経済・政治・国際

ミサイル打ち上げ失敗から生じる『第二次朝鮮戦争』の可能性

2012042001 北朝鮮がミサイル打ち上げに失敗したことは周知の通りで、世間では、しばしの安堵感が漂っているかのように見える。一時的に地政学的なリスクも遠のいたということで、世界の株式市場も好感を示し、ニューヨークダウも日経平均株価も少なからず上昇に転じた。

 しかしながら、北朝鮮が今回のミサイル打ち上げ失敗に懲りて、このまま大人しく黙って引き下がるとは思えず、どうもキナ臭い空気が漂っているように感じられる。
 北朝鮮側は国連からの非難に対しても「全面排撃」する構えを見せており、依然として予断を許さない状況が続いている。

 米国務省のトナー副報道官は「非常に強力な独自の制裁を検討している」と述べたそうだが、この“非常に強力な”という部分がどうも引っ掛かる。日本政府がこういう言葉を述べる時、それは大抵“お金”(経済的な制裁)を意味するが、アメリカの場合、必ずしも“お金”を意味しないという恐さがある。実際に米国防長官が「戦争の一歩手前にある」とも述べており、軍事的制裁となる可能性があることを仄めかしている。

 このままこの緊迫した状態が続くと仮定すれば、安保理による追加制裁後に発生すると思われる北朝鮮の核実験を機に、朝鮮戦争に発展する可能性も否定できない。
 「窮鼠猫を噛む」という諺の通り、追い詰められた無法国家の独裁者は、時に信じられない行動を起こすことがある。まるで、時代の見えない澱んだ空気に背中を押されるかのような暴挙に出ることがある。戦争というものは、大地震と同様、いついかなる時に起こるか分からないということは、これまでの歴史が暗に示している。

 かつて1950年に勃発した朝鮮戦争では、「朝鮮特需」という言葉が生まれた。日本経済の変遷に少しは興味のある人なら誰もが1度は聞いたことのある言葉である。
 1945年の敗戦からなかなか立ち直れなかった日本経済にとって、朝鮮戦争から派生した「朝鮮特需」は自国の経済を押し上げる大きな原動力となった。『戦争』というものが最大の経済政策であることは、よく知られた(認め難い)事実である。

 あくまでも仮定の話だが、『第二次朝鮮戦争』が起こると、高い確率で『第二次朝鮮特需』も発生することになる。他国間の戦争という予期せぬ不幸な出来事で自国経済が立ち直るというのは、素直に喜べないことではあるが、「この世の地獄」と呼ばれる独裁国家を“まともな民主国家に変える”という大義名分を掲げて、アメリカが戦争を視野に入れている可能性は否定できないと思う。中国との関係もあるので、そう簡単にはいかないとは思うが、アメリカ経済の懐事情も考慮すれば、その可能性は充分に考えられる。

 要は、北朝鮮が自滅的な行動に出れば出るほど、アメリカに戦争(北朝鮮への攻撃)の口実を与えることになるということである。
 これまでにも北朝鮮は、2006年、2009年とミサイルを発射した後に核実験を行ってきているので、今回も同じように核実験を行う可能性は極めて高い。しかしその選択は「三度目の正直」的な危険を孕んでいる可能性がある。
 北朝鮮が再三の警告を無視して三度、核実験を行うという暴挙に出れば、国際世論は誰も北朝鮮を擁護できなくなるので、北朝鮮のオウンゴール(自滅)というシナリオが出来上がったとしても何ら不思議ではない。
 北朝鮮に新たに生まれた20代の若き独裁者が、自らの間違った判断によって国を崩壊に導く確率は高いと言えそうだ。

 『3・11』を日本の『第三の敗戦』ととらえている識者もいるぐらいだから、「歴史は繰り返す」という言葉が本当であるなら、この数年の間に『第二次朝鮮戦争』が勃発する可能性もまんざら否定できない。このキナ臭い空気の正体は“戦争が迫っている”という予兆なのかもしれない。
 
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『ビジネスごっこ』から誕生した日本の給料システム

2012041401 先日、ソニーが全従業員の約6%にあたる「10000人の人員削減を行う」と発表したことで大きな話題となった。ソニーはリーマン・ショック時にも16000人の人員削減を行っているので、これで合計26000人の削減ということになる。
 前回の16000人削減で1000億円のコスト削減になったそうだが、今回の10000人では750億円のコスト削減になるらしい。
 6%ということは、100人の会社で考えれば6人という計算になるので、リストラとしてはそれほど大騒ぎする程のパーセンテージでもないような気もするが、「1万人」という具体的な数字が世間に与えた衝撃は大きかったらしい。新聞の見出しにデカデカと『1万人削減』などという白抜き文字が踊ると、必要以上に大事件だというイメージが刷り込まれ、余計に不安感を煽ることになってしまう。

 かつては「家電」と言えば日本製が主流だったが、今や、アジアの新興国に完全にお株を奪われてしまった感が強い。性能的な品質面では未だ日本製に分があるものの、価格的には全く太刀打ちできないような状況だろうと思う。
 最近は日本の家電メーカーも『MADE IN JAPAN』という看板を捨てて、形振り構わず人件費の安い他国で商品を生産している場合が多いが、本社がある自国の従業員の人件費(下請けの関連企業も含む)が高過ぎるためか、結局、世界を舞台にしたマーケットでは価格競争で負けてしまうことになる。
 先進国と新興国では、その人件費に圧倒的な差が有るため、同じ土俵の上で同じような商品を製造していたのでは、元々、勝ち目は無いに等しい。こういった事態(家電製造業の行き詰まり)を招くだろうことはもう20年以上も前から分かり切っていたことであるので、今更驚くような話でもないのだが。

