経済・政治・国際

「悪夢のような民主党政権」という言葉の是非

■民主党時代は悪夢のような時代だった

 衆院予算委員会における安倍総理の「悪夢のような民主党政権」という発言が物議を醸している。

 「民主党時代は悪夢だった」というような話は、これまでにもいろんなところで耳にしてきたので、今更、話題になるほど新鮮な発言とも思えないのだが、安倍総理の脳裏にそういった言葉の断片が記憶として残っていたため、つい口に出てしまったのだろう。
 保守系の論客、山村明義氏の著書に『民主党政権-悪夢と恐怖の3年3ヶ月』というタイトルの本があったので、ひょっとすると、以前にこの本を読まれたのかもしれない。

 「民主党時代は悪夢だった」というのは、一般的には主に就職難の時代だったというのが大きいと思う。リーマンショックで経済が瀕死の状態だったにも拘らず、景気対策としての有効な経済政策が全く打てなかったため、なんのセーフティネットも構築できないまま、ただ、ひたすら経済状況が悪化していくのを指を咥えたまま呆然と眺めているしかないような時代だった。あの時代、不況の煽りを受けて職を失った人にとっては悪夢と言うより地獄だったかもしれない。

 個人的なことを書かせてもらうと、個人投資家にとっても、投資難の時代だった。来る日も来る日も、株価は下がる一方で、ネット証券のログインパスワードを忘れてしまうほどだった。ある証券会社からは、取引が全く無いせいか、「口座管理料を徴収します」というようなメールが来たこともあった。
 そこへ、泣きっ面に蜂の如く、東日本大震災が発生、まるで日本全体が貧乏神にでも取り憑かれたかのような暗澹たる時代だった。

■国内の政治家発言ではなく、海外の政治家発言について言い争うべき

 野党の政治家が自民党に対して「悪夢のような自民党政権」と言っても、何のお咎めもなく、安倍総理に対して「悪の独裁者」と言っても、何のお咎めもなし。しかし、安倍総理が「悪夢のような民主党政権」と言うだけで袋叩きにされるのでは、あまりにも理不尽で偏っている。

 「悪夢のような民主党政権」と言うより、「悪夢のような民主党時代」と言えば、誰もが認めざるを得ないので、安倍総理もここまでバッシングされることもなかったのかもしれない。

 しかしながら、おそらく、憲法改正に反対の政党は現在ただいまも「悪夢のような自民党政権」と思っているだろうから、お互い様だろうと思う。なんでもかんでも、やることなすこと、「反対!」「反対!」と言われるのでは、「悪夢のようだ」と思われても仕方がない。

 何度も言うように、政治家の言葉の善し悪しを政治家同士で言い争われても、国民にとってはしらけるだけで何のメリットもなく国益にもならない。与党と野党の国内の政治家同士がどうのこうのと言い争うぐらいなら、政党の垣根を超えて他国の政治家の言葉に対して、言い争うべきだ。

 例えば、韓国国会議長の「従軍慰安婦問題は天皇の謝罪の一言で解決される」という発言が問題になっているが、そういった発言に対して与党の政治家や野党の政治家という立場ではなく、“日本の政治家”という立場で言い争いをするべきだ。
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官僚の不正行為が無くならない理由

■変わらない「官僚>政治家」の構図

 厚生労働省の統計不正の発覚が大きな問題となり騒がれている。先の財務省の決裁文書改竄問題と同様、官僚の不正、隠蔽問題は枚挙に暇がないが、なぜかこの国では、官僚の不正行為が全て政治家の責任に転嫁される傾向にある。

 官僚機構は時の政権と一蓮托生ということなのかもしれないが、政治家を叩いて官僚の不正行為が無くなるとは到底思えない。官僚が政治家の言いなりになる完全な事務方に徹しているのであれば、そういった理屈も成り立つかもしれないが、日本の場合、どう見ても、政治家よりも官僚の方が立場が上になっているように見える。一国の総理大臣ですら、財務省に対して命令できない(消費増税を止めろと言えない)ところを見ても、そのこと(官僚>政治家)は明白だ。

■スケープゴートにされる政治家

 実際に不正行為を行った官僚をスルーして、批判の矛先を政治家(与党)に向けるという行為自体が、皮肉なことに官僚の不正を許す構図になってしまっており、こういった本末転倒な風潮を改めない限り、いつまで経っても官僚の不正行為は無くならないと思う。

