経済・政治・国際

社内カレンダーと建前社会の関係性

2009110901 『社内カレンダー』というものがある。言わずと知れたことだが、向こう1年間の就業日程を予め定めた企業の休日カレンダーのことである。私が勤めている会社も例に漏れず、携帯用(持ち歩き用)の社内カレンダーがあり、毎年、年初に配られることになっている。
 社内カレンダーのある会社にはある共通点がある。その共通点とは何かというと、出勤日が固定されていない会社、言い換えれば「完全週休2日制ではない会社」ということができる。(注意:土曜日が出勤日となる完全週休2日制も存在するが、この場合は土曜日が全て休日となる会社に限る)
 
 完全週休2日制の会社であれば、元々、出勤日も休日も決まっているわけだから、わざわざ社内カレンダーなどを作成する必要は無くなる。中には税金対策や見栄で社内カレンダーを作成している会社もあるかもしれないが、土曜日が全て休日の企業が多くなった現代では、社内カレンダー需要というものは、減少しているのだろうと思う。

 私が勤めている会社の場合は1年間を通して土曜日は半分程度出勤日となっているが、「隔週」というわけでもない。土曜の休日は繁忙期では月1回、閑散期では月3回などに分けられており、少し変則的な(偏った)休日制になっている。とは言うものの、繁忙期平常期閑散期というものが必ずしも予定通りになるとは言えないし、実際にそうなっていない。特に最近は不況の影響もあってか、会社全体として見れば、繁忙期などというものは既に無くなってしまったのではないかとも思える。
 部署によっても仕事量が違ってくるし、個人単位で見ても仕事量にバラつきがあるので、会社全体を同じスケジュールで稼働させるのは不合理ではないか?という思いが日に日に強くなってきた。以前にも少し述べたが、ウチの得意先などは部署によって週休3日制を実施している会社もあるくらいだ。そういった事情からも、社内カレンダーの必要性というものに最近疑問を抱くようになり、この記事を書くに至った。

 想像するに、この社内カレンダーというものは、かつての高度経済成長時代にはもてはやされたのではないかと思う。かつての日本企業は土曜出勤が当たり前で「完全週休2日制」の会社などはあまり無かったわけだから、大抵の会社には社内カレンダーというものが必要だったのだろうと思う。(土曜日がフル出勤であれば社内カレンダーも不要かもしれないが…)
 (私は当事者ではないので経験論では語れないが)当時は、土曜日も出勤しなければならないほどに仕事が多くて忙しかった。そして人員も足りないという事情から完全週休2日制にはできなかったのかもしれない。しかし現在では幸か不幸か、年中忙しくて仕事に追われているような会社は減少傾向にあるのではないかと思う。少し前までは「過労死」という言葉がよく聞かれたが、この不況で過労死するほどに仕事を抱える人も幾分かは減少した(?)のではないかと思う。かくいう私も最近は「過労」を意識することは少なくなった。

 これだけ入ってくる仕事量が不安定な時代になれば、社内カレンダーのスケジュール通りに仕事が進むようなことはほとんど有り得ない。そんな決められたスケジュール通りに仕事が進められるのは公務員くらいのものだろうが、あいにく公務員は完全週休2日制であるので、基本的には社内カレンダーは必要ない。(消防署や病院勤務などの公務員であれば話は別)

 高度経済成長期の日本企業は、仕事が有り余っており、人員も不足しがちだったということで土曜日も出勤日にしていた企業が多かったわけだが、現代では多くの企業でその前提自体が崩れてしまったため、敢えて土曜日を出勤日にする必要性は感じられなくなった。そもそも土曜日に出勤しても行うべき仕事が無いのであれば、なんのために出勤するのか分からない。仕事が無いにも関わらず、「社内カレンダーで出勤日になっているから」という理由だけで無条件に出勤していたのでは、労働者にとっては時間の無駄であるし、経営者にとっても光熱費の無駄になる。
 逆に仕事が忙しい時に社内カレンダーが休日になっているという理由で出勤できないということであれば、これも労働者にとっては時間のロスになる。休日出勤となれば超過勤務手当(休日出勤手当)も支払わなければならないので経営者も損をすることになる。
 経営者側からすれば、月給を支払っているのだから仕事が有ろうと無かろうと会社に出てくるべきだという考えもあるのかもしれないが、それなら、いっそのこと、土曜日を休みにして少しだけ給料を下げてくれた方が労働者にとっては有り難いのではないかと思う。逆に忙しい時には休日出勤として不足した給料分を少しでも補えばよいのではないだろうか。少々後ろ向きな考えとはいえ、それが双方にとっての妥協策であり、最も合理的な判断だと思うのだが、現実にはそうなる気配は感じられない。おそらく、日本企業の多くは仕事量の増減に関係なく、今までのシステムを維持することを優先していくのではないかと思われる。
 
 この不況が一過性のものであるという可能性から、今まで通りの体制を維持しているという考え方もできるだろうが、なぜ臨機応変に一時的にでも制度を変えることができないのか疑問に思うこともある。仕事の忙しい時には休日出勤し、仕事の暇な時には休むという当たり前の切り替えが硬直した日本企業(の労働制度)ではなかなか行えない向きがある。これは言わば、建前社会の構図そのものとも言える。
 仕事量が絶対的に保証されていた時代には会社経営におけるリスクもほとんど無いため、予め決められた制度(社内カレンダーも含む)が何の問題もなく機能していたが、現代においては、予め決められた制度などは無意味であり、むしろ臨機応変に環境に適応していくことこそが求められる。
 
 環境が激変しても旧いシステムをそのまま使い続けることを優先する社会、それはまさしく建前社会の姿そのものである。年功序列制度にしても、年次昇給制度にしても、退職金制度にしても、全ては変化の乏しい建前社会であればこそ為し得たシステムであり、そんなシステムを守ることだけに無駄なエネルギーが費やされている。そういった融通の利かない硬直化した社会こそが、日本経済の閉塞感の正体だとも言える。
 この時代に適合しなくなったシステムを維持することだけが自己目的化してしまっている社会、それが現代の日本の姿であり、日本経済を蝕んでいる元凶であるとも言える。そして、そんな悪循環を招いてしまった原因は、平和ぼけ(=バブルぼけ)した国民の無関心と、マスコミのミスリードによるところが大きい。無論、建前社会を死守する官僚と、本音を語らない政治家にも責任の一端があることは言うまでもない。誰かが悪いと言うよりも、総ての国民に責任があり、総ての国民がこの問題に真剣に向き合わないことには解決できない問題だとも言える。
 なんでもかんでも環境のせい、他人のせいにするという風潮が蔓延っている現代日本にあっては、この問題を解決することは非常な難題であることは間違いない。

 社内カレンダーから少し話が飛躍してしまったが、結論として言えることは、現代日本にあっては、社内カレンダーのような時代の変化に対応できない“確定アイテム”は、もはや無用の長物と化しているということである。別の言い方をすれば、先読みすることができない時代にあっては、先々のスケジュールを立てても意味がないということである。建前ではなく本音で述べればそういう結論にならざるを得ない。

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PB商品から垣間見える日本経済の問題点

2009110301 先月、ディスカウントショップのドン・キホーテが、超安価(690円)なジーンズを発売したことから、PB(プライベート・ブランド)商品というものが、にわかに注目を集めている。
 衣料品の安値販売店としてはユニクロが有名だが、さすがに690円のジーンズには値段では対抗できそうにない。このような価格破壊的な商品が登場すると、通常であれば、価格で競争するか、品質で勝負するしかない。ユニクロの場合、ジーンズが主力商品というわけでもないだろうから、すぐさま危機感を持つ必要性もないだろうが、今後、フリースやジャケットなどに波及するとなると、さすがに無視するわけにもいかなくなるだろう。

 衣料品の生産国は、中国からベトナム、そしてカンボジアに移って行っているらしく、その国の物価(または人件費)に比例して製造コストも安くなっていく。PBブランド躍進の背景には“生産国の移転”というものが存在している。ここで大事なことは、メーカーは企業努力して製造コストを下げたのではなく、コストが安くつく国に工場を移して安価な労働力を利用したということだ。(それも企業努力と呼べるのかもしれないが…)
 
 前置きは短めにして本題に入ろう。先の話から何が言えるのかというと、グローバル経済下では、製造国の移転がいとも容易く可能であるということだ。メーカーは、世界的に見て人件費のべらぼうに高い日本国内に製造拠点を持つ必然性はほとんど無いということである。
 海外の製造メーカーが日本に工場を移転してきたというような話は誰も聞いたことがないと思うが、これは当たり前で、物価も人件費も税金も高い国に工場を移転するような物好きな国は無いということだ。おまけに過剰な規制まで敷かれているのだから、海外の製造メーカーから見れば、「日本は鎖国を行なっているとしか思えない」というのが本音だろうと思う。
 日本人の感性や技術でしか製造できないというものなら話は別だが、マニュアルさえあれば誰にでも製造できるものは、今後、人件費の安い国に移っていくだろうことは考えるまでもないことだろう。
 
 そんな現状にあって、あろうことか日本では「製造業の派遣禁止」を唱う政治家や、それを礼賛している人間が大勢いる。
 製造業の派遣社員の給料は安い(?)と言われているものの、人件費として見れば、中国やベトナム、カンボジアとは比べ物にならないほど高額だ。正社員ベースで見れば中国やベトナムの人件費は日本の10〜20分の1、カンボジアでは20〜30分の1と言われている。派遣社員の人件費が仮に正社員の2分の1だったとしても、全く太刀打ちできないというのは誰が見ても明らかだろう。
 ハッキリと言ってしまえば、日本の大手製造メーカーにとっては日本国内で生産を行なうメリットはほとんどないかもしれない。日本のお家事情(=過剰に保護された正社員の給料は急に下げることができないという事情)で、そのままでは経営していくことができないので、なんとか派遣社員で賄っていたというのが、実際のところだろう。

 このグローバル経済下における日本の製造業問題の重要点は、正社員を全て派遣社員と同じ待遇にしたとしても問題は解決しないということだ。それほどまでに先進国としての日本の物価(人件費)は高くなってしまったということである。
 それを逆に、派遣社員を全て正社員にするという前提で政策が組み立てられているのだから、これはもう無茶苦茶もいいところだ。こんな馬鹿げた政策を本当に実施すれば、日本を出ることを迷っていた企業も「待ってました」と言わんばかりに、製造拠点を海外に移すことになるだろう。そして海外に拠点を移すことができない小資本メーカーは市場から淘汰されるのを待つだけという悲惨なことになりかねない。当然、日本の派遣労働者の働く場所も激減することになり、結果的に、日本の製造業自体が窮地に陥ることになる。
 
 確かに日本国内の正規社員と非正規社員の待遇差(と言うより階級差)は是正すべき大きな問題と言えるだろうが、それ以前に、海外生産国と日本の物価(人件費)の違いも考慮しなければならない。
 「格差」があることが問題だと言うのであれば、海外と日本の格差も無視するわけにはいかないだろう。「海外と日本の格差は問題なくて、日本国内の格差だけが問題だ」と言うのであれば、呆れた国粋主義者と言うしかない。そんなことを本気で言っているような人がいるなら、保守を装ったただの偽善者だと思って間違いない。日本さえ良ければ世界はどうなってもよいなどと言うのでは、ただの利己主義者の御都合論だと言われても仕方がないだろう。
 
 この問題の根本的な解決策は、結局のところ、世界の労働人件費がある程度、平準化されるまで待つしかないと言うことも可能かもしれない。労働における世界の人件費格差が大きく開いてしまったことが根本的な問題であるからだ。日本の中で「格差反対!」「格差は悪!」と叫んでいる人達が、日本の外から見れば、自らも格差を生み出している張本人だということに気付いた時、一体どういう反応をするのだろうか?
 
 このまま『製造業の派遣禁止』などが行われると、日本の労働者の未来は暗いと言わざるを得ないが、それでも日本の製造業にはまだまだ頑張ってもらわなければならない。では、どうすればいいのか?
 まず、政府は企業に対して日本に留まってもらえるような政策を採るべきだろう。それは、規制を無くし、税金を下げることが大前提となる。そしてその政策こそ、海外の製造メーカーを日本に誘致するべき手段と同一のものなのだ。しかし、この国の政治家は全く逆のことを行おうとしている。
 オリンピックを招致することに失敗したのであれば、そのエネルギーを海外企業を誘致することに使うべきだ。税金を納めてくれる企業を誘致するためには、税金を下げるしか方法はない。日本の製造業を日本に留めておく方法も海外の製造メーカーを日本に誘致する方法も同じだということを知るべきだ。

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『官僚政治脱却』と『衆愚政治脱却』

2009102001 テレビの経済番組などを観ていると、世界景気は若干持ち直しつつあるというニュースが伝えられてはいるが、未だ日本国内ではあまり景気の良い話は聞こえてこない。アメリカ発の金融危機から世界経済の総需要は4割ダウンし、経済規模は一時60%程度まで減少したわけだから、単純に考えれば、4割の雇用者がいらなくなるか、あるいは、収入が4割ダウンしなければ帳尻が合わなくなったということでもある。
 もし、「4割の失業者の中に入るか」それとも「給料が4割カットになるか」のどちらかを選択しなければならないということであれば、あなたはどちらを選択するだろうか? 大抵の人はおそらく後者を選択するだろう。中には「4割も収入がダウンすれば生活できない!」と言う人もいるかもしれないが、いきなり「4割の失業者の中に入る」よりはましだと考える人は多いと思う。
 
 全体としての仕事量(パイの大きさ)が6割になっても困らない人というのは、普段から他人の1.5倍以上の仕事を行っていた人(=給料の1.5倍以上の仕事を行っていた人)に限られる。より正確に言えば、1.5倍の仕事を行っていた人であっても、1.5×60%=90%で、10%足りないということになる。つまり、普段から1.5倍の仕事量をこなしている人であっても、給料が1割ダウンしてもおかしくないような経済状況が現出したということである。
 しかし、実際のところは、150%の仕事をしているような人の仕事はそれほど減っておらず、普段から100%未満の仕事しか行っていない人の仕事が激減しているのだろうと思う。元々、給料分の仕事を行っていない人の仕事が更に減少して困っている状態、言わば、仕事量の二極化が更に進んだような状態だと言えるのではないだろうか。
 
 自分の仕事量を単純に計ることができない仕事(サービス業など)もあるので、かなり曖昧な部分もあるとはいえ、余程の利益が出ていない企業でない限り、売上や利益が減少しているのであれば、その減少率と同じだけの収入額に収斂していかなければ、企業経営は成り立たない。これは子供でも分かる理屈だ。しかし、今回の大不況で4割もの人員をカットした企業や給料を4割カットした企業があるという話はあまり(というより全く)聞かない。景気回復待ちで、取り敢えず今までの利益でなんとか食いつないでいる企業や、騙し騙しで自転車操業商いを行っている企業は意外に多いかもしれない。
 ボーナスや残業代を全額カットした会社があれば、実質的には給料を4割カットしたと言えなくもないが、そこまでする前に不幸にも『倒産』という選択をせざるを得なかった会社もあるはずだ。

 世界の経済規模が縮小した原因は、実体経済規模からかけ離れたマネー経済の膨張が、いきなり破裂して急速に萎んでしまったというバブルの崩壊現象がその基にあるが、実際のところは、その影響によって“消費が急減してしまった”という理由によるところが大きい。経済規模の縮小が原因と言うよりも、金融における信用性が収縮してしまったことによる消費の減少こそが、今回の世界不況の正体だと言える。
 要するに、多くの人々が借金をして不相応な消費を行えていたことによって世界経済は成り立っていたということであり、「現在の消費量が減少した」というよりも、「本来の実体経済の姿に戻った」というのが実際のところだろうと思う。この本来の姿に収斂した消費量を増加させるためには、結局のところ、過剰消費社会の再現(つまりバブルの再来)を待つしかないということでもある。
 
 この過剰消費社会の到来国として現在最も注目されているのが中国だと囁かれているが、本来であれば、日本がその任を背負ってもおかしくはない。少なくとも、日本経済を活性化させるだけの資産が日本にはある。日本の場合はお金が無いのではなく、ただ、そのお金が動かなくなっているだけであるので、消費(または投資)意欲さえ回復させることができれば、すぐさま景気は回復するという国際的にも非常に有り難い立場にある。しかし、全くその立場が生かされていない。

 消費が不足しているがために不況に陥っているのであれば、消費を増加させることが景気回復の至上命題であることは誰にでも解る。では、消費を増加させるためにはどうすればいいいのか? 単純に考えれば、国民の消費意欲を喚起することが1番てっとり早い方法ではある。そういう意味では、『エコカー減税』などは良い経済政策だったとも言える。
 健全な消費社会にするためには、“未来は明るい”“将来は良くなる”ということを国民が信じることのできる社会を構築するこそが重要だが、冷静に現在の日本社会を眺めてみると、残念ながらお世辞にも未来は明るいなどとは言えない。そう言うためにはクリアしなければならない問題が山積み状態だ。
 
 少子高齢化問題、年金問題、教育問題、医療・介護問題などは、基本的に「本音論」でしか解決できない問題だ。しかし、政治家は本音を語るとマスコミに足下をすくわれ、マスコミに同調した国民から総バッシングを受け、ヘタをすると政治生命を奪われてしまいかねない。そういったリスクの前には為す術がなく、結果的に本音論が語れなくなっている。
 勇気をもって正論を述べる政治家であればあるほど失脚の可能性が高くなってしまうという、独裁国家さながらの社会(早い話が衆愚政)が構築されてしまっている。この悪循環によって、いつまで経っても無意味な建前論を垂れ流すことしかできず、何1つ問題は解決できないという袋小路に嵌り込んでしまっている。

 この衆愚政という悪循環から脱け出すことこそが景気回復の近道でもある。官僚政治からの脱却よりもむしろ、衆愚政治からの脱却の方が重要かもしれない。なぜならば、衆愚政治である限りは、官僚政治からの脱却も不可能であると言わざるを得ないからだ。逆に、衆愚政治から脱却できれば、官僚政治からの脱却は無条件に成立する

 建前社会の番人たる官僚に対抗するべき手段は“本音”でしかない。その本音を武器にできないのであれば、初めから勝負は見えている。建前の世界に閉じ篭ることしかできない政治家であるならば、官僚政治からの脱却などはできるはずもない。
 衆愚政治から脱却するためには、その言葉が示すように、大衆が無知から脱却しなければならない。多くの国民が、日本経済や日本社会というものの本質を理解しなければ、決して良くなることはないだろう。「他人任せでは生活環境は良くはならない」という当たり前の話である。
 書物を購入せずとも無料で真実を知る手段はインターネットの登場で半ば達せられた。はたして国民は衆愚政治から脱却するべき環境を自ら構築することができるのだろうか…。

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ブックオフとQBハウスのビジネスモデル考

2009101001 3ヶ月程前に、行きつけの郊外型書店が閉店したという記事(→『ジリ貧の発想』に陥った書店のコスト削減策)を書いたばかりだが、先月末にまた別の郊外型書店が急に閉店してしまった。これで、会社帰りに車で立ち寄れる郊外型書店はほぼ全滅となってしまった。ここまで急に書店環境が激変してしまうと1消費者としては困ってしまうが、当の書店側はもっと困っているのだろうと思う。現在の書店を取り巻く状況を以下に列挙してみると、
 
1、不況の影響で本や雑誌を買う人が少なくなっている。
2、国民の活字離れが激しくなっている。
3、便利なネット書店(アマゾンなど)に客が流れている。
4、安価な中古書店(ブックオフなど)に客が流れている。

 この他にももっと多くの細かい事情があるのかもしれないが、もはや現在の既存書店は「先行きが不透明」というような生易しい状態ではなく、「お先が真っ暗」というような状況に近いのかもしれない。私の身の周りで実際に起こった書店の相次ぐ閉店がそのことを物語っている。今後、既存の書店は余程の抜本的な変化でも起こさない限り、経営難に陥っていくだろうことは火を見るより明らかだ。
 
 現在の書店環境の激変(既存書店の淘汰)は一体なにを意味しているのだろうか? なぜこれほどまでに急激に環境が変化してしまったのか? その答えを「不況」「人口減少」「ネット書店の台頭」というキーワードに結び付けることは簡単だが、ここでは少し視点を変えて考えてみたいと思う。旧態依然とした書店の衰退現象は避けることができないとしても、短期間で連鎖的に経営破綻するというような悲惨な結果をなぜ少しでも緩和(ソフトランディング)することができなかったのかを、「市場原理」というものを踏まえて考えてみたい。

 既存書店に対して、ブックオフなどの中古本ショップが台頭してきたことは周知の通りだが、時を同じくして理髪店にも、QBハウスなどの安価な理髪店が現れてきた。この2つのショップは、市場原理否定者からは『既存市場を荒らした価格破壊者』というイメージを持たれている。その思い込みについての反論は以前にも何度か述べた(以下の関連記事参照)が、もう1度、この2社について考えてみよう。

(関連記事)
 ブックオフは文化の破壊者か?
 ブックオフ買収における真の改善策とは?
 床屋の経済学
 理容業界の攻防(3600円 vs 1000円)
 
 実際に両社の経営者に聞いたわけではないが、ブックオフにしても、QBハウスにしても、初めから市場を破壊するために参入してきたわけではないだろう。これらの2社は、需要と供給の間に開いた大きなギャップを発見して、その隙間を埋める形で市場に参入してきたのだろうと思う。
 解り易く言えば、100円の価値しかないものが、500円で売られていれば、差引き400円の間にはビジネスチャンスが有るということだ。500円で販売されているものを300円にして利益が出るのであれば、そこには新たなビジネスが生まれる余地が有るわけだ。書店にしても、理髪店にしても、価格が固定されていた市場であるがゆえにビジネスチャンスが存在した。そのチャンスを目敏く発見し市場に参入したのが、ブックオフやQBハウスだったと言うことができると思う。
 
 そう考えると、“市場に大きな隙間が空いていた”ことが根本的な問題だったということになる。その市場原理から大きく乖離した隙間はなぜ発生したのか? ここに問題の本質が隠されている。その問題点とは、“市場を無視した価格が維持されていた”ことにある。つまり、時代にそぐわない閉鎖的な市場をいつまでも放ったらかしにしていたことが問題だったということである。
 既存の書店や理髪店が市場に発生した隙間を埋めるように自ら業態を変化させていれば、初めからブックオフやQBハウスが市場に参入することもなかったかもしれない。仮に参入したとて、いきなり料金が半額以下になって、既存店が競争力を失い経営破綻に陥るということもなかったはずだ。ある意味で規制に保護されていた既存の書店や理髪店が、市場原理(または消費者)を無視し、長い間、何の努力もしてこなかったことのツケが一気に噴出した結果が、現在の姿であるとも言えるわけだ。
 現在の既存書店の連鎖的な経営破綻や、既存理髪店が窮地に陥っている現状を生んでしまった真の原因は、市場を解放(規制緩和)したことにあるのではなく、実は“市場を統制(または市場原理を無視)していた”ことにある。そう考えた方が理に適っている。
 
 市場の隙間を埋めることによってビジネスが成り立つということは、合理化を可能にすれば利益が生まれビジネスが成り立つということであり、これは言わば、資本主義社会の基本だ。不合理な市場にはビジネスチャンスが転がっている。そのチャンスを他人より早く見つけたものが起業家になるという、ただそれだけのことである。
 時代とともに変化する需要と供給の原理を考えずに、無理矢理、高値で固定されていた市場であるなら、そこに新規ビジネスが生まれることは当たり前のことだ。そのことを「市場の破壊だ!」などと言うのであれば、その人物は資本主義者でもなければ合理主義者でもなく、ただの不合理主義者(=社会主義者)だということになる。
 
 書店がもっと早くから自ら中古本を売り出すサービスを開始していれば? アマゾンに先んじて本のネット販売を大手出版社が進めていれば? 理髪店が、もっと早くから料金の差別化を行い、市場原理に則った商売を開始していれば? そこには、今とは違った社会が生まれていたはずだ。書店や理髪店に代表される連鎖的な経営破綻というハードランディングを招いた諸悪の根源は、需要と供給の原理を無視し続けてきた社会にこそある。あまりにも閉鎖された市場であったことが災いしたとも言える。

 そしてこの構造的な問題は、実は書店や理髪店だけに収まらない。時代にそぐわないことが判っていながら、旧態依然としたシステムをいつまでも引きずり、問題の発生を先送りしていることは他にも山ほどあると思われる。と言うより、日本社会全体がそうなっていると言った方が正解かもしれない。
 産業や省益優先で、個人の生活や利便性を軽視し続けた結果、既存の規制ビジネスはハードランディングした。それは、日本が社会主義国家であったことの証明現象であるとも言える。
 しかしそれは大部分の国民にとって悲観すべきことではないかもしれない。この現象が日本型社会主義の完全消滅の序章を意味しているのであれば、既存の規制ビジネスの崩壊後に待っているものとは、輝かしい自由な社会であるのかもしれないからだ。既存書店や既存理髪店には申し訳ないが、我々はむしろ、この急激な変化を『新たな時代の黎明期』と捉え、歓迎するべきなのかもしれない。

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時代錯誤な借金猶予(モラトリアム)制度

2009092501 民主党が、社民党・国民新党と連立政権を組んで話題になったのはつい先日のことだが、早くも連立における問題点が噴出しているようだ。中でも亀井氏が、経済音痴としか思えないトンデモ発言を連発していることが大きな問題になっている。その発言内容たるや、本当にこれが現代の政治家の言葉か?と疑いたくなるほどにお粗末極まりない。そのあまりの幼稚ぶりに、経済界からは嵐のような批判の声が上がりつつある。
 
 彼の発言で今最も注目(無論、悪い意味での注目)を集めているものが、銀行からの借金の元本返済を3年間猶予するという返済猶予(モラトリアム)制度だ。早い話が、「銀行は中小企業や個人の借金の返済期限を長期化せよ」ということだが、これはもう政治家の意見というよりは、世間知らずの老人の発言(暴言)としか思えない。
 
 亀井氏曰く「銀行が借り手の立場を考えないから国が口出ししようという話だ」ということらしいのだが、これでは自ら社会主義者だと認めているようなものだ。
 「銀行が借り手のことを考えない」というのは、ある意味では当たっているが、ある意味ではハズレている。銀行が必要以上に借り手のことを考えられなくなっている背景には、役人の規制問題がある。役人の無駄な規制によって、借金をすることも、借金を返すこともできなくなっている民間企業(特に建築業界)の実体(悪循環)を理解した上で言っているのだろうか?
 
 例えば、友人から「お金を貸してくれ」と頼まれた場合、いくら親しい友人であっても、ある程度の返済期限というものを設けるのが一般的だ。もし、あなたが友人に10万円貸していて、その返済期限を3年伸ばしなさいと言われた場合、どうするだろうか? 「はい、いいですよ」と素直に受け入れるだろうか? 仮に受け入れたとしても、再度、その友人から「お金を貸してほしい」と言われた場合はどうだろう? その時、多くの人はこう思っているはずだ。「お金を貸すのはストレスになるので、なるべく貸さないようにしよう」と。この思考は、個人を銀行に置き換えても、おそらく変わらないだろう。つまり、借金返済期限のモラトリアム化などを行うと、銀行の貸し渋りが更に増加することになるわけだ。
 
 亀井氏の頭の中には、《困っている庶民を助けることができるのが良い政治家だ》という昔ながらの思い込みがあるのかもしれないが、現代の良い政治家の条件とは、(以前にも述べたが)鼠小僧になることではない。国民が生活する上で障害になっているものを取り除くことができる人物こそが現代の(良い)政治家だ。後先考えずにお金をバラまいたり、過保護に生活の面倒をみることが良い政治家とは限らないのだ。
 そもそも政治家というものは慈善事業を行うことが仕事ではない。それに、慈善事業を行うには有り余るほどの原資が必要だ。その原資たる税収が激減している時代に、慈善事業などを行おうと考えること自体が馬鹿げている。その思考自体が、借金思考(将来世代への借金肯定思考)とも言える。借金思考の人物が、借金制度のモラトリアム化を唱えているわけだから、あまりにも説得力に欠けるというものだ。

 銀行がお金を貸さないなら国が銀行にお金を貸すように指導するなどという単純な社会主義発想ではなく、どうすれば銀行がお金を貸すような自由な社会になるのかということを奥深く見つめる視点こそが重要だろう。
 それが解らないということであれば、残念ながらその人物は政治家の器ではない。少なくとも、そんな無知な政治家が国民を正しくリードすることなどできるはずがない。

 亀井氏のイメージを一言で言い表せば「時代錯誤」という言葉がピッタリと当てはまる。もはや政治家というよりは、人の良い世間知らずの田舎の老人そのまんまとも言える。決して悪人ではないのだろうが、残念ながら日本の将来を任せられる政治家とは思えない。

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「マンガ総理」から「マンガ政治」へ

2009092101 鳩山総理が明日(22日)開催される国連気候変動サミットで、「2020年までに温室効果ガスを1990年比25%削減する」という中期目標を正式に発表するらしい。なんでも「あらゆる政策を動員して実現を目指す」と大乗り気らしいのだが、これはもう「マンガ政治」と呼ぶしかなさそうだ。
 麻生元総理は漫画が好きで難しい漢字が読めない「マンガ総理」として有名だったが、どうやら鳩山総理は、政治自体をマンガにしてしまいそうな怪しい雲行きだ。
 
 国連の事務総長は鳩山氏の発言に対して「他国に対するいい例になる」と歓迎しているらしく、日本国内では、《世界中から歓迎されている》というムードが漂っているが、なぜ世界中が歓迎しているのかをよく考える必要があると思う。おそらく、世界中の政治的指導者の中で、本気で「他国の見本になる」などと思っている人は誰もいないだろうと思う。この言葉の裏に隠された彼らの本音はおそらくこうだろう。
 
 「日本という潜在的成長力を持った国が、自ら経済成長を第一目標にしないと断言している。これは我々にとって大いに歓迎すべきことだ」
 
 つまり、“温暖化防止を率先して行う立派な国だ”と思って歓迎しているのではなく、“温暖化防止という幻想を追っている馬鹿な国だ”という意味で喜んでいると考えるべきだろう。早い話が、『馬鹿な国』の見本として取り上げられているわけだ。日本の中の有識者達が鳩山氏を批判しているのもまさに同じ理由によるものだろう。
 
 そもそも1990年時点の温室効果ガスと現在を比較すると、1%も減っていないどころか逆に10%近く上昇している。温室効果ガスを削減するどころか、逆に増加させているという現状をもっと考慮しなければならない。バブル崩壊後、温室効果ガスを全く削減できなかったということは、企業の温室効果ガス削減は全く功を奏さなかったということだ。
 それをこの不況下で、敢えて温室効果ガス削減パーセンテージを大幅に上げ、それを金科玉条のような取り決めにしてしまえば、日本経済にとってどれほどのマイナス効果が発生するのかが解らないのだろうか?
 マニフェストを有言実行するという姿勢は理解できなくもないが、およそ現実味の無いマニフェストを無理矢理に実行されると、トンデモないしっぺ返しを喰らうことになる。それが当の民主党だけであれば何も文句はないが、しっぺ返しを喰らうのは民主党とは無関係の民間企業と民間人の方だ。
 
 仮に25%削減という目標が成就されたとしても、それで一体、誰が幸福になるというのか? そもそも日本だけが温室効果ガスを25%削減できたとして、本当に地球温暖化が防げるのか? あるいは、温室効果ガスと言われているものが、本当に地球温暖化の原因になっているのか? もっと言えば、本当に地球は温暖化に向かっているのか? そういった科学的な事実も曖昧なまま、「温室効果ガスの削減が国の第一目標だ」などと世界中に叫ぶことに果たしてどれだけの意味があるというのだろうか?
 
 大体、日本の1政党でしかない民主党がなぜ世界問題としての環境問題をマニフェストに盛り込む必要があったのかは甚だ疑問だ。日本国内の政治問題にわざわざ世界問題をドッキングさせなければならなかった理由とは一体何だったのだろうか?
 現在の日本国民にとって最も重要なことは、まず国内の景気を良くすることであるはずだ。その最重要課題を素っ飛ばして、いきなり世界問題となっている地球温暖化をストップさせることに躍起になっているというのは、どう考えても不自然だ。そんな目標は景気が良くなってから掲げるべきであり、順序が逆さまになっていると言わざるを得ない。
 
 今回の国連における民主党の鳩山発言によって実現されるものとは、“温室効果ガスの削減”ではなく、“日本経済の削減”という皮肉な結果を齎すことになるだろう。温室効果ガスは全くマイナスにならなくても、日本経済のマイナス効果だけは間違いなく実現されることになる。まさに、マンガ政治、ここに極まれりである。

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現代の政治家の仕事とは?【政権交代<政治変革】

2009090701 政権が自民党から民主党に移り「政権交代」が現実のものとなったが、世間では民主党政権に対しての期待と不安が入り混じった玉虫色ムードが漂っている。
 大抵の人々は、「民主党は国民に何をしてくれるのか?」という期待を抱いているようだが、政治家とは本来、国民に対してどのようなことをするべきなのだろうか? そして国民は政治家に何を望むべきなのだろうか?

