経済・政治・国際

スケープゴートにされた「Jアラート」

■「Jアラート」の是非

 「Jアラート」の肯定論・否定論が喧しい。ある人は「Jアラートは絶対に必要だ」と言い、ある人は「Jアラートで危機を煽るべきではない」と言う。
 個人的には、現状、「Jアラート」は必要だと思うのだが、さて、どちらの言い分が正しいのだろうか?

 まず前提として言っておかなければならないのは、この言い争いは、結果論だということである。「Jアラート」の是非を言い争う前に、なぜ、そんなことを言い争わなければならないのか?を考えれば、答えは明白で、原因は北朝鮮がミサイルを発射したことにある。
 北がミサイルを発射しなければ「Jアラート」もなにもない。そもそもの原因は北のミサイルであって、「Jアラート」を鳴らすも鳴らさないも結果論でしかない。

 本来であれば、「ミサイル発射の是非」を言い争うべきところが、「Jアラートの是非」を言い争っているわけだから、ある意味、「Jアラート」はミサイル発射のスケープゴートにされていると言える。

■「地震列島」と「ミサイル列島」

 「Jアラート」と同じく、「緊急地震速報(警報)」の肯定論・否定論というものもある。地震の場合は、程度の差で肯定と否定が分かれる。いくら「地震警報」は必要だと言っても、ほとんど被害の心配がない震度1や2程度で毎度「地震警報」をアラートしていれば、五月蝿くて仕方がないだろうし、被害の出る恐れがある震度5や6で「地震警報」をアラートしないというわけにはいかない。(現状では震度5弱以上でアラートされることになっている)

 では、北のミサイルには程度の差は有るか?と言えば、もちろん、有る。しかし、地震と違って、経験則がない。日本列島は「地震列島」でもあるので、地震については多くの経験則があるため、程度の差でアラートの是非を判断することができる。
 しかし、ミサイルの場合はそうはいかない。このままいくと日本は「ミサイル列島」と揶揄されることになるかもしれないが、日本列島を越えていくような長距離ミサイルを発射されたことは初めての経験なので、程度の差というものが未だ判らない。ゆえに、日本に着弾する可能性がたとえ0%であっても、現状では警報を鳴らさざるを得ない。

■「五月蝿い」ではなく「五月蝿かった」

 「Jアラート」に対して「五月蝿い」と言っている人も大勢いるらしいが、それもまた結果論である。「Jアラート」が鳴った時点では、一般人には現状を把握することができない。ミサイルがどの方向に打たれたのか、どれだけの飛行距離があるのか、いつ危険性が無くなるのか分からない。それらが分からない状況下(自分の上に落ちてくる可能性がある状況下)で「五月蝿い」とは言えない。「五月蝿い」というのはリアルタイムで言うべき台詞なので、Jアラート否定派が言っているのは「五月蝿かった」という結果論としての台詞であるはずだ。

 「Jアラートが五月蝿かった!」と文句を言うのであれば、まず先に、北朝鮮に対して「ミサイルを打つな!」と言うのが筋というものだろう。結果に対して文句を言っても何も始まらない。文句を言うべきは、結果としての「Jアラート」ではなく、原因としての「北のミサイル」であるべきだ。

 ついでに言うと、このミサイル問題で、海外から日本への旅行客も減少するはずだ。これまでの2回のミサイル発射は“日本(特に北海道や東北地方)は危険”というシグナルを海外へ送る役割を果たしているはずなので、旅行会社にとっても無視できない問題だろうと思う。

 では、海外からの旅行客が減るのは「Jアラート」のせいか?と言えば、もちろん違う。旅行客が減る原因は「北のミサイル」であって「Jアラート」ではない。
 今後、「Jアラートのせいで旅行客が減少した」などという、原因と結果を履き違えたスケープゴート論を語る人には要注意だ。


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「9条がなくても戦争になる」という言葉

■重要なことは「戦争抑止力」の有無

 前回、「9条があれば戦争にならない」という言葉についてのブログ記事を書いてみると、「9条がなくても戦争になる」という反論をいただいた。2chにもスレッドが立ったようで、BLOGOSのコメントと同じように「9条がなくても戦争になる」という意見を見かけた。

 「9条がなくても戦争になる」、それはその通りだろう。家に鍵をかけても泥棒が入ることはある。そんなことは述べるまでもない暗黙の了解事項だと思う。
 前回の記事で述べたことは、「9条」と「戦争」との直接的な因果関係についてではなくて、9条の有無における「戦争抑止力」についての話だった。
 重要なことは「9条の有無」ではなく、「戦争抑止力の有無」であり、その戦争抑止力を持つために9条が邪魔になっているということを書いたつもりだった。

 では、「戦争抑止力」とは何か?

