思う。先にも指摘した通り、労働時間や仕事量は変える必要が無いので、「プレミアムフライデー」よりもはるかに現実的であり、効果のある消費刺激策として試してみる価値(バリュー)はあると思う。

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「グローバリズム」は「キャピタリズム」ではなく「コミュニズム」

■グローバリズムは一種の共産主義

 トランプ大統領が誕生してから、「保護貿易」や「自国優先主義(自国ファースト)」という言葉が叫ばれるようになり、これまでグローバル経済を礼賛してきた経済学者や評論家達は肩身の狭い思いをしているかに見える。
 ほんの少し前までは、ボーダーレスになった(=国境が無くなった)世界で、ヒト・モノ・カネが自由に動き回る社会こそが理想だと思われていたが、ここにきてグローバリズムの問題点や矛盾点が多く取り沙汰されるようになってきた。

 「グローバリズム」という言葉を聞くと、どこか資本主義や自由主義の延長線上に存在するような感じがするし、実際に多くの人が、現在でもそう思っているのだろうと思う。しかしながら、「グローバリズム」とは、国境の無い世界で、そこに住む人々が、皆、均一化(平等化)していくことを理想としているわけだから、よくよく考えてみると、これは一種の共産主義に近い思想でもある。

 グローバリズムの問題点を一言で述べるとすれば、それは、「平等性を求めるあまり、公平性が失われた」ことにあるのだと思う。

 資本主義は基本的に一物一価の「公平性」を追求するシステムなので、「平等性」を追求するグローバリズムは資本主義の延長線上にあるシステムではないとも言える。
 しかし日本では、共産主義者がグローバリズムを批判していたり、資本主義者がグローバリズムを礼賛していたりするのでややこしい。
 「公平性」に重きを置いた反グローバリストと、「平等性」に重きを置いた反グローバリストは、全くの別物なので注意しなければいけない。

■労働者を逆差別してきたグローバリズム

 例えば、同じ仕事能力を持った日本人と中国人がいたとしても、人件費が10倍も違うと競争にならない。グローバリズムでは、この問題を「人件費が違うのだから仕方がない」と片付けられてきた。まるで人件費の高い国が「」で、人件費の安い国が「」であるかのように。しかし、能力が同じであるのに、人件費が安い方だけに仕事が流れ、人件費の高い方には全く仕事がいかないというのは、個人の公平性を考える上では、極めて重大な問題である。
 同じ環境における人件費の高低で仕事の行き先が決まるのは仕方がないが、環境が全く異なる国家間の人件費の違いで仕事の行き先が決まるというのは、平等であっても公平ではない。

 あるいは、その日本人の能力が中国人の2倍だったとしても日本人は仕事を得ることができず中国人ばかりに仕事がいくとなると、個人の能力や努力という資本主義社会で最も重要な要素が全く意味を為さないことになってしまう。国家間の格差を無くすために個人の能力が無視されるというのでは、社会主義そのものだとも言える。

 人件費が高い国といっても、誰も好き好んで人件費の高い国に生まれているわけではない。同じように、人件費が安い国といっても、誰も好き好んで人件費の安い国に生まれているわけではない。人的資質を無視し、環境(物価や人件費)の違いだけで労働者を逆差別するシステム、残念ながら、それがグローバリズムの実際の姿だったとも言える。

■グローバリズムの必然だった「金融緩和」

 そういったグローバル経済下の歪な環境(物価や人件費の違い)を調整するという意味合いで行われてきたのが先進国(人件費が高い国)における「金融緩和」政策だった。グローバル経済下では、少しでも自国の通貨を安くすることが善と成り得た理由はそこにある。資本主義下におけるバラマキ政策は批判の対象となるが、グローバル経済下では話が違ってくる。それは単なるバラマキではなく、個人の努力ではどうすることもできない環境格差を埋めるために必要な政策だった。
 そんな切羽詰まった状況であったにも拘らず、頑として金融緩和を否定していた人々というのは、何だったのだろうか?と思う時がある。

 生まれた国の人件費が高いという理由だけで、能力が有るにも拘らず逆差別されてきた労働者、そんな労働者に対する慈雨としての「金融緩和」を否定していた人々というのは、きっと、一生食うに困らない金融資産を有した資産家達だったのだろう。もし、そうでないとすれば、グローバリズムを全く理解していなかった人達なのだろう。
 少し意地悪に言うなら、彼らは「ヘタに金融緩和などを行って、ハイパーインフレにでもなれば、私の一生遊んで暮らせるお金が紙クズになってしまうではないか!」というような底意を持っていた人々だったのかもしれない。