 政治家という職業は、富を生み出す職業ではない。富を生み出すことができないのであれば、どこかから富を調達しなければならない。その“どこか”というのは、無論、国民であり、富というのは税金を意味している。
 単純にそう考えると、良い政治家とは国民からより多くの税金を徴収することができる政治家だということになってしまいそうだが、それは時と場合による。高度経済成長期のように富も仕事も有り余っている時代であれば、その有り余っている富(税金)を少しでも多くかき集めて、多くの人に分配することができる「ねずみ小僧」のような政治家が重宝されたのかもしれないが、現代のような富も仕事も激減しているような時代では、有り余っている富が無いため、国民から税金を集めることが必ずしも良いことではなくなってしまった。社会主義的な分配行為が善ではなく悪になる時代を迎えてしまったとも言える。これは要するに、“お金を集めてバラまく”という政治家の仕事自体が意味を為さなくなったということである。豊かな社会では「ねずみ小僧」はヒーローとなるが、貧しい社会での「ねずみ小僧」は、単なる「泥棒」に変化してしまいかねないということでもある。

 こう書くと、「では政治家はいらないのか?」という意見が出てくるかもしれないが、政治家が不要と言っているわけではない。不要なのは、“お金を集めてバラまく”というシステムであって、政治家の方ではない。
 では、政治家はどんな仕事をするべきなのかというと、集めるべき税金が減少しているのだから、いかに企業や個人が税金を多く支払ってくれる環境を創り出すかということに尽きるだろう。税金を如何にして多く集めるべきかという目的は同じであっても、手段が全く違ってくるわけだ。“お金を集める”という発想から、“お金を創る環境を創造する”という全く新しい政策を立案するという重責を背負わなければならないということだ。しかし、現状はどうなっているかというと、そんな素振りは微塵も感じられない。
 
 今日も鳩山氏が、温室効果ガスの25%削減案をマニフェストとして述べたそうだが、景気の回復と、(日本だけが熱くなっている)温室効果ガス削減のどちらが大事なのか?とお聞きしたくなる。「日本(だけ)は温室効果ガス25%削減を実現します」と言うのは、言葉を変えれば、「日本(だけ)は、国際経済競争はせずに衰退国家を目指します」と言っているのと同義とも言える。以前にも述べた(→“環境の改善”より重要な“景気の改善”)が、手段(環境改善)と目的(景気回復)を履き違えてしまっては誰も救われなくなる可能性がある。
 鳩山氏の優先順位は、1(政権交代)2(環境改善)3(景気回復)の順になっているのではないかと思われるが、本来であれば、1番目に(景気回復)が来なければならない。

 話が横道に逸れたので元に戻そう。
 “お金を集める”という作業を、潮干狩りに喩えてみると、昔のように集めるべき自然の貝がいくらでも海岸に生息しているのであれば、政治家の仕事は、その貝を拾って皆に配ればそれでよかった。しかし、拾うべき貝が激減しているのであれば、政治家の行なうべき仕事は、貝を集めることではなく、貝をバラまくことでもなく、貝を増やすことでなければならない。しかし、政治家には貝を創り出すことはできない。貝を創り出すことができるのは、その海で貝を養殖できる人間、つまり、民間の人間だけだ。であれば、政治家のするべき仕事は、その民間の人間が多くの貝を育ててくれるような環境を整えることであるはずだ。
 しかし、当の政治家達は、相変わらず、お金をバラまくことしか考えておらず、国民の方もバラまいてくれるお金の量に期待しているだけという体たらくぶりだ。
 
 富を産み出す環境を整えることが政治家の仕事であるが、政治家には直接、富を創り出すことができない。富を創り出すことのできるのは政府ではなく、一人一人の国民だという当たり前のことが完全に忘れ去られている。現代の日本は、不況である以前に、思考停止に陥っている政府と国民にも大きな問題があると言える。

 それと、もう1つ追加しておくと、政府は富を生み出すことのできる民間人の活動の邪魔を極力しないことだ。できる限り民間に自由を与え、個人の活動を制限しない方が、税収は上がる。それにも関わらず、規制、規制で自ら不自由な環境を創り出してしまっては、何のための政府か分からない。税収を上げてこそ、公務員は収入を得ることができるという基本的な立場さえも忘却してしまっている。
 現代の日本は、お役人自らが不必要に民間を縛り、その結果、税収が激減しているにも関わらず、自分達お役人だけは給料がほとんど下がらないという無茶苦茶な状態に置かれている。
 税収を上げるためには、民間の邪魔をしないこと。これに尽きる。これさえ守ることができれば、税収は100%上がる。民間の邪魔をせず、民間が働きやすい環境を創造すること。現代の政治家の仕事とは、お金をバラまくという単純な仕事ではなく、もっと高次なものに変化しているのである。大事なことは「政権交代」ではなく、「政治変革」なのだ。

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「格差の是正」を叫ぶ格差否定論者の不思議

2009082801 衆議院選挙時期ということもあってか、テレビのニュース番組を見ていると、毎日のように「格差」という言葉が耳に入ってくる。とにかく「格差はいけない」「格差の是正が重要だ」ということで、各政党は格差を無くす政策を追求しなければならないというムードが漂っている。

 ところで、「格差の是正」を述べている格差否定論者というのは、格差をどうやって無くそうと考えているのだろうか? まさか各人の収入を一律平等にすることが解決策だとでも思っているだろうか?
 “格差の是正”というのは、平たく言うならば、“収入の平均化”を意味しているわけだから、平均以上の収入を得ている人は、余ったお金を返却しなければならないということになる。「格差の是正を!」と言っている当人が平均以上の収入を得ているのであれば、自らも是正されるべき該当者だということに気が付いているのだろうか? 気が付いているとしても「自分は格差を生み出している側の人間だから、数百万円返却します」と叫んでいる人がいるだろうか?

 現在の民間企業のサラリーマンの平均年収は400万円程度だと言われているので、平均年収が700万円以上の大企業のサラリーマンや公務員などは、格差を是正するために300万円近く返却しなければならないことになる。
 しかしこんなことは、大企業を中心とした労働組合の発言力を弱めるか、もしくは廃止しなければ実現できないだろう。それでも格差の是正を行なうというのであれば、格差否定論者が発言すべきは、「労働組合は要らない」でなければおかしいという結論になる。

 労働組合というものは、基本的に給料のベースアップを要求する組織であり、そういった組織が大企業を中心とした高収入企業にしか存在しないのであれば、労働組合こそが格差是正の最大の敵ということになる。大企業が全て高収入企業というわけではないが、中小企業には労働組合などというものはほとんど存在しないのだから、《労働組合=大企業御用達の格差製造組織》と考えるに至っても不思議ではないだろう。
 では、そんなことを述べている格差否定論者がいるか?というと、おそらく誰もいない。「労働組合は要らない」と言っている人物がいたとしても、その人物は必ずしも格差否定論者とは限らず、むしろ、格差肯定論者の方が多いかもしれない。

 そもそも格差というものにも2種類の格差がある。それは“公平な格差”と“不公平な格差”だ。
 例えば、大企業と中小企業を比較して、大企業にしかできない高度でリスキーな責任ある仕事を行なった上で開いてしまった格差なら、それは“公平な格差”だと言えるだろう。しかし逆に、全く同じ仕事をしているにも関わらず、大企業というだけで、中小企業よりも大幅に収入が高いというのであれば、それは“不公平な格差”だ。まともに働いている人間が、ほとんど働いていない人間よりも収入が低いということであれば、それも絶対的に“不公平な格差”だ。
 
 もちろん、日本のような学歴に依存した社会では、同じ仕事をしていても学歴によって多少の収入差が開くことはあるだろう。私も昔、大卒だということで、専門学校卒の人より少し給料が多かったので、そのことで露骨に僻(ひが)まれたことがある。当時の私は、学歴のみによる収入差は間違っていると思っていたので、ただ黙っていた。同じ仕事をしているのに大卒というだけで給料が違うというのはおかしいとは常々思っていた。しかし、その制度の中で働いている私には、反論することも諭すこともできなかった。「批判するべきは、私ではなく、社会の制度の方ですよ」とは言えなかった。

 格差肯定論者(私も含む)というのは、基本的に格差は肯定する立場にあるが、条件次第では格差を否定する立場にも回ることになる。その条件というのが、“公平”か“不公平”かという違いだ。
 世に蔓延る格差否定論者達が、一体どちらの格差を是正せよと言っているのかに注意を傾ける必要がある。“不公平な格差”の是正を叫んでいるのであれば、その人物は正論者だと言えるが、“公平な格差”の是正まで叫んでいるのであれば、その人物は偽善者か詐話師ということになる。私には、現代日本の政治家やマスコミのほとんどがこのタイプに属していると思えてしまうのだが…。

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新投資理論「予防マスクも美人投票」

2009082001 新型インフルエンザが再度流行しているとのニュースが伝えられている。一時は収まったと思われていた向きもあるが、実際のところは、単に報道されていなかったというだけで、水面下ではインフルエンザ患者は増加していたのだろうと思う。
 マスコミが騒がなければ、(パニックだけは)沈静化していたが、またまた大々的に悲観的なニュースが流行しようとしている。機を見るに敏な投資家(投機家)達は、先回りしてインフルエンザ関連銘柄の株式を購入しているらしく、再度、関連銘柄(マスク製造メーカー)の株式が暴騰している。

 しかし、機を見るに敏な投資家(投機家)達であるならば、インフルエンザにマスクを使用しても気休めにしかならないということは理解しているはずだ。情報に敏感な彼らのことだから、マスクの効用などは既に知れ渡っているはずだ。それでもマスク関連銘柄を先回りして購入するということは、結局のところ、その情報が真実であるか偽物であるかはあまり関係が無いということなのかもしれない。

 彼らは、“インフルエンザを防ぐにはマスクが効果的だ”と思って株式を購入しているのではなく、実は、“インフルエンザが流行すれば(情報に疎い)国民はパニックに陥ってマスクを購入する”と予想して株式を購入している。つまり、情報の格差を利用してお金儲けを行っているわけだ。それが悪いことか?というと、別に悪くはない。
 「情報の格差」といっても、それは情報を仕入れるスピードが速いか遅いかというような立場を利用したインサイダー的なものではないので全く罪は無いと言える。情報に踊らされてマスクを購入してしまった人がいたとしても、それは自己責任でしかない。
 そもそもマスクを購入するだろう人々は、自分達が情報に踊らされているということなど夢想だにしておらず、「国が正しい情報を提供してくれなかった!」と憤る人も現れないだろう。仮に現れたところで、自らの恥を晒すことになるだけだから、余程の恥知らずな人でない限り黙り込むしかなくなる。

 ケインズの投資理論として「株式投資は美人投票」という有名な言葉がある。対象となる女性が本当に美人であるか不美人であるかは関係がなく、より多くの人から《美人だ》と思われた女性が優勝するという美人コンテストを株式投資に喩えたものである。
 この言葉が意味するものとは要するに、『美人コンテストに出場する女性は必ずしも美人である必要がなく、審査員も美人を見分ける眼を持っている必要はない』ということだ。多くの見る眼のない人々が集まり、「あの人が1番の美人だ」と言えば、いかに不美人であろうとその女性が優勝する。これはある意味で民主主義(この場合は衆愚政治)そのものだとも言える。

 情報の認識力というものは基本的にピラミッド型になっており、高度な情報になればなるほど、その情報を正しく認識できる人間の数は少なくなる。ゆえに、情報の真実性や多様性は無視され、最も認識されやすい情報の広範性のみが優先されることになる。たとえ、その情報が間違った情報であったとしても、最大多数が認識したものが真実と見做される。これはある意味で、「魔女狩り」の行動原理そのものだとも言える。
 「あの女性は魔女だ!」という認識をする人間が最大多数を占めてしまうと、その女性が魔女であるかどうかに関係なく『魔女』と見做され、間違った事実を基に人々は狂気に走ることになる。その狂気に気が付くのは、いつの世でも一部の人間だけであり、大抵の人々は世間の空気だけで動かされてしまう。

 「あの人が1番の美人だ」
 「あの女性は魔女だ!」
 「新型インフルエンザにはマスクが有効だ!」

 上記の言葉は、催眠術の言葉として使用されているという意味では、どれも同じようなものだと言える。もちろん、催眠術師がいるわけではないのだが、多くの人々は何の疑いもなく、これらの言葉を鵜呑みにしてしまう。
 「株式投資は美人投票」という言葉を現代のインフルエンザに置き換えると次のようになる。

 「予防マスク(インフルエンザ予防)も美人投票

 即ち、対象となるインフルエンザに対する効果の有無は関係がなく、より多くの人から《効果がある》と思われたマスクは購入される。そして、違う理由により、マスク製造株式銘柄も購入され暴騰する。これぞまさに狂気のバブル現象とも言える。
 いつの時代の人々も、自らが狂気の渦の中に居ることを認識できず、狂気の渦の中で溺れてしまう。彼らはその渦の中でこう思う、《マスクを買えば安心だ》と…。

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3野党共通公約の大いなる矛盾

2009081501 8月14日、民主党、社民党、国民新党の3野党が共通公約を発表した。
 『郵政事業の4分社化見直し』と『消費税の現行税率据え置き』がメイン政策らしく、前回衆院選の小泉政策については、「市場原理・競争至上主義の経済政策は、国民生活、地域経済を破壊し、雇用不安を増大させ、社会保障・教育のセーフティーネットを瓦解させた」と批判したらしい。
 
 今頃になって、「小泉構造改革は間違いだった」と言いたいようだが、残念ながら、その認識は間違っている。私も現在の自民党を擁護するつもりはないが、こういった野党側のデタラメぶりに比べれば、まだマシと言わざるを得ない。
 基本的に野党側の政策というのは、バラマキ肯定の社会主義政策であることに変わりはないので、極めて危険な政策だと言える。消費税も「即刻上げる」などと言えば選挙で勝てないので、取り敢えず「据え置く」と言っているだけだろう。
 
 「小泉総理が構造改革を行ったので格差が拡大した」などということを本気で言っているのだとすれば、これはもう馬鹿と言うほかない。小泉総理が構造改革を唱えていたことは事実だが、実際のところは構造改革などは行われていないからだ。小泉総理が悪いという批判が成り立つとすれば、それは、構造改革を行ったからではなく、むしろ構造改革を行うことができなかったということに対する批判でなければならない。要するに、構造改革があまりにも中途半端なものであったがために、問題が発生した(注意:格差の拡大のことではない)というだけのことなのだ。
 
 格差の拡大問題にしても、小泉総理の政策云々はほとんど関係がない。「規制緩和したから格差が拡大した」などという理屈はどう考えても辻褄が合わない。これも逆に「規制緩和できなかった(中途半端な規制緩和だった)から格差が拡大した」と言う方が正しい認識だと思う。
 国内で格差が拡大した原因は、よく言われているように、年功序列制度が崩壊し、若者世代がその序列制度の枠から外れてしまったからに他ならない。年功序列制度に守られた既得権益者達と、年功序列制度を無理矢理に維持するために利用される若者世代との格差が表面化してしまったというだけのことだ。
 格差にも2種類の格差があって、肯定するべき格差と否定するべき格差があると思われるが、年功序列制度を基にした格差というものは否定されるべき格差だろう。
 これに対し、個人の能力や努力によって生まれた格差は肯定するべきであって、なんでもかんでも格差は悪などというのは間違っている。
 
 そもそも格差が拡大したと言っても、国外に視点を置けば、今でも日本ほど格差のない国は無いと言われている。そして、多くの途上国から観れば、日本は貧乏国家ではなく、金持ち国家だと思われている。国民の現預金が1500兆円(国民1人あたり1500万円)以上もある国民がどうして貧乏なのか?というのが、海外から観た日本の姿だ。しかし、その金持ち国の政治家達は、「格差の是正を!」「平等社会の実現を!」などと絶叫しているのだから、海外の人々から観れば、空いた口が塞がらないというのが正直なところだろう。
 おかしなことに、「格差の是正を!」などと叫んでいる人々の口からは、格差の元凶である「年功序列制度」という言葉は出てこない。本当に格差の是正に興味があるのであれば、最終的に行き着く答えは「年功序列制度」であると思われるのだが、なぜか、正しい答えを直視しようとせず、「構造改革」という言葉に責任転嫁しようとする。
  
 まず「構造改革」という言葉をよく考えてみよう。その「構造」とは何を意味しているのか? これをハッキリと明確化しないことには、構造改革の何が良くて何が悪いのかが判らないはずだ。実際に多くの国民は、このことを理解していないのだろうと思う。理解していないにも関わらず、「構造改革」という言葉を聞けば条件反射的に《=小泉総理》と連想してしまってはいないだろうか? これはある意味で洗脳状態に置かれていると言えなくもないが、自己の責任と考えれば、ただ思考停止状態に陥っているに過ぎない。
 「構造改革」の「構造」とは、旧態依然とした日本の社会システム(官僚システム)のことであり、「改革」というのは無論、そのシステムを変えるということだ。
 現在言われている「官僚政治からの脱却」というのは、その1つに過ぎない。民主党やみんなの党などが言っている「官僚政治からの脱却」というのは、構造改革の中の1つに過ぎず、本当の構造改革というものは、その程度のものでは済まない。
 日本の社会システムの全てを1から改革(むしろ0から創造)することこそが、本当の構造改革であると考えれば、小泉総理が構造改革を行ったかどうかは考えるまでもないだろう。答えは無論、「できなかった」のである。つまり、構造改革が悪かったのではなく、構造改革を実現できなかったことが悪かったのである。小泉総理の能力が足りなかった(または構造改革を理解していなかった)のか、それとも邪魔する勢力が多過ぎたのか、その真相は解らない。しかし今回の共通公約を出した3野党が構造改革を行う気があるのかどうかは考えるまでもない。

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レンタルDVD店の経済学【ゲオの株主優待制度】

2009080501 株式市場も少しは落ち着きを取り戻しつつあるようで、一時は「5000円まで落ちる」と騒がれていた日経平均株価もようやく心理的節目の10000円を越えてきたようだ。株式投資に「絶対」という言葉はないので、また再び暴落しないとは断言できないものの、最近ではリバウンド狙いで個人投資家の証券口座開設が増加しているらしく、ネット証券各社の手数料合戦も再燃してきたようだ。

 私もイートレードや楽天など、オンラインの証券口座は複数持っているが、多くの株は塩漬け状態になっている。さすがにここ数年の相場で儲けたという人はほとんどいないだろうと思う。デイトレードなどの短期売買や空売り専門の人であれば儲けた人は結構いるのかもしれないが、中長期の投資家ではほとんどいないと見て間違いないだろう。
 だから、某政党の言う「現在10%の株式譲渡益課税率を20%に上げるべきだ」とか「税率を上げないのは金持ち優遇だ」などという批判は根本的に間違っている。特に左系の政治家達は未だに「株式投資家=金持ち」と思っているフシがあるが、こんなのは誤った解釈と言うしかない。大抵の一般投資家は現在、損失を抱えているわけだから、むしろ「株式譲渡益課税は0%にするべきだ」というのが本来のあるべき姿だろう。

 話が少し横道に逸れたので元に戻そう。昨年のサブプライム問題発覚から、大部分の株式は急落したので、「恐くて株など買えない」と言う人も多いと思うが、こういった時期であるからこそ景気にあまり左右されない安定した銘柄を配当狙いで購入しておくのもよいかもしれない。私も最近は配当の無い株は買わないことにしているが、多少のリスクさえ受け入れることができれば、銀行に預けるよりははるかにマシだと思う。

 さて、本題に入ろう。配当狙いのディフェンシブ銘柄(電力株など)もよいと思うが、『株主優待制度』というものにも着目すると、さらに株式投資の妙味は増す。私が最近、遅ればせながら気が付いたものに、『ゲオの株主優待制度』がある。ゲオの株主優待というのは、実に大盤振舞いで、株主になる(正確には株主名簿に登録される)と、なんと新作・旧作を問わず、レンタルが1年中半額で利用できるようになる。しかもキャンペーン期間中にも適用されるので、現在行われている旧作100円キャンペーンなども株主にとっては50円キャンペーンとなる。
 さらに、半年に1回1000円ポイントと1200円の配当が出るので、1株で実質年間4400円分の配当を受け取ることができる。(2009年現在)

 現在、ゲオの株価は7万円台だが、業績から判断しても底打ち感が強く、急落後の自律反発局面にある可能性が高いと言える。2年前の株価は25万円程度だったわけだから、底値が「半値8掛け2割引※」と考えれば、株価指数的にも“下げ過ぎ”との判断が妥当だと思う。7万円で4400円の配当金があるということは、実質6%以上の高配当率ということになるので、割安感は非常に高いと言える。(ゲオを利用する人に限る)

 ※250,000÷2×0.8×0.8=80,000円

 私のような映画好きであれば、ゲオの優待は実に魅力的だ。私の場合、年間に100本程度(海外ドラマも含む)はレンタルするので、100本で30000円と考えても、その半額だから、15000円は浮くことになる。つまり、年間で4400円+15000円で2万円近くに達することになるため、投資した7万円は4年もあれば全額回収できる計算になる。貯金と思って複数株持てば、1年中現金を使わずに(ポイントと配当金で)レンタルすることも可能だ。
 もちろん、ゲオの倒産リスクも考慮しないといけないが、比較的堅調な内需株でもあるので余程のことがない限りその心配は無いだろう。

【注記】
 私は当ブログ閲覧者に無条件にゲオの株式購入を勧めているわけではありません。レンタル好きでゲオを利用している人であれば、株式を持った方が断然お得だということを述べたまでです。
 なお、ゲオ株の購入を検討される方であっても株式投資にリスクは付き物であるので、あくまでも自己責任で売買願います
 無論、私は証券会社の回し者でもなく、ゲオの社員でも関係者でもありませんので、インサイダーなどとは全く無関係です。一応、念のため。


【後日談】(2009.9.30)
 ゲオの株主優待制度を紹介したのも束の間、2ヶ月も経たないうちに、優待制度が変更(ゲオの株主は「優待改悪」と呼んでいる)されてしまったので、一応、追記しておきたいと思う。
 どう変更されたのかというと、『半年間レンタル半額の株主カード』が、『レンタル半額クーポン券10枚』に変更され、なおかつ、1000ポイントの付加も無くなることになった。(適用されるのは2009年7月以降) 優待としての魅力は激減してしまったので、私も今回の優待権利を獲得(2010年6月まで利用可能)した後で、株式を売却した。2株で2〜3万円の実利を得たものの、実に残念だ。
 ゲオにとっては現在の旧作レンタル100円キャンペーンの相次ぐ延長(固定化)と半額優待制度の両立は経済的に難しくなったのかもしれない。一時的に株価は下がるだろうが、株主にとっては、利益が増す分、株式価値は高くなる(実際に配当金は上がるらしい)ので、そのうち上昇に転じることになると思う。頃合いを観て再度、株主にはなろうと思っている。

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『同一労働相違賃金』と『相違労働同一賃金』の違い

2009072701 昨日、久しぶりにサンプロ(サンデープロジェクト)を観ていると、テレビ番組では珍しく「同一労働同一賃金」論議が行われていた。若者論で有名な城 繁幸氏がコメンテーターで出演していたためか、珍しくテレビで本音トークを聴くことができた。
 マスコミのテレビ番組に出演している人間が、そのマスコミの問題点を鋭く追及しているような姿はなかなか観れるものではない。
 しかし、同じくコメンテーターの財部氏も言っていたように、パネラーの政治家達の底の浅い論議には甚だ呆れてしまった。与党側はなぜかいつもよりはまともな意見を言っているように見えたが、野党側は相変わらず机上の空論を展開しているようにしか見えなかった。

 野党側はとにかく“思い込み”が激しいようで、未だに“企業悪玉論”から脱皮できずに、ひたすら派遣切りバッシングを行っているように見えた。その論理は「派遣切りは人道的ではない」とか「企業は派遣切りしないシステムを構築することもできる」というようなものだが、こんなのはただの結果論(しかも表面的)に過ぎない。
 パネラーの政治家達は「原因が…」「原因が…」と言っている割りには、言っている本人自身が全くその原因を理解できていないという有り様だった。
 もし理解した上で(多くの国民を騙そうと思って)語っていたのだとすれば、相当したたかで頭がキレる論客だと言えそうだが、実際のところはその逆だと思った方がよさそうだ。“頭がキレる”のではなく、“頭がキレている”と言った方が正しいかもしれない。
 「各党の論客」というのは、単に「口達者な論客」というだけで、少しでも社会や経済に理解のある人間からあのような床屋談議を観れば、まさしく財部氏の言うように「馬鹿馬鹿しい」の一言に尽きると思う。

 城氏の言うように、『同一労働同一賃金』を語るのだとすれば、なぜそれができないのか?という根本の問題(日本の社会構造)まで遡らないと原因が判らないと思うのだが、政治家達が述べている原因は、「企業が都合の良いように派遣社員制度を悪用している」とか「正社員と派遣社員の待遇に差が有り過ぎる」という表面的な認識のみで止まっている。少なくとも、なぜ正社員の給料は高く維持され、クビにならないのか?というところまで掘り下げないことには論議するテーマ(内容)すら定まらない。
 要するに、論議している人間の認識レベルがてんでバラバラなので意見が噛み合わず、簡単な問題の答えを出すこともできない(=時間の無駄)という状態なのだ。

 政治家達がいかに優秀な大学を卒業したエリートであったとしても、それは単なる受験エリートというだけのことであり、社会に出てから評価された本当のエリートではない。ゆえに政策論議が単なる机上の空論に陥りがちだ。
 城氏自身も東大法学部出身の受験エリートではあるが、実際に社会(富士通)に出てから学んだ経験を踏まえた上で本音を語ることのできる人間であるためか、明らかに政治家達とは大きな違いがあるように思う。無論、社会に出てから政治家になったという人もいるだろうが、建前論議に花を咲かせるようになってしまえば、社会に出た経験も無きに等しい。社会経験自体が活かされていないわけだから、そう思われても仕方がないだろう。

 『同一労働同一賃金』については以前にも当ブログで述べさせてもらったことがある(→「同一労働相違賃金」の年功序列制度が、その時は『同一労働相違賃金』について述べた。同じ仕事を行っているのに賃金に大きな差があるのはおかしいというのがその要旨だが、これとは別に『相違労働同一賃金』という問題もある。政治家達には、この2つの違い(『同一労働同一賃金』を入れれば3つ)がよく解っていないらしい。

 『相違労働同一賃金』というのは、全く違う仕事(高度な仕事とそうでない仕事)を行っている人の賃金も一緒にしなければならないという、いわば、共産主義的な考えだ。その考えは、努力した者も努力しなかった者も同一賃金にしなければならないという極めて危険な発想(早い話が嫉妬)が元にある。こういったことを言う人達は、「努力」という言葉を「能力」という言葉に置き換え、生まれながらに能力の違いがあるのはおかしいという立場に立って、曲論を、さも正論であるかのように述べる。その思想は、単に能力のある人間から富を奪い取ろうと考える邪(よこしま)な人間を数多く創り出してしまった。

 能力のある人間は、努力しても努力しただけの結果が返ってこないという社会では喪失感を感じることになり、本来生み出すはずの富も最小限に抑制されることになる。努力すれば努力するだけ(言い換えれば、能力を発揮すればするほどに)生み出した富を搾取されるのであれば、誰も努力する気を失ってしまう。
 本来、能力がある人がいかんなく能力を発揮することができる社会であれば、その生み出した富によって、経済的弱者といわれる人達も救えるかもしれない(それこそが本当の共産主義)にも関わらず、その可能性を“嫉妬”という劣情によって自ら破壊してしまっていることに気が付いていないというのが、共産主義者と言われる人達の真の姿であると言える。

 マイクロソフトのビル・ゲイツにしても、アメリカがその才能をいかんなく発揮できる自由な社会であったからこそ、その生み出した富の何割かを寄付という形で多くの人々が受けることができた。これが、自由のない嫉妬が渦巻いているような国であれば、どうなっていただろうか? ビル・ゲイツは嫉妬の対象とされ、マスコミに叩かれた挙げ句、マイクロソフトという大企業すら生まれなかったかもしれない。

 さて、その嫉妬が渦巻いている国とはどこの国のことだろうか? 日本という国が、はたしてそういう国でないと言えるだろうか?
 日本を本当に三流衰退国家にしたくなければ、『同一労働同一賃金』と『相違労働同一賃金』を決して混同してはならない。そして『同一労働相違賃金』も見直さなければならない。くれぐれも政治家達の甘い言葉には騙されないうように注意しよう。

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自民党の捨て身の戦略は功を奏するか?

2009072201 今日の新聞を見てみると、自民党、民主党ともに全面広告が掲載されていた。また互いの揚げ足取りでも行っているのか…と思って読み進むと、「えっ!?」と驚く箇所を発見した。それは自民党側の広告の方なのだが、そこには以下のような文章(民主党批判)が書かれてあった。
 
  『(民主党は)偏った教育を進める日教組が、強力な支持母体
  
 当ブログでも以前に記事として取り上げたことがある(→「ぶっ壊す」発言から始まるストーリー)が、確か、中山大臣がこれと同じようなことを言っていたはずだ。
 しかし、中山氏の発言は『失言』とされ、辞任に追い込まれたことは記憶に新しい。当時は自民党内部からも激しい批判がなされていたと記憶しているが、あれは一体なんだったのだろうか? 「日教組をぶっ壊す」と言ったことで袋だたきにあってしまった中山大臣も、この広告にはさぞかしビックリしたことだろうと思う。
 
 しかし、このところの自民党の焦り方は尋常ではない。恥を承知で、東国原知事や橋下知事にお声がけしたかと思えば、今度は、中山大臣に変わって、タブー(?)になっていた日教組批判まで行うのだから、もはや、なんでもありの様相を呈してきたようだ。
 国民からの反感を恐れて中山氏を辞任に追い込んだ当の自民党が、中山氏の発言は正しかったと認めたのだから驚きだ。今後、マスコミも黙ってはいないだろう。もし黙っているようなら、マスコミは何かに操られているということになる。
 
 「窮鼠猫を噛む」と言うが、まさしく現在の自民党は、マスコミに噛みついてでも勝利を手にしたいという心境なのかもしれない。しかし今回もまた遅きに失した感は否めない。どうせなら、当時、中山氏を擁護する立場にたって、民主党と大論争でも繰り広げていれば、風向きも変わっていたかもしれないが、今更、踵を返しても逆効果になる可能性も否定できない。おそらく当時、中山氏を支持していた多くの国民は、「言っていることがコロコロ変わり、信用できない」と思うだろう。
 
 それでも勝ちたいと言うのであれば、中山大臣を総理大臣にでもして、ついでに田母神氏も要職に就けるような戦略でも練った方が良いかもしれない。もはや、国民には建前は通用しない。本気で政権を獲りたいのであれば、本音を語ることのできる人間を前面に出すしかないと思われる。
 はたして自民党にそこまでする覚悟があるのかどうかは分からないが、捨て身の戦法でしか今度の選挙戦を勝ち抜くことはできないだろう。また、建前を捨てて本音を語れる政党でなければ、これからの政治家は務まらないだろう。
 
 ところで、現政権には残念ながら、「自由党」なるものが存在していない。
 「自民党は自由民主党ではないのか?」という意見もあるかもしれないが、私から観れば、現在の自民党は『社会民社党』と言った方が近いと思う。他の政党も以下に示すと次のようになる。
 
 自由民主党 → 社会民社党
 民主党 → 民社党
 社民党 → 労働組合党
 共産党 → 日本共貧党
 
 あくまでも私見ではあるが、この国には、『自由』や『国民』を第一に重んじる政党が存在していない(政治家個人としては存在していると思う)のではないかと思われる。まるでブラックジョークのようだが、私の本音でもある。当ブログを閲覧しておられる人の中に政治家の人がいるかもしれないので、反感を買うようなことを書くのはなるべく避けたいところだが、ブログに建前を書いても始まらないので、ご了承の程を。
 
(追記)
 先程、記事を書いて投稿後、ヤフーニュースを見てみると、なんと中山氏が出馬表明したことが明らかになったようだ。これはちょっと面白くなってきた。今後の展開に注目しよう。

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『最低賃金1000円』マニフェストの愚

2009071601 民主党が、総選挙のマニフェスト(選挙公約)として『最低賃金を1000円にする』と発表したことが話題になっている。
 いかにも民主党らしい(労働者受けするような)マニフェストだと言えるが、齎す結果を考えれば、これはトンデモない公約だとも言える。今の日本の経済状況で本当に『最低時給1000円』などを実施するとトンデモない事態を招くことは必至であり、ほとんど狂気の沙汰に近いと思える。
 実現不可能なことを理解した上で虚偽の公約を発表しているだけ(=選挙戦略)ならよい(?)のだが、もし本当に実現することを前提に考えているのだとすれば、これは極めて危険なマニフェストだと言える。なぜそう思えるのかを、以下に示そう。

 まず、現在の最低時給だが、新聞の求人広告などを見ても分かる通り、700円台というのが一般的だ。800円や900円という求人広告もよく見かけるが、実際の統計では最低時給の全国平均は700円程度であるらしい。
 これが1000円になるということは、1000÷700で約1.4倍ということになる。比率で考えれば、月給20万円の人の給料が、いきなり28万円に昇給するのと同じことになる。確かに給料がいきなり1.4倍にもなれば、労働者の気持ちとしては嬉しいだろう。しかし、仕事の質も量も不変のままで給料だけを1.4倍にできるのか?というと、これは企業側から見れば極めて難しいと言わざるを得ない。
 本来、時給を1000円支払っても充分に利益が出るのに、労働者から搾取する目的のために敢えて700円まで下げているような会社や、べらぼうに高い給料をもらっているノンワーキングリッチ的な社員が大勢おり、その給料を下げるというなら話は別だが、今の日本にそのような会社がそうそう有るとは思えない。絶対的な仕事量が減少しているのだから、逆に時給を600円、500円に下げたいというような会社もあるはずだ。

 例えば、時給800円の人が10人いて、8時間で10000個の電機部品を組み立てている会社があった場合、1人あたり1時間に125個の電機部品を組み立てていることになる。この状態で時給を1.4倍に上げるとなれば、企業側が採るべき手段は基本的に次の2通りしかない。

 A、1時間あたりの組み立て個数を増加させる。
 
 この場合、1時間で(125×1.4=)175個の製品を組み立てなければいけないということになる。1.4倍のスピードで組み立てることができる人はよいとしても、できない人は“仕事にならない”という理由で解雇になる可能性がある。
 