 その道の専門家である田母神俊雄氏の言葉を借りると以下のようになる。

 「殴れば殴り返されるかもしれないという恐怖が殴ることを思いとどまらせる。これが抑止力である。従って攻撃能力を持たずには抑止戦略は成り立たない。」【『自らの身は顧みず』(田母神俊雄著)より】

 このことはトランプ氏と金正恩を観ているとよく解る。「殴れば殴り返されるかもしれない」、金正恩がトランプ氏に対して抱いている感情こそ、まさにそれだ。1発殴れば、何倍にもなって反撃されるという恐怖感が、金正恩のアメリカに対する暴走を防いでいる。アメリカと北朝鮮では、軍事力で大人と子供以上の差があるので、これが絶対的な抑止力となっている。
 しかし、北朝鮮が攻撃可能な核兵器を持つに至れば、その軍事力の差が消え失せ、抑止力は機能しなくなる。いかに屈強な大人であっても、銃を持った子供は恐いのと同じ理屈だ。

■9条はユートピアでしか通用しない

 自宅に鍵をかけても泥棒の侵入を完全には防ぐことはできない。しかし、少なからず泥棒の侵入を防ぐ効果は有る。泥棒に「侵入すれば捕まるかもしれない」という感情を抱かせるには、鍵を厳重にかける、監視カメラを取り付ける、発見した場合は即座に通報する、というような「侵入抑止力」が必要になる。
 しかし、9条には「侵入抑止力」を否定するようなことが書かれている。それを説明する前にまず、憲法9条を眺めてみよう。

(第9条第1項)
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

(第9条第2項)
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 この条文だけを読むと、簡単なことを敢えて難しく言っているような感じを受ける。「これを」という言葉を都合3回も使用しており、敢えて回りくどい言い方をしているように感じられる。そして、この条文は、日本国民はどうするべきということは書かれているのだが、相手国がどういう状態であるのかということが全く意識されていない。その相手国が健全な国であるのか、それとも悪徳な国であるのかということが書かれていない。
 相手国が民主国家か、独裁国家かという違いだけでも、日本国民が採る行動は違ってくると思われるのだが、なぜかその部分には触れられていない(考えられていない)のである。

 失礼ながら、相手国を泥棒に喩えてシンプルに言うなら、以下のようなことが書かれていることになる。

 「日本国民は泥棒を暴力で威嚇してはいけない
 「日本国民は泥棒に暴力を振るってはいけない
 「日本国民は泥棒と戦う武器を持ってはいけない
 「日本国民は泥棒と戦ってはいけない

 「泥棒」という言葉を「善人」に置き換えれば至極真っ当な意見なのかもしれないが、「悪人」に適用すると、途端におかしな意味合いになる。

 悪人のいない善人ばかりの平和な社会、それはつまり、理想郷(ユートピア)であり、そのユートピアでしか通用しない言葉足らずな条文となっているのが9条だと言うことができる。

 善人ばかりのユートピアのような世界であれば、憲法9条は正しい。元々、犯罪も争いも無い世界であるなら、暴力を禁ずるのは正しいことだろう。しかし、明らかに危険な悪人が出現した場合、その悪人の暴力や犯罪を阻止するためには、時には暴力を認めることも必要になる。ただしそれは、本当の暴力を認めるという意味ではなくて、悪人に「殴れば殴り返されるかもしれない」と思わせるために必要な方便としての暴力である。無論、最終手段として本当に暴力を振るわなければいけなくなる場合もある。

 世界各国が保有している核兵器も、方便として持つことを許されている。その方便としての核兵器を本気で「使用する」などと言う危険人物が出現した場合、世界各国は一致団結して、その狂気を諌めなければならないが、皮肉なことに、その邪魔をするのが「9条」になっているのである。


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「9条があれば戦争にならない」という言葉

■「ならない」と「できない」の違い

 北朝鮮の地政学的リスクが少しは肌で感じられるようになったせいか、与党批判は少し鳴りを潜め、批判の矛先は野党に向かったかのような気がしないでもない。しかし、それでも未だに「9条があれば戦争にならない」という意見もよく耳にする。

 この「9条があれば戦争にならない」というのは、「施錠しなければ泥棒は入ってこない」という言葉と同じようものだと揶揄されることがある。

 世間一般の常識から考えると「施錠すれば泥棒は入ってこない」が正しいはずなので、「施錠しなければ泥棒は入ってこない」というのはどこかおかしいことになる。

 ○「施錠すれば泥棒は入ってこない」
 ×「施錠しなければ泥棒は入ってこない」

 「鍵をかければ泥棒は入ってこれない」、これは物理的に正しい。では、「9条があれば戦争にならない」はどうだろうか?
 9条というものは物理的なものではなく、観念的なものであるので、目に見えない効力でもない限り機能しない。9条が『般若心経』のような経典であれば何かしらの効力があるかもしれないが、そういうものでもない。

 となると、「9条に戦争を抑止する効力がある」という言葉は、どこから出てきたのか?という疑問が生じる。

 現在の日本国憲法がGHQ製であることは広く知られている。日本の想定外の戦力(士気)に恐れをなした戦勝国側が、2度と日本に戦争を起こさせないようにするために作られたものが、現在の日本国憲法であり、9条はその中心的な役割を持った条文だった。戦勝国側の視点に立てば、「9条があれば戦争にならない」ではなく、「9条があれば戦争できない」というのが、本当の目的だった。
 この「できない」が、いつの間にか「ならない」という言葉に置き換わってしまった。戦勝国側ではなく戦敗国側の視点から見た言葉になってしまった。戦争することを封じるための言葉が、戦争自体が無くなるという言葉に変化してしまったということになる。