■トランプ大統領のジャパンバッシングは的外れ

 トランプ大統領が安倍総理に親近感を感じるのは、金融緩和を行ったことによって円安となり、中国に流れていた仕事の一部が日本に戻ってきたという実績を評価してのものだろうと思う。安倍総理がそこまで理解した上で金融緩和を行ったのかどうかは判らないが、アメリカ人から観れば、結果的には自国ファーストを実践した人物に映るのだろうと思う。

 ところで、個人の能力や製品が優れていれば、正当に(公平に)評価されるのが資本主義でありトランプ大統領の目指す反グローバリズムであるのならば、トランプ大統領のトヨタ批判は的外れもいいところとなる。

 例えば、同じ性能のアメリカ車と中国車が市場に出回って、人件費の安い中国車だけが売れるというのであれば、それは是正しなければいけない問題かもしれないが、現状ではそれほど人件費が違わないアメリカと日本を比べて、日本車が売れ過ぎているという批判は筋が通らない。ほぼ同じ土俵で競争しているのであれば、能力の違い、車で言うなら性能の違いで評価しなければ辻褄が合わないことになる。反グローバリズムであるからこそ、先進国同士の競争は正当に評価しなければいけない。

 先述した通り、グローバリズムの問題点は「平等性を求めるあまり、公平性が失われた」ことにある。世界中の労働者が同一の環境で競争するという社会の到来は、結果としては理想の社会では有り得ても、そこに行き着くためには手段を選ばないというような狭量な考えを持つようになると、世界経済(特に先進国の経済)は疲弊し、労働者は困窮し、理想の社会とは似ても似つかないディストピアを招くことにも成りかねない。

 「平等」を追求するか「公平」を追求するかの違いで、社会は大きく変わってしまう。「平等」思想が世界を覆い、闘争と破壊を齎した20世紀を反面教師とすれば、グローバリズムの本質が「平等」であった場合、その行き着く先は、極めて厳しい世界である可能性が高い。
 その危険性に気付いたトランプ大統領であるのならば、「公平性」をこそ旨としてほしい。

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アメリカに睨まれた北朝鮮【キングコング vs モスラ】

■『国家権力』と『シン・ゴジラ』

 前回の記事で、「憲法9条で縛れるのは自国の国家権力のみ」と書いてみたところ、BLOGOSの方で「左派の人々もそんなことは解っている」というようなコメントを頂いた。
 なるほど、確かに日本の左寄りの人々には「国家」を敵視する人が多いので、憲法が国家権力に対抗する武器であることは理解していて当然かもしれない。
 しかし、もしそれが本当であるなら、左派の人々というのは、日本国内さえ平和であれば、それで良いとする利己主義者だということになってしまう。
 彼らの論法からいけば、憲法9条(平和憲法)が機能していれば、日本が戦争を起こすことはなく、他国から戦争を仕掛けてこない限り、日本は平和なわけだから、戦後70年間、日本が平和であったのは自明の理ということになる。しかし、それが解っているのであれば、彼ら平和主義者が本当に考えなければいけなかったのは、他国から戦争を仕掛けられた場合に、どうやって平和を維持するのか?ということであったはずだ。

 「国家とは人間の富を略奪する無敵の暴力団である」というのは経済学者の故竹内靖雄氏の言葉だが、「国家」というものをもっと解りやすく喩えるなら、昨年話題になった映画『シン・ゴジラ』のようなものだとも言えるかもしれない。
 個人的に、あの映画はあまり面白いとは思えなかった(失礼)が、「国家」というものを暗喩(メタファー)として描いている点は興味深かった。製作者がそれを狙ったのかどうか定かではないが、あのような、頑強でどんな攻撃も通じない巨大な怪獣こそがホッブズが著した『リヴァイアサン』、もとい「国家」の正体でもある。(もちろん、喩え)