 しかし、Aはあくまでも1日に14000個(10000個×1.4倍)の製品を生産するだけの需要があればの話であり、1日の総仕事量が10000個しかない場合は、次のBを選択することになる。

 B、10000個を組み立てる人数だけで仕事を行う
   (1.4倍で仕事をすれば3人は不要になる)
 
 つまり、AであれBであれ、仕事が遅い人員(または余剰人員)は解雇されるということになる。
 そう考えると、民主党の最低賃金マニフェストは“弱者に優しいマニフェスト”ではなくて、“弱者に厳しいマニフェスト”であることは誰にでも解ると思う。
 
 「いや、そんなことはない、最低賃金が1000円になれば皆ハッピーになれるはずだ!」と憤る人がいるかもしれないが、そんな理屈が罷り通る社会があるとすれば、それは公務員の世界だけだろう。こんな非現実的なマニフェストの実現を本気で信じている人がいるとすれば、それは需要と供給のバランスや仕事の合理化などは考えたこともない人間ということになる。民間企業に勤めている人であれば、こんなことは考えるまでもない常識であって、今の時代、給料が無条件に1.4倍に跳ね上がるなどということはまず有り得ないと考えるべきだ。

 「では最低賃金が700円のままでハッピーになれるのか!?」と言う人がいるかもしれないが、『最低賃金』というものにあまりこだわり過ぎると本質を見失うことになる。
 最低賃金を上げるよりも、むしろ、物価を下げるというマニフェストにした方がはるかに現実味があると思う。1000円でしか買えないものを700円に下げるという逆転の発想こそが必要だろう。
 賃金が安いか高いかは決して金額の高低によって決まるものではない。賃金と物価のバランスによって決まるものだ。今まで500円でしか買えなかった商品が、100円ショップで買えるようになったことは、部分的に給料が5倍に上がったということを意味している。たとえ時給が700円であっても、その700円で買えるものが増えれば、問題はないわけだ。

 例えば、住宅や自動車、食料品、光熱費などが、現在の半額にでもなれば、月給が10万円でも月給20万円と同じ生活ができる。逆に、最低賃金を1000円に上げても、物価が今の2倍になれば、全く無意味だ。重要なことはお金の高低ではなく、お金の交換価値の高低だ。賃金の高い低いという認識は、物価の高低によって決まるという事実にこそ目を向けなければならない。国民にとっての良いマニフェストとは単に賃金を上げることではなく、生活水準を上げることなのである。
 単に最低賃金を上げたからといって手放しに喜べる労働環境が現出するわけではない。むしろ、労働環境は悪化するかもしれないという疑問をこそ考えるべきだ。労働条件というものも、思考を停止したままでは決して改善しないということも併せて考える必要があるだろう。

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『ジリ貧の発想』に陥った書店のコスト削減策

2009071201 先日、よく通っていた郊外型の書店が急に閉店してしまった。私にとっては、会社帰りに車で立ち寄れる便利な書店であったので非常に重宝していたのだが、このところの出版不況の影響もあってか、ついに店を畳んでしまったようだ。
 小さな書店はもとより、郊外型の書店まで潰れるようでは、書店を取り巻く環境は非常に深刻だとも言える。このままいくと、本当に街の書店は姿を消してしまうのではないか?という感じもする。以前から、今後生き残っていくのは、人が多く集まる駅前の書店や巨大なショッピングセンター内にあるような書店、そしてアマゾンのような巨大なインターネット書店のみになってしまうのではないか?と思ってはいたが、その不安は、急速に現実味を帯びてきたようだ。

 さて、今日も別の書店まで足を運んできたのだが、最近の書店に行って気になることが1つある。それは、店員が“万引き(立ち読み)防止専門員”のような立ち居振る舞いになっているというものだ。今日行った書店などは、レジに女性が1人いて、他に2人の男性店員がいたのだが、その2人の男性店員は、黙って突っ立ったままで、鋭い目線で店内を監視していた。客に紛れて万引きを監視している囮捜査官(通称:サクラ)などはいると聞いたことがあるが、店員が「万引きするな」「立ち読みするな」と言わんばかりにあからさまに監視していては逆に客も逃げるのではないか?と思ってしまった。
 
 “売る量を増やそう”とせずに、“万引きされる量を減らそう”という書店側の苦肉の策なのかもしれないが、これでは悪循環に陥ってしまうのではないか?と心配になる。各書店の万引きの被害額がどれくらいのものかは知らないが、こんな後ろ向きの商売を行っていたのでは、自ら売上を縮小させ、自滅していくことに繋がるのではないかと助言の1つもしたくなる。
 最近はどこの企業でもコスト削減を行ってはいるが、書店側が導き出したコスト削減案が『万引き防止によって利益確保』では先が思いやられる。
 
 新刊を万引きして古本屋やオークションで転売するような悪質な客がいることは知っているが、一般客まで犯罪者のような目で監視されたのでは、購買意欲も萎えてしまう。
 通常、本を買う時は、パラパラとページをめくって目次ぐらいは見てから買うものだと思うのだが、こんな警官のような店員がいては、本の中身を確認するどころか、本を手に取るのも憚(はばか)られてしまう。結局、買うべき本も買わずに店を後にしてしまうことになる。(実際に私はそうなってしまった)
 最近はアマゾンなどでも、立ち読み感覚でネット上で数ページは閲覧できるようになってきつつある。これなどは、ネットで購入する(購入を躊躇う)消費者の気持ちをよく掴んでおり、実際に売上アップに貢献しているはずだ。いくら有名で信用のある人物が書いた本であっても、まず目次ぐらいは確認してから買いたいというのが消費者の率直な気持ちだろう。そういった消費者心理までも完全に無視してしまっては、街の書店の唯一の利点(ネットではできない利点)までが失われることになる。
 
 仮に1日に10万円の売上があるとすれば、書店側の利益は2万円程度になる。万引きを防止することによって、利益の2万円は維持できたとしても、売上自体が減ってしまえば、その2万円も維持できなくなってしまう。確かに万引きは書店にとっては大きなマイナスかもしれないが、それを取り締まることだけが目的となってしまっては、本末転倒だと思う。あくまでも本を多く売る努力をした上での万引き防止策でなければ意味がない

 例えばネットなどで売れている本は何か?というようなアンテナを常にはって、市場調査を行っているような書店は、“努力している”ということが店内に入るだけで伝わってくる。本を多く買ってくれる多読家にターゲットを絞ろうと思えば、自らも多読家と同じような心境になる努力をすることが必要だと思う。
 本を万引きするような客に焦点を絞るのではなく、本を多く買ってくれる客を大事にするという心掛けを持つ方がはるかに重要なことだと思う。そういった書店としての当たり前の努力もせずに、万引きの防止だけを考えるようになっては、伸ばせる売上も伸ばすことができずにジリ貧になっていくだけだろう。要するに、万引き防止策というのは、ジリ貧の発想なのである。
 
 今日の男性店員の目を見ていると、どうも《自分の役目は万引き防止だ》と思い込んでいるような気がした。本を売ることが目的ではなく、万引きを防止することが目的になってしまっていることに当の本人が気が付いていないのだとすれば、残念ながらこの書店もそのうち閉店するかもしれないなという冷めた感情を抱いて店を後にしたのだった。

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スケープゴートにされた『市場原理』

2009070301 最近は週休3日制を導入している会社があるらしい。実際に私の周りにも期間限定で金曜日を定休日にしている会社が2社ほどある。その理由は、「仕事が減少しているのでそうせざるを得ない」というもので、早い話が、労働時間を短縮して帳尻を合わせるというワークシェアリング的なものらしい。
 毎日、仕事(時間)に追われている私などは、「週休3日制」などと聞くと羨ましいとも思えてしまう。しかし週休3日制になった当人にとっては、理由が理由なだけに、あまりノンビリとも構えていられないというのが本音だろうと思う。当然のことながら、給料も減給されているらしいので、尚更ではある。

 現代のようにオートメーション化が進んだ社会では、本来であれば週休3日制でも充分に生活できるようになって然るべきだとも思えるのだが、いくら世の中が便利になっても人間の働く時間は変わっていない…と言うより、労働がより過酷になっているようにも感じられる。
 仕事が効率化され、社会が便利に住み易くなれば、週休3日制や週休4日制の会社が出てきても不思議ではないはずだが、実際は逆の世の中になってしまっている。不況であるがゆえに週休3日制となり、安堵感ではなく危機感を感じなければならない。これでは何のための近代化なのか分からないとも言える。人々は近代化することによって齎されるべき果実を得ていないということになる。この辺の矛盾の解明は実に奥深く難解なためか、未だ明解な答えを用意できる社会学者は世に出ていない(と思う)。

 さて、仕事が減少したことによって齎された負の現象として、『安値競争』というものがある。現代の日本企業は、とにかく仕事を受注して売上につなげようと必死になり、採算が取れない仕事であっても、取り敢えず受注して次に繋げようと躍起になっている。本当に次に繋がればいいのだが、仮に繋がったとしても1度安値で受注してしまった仕事の料金を次から簡単に上げるわけにもいかず、結局は採算ギリギリか赤字受注で仕事をしていかなければならなくなる。安値受注(赤字受注)が災いしてあえなく経営破綻という事態を招いてしまったケースも結構あるのではないかと思う。

 よく「市場原理に任せれば最適な値段に落ち着く」と言われることがあるが、これは正しいか?というと、実は正しい。しかしそれには条件がある。その条件を現在の日本企業の安値競争が満たしているかというと、実は満たしていない。そのせいで、安値競争地獄(注意:グローバル化によるデフレとは別の意味でのデフレ地獄)に陥っているとも言える。
 では、その条件とは何かというと、それは「自然な市場法則のみに委ねる」という条件だ。現代の企業間の安値競争には、人間の心理というものが非常に大きく絡んでしまっているため、市場法則自体が正しく機能していない。ゆえに市場が歪んでしまっているように見える。その歪みを見て「市場原理は崩壊した」だの「市場は完全ではなかった」というようなトンチンカンな言説をよく見かけるが、こんなのは、「私は市場原理を理解していません」と言っているようなものだ。
 『市場原理』というものは、自然の法則のようなものであって、歪むようなことも崩壊するようなことも本来であれば有り得ない。『市場原理』とは『1+1=2』と同じように常に固定された法則でしかない。それが『1+1=1』とか『1+1=3』というような結果になってしまうのは、そこに人間の感情と行動が介在しているためだ。
 
 先の数式を具体的な言葉で表せば次のような言葉に置き換えられるかもしれない。
 
 『1+1=2』・・・市場原理
 『1+1=1』・・・ワーキングプア
 『1+1=3』・・・ノンワーキングリッチ

 例えば、どう努力しても原価が100万円かかる仕事があったとしよう。もし、市場原理が正しく機能していれば、この仕事を100万円以下で受注するような会社は現れない。それが市場原理というものだ。しかし、ここに、とにかく受注最優先で赤字覚悟の90万円で受注するような会社が現れると、市場原理が機能していないことになってしまう。
 さて、ここで質問。この場合、市場原理が機能しなくなったのは、市場原理が不完全だったせいだろうか? そしてそのことをもって、市場原理が崩壊したと言えるだろうか?
 答えは、どちらもノーであり、別に市場原理のせいでもなければ、市場原理が崩壊したわけでもない。「商売上の下心」という人間の心理が加わったことによって、市場原理が機能しなくなってしまっているだけのことだ。

 では逆の場合を考えてみよう。100万円の仕事を200万円で受注するような場合も市場原理からは大きく乖離してしまっている。こういった異常な乖離は、主に独占や談合によって齎されるものだと言えるだろう。そのような暴利を貪るような乖離が発生してしまった原因も市場原理のせいではなく、市場原理が崩壊したからでもない。この場合の原因も、人間のズルい思惑などが働いたためだ。

 つまり、市場原理を歪めてしまうのは、いつの場合も人間の心理と行動が原因になっているというわけだ。アメリカの金融危機にしても、市場原理が崩壊したのではなく、単に人間の思惑が行き過ぎたために破綻を招いてしまったというだけの話だ。市場原理が崩壊したのではなく、市場原理によって崩壊してしまったのだ。何が? 人間の生み出した“欲望”という名のバブルが。
 そう考えると、市場原理批判というものは、巧妙なスケープゴート論だと言えるのかもしれない。いや、日本ではむしろ、スケープゴートだということに気付きもしないで市場原理批判を行っているオメデタイ人達(評論家やエコノミスト)の方がはるかに多いのかもしれない。

 市場原理とは不変の法則のことであり、もし本当に市場原理が崩壊したのであれば、オークションという市場も同時に崩壊することを意味する。では現在、ヤフーなどのオークション市場は崩壊しているか?と言えば、サブプライム問題に関係なく通常通り動いている。市場原理が機能しているがゆえにオークション市場は成り立っているわけで、需要と供給のバランスが一時的に崩れることはあっても、市場原理という法則自体が崩壊するようなことは有り得ない。それは空気のように自然に存在している目に見えない法則でしかないからだ。
 世に蔓延る市場原理批判というものを、もう1度、原点に立ち戻って冷静に考えてみよう。そうすれば、それが如何に的外れな妄論であるのかが見えてくるはずだ。
 
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「同一労働相違賃金」の年功序列制度

2009061901 「同一労働同一賃金」という言葉がある。読んで字の如く、同じ労働であれば同じ賃金という、ごく当たり前の意味だが、最近、この言葉をネット上でよく見かけるようになった人は多いと思う。
 なぜこのようなごく当たり前のことが今頃になって囁かれ出したのかというと、答えは至って簡単で、このグローバル経済不況下にあっても日本ではこの「同一労働同一賃金」が実現されていないためだ。

 よく聞かれる有名な対比話に、“銀行の窓口女性”と“ファーストフードの女性販売員”というものがある。この両者を比べると、収入には数倍の開きがあるが、仕事内容としては実はそれほど変わらない。一方は“お金”、一方は“食料”と、扱っている商品の違いがあるとはいえ、接客する上での応対に収入差ほどの開きは感じられない。服装や接客態度、社員教育が徹底されているという意味でのサービスレベルの違いは少しはあるのかもしれないが、それでもサービスに数倍の差があるとは思えない。これは誰もが認めるところだろうと思う。しかし、銀行員と販売員には厳然とした収入差がある。このことは不況下であっても変わらない。この例の場合、完全な同一労働ではないにしても、過剰なまでの賃金格差があることは誰の目にも明らかだ。
 
 「同一労働同一賃金」が実現されていないと思われる例はもっと身近にもある。普通の企業を例にとってみても、新入社員とベテラン社員では同じ仕事を行っていても賃金に大きな開きがある。
 「そんなの年功序列の日本企業では当たり前だ」と言う人がいるかもしれないが、「同一労働同一賃金」を真に考える場合、年功序列制度というものを避けては通れないので話を続ける。
 
 例えば、ある機械組立工員が、プリンターを1台組み立てるとして、それを組み立てる工員の入社年度(または年齢)によって組立料金(=給料)が異なるというのは、どう考えてもおかしい。新入社員が組み立てれば1万円で、ベテラン社員が組み立てれば3万円などということは本来であれば有り得ない。組み立てに要する時間が3倍違うというなら話は別だが、単に経験や年齢だけで商品の値段が変わってくるというようなことは芸術品でもない限り有り得ないはずだ。
 ところが、日本の企業はこの有り得ないシステムを今まで採用してきた。いや、正確に言えば、ある時点までは採用することができた。なぜか? この例の場合で言えば、3倍の給料を支払っても充分に利益が出る構造であったからだ。そしてそれは同時に、若年社員の給料を限りなく安く設定していたということでもある。
 
 ところが、経済がグローバル化してしまうと、幸か不幸か、日本国内で新人とベテランの組立料金の違いなどを考えている場合ではなくなってしまった。新人が1万円、ベテランが3万円だったとしても、海外で組み立てれば、数千円でできるようになってしまえば、ベテランの価値などは吹っ飛んでしまう。そのベテランが誰にも真似のできない代物を組み立てるというなら話は別だが、ただ経験や年齢が上というだけでは、何の価値も無いようになってしまった。況して、利益率自体が急減してしまったので、3万円も支払えば企業は採算が取れないという事態に追い込まれてしまった。
 しかし、そんな事態に追い込まれても、このベテランは解雇もされず給料もほとんど下がらなかった。すると、どうなったか? その企業は倒産したか? いや、しなかった。ではどうなったのか? 新人を雇わず、臨時雇用員を雇い、組立料金を5000円に下げることで対応した。これが日本企業の年功序列制度維持の最終手段であり最後の砦だった。しかし、もはや、その最終手段も限界に達しつつあり、いつ何時、その砦が崩れるか分からないというところまで来ている。(中小企業の場合は既に崩れている)

 「年功序列制度」と聞くと、どこか「丁稚奉公」や「徒弟制度」というようなイメージを抱いてしまうが、実際のところは、ただの「ねずみ講制度」でしかなかった。早い話が、多くの日本企業では国内でしか通用しない「ねずみ講経営」を行ってきたというだけのことであり、その制度を日本特有の素晴らしい文化だと礼賛してきただけの話なのである。経済のグローバル化と異常な少子化によってその制度を維持することができなくなり、事実上その制度が崩壊しているにも関わらず、無理矢理に維持し続けようと足掻いた結果が、能力があっても定職に就けないというロスジェネ世代を生んでしまったわけだ。

 気が付けば、日本経済自体が「ねずみ講」システムの上に成り立っていたという悪夢のような現実が表面化し、二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなってしまったというのが、現代の日本の姿でもある。ゆえに、この硬直した悪夢のような現実を断ち切る手段は自動的に導き出される。その手段とは、「年功序列制度」の廃止…というよりも、日本システムの再起動だ。総てにおいて官僚化してしまった融通の利かない日本システムの全てを1度リセットすることが、この悪夢から抜け出す最善の方法であるはずなのだが、この悪夢の中でしか生きることができない獏(夢を食う霊獣)のような抵抗勢力(=既得権益者達)が頑として立ちはだかっているため、誰にもリセットボタンが押すことができない。いや、多くの人はリセットボタンを押そうとも考えないし、リセットボタンが有ることにさえ気が付いていないかもしれない。(もちろん目に見えるボタンではないのだが…)

 まさしくこのリセットボタンこそは、日本にあるパンドラの箱だとも言える。この箱を開ければ一時的にあらゆる災いが押し寄せることになるかもしれない。しかし、ギリシャ神話のパンドラの箱と違うところが1つだけある。それは、最後の『希望』が出てくる可能性が100%であるということだ。
 「同一労働同一賃金」を突き詰めると、この日本社会の目に見えないリセットボタン【パンドラの箱】に行き着くことになる。この箱を開けるべきか、それともそのままにしておくべきか? それが、現代日本の「同一労働同一賃金」論争の本質なのである。

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“環境の改善”より重要な“景気の改善”

2009061301

 今週、麻生首相から「2005年に比べて15%削減」という言葉が発表された。無論、この数値は政府の無駄を15%削減するということではなく、『2020年までの温室効果ガス削減の中期目標数値』のことだ。これまでは「1990年に比べて7%削減」と言われてきたが、なぜか基準年を2005年にすることで15%までハネ上がってしまった。と言っても、この数値を1990年のままで計算すると8%削減ということになるらしいので、実質1%上乗せされたことになる。
 いきなり目標数値が2倍にもハネ上がったので、イメージ的には「なにやらスゴい目標数値が出た」と思っている人もいるようだが、麻生総理らしい単純な数値トリックと言えそうだ。
 
 温室効果ガス削減については少し前にも記事を書いたばかりだが、現在は「エコ」というものを考えずしては企業経営が成り立たなくなってきている。実質的(科学的)に温室効果ガスを削減することでどれだけの効果があるか判らないにも関わらず、有無を言わさず、企業は環境問題に取り組まなければならない風潮になりつつある。こういった、ある意味で異常とも言える不可思議社会を糾弾している人が大勢いるのは、ごく自然な姿であると思われる。しかし、誤解を恐れずに言えば、私は、たとえ嘘やデタラメであったとしても、「エコ」という幻を追うことを全て否定するつもりはない。(条件付きで認めるという意味)
 
 昨今の日本企業は不況の影響も手伝い明確な目標を持たないためか、『投資』というものを極力控えるようになってしまった。そういった投資減退社会にあっては、無理にでも企業が投資を行うような政策が必要になってくる。必要と言ってもこれは「必要悪」という意味だが、それが『エコ政策』だとも言える。
 「エコ」という目標を実現するためには、企業は投資活動を行い、消費者も消費活動を行わざるを得なくなる。たとえ「エコ」なるものが実体のない空虚なものであったとしても、その目標に向かって、眠っていた企業の『投資』と消費者の『消費』を喚起することができるのであれば、経済活動が活発化し景気が拡大することになるので、結果的には国民の生活水準は上がり幸せを享受することができるようになる。
 
 もちろん、エコ活動に取り組む過程において、マイナスとなる場合もあるだろう。無意味なエコ競争に敗れて職を失うという悲劇に見舞われる人も出てくるかもしれないし、エコ活動を逆手にとった詐欺が横行し、被害を被る人も大勢出てくるかもしれない。しかし、社会全体(マクロ的)として観れば、プラスになる可能性の方がはるかに高いだろう。ちょうどそれは、インターネットの普及(またはデジタル社会の到来)によって、それまでのアナログ的な職業が衰退してしまったことに似ていると言えるかもしれない。確かにIT化によって職を失った人はいるだろうが、それ以上に新しい職を得た人がいるのであれば、それは社会全体として観ればプラスだ。新たな産業が生まれることによって、旧い産業に従事していた人は職を失うことになるかもしれないが、その新たな産業がそれ以上の需要(人)を必要とする巨大な産業に成長するのであれば、それは認めざるを得ない変化だと言える。

 「栄枯盛衰」という言葉もあるように、新しいものが生まれた時には、旧いものは消えていくものであり、それは悲しいながらも受け入れざるを得ない人間社会の現実だ。別の言葉で言えば「諸行無常」とも言う。常に身の周りにあるものは変転していき、人間の心すらも同じ状態を維持し続けることはできない。なぜできないのかと言えば、それは「停滞」を意味するからに他ならない。
 人は進歩・成長することによって喜びを感じるのであり、「停滞」からは決して永続的に喜びを感じることはできない。旧態依然としたものが蔓延り、新しいものが何も生まれない社会というのは、人間そのものの否定を意味する。旧社会主義国家が次々と崩壊していった原因は、理想を掲げつつも、その実、“人間社会の否定を目指した”ことにある。管理されたロボット国家の建造を、理想郷だと誤解したことが原因だ。
 
 内閣府が昨日発表した2009年5月度の消費者態度指数は、前月に比べて3.3%改善したらしい。今のところ5ヶ月連続で改善しているようだが、短期的には定額給付金の影響もあり、「改善した」という発表は当面続くことになるだろう。
 ここでも重要なことは 『消費者心理』だ。消費者の心理をいかに良くするか?ということを政策のメインテーマに持ってくることこそが、景気回復の至上命題でもある。これは要するに消費をいかにして拡大させるかということでもある。
 そういう意味では、かなり強引とはいえ、『エコ』をテーマとした消費拡大策は、成功すれば景気の改善を齎すことになるはずだ。
 しかし、この政策は『嘘から出た実』的な側面が強いため、あまり無茶なことをすると、返って景気が悪化するというリスクを抱えている。『エコ』という幻を追い求めることは結構だが、具体的な数値目標を絶対化して、その数値を実現することのみを目標としてしまっては、元も子も無くなる危険性がある。
 政府が最終的な目標とするべきは、“景気の改善”(目的)であり“環境の改善”(手段)ではない。“景気の改善”を齎してこそ嘘は許される。くれぐれも手段と目的を見誤らないことを願う。

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ブックオフ買収における真の改善策とは?

2009060701 先月、大手出版社がこぞってブックオフの株式を取得するというニュースが流れた。講談社、小学館、集英社、大日本印刷など、本の流通に関わる大手企業が手を結んでの買収ということで、いろんな噂が飛び交った。その噂は大きく分けて次の2つに分かれる。

 1、本の新しい流通形態を構築することによって、
   出版不況を打破するという目的のための買収

 2、出版不況の一因と目されているブックオフを中心
   とした中古本売買の合法的な規制強化を行うため
   の買収

 マスコミは概ね、1の見解を採っているようで、新聞等では前向き(?)なニュースとして伝えられていた。しかしネットでは毎度のようにマスコミとは反対の2の意見が多く見られるようだ。

 私もよくブックオフを利用している常連客なので、この事件は他人事とは思えない。以前にもブックオフの商売方法の是非については当ブログで述べたことがある。『ブックオフは文化の破壊者か?』というタイトルで、小林よしのり氏のブックオフ批判に対する1つの反論として述べさせてもらった。

 かつては私も小林よしのり氏のファンだった頃があるので、あまり小林氏に対する批判はしたくなかったのだが、あまりにも行き過ぎた極論は看過するわけにはいかないという意味で反論させてもらった。と言っても、当ブログの世間に対しての影響力など微々たるものなので、声無き反論に近かったかもしれないが…。
 しかし当ブログを訪れた人の1割以上の人はリピーターとなってくれている(下記のリピート率グラフ表を参照)ようなので、仮に100万人の訪問者がいれば10万人の人が閲覧してくれる計算になる。そう考えると、訪問者さえ上手く増やすことができれば、少しは影響力が出てくるかもしれないし、実際に「ブックオフ」というキーワードで当ブログを訪れてくれる人も結構いるようなので、将来的には少しは期待できるかもしれないなという淡い期待を抱いている。
 
Repeat200906_4

 小林よしのり氏についての話はまた別の機会に譲るとして、本題に戻ろう。まずその前に『本』について少しだけ述べておきたい。
 本という物の価値というのは、実に相対的であり、読んだ人によっては大きく価値が違ってくるものだ。本という物理的な物を製造するという物質的な価値にそれほどの違いはないが、読む人の判断によっては、千円の本が1万円の価値を有する場合もあるし、1円の価値も無い(=読むに値しない)という場合も有り得る。また、どんなに価値があると思われる本であっても、読んだ本人にその本に書かれてある内容が理解できないのであれば、価値が無くなる場合も有り得る。つまり、本の内容としてのレベルもさることながら、読む人の認識レベルによっても本の価値というものは大きく違ってくるわけだ。
 
 そういう観点に立って書店を観てみると、現在の本の値段というものは、基本的に本の製造原価に対しての大体の値段設定がなされているだけであり、内容で値段が付けられているわけではない。その本を書くのに10年かかろうが、1ヶ月でできようが、著作者が製作に費やした経費も一切計上されておらず、新書なら新書、単行本なら単行本という感じで全て一律の値段設定がなされているだけだ。いかに売れっこの著者であったとしても、少しデザイン的な装丁にお金をかけた分だけ高くなっている程度だ。これはどういうことかというと、一言で言えば、「玉石混淆」だということができると思う。現在の出版業界には正確に本の価値を計るモノサシが無い状態だということもできる。売れる本も売れない本も全て一律の値段設定になっているということは、ある人にとっては有り難いことなのかもしれないが、よく考えると不思議なことでもある。それは、需要のあるものは高くなり、需要のないものは安くなるという市場法則を完全に無視した値段設定がなされてきたということでもある。違った視点で見れば、これは当たりハズレのあるクジみたいなものだということもできるだろう。
 
 そういった市場法則を無視した業界に颯爽と出現したのがブックオフを中心とした中古本市場だ。そこでは当たりハズレがあるとはいえ、一応、全ての本が値段分けされている。出版年度、人気本、売れっこ著者、本の状態などで本の値段が分類されている。これは消費者から観れば、新刊のように決められた値段でしか買えないという不自由さが無いという意味でも魅力的に見える。本人が価値の有ると判断している本が安価で売られていれば、買って得をした気分にもなる。また、本来、値段相応の価値が無いと思われていた本にも手が伸びるというプラス効果もある。
 
 今回の買収劇の目的が、前向きなものか後向きなものかというのは現状では判断のしようがない。ただ1つだけ確かなことは、“出版業界の現状を改善する”という目的があることだけは間違いない。これ以上の悪化を防ぐための現状維持策と考えられなくもないが、既存の大手出版企業がタッグを組んでまで行ったわけだから、今後、なにかしらの変化が起こることになるはずだ。その変化がどのようなものかによって、この買収劇が如何なるものであったのかが明らかになってくるだろう。近いうちにブックオフの店舗から100円本が200円、300円になったり、全ての本にビニールが巻かれるようなことがあれば、消費者の反感を買うことになるだろうが、逆にブックオフで新刊も販売されるようになれば、消費者から支持されるかもしれない。

 とにかく、今までの出版業界は“本の価値”というものを無視してきた。本の内容だけでなく、目に見える本の状態までも無視した値段設定を行ってきた。折れ曲がった本であろうが、蛍光灯焼けした本であろうが、全て同じ値段でしか販売できないという消費者の購買心理を無視した販売を行ってきた。現在の出版業界の低迷は、そういった社会主義的な販売体制が維持できなくなってきたということの証左だと言うこともできるだろう。つまり、著作者や消費者のことをあまり考えずに、製造販売業者(=出版業者)を中心に値段設定がなされてきたことが問題なのである。
 
 現在の出版業界の低迷を招いた原因はブックオフなどの古本販売業者が出現したことだけにあるのではなく、著作権や消費者、そして市場法則といったものを無視し続けてきた出版業界側の責任でもある。言わば自業自得だ。古本売買によっても著作者に印税のようなものが少しでも入るのであれば、漫画家などからブックオフ批判などは出てくるはずもない。そもそも、ブックオフの商売が目障りだと言うのであれば、図書館も全て閉鎖しなければ筋が通らない。古本売買ではお金が動くが、図書館ではお金は動かないわけだから、経済的な視点で観れば、ブックオフを批判するよりも図書館を批判した方が経済効果は大きいはずだ。(別に図書館の閉鎖を勧めているわけではありません。念のため)
 
 既存書店・・・販売者中心、消費者無視、経済効果高
 古本業者・・・消費者中心、著作者無視、経済効果有
 図書館・・・・消費者中心、著作者無視、経済効果無
 
 こういった矛盾を抱えたまま、出版業界が現在の状況を改善することは極めて難しいと思う。ブックオフと協力したとしても、販売の自由度が増さない限り、成功することは難しいだろう。況して、ブックオフの販売を規制する方向に傾けば、事態はさらに悪化することになるだろう。それは出版業界だけでなく、日本経済全体にも悪影響を及ぼすことになる。
 出版業界が現在の低迷から脱する手段は、出版業界に市場法則を持ち込むことが大前提であり、市場を無視した方策を採ると取り返しがつかない事態を招く可能性がある。それは市場法則ならぬ自然の法則に逆らったことによる反作用としての結果が現れるというだけのことだ。自然の法則に逆らわず、著作者や消費者のことを念頭に置いた改善策を講じるしか救われる術はないという至極当然のことでもある。改善するべきは、『販売方法』ではなく『矛盾』なのである。
 
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「精神論」の是非と真の景気対策とは?

 大手電機9社の2009年度3月期決算が発表されたが、三菱電機を除く8社が赤字決算となったようだ。今年の2月の時点では三洋電機も損益0で一応の黒字という予想だったが、赤字に転落してしまったようだ。
 ちなみに大手9社は以下の通り。
2009051701
  日立製作所
  パナソニック
  ソニー
  東芝
  富士通
  NEC
  三菱電機
  シャープ
  三洋電機
  
 このところの不況による“消費減退”と“円高”が赤字の原因とされているが、各社は更なる人員削減と工場などの海外移転化などによって急場を凌ごうと考えているようだ。
 
 ところで、このところ、社員の士気を高めて不況に立ち向かうという日本企業お得意の「精神論」はあまり聞かれなくなった。出てくる不況対策は経費削減のリストラ策ばかりで前向き(?)な対策はどこかへ吹き飛んでしまったかのようだ。
 私は基本的に「精神論」否定論者ではないが、かつて日本企業で大流行りした「精神論」とは何だったのか? そしてそれは今後必要なものなのかについて少し考えてみたいと思う。
 
 「精神論」というものを考える場合、どうしても避けて通れない大事な点がある。それは何かというと、「需要と供給の問題」だ。かつての日本経済の成長期には旺盛な需要が存在した。いくら仕事をしても次から次へと仕事が入ってくるという巨大な需要が存在したために、その需要に応えること(つまり供給の拡大)こそが企業の大きな使命だった。
 具体的な例で言うと、100人の従業員を抱える企業に対して、150人分の仕事が常に存在したために、企業の目的は、いかに多くの仕事をこなすことができるかということだった。100人で110人、120人、130人分の仕事をこなせるようになることが第一目的に成らざるを得ない時代だった。そのために、各企業は自前の企業哲学というものを唱え、社員の士気を向上させることによって仕事の合理化に努めた。元々勤勉な国民性も手伝い、この企業精神論は大きな力を発揮した。実際に従業員達は真面目に仕事をこなし、より多くの供給を社会に返すことに成功した。その甲斐もあってか、日本製の企業哲学がもてはやされ、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」というような言葉も生まれ、日本は好循環に支えられた経済大国となり、黄金の時代を謳歌した。
 
 しかし、時代は変わり、現在では経済規模(=需要)自体がかつての60%にまで低下した。これは要するに100人に対して、100人分の仕事が有るか無いかというような状態になったことを意味している。こういった需要減退社会にあっては、100人の人が110人、120人、130人分の仕事をこなす理由がなくなったということを意味している。しかし、各企業は“仕事が減った”という別の理由から合理化に努めなければならなくなった。企業は「限られた需要」という名のパイを奪う競争に明け暮れた結果、必然的に仕事が無くなるという企業が生まれることになった。(もちろんこれは日本国内だけの話で済むものではないので、そうなった理由は他にもある)
 
 さて、もう一度、「精神論」に話を戻そう。例えば、100人に対して80人分の仕事しか無いような時代であれば「精神論」は必要だろうか? 答えは難しい。精神論が合理化を齎すものであるならば、それはいつの時代でも必要ではある。しかし、需要減退社会にあって精神論を追求すればするほど、企業間格差や所得格差が発生することになることもまた(皮肉な)事実だ。需要が有り余っている時代における格差は有って然るべきであり否定するべきものではないが、需要が足りない時代に発生する格差は少し問題かもしれない。
 競争(または努力)することによって格差が生まれることは仕方のないことであり、「格差は何でも悪」というような評論家は間違っている。しかし、競争(努力)することによって格差を埋めることができるという前提があってこその格差肯定であり、競争(努力)する前から既に格差が存在しており、格差を埋めることができないような社会では、話は別だ。
 
 というわけで、需要激減という大不況の最中にあって、「精神論こそが不況を打破する」とか「不況から脱することができないのは精神論が失われたからだ」と言うような意見は、現実が見えていない妄説と言えなくもない。
 では「精神論」は無用なのか?と言えば、そうではない。しかし唯一絶対的に必要なものとは言えない。では何が必要なのか?と言うと、答えは「需要」だ。需要激減という大不況の最中にあって本当に必要なものとは、「需要」と言うほかない。つまり、「新たな仕事」を創り出すことだ。(注意:公共事業のことではない)
 
 精神論経営の甲斐無く赤字経営に陥った企業が為すべきことは、際限のない安値競争に明け暮れて自分だけが生き残ろうとすることではなく、新たな需要を創り出すことにこそ、そのエネルギーを使うべきなのだ。そして政府はそういった企業の努力を支えることにこそ限られた税金を使用するべきだろう。それこそが、本当の景気対策だと言える。

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定額給付金の利用価値とは?