 日本の労働者と新興国の労働者では、その人件費に10倍から30倍以上の開きが有ると言われている。どんなに器用で迅速に仕事ができる人であっても、流石に他人の10倍以上の仕事を行うのは無理がある。これは喩えて言うなら、100m走で90m以上のハンデを背負って競争しているようなものである。この差はもはや、能力や努力でなんとかなるようなレベルの問題ではない。こんな勝負をまともに行って勝てるのはスーパーマン位のものである。
 如何に日本国民が勤勉で有能であったとしても、モノ作りにおいては人件費の壁を超えることはできない。残念ながら、それがグローバル社会の厳しい現実であり、デフレ経済の中における日本の立ち位置である。
 ちなみに日本で言われている“お金が足りない”という意味での「デフレ」は、デプレッション(不況)のことであり、世界的なデフレ現象とはほとんど関係がない。

 前置きが少し長くなってしまったが、こういった事態を少しでも緩和する術が有るとすれば、それは、日本の労働体系を根本的に改めていくしかないのではないかと思う。
 具体的に言えば、正社員給というような建前給を止めて、日本の全企業が、市場の動向に沿った雇用・給与体系にするしかないのではないかと思う。
 昔の羽振りが良い頃の日本企業では、“仕事ができる人間”よりも“世渡りが上手な人間”の方が優秀な人間だということで重宝されたことがある。一部の公務員の世界では現在でもそうなのかもしれないが、今時の民間企業でそんな世渡りゲームのような真似事をすれば、即刻倒産ということになってしまいかねない。こういったデタラメなビジネスごっこが成り立った背景には、ロクに仕事をしなくても過剰な利益によって会社経営が成り立ったという裏事情がある。

 会社にいるだけで年々自動的に給料が上がっていくというような昇給システムも、このビジネスごっこの範疇に含まれている。しかし、毎月決まった給料が支給されるというシステムは、絶対的な仕事量も利益も保証されているという恵まれたビジネス環境でしか本来は成り立たないものである。
 実際、絶対的な仕事量の確保に躍起になっているのが現在の日本企業の姿であり、そんな状況下では、毎月の給料というものは、仕事量の変化によってアップダウンするのが本来の自然な姿だと言える。つまりは、仕事量によって変化する当たり前の給料体系でしか今後の経営は成り立っていかないということだ。

 ソニーも1万人もの人員をカットするよりも、ある程度、仕事量(利益)に見合った変動制の給料体系になっていれば、数千人の雇用は守られることになっただろうし、技術者の流出も避けられたはずだ。給料が下がって嫌なら、従業員自らの意思によって退職や転職を選択するというのが、まともな労働市場の姿である。
 時代や環境に沿った給料体系に移行することができないことによって、ハードランディング的にいらぬ失業者を生むことになり、全体としての労働市場にも景気にもマイナスの影響を与えることになる。
 
 ソニーの平井社長は「ソニーを変える。私は本気で全力で社員と一丸となって変えていく」と決意表明を声高らかに述べたそうだが、その抽象的な言葉には、どこか空虚さが漂っているように感じてしまう。今後、如何なる新商品を生み出したとしても、現在の雇用・給与体系をそのままの状態で放置すれば、再度、市場からの反作用を食らうことに成りかねないのではないかと危惧する。無論、これはソニーだけでなく、全ての日本企業に当て嵌まることでもある。
 
 「仕事量の変化によって給料が変わる」、これは至極当然の給料システムである。しかし、この当たり前のことができていないのが現在の日本企業の実態である。
 「毎月、給料が違ったら生活が安定しないではないか!」と怒る人がいるかもしれないが、毎月同額の給料が支給されるためには、トータルで総収入以上の利益を生み出していなければならない。グローバル化社会以前の日本では、その条件が幸運にも達成されていたがゆえに、そういったリスクヘッジ型を装った給料体系(経営者側から見れば、ピンハネ給料体系)が維持できていたに過ぎないのである。
 仕事量に比例して給料が変化するという当たり前の労働市場法則が機能していれば、現在の日本の雇用問題も少しはマシになるだろうと思う。現在の日本の労働市場の閉塞感の正体は、自然に逆らった人為的な計画経済に嵌り込んで、そこから抜け出せなくなってしまっていることにある。
 
 最後に、ソニーと言えば、以前、ホリエモンが買収する計画を立てていたことで騒がれた企業である。あの当時では、「なんと大それたことを…」と言う人が大部分だったと思うが、もし本当にホリエモンがソニーの経営を現在行っていたとすれば、どうなっていただろうか? これは私個人の推測だが、おそらく「世界のソニー」という言葉は現在でも通用していたのではないかと思う。
 彼はソニー買収によって iPhone的な商品を製造して流通させるという青写真を頭に描いていた。そして現在の大画面テレビ事業が不振に陥ることも既に見抜いていたフシがあり、「大画面テレビ事業は海外メーカーに売却する」というようなことも述べていたそうだ。
 ホリエモンを刑務所の中に閉じ込めた反作用は、日本経済にとっては無視できない悲劇を齎すのかもしれない。
 
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「地獄への道は消費税増税論議で舗装されている」

2012040101_2 民主党内での愚にもつかない消費税増税論議をよそに、北朝鮮のミサイル(?)打ち上げは着々と進行しており予断を許さない状況が続いている。
 北朝鮮のミサイル問題という喫緊の課題を後回しにして、未だに消費税増税論議に花を咲かせている危機錯誤な政治家達の姿を観ていると、なにをかいわんやの感がある。
 この現状を喩えて言うなら、タバコの不始末で自宅が出火した時に、その火を消そうとせずに夫婦喧嘩をしているようなものである。火事になった時には消防署(アメリカ)が消してくれるという他人任せの平和ボケ思考が招いた悲劇とも言えようか。

 野田総理は以前から「消費税の増税に政治生命を賭ける」というようなことを述べており、自らが日本の将来を背負ったヒーローにでもなったかのような気分でいるのかもしれないが、これはかつての小泉元総理の「郵政の民営化に政治生命を賭ける」と言うのとは全く方向性が逆である。
 富裕層に重くのしかかる税金は別として、庶民に等しくのしかかる税金に反対しない国民はいない。ゆえに、消費税を上げるという行動は、一見すると民意に反しているように見え、その波に逆らうことができるのが勇気ある政治家の姿だと思っている人がいるかもしれない。しかし、消費税を上げる目的が、過剰な福祉政策に繋がっているのであれば、結果的には民意に沿っているわけだ。しかして、その民意とは、善良な民意ではなく、悪徳な民意、つまり既得権益の維持に繋がる民意である。
 