 そういった前提(国家は怪獣という前提)に立って、話を進めてみよう。

■『モスラ対ゴジラ』ではなく、『モスラ対キングコング』

 暴走した国家ならぬゴジラは危険だ。暴れ出すと人間では手に負えないゴジラは鎖で雁字搦めに縛っておかないといけない。それはその通りではある。しかし、それはゴジラ以外に怪獣がいない場合の話であって、例えば、日本の外から、モスラがやってきた場合は、その鎖を解いて、ゴジラに威嚇、または戦ってもらわなければいけない。

 現代の日本が置かれている状況は、ゴジラが仮死状態に置かれているようなものであり、20年以上前からモスラが空から攻撃してくる危険性があったのに、ゴジラを縛っている鎖を全く緩めようとしなかった。
 「ゴジラが身動きできないように鎖で縛っておかなければいけない」「ゴジラを縛っている限り安心だ」と言い続けてきたのが、他ならぬ護憲派(平和主義者)の人々の姿だと言える。

 ゴジラが動ける状態であるなら、モスラは日本に攻めることを躊躇うかもしれないが、ゴジラが動けなければ、モスラは攻めやすくなる。これも自明の理だ。ゴジラは70年もの間、鎖に繋がれたまま動けない状態だったので、足腰も弱り、もはや自力では立ち上がれなくなってしまった。ゆえに、キングコングという外国の怪獣に頼るしかないというのが現在の日本の状況だろう。

■トランプ大統領の暗喩としての『キングコング』

 ハリウッド映画には、暗に世相を反映した映画が多いのだが、今年3月に公開された『キングコング:髑髏島の巨神』は、ある意味、トランプ大統領の暗喩になっているような気もする。(本作がクランクインしたのはトランプ氏が大統領になる前のことなので、偶然の産物だが)
 映画では、毎度、愚かな人間に殺されて終わるキングコングだが、今年、蘇った巨大なキングコングは一味違っていた。これも世論(リベラルメディア)によって社会的に抹殺されずに生き残ったトランプ氏を表しているかのようだった。
 髑髏島のキングコングは、自らの縄張り(聖域)を荒そうとする不届き者には容赦なく正義の鉄槌を加える。この部分もまさしくトランプ大統領そのものだ。

 日本は自国民を拉致されても奪い返すこともできず、「ミサイルを撃ち込むぞ」と脅されても抗議するだけで何の抵抗もできずに泣き寝入りすることしかできない。もし、北朝鮮が多くのアメリカ人を拉致すれば、アメリカは泣き寝入りすることなく命懸けで奪い返すだろうし、「ミサイルを撃ち込むぞ」と脅されれば、黙っているはずがない。
 抗戦的に見えたとしても、それは「国家」として当たり前の態度であり、指をくわえて見ているしかない日本の方が可笑しいのである。それは「国家」としての体を為していないということを意味するからだ。

 「ゴジラは縛られているが、キングコングが守ってくれているので、モスラは攻めてこない。」あるいは「ゴジラを放とうと放つまいと、キングコングがいてくれるので関係がない。」というような意見は、要するに、「ゴジラは無力だ」と言っているに等しい。換言すれば、「日本は無力だ」ということになる。
 それが、国家としての当たり前の状態なのであれば、実に大きな自己矛盾を内包していることになる。なぜならそれは、日本の左派が敵対するべき「国家」が無力であると言っているに等しいことになるからである。(=無力である国家に敵対する意味がない)

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今そこにある「北朝鮮クライシス」

■軍事的「失われた20年」

 先日(4月15日)の北朝鮮発の有事危機は、マスメディア内で箝口令が敷かれているのではないか?と思えるほどに、ほとんど無視されていたが、その後は、さすがに無視できなくなってきたのか、有事を想定した話もちらほらと出てきつつあるようだ。
 政府も、北朝鮮から弾道ミサイルが飛んで来た場合の対処法を政府ホームページに掲載するに至っており、徐々に緊迫した空気が漂いつつある。

 北朝鮮が最初の核実験を行ったのが2006年のことであり、ミサイル発射実験に至ってはその10年以上も前から行われてきた(1993年に日本海にノドンを発射)。
 そう考えると、もう20年以上も前から脅威は存在しており、この20数年間は日本にとって、経済だけでなく、軍事に関してもまた「失われた20年」だったわけだ。この、今そこにある危機(北朝鮮クライシス)に対して、警告を発していた識者は大勢いたが、何ら具体的な策を講じてこなかったツケが一気に顕在化しつつある。

■「憲法9条」の平和的効能は日本にしか効かない

 「憲法9条があれば戦争にはならない」という呪文を信じ、軍事防衛力(戦争抑止力)を否定し続けてきた人々の罪は重く深い。肌で感じられる開戦危機を生まれて初めて経験し、ようやくそのことに気が付きはじめたのかもしれないが、今回の「北朝鮮クライシス」で日本が戦渦に巻き込まれ、多くの死傷者が出た場合、彼らはそれでも「憲法9条があれば戦争にはならない」と言うのだろうか?