2009050601 ゴールデンウィーク中に某有名電機ショップに出かけると、次のような店内放送が流されていた。
 
 「定額給付金が出たら、○○○○○で買い物しよう」
 
 なるほど、確かに1人12000円〜20000円程度の給付金では、電機製品の購入がもっとも適しているのかもしれない。18歳までの学生であれば、音楽プレーヤー(iPod)を購入する人は結構いるのだろうと思う。本来であれば、携帯電話を買い替える人が大勢いてもおかしくないところだが、以前から何度も述べているように残念ながら今回の定額給付金では、携帯電話は購入対象品から外れてしまう。
 
 さて、実施されるまで批判の多かった定額給付金だが、ゴールデンウィーク前には既に多くの人が文句を言わずに受け取ったようだ。通常は銀行振込で受け取ることになるようなので文句を言いたくても言えないのだが、少なくとも貰った給付金は消費にまわさないことには景気は良くならないので、私も12000円は買い物券と思って使用させてもらった。
 何を購入したのかと言うと、当ブログ左欄でもご紹介しているロジクールのPC用スピーカー(Z4i)と、同じくロジクールのマウス(TM-250 トラックマン ホイール )、そして本を何冊か購入して12000円を消化した。
 
 ロジクール(スイス)というメーカーは、パソコン用のキーボードやマウスで有名だが、最近はスピーカーでも人気があるらしいので、定額給付金を利用して試しに購入してみた。実際に音を聴いてみると、明らかに昔のPCスピーカーとは一線を画しており、その音の進歩にはちょっとしたカルチャーショックを覚えてしまった。
 店頭で3万円以上するBOSEのスピーカーと聴き比べてみたのだが、値段ほどの差は感じられず、“万人受けする音”という意味では、ロジクールスピーカーに軍配が上がるかもしれない。
 パソコンのiTunesと、こういった安価で高音質のPC用スピーカーさえあれば、もはや昔の高価なオーディオセットなどは無用の長物と化してしまう(私も実際にそうなってしまった)。オーディオメーカーには死活問題かもしれないが、消費者にとっては省スペース化に繋がることもあり有り難いことなのかもしれない。
 最近はオーディオメーカーの老舗であるオンキョーもパソコンメーカーのソーテックを買収し、パソコン寄りの製品を製造しているようで、低価格化と高音質化の相乗効果で販売も好調で業績も盛り返してきているらしい。

 定額給付金に話を戻そう。ネット上ではいくつかの『定額給付金アンケート』なるものが実施されており、「定額給付金が100万円なら何に使用しますか?」というアンケート(下記参照)があったので、私もアンケートに答えてみた。しかし、現実問題としては1人100万円の定額給付金などは有り得ない(総額200兆円を超えてしまう)。今回の定額給付金2兆円でも、実際には非常な大金だ。庶民的な感覚では「2兆円」と言われてもあまりピンとこないかもしれないが、2兆円を積んでみると、距離にして20kmにもなる。(1億円で1mと考えれば、2兆円で20000mになる)
 そう考えると如何に莫大な金額かが分かる。この2兆円が全て消費にまわされることになれば、一時的には確かに景気が回復するかもしれない。しかし、あくまでもそれは一過性の対症療法に過ぎず、継続的な景気回復策では有り得ないことも確かだ。

 まあそれでも、風が吹けば桶屋が儲かる、いや、人間万事塞翁が馬という諺もあるように、小さな景況感の変化が大きな景気回復に繋がる可能性が全くないと言い切ることはできない。ただ、そういった小さな可能性を未来に繋げることができるかどうかは、人々が定額給付金というものを全て消費にまわすことができるかどうかにかかっている。全員がセコい考えを捨てて、一致して協力することができれば、金余りの日本の景気などは直ぐさま回復する可能性が高いのだが、他人の足を引っ張ることが生き甲斐というような人が大勢を占めているためか景気は悪くなる一方だ。景気を回復する手段(お金)は持っているのに、目的自体がバラバラなので、景気を回復させることができない。そういった愚かな国民性が景気回復を阻んでいるということに気が付いてくれればいいのだが、これが一番難しいことなのかもしれない…。

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プリンターメーカーの経済学

2009033101 各電機メーカーの今期の決算は、米国金融危機の影響も手伝ってか、ほとんどが赤字決算になってしまったそうだ。液晶テレビやプラズマディスプレイなどの主力商品も安値競争が災いしてか、思ったほど利益が出ない商品と化してしまったようだ。主力商品だけでなく、その他のパソコンやデジタルカメラなどの商品も、新商品の開発に投資した資金を回収するのも難しいというような状況であり、各電機メーカーは抜本的な経営の見直しを余儀無くされている。

 いくら経済がグローバル化したとはいえ、際限のない安値競争のみに陥ると、最終的に生き残った企業とて、一度(ひとたび)不況の風が吹けば、その安値競争努力が仇となってしまう。
 景気の良い時(需要が旺盛な時)は安値競争によって適正価格を見い出すことができるが、景気の悪い時(需要が消沈している時)に安値競争のみを行っても、適正価格が定まる頃には適正価格を維持するだけで精一杯となり、結局は自分の首を絞めることに繋がってしまう。
 現在のような景気の悪い時には、商品を販売する手法にも『知恵』が必要になる。知恵にもいろいろあると思われるが、プリンターの販売形態の中にその知恵の1つを見い出すヒントが隠されているかもしれない。

 年々、高性能化するインクジェットプリンターも、その性能とは裏腹に価格は年々下がっている。インクジェットプリンターも他のコンピューター製品と同様に、未だ価格破壊(デフレ化)の真っただ中にあり、最近では1万円を切る複合機プリンターもよく目にするようになってきた。消費者から観ればこれは実に有り難いことではあるのだが、生産者(メーカー)にとっては甚だ迷惑なことかもしれない。

 デフレ肯定論で有名な経済評論家の長谷川慶太郎氏はこう言っている。「デフレは消費者に天国、生産者に地獄」だと。まさにその通りだ。
 しかし、プリンター製造会社も単に価格破壊の波に身を任せているわけではない。プリンター本体の価格はどんどん低下してはいるが、プリンターのインク価格はほとんど低下していない(品質は向上している)ことは周知の通りだ。言わずと知れたことではあるが、プリンター製造メーカーの利益の源泉はプリンター本体ではなく、プリンターのインクやトナーに依存している。

 前回に述べた携帯電話と同様、まさか高性能な複合機プリンターが1台1万円で製造できるなどとは誰も思っていない。人件費が日本の10〜20分の1の中国などの工場で生産すれば採算は取れるのかもしれないが、販売価格が1台1万円程度では利益が出たとしてもたかがしれていると思う。
 プリンターには商品本体とは別に“消耗品”というものがあり、携帯電話にも商品本体とは別に“使用料”というものがある。この両者の場合は、本体以外のものに価格を転嫁することができるので、(運良く)安値競争地獄にハマらずに済んでいるという一面がある。
 携帯電話にせよ、プリンターにせよ、その販売手法は『損をして得を取れ』方式であり、「高価なハードを安価で提供いたしますから、その代わりにインクやトナーを購入してください」という暗黙のギブ・アンド・テイクモデルだとも言える。(携帯電話の場合は、この販売システムが少し変わってしまったが…)

 話は少し外れるが、ここでもし、ある消費者団体(またはお役人)が、「プリンター本体価格に比べてインクの価格は高過ぎる。もっと消耗品の価格を下げて本体価格を上げるべきだ」と述べて規制を行えばどうなるだろうか?
 答えは、前回にも述べた通り、プリンターの販売台数が激減し、プリンター製造メーカーは窮地に立たされることになるだろう。日本のプリンター製造メーカーは、プリンターやコピー機の製造・販売がメインであって、携帯電話製造メーカーのように、その事業からいつでも撤退できるというわけではない。ヘタをすると倒産の憂き目に遇う可能性も否定できないので、こんな馬鹿なことを言う人が現れないことを願う。

 話を元に戻そう。不況下にあって単に安値競争に身を任せているだけでは、限られたパイの奪い合いにしかならず、全体としてはジリ貧になっていくだけであり、あまりにも知恵が無さ過ぎると思う。
 こう書くと、市場原理批判をしているように聞こえるかもしれないが、そうではなくて、ここで批判しているものとは、市場原理ではなくて、人間心理だ。さらに言うなら、市場に振り回されるだけで、市場を利用できない窮屈な精神だ。市場とは人間の心理の方向性によって決定されるものであり、決して、市場が人間に対して向かうべき方向性を与えるものではない
 
 プリンターメーカーが意識した上で現在のような販売体制を構築したのかどうかは知らないが、メーカーは何か価格を転嫁できるような間接的な付随商品を開発していく方向にシフトしていくべきかもしれない。早い話が、付加価値の創造であり、新たな市場の開拓である。そして、政府やお役人はそういった民間の企業努力を後押しするべきであり、決して邪魔をしてはならない。それが、景気を良くする上で最も大事なことでもある。

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「消費者心理」と「お役人心理」の乖離

2009032201 不況の影響でパソコンの売れ行きは鈍化しているそうだが、イーモバイルの100円パソコンの売れ行きは好調らしい。
 100円なら売れて当然だと思われがちだが、まさか高性能なパソコンが100円で製造できるなどとは誰も思っていない。当然、イーモバイルの毎月の基本使用料から残りのパソコン本体料金が(パソコン製造メーカーに)支払われている。
 これは当然のことではあるが、よく考えてみると、こういった販売形態は何もイーモバイルが初めて開始したわけではない。そう、よく思い出してみると、数年前までは「1円携帯」という言葉がよく使用されていたはずだ。しかしその『1円携帯』というものは総務省のお達しにより、存在しなくなってしまった。
 『1円携帯』というものが出回っていた時は、携帯電話業界も活況を呈しており、携帯電話に付随する各種メーカーも景気が良かったと記憶しているが、このお達しが出て以来、携帯電話の販売台数は落ち込み、携帯電話業界にもまさかの不況が訪れることになった。

 なぜ、携帯電話を1円で販売してはいけないのに、パソコンは100円で販売してもよいのだろうか?という素朴な疑問は置いておくとして、携帯電話を1円で販売してはいけなくなった理由は、“携帯電話の通話料金が高過ぎる”というものだった。 携帯電話自体も先のパソコンと同様、まさか1円で製造できるわけがないので、各携帯メーカーは毎月の使用料金に携帯電話の残りの本体料金を上乗せしていた。
 よくよく考えると、確かにトータル的には通話料金が高い方が消費者は損をしていることになるので、総務省のお達しもまんざらでもないとも言える。全体として見れば一応、消費者は得をしていることになるだろう。
 しかし、総務省には“消費者心理”というものが全く理解できていなかった。いや、もし仮に消費者心理を理解できていたとしても、消費者保護を優先し、消費者心理は無視されていただろう。彼らには、“消費者心理を巧みに利用してお金儲けをする”などということは許すわけにはいかないという建前(お役人心理)があるため、少しでもズルく見える経済行為はすぐさま規制の対象となってしまう。

 景気とは、その言葉の通り“”のものであって、消費者の消費意欲(購買意欲)を喚起することは、景気を良くするためには欠かせない目的の1つでもある。
 携帯電話を1円で購入した人が、後から通話料金によって残りの携帯電話料金を徴収されていたのだとしても、誰も騙されたとは思わないだろう。1円で携帯電話を購入できて得をしたと思うことはあっても、後から高い通話料金を徴収されるなどとは通常、考えないはずだ。
 
 1円携帯も100円パソコンも消費者心理を巧みに利用した販売形態であって、別に消費者を騙しているわけではない。その1円携帯の販売形態が詐欺だなどと言って、消費者心理を無視した規制を行うとどうなっただろうか?
 消費者が「目からウロコが落ちました」と言って喜んだだろうか? 余程のヘビーユーザーであれば通話料金が安くなって喜んだかもしれないが、おそらくそんな人はほとんどいないと思う。大抵の人は、携帯電話を買い替えできなくなったという不満を抱いているだけで、通話料金が安くなったから良かったなどとは思っていないと思う。実際にそう言っている人は周りにも大勢いるし、私も同意見だ。通話料金は自分自身の工夫で安く抑えることができるが、携帯電話本体は自分自身の工夫ではどうすることもできない。ゆえに消費者はストレスを感じ、消費意欲を減退させてしまう。
 
 消費者の不満はともかくとして、景気自体に悪影響を及ぼしていることは看過するわけにはいかない。総務省のお役人達は景気が悪くなっても困らないかもしれないが、民間人はもろに景気の影響を受けることになるため、事態はより深刻だ。
 1円携帯が存在していた時代の方が、現在よりも活気があったと思うのは私の気のせいだろうか? 米国金融危機の有無や影響に関係なく、1円携帯が存在していた時代の方が、住み易い社会だったと思えるのは錯覚だろうか?
 
 繰り返しになるが、景気を良くするためには、消費者がお金を使うようになる対策を立てなければいけない。イーモバイルの販売形態は、まさしく“消費者にお金を使わせる”という目的を達成した販売テクニックであり、決して、詐欺でもなければ、ズル賢いわけでもない。消費者心理を巧みに利用して、消費者の財布の紐を緩ませることができるのであれば、それは結果的には景気を良くすることに繋がり、日本経済にとってもプラスになることは間違いない。
 『景気を良くする』という大きな目的を達成するためには、「ズルい」などという個人的な感情にこだわっている場合ではない。そのような小さな正義という建前のために、経済発展という本質を犠牲にするわけにはいかないのだ。
 消費者心理とお役人心理は決して交わることがない。消費者心理を犠牲にして、お役人心理を優先すれば、景気は悪くなるしかないという冷厳なる現実をこそ直視しなければ、真なる景気の回復は有り得ないということを知らなければならない。

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小沢ショック(国策捜査と官策捜査)

2009031301

 現在、政治世界の一大関心事と言えば、民主党の小沢氏への強制捜査事件(通称:小沢ショック)であることは言うまでもないが、この捜査については、様々なところで物議を醸している。
 この時期、まるでタイミングを計ったかのように行われた捜査だっただけに、世間一般では俗に「国策捜査」とも呼ばれている。“この時期”というのは無論、“自民党のピンチ時”を意味していることは言うまでもない。

 民主党の小沢氏は「不公正な検察権力の行使だ」と述べ、鳩山氏は「陰謀だ」とも述べている。こういったことを公の場で述べると、世間からは冷やかな目で見られがちだが、おそらくこの2人の言葉は的を射ていると思う。ただ、その陰謀が自民党によって企てられたというのは、間違っていると思う。
 では誰が企てたのか? あくまでも仮説ではあるが、おそらく官僚だというのが、まともな有識者の意見だろう。実際にそう推察している人は大勢いるが、相変わらず、マスコミは官僚の天下り問題を取り上げるだけで、肝心な部分には触れようともしない。

 ではなぜ、官僚が小沢氏潰しに動いたのか? それはおそらく、自民党政権を維持するため(=現状維持)というのがその理由だろうが、具体的には次の2つの理由が考えられる。

 1、自民党政権を維持すれば、官僚として甘い汁を吸い続けられるから。
   (民主党が政権を取れば、公務員改革を断行される恐れがあるから)

 2、民主党政権が誕生すれば、さらに不況が悪化するという危険を感じたから。

 2であればまだ許せるかもしれないが、おそらく1だろうと思う。
 どちらにしても、自分達の都合か、勝手な思い込みで動いたと言えそうだが、完全に国民を無視した行動であったことだけは間違いない。そもそも、「国策」というからには、民意というものを重視する必要があると思うのだが、全く民意が反映されていないことは誰の目にも明らかだ。現在の自民党の支持率は10%台であり、明らかに国民の声は「自民党政治にノー」であるわけだから、その政敵である民主党の党首に対して、政治生命を奪うに等しい捜査を行うなどは常識では考えられない。捜査するにしても、時期というものがあるだろう。これでは2の「国策捜査」ではなく、1の「官策捜査」としか思えない。

 私は基本的にノンポリの立場なので、どちらの政党も贔屓にする気はないし、民主党が政権を取ったとしても政治が良くなるとは思っていないが、今回の捜査には大きな疑問を抱いており、民主党には同情の念を抱いている。小沢氏の政治献金問題よりも、民意を無視した捜査が平然と行われることの方が大きな問題だと思う。
 誤解を恐れずに言えば、仮に多少の政治献金があったとしても、それで国民の生活がどうなるという問題ではない。多くのお金が必要な政治家にとって、多少の政治献金というものはあっても不思議ではないと思う。そんな小さな問題で、巨額の税金を使って大々的な捜査を行うことの方がはるかに無駄でもある。

 この問題を考えるにあたって、格好の教材となる書籍がタイミングよく発売された。ホリエモンこと、堀江貴文氏のライブドア事件暴露本『徹底抗戦』だ。
 この本を読めば、今回の小沢氏に対する強制捜査の思惑も垣間見えるような気がする。
 3年前のライブドア事件も国策捜査(官策捜査)の典型のような事件であったので、事件のバックグラウンドを考える上では参考になるかもしれない。
 当時の民主党は、ホリエモンの偽メールを見抜けなかったことで、前原代表が辞任し、永田議員が辞職し、最終的には自殺するという悲劇を演じることになってしまったが、皮肉なことに今回、党の代表に国策捜査が及ぶことになってしまった。
 民主党が本当に政権を取る気があるのならば、ホリエモンを見習って徹底抗戦するという捨て身の奇策を演じてみてはどうだろうか? もちろん、相手は自民党ではなく、国家権力(=官僚)である。

(追記)文中でも述べましたが、今回の記事はあくまでも仮説です。しかし、冷静に考えれば、そういう結論にならざるを得ないという前提で書いています。私は陰謀論などというものにはほとんど興味はありませんので、感情的な批判は御遠慮願います。

 

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ある経済学者の華麗なる(?)転身

2009022401

 このところ、経済人の間で話題になっている出来事と言えば、経済学者の中谷 巌氏の衝撃的な転身(?)ぶりがあげられる。中谷氏は構造改革推進論者として有名で、よく経済番組のコメンテーターも務めていたので、誰もが知っている経済学者でもある。どこか上品なイメージのある中谷氏は経済学者としても人気があったようだが、最近は不人気ぶりが目立つようになったようだ。

 彼の転身を批判しているのには、主として次の2種類の人達がいる。
 1、自由主義論者
 2、社会主義者(共産主義者)及び保守主義者

 1の自由主義論者からは、「裏切られた」「がっかりした」という批判が多いようだ。中谷氏は確か経済の教科書も書いておられたと思うが、今回の転身は自ら「それらは間違いでした」と認めたようなものなので、立腹したくなる気持ちもよく解る。
 かくいう私も彼の書籍は2冊ほど持っている。昨年に古本で購入した『痛快!経済学』と『にっぽんリセット』という書籍だが、幸か不幸か未だ読んでいない(積ん読状態)。これから暇な時にでも読もうと楽しみにしていたのだが、著者自身が立場を変えてしまったとあっては、読むべきかどうか複雑な気分だ。

 一方、2の社会主義者達(保守主義者も含む)からは、「今頃気が付いたのか」という批判が多いようだ。面白いのは、2からは批判だけでなく、礼賛も多いことだ。「彼は勇気がある」「間違いを認めたことは評価できる」という意見も多い。

 しかし、マクロ経済学の入門書まで書いていたような学者が、こうも簡単に自由主義論者という立場を捨てて転身してしまったというのは、不思議と言うほかない。それほどの衝撃的な出来事が彼の身に降り掛かったのだろうか?と考えてもみたが、考えつくのは、アメリカのマネー経済の破綻くらいしか見当たらない。はたしてその程度の出来事で、自ら何十年もかかって積み上げてきたものを一切合切、反故にできるものなのだろうか?
 氏の転身ぶりは、まるで唯物論者が神秘体験をして信仰に目覚めたかのようでもある。あるいは、アメリカのマネー経済の破綻を見るにつけ、自らの中にあった信仰(神の見えざる手)が崩れ去ってしまったとでもいうのだろうか? 私には、テレビに映る彼の現在の目が、神の姿を見て真実を悟った人間のような澄んだ目には見えないのだが…。

 世俗的な視点で観れば、現在の日本のような過剰なまでの市場原理否定社会にあっては、中谷氏のような構造改革論者は世間からの風当たりも強かったのかもしれない。そういった孤立感からも四面楚歌に遭遇したような気持ちも抱いていたのかもしれない。しかしもし仮にそうだったとしても、世間の風向き加減で風見鶏のようにコロコロと意見を変えてしまうのでは、真の学者の姿とは言えないだろうし、一般人に対してもあまり良い印象を与えないことも確かだ。はたして、そこまで危険を冒してまで懺悔する必要があったのだろうか?

 中谷氏は近著『資本主義はなぜ自壊したのか』の中で「市場は完全ではなかった」と述懐しているそうだが、そんなことは当たり前のことであり、「市場は完璧だ」などと思っているのは真の自由主義論者ではない。仮に市場原理が完全なものであったとしても、そこに人間が絡むことによって不完全なものに変化する。ゆえに市場は健全に管理する必要もある。
 「管理が必要なのであれば市場は完全ではない」というのは、社会主義者の言い分であり、真の自由主義論者の意見ではない。市場は完全ではないが「国が管理するより市場に任せた方が安全」というのが、真の自由主義論者の意見だ。《市場が完璧なものでなければならない》と思い込んでいるのは、実は市場否定主義者である社会主義者の方なのだ。
 市場が完全なものでないように資本主義自体も完全なものではない。どちらも進歩途上にある不完全なものだ。不完全なものであるがゆえに、上手く育てることが必要なのであり、その可能性を活かすも殺すも人間次第、それが資本主義の姿とも言える。不完全だからといって「自壊した」「切り捨ててしまえ」と言うのでは、そこには何の進歩も発展もない。不完全だからという理由で「国が管理しなければならない」となると、まさしく社会主義者の論理展開であり、そうなると市場の可能性自体も崩壊してしまう。

 つまるところ、市場というものは人間と同じようなものだと考えれば解りやすいかもしれない。成長過程にある子供と同じようなものだと考えれば、その子供に対してどう接するか? 管理で縛るか、自由に任せるか。子供が正常な大人になるためには、必要最低限の管理(しつけ)は必要だろうが、それ以上に自由を尊重する姿勢も必要だ。完全に管理することは不可能であるし、行き過ぎた自由も危険を伴う。しかし、子供を信用するのであれば、自由を優先するだろう。それが自由主義論者の基本的な考え方だ。それは同時に人間の可能性を容認する思想でもある。

 中谷氏を観ていると、喩えて言うなら、自分の息子が不良になったので「私の息子は狂ってしまった」「息子を勘当して親子の縁を切る」と言っているような親の姿を想像してしまう。「子供は本来、性悪なので自由放任ではなく徹底的に管理しなければ、まともな大人に成長しない」と言っているようにも見える。
 「資本主義は自壊した」と言う中谷氏は実は「人間が信用できなくなってしまった」のかもしれない。もしかすると、彼の転身は、単なる性善説から性悪説への心理的な転身であったのかもしれないが、できることならば、もう1度、性善説に転身されることを期待したい。

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『飲酒会見』騒ぎと『酩酊政治』

2009021901  G7(先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議)において前代未聞の酩酊(酔っぱらい)会見を行なったことで一躍「時の人」となった中川昭一氏だが、その責任をとって財務・金融担当相を辞任した。さすがに今回の引責辞任は世間の批判から考えれば仕方のない判断だと思う。
 中川氏の場合、本当に飲酒会見だったのかどうかは未だ不明だが、誰が見ても正気ではなかったことだけは確かなので政治家としての免許取り消しはやむを得ないだろう。(正確には「財務・金融担当相」という立場を辞任するだけで政治家自体を辞めるわけではない。)

 酩酊会見にちなんで言えば、最近、飲酒運転の罰則がさらに強化されたそうで、酒気帯び運転が発覚した時点で即運転免許停止ということになったようだ。
 これまではアルコールの量によって“飲酒運転”と“酒気帯び運転”という分類がなされていたが、これが同じものになってしまった。無論、減点数などに違いはあるが、ドライバーから見れば、どちらにしても免許停止となって運転できなくなってしまうのだから大差がないと言える。この件についても特に文句を言う気はない。しかし、善悪論を除けて経済的な視点のみで観れば、あまり良い政策だとは思えない。

 このところの不況で、国民の節約思考が定着し、喫茶店のお客も激減しているらしい。これは単純に、コーヒーを喫茶店で飲まずに、節約して自宅でインスタントコーヒーを飲む人が増えたということを意味しているが、数百円のコーヒーでさえこの状況なのだから、高価なお酒類は言うに及ばないだろう。
 以前からの飲酒運転の罰則強化で、駅前の居酒屋を除いた郊外型の居酒屋兼のファミリーレストランなどは、お客が激減し業績が低迷していたことは周知の通りだが、この状況にさらに拍車がかかることは間違いないだろう。

 人々が必要なものだけにお金を使い、余分なものにお金を使わなくなることは一見、正しい姿に見えるが、実は大きな損失を伴っているということも考える必要があるかもしれない。
 “必要なものにしかお金を使わない”ということは、同時に“必要な分しかお金が入ってこない”ということを意味している。「お金は天下のまわりもの」と言われるように、使えば使った分だけ返ってくるというのが、お金のルールでもある。このルールは個人単位では当てはまらないが、社会全体として観れば正しい。
 現代が消費減退社会であるという意味でも、飲酒運転の罰則を強化するのであれば、その強化によって発生するマイナスを補う施策も同時に考える必要がある。そういった一般人ができないことを行なうのが政府の本来の役割だ。そういった気の利いた施策が全くできない(考えてもいない)のであれば、何のために政府が存在しているのか分からない。

 政府(お役人と政治家)は、飲酒運転の罰則を強化することによって消費が減退するのであれば、アルコールを飲んでも消費が減退しないような方策を考える必要がある。
 居酒屋を例にとれば、『代行運転業』というスキマ商売が民間から生まれたが、国からは何も生まれていない。ただ、罰則を強化するだけで、あとは知らんぷり。世間が不況に苦しんでも自分達の生活だけは安泰なので、なんらまともな政策も出てこない。

 代行運転というものは確かに便利なものではあるが、消費者から見れば、結局、送迎タクシー代が余分にかかるという苦肉の策であるがゆえに、全員が全員、代行運転サービスを利用するわけにはいかない。少しは消費減退に歯止めをかけることはできるとはいえ、根本的な解決策にはならない。
 『アルコールを飲んでは運転できない』という問題をクリアするためには、もっと根本的なところまで遡って解決策を考えなければいけない。例えば、往路は車で行って、復路は電車で帰るというようなことが問題なく行えるようにしなければならない。
 代行運転業というものは基本的にお客の車(マイカー)を利用するサービスだが、これを『店側が車を用意し、事前にお客の家まで車を届け、その車でお客が店まで乗ってくる』というような乗り捨てシステムに構築し直す必要性があるかもしれない。
 要するに、これまでの“マイカー”という概念を“乗り捨てカー”という概念に置き換えることができるような大幅な社会システムの変更が必要であるということだ。
 上記は、あくまでも仮定の話ではあるが、それぐらいの抜本的な改革をセットでするくらいでなければ、軽はずみな罰則強化などを行うべきではないということだ。

 実際にカードで利用する乗り捨てカーサービスというものは既に存在しているが、これも民間の1企業が主導で開始したサービスなので、はたしてどこまで世間一般に浸透するかは判らない。判らないがゆえに政府が音頭をとって新たな経済システムを構築していくべきなのだが、1政治家の酩酊会見が新聞の一面にデカデカと掲載され、経済政策よりも個人的な感情批判をすることしか頭にない現代の政治家達に何を言っても無駄かもしれない。彼らの大部分は日本や国民のことよりも、党や自分のことだけで精一杯なのだから。彼らの頭の中にあるのは、経済政策や景気対策ではなく、飲酒会見や飲酒運転を無くすことだけなのだ。彼らは自分達が思考停止していることにも気が付いていない。言わば、彼らはアルコールを飲んでいなくても酩酊している状態とも言えるのである。

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『漢字が読めない』vs『常識がない』(揚げ足取りテストの愚)

2009012401_3  先日、民主党の石井副代表が麻生総理に対して『漢字テスト』なるものを突きつきたことで大きな騒ぎとなった。しかも麻生総理の書いたとされる論文から出題したらしく、石井氏はこの論文自体がゴーストライターによって書かれたものではないか?と問い質したらしい。
 麻生太郎首相は『漫画は読めるが(難しい)漢字が読めない総理大臣』(通称:KY総理)として既に有名(?)なので、その隙に付け込もうとしたのか、12問の漢字テストを用意したようだ。12問の揚げ足取りテストの解答は以下の通り。

 1、なかんずく
 2、いいだくだく
 3、やゆ
 4、ひっきょう
 5、しったげきれい
 6、ちゅうこうのそ
 7、やつし
 8、ちょうれいぼかい
 9、ぐろう
10、がっしょうれんこう
11、けんこんいってき
12、めんぼくやくじょ

 この12問を見た限り、確かに麻生総理が読めそうにない漢字を上手く探し出したようだ。おそらく麻生氏には半分も読めないだろうことは誰にでも想像できる。しかし、こんな漢字テストが出来る、出来ないが一体なんの評価に繋がるというのだろうか? この漢字が読めたところで=『総理認定』にはならないだろうし、読めなかったとしても=『総理失格』とはならない。ゴーストライターが書いたことが問題なのであれば、御丁寧に漢字テストまで演出する必要はない。石井氏は、総理大臣になるための資格が『漢字テストに合格すること』だとでも思っているのだろうか?

 と言っても私は別に麻生総理を擁護しているわけではない。確かに漢字が読めない総理というのは格好が悪い。
 先日も麻生邸の麻生総理の自室の風景がテレビで放送されていたが、机の上には漫画が積まれていた。しかし押し入れ(?)を開けると普通の書籍らしきものがズラッと並べられていたので、全く本を読まないということではないらしい…と言いたいところだが、通常、読書家というものは漢字の“読み”には強い。本をよく読む人なら誰でも解ると思うが、大抵の漢字なら文脈から判断して読めるようになるものだ。以前、麻生氏が読み間違ったことで問題になった漢字(未曾有、頻繁、踏襲)などは、よく使用されている漢字なので、年間20〜30冊程度の本を読んでいる人であれば、読めるようになる漢字ばかりだ。まさか、数十年間も読み方が解らないまま流し読みしていたわけでもないだろう。
 このテレビで放送されていた本は麻生氏の本であることは間違いないだろうが、おそらく(きちんとは)読んでいないのだろうと思う。あれだけの本を読んでいる人なら、痴呆症か記憶喪失にでもなっていない限り、読めないということはないはずだ。あくまでも推論だが、おそらく図星だろう。

 麻生氏が「漢字が読めない」=「読書家ではない」=「世間知らず」ということぐらいは、わざわざ漢字テストなどを行わなくても既に証明されている。民主党がわざわざ漢字テストなどを作成しても何のプラスにもならない。そんな姑息な手段を講じると逆にやぶ蛇になる可能性の方が高い。自民党の揚げ足取りを行うことで、逆に民主党の足を引っ張ることになるだけだ。早い話、ミイラ捕りがミイラになってしまうだけのことだ。(実際にそうなってしまったのかもしれないが…)

 「天に向かって唾する」という諺もあるように、相手が「天」でなく「漢字が読めない首相」であっても吐いた唾は自分に返ってくるものだ。こんなことは世間一般の常識だ。世間一般の人々から、
「そんな常識すら持ち合わせていないのか?」と思われることと、
「こんな漢字も読めないのか?」と思われることのどちらがマイナスとなるだろうか?

 『常識があって漢字が読める』という簡単なハードルさえ越えることができない人達が政治を行なっているというのは嘆かわしいと言わざるを得ない。仮にも党の副代表ともあろう者がこんな稚拙な漢字テストに現(うつつ)を抜かしているようでは尚更だ。
 『漢字が読めない』vs『常識がない』、一昔前に流行った究極の選択のようだが、はたして国民はどちらを選択することになるのだろうか?