 当事者が罪を犯しても他人がスケープゴートにされることが端から判っているようなものであり、これは言うなれば、飲酒運転の身代わり代行のようなものである。
 当事者がお酒を飲んで交通事故を起こしても、マスコミや評論家の批判の矛先が当事者に向かわず、他人に向かうようなものである。運送会社の社員が交通事故を起こしても、その責任の全てが運送会社の経営者に転嫁されるようなものであり、そんな筋違いなことを繰り返している限り、一向に社員の不正行為(この場合は飲酒行為)は無くならない。

■筋違いな批判が不正を深刻化させる

 もっと卑近な例で言えば、学校のいじめに置き換えても同じことが言える。批判の矛先が実際にいじめを行った生徒ではなく、教師や校長に向かうということであれば、一向にいじめは無くならないのと同じことだ。

 財務省が不正を行えば「財務大臣が悪い!」、厚生労働省が不正行為を行えば「厚生労働大臣が悪い!」、延いては、その大臣を任命した「総理大臣が悪い!」では、一向に問題解決に向かわない。

 お役所での不正行為も、学校でのいじめ行為も、罪を犯した当事者を批判・糾弾してこそ問題解決に向かう。しかし、“違う目的”を優先するがためだけの批判に堕してしまえば、問題が解決に向かうどころか、逆に問題が深刻化してしまう。

 いじめの“加害者の人権を守る”という目的が優先され、筋違いの批判を繰り返しても、いじめはより深刻化するのと同様に、“与党を批判する”という目的が優先され、筋違いの批判を繰り返しても官僚の不正行為は無くならないどころか、より深刻化する。(実際にそうなっている)

 筋違いな批判こそが、社会全体を悪い方向に引っ張る力になっているということを知らねばならない。
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嘘が真実になる前の「大人の対応」

■賛否両論の「大人の対応」

 日本と韓国との間で起こった「レーダー照射事件」は、一向に解決に向かう気配が感じられず、いつまでも駄々をこねる韓国側に対して、ついに日本側は「大人の対応」として、韓国政府との協議を打ち切る発表を行った。

 これには賛否があるようで、「甘い」という声や、「これで良かった」という声も聞かれる。
 私自身も「甘い」と思う反面、「これで良かったのかもしれない」とも思っている。(理由は後述)

 以前のブログ記事で「日本」と「韓国」の関係を「いじめられっこ」と「いじめっこ」という表現を用いて書かせてもらった。
 その喩えで言うなら、「いじめられっこ」が「いじめっこ」に対して「大人の対応」をとるということは、「泣き寝入り」を意味し、事件の解決を放棄した単なる「事勿れ対応」にしかならない。そういう意味では「甘い」というのは正しい。

■「嘘も百回言えば真実になる」からの回避

 しかし、ここでもう1つ考えなければならないのは、ナチスのゲッペルスが言ったとされる次の言葉だ。

 「もしあなたが十分に大きな嘘を頻繁に繰り返せば、人々は最後にはその嘘を信じるだろう

 所謂、「嘘も百回言えば真実になる」という言葉の元になったとされる台詞だが、このままレーダー照射問題について日本側が韓国側を糾弾し続けたとしても、その度に嘘を付いて、はぐらかされる可能性が高い。
 相手(韓国)は罪を認める気が一切なく、嘘を言うことにも何の恥も感じていない。それは長年続き現在でも未だ行われている反日教育の為せる業かもしれないが、彼らが自らの過ちを認めて日本側に頭を下げるということは、政治的にも、およそ考えられないことでもある。そもそも謝罪することが美徳だとするような考えは、日本でしか通用しないからだ。

 他のアジア諸国において、自らの過ちを認めて謝罪するという行為は、敗北を意味する。それは反日教育は間違いだと認めることに繋がりかねないため、どんな嘘を繰り返してでも事実をねじ曲げようとしてくるだろう。既にその傾向は出ており、明らかに無理筋の言い訳を展開していることは子どもにでも感じられるはずだ。