 (戦勝国側)「9条があれば戦争できない」
 (戦敗国側)「9条があれば戦争にならない」

 この2つの言葉には、大いなる言葉の歪曲がある。

■護憲派の精神構造

 都会に住んでいる人は出かける時に施錠することは常識であり、自宅の中にいる時でさえ施錠するのが一般的だが、田舎に住んでいる人は、少し近所に出かける程度なら、わざわざ施錠しない人もいる。
 田舎に住んでいる人が都会に出てくると、在宅中の人でも施錠していることにカルチャーショックを覚えることがあるらしい。わざわざチャイムを鳴らさないと玄関ドアが開かないことに違和感を感じるらしい。

 ある意味、その感覚が、護憲派と言われる人々の感覚なのかもしれない。戦後70年間も牧歌的な田舎(日本)のような空間で暮らしてきたため、都会(他国)のようにコソ泥や詐欺師の被害に遭遇する危険性もなかった。
 しかし現代では、日本にも多くの文化の違う外国人が訪れ、観光地に行けば、日本人よりも外国人の方が多いというような感じになっている。外国人が悪いという意味ではないが、いつの間にか、牧歌的な日本は、都会の喧噪の中に呑み込まれてしまう時代を迎えてしまった。周りを見れば、人が溢れ、その中にはコソ泥や詐欺師も混じっている。

 そんな状況下で、いつまでも「施錠しなければ泥棒は入ってこない」などという暢気なことを言って、本当に施錠せずにいると、気付いた時には、家財用具一式、コソ泥被害に遭うということになってしまう。その時になって、「なぜ、施錠していないのに泥棒が入ってきたのだ!」と憤っても後の祭りであり、その泥棒が自宅に侵入した理由は、他ならぬ、自分自身にある。そして、その盗人被害は、真面目に施錠している人々にも及ぶということを知らねばならない。


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「戦争を知らない子供たち」はいなくなる

■世界の命運を握った2人の人物

 Jアラート、昔で言うところの「空襲警報」が鳴り響いたというのに、その事の重大さに気が付かず、未だ泰平の眠りの中にある日本をよそに、米朝の間には非常に危うくキナ臭い空気が漂ってきつつある。
 端から聞く耳を持たない独裁者相手に、「話し合いで解決する」というようなソフトな対処法では、残念ながら、この難局は到底乗り越えられそうにない。況して「北朝鮮の核保有を認めるべき」などというのは、正気の沙汰とは思えない。

 日本、ひいては世界の命運は、2人の人物(金正恩とドナルド・トランプ)の一挙手一投足にかかっていると言えるが、金正恩が白旗を掲げない限り、近い将来、多くの人命が失われるだろうことはほぼ間違いないと言える。
 その人命が、北朝鮮人か、韓国人か、日本人か、それともアメリカ人になるかは今のところ不確定だが、このまま何も手を打たないままズルズルといくと、その期間が延びるに比例して、皮肉にも死傷者数は増加することになるだろう。
 日本が被害を免れるためには、誰かが金正恩を暗殺するか、北朝鮮の軍事施設を全て瞬時に破壊するしか手はない。しかし、その場合、多くの北朝鮮の国民も犠牲になることになる。たった1人の狂気の独裁者のために、数十万人、数百万人の人々が巻き添えになる可能性がある。

■「戦争を知った子供たち」の出現

 トランプ氏の「そのうち分かる」という発言は実に意味深だが、そんな言葉が出てくるということは、既にいくつかのプランは用意されているということなのだろう。現状でなら、アメリカはほぼ無傷で北朝鮮を葬ることができるので、障壁になるのは先に述べた人道的な問題だけだろう。

 人道的と言っても、2018年には北朝鮮の核搭載ミサイルが完成すると伝えられている。そうなると自国(アメリカ)の無辜の民が数百万人、数千万人と犠牲になる危険性が出てくるので、その時点で、人道云々などとは言っていられなくなる。自国の民を犠牲にするか、敵国の民を犠牲にするか?と問われれば答えは決まっている。現状では究極の選択であっても、自国の崩壊というリスクが生じれば、躊躇することなく攻撃が開始されるだろう。

 結局、今回の米朝問題を無事に解決できる人間は、1人、金正恩しかいない。彼が降参しない限り、どのみち多くの人々の命が失われることになる。トランプという存在は、彼の悪しき心の写し鏡でしかない。トランプ大統領が如何なる行動に出たとしても、その原因は全て彼(金正恩)自身にある。

 日本の代表的な反戦歌である『戦争を知らない子供たち』という歌があるが、近い将来、日本でも「戦争を知らない子供たち」は誰もいなくなるかもしれない。
 怪我の功名として、「戦争を知った子供たち」の意識に大きな変化が生じ、日本がまともな国になることを願う。(注:軍国主義になるという意味ではないので誤解のないように)

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「ヒトラー」と「ミサイル」のどちらが重要か?