 そもそも、憲法というものは、自国の国家権力を縛るためのものであり、自国が戦争を始めることを抑止するためのものであって、他国のそれには何の関係もない。日本が戦争を起こさないようにするために用意されたものが現在の日本国憲法であり、「憲法9条があれば戦争にはならない」のではなく、「憲法9条があれば(日本からの)戦争にはならない」というのが正しい認識だ。憲法9条を北朝鮮に輸出し、金正恩がその憲法を正式に採用でもしない限り、北朝鮮が戦争を起こすことを止めることはできない。
 憲法に縛られ戦争を起こすことのできない日本で反戦デモなどを行っている暇があるのなら、北朝鮮に行って命懸けでデモを行うべきだ。それができてこその平和主義者だと言えるが、そんな人は誰一人としていない。

 アメリカと北朝鮮がチキンゲームを展開できるのは、両国ともに核兵器(戦争抑止力)を保有しているからであり、日本の場合は、事実上、チキンゲームを行う権利すら有していない。
 ピストルを持った強盗にネゴシエーションできるのは同じく武器を持った人間だけであり、相手に恐怖感を与えることができない限り、対話にはならず交渉の席に着くことも叶わないため、チキンハートで怯えるしかない。

 原罪を背負わされ、武器を放棄し、「悪さをしてはいけない」ということが書かれた「お守り」を持っているだけでは、強盗を縄で縛ることはできない。
 こんな子供でも解るようなことが解らないまま放置され、平和ぼけの太平の世を微睡みの中で過ごしてきたのが日本という国であるということを知るべき時期が来たのかもしれない。
 願わくば、被害が出ずに平和裏に解決されんことを…。

【追記】2017.4.22
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>9条が無ければ日本が韓国飛び越えて単独で北朝鮮を攻撃する能力を20年間で持てたとでも言うのだろうか。

 攻撃する能力を持てたか持てなかったかという話ではなくて、抑止力について考えることすら遮ってきたことが問題だと言っているのです。

>憲法9条も、先の侵略戦争の反省も踏まえて、二度と日本が戦争を起こさないようにするのが目的の条文であって、

 「侵略戦争の反省」という言葉自体、憲法と同様、戦勝国側が創作したフィクションである可能性の方が高いと思いますが。

>例え、その草案を提案したのがGHQであったとしても、憲法9条を支持して、ずっと守り抜いてきたのは、大多数の国民自身。

 あなたが言っていることも、結局のところ、何が真実かを考えることもなく、鵜呑みにして守り抜いてきたということですね。

>左派の連中(というか右派以外のほとんどの国民)の誰も、憲法9条が、他国の武力行使にまで適用されるとは思っていない。

 ではなぜ左派の人達は、殊更に「平和」という言葉を使用するんでしょうか? 「平和」は1国の中だけで実現できるものではないはずですが。

>日本でデモを行っているのは、安倍政権が日本を戦争ができる国に(日本から戦争を行えるように)変えようとしているから。

 安倍政権は単に「防衛できる普通の国」にしたいだけだと思いますが。大体、現代の恵まれた日本という国で戦争がしたいなどと考えている人が本当にいるかどうかも疑わしいし、戦争をする合理的な理由が見当たりません。それに、安倍総理が独裁者であるなら、とうの昔に憲法は改正されているはずです。独裁者というのは、反対派の声に耳を傾けることもなく暴政を行う人物のことを言うのであり、支持率が60%も有るのに憲法も変えれない、古今東西、そんな反対論者の気持ちを慮る気弱な独裁者がどこにいるんでしょうか?