 「郵政民営化」というものは(その実効性はともかくとして)一応、既得権益構造の破壊(=国益)という名目があったが、「不況下の増税」というものは、どう考えても国益に適っていないことは明らかであり有害無益でしかない。「既得権益構造の破壊に政治生命を賭ける」と「増税に政治生命を賭ける」とでは政治的な立脚点が全く違うということを知る必要がある。
 
 誰に吹き込まれたのかは知らないが、「不況下の増税」などという狂った政策を疑うことなく実行できるということは、何者かに洗脳され思考停止状態にあるとしか考えられない。
 「民主」という言葉の通り「国民が主役」だと考えるのであれば、現在の不況下で行われるべきは「減税」であり、民主党の党主が本来述べるべきは「消費税の減税に政治生命を賭ける」でなければ政党名と矛盾していることになり辻褄が合わない。
 
 巷では「消費税は自民党がもっと前に上げるべきだった」というような説も聞かれる。確かに経済成長期やバブル経済時に消費税を上げるべきだったという見解には一理あるかもしれない。しかし、その理由によって、現在の与党である民主党が消費税を上げなければならないという理屈にはならない。
 仮にバブル経済時に消費税を10%に上げていたとしても、現在、採るべき手段は減税でしかない。現在の消費税率が何%であろうと、『好況期に増税は有り得ても、不況期には減税しか有り得ない』という基本的な原理原則が変化するわけではないからだ。
 
 この不況下で減税を行うという、ある意味で狂気とも受け取れる行動を民意に反して断行してこそ、真の政治家だと言える。それができてこそ、「名宰相」として歴史に名を残すことができると思われるのだが、このままいくと野田総理は歴史に汚名を残すことになる可能性が極めて高いと思われる。
 消費税の増税はまだ決定したわけではないが、既に閣議決定まで進んでしまったわけだから、仮に消費税増税がギリギリのところで食い止められたとしても、もはや汚名を返上して美名に変えることは不可能に近い。おそらく後世の人々からは「平成の悪代官」の1人として認識されることになるだろう。残された可能性は、中途半端な悪人で終わるか、極悪人になるかの違いだけだろうと思う。
 
 「地獄への道は善意で舗装されている」という有名な言葉があるが、「消費税増税によってハッピーになる」などという言葉を信じていると、行き着く先は間違いなく地獄である。消費税増税論議に花を咲かせている最中に、北朝鮮からのミサイルが飛んで来て対処できないということにでもなれば、国民はまた別の意味での地獄を見ることになる。まさに「地獄への道は消費税増税論議で舗装されている」である。
 
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ルネサンス(再生)を放棄した『相続税100%』という愚策

2012031701 少し前に、「維新八策」の『資産課税』についての批判記事を書いたところ、その後、何日かすると偶然にも『資産課税』の取り止めニュースが流れた。『資産課税』の反対を訴えかけていたブロガーは数多くいたので、あくまでも偶然に過ぎないが、2度目の偶然(2匹目のドジョウ)を狙って、今回は維新八策の『相続税』について書いてみたいと思う。

 率直なところ、私はてっきり、『資産課税』を取り止めたのであれば、そのうち、『相続税の強化』の方も取り止めるのではないかと思っていた。しかしながら、その楽観的な推測とは裏腹に、先日(3月9日)、大阪維新の会が「不動産を含む遺産の全額徴収」を検討しているという報道があった。
 
 大阪府の松井知事は、『資産課税』を取り止めた理由を、「富裕層が(国外に)逃げる可能性がある」と述べていたが、『相続税を強化』することによっても同じような現象が起こる可能性が有ることには気付かれなかったのだろうか?
 
 富裕層の国外逃避を避けるために資産課税を取り止め、その代わりに相続税を強化すると言うのであれば、論理的にも筋が通っておらず、矛盾を抱えたチグハグな政策だと言わざるを得ないと思う。それに不動産にまで課税強化が為されるとなると、合法的に課税を免れる手段が極めて少なくなってしまうため、資産を失いたくないという富裕層は、より一層、国外へ逃げ出す可能性が高くなる。

 簡単に言うと、現在、生きている人間の資産(預貯金)に課税するのが『資産税』であり、死亡した人間の資産(遺産)に課税するのが『相続税』である。つまり、これらは本来、2つで1セットの『資産没収税』という側面を持っており、どちらか一方を否定し、どちらか一方を肯定するような代物ではないということである。
 
 資産課税の場合、消費活動を行うことによって課税を免れることができるが、相続税の場合、その課税を免れた資産にまで課税されることになる。この2つの税金がタッグを組むと、個人が財産を持つ(残す)ことを否定した完全な社会主義国家が出来上がることになる。幸い、資産課税は取り止めになったものの、相続税が100%になっただけでも日本経済に与える悪影響(ダメージ)は測り知れないものがある。

 維新の会が提唱する「一生涯使い切り型人生モデル」などというものは、裏を返せば、「資産を生きている間に使い切ってしまった人々の面倒をみる福祉社会」のことを意味する。それは国が国民の資産を完全管理するという共産主義国家の人生モデルとほとんど変わらないということである。

 個人が財産を持つ(残す)ことを否定するような思想が蔓延すると、個人が自己の能力を磨き、お金儲けに精を出すというインセンティブが消失してしまうことになる。努力した成果が全て国家に没収され、その富を平等に分け合うなどというのは、どこぞの崩壊しかかった共産主義国家の体制そのまんまである。