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4K不況(規制強化と信号増設の関係)

2009011601  1年前、総務省のお達しにて、携帯電話の本体価格が高くなり通話料が安くなるという料金改定がなされた。当初は「消費者保護」を唱った新料金制度の導入のはずだったが、結果として消費者の携帯電話買い替え需要が激減し、携帯電話業界にも不況の風が吹いたことは記憶に新しい。
 “通話料を下げて本体価格を上げる”をいう消費者無視の施策が採られたことにより迷惑を被ったのは消費者だけではない。携帯電話関連業者の大部分、中でも携帯電話を組み立てる作業を行なっていた労働者達の仕事も激減しただろうことは容易に想像がつく。

 今月はボーダフォン携帯からソフトバンク携帯への移行も最終調整に入ったらしく、私の周りでも先週、新しくソフトバンク携帯に切り替えた人が2人いた。(ソフトバンクから督促があったらしい)
 聞けば、携帯電話本体は5万円以上したが通話料の割引きがあったらしく、実質は1万円台で購入できたそうだ。ちなみに携帯電話本体は現金払いではなく20数回の月賦払いになるらしい。(通話料と同時に引き落とされる)
 結果的には、こういったサービス(実質的な割引)を追加しないことには携帯電話を買い替える人はほとんどいないのだろうと思う。
 現在の『本体価格5万円以上』というイメージは明らかにマイナスだと思う。5万円と言えば、今時のノートパソコンが買える値段だ。携帯電話にパソコンの買い替えサイクルを適用すればどういう結果になるのかは容易に想像がついてしまう。2年に1度パソコンを買い替えるような人はあまり見かけないのと同様、携帯電話の買い替え期間も長期化することは明々白々だった。そして実際にそうなっている。

 少し前置きが長くなってしまったが本題に入ろう。
 貸金業法改正、建築基準法改正、金融商品取引法の施行によって引き起こされた3大官製不況のことを経済専門用語(?)で「3K」と呼ぶらしいが、この3Kに携帯電話業界に発生した官製不況を追加して「4K」とも呼ばれているらしい。
 そのうち、食品業界の規制強化によって「5K」となる可能性もあるが、問題はこういった深刻な現状が世間一般ではあまり知られていないことだ。世間では、アメリカ発の世界金融危機(サブプライム問題やリーマンショック)があまりにも大きな出来事であったために、日本の不況原因の全てがアメリカのせいになってしまっており、完全に「灯台下暗し」に陥ってしまっている。

 『規制』というものは解りやすく言えば『信号』と似ている。過剰な規制というものは、喩えて言うなら信号の数を増加させるようなものだと考えれば解りやすいかもしれない。
 さて、あなたが普段、通勤などに利用している道路で「交通事故が多発している」という理由から信号の数が倍になったらどうなるだろうか? 信号で停まる回数が倍に増えれば、当然のことながら、通勤時間が長くなるので、朝起きる時間が早くなり帰宅する時間も遅くなる。そのせいで余分なストレスが増えることは間違いないだろう。
 通勤における問題だけならまだしも、“時間”で商売している宅配業者や運送業者はどうなるだろうか? その場合は仕事の効率が悪くなることは避けられない。今まで通りに仕事ができなくなれば、宅配料金や運送料金が上がることも避けられない。少し前に、ガソリン代が一時的に高騰したことによって運送業が成り立たなくなったことがあったが、あれと同じような現象が発生することになる。そしてそんな窮屈な業界には誰も新規参入できなくなり、業界全体が仮死状態に陥ることになる。

 ガソリンはそのうち下落することは判っていたが、信号の数(=規制の強化)はガソリンのようにはいかない。日本には一度作られた信号(=規制)はそう簡単には廃止できないという社会構造的な大問題が存在している。非効率なことが判っていながらも、一度確立されたものは余程のことがない限り変更できないという融通の利かない構造ができあがってしまっている。この構造をシンプルに変革しないことには、一度失敗した政策であろうと、そのまま維持されることになる。4Kと呼ばれる不況の構造もまさしくそうなっているがゆえに一向に不況から抜け出すことができずにいる。

 仮に100mおきに信号が有った場合を想像してみよう。そんな道路であれば確かに交通事故は減少するだろう。しかしそんな信号だらけの不自由な道路では、あらゆる商売は成り立たなくなってしまう。現在の日本経済自体も規制のオンパレードで、あらゆる業界が息苦しくなっている。反面、規制を強化することによってお役人の(無駄な)仕事だけは増えている。如何にお役人が善意の施策を練ったところで、国民にとっては有難迷惑にしかなっていないという現実がある。彼らが行なっているのは、景気対策ではなく、実は不景気対策(つまり景気を悪くしている)にしかなっていないという現実をこそ直視せねばならない。その現実を見ずして日本経済が回復に向かうことは有り得ない。この悪夢のような現実から逃避し、不況の原因を他国に責任転嫁しているだけでは真の景気回復は有り得ないのである。

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努力した者が報われる社会のススメ

 12月10日、国家公務員に冬のボーナスが支給された。今年度の平均支給額は69万2900円ということになっているが、この数字は管理職を除いた一般行政職員のみの平均値らしいので、実際は更に高額になると思われる。
 
 国家公務員のボーナス支給額の決定は、民間準拠方式(民間のボーナス支給額を調査した上で決定される)を採用している。「職種別民間給与実態調査」及び「国家公務員給与等実態調査」を実施し、官民較差を算出した上で、できるだけ民間企業との差がないように決定されることになっている。

 今年は世間一般の景況感も勘案してか、公務員のボーナスも一応は昨年よりは減額されたようだが、内訳をみてみると僅か3400円(0.5%)の減少にとどまっている。
 公務員のボーナス支給額が“世間一般の景況感を勘案する”ことが前提であるのであれば、僅か0.5%の減少というのはどう考えてもおかしい。ハッキリ言ってケタが違っていると言える。現在の日本の景況感を鑑みれば、最低でも5%はカットしなければ国民は納得できないだろうと思う。もっとハッキリと言うと、本来であれば50%カットでも丁度よいぐらいだろう。なぜかって? なぜなら、民間企業のボーナス支給額の(先行き)平均がその程度になると思われるからだ。これほど分かり易い基準はないだろう。
 
 お断りしておくと、私は金銭の多寡を問題にしているわけではなく、別に公務員に対して嫉妬しているわけではない。それだけの高給をもらうだけの仕事をしている人であれば、何の文句もない。実際にそれだけの仕事をしている公務員もいるだろうから、そういった人達まで批判するつもりはない。
 問題は、ボーナス額の高低ではなく、ボーナス支給額を決定するべき“基準”というものがあまりにも杜撰であり、あまりにも不合理であることだ。そしてその結果として、あまりにも不条理な社会(=不公平な社会)の姿が浮き彫りになってしまっていることこそが問題なのである。
 
 民間企業では、業績如何によってボーナス支給額は大きく異なる。そして最悪の場合はボーナス0という場合も有り得る。そういったリスクを背負って真面目に働いている一般サラリーマンのボーナス支給額に比して、全くと言っていいほどリスクを背負っていない公務員のボーナス支給額が、場合によってはその一般サラリーマンの2倍にも達しているというのは、あまりにも不公平であり、到底まともな社会の姿とは思えない。はたして本当に“基準”などというものが考慮されているのか疑わしいと言わざるを得ない。
(注意:ここで述べた「リスク」とは職務上のリスクのことではなく、給料の支給リスクのこと)

 こんな不公平社会が罷り通っているのであれば、一般サラリーマンの働く意欲が萎えてしまってもなんら不思議ではない。況して、ボーナスとはほぼ無縁の契約社員などは、「やっていられるか」というのが本音だろうと思う。
 こういった社会の歪みによって、本来、正社員として雇用されるべき人間が、非正規社員として労働に携わらなければならないという不公平な結果を招いている。もちろんそれだけが原因ではないが、大きな一因であることは間違いあるまい。
 
 努力した者が報われ、努力しなかった者は報われないという単純な理屈がこの国では通用しなくなっている。本来、収入というものは、個人の努力によって差がついてくるもののはずで、そうであってこそ、人々は努力しようという気持ちにもなれるものだ。言い換えれば、そういった公平な社会であってこそ、経済は成長し発展する。つまり、経済の成長・発展というものは、実は人間自身の成長・発展と密接に関わっているということだ。国民自らが、成長することを願わなくなってしまえば、その国の経済は衰退する。これほど単純な理屈はない。
 しかしこの国の権力者達は、学生時代に成績が良かった者だけが“努力した者”だと思っているフシがあり、社会に出てからの努力をあまりにも軽視しているように見受けられる。ゆえに公務員のみが報われる社会となっているのかもしれない。
 日本丸が、氷山のある方向ではなく、努力した者が正当に評価される社会の方向へ舵取りすることを願いたいものだ。

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世界不況という災いから出現した『希望』

 かつての高度経済成長期では、「公務員の給料は安い」という言葉がよく聞かれたそうだが、現在ではそういった言葉は全く聞かれなくなった。逆に最近、「公務員の給料は高過ぎる」という言葉をよく耳にするようになったと感じるのは私だけではないと思う。
 現在、公務員の平均年収は700万円を超えている。大手上場企業の平均年収が600万円程と言われているので、公務員の年収は上場企業よりも高く設定されていることになる。大部分の国民が勤務している中小の民間企業の平均年収が400万円強だということを考えると、公務員と民間企業では、ほとんど2倍近い収入差があることになる。一体なぜこれほどまでの年収差が生まれたのだろうか?
 
 高度経済成長期の日本企業は年功序列制度によって、毎年、給料が自動的に上がっていく時代だった。年齢が1つ上がると同時に給料も1万円上がるというような調子だと、年収が生涯で2倍にも3倍にも変化することになる。およそ現代の常識では考えられないようなことが、過去の日本では常識と成り得た。このため、民間企業の給料は公務員以上のペースでベースアップしていった。そのために、いつしか「公務員の給料は安い」ということになってしまったのかもしれない。
 
 高度経済成長期が終焉すると、民間企業の給料はほとんど上がらなくなった。かつて2倍にも3倍にもなった給料は、せいぜい1.5倍程度にしか上がらなくなってしまった。しかし、その水面下で公務員の給料だけはマイペースで上がっていった。公務員の世界は、一度、構築されたルール(=給料が上がること)は途中で変更できないという規律のようなものが存在するため、如何に世の中が不景気であっても、どこ吹く風の如く、給料自体も自己増殖していった。そして気が付けば、安いと言われた公務員の給料は、民間企業の2倍近くにも達していた。それがこの数十年で起こった実際の出来事であったのかもしれない。
 
 もともと公務員というものは、国民に対する奉仕者であり、国家の事務員という位置付けの職業でもある。公務員というものは、富を生み出す職業ではなくて、人の役に立つための職業だとも言える。納税というものが正常に為されてこそ存在できる極めて社会的な職業でもある。つまり、民間企業の給料が下がり、国民からの納税額が減少すると、同じように縮小せざるを得ない職業でもあるわけだ。
 このことは、国民の全てが公務員になればどうなるかを考えればよく解る。もし、国民の全てが公務員になったとすると国は滅びる。これは誰にも否定できない厳然たる事実だ。ゆえに、公務員の人員数または収入額は、民間企業の景気の善し悪し、納税額によって変化しなければならない。そういう調整ができる制度が機能していなければならない。その制度は別の言い方をすれば「社会の安定装置」とも言える。
 
 この「社会の安定装置」が正常に機能してこそ、国家の危機や衰退を最小限に抑えることが可能となるが、現代の日本では周知の通り、この安全装置が正常に機能していない。正常に機能していないだけでなく、装置自体が意思を持った怪物の如く、暴走してしまっており、誰もその暴走を止めることができないという事態に陥っている。自分達の生活の糧である民間からの税金収入額を、自分達の失態によって縮小しているという暴挙にも気が付いておらず、それでも恬(てん)として恥じずに高給を貪っている。
 その姿はまさにトマス・ホッブスが説いた「リヴァイアサン」そのものであるとも言える。絶対権力を有した国家を縛るべき憲法も機能せず、絶対権力を有した国家を批判するべきマスコミも機能していない。日本がなぜいつまでも不況から脱することができないのかというと、このリヴァイアサンの暴走を誰にも止めることができないということが大きな理由の一つでもある。そして、憲法やマスコミが正常に機能していないのは、実は国民の大部分が問題意識を持たず、泰平の微睡(まどろ)みの中で惰眠(=平和ボケ)を貪ってきたことに起因している。国が今どういう状態にあるのかということが正しく理解されていないことがその大きな原因でもある。
 
 テレビ番組などで「公務員の給料をカットしろ!」と言うだけでは、一向に問題は解決しない。なぜそうしなければならないのかを多くの国民が理解し、実際に危機感を抱くことにならなければ、いつまで経ってもこのままだろう。そういう意味で、現在の世界不況は、日本国民にとってはチャンスでもある。日本社会の真の姿を理解する大きなチャンスが訪れているということこそが、この不況下で現れた、ただ一つの希望であるのかもしれない。

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「宝くじ」という名の所得分配ゲーム

2008102601 年末ジャンボ宝くじが25日に全国一斉発売された。今年は年末ジャンボ宝くじ発売30周年記念ということで、2億円が70本、1億円が140本にプラスして、「ジャンボ30年感謝賞」(100万円)というものが7000本追加されるらしい。

 私は最近、宝くじを購入することはないのだが、多くの人は「夢を買う」「買わなければ当たらない」と言って、毎年10枚〜30枚ほど購入しているらしい。
 よく知られたことではあるが、宝くじのテラ銭は50%もあるので、宝くじを買った時点で半分はハズレ券ということになる。言い換えると、初めから空クジを半分購入しているのと同じことになる。例えば、宝くじを10枚購入した人は、実質は5枚しか買ったことにはならない。(つまり1枚600円ということになる)
 ちなみにパチンコのテラ銭は10%、競馬のテラ銭は25%程度なので、いかに宝くじのテラ銭が高いかが分かると思う。国が胴元なので誰も文句は言わないが、これが民間組織であれば詐欺だと判断されて逮捕されるかもしれない。
 
 宝くじというものが、ゼロサムゲームであることを疑う人はまずいない。多くの人から集めたお金(宝くじ購入金)を当選した少数の人数で分け合うというギャンブルであることは間違いのない事実である。そして、宝くじというものを経済的な視点で見れば、「壮大な所得分配ゲーム」であるとも言える。購入した枚数によって誰もが公平に運を手に入れることができるという点では真っ当な分配ゲームと言うことができるが、テラ銭が50%もあることによって、その公平性を台無しにしてしまっている。公平ではあるが、あまりに搾取性の強いゲームであることは否定できない事実ではある。
 
 政治家が国民から税金を集めるだけ集めて、「半分のみ国民に分配します」などと言えば、その政治家は国民から袋だたきに遭うだろうが、税金を集める手法を「宝くじ」にすることで、合法的に税金を徴収することができてしまう。騙す方も騙す方だが、騙される方も騙される方だと言える。と言っても私は別に宝くじ販売を否定しているわけではない。如何に高搾取ゲームであったとしても、双方が合意の上で売買が成立しているのであれば、それで問題はない。買いたくない人にまで無理矢理に購入させるのであれば問題だが、選択の自由があるのであれば特に問題はない。 
 しかし、ここで注目すべきことは、国民に「夢」を見せることができれば、国民の消費活動を促すことができるということだ。
 たとえ、99.9%以上ハズレることが判っていたとしても、残りのほんの僅かな希望のために、人々は挙(こぞ)ってお金を使う。これほど合理性のない買い物は無いと言えるにも関わらず、我先にと、お金を使う。
 政治家達は、この現象にこそ、目を向けるべきだろう。たとえ、日本の未来が暗いということが半ば判っていたのだとしても、かすかな“希望”を国民に与えることができれば、人々はお金を使うようになるかもしれないということを。そして、その消費率を維持することができれば、本当に景気は回復するかもしれないということを。
 たとえ嘘であっても、国民の消費活動を促すことができれば、本当に景気は回復してしまう可能がある。このことを諺で「嘘から出た実」という。しかして、その場合の嘘は、「嘘も方便」ということで許されることになる。
 
 政府は『定額給付金』という名目で全国民に2兆円をバラまくなどということを言っているが、そんなお金をバラまいたところで、そのお金を使わずに貯め込むだけでは景気は良くならない。そんな無駄なことを行っている余裕があるのなら、その2兆円で国民に夢を見せる方策でも考えた方がまだましだ。
 景気というのは、“気”のものであって、国民を“その気にさせる”ことが政治家にとっての重要な仕事だとも言える。しかし、日本の政治家達を見ていると、夢を見せるというより、悪夢か幻想を見せているようにしか見えない。その辺のところも、オバマ氏と日本の政治家達の大いなる違いであるのかもしれない。
 今後、アメリカと日本のどちらが早く景気を回復させることができるかに注目しよう。その結果次第では、日本の政治家達の体たらくぶりが証明されることになる。

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BOOK『和魂米才の発想法』

2008112201 気鋭の金融コンサルタント、木村 剛氏の著書『和魂米才の発想法』を読んでみた。木村氏は竹中プランのブレインの1人であったことでも有名だが、そのせいか、「外資の手先だ」というような誤解をされ、世間の評判はあまり良くないというイメージがある。しかし私は、木村氏を日本を代表するエコノミストの1人だと捉えており、真の経済を見抜く目を持った数少ない論者であると認識している。
 
 本書『和魂米才の発想法』は、現代の日本社会を考察する上で実に示唆に富んだ内容となっている。日本の歪な資本主義を理解するには、まさに打ってつけの書物だとも言える。
 「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一は、武士的精神と商才を合致させた「士魂商才」を説いた。一言で言えば「恒産なくして恒心なし」という意味だが、木村氏は、「武士的精神」を「大和魂」に置き換えて「和魂」とし、お金儲けの才能を外資に学ぶというスタンスを採っている。しかし、単に(最近とみに評判の悪い)外資に学べと言っているわけではなく、日本独自の資本主義(ニッポン・スタンダード)を構築し、現代のルールなきムラ社会を打破せよと述べている。
 
 中でも、「ムラヲサ」の考察が面白い。「共同体を守ることを使命としてきたムラヲサの裏切りで、旧き良き日本資本主義は滅びる」。
 なるほど、これは実に明解な論理だ。ムラヲサの裏切りのために、従業員の不祥事や内部告発というものが数多く出てきたこととも合致している。「ムラの文化が崩壊したがゆえに、新たなルールを構築することが急務だ」というのも、まさにその通りだと思う。

 高度経済成長期の日本社会では、その時代であるがゆえに存在が許された3種の神器(年功序列・終身雇用・企業内組合)なるものが生まれた。しかし、高度成長が維持できなくなると、3種の神器はいとも容易く崩壊し、それまで会社のために滅私奉公してきた社員の士気が一気に失われることになった。「共同体」という名の会社幻想が崩壊すると、それまで“共同体を守る”という精神で動いていた社員達の善なる循環までが崩壊した。それゆえに社員達の士気を維持し続ける新たな“何か”を構築しなければ、日本資本主義の健全なる発展はないと思われる。

 その“何か”を、かつてのように会社が用意する必要はない。むしろ、個人がルールに基づいた哲学を持つことの方が重要だろう。しかしこの国では個人が目立った行動をとると“出る杭は打たれる”ように潰されてしまう。新たなルールを提唱すべき人物が現れたとしても、集団としての既存秩序を守るためだけに無駄なエネルギーが費やされてしまう。
 しかし、現代社会で主役となりつつあるのは“会社という集団”ではなく“働き手としての個人”であるという時代認識を受け入れるべき時代が到来している。“全体の発展が個人を富ます”のではなく、“個人の発展が全体を富ますことに繋がる”という逆転の発想こそが必要だとも言える。そういった新たな価値観を認めてこそ、新たなルールも策定することができるようになる。日本社会でその“何か”を構築するためには、まず、経済観念のコペルニクス的転回こそが必要なのである。
 
 「経営者がムラヲサの役割を放棄し、自分の都合の良いところだけ米国資本主義を取り入れるのはズルい」
 木村氏の口からこのような言葉が出てくることに意外性を感じる人も多いかもしれない。しかし、その意外性を感じること自体が、この本が客観的に書かれたものであることを物語っているとも言える。この本は、現代の日本資本主義を理解する上での必読書とも言える。同時に、現代の日本経済の閉塞感の正体を見破る上でもまたとない恰好の好著と言えるだろう。

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アメリカ民主党と日本民主党の大いなる違い

 米国の大統領選挙は大方の予想通り、民主党のバラク・オバマ氏が勝利した。
 マケイン氏率いる共和党にとって、都合悪く表面化したアメリカの金融危機問題は致命的であったとも言えるが、逆にオバマ氏にとってはまさに神風とも言える出来事であったのかもしれない。あるいは、彼は時代を味方に付けることができるほどの強運の持ち主だったと言えるのかもしれない。今回のアメリカ大統領選挙を観て思われることは、オバマ氏と日本の政治家達との“違い”に尽きる。オバマ氏と日本の政治家達の違いとは一体何なのだろうか?
 
 オバマ氏が今後、アメリカ経済を立て直すことができるのかどうかは未だ未知数ではある。しかしオバマ氏は、非常に演説が上手い政治家というイメージがある。そして、自分の考えを素直にストレートに述べているようにも感じられ、非常に好感度の高い政治家と言える。そして実際に理想に燃えた純粋な目をしている。その眼差しは、日本の政治家達の眼差しとは明らかに違って見える。
 
 オバマ氏は、上を(観客を)向いて自分の考えを基に演説しているが、日本の政治家は、下を(机を)向いて演説しているように見える。日本の政治家達は、作文を読んでいるだけというイメージが強く、お世辞にも理想を語っているようには見えない。
 日本の政治家達は、『言葉狩り』や『揚げ足取り』ネタにだけは鋭く目を光らせている。このため、政治家達は理想を語る以前に、いちいち言葉を選ばなければ演説もできないという窮屈な立場に置かれている。そのせいか、当たり障りのない建前しか語れない(建前しか語る気がないのかもしれないが…)という悪循環に陥っている。
 
 そんな中で、橋下知事や、中山大臣、田母神氏といった本音を語る人間達もチラホラと出てきた。しかし、本音を語った人間は、即刻退場という言論封殺まがいのことがいとも容易く為されてしまう。田母神氏はこの日本の現状に対し、「政府見解に一言も反論できないとなると北朝鮮と同じだ」と断じた。この発言もまさしく彼の本音なのだろう。公の場でこのような発言をする人物が現れたことは非常に興味深い。
 
 私は右翼でも左翼でもないので、田母神氏を持ち上げる気もなければ批判する気もない。しかし、本音を語ろうとする姿勢は素直に評価したいと思う。誤解を恐れずに言えば、建前しか語れない政治家よりは、本音を語った田母神氏の方がはるかにまともだと思う。

(注意)ここで述べた“まとも”というのは、日本の将来を憂いているという意味での“まとも”であって、「日本が侵略国家ではない」と言うことが“まとも”と言っているわけではありません。私はその時代の生き証人ではないので、その意見が正しいか間違っているかを判断する立場にはありません。
 
 田母神氏の発言を受けて、民主党の小沢氏は自民党の責任追及に余念がないようだが、そんな批判を重ねることが国民の幸福と何の関係があるというのだろうか? 仮に自民党が謝罪したとして、日本経済に何か良い影響でもあるのだろうか?
 国民から「単に選挙に有利になるためだけの批判だ」と思われるだけであれば、民主党にとってはマイナスにしかならないと思えるが、それでも建前に固執しなければならないのだろうか? はっきり言って、今回の小沢氏の批判には、国民は辟易としていると思う。

 例えば、オバマ氏が共和党員の発言に対して、このような批判演説を繰り返していれば、アメリカ国民はどう思うだろうか? オバマ氏が演説で、一国の未来ではなく、他党の批判演説ばかりを行い、夢も理想も語ることができずにいれば、今回の選挙は一体どういう結果になっていただろうか? オバマ氏が他党の揚げ足を取ることだけに目を爛々と輝かせていればどうなっていただろうか?
 小沢氏及び日本の民主党(または全政党)にはその辺のところを、よく考えてもらいたいものだ。真に政権を奪取(または保持)したいのであれば、『同じ民主党(または政治家)でもアメリカと日本では天と地ほどの開きがあると思えるのはなぜか?』ということをもっと深く考えるべきだろう。

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『不合理主義』の崩壊と『合理主義』の台頭

2008110301 アメリカの金融危機に端を発し、世界経済が不況に突入したという意見が飛び交っている。テレビでも新聞でもネットでも「恐慌」「暴落」「破綻」などという言葉がよく使用されるようになった。そして、今回の金融危機を『資本主義の崩壊』と結び付けようとしている勢力も存在しているかに観える。
 彼らはこう言う「資本主義は崩壊したので、新たなイデオロギーが必要だ」と。しかし、その新たなイデオロギーとは何を意味しているのだろうか? まさか、共産主義や社会主義に逆戻りしようと言うつもりだろうか? もし、本当にそんなことを考えている人達がいるとすれば非常に危険なことだと思う。
 
 なぜそう言えるのか? なぜなら、今回の金融危機で破綻したものとは、実は資本主義とは言えない(正確には真の資本主義とは言えない)からだ。崩壊したのは、資本主義から派生した(行き過ぎた)金融システムだけであるからだ。
 元々、資本主義というものは、目的合理化の精神というものを内包しているものだが、現在の金融システムは、そういった合理性が完全に失われていた。そのあまりにも実体とかけ離れ過ぎた金融システムのみが崩壊したのであって、資本主義自体が崩壊したわけではないからだ。
 
 例えば、最近、『空売り規制』というものが政府から発令されたが、この空売りという行為自体をよく考えればその本質が見えてくるかもしれない。
 資本主義には「投資」という行為は付き物であるが、「空売り」という行為は投資行為ではない。空売りというものは、資本主義の範疇を逸脱した架空の取引であるとも言える。良く言えば「投機」であり、悪く言えば、単なる「博打」でしかない。
 空売りというものが信用取引の部類に入るものであることは周知の通りだが、信用取引とは簡単に言えば、現金を持っていない人間であっても株式が売買できるというシステムだ。頭金に該当する一部の証拠金を用意するだけで、株式を買うことも売ることもできる。そしてレバレッジをかけることもできるため、非常にギャンブル性の高い取引であると言える。
 この空売りというものが常態化したがゆえに、株式投資はギャンブル性の高いものに変化してしまった。本来であれば、今回のような金融危機が発生したのだとしても、空売りという売買が存在していなければ、これほどまでに株式市場が暴落することはなかっただろうと思う。現物の株式を保有している投資家だけであれば、投げ売りする投資家がいたとしてもここまで下がることはなかっただろうし、また、煽られて投げ売りする人もそれほどいなかったはずだ。株式を持っていない投機家が、架空の株式を売ってくるがゆえに、株式市場は必要以上の暴落を演じることになる。そして売りが売りを呼んで、スパイラル的に暴落してしまったというのが、今回の日本の株式市場の姿であったと言えるだろう。
 「空売り規制は、自由主義経済に反している」という意見をよく耳にするが、これほどトンチンカンな意見もない。空売りという行為は、金融システムの中から生まれたものであって、もともと資本主義の中に存在していたものではないからだ。
 
 グリーンスパン氏は、自由主義が崩壊したと誤解してか、神の見えざる手は存在しなかったと思っているように見受けられるが、実は神の見えざる手が存在していたからこそ、今回の金融バブルは破綻したわけだ。市場原理という神の見えざる手が正しく機能していたがゆえに、行き過ぎた金融バブルが弾けてしまったのだ。経済の自由化が間違っていたのではなく、資本主義の無理解こそが、破綻を招いてしまった原因と考えるべきなのだ。
 
 一口に資本主義と言っても、世界中には様々な資本主義が存在しているので、アメリカの金融システムが破綻したことだけを見て「資本主義は崩壊した」というのは間違っている。
 アメリカは合理性を欠いた資本主義であり、日本は公平性を欠いた資本主義、そして中国は道徳性を欠いた資本主義、どれも完璧な資本主義とは言えない。
 日本のバブル崩壊も、民間企業にある不合理な社会主義システムが崩壊しただけであって、決して資本主義自体が崩壊したわけではなかった。アメリカの場合は、社会主義ではなく、資本主義の本来の姿を逸脱した部分(=富を生まない金融工学システム)が崩壊した。日本は土地バブルの崩壊だったが、アメリカは金融バブルの崩壊だったという違いがあるだけに過ぎない。つまり、どちらも不合理主義(=実体を伴わないバブル)が崩壊したということを意味している。
 
 資本主義というものは、本来、借金漬けでお金にまみれるような生活をすることではなく、生産を通じて生まれた価値の範囲で消費を行うという極めて合理性の高い思想が基になっている。無論、資本主義には、お金がお金を生むという利潤の考えもある。しかし、それも、生産を通じてパイを増やしていくことが前提となるのであって、単に消費だけを行うことを基にしているわけではない。
 
 自分が儲けた価値(お金)の範囲の中で生活するというのは、一般の家庭ではごく当たり前のことであり、その当たり前のことができなくなれば、破綻するのは当然のことだ。給料20万円の人が30万円分の生活を続ければ、いずれは破綻する。同じように、働いていない人が、社会保障費として税金を使い続ければ、いずれは破綻する。その両極端こそが、資本主義から外れた部分であり、現代のアメリカと日本の姿とも言える。
 
 もし世界が目指すべき新たなイデオロギーがあるとすれば、それは真なる意味での資本主義、言葉を変えて言うなら「合理主義」だ。自らが生み出した富の範囲内で生活するという独立自尊の精神こそが目標とするべきイデオロギーであるべきだろう。
 破綻しないシステムとは、実はそんな単純な当たり前のシステムのことであって、誰もが理解できないようなややこしいシステムではないのである。そして、その単純なことが証明されてしまったのが、今回のアメリカ発の金融危機の正体とも言える。
 よって、この世界不況を機に、資本主義は進化することになる可能性がある。しかし、進化するためには、資本主義の精神を理解しなければならないという条件が付いて回ることになる。資本主義の精神とは何か? それは、合理化の精神と言い換えることも可能だ。
 おそらくこの金融危機を機に、日本の中にある不合理で不公平なシステムにもメスを入れる必要性が生じてくるだろうと思う。いや、この機会を生かすことができなければ、日本経済の先行き不透明感を拭うことはできないだろう。逆に、この機会を不合理で不公平な日本システムを変える千載一遇のチャンスだと受け止めることができれば、日本経済は息を吹き返すかもしれない。しかしそれは限りなく小さな可能性であることも否定できない事実ではある。

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BOOK『高度経済成長は復活できる』

2008102101_2 現代の日本が不況の真っただ中にあることを疑う人はまずいない。日本が30数年前までは高度経済成長時代だったという事実はもはや、昔話になった感もある。
 日本経済は20年程前にはバブル経済を経験したものの、実体を伴わない幻の経済成長(経済膨張)だったため、一般庶民にとっては「景気が良い」というような実感は伴わなかった。つまり、日本はこの30数年間、経済が健全に成長するというような時代が存在しなかったとも言える。生まれてこのかた、“景気が良い”などという実感は持ったこともないという人も多いと思う。(よく考えると私自身も実際にサラリーマンをしていて景気が良いと実感した経験がないかもしれない)

 さて、現代の日本にあって、経済の高度成長は可能なのか? この命題に真っ向から論じた書籍を発見した。題名はズバリ『高度経済成長は復活できる』。著者は証券アナリストでもある増田悦佐氏。『国家破綻はありえない』『日本文明・世界最強の秘密 』などを書いている日本経済楽観論者の1人だ。
 
 この本では、一般的に日本の高度経済成長に終止符が打たれた事件と認識されている“石油ショック事件”とほぼ同時期に、水面下である事件が発生したために、日本の高度経済成長が終わったというスタンスをとっている。その事件とは何だったのか? それは、日本に革命家が出現したためだとしており、その革命とは、無論、社会主義革命であり、首謀者はなんと自民党の田中角栄だったという驚くべき仮説を述べている。
 
 田中角栄と言えば、『現代の今太閤』『コンピューター付きブルドーザー』『戦後最大の金権政治家』『戦後最大の名宰相』『官僚を動かすことができた唯一の民主政治家』など、実に様々な評価がなされている。良いか悪いかどちらにせよ、日本で最も巨大な影響力を持った政治家であったことだけは否定できない事実だ。
 巷に溢れている田中角栄批判本というと、大抵は金権政治批判に終始しており、あまりにも短絡的なステレオタイプ批判が多いものだが、この本は少し趣きが違う。田中角栄が革命家だったという大胆な仮説を証明するために、数々の説得力のある事例をあげて論じられている。
 
 田中角栄は自ら「反共主義者」と名乗っていたくらいなので、自分自身が日本に社会主義革命を齎した張本人だったなどとは夢にも思っていなかっただろう。そして田中角栄を応援していた人達も、まさか自分達が社会主義革命を推し進めていたことなど夢想だにしなかっただろう。しかし、弱者保護を唱った地方へのバラマキ政治の原型を創り出したことは事実であり、悪循環政治を生んでしまったことは認めざるを得ない。
 国民の幸福を願った田中角栄の目的自体は善であったのかもしれないが、結果的には日本経済のダイナミズムを失わせ、日本社会の合理化を歪めてしまったことは否定できない事実ではある。
 
 現代に視点を転じてみれば、霞が関の官僚、永田町の政治家の体たらくぶりは、目に余るものがある。国自体が不正経理を行い、平然と偽装を行い続けてきたことが、徐々に明らかになりつつある。役人自身が国民を欺き、罪を隠蔽することに躍起になっているという、どこぞの共産主義国家も真っ青な国になってしまっていることが判ってきた。多くの国民は、日本がこれほどまでにデタラメな国だったのか?と唖然としており、やり場のない怒りを蓄えつつある。
 この本は、そういったやり場のない怒りを抱えた人や、社会学的な知的好奇心を満足させたい人に是非、オススメしたい逸品だ。弱者保護論者という名の利権主義者達を容赦なく徹底的にたたき斬る(=論破する)様は実に心地が良い。

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「ぶっ壊す」発言から始まるストーリー

2008101301 こんにゃくゼリーが製造中止になったことは周知の通りだが、もう1つの事件、中山大臣の失言から始まった辞任劇も世間を賑わせた。
 この2つの事件には、大きな共通点がある。その共通点とは、“世論とは全く正反対の結果になってしまった”という共通点だ。
 既に削除されたようだが、自民党の組閣後、インターネット上で『最も期待できるのは誰か?』というようなアンケートがあった。そのアンケートで最も期待できると選任されたのは、なんと中山大臣だった。しかもこのアンケートは中山氏の失言事件後に行われたというのだから驚きだ(むしろお笑いと言った方がよいかもしれないが…)。
 中山大臣だけ、40数%と飛び抜けて高評価だったが、これは少しマズいということでアンケートは削除されてしまったらしい。与野党双方から非難を受けた中山大臣だったが、実は一般国民からは大きな支持を受けていたというのが真相のようだ。
 
 また、こんにゃくゼリーのアンケートにしても、「販売中止にするべきではない」という意見が40数%に達していた。しかし、こちらも無視され、こんにゃくゼリーは製造中止となってしまった。
 聞くところによれば、今回、こんにゃくゼリーを食べて窒息死した幼児というのは、なんと1歳半の幼児だったということで、更に驚いた。(私は3歳位と思っていた)
 1歳半の幼児が自分からこんにゃくゼリーを食べたのだろうか? もしそうでないなら、親がそのまま食べさせたのだろうか? どちらにしても、少々無理があったのではないか?というのが正直なところだ。
 
 中山大臣の「日教組をぶっ壊す」発言の方は、その後、マスコミからは、ほとんど報道がなされていないようだ。そんなことを考えつつ、この連休中に古本屋を覗いてみると、ふと目に止まった本があった。タイトルは『マンガ 日狂組の教室』。興味を引かれたので、購入し読んでみたのだが、「なるほどな…」というのが率直な感想だった。しかし、この本だけでは物足りなかったので、インターネットで日教組について調べてみると面白いことが判明した。そして、そのことからある推理が浮かんできた。
 その推理とは、「中山氏の発言は、実は自民党の民主党に対する肉を切らせて骨を断つ作戦ではなかったのだろうか?」というものだ。
 
 次の選挙戦では自民党が圧倒的不利に立たされており、もしかすると民主党が政権奪取に成功するのでは?との意見が囁かれ出していた。そんな時にタイミイグ悪く起こった中山大臣の失言事件は野党(民主党)にとってはまさに好都合で、これで自民党の敗北は決定したとの意見も聞かれるようになった。そして、逆の視点からも国民から支持を得ている中山大臣を擁護することなく否定した自民党は、もはや完全に終わったと思った人も多かった。
 しかし、もし、「日教組をぶっ壊す」発言が、中山氏のスタンドプレーではなく、自民党の作戦だったとすればどうだろう? 民主党の支持母体は、労働組合を中心とした日教組や社会保険庁だったという知られざる事実を暴露したことによって民主党のイメージを失墜させることに成功したのだとすれば? 労働組合を中心とした組織が支持母体になっているような政党であれば、望むべき改革などはできるはずがないというマイナスイメージ(というより事実)を国民に訴えることに成功したのだとすればどういう結果を招くことになるだろうか?