 現在の韓国政府の姿を観ていると、嘘を言っても恬として恥じないところは中国(中共)と同じだと言える。
 このまま普通に協議を続けると、延々と嘘を繰り返し、「嘘も100回繰り返せば真実になる」という具合に、またまた日本が悪者にされてしまう可能性がある。

 嘘を100回繰り返されないため(=嘘が真実になる前)の「大人の対応」なら、応急処置としては仕方がないとも思う。しかし、それで完全に引き下がったのでは、「泣き寝入り」したことにしかならないため、別の策を講じる必要がある。
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「ゴーン・ショック」から「竹田ショック」へ

■「陰謀論だ」を疑うべき事態

 フランス司法当局が日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和会長に対して捜査を開始したことで話題になっている。タイミングから考えても偶然にしては出来過ぎ感があるため、「ゴーン氏逮捕の報復」だという説が飛び交っているようだ。

 「報復捜査」の真偽の程は不明だが、確かに十分に有り得るケースだと思える。
 こんなことを書くと、「陰謀論だ」と言う人が必ず出てくるのだが、それが妄想論か、本当の陰謀論かは、よくよく考えなければならない。
 世の中には、陰謀を隠すための陰謀論というものも有るので、真相を見抜くのはなかなか難しいのだが、直ぐさま鵜呑みにする行為も、頭から否定する行為も実は表裏一体の同じ行為だということも考える必要がある。

 ちなみに、竹田恒和会長については以前から贈賄疑惑が報じられていたので、捜査対象になっていたことは事実だ。ゆえに「やはり陰謀論だ」と言う人がいるかもしれない。しかし、捜査が再開されたタイミングがあまりにもゴーン氏逮捕とピッタリ符号し過ぎているので、フランス政府絡みの国策捜査を疑わざるを得ない状況とも言える。

■海外の経営者が恐れる国

 日本では労働者不足からの移民問題が取り沙汰されており、賛否が問われているが、ゴーン氏逮捕を海外から観ている人々は、ゴーン氏の罪の有無・多寡に関係なく、こう思っていることだろう。

 「日本は恐い国だ、こんな国では(経営者として)働けない。

 人を殺めたわけでもなく、人を傷付けたわけでもない経済犯罪容疑で、空調も無い狭い密室空間に閉じ込められ、反論は一切聞いてもらえず、ようやく仮釈放されても、まるで病院に入院していた重病人のように窶れた姿で出てくる。
 ホリエモンが仮釈放された時にもテレビにそんな光景が映っていたが、未だ疑惑の段階であるにも拘らず罪人のような扱いをされると、たとえ無実であっても罪を認めるまで解放されないのではないか?というようなイメージが浮かんでしまう。その感覚は中国や北朝鮮のような独裁国家を彷彿とさせ、同情心とともに恐怖感さえ感じさせるものがある。

 今後、日本には移民としての労働者は大勢来るかもしれないが、経営者として招かれても「働きたくない」と思われ、オファーを突き返されても仕方がないような気もする。

 『ゴーン・ショック!』(渡邉哲也著)という本には、「フランスはヨーロッパの中国」と書かれていた。
 そこまで揶揄されるフランス政府が実質上の経営を行っているルノー、そのルノーが日産を呑み込む動きを察した日産と日本政府(官僚)が国策捜査紛いの摘発を行ったというのが私の見立て(あくまでも推測)だが、あまりやり過ぎると逆に国益を損ねるのではないかとも思われる。

 しかし、今回の竹田恒和会長の再捜査によって、本当に以前に書いたブログ記事の通り、「日本政府 vs フランス政府」の構図になってしまったようだ。
 これ以上、事を複雑にしないためにも、いい加減に落としどころを探る必要があるのかもしれない。

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「レーダー照射問題」と「煽り運転問題」

■煽り運転事故を起こした大人げない韓国

 韓国レーダー照射事件は、想定の範囲内とはいえ、常識的には考えられない展開を迎えてしまったようだ。

 この問題は、少し前に話題になった自動車の煽り運転問題とよく似ている。前を走行していた自動車が嫌がらせの蛇行運転を繰り返し、後ろの自動車が停車したことによって、更にその後ろを走行していた自動車(トラック)が追突事故を起こし、死亡事故に発展してしまった。これも起こるべくして起こった想定の範囲内の交通事故ではあったが、常識的には考えられない事故でもあった。