■「ミサイル」よりも「言葉」に敏感な国

 今週は北朝鮮のミサイル発射問題が騒がれる中、麻生氏の失言(?)が飛び出し、マスコミからは総バッシングを喰らっていた。
 しかし、北朝鮮から発射されたミサイルよりも、麻生氏の口から発せられた言葉に対する批判の方が大きいように感じられるのは気のせいだろうか?

 麻生氏の口から飛び出した言葉は以下の通り。

>「いくら動機が正しくても何百万人殺しちゃったヒトラーは、やっぱりいくら動機が正しくてもダメなんですよ

 この言葉で問題となっているのは、「いくら動機が正しくても」という言葉を2回も繰り返しているところだろうと思われる。中には「ヒトラー」という言葉を使用したことだけで(頭の中で)批判アラートが鳴った人もいるのかもしれないが、常識的に考えると「いくら」という言葉に引っ掛かった人が多かったのだろうと思う。
 麻生氏は「動機が正しかった」とは一言も言っていないのだが、「いくら」という言葉からは、「否定」よりも「肯定」のニュアンスが強く感じられるので、運悪くバッシングに繋がったのだろう。

 もし、この「いくら」の部分を「仮に」とすればどうなるだろうか?

仮に動機が正しくても何百万人殺しちゃったヒトラーはダメなんですよ

 これだけで随分とイメージが変わってしまう。「いくら」という言葉を繰り返さずに「仮に」という言葉を使用していれば、あくまでも仮定の話ということで、言葉狩りに遭うことも無かったかもしれないし、弁解することも充分に可能だったと思う。(常識人に対しては、という条件付きで)

■注目すべきは「ヒトラー」ではなく「金正恩」

 ただ、まさか副総理の立場にある麻生氏が、ヒトラーやナチスを礼賛するようなことを公の場で話すわけもなく、講演における単なる言葉の齟齬だったと考えるのが普通だと思う。文章として書く場合は推敲ができるので、言葉の齟齬も発生しにくい。しかし、リアルタイムでのトークであれば、こういった言葉遣いのミスが発生するのは仕方がないことでもあるので、いちいち揚げ足取りをしてもキリがないと思う。
 問題は、本人の意思はどうなのか?ということであって、麻生氏はきちんと釈明会見を開き謝罪しているのだから、批判の矛を鞘に収めるのが大人の対応というものだろう。

 ところで、もし、麻生氏の口から以下のような言葉が発せられた場合を考えてみよう。

いくら動機が正しくても何百万人も殺しちゃうかもしれない金正恩は、やっぱりいくら動機が正しくてもダメなんですよ

 この言葉に対して、批判するような人は誰もいないだろうけれど、「いくら」という言葉を使用しても特に違和感が感じられない。それはなぜだろうか?
 この言葉の場合、「殺しちゃうかもしれない」という仮定の言葉が既に入っているため、動機の是非には目が行かない。それは、ヒトラーに置き換えても同じで、

いくら動機が正しくても何百万人も殺しちゃうかもしれないヒトラーは、やっぱりいくら動機が正しくてもダメなんですよ

 ということで、既に起こってしまった悲劇的な過去の事件に対しては「いくら」という言葉は使用するべきではなかった。そういう意味では確かに失言の部類であったことには違いはないと思う。

 しかしながら、マスコミや野党は、批判の矛先を「言葉」から「ミサイル」に置き変えるべきであり、過去の独裁者「ヒトラー」ではなく、現代の独裁者「金正恩」に目を向けるべきである。


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「北のミサイル」は忘れた頃にやってくる

■津波よりも速いミサイルの脅威

 今朝(29日)の6時頃のテレビ番組は、こぞって放送予定を変更して、「北朝鮮がミサイルを発射した」との速報を伝えていた。
 日本国内(東北地方)にミサイルが着弾するかもしれないという危機感を伝えるニュースキャスターを観ていると、大震災時に津波の脅威を伝えていた姿とオーバーラップして見えた。北朝鮮からのミサイルは、地震(津波)と同じように、忘れた頃にやってくる。

 各テレビ局は朝早くから専門家をスタジオに招き、「今後、どうするべきか?」というような質問もされていたが、「いかにして逃げるべきか」というようなことを話されている人もいた。しかし、ミサイル発射から到達までのわずかな時間(数分間)に、どうやって逃げるというのだろうか? 「頑丈な建物や地下に避難してください」などとも伝えられていたが、世間一般の住宅地には、ミサイルの衝撃に耐えれるような鉄筋のビルなどは無いだろうし、シェルターどころか、地下室も無い。
 数分間で地下に逃げれる人というのは、地下鉄が走っているビジネス街に住む人ぐらいのものだろう。況して、早朝の6時ということであれば、通勤途中のビジネスマンぐらいのものかもしれない。
 朝の6時と言えば、まだ眠っている人が大半だろうから、Jアラートで叩き起こされたとしても、その後、数分間で現状を把握した後、パジャマ姿のまま、頑丈な建物や地下に避難するなどという芸当は到底できないと考えるべきだ。