 しかしまあこれは単なる邪推かもしれない。現在の自民党にそこまで先を読んだ作戦が立てられると思うのは、買い被り過ぎなのかもしれない。
 しかし、重要なことは、“中山発言は国民からは支持されている”という事実だ。自民党が中山氏をどのように扱い、どのように批判しようとも、中山氏の発言は自民党にとっては逆風ではなく、追い風になっていることは確かだ。もし、「日教組をぶっ壊す」発言が、建前と本音を使い分けた自民党の作戦であったのだとすれば、「自民党をぶっ壊す」と言って大勝利した小泉総理と同じような結果を生む可能性も否定できない。
 「自民党をぶっ壊す」と「日教組をぶっ壊す」。「改革する」ではなく、「ぶっ壊す」と発言した政治家が如何なる運命を辿るのかに注目しよう。
 
 ちなみに私はノンポリ(支持する政党がない)ですので、上記文章に政治的な意図はありません。あくまでも客観的な意見です。

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甘言を弄する政治家には御注意。

2008100801_2 今朝、夢を見た。その夢は、日経平均株価が一時9000円位まで下落するのだが、その後、アッという間に11000円位まで戻すというような夢だった。
 そして、今日、自宅に帰ってみると、なんと日経平均株価が9200円まで(1000円近くも)下落していた。この有り得ないような下落ぶりには少々驚いたが、果たして今朝の夢は正夢となるのだろうか?
 
 11000円という数字は、「ミスター円」の愛称で知られる榊原英資氏が予想していた数字だ。しかし彼の場合は、確か下値の予想が11000円(10000円という説もある)ということだったので、その予想はハズレてしまったと言えるだろう。
 最近、日経平均株価が11000円を切ったということで、榊原氏はマスコミに引張り蛸のようだが、その喜びは束の間に終わってしまったようだ。11000円が9000円まで下がっては、お世辞にも予想が当たったとは言えない。それに彼の予想は、ここまでの世界的な金融危機を前提とはしていないはずで、あくまでも日本の没落を予想した数字が11000円(10000円)ということだったはずだ。
 
 さて、日経平均株価はどこまで下がるのか? これは誰にも分からない。予想すること自体が無意味と言った方がいいかもしれない。しかし、日本企業の実力から考えると、日経平均株価が1万円以下というのは、常識では考えられないような数字だ。日経平均株価が再度1万円を切るなどということを自信を持って予想していたエコノミストは皆無と言ってもいい。この数字はアメリカの金融危機に引っ張られた数字であって、本来の日本企業の実体評価額を大きく下回っているとも言える。
 とはいえ、頓珍漢な政策ばかりを繰り出し、民間企業に大迷惑をかけている日本の役人達を評価する限りにおいては、1万円割れもやむを得ないかもしれない。アメリカの金融危機も深刻な問題ではあるが、その問題が仮にクリアされたとしても、依然として日本の中の問題は残ったままだ。
 
 本日も、建築会社の新井組が民事再生法の適用申請を行った。建設業界に押し寄せている不況という名の波はとどまるところを知らず、一体この先、どこまで連鎖破綻が続くのか予想もつかない。
 よく、「企業の信用度が足りないから、銀行がお金を貸してくれない(=貸し渋り)のだ」というような意見を耳にするが、どうもピントがズレているように思う。
 銀行の貸し渋りが多くなったことは、“結果”に過ぎない。なぜ、そのような結果になったのか?ということを深く考えずして、「信用できない企業が悪い」と言うのでは筋が通らない。
 
 『耐震偽装問題』に対して過剰な建築規制を設け、そのせいで建築業界は身動きが取れなくなった。また、グレーゾーン金利を廃止したことによって、お金を借りる所さえも激減した。残った銀行は、無意味な規制のために不況に陥った建築業界に対して、「お金は貸せない」と言う。これでは、不況にならない方がおかしい。現在の日本の建築業界不況は、人為的な不況という側面の方が強い。サブプライム問題や金融危機などは、どちらかと言えば、副次的な不況原因だ。

 市場原理は万能とは言えないが、経済に対して役人が人為的に介入すると、ろくなことがない。市場原理に基づく不況は、放っておけば解決する可能性があるが、人為的に招いた不況は、その考えを改めない限り、解決する術はない。愚かな人間の傲慢な行為によって招いた不況であるのなら、その間違いを悔い改めない限り、神の見えざる手は、決して救いの手を伸べようとはしない。
 これだけの不況を迎えても、日本がこの先も役人原理主義を貫こうとするのであれば、残念ながら日本の(明るい)未来はないだろう。多くの識者はそう述べているが、政治家やマスコミ人は、「政治さえ変われば明るい未来が待っている」というような甘い誘惑に満ちた言葉を並べることしかできずにいる。
 地獄への道は善意で舗装されている。この時期、政治家の甘言には注意が必要だ。甘言を弄する政治家ではなく、苦言を呈することのできる政治家こそ、信頼するべき政治家だと言える。はたして、そんな政治家が何人いるだろうか…?

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タバコ税収試算の行方(税収増 VS 税収減)

2008092201_4  先日、厚生労働省は、タバコが1箱1000円になった場合、9年間で9兆円の税収増が見込めるとの新たな試算を公表した。これに対して、京都大学の教授は逆に1.9兆円の減収が見込まれると発表した。厚生労働省の担当者はこの教授の意見に対して、「減収は有り得ない」と反論しているそうだ。

 厚生労働省側の試算と京大教授の試算のどちらが正しいか? ハッキリと言ってしまえば、どちらも正しいとは言えない。なぜ? 細かい数字まで出しているという点で。
 タバコが1箱1000円になった場合、数千万人の喫煙者が一人一人どのような行動に出るかなどは、おそらく人間に分かるはずがないからだ。せいぜい、増収になるか減収になるかを予想するのが関の山で、細かい数値などは分かるはずがないからだ。

 では、増収になるか減収になるかだが、これはタバコの値段にもよるだろうが、1000円ということであれば、おそらく税収はそのままか、減収に転ぶことになると思う。そういう意味では、京大教授の試算の方が正しいとは思う。

 以前にも当ブログで少し指摘したことがあるが、厚生労働省側の試算には、喫煙者と禁煙者という大きな2つの分類しか入っていないと思われる。喫煙者にもいろんな喫煙者がおり、タバコが値上がりして取る行動も人によっては様々だという細かい試算が入っていないのではないか?と思われる。細かい現象を計算に入れずに、細かい数値が出てくるのだから、どういう計算をしているのか一度お聞きしたいものだ。

 タバコが値上がりして喫煙者が取る行動には、大きく分けると次の3通りがある。

 A、タバコを止める
 B、タバコを吸う本数を減らす
 C、同じようにタバコを吸い続ける

 もちろん、これ以外にも、一度、禁煙しても再度吸い始める人もいるだろうし、人によっては様々だ。ここで一番、注視しなければならないのは、Bの吸う本数の問題だ。おそらく厚生労働省の試算にはこのBの部分が抜け落ちているか、抜け落ちていないにしても、それほど重要視していないのだろうと思われる。

 タバコが値上がりしたとしても、その分、吸う本数を減らすことができれば、タバコ代は維持することができる。1箱300円で1日30本吸っていた人であれば、1000円に値上がりしたとしても、1日に吸う本数を10本程度にすればタバコ代は変わらない。禁煙することはできないという重度のニコチン中毒者でない限り、1日に吸う本数を減らすことならできるかもしれない。そういう人から得られる税収は、全く変わらない。3分の1まで減らすことができない人がいたとしても、それほど税収が伸びるとは思えない。

 タバコの値段が3倍になった場合、単純に税収もそのまま3倍になるという条件で考えた場合、Aの場合は税収は0になる。Bの場合は、上で述べた通り、本数を減らすことができれば税収はそのままか少しだけ伸びる程度。AとBだけで考えれば、減収になる可能性の方が高いかもしれない。つまり、大幅な税収増が見込める可能性は、Cに係っていることになる。

 Cが何人になるのかは判らないので、パーセンテージで考えてみよう。
 仮にAが20%、Bが30%だった場合、Cは50%ということになる。

 分かり易くするために、100人という数字で考えてみよう。現在の喫煙者が100人いるとして、1人が1円の税金を支払って税収が100円になっていると考えてみよう。
 その場合、Aが税収0、Bが税収プラスマイナス0なので30円、Cは50人×3円で150円税金を納めることになるので、税収は合計180円となる。この数値なら、税収増になる。しかしCが50%というのは、極めてあまい試算だ。

 数値を変更してみよう。大体予想されうる数値を列記してみると、

 A(30%)+B(30%)+C(40%)=150円
 A(30%)+B(40%)+C(30%)=130円
 A(40%)+B(40%)+C(20%)=100円
 A(40%)+B(50%)+C(10%)=80円

 この数値から言えることは、Cのパーセンテージは少なくとも20%以上なければ、税収は維持できないということだ。具体的に言えば、喫煙者の5人に1人が同じペースでタバコを吸い続けなければならない。
 タバコが1000円に値上がりして、喫煙者の5人に1人が本数を落とさずにそのまま吸い続けるという試算には、少々無理があるのではないかというのが率直な感想だ。況して、大幅な税収増となると、かなり厳しいということがお分かりいただけると思う。

 しかし、厚生労働省と京大教授との間には、差し引き10兆円の差があるのだから、摩訶不思議と言うしかない。一体、どんな試算をすれば、こうも差が開くのか詳細をお聞きしたいものだ。

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結果の不平等社会のススメ

 前回、収入格差について少し述べてみたが、話の都合上、“収入格差が拡大することは悪い”とする方向でミクロ的に話を進めた。しかし、私としては、マクロ的には収入格差は別にあっても構わないと思う。なぜそう思うのかを以下に具体的に述べてみよう。
 
 例えば、100人の人間がいたとして、分けるべきパイの総額が1億円だった場合を想定すると、このパイを100人で均等に分ければ1人100万円になる。

 ここで格差が発生したとして、次のような2つのケースがあった場合を考えてみよう。
 
  A、80人が1人50万円、20人が1人300万円
  B、90人が1人50万円、10人が1人550万円

2008091901

 この場合、どちらが格差額が大きいかというと、無論、Bになる。しかし、最低収入はA・Bともにいずれも1人50万円だ。さて、この場合、あなたはどちらが悪い格差社会だと思うだろうか? おそらくどちらとも言えないはずだ。
 
 例を変えてみよう。
 
 C、80人が1人20万円、20人が1人420万円
 D、90人が1人40万円、10人が1人640万円

2008091902

 この場合、格差額はCが400万円でDが600万円なのだから、Dの方が格差が大きい社会ということになる。では、あなたはCとDのどちらが悪い格差社会だと思うだろうか?
 この場合は、Cと答える人が圧倒的多数を占めるはずだ。

 日本国中、「格差」「格差」と格差病を患ったが如く騒いではいるが、人々が悪い格差社会だと判断している基準とは、“収入における格差額”ではなく、“個人の収入額”なのである。大部分の人間が生活していくに足る収入を得ることができれば、例外的に高収入な人間がいたとしても、それほど気にならないわけだ。
(注意:ここで述べた20万円というのはあくまでも例であって、必ずしも低所得に該当するというわけではありません)

 このことから言えることは、日本の格差社会問題というのは、富める者と貧しい者との収入格差にあるのではなく、貧しい者は限りなく“低所得のまま”であることが問題なのだということが解る。言わば、「低所得社会」だ。

 収入格差などというものは100倍あろうが1000倍あろうが一向に構わない。先の例で言えば、99人が40万円で、1人が残りの6040万円(=収入格差額6000万円)を稼いだとしても問題はない。要は、生活できないような低所得者の所得額が固定されてしまっているところに問題があるのである。しかし、だからといって、高額所得者の稼いだお金を無理矢理に奪って、皆で分配するというような、たかりのような考え方も間違っている。

 この解決策が有るとすれば、それは、政治家が言うような、バラマキや分配による不公平な平等政策に有るわけではない。そんなことをしてもパイの量が増えるわけではないからだ。むしろ、福沢諭吉の言った自助努力の中にこそ有るべきだ。自助努力によってパイの数を増やそうとすることこそが重要なのだ。そのためには、努力した人間が報われる社会であることが前提となる。
 しかして、現代の日本社会はどうだろうか? はたしてそんな社会になっていると言えるだろうか? 「思う」という人がどれ位いるのか分からないが、「思わない」という人の方が多いことはおそらく間違いのないところだろう。
 
 かつて福沢諭吉はこう言った。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と。しかし、その言葉の意味するところは、「人間は生まれながらに平等である」という意味ではない。むしろ、人間は生まれながらに能力の差があると述べている。その能力の差は学問を行うことによって埋めることができるということを述べている。ゆえに『学問のすすめ』を著したわけだ。
 福沢諭吉が理想とした社会とは、自助努力によって誰もが報われる社会、つまり、結果の不平等社会なのである。それは、努力した者が正当に評価され報われるという社会であるはずで、決して何の努力もしない人間が努力した人間よりも報われるというような歪な社会ではないのである。
 格差社会というものは、その前提とする社会の在り方によっては、善とも悪とも成り得る。本物の格差社会と偽物の格差社会、はたして現代の日本はどちらの格差社会と言えるだろうか…?

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「賃金格差」と「収入格差」の混同

2008091401

 先日、厚生労働省がまとめた今年度の最低時間給賃金は、703円(全国平均値)だったということで、初めて700円台を超えたというニュースがあった。都道府県別に地域間格差はあるとはいえ、概ね650円から750円程度に収まっているらしい。この値からは最低賃金における格差なるものはそれほどあるとは思えない。しかし、役所の視点で観ると、これでも格差があるということらしく、加えて、生活保護の水準とほとんど変わらないということで、更なる最低賃金の上昇を期待しているらしい。

 しかし、ここで疑問に思うのは、最低時間給なるものが、役所の命令で簡単に上げられるものなのか?ということだ。役所の発想からは、なにやら“無理矢理に賃金を上げずに労働者から搾取している悪徳な企業経営者がいる”というような考えが浮かんでくる。まるで、“労働者は資本家から不当に搾取されている”というようなマルクス的な発想がその基になっていると言わんばかりに…。

 確かに、産業革命の時代には、そういった悪徳な資本家がいたのかもしれないし、景気の良かった頃の日本にも、そういった意地の悪い経営者がいたのかもしれない。しかし、現代の日本にあっては、もはやそのような発想はほとんど無意味に近いと思える。一部、そういった経営者も残っているのかもしれないが、大抵の中小企業経営者は、なにもイタズラして賃金を上げないわけではないだろう。おそらくギリギリのところで、時給を勘案している経営者も少なくないはずだ。ヘタに時給を上げると採算が合わずに、あえなく倒産という厳しい資金繰りに喘いでいる会社も少なくはないように思える。

 そもそも「給料とは何か?」という根本的なところから考え直す必要があるのではないだろうか?
 給料とは、仕事を通じた利益から支払われるものだ。つまり、利益が出なければ、給料は支払えない。こんなことは小学生でも解ることだが、はたしてこの国の役人達は、この単純な理屈をどれだけ理解しているのか疑わしく思える時がある。(国家が赤字経営なのだから、本来、公務員はボーナスはもとより、まともな給料も出ないという考えを持っていなければならない)

 仕事には、良い仕事もあり悪い仕事もある。誤解を招くといけないので、正しく言うと、利益の大きい仕事もあれば、利益のほとんど無い仕事もある。そして、厳しい競争社会になればなるだけ、後者の比率が大きくなる。それでも仕事が無いよりはましだということで、仕方なく薄利で仕事を受注せざるを得ないという現実がある。
 そういった仕事を受注すると、当然のことながら、労働者には効率的・合理的に仕事をこなすことが要求される。もし効率的な仕事ができないのあれば、最悪の場合は解雇、そうでない場合であっても、残業代は付かず減給はやむを得ないというのが、現代の日本の中小企業の姿だ。

 そういった現実を無視して、闇雲に「最低賃金を上げろ!」と言っても、無理な場合はある。いや、むしろ無理な場合がほとんどだろう。現在、700円でギリギリ採算が取れている労働者の賃金を無理矢理に800円にしても、その労働者が素直に喜べるわけではない。700円なら雇用されるが、800円では雇用できないというようなことになってしまえば、喜ぶどころか逆に悲しむことになる。そして、この理屈は、どこの会社に行っても適用されてしまうことになるので、その労働者は失業という闇の中を延々と徘徊しなければならなくなるかもしれない。これが果たして、良い政策だと言えるだろうか?

 例えば、少しだけお小遣いの欲しい学生や主婦が、仕事があまり出来ないという理由で、経営者から「時給500円なら雇用できます」と言われた場合を考えてみよう。
 その学生や主婦は「それでも構わない」と言うかもしれない。実際にそれだけの仕事しか出来ないという場合も有り得るので、充分に考えられるケースだ。このことからも、両者の合意さえあれば、別に時給が最低賃金を下回っても問題があるとは思えない。

 しかし、ここでその学生や主婦が「最低賃金は700円と決められているので、700円以上でないと嫌です」と言った場合はどうなるだろう? 経営者は、「ああ、そうですか、それなら他の会社を当たってください」ということになるだろう。経営者側にも労働者を選択する自由があるからだ。採算の取れない労働者を採算の合わない賃金で雇用する必要はないからだ。
 結果、この学生や主婦は、どこにも雇ってもらえず、1円も稼ぐことができなかったということになってしまいかねない。
 さて、この場合、悪いのは何だったのだろう? 
 意地の悪い経営者がいたためだろうか? もちろん違う。
 仕事の出来ない学生や主婦だったからか? これも少し違う。
 では何が問題だったのか?
 答えは、“需要と供給を無視した最低賃金の取り決め”ということになる。

 結局のところ、最低賃金を無理矢理に上げてしまえば、賃金格差の解消どころか、逆に収入格差は広がってしまいかねない。雇用されている人間達の賃金格差は縮まったとしても、雇用されない人間が大量に発生してしまえば、有職者と失業者の間に更なる収入格差が生じる可能性が高い。政府が、求めているのは、賃金格差ではなく収入格差の解消ではなかったのか?
 賃金格差を解消することで、収入格差が拡大してしまうのであれば、ナンセンス極まりない。
 分かり易く言えば、月給格差を解消することで、年収格差が拡大してしまっては、無意味であり、本末転倒と言わざるを得ない。小さな視点ではなく、もっと大きな視点で物事を見ないと、なんの解決にもならないということを現代の役人達は身をもって証明しているかのようだ。やれやれ…

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『タイタニックの悲劇』と『日本の悲劇』

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 福田総理の電撃辞任劇を契機として、自民党がお祭り騒ぎになっている。
 改革路線を放棄したかに見えた福田総理が総理を辞任したことは、日本経済にとってプラスになるのか、それともマイナスになるのか? これは意見が分かれるところだろうが、私の答えは決まっている。その答えは「どちらとも言えない」だ。
 「そんないい加減な答えなら誰でも言えるぞ!」とお叱りを受けそうだが、この「どちらとも言えない」というのは、二者択一的に“良くなるか”“悪くなるか”という意味ではない。正しくは「質問自体が無意味」という意味だ。
 なぜそう言えるのかと言うと、日本の場合、総理大臣に国政を動かすだけの充分な力が与えられているとは思えないからだ。
 昔から小学生に「日本で一番偉い人は?」と聞けば、阿吽の呼吸で「総理大臣」という言葉が返ってくるものだが、日本の総理大臣は、そんな御大層な代物ではない。むしろただの飾りのようなものだと思った方がいいかもしれない。総理大臣がそれほど立派なものなのであれば、そう簡単に辞任などはできないはずだ。ほとんど何の政策も改革も行わず1年や2年で簡単に辞任しても何の影響もないことがそのことを如実に物語っている。つまり極言すれば、国政を動かすことのできない総理であるのなら誰がなっても大した違いはないのである。

 最近、「官僚内閣制」という言葉をよく耳にするようになったが、その言葉の通り、日本では議院(国会)ではなく、事実上、官僚が国政を牛耳っている。如何に優秀な人物が総理大臣になったとしても、国政を操ることができず、逆に官僚の操り人形と化してしまう。
 
 「構造改革」という言葉の本当の意味は、この倒錯した構造を改革することであるはずなのだが、どういうわけか日本では小泉総理によって構造改革が為されたということになってしまっている。規制緩和を行ったことが構造改革を行ったことだと曲解している人も大勢いるように見える。その最たるものが「小泉構造改革によって格差が生まれた」という曲解だ。しかし、残念ながら小泉総理が行ったことは真の構造改革ではなく『小構造改革』だった。規制緩和にしても同様、『小規制緩和』に過ぎなかった。
 格差自体は小泉総理の政策に関係なく初めから存在していた。その隠れて見えなくなっていたものが、初めて認識されるようになっただけのことである。

 政治家にできる仕事とは、限られたパイを分けるという富の再分配業務のみであって、自らお金を稼ぐ手段を持っているわけではない。お金を集めてお金を配るだけと言ってしまえば身も蓋もないが、それが現実だ。しかし、このお金を国内だけで賄おうというのが現代の日本の政治家達の姿だ。国内だけで賄えるのならそれに越したことはないだろうが、世界一物価が高く、世界一少子高齢化が進んだ国でパイの奪い合いをして一体、どうなるというのだろうか? それ以前に、お金を稼ぐ民間企業の邪魔ばかりをし、限られたパイを更に小さくしているのはどこの誰なのかと問いたい。
 現代の日本が行うべきは、世界中に有り余った遊休マネーを呼び込むことだ。ヒトもモノもカネも国内だけで賄っていくのは無理があるのだから、せめて、お金だけでも国内に入ってくるような政策を採るべきだ。それこそ、富を生み出すことができない政治家にできる唯一の価値ある仕事だとも言える。

 今日のテレビでも、これから総理大臣になろうかという人物が、「市場原理主義を否定する」「勝ち組、負け組を作らない社会を構築する」などというスローガンを掲げていた。これはもはやお笑いとしか言いようがない。少なくとも自由民主党に所属する人物の言葉とはとても思えない。「役人原理主義を貫いて、平等を目指す」と言いたいのかもしれないが、それはむしろ共産党か社民党が発言すべき言葉だ。
 現代日本の自由民主党というのは、正式には「自由民社党」と名乗った方がピッタリとくる。無論、民主党には「民社党」という名が相応しい。要するに日本には真なる意味での民主党なるものが存在していないのである。
 もちろん、自民党の中にも民主党の中にも、民のことを考えているまともな政治家はいるだろうが、党内における主義・思想が一貫しておらず、てんでバラバラのまとまりのない集団であることは否定できない。

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 日本が現在の不況を吹き飛ばすためには、既存の秩序を破ってでも、大胆な方向転換をしなければならない。氷山に向かうタイタニックの様相を呈している現代日本丸は、その舵を大きく方向転換する必要がある。しかし、その舵を握っているのが既存秩序を守ることを使命としている官僚達なのだから、どうしようもない。これぞ、まさにタイタニックの悲劇ならぬ、日本の悲劇だ。
 氷山に特攻することを止める人間がいない、そして止めることができる人間がいたとしても、その力を生かすことができないというところが日本の政治の問題点なのだ。この馬鹿な歪んだ構造を改革してこそ、真の構造改革と言えるのだが、はたしてそんなことができる人間が現れるのだろうか?

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スポーツオリンピックよりも重要な経済オリンピック

 一党独裁国家という理由からも当初、その実現すら危ぶまれていた北京オリンピックは無事(?)に終了した。しかし終了した後、間髪入れずに今度は中国経済悲観論がマスコミから出始めている。
 中国では2010年に上海万博も行われることになっている。日本も東京オリンピックから大阪万博までの間は景気が良かったそうなので、それに準(なぞら)えることができるのであれば、中国の好景気も今のところはそれほど変化はないかもしれない。

 話は変わって、私は今回の北京オリンピックはあまりテレビでは観ていなかった。オリンピックに対するマスコミの報道が如何にも時代遅れな感じがしたこともその理由の1つだ。
 先週、文部科学省に対する批判文を書いたところだが、舌の根も乾かぬうちに、また文部科学省から新たな政策(?)が発表された。
 今度は何かというと、オリンピックのメダル獲得のために、各国の選手育成方法を分析し選手を指導するというものだ。そのために12億5千万円もかけて「ナショナルコーチ制度」を新設するらしい。今回は、前回ほど厳しく批判するつもりはないのだが、どうも違和感を拭えない。先にも書いた通り、時代にそぐわないという感じがするからである。

2008082701 東京オリンピックの頃は、まだ冷戦時代だったということもあり、国 対 国というような戦争のような図式も成り立ったのかもしれないが、21世紀の現代にあって、国 対 国というのは、どこか国粋主義者のような感じが拭えない。現代のオリンピック出場選手達も、お国のために日の丸を背負ってオリンピックに臨んでいるわけでもないだろう。
 スポーツ選手として、世界で1位に成ることを目標にすることは良いことだと思うが、「日本」が1位になるというような目標を持つ必要性はあまり感じられない。個人競技だけでなく団体競技もあるとはいえ、選手達は全員、自分自身の目標のために競技しているのであって、別に国のために頑張っているわけではないだろう。
 ところが、マスコミが報道するオリンピック中継を観ていると、まるで戦争でも行っているかのような雰囲気が漂っている。個人としてのスポーツ祭典のはずが、国としてのスポーツ合戦になってしまっている。この古臭い国家社会主義的な報道に違和感を感じてしまうのは私だけではないと思う。

 オリンピック自体に景気を底上げするような力があれば、その報道に力を入れるのも頷けるのだが、実際には、ほとんど景気には影響しない。今の中国を見ればお解りのように、オリンピックを開催したことによって景気が良くなるというような報道は全く為されていない。オリンピックを開催したことによって景気が更に良くなるのであれば、中国経済楽観論が出てきても不思議ではないはずだ。
 同じように、2016年に東京でオリンピックを開催できたとしても、国の宣伝に莫大な費用がかかるだけで、ほとんど経済効果はないかもしれない。8年も先の不確定なことにエネルギーを費やしている暇があるのなら、現在ただ今の景気を改善することを考えた方が余程まともだと思える。

 現在の日本は、官製不況のために建築業界では倒産ラッシュが相次いでおり、業界関係者達からは悲鳴があがっている。こういった現在進行形の悪しき状況を放っておいて、8年先の有るかどうかも判らないオリンピックのメダル獲得数など、どうでもいいことのように思える。国がわざわざ音頭を取らなくても、オリンピック選手達は自分達の努力でメダルを獲得してくれるだろう。選手達にしても「国がメダル数を管理するなどは大きなお世話だ」というのが本音ではないかと思う。日本は中国のように、『金メダルを取れば一生安泰』というような国でもないのだから、国に大きな顔をされても選手達も迷惑だろう。

 私のように冷めた目でオリンピックを観戦していた人間は結構多いのではないかと思うが、いかんせん、未だに(マスコミに乗せられて)大騒ぎしている人間も多いと思う。4年に1回のスポーツ観戦でお祭り騒ぎすることに文句をつけるつもりはないのだが、もう少し自国の経済状況を考えた上で行動してもらいたいものだ。
 
 仮に経済オリンピックというものが開かれたとすれば、日本の場合、お家芸の製造業は未だ金メダルの地位にあるが、その他の金融や農業、情報技術では到底、メダル獲得には届かない。いや、オリンピックに参加できるのかどうかさえ疑わしい状態だ。なんせ、子供に携帯電話を持たせないなどというようなことを本気で考えているような国なのだから仕方がない。
 スポーツで金メダルを取ることよりも、むしろ、経済オリンピックに参加することの方が、今の日本には重要なことだろう。日本は経済オリンピックでは未だにスタート地点にも立っていない状態だ。と言うよりも、経済オリンピックに参加することを拒んでいる国だと言った方が正解かもしれないが…。

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スタグフレーション国家『日本』

 バブル的な様相を呈していた原油先物価格が下落に転じ、一時期、騒がれていたような深刻な不況突入感は少しは和らいだとはいえ、未だにガソリン価格は高値止まりしており、物価の方も上がったままで、この先、下がるという見通しもたっていない。
 デフレ経済がインフレを通り越し、すぐさまスタグフレーションに陥ってしまったことは非常に興味深い。インフレ経済を待望していたエコノミスト達も、この現状を観るにつけ、少しは目が覚めたのかもしれない。
 物価が下がることを目の敵にしていた人達は、《物価が上がれば景気が良くなる》という思い込みに支配され、物価が下がり続けることを「悪」だと騒いでいた。しかし、いざ物価が上がり出すと、今度は物価が上がることが「悪」だと騒いでいる。これはどういうことかと言うと、答えは極めて単純な理屈だ。

 デフレ・インフレ・スタグフレーションの関係を簡単に定義づけると以下のようになる。

 デフレ・・・・・・・・・物価が下がるが収入も下がる
 インフレ・・・・・・・・物価が上がるが収入も上がる
 スタグフレーション・・・物価が上がるが収入は下がる

 上記の定義から言えることは、デフレやインフレは一概には悪いものとは言い切れないということだ。デフレの場合は物価の下落率が収入の下落率を下回らない限り、生活水準は上がることになる。インフレの場合も同様に、物価の上昇率が収入の上昇率を上回らない限り、生活水準は上がることになる。
 しかし、スタグフレーションの場合は物価のみが上がるのだから、仮に収入が固定のままでも生活水準は下がらざるを得ない。
 不況のバロメーターというものは本来、“物価”ではなく“生活水準”で計るべきものだ。物価が上がる下がるに関係なく、生活水準が満たされているのであれば何の問題もない。つまり、物価と収入のバランスが一定していれば生活水準は維持することができるのである。物価の動向だけを見て騒いでいた人達の意見は根本的に間違っており、物価だけを見ているだけでは不況かどうかは判断できない。物価と収入のバランスが崩れることをもって不況と呼ぶのだ。この作用が逆に働けば好況と呼べることは言うまでもない。

 以上のことは、日本のワーキングプア問題にも当てはまるかもしれない。働いても働いても一向に生活水準が改善しないというワーキングプア問題の本質は、労働の質や量に対しての物の価値(物価)が釣り合っていないということができる。要するに、収入自体が低いことが問題なのではなく、物価が高過ぎることが問題なのだ。現在、年収が180万円以下の人をワーキングプアと位置づけているそうだが、その収入が低いことが問題というよりも、180万円で手に入れることのできる物が、本来の価値以上に高止まりしていることが問題なのだ。

 日本は世界的にも物価が高いことで有名な国だが、なぜ物価が高いのかというと、税金を含めた中間マージン的なものがあまりにも多く含まれ過ぎているためだ。好況時に、コスト意識を持つことなく上がってしまった物価の中には、物としての価値以外の余分な価値があまりにも付加され過ぎてしまったことによって、物価自体が本来の価値以上に高価な物になってしまっているためだ。その付加された価値の中には既得権益者達の人件費などが多く含まれていることは言うまでもない。それを維持するために、ワーキングプアと呼ばれる人達が犠牲になっている…というのは少々言い過ぎかもしれない(それ以外にも理由があるため)が、それが一因になっていることは間違いない。

 確かに、既得権益者達がその利権を手放すことによって、ワーキングプア問題は少しは改善されるだろうが、グローバル経済下におけるワーキングプア問題自体は依然として残ることになるだろう。
 日本が開かれた世界経済に素直に足を踏み入れると、ワーキングプア問題はこの程度では済まないだろう。世界中の労働者が同じ土俵の上に立てば、真っ先に地獄を見るのは日本の労働者ということになるだろう。かと言って、このまま鎖国的な経済状態を維持することも、蛇の生殺しか、茹で蛙(ゆでがえる)になることを意味している。
 政府もこのバランスを維持することに必死(?)なのかもしれないが、そのバランスを維持し続けることは極めて難しいと思う。それはデフレやインフレのバランスを保つこと以上の無理難題とも言えるだろう。そういう意味では、既に日本自体が、別の意味でのスタグフレーションに陥っていると言えるのかもしれない。

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「大きな政府」と「スタグフレーション」の類似性

 最近、「小さな政府」と「大きな政府」ではどちらが良いのか?という意見をよく見かけるようになったが、この答えは考えるまでもなく決まっている。
 “誰にとって良いのか?”という前提条件次第ではその答えは違ってくるが、国民にとっては「小さな政府」、官僚(役人)にとっては「大きな政府」と考えてほぼ間違いないと言える。
 不思議なのは、自由民主と名乗る自民党にも、民主を掲げる民主党にも、「大きな政府」派がいることだ。社民党や共産党が「大きな政府」が良いと言うならともかく、なぜ自民党や民主党に「小さな政府」が悪いという人がいるのかが解らない。
 
 今や、官僚の天下り問題が全国民的な改善すべき大問題であることを疑う人はいないと思うが、「官僚の天下りを許す」というのは、=「大きな政府を創る」ことだ。「大きな政府」というのは、平たく言えば「官の無意味な増殖」を意味している。
 民主主義社会においては、可能な限り官の領域を狭めることこそが国民の利益につながる。なぜそう言えるのかを以下に説明しよう。

 仮に従業員が100人の会社があり、その会社の中に営業、事務、生産という3つの職種があった場合を考えてみよう。そのうち、営業が30人、事務が10人、生産が60人が理想的な人員配置と仮定する。
 この会社が不況の煽りを受けて、リストラを余儀無くされた場合、人員をカットしなければならない。
 さて、ここで質問。仮に3割の人員カットをしなければならないなら、あなたはどの部署の人員をカットしますか?
 