 14世紀のルネサンスの時代には、多くの芸術家が生まれ、多くの文化が花開いたが、その文化の誕生の背景には、多くの「パトロン」と言われる裕福な人々が存在した。個人の才能に対して投資するという人々がいたお蔭で多くの才能が花開いたということである。
 相続税を100%にするということは、そういったパトロンのような人々を世の中から無くすということでもある。当然、起業家が生まれる余地も大幅に狭められることになる。そんな社会で新しい文化が生まれるかどうかは、敢えて問うまでもないだろう。
 
 突き詰めて言うなら、現代の政府の役割とは、実はパトロンに成ることにある。才能ある個人、言い換えれば、富を生み出す能力に秀でた人間を経済的にも環境的にもサポートし、その個人が生み出した富の一部を投資家として間接的に社会に再分配するのが本来の政府の役割だとも言える。
 その政府が、個人をサポートするどころか、個人の才能を閉ざすような政策を実施し、個人のやる気を削ぐようなことを行っていたのでは、経済成長など夢のまた夢になってしまう。

 維新の会のメンバーも悪気があってやっているのではないと信じたいが、相続税100%などというのは、あまりにも無茶苦茶な政策であり支離滅裂もいいところである。個人が汗水たらして(又はリスクを背負って)働いて貯めた資産を最終的に1%も自由に扱うことができないなどという政策は、維新の会が標榜する“自立”とは真逆の政策だとも言える。

 「生きている間にお金を使わなければ損だ」というようなインセンティブを人為的にこしらえたところで、景気が良くなるのは、せいぜい数年間だけであり、そこから先は坂道を転げ落ちるように衰退の渦の中に巻き込まれて行くことになるだろう。なぜなら、そういった政策は人間の自由意志を無視した計画経済政策でしかないからだ。
 実に皮肉なことではあるが、計画経済などというものは、基本的には資本主義の精神が根付いた国でしか機能しない(仮に機能したとしても一過性のものでしかない)。
 国民の自由意志を奪う相続税100%政策などが実施されれば、その資本主義の精神自体も失われることになるため、必ず失敗することになる。

 維新の会は、国民の資産を人為的にどうこうするというような発想は捨てて、国民の自由意志に委ねる政策に切り替えた方が良いと思う。どうせなら、「相続税0%」に切り替えることをオススメしておきたい。

 近い内に『相続税の強化』が取り止めになることを期待して筆をおきたいと思う。

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ショック療法としての『資産課税』

2012022501 昨年から今年にかけて、「反原発」という言葉が流行したが、今年は、「反橋下」という言葉も流行し始めているようだ。
 「反原発」と「反橋下」というのは、必ずしも一致するものではないが、一部の左寄りの思想を持った人々には共通するものであるらしい。このどちらにも該当するという人は、一度、「自分は左寄りの思想の持ち主かもしれない」と疑ってみた方がよいかもしれない。

 こう言うと、「えっ?」と疑問に思った人がいるかもしれない。

 「反原発」と聞くと、イメージ的には東京電力という既得権益に塗れた企業を攻撃しているという感じがするので、「既得権益を破壊する側の人間」だと思われがちだ。しかし、それは考えがあまりにも浅過ぎるというものだ。もし、原発を無くすことによって国家を衰退・崩壊に導くということが有り得ると仮定すれば、その立場は全く違ったものになるということも考える必要がある。

 「反橋下」というのは、平たく言えば、「既得権益擁護論者」の別名でもある。彼らは一見、保守を装っているかに見えるが、理性的な判断能力よりも“橋下憎し”という感情的な思い込みが先にあり、その精神構造(メンタリティー)は「反原発」論者とほとんど同じように見える。

 私は基本的には橋下氏を応援しているが、100%完全な「親橋下」というわけでもない。
 大阪維新の会のマニフェストでもある「船中八策」を見てみると、9割方は支持できる内容だと思われるが、残りの1割程度は少し疑わしい不透明な部分が有ることは否めないと思う。

 その中でも、今回は『資産課税』というものを少し取り上げてみたいと思う。
 「資産課税」のことは、別名で「ストック課税」とも言われている。消費税のように動いている(フロー)お金に対して課税するのではなく、動かない(ストック)お金に課税するというのがこの資産課税の要点である。

 現在の日本経済は消費不況の真っただ中にあり、世界一とも言われる国民の金融資産(ストック)が有りながら、そのお金が動かないために、不況から抜け出すことができずにいる。
 この状態は人間の病気に喩えられる。輸血する血液は有り余るほどストックしているのに、その血液を輸血することができないがために不健康な状態から脱することができない。
 本物の血液ではなく、一時的に人工血液を輸血するという手段もあるのだが、政府が極度の輸血反対論者(インフレ恐怖症)であるので、これもできない。結果、血液が足りていない不健康な病状が一向に改善せず、仮死状態のまま20年間も放置されたまんまというのが、日本経済の病状でもある。
 そんな患者が増税(献血)などを行えば、本当に死んでしまいかねないということが、この国の為政者には解らないらしい。

 この国民の動かないお金を強制的に動かすことができれば景気は良くなるというのが、資産課税導入の目的だと思われるが、これを導入するとなると、様々な問題が生じることになる。
 まず、こういったストックされている資産の状態を把握するとなると、国が国民の資産を逐一管理するというシステムが絶対的に必要になってしまう。具体的に言うと、個人がどこでどういう買い物をしたかというようなことが全て国に管理されることになるわけだ。これには抵抗感があるという人は多いと思う。
 政府は何年か前から「個人情報の保護」を唱っているが、国が個人情報を管理するという意味では、全く逆さまになるとも言える。
 
 最近、国民総背番号(マイナンバー)制という言葉をよく耳にするが、資産課税を導入する場合、セットで、その国民総背番号制も導入しなければならなくなる。
 偶然かどうかは知らないが、既に民主党が「個人識別番号法案」を閣議決定しているらしいので、このまま行くと本当に実現してしまう可能性が出てきた。しかし、これは一歩間違えると完全な社会主義国家になってしまう危険性がある。
 