 図らずも今回のことで判明した通り、ミサイルが飛来する危機が生じてからアクションを起こしても、既に後の祭りと言える。専門家や評論家が言うべきは、ミサイル発射後にどうすればいいのか?ではなく、今後、北朝鮮にミサイルを発射させないようにするためにはどうすればいいのか?であり、具体的な予防策をテーマにしなければ無意味だとも言える。

■ミサイルは「天災」ではなく「人災」

 もし、日本以外の国で今回のような出来事が起これば、その国の政治家も国民も北朝鮮に対する怒りを露にし、北朝鮮が謝罪しないということであれば喧嘩(=戦争)になってもおかしくないところだが、日本のニュース番組では、この期に及んでも「核武装」どころか、「憲法改正」という言葉すら出てこない。

 実現性はともかくとしても、「今後、このような危機を避けるためには、憲法を変えて、核武装する必要があります」と言う人が出てきて然るべきだと思われるのだが、どういうわけか、「北朝鮮のミサイルから、いかにして逃げるか」というようなことが真っ先に論じられる。まるで「ミサイルは天災」だと言わんばかりに…。

 不謹慎ながら、こんな体たらくでは、本当にミサイルが着弾して多くの死傷者が出ないことには何も変える気がないのではないか?と思えてしまう。

 現在の北朝鮮危機を避けるためには、憲法を変えるだけでは不十分であり、核武装するという段階まで視野に入れる必要がある。それができないことには国(国民)の生活の安寧を守ることは難しくなってきていると言える。狂気の核武装国家の暴走を抑えるためには、残念ながら核兵器を持つ以外に手段は無いと思える。
 
 「日本は唯一の被曝国だから核を放棄しなければいけない」という人もいるだろうけれど、なぜ、被曝国だから核を放棄しなければいけないのだろうか? 核兵器を使用した当事国(加害者)ならともかく、なぜ、被害者が己の身を守る武器を持ってはいけないのだろうか? 唯一の被曝国だからこそ、他国からの核の脅威に対しては人一倍、敏感にならなければいけないのではないのだろうか? 唯一の被曝国だからこそ、核武装する権利があるのではないのだろうか? 核兵器の危険性を最も知る国だからこそ、その扱いに最も慎重になれるのではないのだろうか?

 「核武装=戦争」ではなく、「核武装=平和」という世界の常識が日本の常識にならない限り、北朝鮮危機はいつまで経っても我々を苛む目の上の瘤(たんこぶ)になるだろう。「ミサイルは飛んでこない」と豪語していた著名人もいたが、実際にミサイルは飛んできた。その恥ずかしさを忘れる間もなく、またミサイルは飛んで来るだろう。

 津波に防波堤が必要なように、「北のミサイル」にも防波堤(注:物理的な防波堤という意味ではない)が必要だ。ミサイルの雨が天災ではなく人災であるなら食い止める手段はあるはずだ。なぜ、当たり前の防衛策を真っ先に考えようとしないのだろうか? その場限りの防御策ではなく、根本的な防衛策を考えるべきだ。
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「報道しない自由」を謳歌する日米マスメディア

■「どっちもどっち」が意味するところ

 アメリカで発生した白人至上主義団体と、その反対派の衝突において、意見を求められたトランプ大統領は「どっちもどっち」と応えた。よく考えた上での発言だったそうだが、その紛らわしい言葉のせいか、リベラルメディアからは「言葉狩り」よろしく、「トランプは差別主義者だ!」と批判されて物議を醸していた。しかしそのヒステリー熱も少しは覚めてきたのか、ようやく擁護する意見もチラホラと出てきつつあるようだ。
 
 この「どっちもどっち」という意見は、「白人至上主義団体の差別意識は問題だが、だからと言って、彼らに対してむやみに暴力を振るっていいわけではない」という意味合いだったのだろうと思う。たとえ、悪人であろうと、思想的に間違ったことを言っている人であろうと、暴力で物事の解決を図るのは間違いだという、ごく当たり前のことを言いたかっただけだろうと思う。「双方に非がある」という発言は、日本流に言うなら、「喧嘩両成敗」という意味合いでのコメントだったのだろう。
 その証拠にトランプ氏は話の結びで「お互いの団結」を呼びかけたと言っているが、その部分はテレビ報道ではカットされていたらしい。

 建前だけを優先するなら、「白人至上主義団体は無条件に悪い」という風に応えていれば波風も立たなかったのだろうけれど、本音を優先するトランプ氏には偽善者のような歯の浮いたような台詞を吐くのは難しいことだったのだろう。もっとも、もし仮にトランプ氏が白人至上主義団体だけを否定していれば、「トランプは暴力で解決を図ることを肯定した!」などというダブル基準が用意されていたのかもしれないが…。