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トランプ流の北朝鮮「無血革命」

■戦わずして勝ったトランプ大統領

 昨日(4月15日)の北朝鮮で行われた金日成生誕105周年の祝賀軍事パレード日は、ネット界隈では「Xデー」とも噂され、一部では開戦前夜を思わせるような物々しい空気が立ちこめていたが、結局、北朝鮮による核実験もミサイル発射も行われなかった。
 アメリカの警告が無ければ本当に両方とも行われていた可能性が高かったと思われるが、トランプ氏の存在が大きな心理的防波堤の役割を果たしたことは間違いなさそうだ。

 この先、どう転ぶかはまだ予断を許さないものの、今回のアメリカ側の一連の言動が全て計算づくだったとすれば、実に見事な戦略だったと思う。1度目は6日、シリアに対する青天の霹靂とも言えるトマホークミサイル59発の発射攻撃、その後、13日にはイスラム国に対して大型爆弾モアブ(MOAB)を実戦で初めて使用。その上でアメリカ最強の航空母艦カール・ヴィンソンを北朝鮮近海に派遣。
 「二度ある事は三度ある」というのは日本のことわざだが、ここまでやると「三度目の正直」が有ると思わせるには充分な心理作戦だ。
 アメリカは今回、結果的には「戦わずして勝つ」を実践したと言える。これで北朝鮮が大人しくなれば、まさにトランプ流の「無血革命」とも呼べそうだ。

■2つの戦争抑止力が判明

 軍事パレードには各国の報道陣が多数招かれていたので、ある意味、人質としての役割を果たしていた。そういう意味では、チキンゲームの様相を呈していたとはいえ、軍事的に圧倒的優位にあるアメリカが「北朝鮮が核実験を行おうとすれば攻撃する」と警告している状況下で、北朝鮮側が本当に核実験を行うのは自殺行為だ。それが解らないということであれば、本当に見境の無い狂った独裁者ということになるが、幸か不幸か、己の命は惜しいと思う理性(判断力)は有していたらしい。

 この先、北朝鮮がアメリカにビビって、兵器開発から徐々にフェードアウトしてくれることを願いたいところだが、他国を脅すことで成り立っていたような国が、直ぐさま良い国になるとは考えにくい。1番恐いのは「窮鼠猫を噛む」というような状態になることだ。無論、その「猫」には日本も含まれるので、防衛力の強化を急ぐ必要がある。森友問題や芸能人の不倫問題などというチンケな問題で騒いでいる場合ではない。

 ところで、今回の有事危機は、テレビではほとんど報道されなかった。ヘタに危機を煽ると国民がパニックになるというマスコミお得意の“忖度”だったのかもしれないが、国民の知る権利というものが無視されているように感じざるを得なかった。
 これまでも「ギリシャ破綻危機」だとか「中国バブル崩壊危機」だとか「イギリスEU離脱危機」だとか、ほとんど何の影響もなかったような小事には嬉々として大騒ぎする反面、今回のような「北朝鮮開戦危機」という国民の命に関わる重大事には黙りというのは明らかに矛盾している。

 あるいは「憲法9条」が有れば有事にならないという神話にヒビが入ることを恐れて報道しづらかったのかもしれないが、図らずも今回の出来事で、戦争抑止力と成り得るのは「憲法9条」ではなく、「強大な軍事力」と「ハッキリと意見を述べる実行力を伴ったリーダーの存在」であることは判明したと言える。

【追記】2017.4.17
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>今朝、北がミサイルを発射したことで、筆者の主張は木っ端みじんに破壊されましたね。
間違いを認め謝罪すべきでしょう。

 ミサイルを発射したと言っても記念日から1日遅れ、しかも失敗ですが…。おそらく故意の失敗とみるのが妥当なところだと思います。
 なぜ核実験を行わずにミサイル発射を優先したのか?
 なぜ都合よく失敗したのか?
 なぜ2弾目を打たなかったのか?
 これらを勘案すると、「様子見」が目的だったと考えるべきでしょうね。「打つ」と言っておいて全く何もしないわけにもいかず、かといって成功するわけにもいかない。挑発行為にならないギリギリの選択肢がミサイル打ち上げ失敗という手段だったのでしょう。上層部が仕組んだのか、それとも技術者側がアメリカの反撃を恐れて敢えて失敗したのかは判りませんが、そういう狙いで行われた可能性が高いと思います。実際、北朝鮮の国民にはミサイルを発射したことも失敗したことも伝わっていないそうなので、軍のメンツを保つために必要だったのかもしれませんね。(あくまでも推測ですが)

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