 本来、国民の資産を守ることが国家の役割の1つだが、この目的が「守る」から「管理する」になってしまうと、結果的に「奪う」という状態に転化してしまう危険性がある。
 国民の資産が滞り無く動くような環境を整備するために様々な政策を講じるのが本来の政府の在り方である。そう考えると、無理矢理にお金を使わせる政策というのは、どこか不自然であり、反市場的でもある。
 
 日本人は1人当たり3000万円以上の預貯金を残して、あの世に旅立つというのは有名な話だが、資産課税を導入すれば、その金額は低下し、一部の資産が市場に出回ることにはなるだろう。しかし、それは極めて人為的な市場操作であり、どこか私有財産の否定に繋がる思想が垣間見える。
 確かに資産課税制度を導入すれば、消費活動は上向くことになると思うが、おそらくそれは一時的なことで、結果的には資産を隠すという違法行為や、実際に日本から脱出する資産家も大勢現れることになる可能性が高いと思う。
 
 もちろん、国民総背番号制には良い面もあり、完全に否定することはできないが、社会主義化することの危険性を多くの国民が認識した上で実行に移さないと、諸刃の剣になる危険性が極めて高いということも知る必要がある。
 もし本当に資産課税を導入するのであれば、期間限定(数年間という条件付き)で行うべきかもしれない。資産課税などというものは、あくまでも一時的なショック療法だと考えるべきである。

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円売り介入の是非(ハードランディングとソフトランディング)

2012021401 政府・日銀が、円売り介入を公表しない「覆面介入」(約1兆円)を行っていたことが発覚したことで、為替介入の是非が問われている。
 財務省の統計では、2011年度だけで約14兆5000億円の為替介入が行われたが、円高に歯止めをかけるどころか、1年間で5円程の円高になっていることは周知の通りである。
 では、為替介入を行わなかった場合、現在よりも円高になっていたのか?というと、これはハッキリとは判らない。為替介入をしなければ1ドル70円になっていたかもしれないし、あるいは全く効果が無かったという可能性も考えられなくもない。

 では、政府・日銀による為替介入は必要なことなのか?ということだが、私は、「場合によっては必要」だと思う。
 それが、どういう場合かというと、「あまりにも急激な円高が進んだ場合」である。ごく当たり前の意見に聞こえるかもしれないが、「ハードランディング的な円高」が発生した場合は、「ソフトランディング的な円高」になるように調整することは必要だという意味である。

 ここで誤解してはならないことは、政府の役割は“円高を止めること”ではなく、あくまでも“急激な円高にならないように調整する”ということである。

 市場が円高を望んでいるのなら、為替が円高の方向に進むことは止むを得ないし、人為的に為替介入を行ったところで、いつまでも止めることは不可能だ。
 円高という現象自体は、別に悪いことではない。問題は、その円高があまりにも急激に進むことによって発生する悪影響をどれだけ緩和することができるかということである。

 日本の輸出企業の割合は、どう贔屓目に見積もっても、せいぜい20%以下であるので、円高になったところで、日本経済に致命的な打撃を与えることはないと思う。
 そもそも輸出企業の多くは、製品を作る原材料を諸外国から輸入しているのだから、円高による輸出デメリットはある程度は相殺されることになる。ただ、あまりにも急激な円高になった場合、円高差損が相殺されるまでの期間が不透明になってしまうため、そのショックで突然死する企業が出てくる可能性がある。そういった危険性を避けるために、為替介入を行うことは、場合によっては必要であると思う。

 もう1度繰り返し言うと、政府の役割は、“円高を止めること”ではなく、あくまでも“急激な円高にならないように調整すること”である。

 では、安住財務相の意見を見てみよう。彼は記者会見で以下のように述べている。

 「投機的な動きがはっきりし、実体経済とかけ離れて投機筋が自己利益を得るため
  に市場を歪めることがあれば、国益を守るために必要ならいかなる措置も取ると
  申し上げている。それを行動に移しただけだ」

 この言葉からは安住氏が円高についてどういう認識を持っているのか正確には判らないが、投機的な動きが円高に繋がっているというのは本当のことなのだろうか?
 また、安住氏は、「75円63銭で介入を指示し、78円20銭でやめた」ことも明らかにしているが、こういう具体的な数字が出てくるということは、投機云々よりも単に円高を是正したかっただけとも受け取れる。75円台になったからといって、それが投機が原因であるかどうかは判らないはずだ。
 もし、円売り介入が、《円高は絶対的な悪》という認識のみで行われているのであれば、お門違いである。

 よく、「グローバル化やIT化は悪だ」という人がいるが、グローバル化にせよIT化にせよ、その現象だけで見るなら、特に問題はない。これらが問題となるのは、あまりにも急激な変化に耐えられなくなる企業や人間がいるということである。ソフトランディング的に進むグローバル化やIT化であれば、その変化に柔軟に対応していくことができるが、その変化があまりにも急激に進んだ場合、その変化に追い付かずに突然死する企業や職を失う人が必要以上に発生してしまう。そういったハードランディング的な変化を、人為的な政策によって少しでも緩和(ソフトランディング化)させることが可能であるなら、それは否定されるべきものではないと思う。円高もこれと同じである。

 しかし、「グローバル化やIT化や円高は絶対的な悪なので阻止する」と言うのであれば、それはただの鎖国論である。政府の役割は、時代の変化を受け入れた上で、その変化に国民が柔軟に対応していけるようにすることであり、時代に逆行することではない

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ストップ・ザ・消費税増税《税金を下げれば、税収は上がる》 

2012010701 政府・民主党は1月6日、ついに消費税の増税素案を正式に決定した。
 野田総理いわく「素案で終わっては意味がない、どの政権でも避けて通れないテーマだ」とのことで、まるで、消費税を上げる以外に道はないかのような口ぶりである。これでは、「増税(柔道)一直線」「増税(空手)バカ一代」「増税(キック)の鬼」などと揶揄されても仕方がない。まさに現在の民主党は『ネバー・エンディング増税内閣』と化している。
 