 その常識とは何か?と言えば、先頭を走行していた運転手の“大人げない態度”であり、その非常識な行動によって、悲劇的な事故を招いてしまった。命に関わる交通事故が発生する可能性の有ることを事前に予想できたにも拘らず、それを避けることができなかった責任は、非常識な行動を取った者にある。

 今回のレーダー照射事件を煽り運転に喩えると、前を走行していた車の後部座席に乗っている人間が、意図的に太陽光を反射した手鏡を翳し、後ろの車を運転している人間に眩しい思いをさせたようなものかもしれない。

■ドライブレコーダー映像を編集する非常識な韓国

 専門的なことを抜きにして考えれば、レーダー照射行為は明らかに非常識な煽り運転行為に他ならない。その危険な煽り運転行為が後ろを走っていた車のドライブレコーダーに映っていたわけで、それを「危険な行為だから止めてくれ」と公表した日本には何の問題もない。
 一応お断りしておくと、ここで言うところの「危険」とは、交通事故が発生する危険ではなく、戦争の引き金になるという意味での危険である。

 しかし韓国側は、そのドライブレコーダーに映った証拠映像をあろうことか、編集し、あたかも映画やドラマの予告映像でも作るかのような感覚で音楽入りの演出まで加えて世間に公表してしまった。

 ここまでやることが大人げないと、1国家として社会的常識の有無が疑われるレベルであり、一般人が傍から観ても、幼稚な情報操作ごっこにしか見えず、もはや、北朝鮮と変わらないとも言える。

 政府は、危険な煽り運転行為を認めるような真似は、政治的にも人道的にも絶対に避けなければならない。
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ローラ氏「辺野古埋め立て反対発言」の行方

■ローラ氏にとっては「寝耳に水」

 タレントのローラ氏が辺野古埋め立て反対発言および署名活動を行ったことで、テレビCMのスポンサーからCMを降ろされる可能性があると話題になっている。

 このことで、またぞろ、意見が真っ二つに分かれており、スポンサー側を批判する人、ローラを批判する人、はたまた、スポンサーを擁護する人を批判する人、ローラを擁護する人を批判する人、と全く話が噛み合わないようだ。

 このような大騒ぎになることは、ローラ氏にしてみれば、おそらく寝耳に水の出来事なのだろうと思う。彼女にしてみれば、単に環境問題という意味での発言であり、美しい海辺の景観が損なわれるという意味合いで反対しているだけなのだろうと思う。彼女個人としては、政治的なイデオロギーは全く意識していないだろうことは容易に想像が付く。それは純粋に政治的に無知であるがゆえに招いてしまった悲劇だったと言えるのかもしれない。

■企業のイメージ戦略は「民主主義」が前提

 しかしながら、テレビCMのスポンサーは、タレントのイメージを買って、イメージに合うタレントをCMに起用している。化粧品のCMには顔の綺麗なタレントを、シャンプーのCMには髪の綺麗なタレントを、洗剤のCMには清潔なイメージのするタレントを、という具合に、たとえ、そのタレントが、その化粧品もシャンプーも洗剤も実際に使用していなくても(多分、使用していないと思う)、消費者に訴えかけるイメージを重要な要素としている。つまり、そこには企業のイメージ戦略が前提として有り、いかにして多くの消費者の心を掴むかが最大のテーマになる。

 となると、辺野古の埋め立てに賛成の人と、反対の人とでは、どちらが多数派を占めているか? それが、スポンサーにとって最も重要なファクターになる。
 民主主義の原則によって与党に君臨している自民党が進めている辺野古の埋め立てと、同じく民主主義の原則によって野党に甘んじている政党が反対している辺野古の埋め立てでは、どう考えても、多数派は前者であり、それも僅差ではなく、圧倒的な差が開いている。
 そんな状況で、スポンサー企業が少数派の意見を優先するようなイメージ戦略に切り替えることは、通常、有り得ない。

 本来、民主主義とは多数派の意見を尊重するという思想だったはずが、戦後、日本の民主主義は少数派の意見を尊重するものだと誤解されている。この辺はアメリカのリベラルも同様かもしれないが。

■ローラ氏が「靖国に参拝しよう」と言えば?

 では、逆にローラ氏が、「靖国に参拝しよう」と言い出し、署名活動を行った場合はどうなるだろうか?