 常識的に考えれば、営業から10人、事務から5人、生産から15人位がリストラされるのが相場かもしれないが、ここでこの会社をスケールアップして、日本という巨大な会社(日本株式会社)に置き換えてみよう。
 日本株式会社の人員配置に置き換えた場合でも、理想的な人員配置は営業が30人、事務が10人、生産が60人とすると、バブル経済が崩壊して不況に突入すれば、日本株式会社もリストラしなければならない。そして実際に失われた10年において、日本株式会社は大きなリストラを行った。しかし、リストラが行われたのは、営業と生産だけで、事務はそのまま残った。言い換えると、民間企業だけがリストラを行い、役所はリストラを行わなかった。
 割合的に言うなら、営業から10人、生産から20人のリストラを行い、結果的には、営業が20人、事務が10人、生産が40人という70人体制となった。
 そして景気が少しずつ回復するたびに、新しく人員を雇うとすれば、本来であれば失われた営業と生産を増やさなければならない。しかし、どういうわけか日本株式会社では、事務も増やそうということになり、事務が20〜30人の100人体制になってしまったとすれば、果たしてどんな社会になるだろうか?
 
 事務職というのは、会社には絶対必要ではあるが、利益を生み出さない部署ということを忘れてはならない。事務職だけが際限なく増加していくような会社の行き着く先は経営破綻以外には有り得ないというリアリスティックな視点も忘れてはいけない。ここでいう事務職というのは、無論、公務員のことを指す。「大きな政府」というのは、「事務職だけが増員される会社」と考えれば解りやすいかもしれない。事務職が増え過ぎれば、利益が圧迫され、営業と生産の人達の収入も下がらざるを得なくなる。
 
 現在は、物価が上がっても収入が上がらないという悪いインフレ(スタグフレーション)が日本を襲っているかに見えるが、大きな政府になってもこれと同じようなことが起こる。官が増殖し過ぎると、コストばかりが嵩み、働けど、働けど、一向に収入が上がらなくなるという悪循環社会を迎えることになる。まさしく「大きな政府」とは「スタグフレーション」と同じ効用(?)を国民に齎すことになるのである。
 「大きな政府」×「スタグフレーション」などということになると、もはや救いようが無くなる。ここからも、現在のスタグフレーション下では、「小さな政府」を選択するしかないと言うことができる。
 
 真に国益(国民の利益)を考えている政治家であれば、迷わず「小さな政府」を選択する。では「大きな政府」を選択している政治家は国益を考えていないのか?というと、そんなことはない。彼らは、同じ国益でも“国民の利益”ではなく“国家の利益”(実質は役人達だけの利益)を優先している。つまり、「大きな政府」主義者というのは、社会主義者のことだと思えば間違いない。しかし今時、「国家あっての国民」などと言っていたのでは、いつまで経っても日本の閉塞感を拭うことはできない。思い切って「国家あっての国民」ではなく「国民あっての国家」という方向に舵取りしないことには日本が現在の不況から脱することはできないという現実を考えた方がいいかもしれない。

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『インターネット規制法案』の裏側

 未成年者を有害サイトから守るという、有害インターネット情報規制法(有害サイト規制法)案が参院本会議で可決・成立したらしい。
 
 この法案が可決したことで、インターネットユーザーを中心に次のような意見が囁かれている。
 
 「未成年者の有害サイト規制は隠れ蓑で、実は、中国のように情報統制することが目的ではないか?」と。
 
 これは、考えられないことではないかもしれない。中国などは、携帯電話の爆発的な普及によって、かつてのように国民を情報統制できなくなったということはよく聞かれる話だ。
 ここで、「日本は中国のような全体主義国家ではないのだから、それは考え過ぎではないか?」と思う人がいるかもしれない。しかし、実際はそうとも言えない。
 最近の中国からの留学生などは、「日本人の方が中国人よりも共産主義者っぽい」という感想を持っているらしく、日本の学生と付き合うと「共産主義を伝染される」というブラックジョークまで飛び交っているそうだ。
(参考文献)『日はまた昇る』ビル・エモット著
 
 日本は建前上は資本主義国家ではあるが、その内実は、社会主義国家だということは広く知られたことであり、「知らないのは日本人だけ」というブラックジョークが世界中で囁かれていることも有名な話だ。

 日本では公の場で正論を述べると、必ずどこかから邪魔が入ると言われている。なるほど、確かに世の正論者と思える人は、テレビには全くと言っていいほど登場しない。正論と呼べるようなものは、書物を通してか、インターネットを通してしか、なかなかお目にかかれない。書物だけであれば、読書家以外には正しい情報がなかなか伝わらないために、国もそれほど躍起にはならなかったのかもしれないが、昨今のブロードバンド環境によって、次々と誤った情報が暴露されるようになってしまった。社会保険庁の年金問題等はその最たるものかもしれない。国が有耶無耶にしようと思っても、インターネットという開かれた情報空間がそれを無効にしてしまうようになってきた。自由な言論の場が、眼に見えない仮想空間で構築されつつあることに畏怖する勢力があったとしても不思議なことではないかもしれない。
 
 デジタル空間というものは、基本的に0と1という信号のみで成り立っている。しかし、それだけでなく、実は情報の中身までも真(1)と偽(0)に分けるという巨大な力を有していることに多くの人達が気が付いてきた。このことは、20世紀に生きた権力者達には、想像だにできなかったことだろうと思う。これはまさに情報を遮断され、束縛されて生きてきた人々にとっては「革命」と呼ぶに相応しい出来事であったとも言える。この無血革命によって、管理された国々というものは、必然的にオープンな社会に変化していかざるを得なくなる。
 今後、世界はより開かれた社会(オープン・ソサエティ)を目指すだろうことは間違いないだろう。しかし、開かれた社会ではなく、閉ざされた社会でしか生きていく術を持たない(閉ざされた社会の方が都合がよい)既得権益者達は自ら抵抗勢力となって、社会のオープン化を阻もうとするに違いない。
 
 『インターネット規制法案』はクローズドな社会を構築するための先鞭ではないか? その疑問が杞憂であることを祈ろう。

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原油高と自動車会社の知られざる関係

 レギュラーガソリンの1リットル価格がついに170円を超えてしまった。この調子でいくと、200円も超えるのではないか?という憶測情報が飛び交っているが、これはまあ誰にも解らない。解るとすれば、この原油相場を操っているプロの投機家くらいのものだろう。
 現在の異常な原油高は、投機マネーによって原油先物価格が高騰していることが主な原因なので、どの時点で暴落に転じるのかも解らない。しかし、騰がる角度が急であれば、下がる角度も急カーブになるはずで、この原油高が収束した暁には、富士山のような山型の相場チャートが出来上がっていることに気付くことになるかもしれない。
 
 私も何年か前に、大学の後輩を名乗る某先物取引会社の新入社員から「原油を買いませんか?」と猛烈に勧められたことがある。(卒業名簿を手に入れて電話してきたらしい)
 試しに一度会ってみたことがあるのだが、原油の先物を買う程の余裕はないと丁重にお断りした。あの時、話に乗っていれば、今頃は大儲けしていたと思う。(現在まで売らなければという条件付ではあるが…)

 さて、この原油高によって、「車を買い控える消費者が増加する」との意見がよく聞かれるが、これは本当だろうか? 生活に車が絶対必要という人間が、原油高という理由だけで、車を購入しなくなるのだろうか?

 結論から先に言うと、これらの意見は極論…と言うよりも、むしろ、曲論と言った方がいいと思う。消費者が控えるのは、せいぜい、遠出することを控えるか、買い物に出かける回数を減らすかというくらいのことだろうと思う。消費者は、無駄な外出(運転)は極力しないという方向に向かうと思われるので、ネットによる販売が更に加速することになるかもしれない。
 
 それと、もう1つの曲論に、原油高によって「自動車会社の売上が減少する」という意見がある。これも先程と同様、“原油高によって世界中の自動車が売れなくなる”という前提のもとに述べられているのだろうが、これもただの思い込みに過ぎない。
 原油高になれば、「車を買わなくなる」「自動車会社の景気が悪くなる」というのは極論と言うしかない。なぜ極論であるのかというと、“原油自体は存在している”“自動車に代わる交通手段が無い”という2つの理由からだ。
 「車を買わなくなる」「自動車会社の景気が悪くなる」という結果になる場合があるとすれば、それは原油の値段が高くなった時ではなく、原油が枯渇した(=無くなった)時か、または、自動車に代わる新しい交通手段が開発された時だけだろう。
 「電気自動車があるのではないか?」という意見があるかもしれないが、電気自動車を開発しているのも同じ自動車会社なのだから、自動車会社がいきなり低迷するという理由にはならない。
 
 原油高になって消費者がまず考えることは、“いかにガソリンを使わずに済むか”ということだ。いきなり車を買わなくなるのではなく、まず、燃費に目を向けるのがごく普通の消費者の姿であるはずだ。そうであるならば、燃費の良い車に買い替えようと考えるのが通常の消費者心理だろう。
 幸い(災い?)にも、日本の車検は2年に1回という短期間であるので、今後2年以内に燃費の安い車に買い替える消費者が急増する可能性が高い。つまり、車は売れなくなるのではなく、買い替え需要(特需)によって、一部の車は売れまくることになる。売れまくる車とは当然のことながら、燃費の安い日本車(特に軽自動車)になるだろうから、中長期的に観ると、日本の自動車会社にとって原油高はむしろ追い風になる可能性が高いと言える。

 実際、普通車と軽自動車では、燃費が2倍以上違うので、現在、普通車に乗っている人が軽自動車に買い替えることによって、ガソリン価格が2倍になったとしてもペイできる計算になる。
 問題は、職業上、高燃費の大型車に乗らざるを得ない人と、元から低燃費であるがゆえに軽自動車に乗っていた人だけだ。そして、原油高によって最も困るのは、消費者ではなくて、実はガソリンスタンド経営者であるということだ。車の需要は減少しなくても、ガソリン需要が減少することだけは避けられないからだ。ガソリンスタンド救済のためにも、自動車会社には、より低燃費車の開発に力を入れてもらいたいところだ。
 
 余談となるが、以上のことを考えると、円高が一服した現在、トヨタやホンダ、スズキ等の自動車株は現在が絶好の買い時と言えるかもしれない。近い将来、「あの時が絶好の買い時だった」ということに気付くことになる可能性が高い。と言っても、私は証券会社の回し者でもなければ、当ブログ閲覧者に自動車関連株の購入を勧めているわけでもないので、株式投資はくれぐれも自己責任でお願いしておきます。

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携帯電話騒動に見る官製不況 

 政府の教育再生懇談会は、「小中学生が携帯電話を持たないようにする」ことを促しているそうだ。子供に対しての有害情報を遮断することを目的としており、必要無いと思われる場合は極力、携帯電話を持たせないようにと保護者などに協力を呼びかけている。
 この調子でいくと、そのうち本当に『15歳未満は携帯電話所持禁止』という法律が出来るかもしれないが、果たしてこれは正しい判断なのだろうか?
 
 まあ確かに、自ら携帯電話利用料金を稼ぐ手段を持たない小中学生が携帯電話を持つことには、反対意見の人は多いかもしれない。有害な携帯サイトに接することで、いろんな問題が発生する可能性もある。持てばリスクが発生するが、持たなければリスクは発生しない。「それなら安全な方を取るべきだ」というのが、事勿れ主義の日本政府の毎度の判断であるのだが、果たしてこれは正しい判断なのだろうか?

 多くの保護者達は、子供に携帯電話を持たせることに危うさを感じているそうで、実際に携帯電話を持たせないという親もいるらしい。しかし、子供は周囲の友人達が携帯電話を持っていれば、同じように携帯電話を欲しがることになる。好奇心旺盛な年頃では尚更だろう。好奇心旺盛だと言っても、子供達は別に初めから有害なサイトに興味があるわけではなく、ただ、携帯電話が欲しい、友人と電話がしたい、メールがしたいという純粋な動機があるだけだろう。
 
 誰でも解ることではあるが、問題は“小中学生が携帯電話を持つこと”にあるのではなく、“小中学生でも障害なく有害サイトに入れてしまうこと”にある。であるなら、対応策は“携帯電話を持たないようにすること”ではなく、“有害サイトに入れないようにすること”だけで事足りるはずだ。つまり、単純に“小中学生には有害サイトに入れない携帯電話を持たせるようにする”とすればいいのだ。
 メーカーに対しても、“小中学生に携帯電話を販売してはいけない”と言うのではなく、“有害サイトに入れない携帯電話を開発しなさい”とだけ言えばいいのである。(KIDS携帯、R15携帯、R18携帯などに分けるようにすればいい)
 それだけなら、経済に与える影響も軽微だろう。いや、むしろそうすることで、今まで携帯電話を持たせることに抵抗があった保護者達も子供に携帯電話を買い与えることになるかもしれないので、需要と消費が増加して景気が上向くかもしれない。

 ただでさえ少子化で、需要が自然減少していく時代にあって、小中学生が携帯電話を購入してはいけないというようなことになると、ますます需要が減少してしまう。言うなれば、これは少子化ならぬ無子化だ。携帯電話業界は、少子化問題が一気に無子化問題にまで発展してしまう。需要が伸びる伸びないではなく、いきなりゼロになってしまう。これでは経済を無視した失政と言わざるを得ない。
 はたして、この国のお役人達は、この国が消費不況の真っ只中にあることが解っているのだろうか? 国民のためだと言って、簡単に企業の供給と国民の消費を減退させてしまうことに何の罪深さも感じないのだろうか? 現在の日本の不況は官製不況とも言われているが、それが真実かどうかは今回のこの携帯電話騒動を見てもよく解る。なるほど、まさしく、日本は官製不況の真っ只中にあると言えそうだ。

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格差社会と学歴社会の矛盾

 格差社会の是正を叫ぶ人は実に多く、5月のメーデーに於いても「格差の是正」というものが大きなテーマとなっていたようだ。ワーキングプア問題を前面に出して格差の是正を叫べば、そのことについて真っ向から否定するような人はいない。
 しかし、メーデーに参加するような人は、基本的に労働組合に属する人間(=大企業の社員)であって、大抵はワーキングプアに属しているわけではない。

 公の場で、本気で格差の是正を叫ぶのであれば、次の2点のことをお聞きしたい。

 1、自分の年収が平均年収より多い場合、余分な収入は返還する覚悟があるのか?

 2、学歴によって発生する収入の格差を、すべて一律に変更しても文句はないのか?

 平均的な年収が仮に300万円だとすれば、年収500万円の人は200万円を返還して、年収300万円に満たない人(ワーキングプアも含む)に再分配しなければならない。収入格差の是正とは一言で言えばそういうことだが、これを受け入れる覚悟のある人間がメーデー参加者の中に一体どれだけいるというのだろうか?
 また、年収300万円以下の人物が「格差の是正を!」と叫んでいたとしても、その後、その人物の年収が400万円になった時に、100万円を返還する勇気があるのかもお聞きしたいものだ。
 おそらく、実質的に平均年収以上を稼いでいる人物が、自発的に余分な収入を返還するなどということはないはずだ。格差の是正を叫んでいる人間の中に、本心から格差の是正を求めている人間などはほとんどいないというのが実際のところだろう。

 現代の日本は未だに学歴社会が幅をきかせ、決して学力社会になっているとは言えない。世の親がなぜ子供の学歴にこだわるのかというと、学歴によって就職先がある程度決定しまう(=収入に差が生じる)と思われているからだ。つまり、収入格差を認めた上で、子供に学歴を競わせているわけだ。そんな人物が「格差の是正を!」などと訴えたところで、なんの説得力も感じられない。本来、格差社会を否定するのであれば、学歴社会も否定しないことには筋が通らない。その矛盾に気が付いている格差是正論者が一体どれだけいるというのだろうか?

 労働において生じる収入格差はむしろ当然のことであり、収入格差だけなら何の問題もない。収入の格差がそれほど問題だと言うのであれば、年功序列によって生じる収入格差はどうなるのか? それは都合よく「全く問題ない」とでも言うつもりだろうか?

 年収200万円の人が年収1000万円の人を羨ましく思うのであれば、自分で努力して年収を1000万円に近づけていけばいいのであって、無理矢理、他人のお金を横取りして収入を平均化するなどというのは発想自体が馬鹿げている。
 問題は、年収200万円の人がどれだけ努力しても年収1000万円にできない日本の社会構造(学歴社会も含む)にあるのであって、単に収入の多寡に問題があるのではない。ろくに仕事もせずに年収1000万円を稼ぐ人がいる反面、一生懸命仕事をしても年収200万円にしかならない人が同時に存在している社会、そんな社会であることに気付きもしないで表面的な格差ばかりを気にしているオメデタイところが問題なのだ。

 結局のところ、(的を得ていない)格差是正論の根底には嫉妬という感情が渦巻いており、単に自分より収入が多い人に対する嫉妬心を体系化したものが現在の格差是正論と言えるのかもしれない。格差是正論争というのは、姿を変えた嫉妬論争に過ぎず、現実が見えず、幻想のみを追いかけている人達の悲喜劇とも言えようか。

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『食品表示特別Gメン』は必要か?

 以前から『食品Gメン』と言われる人達は存在していたが、昨今の相次ぐ食品偽装問題の防止策として、新たに『食品表示特別Gメン』なるものが農水省に新設されたらしい。

 この2つの違いは、
  食品Gメン・・・食品の販売や加工、調理過程における監視を行う
  食品表示特別Gメン・・・食品の流通(卸売り業者を含む)過程における監視を行う
 ということらしい。
 
 食品表示特別Gメンの新設には2つの意見がある。1つは、食品表示特別Gメンを新設することによって食品の偽装が減少し、消費者は安心して食品を購入することができるようになるというごく当たり前の意見。そしてもう1つが、果たして食品表示特別Gメンは必要なのか?という意見だ。
 私も今のところ、後者意見だ。

 確かに消費者保護という観点で考えれば、取り締まりの強化は必要かもしれない。しかし、取り締まりを強化し過ぎると、返って消費者にとって有難迷惑な環境になってしまわないかという疑問があるためだ。
 消費者保護を唱い、規制を強化し過ぎたために、返って消費者迷惑になってしまった建築業界や金融業界の二の舞になってしまわないかという不安がよぎってしまうからである。
 
 建築業界では、
  耐震偽装問題→規制強化(改正建築基準法)→建築業界不況
 金融業界では、
  消費者金融問題→規制強化(改正賃金業法)→金融業界不況
 となってしまったことは記憶に新しい。
 
 官の規制強化のために、自由なビジネス活動が窮屈なものとなり、結果、市場が縮小してしまい、悪徳業者だけでなく、まともな業者まで全てが迷惑を被った。いや、迷惑を被ったのは善良な業者だけではなく、一般消費者全てに及んだと言っても言い過ぎではないだろう。

 それともう1つ、忘れてはならないものに官僚の天下り問題がある。世間の天下りバッシングという嵐の中、官僚達が誰にも文句を言われることなく天下り先を確保する方法はあるか?というと実はある。民間企業の不祥事を見つけ出し、逆にバッシングすればいいだけ。そうすることで、一般庶民は自ら意識することなく、官僚の天下り先作りに協力することになる。皮肉なことだが、一般庶民が企業の不祥事をバッシングすればするほど、官僚の天下り先は増加してしまうことになる。どちらに転んでも損をするのは一般庶民ということになるが、バッシング熱を患った人々にはそれが分からない。付和雷同型国民の悲劇がここにある。

 マスコミは一方で天下り問題を追及しながら、一方では民間企業の不祥事を大々的に報道している。穿った見方をすれば、マスコミが官僚の天下り先作りに貢献しているようにも見えてしまう。
 穿った見方をせずとも、『民間企業が不正を行えば行うほど官は増殖する』というのは普遍の定理とも言える。これは犯罪者が増加すれば警察官も増加するのと同じ理屈でもある。
 食品表示特別Gメンというものが、その定理に添って作られたものなのか、それとも真の消費者保護のために作られたものなのかは不明だが、食品表示特別Gメンが頑張れば頑張るほど、食品業界に不況を招くという結果だけは避けてもらいたいところだ。

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「サブプライム問題」という枕詞(まくらことば)

 最近の株価を報道するテレビ番組は、毎度のように「サブプライム問題」という枕詞を使用している。
テレビのニュース番組では、
「サブプライム問題の影響から…」とか、
「サブプライム問題を見極めたいとのことから…」とか、
「サブプライム問題の先行き見通しがついたことから…」とか、その日の株価の状態によって毎日コロコロと意見が変わり、一体、サブプライム問題の現状はどうなっているのかが全く分からない。わざわざそんな枕詞を付ける必要があるのか疑いたくなる。

 大体、毎日の株価がサブプライム問題だけで動いているわけではないことくらい判りそうなものである。よく言われているように、サブプライム問題の被害の大半は欧米諸国のものであり、日本の場合、サブプライム問題の被害が最も少なかった国の部類に入る。
 しかし、どういう訳か、サブプライム問題の間接的な被害(報道被害)が最も多いのが日本ということになっている。なんせ日本の株価は欧米の3倍程下落している。株価下落がサブプライム問題の影響というのなら、辻褄が合わなくなってしまう。
 そこでこの矛盾をとらえて多くのエコノミスト達は、こう言っている。

 「日本の株価が他国よりも下がっているのは、政府のねじれ国会のせいだ」

 「掛け声だけで構造改革が一向に進まないことに海外投資家が愛想を尽かしたからだ」と。

 確かにこれらの意見の方がまだ筋が通っている。サブプライム問題にばかり責任転嫁するよりはよっぽどマトモな見解でもあると思われる。

 しかし、こういった一見正当に思える意見すらも全て霞んで見える意見が存在している。その意見は2004年度に出版された『日本株の逆襲』(野村由起夫著)という本に書かれてあるのだが、その内容を簡単に言うと、日本(財務省)には300兆円のヘソクリマネーが存在しており、表に出てこない財務省の数人の天才達がその巨大な資金を利用して相場をコントロールしているというものだ。よくテレビなどで聞かれる「海外投資家の外人買い」というのも実はこのヘソクリマネーのことで、外資系の証券会社を経由していると書かれている。
 常識的に考えれば、よくできた創り話のようにも聞こえるが、もしこれが本当であれば、日本では、サブプライム問題が株価操縦に利用されたことになる。外国人投資家を装って、一旦空売りを浴びせ、下がりきったところで安値で買い戻すというトンデモない史上最強の仕手集団(国家)が存在していることになる。

 この本に書かれてあることが真実かどうかは分からない(できれば真実でないことを願いたい)ので、読んだ人の判断に任せるしかない。もしこれが真実であればまさにビックリ仰天といったところだが、仮にフィクションであったとしても、読み物としては良く出来ている。ヘタな推理小説などより読み応えがあると思われるので、興味のある方(異なった視点で物事を観てみたい人)はフィクションだと承知の上で読んでみてほしい。

 最後に一言、今後、サブプライム問題と全く無関係で日本の株価が急激に騰がり出すことがあれば、この本に書かれていることは真実なのかもしれない。

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物価上昇(インフレ)という自己実現

 ガソリンだけは一時的に値段が下がった(元に戻った)ものの、今年は小麦を始め、あらゆる物が値上がりすることになっている。値上がりしない物はタバコ位らしい。(既に値が上がっているため?)
 これだけ物価が上がり出すと、まるでインフレ経済とも呼べそうだが、これが政府の目標とした「デフレ脱却」というのなら、笑い話だと言える。
 全国民が待ちに待ったデフレ脱却が、現在の物価上昇というインフレ現象であるのなら、この状況は、まさしく国民が待ち望んだ結果ということになるが、果たして、この物価上昇で喜んでいる国民がどれ位いるというのだろうか? おそらく喜んでいるのは、混乱に乗じて便乗値上げに踏み切った既得権益者ぐらいのものだろう。

 以前にも当ブログで述べたことがある(→「デフレ脱却」というお題目)が、「デフレ脱却」という言葉が如何に間違ったものであったかが証明された格好となったようだ。
 現代日本のデフレというものは本来、大部分の国民(=消費者)にとっては、プラス環境であり、わざわざ脱却などしなくてもよいのである。100円ショップが有る生活と無い生活ではどちらが消費者にとってプラスであるのかを考えれば答えは明白だ。

 高度経済成長期のインフレの場合は、物価以上に収入が上がったため、国民はインフレ自体を考える必要がなかった。つまり、インフレ自体が好況だったのではなく、物価以上に収入が上がったことを好況と呼んでいたのである。(=つまりデフレ)
 ところが現代では収入が固定(または減少)のままで物価だけが上昇している。デフレ脱却が齎すインフレには、良いインフレと悪いインフレがあることに気が付かないといけない。

 先にも述べたように、
  良いインフレとは“物価以上に収入が上がること”であり、
  悪いインフレとは“収入以上に物価が上がること”を指す。

 現代の物価上昇がどちらであるかは火を見るより明らかだ。現代日本のような、ただでさえ物価や人件費が高止まりしているような国は、収入が上がる人よりも下がる人の方が多くなる可能性が高い。世界的に収入が平準化するグローバル経済下で、成熟国に住む人間が収入を上げ続けていくことは至難の業だ。ゆえに国民は本来であればデフレ経済をこそ待ち望むべきなのだ。つまり、もともと日本の消費者にとってデフレは不況ではなく、デフレ脱却こそが不況の入口だったのである。政府は、言葉の誤用とはいえ、景気を悪化させることをスローガンとして掲げてきたという訳だ。

 世に出回っている成功法則本には、よく紙に書いたことは実現すると書かれてあるが、政府は大々的に「デフレ脱却」という言葉を公告として印刷してバラまき、人々の潜在意識という画用紙に「デフレ脱却」という言葉を刷り込んだ。人々はまさしく心で想い描いた通りに「デフレ脱却」を実現してしまったと言えるが、これはまさに喜劇であり悲劇であるとも言える。
 これ以上、無駄な自己実現をしないためにも、政府には、そろそろ「デフレ脱却」という言葉を「不況脱却」に変更することをオススメする。あるいは「インフレ脱却」でも構わないが、そうなると国民は《デフレもいけないしインフレもいけない》と思い込み、今度はスタグフレーション(不況下で生産物や労働力の供給過剰が生じているのに、一般物価水準が継続的に上昇している状態)をも招きかねないのであまりオススメできない。
 どちらにせよ、これに懲りて今後は、政府の役人も個人消費者も経済現象を正しく理解し、言葉の使い方を間違わないように気を付けた方がよいかもしれない。無論、皮肉ではあるが…。

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21世紀型演説のススメ

 毎朝の通勤時、駅前の線路沿いで某政党の党員がマイクを持って街頭演説を行っている姿をよく見かける。その演説はその人にとってライフワークになっているらしく毎週行われているので、既に見慣れた光景になっているのだが、春の新入シーズンを迎えようとしている新入学生や新入社員達が初めて目にし耳にするだろうことを思うと、少し心配になってしまう。

 演説を行っている当の本人は至って真面目で、少しでも世の中を良くしたいという理想に燃えていることは窺えるのだが、それが独りよがりの理想論であれば、大きな問題になってしまう。もちろん、街頭演説をするのは個人の自由であり、その言説を信じる信じないも個人の判断に委ねられているので、仮に騙されたとしても自己責任と言えなくもない。しかし、誤った情報を公然と垂れ流すことは危険であり、ある意味、公害ならぬ報害になってしまう。肉体的に有害にはならなくても、精神的に有害となってしまう可能性があるのであれば、それは必ずしも善いことを行ってるとは言えず、ヘタをすると、罪を犯していることになってしまう。その罪とは、無論、詐欺罪である。

 電車を待っている間、ホームの椅子に座って本を読んでいる時にもその演説は横から耳に入ってくるのだが、その内容はこの数年間、ほとんど変わっていないかに思える。
 一見(一聴)、彼らの論説は弱者保護を訴えかけているかに聞こえるのだが、よくよく聞いてみると、ただの感情論に陥ってしまっているように思える。感情的には理解できるのだが、論理的には理解しがたいとも言える。
 まず、未だに「小泉構造改革によって格差が生まれた」などと言っているのだから呆れてしまう。

 格差とは一体なんだろうか? そして、格差とはいつから存在しているのか? そもそも格差があることはいけないことなのか?など、突っ込みどころは満載なのだが、順を追って話を進めてみよう。

 まず、格差とは何か? この演説者が言っている格差とは当然、金銭的な収入格差のことを指しているのだろうが、現代の日本社会で収入に大きな差があることを問題視するのは良いとしても、その原因がどこにあるのかについての認識があまりにも表面的であり、ただ単に大企業と中小企業の比較だけに終わってしまっているように聞こえる。「政府が大企業には甘く、中小企業には厳しい政策を採っている」というようなことを言っているのだが、これは完全な曲解と言える。政策的に大企業の利益を中小企業に回せと言うだけでは、あまりにも短絡的発想であり、とても受け入れられるものではない。収入格差問題で大事なことは、大企業であろうと中小企業であろうと、同じ仕事を行っている人間は同じ収入にしなければいけない(=公平にしなければいけない)ということであって、収入だけを平等に近付けろと言うのでは筋が通らない。

 では、格差は小泉元首相が登場したことによって拡大したのかというと、そんなことはない。小泉氏が登場する以前から格差なるものは存在しており、時代的な背景を考えると、小泉氏が登場するしないに関わらず日本の格差は拡大していただろう。規制緩和によって格差が発生したというよりも、規制緩和によって格差が注目されるようになったというだけのことでしかない。
 世界経済がグローバル化し、日本のバブル経済が崩壊したことで、日本企業は必然的に経営の合理化を迫られ、実際に合理化を推し進めた。その結果、ビジネスにおける競争が発生し、収入を得る者と失う者の差が大きくなってしまった。それは社会的な現象であって、政治の齎した現象ではない。