 政治的に税収を上げる方法には以下の3つがある。
 
 1、経済成長政策
 2、増税政策
 3、減税政策
 
 民主党は、なぜかこの「2」だけに固執し、「1」にも「3」にも全く目を向けようとしないが、現在の日本に必要なのは、「1」と「3」の同時実行である。
 
 ここで、「減税してなぜ税収が上がるのか?」と疑問に思う人がいるかもしれないが、減税政策というのは、単に「税金を下げれば税収が上がる」という表面的な現象のことではなく、国民に「税金を支払ってもいい」と思わせる心理的な税制改革のことである。
 
 現在の日本の税収が足りていないのは、長引く不況の影響や過剰な社会保障費にもその原因を求められるが、それにも増して、“税金を納めないように努力している人間(や企業)があまりにも多過ぎる”ということも1つの大きな原因になっている。そういった隠れた努力をせずに済むような税制にすることができれば税収は高い確率で増加する。
 
 例えば、法人税収が減少しているのは、法人税を支払っていない赤字企業が多過ぎることも大きな原因だ。しかし、“赤字企業が多いこと”だけが問題なのではなく、“赤字に見せかけている企業が多いこと”の方がより重要な問題である。
 この不況で全国の7割もの企業が赤字ということになっているが、まさか本当に全国の7割もの企業が赤字であるはずがない。何割かの企業は節税行為によって無理矢理に赤字にしているだけの話である。
 企業の節税行為と、その是非については、以前の記事でも述べたことがあるので、詳しくはそちらの記事【『節税対策』という見えない景気刺激策】を参考にしていただきたいと思うが、結論としては、企業の節税行為は景気刺激策でもあるので、必ずしも否定すべきものではないということを書いた。
 現在の歪で高額な法人税課税環境の中では、企業は節税行為によって利益の再分配を行っているので、必ずしも法人税収が上がらないことを嘆く必要はない。しかし、公平でフラットな法人税課税環境であれば、節税行為(脱税行為)は大幅に減少するだろうから、法人税収は必ず上がる。(この場合の「公平」とは世界と比較してという意味)
 
 個人の所得税においても、「これ以上、働けば税率が上がって損をする」というような後ろ向きな感情を抱くことなく、働いた分に比例した公平でフラットな税制であれば、働き過ぎるということを気にすることなく(つまり、税金を気にすることなく)働くことができるようになるので、所得税収も上がる可能性が高い。
 
 「税金を下げれば、税収は上がる」というのは、一見、詐欺師の言葉のように聞こえるかもしれないが、実は本当のことであり、心あるエコノミストであれば皆そう言っている。

 税収が増えないのは、税率の高低が問題なのではなく、国民の納税意欲を削ぐ不公平な課税制度に問題があるのである。そんな状況下にあって、税率を上げるだけでは根本的な問題解決にはならず、思った以上に税収もアップしないだろうから、どこまでも際限なく税率を上げていかなければならなくなる。消費税を10%に上げて、現在の日本の経済問題が全てクリアされるなどとは誰も思っていないだろうし、当の野田総理自身も思っていないはずだ。
 最悪、もし、消費税を8%に上げても良い結果に結び付かないことが判明すれば、時の政党は消費税を10%にするのではなく、逆に3%以下(理想は0%)に戻すことをオススメしておきたいと思う。
 
 結局のところ、税金の上げ下げというのは政治的な心理ゲームなのである。要は、国民に税率の高低を意識させることなく、税金を納めても損をしないという気持ちを抱かせることができるかどうか、そういった資質が政治家に問われるわけだ。
 こう言うと、まるで政治家が詐欺師みたいだが、国民に夢や希望を抱かせることのできる真の政治家と、国民を失望させることしかできない偽物の政治家(=詐欺師)がいたとすれば、あなたはどちらを選択するだろうか? 現在の政府がそのどちらに属するかは、もはや述べるまでもないだろう。
 「税金を上げれば、税収は上がる」などと言うのは、思考停止した政治家の言葉であり、その言葉こそが、まさに詐欺師の言葉なのだ。
 
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フェイスブック上場と『第二次ITバブル』の予感

2011120401 先週、米国SNS最大手のフェイスブックが来春に株式の新規公開(IPO)を検討していることが判明した。IPO による資金調達額は100億ドル 、時価総額は1000億ドル(約8兆円)に達する見込みらしく、「トヨタ並みの上場企業が出来上がる」と伝えられている。
 言わずと知れたことだが、日本の時価総額のトップ企業はトヨタ(約9兆円)であり、2位がNTTドコモ(約6兆円)、3位がNTT(約5兆円)である。(2011.12現在)
 創業2004年のベンチャー企業が新規上場することによって、トヨタ以外の日本の全ての上場企業をごぼう抜きしてしまうことになるわけだ。

 Facebookは全世界で既に8億人のユーザーが存在する。日本は「フェイスブック後進国」とも言われているが、公表されているところでは、既に1000万人の利用者が存在するらしい。未だTwitterも行っていない私のような人間からすると、これはちょっと信じ難い数字ではある。実際、私の身の周りにもフェイスブックを利用しているという人はおらず、利用しているという人の話も聞いたことがない。フェイスブックの場合、ツイッターとは違い「実名登録制」なので、日本ではそれほど拡がらないような気もする。

 英語圏の人々の場合、他国でも言葉が通じればコミュニケーションできると思うが、日本の場合、海外の人を相手にするには“言葉の違い”という大きな壁があるので、どうしても国内のみのコミュニケーションになってしまう。このことはブログについても言えることかもしれないが、マーケット自体が国内のみに限定されてしまうというハンデを抱えている。
 英語は、世界80カ国以上で話されており、4人に1人が英語を話すことができるとも言われているが、日本語を話せるのは、せいぜい50人に1人程度であるから、その規模は圧倒的に違う。そう考えると、フェイスブックのようなソーシャル・ネットワーキング・サービスというのは、英語圏に有利なサービスだと言えるのかもしれない。