 この場合もおそらくは、CMを降ろされる可能性が高くなるだろう。その場合は、左翼メディアによる嵐のような批判が予想されるという理由からであり、その巻き添えを防ぐというリスク回避が主たる理由になる。

 今回のローラ氏の言動は、本人が予想だにしなかった残念な結果(CM降板)を招くことになるかもしれないが、逆にメディアからは引っ張りだこになる可能性は有る。
 しかしながら、それも短期間で終わる可能性が高いと思える。なぜなら、先にも述べたように、今回の騒動はローラ氏の政治的なイデオロギーから派生した出来事ではなく、彼女の純粋さから偶発的に生まれてしまった出来事であるからだ。
 たとえ、メディアに出演し、辺野古埋め立て反対を語ってもらったところで、辺野古埋め立て反対派を利する結果には繋がらないだろうから、一時的な騒ぎだったということで落ち着くのではないかと思う。
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豆鉄砲を喰らってしまった韓国

■「日本人いじめ」を報告した日本

 最近は「徴用工問題」で世間を騒がせていた韓国が、今度は「レーダー照射問題」で世間を賑わせている。
 「慰安婦問題」にせよ「徴用工問題」にせよ、日韓の本当の歴史を少しでも齧ったことのある人なら、単なる「日本人いじめ」にしか見えないと思われるのだが、今回の「レーダー照射問題」では、ついに、いじめられっ子から反撃を喰らった格好となってしまった。反撃と言うより、いじめをチクられたと言った方が正解かもしれないが、いじめられたのであれば、先生(世界)に対して、はっきりと「いじめられました」と言うことが望ましい。そういう意味では、今回の安倍総理の判断は正しかったと思う。

 今回の「レーダー照射事件」は、かつての「尖閣漁船事件」を彷彿とさせる。当時は、与党だった民主党が中国漁船の衝突を映した証拠映像を非公開にして物議を醸したが、今回は与党である自民党が証拠映像の公開に踏み切った。この判断の違いは実に大きい。
 いじめが有ってもいじめを隠すことに躍起になる教師と、いじめが有れば、いじめが有ったと正直に報告する教師の違いとも言える。どちらが正しいかは言うまでもない。

■「日本人いじめ」政策は失敗する

 いじめというものを隠すことで、いじめっ子はさらに増長する。こんなことは、こどもでも理解できることであって、そんな卑屈な態度に徹してきたからこそ、今回のような事件も生じている。日本は何をしても反抗しないとナメられているからこそ、傍若無人な行いが罷り通ってきたのである。

 今回の問題に対して、「いじめが有ったことを公に発表すると、両者の間に対立感が増し、亀裂が生じる」などと言うのは事勿れ主義の偽善でしかなく、先頃、いじめを隠蔽していたことが明らかになった、どこかの教育委員会の姿勢と全く同じだと言える。

 おそらく、韓国(の文在寅大統領)も、今回の日本の反抗を観て、鳩が豆鉄砲を喰らったかのような顔をしたのではないかと想像する。その姿は、いじめられっ子が、いじめっ子の頬にビンタした時のようなものかもしれない。

 文在寅氏は、かつて、反日外交に舵を切り直したとされる盧武鉉政権で「盧武鉉の影法師」と呼ばれた人物であり、現在の反日の立役者のような人物でもある。
 その証拠に、彼が大統領になったことで、これまで以上に韓国は反日姿勢を強めている。

 フランスと同様、韓国経済が落ち目のため、「日本人いじめ」に活路を見出そうとしたかに見える文在寅政権、その政策は、大幅な最低賃金の引き上げ政策の失敗と同様、大きな失敗を招くことになるだろう。
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ますます『カエルの楽園』化する日本

■「ローラ」という架空のキャラクター

 ここ1週間ほど、モデルのローラ氏による沖縄の基地問題発言が話題となっており世間の注目を集めているが、ある方面では別の意味でも注目を浴びているようだ。先頃、『日本国紀』を発売しベストセラー街道を驀進中の作家、百田尚樹氏のベストセラー小説『カエルの楽園』の予言が当たってしまった…と。

 私も昨年に書いたブログ記事【『カエルの楽園』化している日本の政治】で『カエルの楽園』は現代の予言書的な意味合いを持った本と書いたことがあったが、残念なことに百田氏の予言は一部、思わぬ形で成就してしまい、日本はますます『カエルの楽園』化しつつあるようだ。