 最後に、そもそも格差があることはいけないことなのかを述べてみたい。
 世の中には収入格差以外にもいろんな格差が存在している。これは言わずと知れたことだが、背の高い低い、頭の良い悪い、容姿の美しい醜い、足の速い遅い、果ては、歌の上手い下手など、数えあげればキリがない位の格差がある。しかし、人々はそれらを全て平等にしなければならないとは言わずに受け入れている。もちろん、誰でもコンプレックスを抱えながら不平不満を持って生きているのだろうが、誰もそれらの格差を解消しろとは言わない。ではなぜ、収入に関してのみ、異常に格差にこだわるのだろうか? それは政治的に実現可能なことだと思われているからだろうか? 収入を得ることも、先に述べた様々な個人の能力の違いの1つであるのならば、それは受け入れるべきことではないのだろうか?
 もし、能力の違いが無い(=同じ仕事を行っている)にも関わらず収入に差があるのであれば、それを是正しなければならないと言うのは正しい。しかし、能力の違いが有る(=同じ仕事ができない)のであれば、それによって生まれた格差は受け入れるしかない。なぜなら、そのことを否定するのであれば、それは人間社会自体の否定になってしまいかねないからだ。それは能力を得るための努力もせずに結果だけを求めるという極めて御都合主義的な考えだとも言える。個人が獲得した能力が偶然の賜物であるのか、それとも必然の賜物であるのか、その違いを認めようとせずに前者を選択してしまうということは、人間自体をロボットと同一視していることと同義になってしまう。つまり、人間の精神性を認めない唯物的思考だ。
 なるほど、確かにこの演説者の政党の御本尊は、唯物論者として有名ではある。

 時代が変われば、経済も変化し、時代が変われば、思想も変化する。
 21世紀になっても20世紀でしか通用しない思想を信じることは本人の自由ではあるが、これから21世紀の厳しい時代を生きていかなければならない新入生達の門出に20世紀の昔話を聞かせることは嘆かわしい。どうせなら、21世紀の予言でも聞かせてもらいたいものだ。

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消費不況の正体(ゼムクリップと貯蓄の関係)

 現在の日本の不況は「消費不況」だと言われることがある。個人金融資産が年々増加しているにも関わらず誰もお金を使おうとせず、将来の不安のためにせっせと貯蓄に励んでいる姿を表現したものだ。
 この姿をより理解するために、会社のゼムクリップに喩えてみよう。
 事務系の会社を例にあげると、社内文書のやり取りなどにはゼムクリップというものがよく用いられる。このゼムクリップが仮に10000個有ったと仮定しよう。同じように社員数が100人いると仮定すると、1人あたりのゼムクリップ数は100個になる。各人がこのゼムクリップを貯めることなく使用すれば、社内全体では常に10000個のゼムクリップが行き交うことになる。誰かが100個のゼムクリップを全て使い果たしたとしても、その100個を含めた10000個のゼムクリップが常に社内を行き交っているので、「クリップが無くなった」と嘆く必要はない。
 では、100人の人間全てが、いざという時のために100個の内の50個を机の中に貯め込んでしまったらどうなるだろう? 当然、社内を行き交うゼムクリップ数は半分の5000個に減少してしまう。ここで人々はこう思う。「最近、クリップ数が減少してきたな」と。その不安のため、今度は貯めている50個を60個、70個…と増やしていくことになる。そうすると、社内に行き交うゼムクリップ数はますます減少していき、遂には余程のことがない限りゼムクリップを使用しなくなってしまうだろう。この悪循環こそ、現在の日本の消費不況の姿だと言える。
 年々、社内で使えるゼムクリップ数が増加しているというのに、そのゼムクリップを使用しないために会社全体にゼムクリップが行き渡らなくなる。
言い換えると、
 年々、個人の金融資産が増加しているというのに、その資産を使用しないために社会全体にお金が行き渡らなくなる(=不況になる)。

 別の喩えで言えば、いざという時のために輸血用の血液を貯めることだけに躍起になっている姿にも喩えられる。いくら輸血用の血液を貯め込んでも、その血液を使用しないことには全く価値を生み出さない。死に金ならぬ死に血となってしまう。輸血用の血液を培養して血液が増加する(=利子が付く)ならまだしも、輸血用の血液を出し入れする手数料の方が高いのだから結果的にはマイナスだ。

 消費不況は、投資不況と言い換えることも可能かもしれない。則ち、リスクを恐れて誰も投資しないような社会になってしまえば、見せかけの個人の安定とは裏腹に本当の不況を招くことになるということだ。
 先日もテレビ番組で、日本では、将来、実を結ぶであろう優秀な人材の発明などにも投資する企業がほとんどないと伝えられていた。これに比べて海外の投資家達は投資に前向きで、このまま行くと、将来、富を創出する日本人が現れたとしても、その富は、その人材に投資した海外の投資家に向かうとのことだった。
 アメリカなどでは、勉学に励む学生に対して、お金持ちの個人が奨学金を出すということも多々あるらしいが、日本ではそんな話は全くと言っていいほど聞かれない。人材(人財)に投資するという姿勢自体が全く根付いていないとも言える。

 将来的に花を咲かせるであろう花の種に水を与えようとせず、完全に成長しきった花を生かすことのみに執着し、若い芽を摘んでしまう。それが現代の日本の姿と言えるかもしれない。そこには国の将来よりも、現在ただ今だけをやり過ごせばいいというような刹那的な感情が見受けられる。その感情は、我が身の保身のみに執着している国のトップである官僚や政治家達の思考そのままだと言えるかもしれない。
 なぜか「国家の品格」なる言葉が少し前に一世を風靡したことになっているが、はたして己の保身にしか興味のないこの国の御老体(権力者)達に品格などを語る資格があるのかは疑わしいと言わざるを得ない。

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二兎を追う役人達は一兎も得ず

 マンション建築における耐震偽装問題が取り沙汰されてから早2年が経過した。当時、マンション建築資材の行き過ぎたコスト削減が問題視され、民間の建築業界に対して様々な行政指導が行われた。そのため、様々な建築基準法も改良を余儀無くされ、ただでさえ規制で雁字搦めになったところに、追い討ちをかけるかのように新たな規制が追加された。
 当初、それらの規制の目的は「国民の生活の安全を守るため」というお決まりの名文句が唱えられたが、規制をあまりにも強化し過ぎたために、今度はマンション等を建築しようにもなかなか取りかかることができないという新たな問題が発生し、建築業界には巨大な不況の風が吹くことになってしまった。
 規制を強化したことによって、騙されて耐震偽装マンションを購入する一般人は確かに減少したかもしれない。しかし、建築業界には会社が倒産して、耐震偽造マンションにすらも住めなくなった人がいるかもしれない。
 一部(?)の建築会社の不正のために、全国のまともな建築会社全てが迷惑を被ったとも言えるが、これでは一体なんのための規制なのか分からない。一罰百戒で建築業界全てが不況になってしまっては本末転倒もいいところだ。

 様々な規制を強化することによって、結果的に行政(役人)の仕事だけが増加し、民間の仕事は減少してしまう。金融コンサルタントの木村 剛氏も、これら行政の無意味な規制強化を「コンプライアンス不況」と呼んでいる。
 本来、民間の仕事が増加してこそ、役人の仕事も増加するというのが、まともな社会の姿であると言えるが、現代の日本には、この法則が当て嵌まらなくなっている。これが如何に異常なことであるのかを考えるために、日本を1つの株式会社に喩えてみよう。

 日本株式会社の中に、営業部、総務部、生産部という3つの部門があると考えると、建築業界は当然、生産部に入る。他の様々な民間企業も大抵は生産部に属する。
 では、規制を強化する役人はどこに属するのかと言うと、無論、総務部だ。
 通常、どのような企業であれ、売上と利益を上げることができるのは、営業部と生産部であって、総務部ではない。総務部はどこの企業であっても必要な部門ではあるが、その部署自体が売上を上げるわけでも利益を作り出すわけでもない。総務部というものはどこの会社であっても、必要最小限にとどめているものだ。特に現代のような大競争時代にあっては、否が応にも総務部は縮小を余儀無くされる。このことはバブル崩壊から現在に至る過程で民間企業の人々が実際に体験してきたことでもある。

 もしあなたの会社で、総務部が巨大に膨張し、営業部と生産部に対して、様々な規制を設ければどうなるだろうか? 例えば、仕事上のミスが発生する度に、「報告書を10枚提出してください。それができるまで仕事をしてはいけません。」などという細かい社則を設けてしまうと、営業部と生産部の人間は肝心の仕事に手が付かなくなってしまう。仕事が手に付かなくなれば、当然、売上も利益も減少する。本来であれば、売上、利益が減少して真っ先に困る(=リストラの対象となる)のは総務部であるはずだが、日本株式会社ではどういうわけか総務部だけは一向に困らずに、営業部と生産部だけにしわ寄せが来る。この矛盾した理不尽な姿こそが現在の日本の姿と言える。

 確かに企業も人間も何の規則も設けなければ、最近の食品偽装会社のように悪さばかりが目立つことになるかもしれない。性悪説を前提に考えると、一定の企業倫理基準は設ける必要性はあるだろうし、コンプライアンスの徹底は必要なことでもあるように思える。しかし、あまりにも束縛を強化し過ぎると返って自由が奪われ、人々はやる気を失ってしまう。その結果、経済自体が畏縮してしまう。

 『景気回復・不況脱却』が政府の至上命題であるにも関わらず、この国ではもう一方の天秤に『格差是正・不正脱却』という命題が乗っかっている。政府はどちらかというと、後者を重視しているように見受けられる。
 この国の役人達は「二兎を追う者は一兎も得ず」という諺の通り、やること為すこと全てが裏目に出てしまう。役人達も善かれと思ってやっているのかもしれないが、国民にとっては有り難迷惑になる場合がほとんどだとも言える。
 日本の役人達に必要なことは、規制を強化することではなく、実社会を学習することかもしれない。いくら勉強ができても、暗記力があっても、そんなものは実社会ではほとんど役に立たない無用の長物だということを知るべきかもしれない。

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資本主義と本棚の関係

 本棚には様々なスタイルの物があるが、大抵の場合、数百冊が許容量の限界となっている。もしあなたが読書家であるなら、本棚が1つしかない場合、本棚に収納される本は常にあなたのお気に入りの本で埋められるはずだ。つまり優先順位というものが存在し、自らが判断した高価値本の上位数百冊が常にその本棚を占めることになる。その本棚の本は常に競争を強いられ、日々、優れたものに変化していき、劣った(面白くなかった)ものは、本棚から落伍していくことを余儀なくされる。本棚という限られたスペースにも優勝劣敗の法則が息づいているという喩えだが、これはまさに、資本主義のメカニズムそのものとも言える。

 先述の喩えは、本棚が徐々に進化していくということを意味している。落伍した本には申し訳ないが、本棚に居残るためには常に優秀であることが必要とされることを物語っている。
 この本を人間に置き換えてみると、1つだけ違うところがある。本は一度、落伍すれば二度と本棚に戻ることはできないが、人間には本棚に戻れる(=敗者復活が許される)チャンスがあるということだ。つまり、人間は生まれつき優秀でなくても、常に進化し続けることが可能であるということだ。それが本と人間の決定的な違いであり、人間社会に資本主義が根付くことができた理由でもある。

 ところが、本と人間は同じものだとする思想が、世界中を席巻したことがある。人間自体が恰も本のように進化しない固定された物であるとする思想が蔓延した。それが、よく知られた共産主義という思想であったということができる。全ての本は常に本棚に納まっていなければならないとする思想と言えば解りやすいかもしれない。世の平等主義者達は驚くかもしれないが、実はこの思想こそが差別思想なのである。なぜなら、人間が進歩できない存在と自ら規定してしまっているからだ。

 本棚には収納量に限界があるのだから、その本棚に無理矢理、本をギューギュー詰めに押し込んでしまうと、その本棚自体が壊れてしまう。
 本来、1列分しか入らない本棚に2列分を並べると、後ろの列に並んだ本は見えなくなってしまう。比喩的に言えば、才能があるにも関わらず、前に並んだ本のために、その才能が隠れてしまう。才能の有無に関係なく、全てを同じ扱いにしてしまうと、才能を持った者はやる気をなくしてしまう。そして才能を磨くという人間本来の善なる欲望自体が失われてしまう。ここに共産主義が崩壊した1つの原因がある。それは結局のところ、人間の進化(成長)自体を否定し、逆に人間の堕落を推し進めてしまうという、まさに悪魔的な思想であったと言えるかもしれない。

 「日本は共産主義国家ではなく、資本主義国家なのだから安心だ」と安堵する人がいるかもしれないが、実は現代の日本は純粋な資本主義国家ではない。どちらかと言えば共産主義国家に近いとも言える。「格差は悪だ!」「格差の是正を!」と絶叫している人間の多さがそれを物語っている。そして先程、「人間には本棚に戻れるチャンスがある」と書いたが、この「敗者復活が許される」という考えが世間一般に浸透していないという意味においても、日本は純粋な資本主義国家ではないと言うことができる。皮肉なことだが「格差は悪だ!」という考えが前面に出てくること自体が、日本が純粋な資本主義国家でないことを証明してしまっているのである。

 人間は生まれながらにおいては平等だが、その人間個人の努力によって差が生じることは仕方がない。100メートル走でスタートラインを皆同じにする(=平等)のは、ゴールする瞬間を同じにするためにあるのではない。ゴールする瞬間が違ってくるからこそ、スタートラインを同じにしているはずだ。つまり、平等を重んじるのであれば、ゴールする瞬間の違い(=格差)は許容しなければいけないはずだ。ところが、現代の日本(の小学校など)は、ゴールする瞬間も同じにしなければならないという思想が蔓延っている。こんな教育は人間教育というより、むしろロボット教育と呼んだ方がピッタリとくる。
 現代日本が危惧すべきは、格差の問題ではなく、この誤った思想であると言える。平等という言葉を極端に美化し、その実、悪平等社会を構築することに躍起になっているように見える。まるで人間を堕落させることを目的とした悪魔の如くに…。

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参議院選挙は『肉を切らせて骨を断つ作戦』?

 少し前に、今年(2007年)を象徴する文字は『偽』ということに決まったらしいが、なるほどと頷かせるものがある。今年は食品を中心とした偽装問題が大きくクローズアップされた年であったことを否定する人間は誰もいないだろう。
 幸いなことに食品偽装における被害者というものは出ていないが、その影に隠れてしまっている社会保険庁の年金問題と厚生労働省の薬害肝炎問題では、多くの国民が被害もしくは迷惑を被った。そういう意味では、『偽』の主役は民間の食品関連会社というよりも、役人達だったと言えるかもしれない。

 さて、その『偽』の主役であった社会保険庁の年金問題であるが、先日、面白い仮説を読んだ。国際問題アナリストの藤井厳喜氏の著書に次のようなことが書かれている。(以下は原文ではありません)

 安倍内閣は公務員改革に力を入れていたが、年金問題が発覚したために、非難の鉾先が自民党(安倍内閣)に向かい、公務員改革を断念せざるを得なくなった。その非難のために、自民党に向かうはずだった票が民主党に流れ、民主党が選挙に勝利するという結果を齎した。
 しかし、当の民主党こそが、社会保険庁と関係の深い官公労(日本官公庁労働組合協議会)の支持政党だった。
 つまり、先の選挙は、公務員制度を改革される前に、先に年金問題を民主党にリークし、自民党バッシングを煽るという『肉を切らせて骨を断つ作戦』だったというものだ。国民達は、年金問題の解決を願っていた(=公務員改革を望んでいた)にも関わらず、結果として社会保険庁寄りの民主党に投票してしまったという皮肉を述べている。

 上記はあくまでも仮説の域を出ないが、考えられないことではないだけに、妙に説得力があるように思われる。「事件の裏には事件があると疑え」とはよく言ったものだ。しかし、もしこれが真実であるなら、官僚達の狡賢さには呆れるほかない。

 さらに、藤井氏はこう言っている。「年金制度とは、徴収された掛け金を国民に支給するのではなく、最初から別の目的に使うために作られた制度だった」と。

 ここまで言ってしまうと身も蓋もないが、現状の年金制度をこのままの形で維持し続けると、近い将来、本当にそう思われても仕方がないという状況を迎えることになるかもしれない。
 僅か1年間で「5000万件の年金不明問題を解決する」という出来もしない不可能な公約を軽はずみに行った安倍総理にも責任があるが、それ以前に、年金制度というものを深く考えようとしない国民サイドにも責任がある。何も自分の頭で考えようとしない他人(この場合は役人)任せの依存体質こそが、年金問題で明らかになった本当の問題点とも言える。

 元々、政府としては、年金制度は破棄したいというのが本音だろうと思う。しかし今更、年金制度を御和算すると、今まで社会保険料を納付した人達に積立てた社会保険料(実際は積立ではないが)を返却しなければならない。しかしその原資がない。
ゆえに、ズルズルと赤字企業の自転車操業よろしく、年金制度を続けていかざるを得ない。
…となると、年金問題(広義の年金支給問題)を解決する手段はもはや無いと言っても過言ではないかもしれない。年金資金を運用するという手段は残されてはいるが、現在のゼロ金利のような状態では国内では運用すらままならない。お国柄、年金資金を海外で運用するようなリスクを冒すとはとても思えない。

 いずれにしても、今のままで適当に過ごしていれば年金生活が待っているという甘い考えは今後、捨てざるを得なくなるだろう。近い将来、元々、年金制度というもの自体が幻想だったと言われる日が来るのかもしれない。逆に、いつまでも年金生活はできると思い込んだままであれば、更に厳しい現実を迎えることになる可能性も否定できない。
 年金制度が破綻するしないに関わらず、年金生活ができるという常識を自ら損切りできる勇気を持つことは決して無駄にはならないはずだ。


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『資本主義の精神』と『勤勉の精神』

 『資本主義の精神』というものがある。
 マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という有名な本(下記参照)もあるので多くの人に知られている。
 この資本主義の精神とはどういうものなのかというと、簡単に言えば、高度な倫理観(宗教観)を基に労働を行わなければ、本当の資本主義社会は生まれないというものだ。
 通常、日本の多くの人々は「資本主義」と聞くと“弱肉強食”“優勝劣敗の競争社会”“金儲け至上主義”などという負のイメージを思い浮かべる人が多い。そういうものも確かに資本主義社会の一面ではあるが、もっと多角的に捉えなければ資本主義の本質は理解できない。ミクロ的な批判ばかりしていてはマイナスな面しか見えてこないが、マクロ的な視点で見るとそこには社会を良い方向に向かわせる大きなヒントが隠されている。

 具体的に、ある2人の人物を例にして考えてみよう。
 ある会社に、高度な倫理観を持った人間(以下A)と倫理観の全くない人間(以下B)の2人が存在していたとしよう。
 Aは勤務時間中、不必要な休憩を一切せずに無私の心で働いており、Bは勤務時間中、少しでも休憩した方が得だと考えて働いていた。 当然、2人の仕事には差がついた。言うまでもなくAの方が断然能率的だった。Aは常に仕事を合理的に行うことを考えた。一方、Bはさぼることばかり考えた。Aはどんどん効率的に仕事をこなせるようになっていったが、Bは一向に進歩しなかった。
 さて、この2人の給料が同じで、昇給も同じだった場合を考えてみるとどうだろうか? Aのような人間ばかりの会社とBのような人間ばかりの会社があれば、そこにはどんな差が発生するだろうか?
 答えは、前者(前社)は発展する可能性があるが、後者(後社)は確実に衰退する。

 ではそこに競争原理を導入するとどうなるか?
 答えは、前者(前社)は努力次第で競争社会でも対応していける可能性があるが、後者(後社)はあっという間に淘汰される。

 競争がどんどん激しくなってくると、コストを少しでも抑えなければならないという合理的な精神が働くが、その精神が働かないなら、そこには資本主義社会は生まれない。一時的に生まれたとしても永続的には続かない。コスト意識(=合理化の追求をすること)が無ければ資本主義社会は続かない。なぜならコスト意識が無ければ、基本的に競争という概念が存在しなくなってしまうからだ。競争というものは合理化の追求があってこそなされるものであるからだ。
 そしてそういう姿勢の容認は、高度な倫理観があって初めて為される。それが資本主義の精神と言える。平たく言えば、さぼらず、向上を目指す精神的思考、もっと簡単に言えば、働くことは良いことだと思える精神と言えば解りやすいかもしれない。
ただ、高度な倫理観を持っていない者であっても、表面的に捉えると“コスト意識”さえ持っていれば一応は資本主義者とは言える。

 まるでアリとキリギリスの話のようだが、実はキリギリスでは資本主義者にはなれない。しかし日本の多くの人は、キリギリスこそが資本主義者の姿だと思っているフシがある。

 ソ連が崩壊したのは、この資本主義の精神が無かったからと言えるが、現代の日本はどうだろうか? モノづくり大国日本には、その下地に“勤勉の精神”というものが存在していた。現在でも「定年後も社会のために働きたい(または働いていないと罪悪感を感じる)」という老齢者が多いことがそれを物語っている。
 日本では20世紀にモノづくりのヒーロー達が数多く輩出した。そのヒーロー達は、労働哲学とでも言えそうな観念を日本の製造業社会に深く刷り込むことに成功した。そのお陰もあってか日本の製造業は世界一の技術水準と競争能力を兼ね備えることになり、日本経済を支えるまでに成長した。

 日本の資本主義の精神とは、必ずしも欧米のような宗教的な倫理観を下地にしたものではない。宗教が全く根付かない国で本来芽生えるはずのない高度な倫理観を奇跡的に発芽させることに成功した希有なる国家、それが経済的に観た日本の姿であると言える。資本主義の精神ならぬ勤勉の精神こそが、日本経済を発展させることができた大きな一因だった。(注意:日本の勤勉の精神は20世紀以前から存在していたので、高度経済成長期に勤勉の精神が生まれたという意味ではない)

 敢えて、「…だった」という過去形を使用したことには訳がある。如何に日本版『資本主義の精神』である『勤勉の精神』が重要だと言っても、勤勉の精神だけでは、これからの経済には対応できないと思われるからだ。
 日本版『資本主義の精神』は、モノづくり中心の実体経済下では大きく花開いたが、21世紀の情報化社会では、かつてほどの成功体験を齎す力を持っているとは必ずしも言えないからだ。なぜ言えないのか? この話を掘り下げていくとブログとは言えなくなってしまう(私自身の学習不足もある)ので、取り敢えず、またの機会に譲ることにしたい。



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政府の少子化対策=公務員極楽天国方案

 先週(11月28日)、政府による『子どもと家族を応援する日本重点戦略検討会議』なるものが行われ、最終報告書が基本合意されたとのニュースがあった。
 基本となる骨子は、現在の少子化対策の制度的課題と今後の対応策を提示することらしいのだが、そこで基本合意されたことは、『企業の年次有休休暇を全て取得することを目的として、その実現によって育児休業を増加させる』というものだったらしい。
 この報をテレビニュースで聞いた時は唖然とした。開いた口が塞がらないことはまさにこのことをいうのだろう。

 それにしても、『育児休業を増やすこと』=『少子化対策』という発想には驚かされる。これでは、小中学生の学級会議並みだと言っても決して言い過ぎではないと思える。
 育児休業を増やせば、育児しやすくなるのは確かだろうが、そうすることによって発生する問題があることを完全に見落としている。1つの目的を達成することによって、失うものがあることが全く見えていない。つまり、対策を講じた場合のシュミレーションがまるでできていないのである。

 中小企業に勤めている人なら誰でも常識として理解していることだが、現在では年次有休休暇を全て取得することは難しい。と言うより、有休休暇自体が有名無実化しており、病気にでもならない限り、有休休暇は取得できないのが一般的だ。なぜなら、代わりの人員がいないからだ。今時の企業は余剰人員などを抱えている余裕などは無いのだから、これは当然のことだと言える。いつでも代わりの人間がいるという会社があるとすれば、それはリストラも行わずに経営してこれた会社か、余程の高収益企業に限られる。
 善いか悪いかは別として、現代における有休休暇の定義とは、昔のように“余分に与えられた休日”ではなく“欠勤にならないための休日”に変化してしまっている。

 もし仮に全国の中小企業が年次有休休暇を全て取得するようなことになれば、一体どれだけの生産性が落ちることになるだろうか? それだけ生産性が落ちても企業として成り立つのであれば問題ないが、成り立たないのだとすれば、その企業は経営が悪化して倒産の憂き目に会うかもしれない。そうなれば当然、従業員も失業する。職を失って少子化対策になるだろうか? 職を失わなかったとしても、企業の生産性が落ちれば、給料も落とさざるを得ない。収入が下がって少子化対策になるだろうか?
 いくら休日が増えて時間的な余裕が生まれたとしても、精神的な余裕と経済的な余裕が同時に発生しない限り、少子化対策にはならない。会社が傾いては精神的な安定は得られないし、給料が上がらないでは経済的なゆとりも生まれない。その結果、どうなるかと言うと、少子化は更に進んでしまう可能性がある。
 結局、政府の行おうとしていることは、少子化対策ではなく、少子化促進政策になってしまいかねないということだ。政府が国民の税金を使用して、少子化計画を練っていたのでは話にもならない。

 なぜこんな信じられないような政策が臆面もなく出てくるのだろうかと考えると、政策を練っている人達が世間(=社会)を知らないのではないか?という疑問を抱かざるを得ない。有休休暇を全て取得するという発想が真直ぐに出てくること自体、まともな現代社会人の発想とは思えない。率直に言えば、公務員的な発想と言わざるを得ない。公務員であれば、有休休暇を全て取得することは可能かもしれないが、民間企業に勤務するサラリーマンには無理な相談だ。
 確かにサラリーマンであっても有休休暇を自由に取得できる権利はあるし、有休休暇を取得することは悪いことではない。しかし、有休休暇を取得することは国が勝手に義務付けることではない。あくまでも個人の責任の範疇で判断して取得するものだ。国が勝手に民間企業の休日まで決定してしまうのでは、国営企業と変わらなくなってしまう。国が民間企業の経営を統制するなどは時代錯誤も甚だしい。

 『企業の年次有休休暇は全て取得しなければならない』などという法律が出来てしまうと、企業は年次有休休暇日数を減らさざるを得なくなる。そうなると、本当に休暇を取得しなければならない時であっても有休休暇が足りなくなって(=欠勤扱い)しまい、更に収入は下がることになる可能性がある。元々、有名無実な有休休暇が、今度は無名無実なものになってしまいかねない。
 こんな法律が出来て結果的に喜ぶ(=少子化から脱する)のは、公務員だけだろう。政府主導の少子化対策とは結局のところ、“公務員天国”が“公務員極楽天国”になってしまうだけの愚策だと考えるのは私だけではあるまい。

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株式等譲渡益課税10%維持のススメ

 上場企業が他の企業と違うところ(メリット)は、経営資金を銀行からではなく市場から直接調達できるところにある。中小企業を中心とした未上場企業であれば、銀行から資金を調達しなければならないが、上場企業の場合、銀行を介さずに直接、投資家から資金を調達することができる。これを直接金融と言う。

 企業が設備投資または先行投資を行なうためには、莫大な資金が必要になる時がある。その時に、資金を調達できなければ、せっかくのビジネスチャンスを失うことにもなりかねない。そういう意味では、株式投資というものは、実は国益に適ったものであるということができる。例えば、任天堂などの企業が新製品を開発するのに莫大な資金が必要になった場合、投資家が任天堂の株式を購入することによって、任天堂は投資する資金が調達することができるようになる。そして任天堂がその投資によって事業に成功すれば、今度は莫大な利益を生み出すことになり、投資家はその見返りとして大きなリターンを得ることになる。
 こういう善なる好循環をもたらすことは一国の経済にとって非常に重要なことだと言える。そして重要であるがゆえに、市場は透明でなければならない。投資家が安心して企業に投資できる環境を整えることこそが、国家を運営する役人達の本来の仕事であるとも言える。

 以上のことを踏まえた上で、証券税制改正案のことを考えてみよう。

 現在は、平成15年からの5年間の特例措置によって、株式等譲渡益課税は10%となっているが、これを5年後である平成20年に、もう一度20%に戻すべきかどうかという問題が取り沙汰されている。(詳細は以下の通り)

 平成15年〜平成19年 10%(所得税 7% 住民税3%)
 平成20年以降     20%(所得税15% 住民税5%)

 株式等譲渡益課税を10%から20%に引き上げることは正しいか?
 これは意見の分かれるところだろう。なんせ日本は諸外国と違って、株式投資を行っている人が極めて少ない(全国民の10%程度しかいない)。「株式投資は私には関係がありません」という人が大多数を占めているので、単純に20%に上げた方がいいと思っている人が多いかもしれない。
 しかし、私はこの意見には反対だ。無論、株式投資を行っているという金銭的な理由からではなく、日本経済の未来に対する危惧からである。

 先にも述べたが、現代は、銀行から資金を調達するような間接金融の時代ではない。
 銀行自体にそれほどの体力がない(=利子が付かない)のだから、仕方がない。
 バブル崩壊によって、銀行は巨大な不良債権を抱えてしまい、信用も失墜した。
 そんな信用のできない銀行に巨額の資金を預ける人間は、(実際はどうかはともかく)減少していかざるを得ない。もとより、ペイオフ解禁で特定の銀行に1000万円以上の預金をする人がいなくなっているのだから、それは当然の帰結だ。
となると、企業は銀行からではなく、直接、国民から資金を提供してもらう環境を整えることこそが、企業経営を行っていく上で最も重要なことになる。
企業が利益を上げて税金を納めてこそ、国の税収はアップし国民の生活水準は上がる。その目的達成のためには、国も企業に協力しなければならない。
 “企業から税金を搾取すればいい”というテイクオンリーな発想以前にまず、“企業が税金を納めることができる環境を整える”というギブアンドテイクな発想が重要だ。
 税率を20%に上げて、儲けている連中から税金を絞り取ればよいとするようなステレオタイプな発想では、21世紀は渡っていけない。
 このことは、「株式投資は私には関係がありません」と言っている人にも当てはまる。株式投資は1個人の財布の中身には関係がないと思っていても、一国の経済に大きく関係してくる。つまり、巡り巡って、その1個人の財布の中身に影響を及ぼすことになるのだ。
 こういう株式投資に批判的な人々は“投資”を単なる“投機”と勘違いしているとも言える。なるほど、確かに株式投資にはマネーゲーム的な側面はある。そして銀行の預貯金と違って、大きなリスクも介在する。しかし、それは物事の一面を見ているだけに過ぎない。

 企業は多くの資金が集まれば集まる程、その責任の範疇において、大きな設備投資が行えるようになる。実はここに経済を発展させる要因がある。一言で言えば、お金が動くということだ。現在の日本経済は、世界一のお金持ち国家であるにも関わらず、景況感が感じられないのは、お金が動いていないことに起因している。流動資産である現金が、不動産のように固まってしまっている。その多くは、利子も付かない銀行の金庫やタンスの中に半ば眠った形で保存されている。そのお金が動くこと、つまり投資に向かうことが重要なのだ。(喩えて言えば、それは滞っていた血液が心臓に向かって動き出すことを意味する)

 日本経済の先行きを考えると、株式等譲渡益課税は、現在の10%のままに維持することが望ましい。政府には、得をして損をするのではなく、損をして得を取るというマクロ的かつ長期的な視点、つまり投機ではなく投資の視点が必要だ。ゆめゆめ、嫉妬にかられたような対処をしないことを願う。

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映画『バブルへGO!!』とバブル崩壊の論理

 ホイチョイ・プロダクションズ製作の映画『バブルへGO!!』を観てみた。
 さすがに『気まぐれコンセプト』のホイチョイ・プロらしく、細部までこだわった演出がなされており、バブル時代を上手く表現している映画だったと言える。
 まず初めにお断りしておくと、この映画を批判するつもりは毛頭ない。映画としてはよく出来ている。しかし、少しバブルに対しての誤解を招く恐れがあると思われたので、補足だけを述べておきたい。詳しく言えば、“バブル”における認識ではなく、“バブル崩壊”における認識である。

 この物語のメインテーマは、バブル時代へタイムスリップして、当時の大蔵省が行った不動産融資規制(=総量規制)を中止することが目的になっている。
 “不動産融資規制を中止させれば、バブルの崩壊を防ぐことができた”という認識を国民が持つことは正しいか?というと、正しくもあり正しくもない。50%は正解だが50%は間違いだと言える。50%は真実なので、全く持たないよりはましだが、どうせなら、100%の正しい認識を持った方がよいと思うので、以下に述べる。

 正しくは、
 「不動産融資規制を中止させれば、バブル崩壊を防ぐことができた」
 のではなく、
 「不動産融資規制を中止させれば、バブル崩壊をソフトランディングすることができた」
 とするのが正確な認識である。

 もっとも、映画の後半では、阿部 寛扮する役人の台詞の中に「どのみち、現在の景気はいつまでも続かない」という部分があったので、製作者も上記のことは重々承知の上で敢えてエンターテインメントのストーリーを組み立てたのだろうと思う。

 そして失われた10年と言われる日本の不況は、バブルの崩壊が原因ではない。
 不動産融資規制を行わなければ、バブルが一気に弾けることはなかっただろうが、それでも徐々にバブルが萎んでいったことは間違いがない。その場合は数年かけてバブルが萎んでいくことになったと思われるので、バブルという言葉自体が生まれなかったかもしれない。(当然、この映画も生まれなかっただろう)
 不動産融資規制が実施されなければ、日本経済は徐々に不景気になっていったというだけの認識しか生まれなかったかもしれない。そういう意味では、不動産融資規制の実施は、日本経済に巨大な損失を生み出したことは否定できず、良い悪いに関係なく、役人の犯した罪は大きいと言える。

 また、総量規制が役人の自作自演だったということもよく言われることだが、この映画においてもフィクションの範疇でそれが描かれていた。その真偽の程はともかく、一般国民の預かり知らぬところで日本経済を動かす勢力があるのだとすれば、この先、どんな手を使って日本経済を浮上(?)させるのか興味が尽きない。ただ、経済を人為的に下降させることは割と楽にできるかもしれないが、経済を人為的に上昇させることは難しい。バブルという見せかけの好景気を演出することはできても、好景気を持続させることは難しい。そのことは1980年代のバブルで人々が学んだことなので、今度は見せかけは通用しないだろう。それに実質的な好景気の持続は、役人ではなく、国民が演出することが望ましい。この映画のラストに映った希望と活気に満ちた都市が現実の光景になってくれることを願いたい。

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