 そのフェイスブックだが、以前から上場の噂話はあったものの、なぜかこれまでは実現してこなかった。しかし今回の報道を聞いて、個人的には「ナルホドな…」と思った。というのも、2012年はアメリカの大統領選挙があるため、「第二次ITバブルの年になる」ということがまことしやかに噂されていたからだ。
 元々、世界的にもSNSブームが起こりつつあったので、今回のフェイスブックの上場発表は誰の目にもごく自然な時代の流れに映ったのかもしれないが、時期的なことを考えるとアメリカ政府が間接的に絡んでいる可能性も否定できないと思う。
 
 米国発の金融危機を予告したことでも知られるケンブリッジ・フルフォーキャスト・グループの藤井厳喜氏の書籍『超大恐慌の時代』にもそういったこと詳しく書かれていた。「第二次ITバブルの主役はフェイスブックになる」というようなことがズバリ書かれてあったので、信憑性は高いと思う。
 
 私は陰謀論の類いにはそれほど興味は無い(注意:藤井厳喜氏が陰謀論者という意味ではない) が、フェイスブックの上場に関して言えば、ただの景気刺激策(政策)とも言えるので有り得る話だと思う。
 これが真実であれば、来年は日本のIT企業もその影響を受けて、ミニバブルが起こるかもしれない。しかし、日本の場合、不景気を好む官僚がバブルを潰すことで有名なので、一時的なミニバブルで終わる可能性が高いということも付け加えておきたいと思う。
 
 クリントン時代の『ITバブル(ドットコム・バブル)』が数年で崩壊したように、今回起こるかもしれない『第二次ITバブル』もいずれは崩壊するだろうが、来年は住宅バブルになり変わって、別のバブルの発生を目にすることになるかもしれない。
 
 最後にもう一言付け加えておこう。「株式投資は自己責任で。
 
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『真・株式取引時間延長』のススメ

2011112701 日本の株式市場が冴えない。今に始まったことではないが、いい加減、株価をチェックするのもウンザリする程の体たらくぶりだ。
 「投資家が株価を見るのが嫌になると底値に近い」とよく言われるが、日本の株式市場だけは例外のようで、そういった当たり前(?)の常識が通用しなくなっているような気がする。自国の大地震や原発事故だけでなく、他国の洪水や財政危機による円高でも影響を受け、その上、オリンパス事件も加わり、株価が騰がる要素が内部にも外部にも全く見えないような状況に陥っている。
 
 オリンパスの株価は、マイケル・ウッドフォード元社長の解任前の2500円程度から424円まで暴落し、その後、1100円程度まで戻している。しかし、未だ上場廃止リスクが払拭されないため、マネーゲーム化している感は否めない。(ちなみに私はオリンパスの株主ではない)
 
 「オリンパスを上場廃止にするべきか?」という議論があるが、個人的には「上場廃止にするべきではない」と思う。不正を行っていた人物達は厳しく糾弾するべきだが、一般の従業員や株主にはほとんど罪は無いのだから、企業の存続はあくまでも市場の判断に委ねるべきである。「不正を行った企業には価値が無い」と投資家や消費者が判断すれば、その企業の株式は低迷し、商品も売れなくなり、放っておいても市場から追放されることになる。
 一部の人間が不正を働いたからといって、その企業の価値を直ぐさま人為的に潰してしまうと、市場にいらぬ混乱を招き、全く無関係の企業にまで悪影響を及ぼしてしまうことになる。況して、これだけ日本の株式市場が低迷している時に、オリンパスの上場廃止などを行うことになれば、「泣きっ面に蜂」になってしまいかねない。
 
 ライブドア事件の時にも、検察(東京地検)の見込み捜査で株式市場を破壊してしまったという苦い経験が有る。特に不正と言われるような事件ではなかったにも拘わらず、東証の恣意的な判断で上場廃止にしてしまったことで、多くの株主が大損し、新興市場は暴落してしまい、未だに回復せずに低迷を続けている。
 そもそも当の企業が不正を行ったという罪を認めておらず、被害を訴えている者が誰もいない段階で、強制捜査を行うということ自体が無茶苦茶だった。「推定有罪」という言葉があるが、ライブドアへの強制捜査はまさしく「推定有罪捜査」だったと言える。

 北朝鮮では、「資本主義に染まった罪」というものがあるらしく、その罪を犯した者は公開処刑されるらしいが、日本もあまり変わらない国ではないか?ということが世界中の投資家に向けて発信されてしまった事件がライブドア事件だった。「日本の常識は世界の非常識」という言葉の通り、日本の株式市場も世界の常識が通用しないことが証明された事件でもあった。
 
 日本の株式市場が低迷しているためか、東証等は取引時間を延長し、今月21日から、前場の9:00から11:00までの取引時間を9:00から11:30までに変更(延長)した。
 しかし、その効果は限定的でほとんど取引量は増加しなかった。元々、4時間30分だった取引時間が5時間に増加したわけだが、単に昼休みが短くなっただけで、時間帯としては全く変更されていない(9:00から15:00のまま)のだから、これは当然の結果だろうと思う。
 
 本気で取引を増加させようと思っているのであれば、普段、リアルタイムで株式売買ができない客層を市場に引っ張ることができるようにしなければ意味がない。つまり、取引時間帯自体を変えなければいけないということである。
 具体的に言えば、現在の『前場・後場』を、『前場・中場・後場』の3つに分割(下記参照)でもして、取引できる時間帯を増加させる必要がある。言わば、取引時間の分割延長である。
 
 【前場】  9:00から11:00
 【中場】 12:30から15:00
 【後場】 16:30から19:00

 
 最低でもこれぐらいの抜本的な変更を行わない限り、取引量が大きく伸びることは有り得ないと思う。普段、仕事を行っている人々が仕事が終わった後や、帰宅後にリアルタイムで株式売買ができるようになれば、必ず取引量は増加し効果が出るはずである。家電量販店やスーパーマーケットが営業時間帯を延長しているのと同じ理屈を株式市場にも適用すればいいのである。
 