■差別を助長する「ポリティカル・コレクトネス」

 オバマ元大統領のように、自らの言葉ではなく、わざわざネルソン・マンデラ氏の名言を引っ張り出すような真似事をトランプ氏が行えば、彼を支持してきた本音論者達の目には、逆に「偽善者」のように映ったかもしれない。「暴力を振るった人間はスルーか!」と怒る人も出て来たことだろう。多くのトランプ支持者達はトランプ氏の嘘偽りない「本音」に期待しているわけだから、今回の騒動も、本当に本音を言っただけなら、そのうち誤解が解けてプラスに転じることになるかもしれない。

 そもそも、「差別は悪い」というのは当たり前のことであり、その当たり前のことを否定するようなことを一国の大統領ともあろう者が言うわけがないとは考えないのだろうか? 普通に考えると、なにかしらの誤解が生じているのではないか?という疑問が浮かんで当然だと思えるのだが、そういった疑念を全く無視し、いきなり「差別だ!」などと発言することの方がおかしいと思う。メディア側の人間は、そういった安易な「差別」発言こそが、逆に差別問題を助長することに繋がるとは考えないのだろうか?

 しかし、今回のこの騒動を観るにつけても、未だアメリカにおいても「ポリティカル・コレクトネス」は健在であることがよく分かる。昨日(22日)、産経新聞と読売新聞に「異常に歪んだテレビ報道」というカラーの全面意見広告が掲載されていて驚いたが、現在のアメリカのリベラルメディアも「トランプ憎し」の論調に傾いており、トランプに利することはなるべく報道しないという「報道しない自由」を謳歌している。

 これに対してトランプ氏は「メディア報道はフェイクニュースだ」と批判して応戦している。対立軸は少し違うとはいえ、アメリカも日本と同じような政治的問題を抱えていると言えそうだ。しかし、日本の場合は、マスメディアに対して勇ましく批判するような反骨精神を持った政治家はあまりいない。そういう意味では、やはりアメリカの方が「ポリティカル・コレクトネス」からの脱皮には前向きだと言える。
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「北を挑発するべきではない」という詭弁

■「話し合いに応じるべき」は北朝鮮のみ

 緊迫感が増している米朝問題を前にして、「北朝鮮を挑発(刺激)するべきではない」という意見をよく耳にするようになってきた。「あくまでも話し合いで解決するべきだ」という意見も多いが、北朝鮮以外の国はこぞって話し合いに応じる柔軟な姿勢は崩していない。アメリカにしても「話し合いは金正恩氏の決断しだいだ」と述べている。話し合いを拒否しているのは、独り、北朝鮮のみなのだが、そのことについての言及があまりにも乏しく感じられる。

 現状において、国内の評論家や学者が言うべきは、「北を挑発するべきではない」ではなく、「北は話し合いに応じるべき」であるはずだが、いつの間にか、主語が入れ替わってしまっている。「日本はどうするべき」とか、「アメリカはどうするべき」というのは、論点がズレていると言わざるを得ない。

 毎度言うように、これは、ヤクザに対する姿勢とそっくり同じだと言える。ヤクザに脅されている庶民が、「ヤクザを挑発(刺激)するべきではない」と言っている姿とほとんど変わらない。
 「話し合いで解決するべきだ」というのは、他の誰でもない「(ヤクザは)話し合いで解決するべきだ」ということであり、「(庶民が)話し合いで解決するべきだ」では意味を為していないし、何の解決策にもならない。

■現代の「人質篭城事件」

 現在の北朝鮮は、ある意味、人質を取って篭城している連合赤軍のようなものであり、1つ大きく違うところは、立て篭った建物内で殺傷兵器を製造しているというところだ。通常の立て篭り事件と違い、兵糧攻めによる時間稼ぎが必ずしも功を奏すとは限らず、兵糧が尽きる前に、その殺傷兵器が完成してしまえば、皮肉なことに、その建物を包囲している警官達も逃げざるを得なくなるという危険性も同時進行中だ。

 テレビの刑事ドラマのように、ある者はこう言う。

 「甚大な被害が出る前に犯人を狙撃するべきだ

 しかし、ある者はこう言う。

 「犯人を挑発(刺激)するべきではない

 トランプ氏はこう言っている。

 「もし、警官に向かって発砲するような真似をすれば、突入する

 これに対して金正恩はこう述べている。

 「愚かな警察の行動をもう少し見守る

 まさに、「人質篭城事件」の様相を呈していると言えるが、ここでもう1度、先に述べた言葉を思い出してみよう。

 「北を挑発するべきではない

 この言葉が如何にズレた意見かが分かると思う。

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北朝鮮の核保有が認められない理由

■「唯物無神論無法独裁国家」の危険性

 昨晩、録画しておいた「朝まで生テレビ」を観てみた。ウーマンラッシュアワーの村本大輔氏が出演していたのは意外だったが、最近はゲスト席へのインタビュー等が無くなったので、世間一般の国民の代表者(?)的な意見を中間に用意したと考えれば、なかなか新鮮な試みだったのかもしれない。

 番組の中で「北朝鮮の核保有を認めるか否か?」というような話があった。他国の核保有を容認しているのだから、北朝鮮の核保有も認めるべきというような話が出て驚いた。

 「他国の核保有を容認しているのだから、北朝鮮の核保有も認めるべき

 一聴すると、もっともな話に聞こえるかもしれないが、これは無理な相談だと言える。その理由を書いてみようと思う。

 他の先進国が核武装しているのに、なぜ北朝鮮が核武装することがいけいないのか? それは、先進国や後進国であるという理由ではなく、なにをしでかすか分からない国だからというのが第一の理由だと言える。
 まずは、法治国家ではないということと、唯物無神論国家であるところが大きい。要するに、善悪の基準というものが曖昧であり、精神的に自らを律するものが存在しない国であるところが、世界の常識人からは極めて大きなリスクに映るからである。

 欧米の先進国はもとより、日本でも昔から「悪いことをすれば地獄に堕ちる」とか言われる。現在はどうか知らないが、子供の頃からそういった話を聞き、少なからず、宗教的な善悪を理解する環境が自然と出来上がっているが、北朝鮮のような共産主義国家にはそういったものは一切無い。

■「核兵器」という危険な玩具

 大抵の日本人は、法律以前に、悪いことをすれば裁きがあることを知っている。法律に書かれていまいが、人を殺めることや傷付けることはいけないことであり、良心が咎めることであることも知っている。
 思想統制によって、そういった当たり前の感情を失っているということがどれほど恐ろしいことであるかを考える必要がある。

 「神」という存在の認識が無い共産主義国家では、「誰も見ていなければ、何をしても構わない」という精神が芽生える。殺人を犯そうが、人を傷付けようが、物品を盗もうが、誰も見ていなければ(見つからなければ)何をしても構わないという発想は、幼児の発想そのものである。つまり、精神的に大人になっていないという意味で、危険な玩具(核兵器)を持たせることは御法度なのである。

 北朝鮮では無法者である「将軍様」が「神」であり、将軍様が「法」であり、将軍様に逆らえば無慈悲に殺される。そんな理不尽なことが罷り通っている幼児国家を、まともな良識が根付いた国と同列に扱えるはずがない。

 まともな精神を持った人間なら、大量殺人兵器である核兵器を使用するなどということはできない。そんなことをすれば、良心の呵責に耐えられず、自ら死を選ぶ人がほとんどだろうと思う。敬虔なキリスト教徒や仏教徒であれば、死後、地獄の業火に焼かれ、永遠の苦しみを背負うことになるかもしれないという前提知識を持っているので、そんな割りの合わないことはできなくなる。できるとすれば、狂気の大量殺人者が出現した場合、その悪を止める場合には許されるという確信がある時のみだ。

 トランプ大統領が金正恩をそういう目で見ているのだとすれば、起こらないと思われている戦争も、「正義」の名のもとに実際に起こる可能性がある。

【追記】2017.8.14
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>その一方で著者のいう『無神教だからダメ』というのも違うと思う。宗教にどっぷりというテロリストもいるし核兵器を持ったら使いうると思うから。

 北朝鮮が現在のような状況を招いているのは無神論国家であることも大きな原因だということです。カルト教に嵌ったテロリストがいることはその通りですが、それは物事(この場合は宗教)の一面を捉えているに過ぎません。

>じゃあ中国の核兵器はどうなのよ?

 無論、北朝鮮と同じです。

>北朝鮮が「共産主義だから無神論」と言うのが間違い。

 北朝鮮は基本的に唯物論であるマルクス主義を信奉している国なので、無神論です。

>それなら、法治国家で、敬虔なクリスチャンの米は、なぜ核を使用したんだ? 法治国家でなく、道徳規範も高そうに思えない中国はなぜ使用しないんだ?

 戦時中のアメリカは戦局的にも思想的にも特殊な事情がありましたし、人類史上初めてのことでもあったので、どれほどの悲惨な事態になるかということも、それほど考えていなかったのでしょう。今だからこそ、核兵器は悪魔の兵器と言えますが、戦時中は日本でも核兵器を開発していたという話もあるぐらいですから。
 中国が核ミサイルを使用するか使用しないかは未だ不明ですが、既に日本の各都市にも照準がセットされています。

>現在の地球上で最も無宗教化された社会は日本だと思うがな。
敗戦で「神風」が吹かないことが嫌というほど実証され、
戦後GHQの統治下では国家神道は全否定され、
アメリカ流合理主義を叩き込まれた。

 そうですね。戦後の2年間は日本を共産主義化するのがGHQの目的でしたから。しかし日本の場合は、戦前から資本主義や勤勉の精神が根付いていたので、完全に共産主義化することはありませんでした。その代わりに、あなたが言うところの「無宗教化された」国になりましたが。