 しかし、こういった変更は金融機関などの既存システムにも大きな影響を及ぼすので「できない」ということらしい。結局、ここでも投資家不在の経営が問題となっているわけだ。消費者不在ならぬ、投資家不在の取引時間延長では、良い効果が出ないのは当然の帰結である。前場の取引時間を30分延長するぐらいなら、せめて後場の取引時間を30分延長するべきだったのではないかと思うのだが、日本の金融機関の営業時間は15時までという暗黙の了解事項があるため、無理だったのかもしれない。
 
 株式取引時間の分割延長によって、“株式取引時間分割バブル相場”を誘発するぐらいの思い切った株価政策(金融改革)を実行できる政治家はいないものだろうか…。
 
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消費者心理から乖離したタクシー料金

2011112101_2 世間ではもうすぐ忘年会のシーズンを迎える。この時期に「忘年会特需」という稼ぎ時を迎える業界と言えば、飲食店(居酒屋)業界が有名だが、おこぼれ的に特需が舞い込む業界がある。それは、タクシー業界である。
 
 最近は、安価な居酒屋も多くなり、忘年会自体も明朗会計で済む場合が多いと思われるが、その反面、タクシーでの利用料金は全く変わっていない…と言うより、逆に値上がりしているとも言える。
 現在のタクシーの初乗り料金は地域によって少し異なるが、東京の場合は710円、大阪の場合は660円である。詳細を述べると以下のようになっている。
 
 (東京)2000mまで710円
     以後288mごとに90円加算

 (大阪)2000mまで660円
     以後273mごとに80円加算

 私の場合、普段はマイカー通勤をしているが、飲んで帰る日は、往きはバスと電車、帰りは電車とタクシーを利用することにしている。最寄りの駅から自宅までの距離が3km以上あるので、夜間割り増し料金も追加され、タクシー代は1000円以上必要になる。
 
 一頃(2002年頃)、タクシー業界にも規制緩和の波が押し寄せ、タクシー乗務員から悲鳴の声が上がったことがある。規制緩和によってタクシーが増え過ぎたせいで、「儲けにならない」という悲鳴がよく聞かれた。
 しかし、その後(2008年)、再度、規制を行うことで少し落ち着きを取り戻した(悲鳴が聞こえなくなった)ことは周知の通りである。
 
 規制緩和によって、タクシー新規参入者が激増してタクシー台数が需要を大きく上回れば、当然、タクシー1台当たりのお客数が減少し、結果的にはタクシー乗務員の収入減に繋がる。これは子供でも解る理屈である。その理屈は理解できるのだが、はたして当時、タクシー運賃はどれだけ下がったのだろうか? 初乗り運賃が現在の半額程度(300円台)まで下がったというような話は聞いたことがない。
 
 料金がそのままでタクシー台数が増えれば、タクシー乗務員1人当たりの取り分が減少する(タクシー会社は、基本的には歩合給)のは当たり前の話だ。
 しかし、それはあくまでも利用者(=需要)の増減を考えない場合の話である。

 この問題の本質は、タクシー乗務員が増えたことだけにあるのではなく、タクシー利用客が増えなかったことにもあると考えられる。ではなぜタクシー利用客は増えなかったのか? それはサービス(利用料金)が変化しなかったからだ。つまり、『料金を下げれば、利用客が増える』という市場のメカニズムを活かすことができなかったところにもタクシー規制緩和問題の本質が隠されているということである。
 
 タクシーの利用料金が下がれば、当然、利用客は増加する。初乗り運賃が半額にでもなれば、それまでバスを利用していた人がタクシーを利用するということも十二分に有り得る。駅から自宅まで2km以内でバスを利用している人であれば、バス代が250円、タクシー代が350円と考えると、差額は100円程度なので、帰りはタクシーを利用しようと考える人は結構いるのではないかと思う。
 
 現在の牛丼店の安値競争の如く、適正料金というものを超えて、料金が際限無く下がり続けるというのは問題だと思うが、ある一定までは料金を下げないことには、利用客の増加には結び付かない。料金を下げずにタクシー台数だけが増加すれば、どう転んでも「規制緩和は悪」というロジックに成らざるを得ない。なぜなら、そこには端から市場を形成する“消費者心理”という重大な要素が抜け落ちているからだ。
 
 規制緩和が経済政策となるためには、参入障壁を下げるだけでなく、セットで利用料金も下げなければ意味がない。規制を緩めるだけでは不充分で、サービスの向上も併せて行わない限り良い結果には繋がらない。片方だけ下げて、片方はそのままでは、市場原理が全く機能しない(=消費者心理が変化しない)ので、不完全な規制緩和になるのは当然の帰結である。

 仕組みだけを変えて、サービスはそのまんまというような中途半端な規制緩和なら初めからやらない方がましだったというのが、一連のタクシー規制緩和問題の顛末だったと言える。先程述べた通り、規制緩和が経済政策になっていなかった、つまり、絵に描いた餅でしかなかったというわけだ。

 当時、「規制緩和したからタクシー業界が不況になった」というようなことを吹聴している評論家が大勢いたと思うが、こんなのは的外れもいいところで、正しくは、「規制緩和したが、サービスがほとんど変化しなかったので業界が不況になってしまった」とするべきであり、決して、規制緩和が失敗したというような単純の話ではなかったのである。
 
 現在のタクシー利用料金は、どう考えても高いというのが一般消費者の実感であり、お世辞にも、消費者が求めているサービスになっているとは言い難い。これは誰もが認めるところだろうと思う。
 規制に頼ってタクシー台数を減らす努力をする以前に、利用客を増やす努力が足りていなかったのではないか?というのが率直な感想である。
 『タクシーが増えれば、収入が減る』という後ろ向きな発想を、『料金を下げれば、利用客が増える』という前向きな思考に切り替える必要もあったのではないかと思う。
 無論、料金を下げたからといって、必ず良い結果が出るというわけではないが、チャレンジする価値は有ったはずである。

 なぜか、少し前に書いた映画館の話と同じような結論になってしまったが、結局のところ双方に共通するのは「消費者の方を向いてこなかった」ということなのかもしれない。

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