>将軍様を「神」として崇めているのだとすれば、それは「無神論国家」ではなく「支配者神格化国家」とでもいうべきでしょう。

 目に見える「神」と、観念上の「神」は違います。目に見えるだけの独裁者を信仰の対象にすることは「無神論国家」であることの証です。

>神を信じてなくても、モラルは守れる。
モラルの大半は、共存のためのルールであり、その必要性を理解できるからだ。

 残念ながら、世界中でそんな話が通じるのは日本だけです。倫理観や道徳心は、頭で考えるだけで得られるものではありませんから。

>宗教がないではなく、良心がない国、と言うべきではないか?
神は信じなくとも、良心がある人はいるだろう。

 良心というものは、生まれつき備わっているものです。これを生得の智慧と呼びますが、良心の無いところに信仰や神などはありません。それが世界の常識です。

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『カエルの楽園』化している日本の政治

■『カエルの楽園』を読んで。

 今更ながら、百田尚樹氏の風刺寓話『カエルの楽園』を読んでみた。1年以上前から読もう、読もうと思っていたものの、後回し、後回しとなり、今頃になってしまった。私の場合、ノン・フィクション本や実用書を好んで読むタイプなので、このてのフィクション本は滅多に読まない。学生時代は主に小説等のフィクション本ばかり読んでいたが、大人になってからは、フィクション本はほとんど読まなくなった。(漫画は別)
 本書の前に読んだフィクション本が2007年に発売された橘 玲氏の『亜玖夢博士の経済入門』なので、実に10年ぶりのフィクション本となる。

 ちなみに、百田尚樹氏のベストセラー小説『永遠の0』や『海賊と呼ばれた男』も、映画では観たが小説は読んでいない。他の人気作家のミステリー小説なども時間の節約のために映像として観ることが多い。もちろん、小説には映画では描けない面白みがあることは承知しているが、分厚いフィクション小説は見ただけでゲップが出そうになるので、なかなか食指が動かない。

 前置きはこの辺にして本題に入ろう。本書にも、お約束のように以下の注意書きが書かれている。

 「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体等とは一切関係がありません。

 いつもは無味乾燥に思える注意書きも、本書ではピッタリ、マッチしている。この注意書きが無ければ、ノン・フィクションと言ってもおかしくないほどのシニカルな寓話だった。寓話と言うよりも予言書としての役割も持っていそうな本であり、クスクスと笑える内容でありながらも、実に重い警世の書でもある。本書が映像化されるのは難しそうなので、活字で読んで正解だったのかもしれない。

■政治家達の罵り合いは、さしずめ「学級会議」

 本書には何度も次のような台詞が登場する。

 「そうだ、そうだ、その通り!

 カエルが言うと愛嬌があるが、現在の日本の政治を観ても、同じような感じになっているな…と思えた。

 「あの政治家は失言したのでクビを切らねばなりません!」

 「そうだ、そうだ、その通り!

 という感じで、後先何も考えず、その場の空気と感情だけで物事を決めてしまう人々。そして、内心ではおかしいと思いつつも、そのことについて誰も異議を唱えない。なぜなら、異議を唱えると、今度はその人物が批判の対象にされるから。
 これはまさに「いじめ」の構図そのものであり、いじめを止めようとした人が、今度はいじめの標的になってしまうようなところは学校社会と実によく似ている。

 現代の日本の政治家達の罵り合い(揚げ足取り)を観ていると、まるで小中学生の学級会議での光景を彷彿とさせるものがある。誰かが悪口を言ったとか、誰かが給食費を盗んだとか、学業とはほとんど関係のないことで、「あーだ」「こーだ」と延々と言い争っているような姿がオーバーラップする。
 ここで、生徒達に対して「いいかげんにしなさい!」と注意する先生がいない。この場合、「先生」の役割を担うべきは、本来であれば「マスコミ」だが、その先生が率先して、「あーだ」「こーだ」と言って生徒達を引っ張っている(ミスリードしている)ような感じだろうか。

■『茹でガエルの失楽園』にならんことを…

 つい最近までは、「若者が右傾化した」などと言われていたが、最近の政治を観ていると、「国民が左傾化した」のではないか?と疑いたくなる時がある。声の大きな左傾化している人々ばかりがテレビに映されるので、そんな錯覚を感じるだけなのかもしれないが、いずれにしても、道理が通用せず、明らかに善悪が転倒しているような言論が罷り通っているような世の中に末恐ろしさを感じる時がある。その感情は本書を読んで感じた“やるせない憤り”と軌を一にしている。

 古今東西、予言書というものは、「このままいくとこうなりますよ」という警鐘を鳴らす役割を持っている。日本が百田氏の予言の通りにならないことを切に願うが、現在の政治を観ていると、そう安穏とはしていられないかもしれないな…と不安になる。

 もし、本書の通りの現実が訪れれば、本書は予言の書だったということで歴史に名を残す名著となるだろう。逆に本書の予言が回避されても、過去の日本はこんな具合だったという社会的寓話として歴史に名を残すことになるかもしれない。もう既に多くの人が読まれた後だと思うが、まだ未読の人には是非、読んでいただきたい(未来の)名作だ。

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