 『カエルの楽園』には、メインキャラの1人(1匹)として、「ローラ」という女性(メス)のカエルが登場する。ローラは「三戒」※というものを神聖視し、三戒さえ守っていれば平和は維持され戦争は絶対に起こらないと固く信じている純粋無垢なカエルだったが、その間違った信仰ゆえに、最期には悲劇に見舞われるという残念なキャラクターだった。そして、その悲劇すらも運命として受け入れるという衝撃的なラストが話題にもなった。

※「カエルを信じろ、カエルと争うな、争うための力を持つな」という教え

 現実のローラ氏が「三戒」のようなものを信じているかどうかは不明だが、時は米中情報戦争真っ只中、トランプ大統領の“覇権国家中国封じ”が失敗すれば、『カエルの楽園』の予言は本当に的中してしまう可能性が有る。

 そんな危険を孕んだデリケートな時代の到来を予告するかのように、数年前、奇しくもベストセラー作家の脳裏に浮かんだ「ローラ」という名前。百田氏曰く「何も考えずに付けたネーミング」とのことだが、その一瞬の閃きが、日本の行く末を暗示した天の啓示(インスピレーション)でなかったことを祈るしかなさそうだ。


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「ファーウェイ事件」から考える「南京事件」

■オープン化しつつある新たな「諜報戦」

 もう随分前から「米中戦争は情報戦争になる」というようなことが囁かれていたが、現在の「ファーウェイ排除事件」を見るに至って、ようやく氷山の一角が海上に姿を現し、全世界がその異様な姿を視認しつつあるようだ。

 「情報戦」は「諜報戦」とも言われ、これまではスパイ映画の如く、クローズドな水面下で行われてきたものだった。昔から各国間でプロパガンダを伴った諜報戦が行われてきたが、現代では、もはや、誰の目も気にすることなく、開けっぴろげ(オープン)に諜報戦が行われるようになった。それが現代における新しい「情報戦争」の姿なのかもしれない。

 中国におけるプロパガンダと言えば、「南京大虐殺」が有名だ。残虐な日本兵が南京の人々を30万人殺害したというようなことが実しやかに語られてきた(最初に言い出したのは中国人ではなく日本人とされる)が、ネット社会になって情報がオープンになると、いたるサイトで「南京大虐殺は無かった」というような話を目にするようになった。

 では実際に「南京大虐殺」は有ったのか?というと、未だ、「南京大虐殺」が有ったことを証明できた人は誰もいない。逆に「南京大虐殺」が無かったことは悪魔の証明なのでできない。
 そういう事情から、結局、この問題も「有った」「無かった」の水掛け論争になってしまうので、ここでは、単に、その可能性について考えてみたいと思う。

■あまりにも非現実的な「南京大虐殺」

 「あなたは南京大虐殺が有ったと思いますか? それとも無かったと思いますか?」

 もし、アンケートで、こう問われれば、個人的には「無かったと思う」と答えると思う。

 頭をゼロクリアして、常識的に「南京大虐殺」というものを考えてみると、どうしても受け入れ難い疑問点が生じてしまう。順を追って、書いてみよう。

 まず、村上春樹氏の小説『騎士団長殺し』に書かれている40万人説というものがあるが、これはあくまでも小説(フィクション)なので度外視するとして、一般的な30万人説はどうだろうか。

 当時の南京には10〜20万人しか住んでいなかったといわれているので、30万人というのは物理的には考えられない数字ということになる。

 では、MAXの20万人ならどうか?ということだが、これも常識的に考えると疑わしいと言わざるを得ない。
 いかに戦時中のことだとはいえ、全市民殺害ということは「一族郎党皆殺し」ということになる。しかし、日本には昔からそういったことは好まない文化がある。

 例えば、日本の戦国時代における合戦でも、殺し合いをするのは基本的には戦の場にいる人間だけに限定されていた。敵を殺したからといって、その敵の家族まで全員皆殺しにするというようなことは行われてこなかった。
 そういった戦文化の根付いた日本人が、同胞ではないという理由だけで、戦闘員でもない無抵抗な一般市民を皆殺しにしたというのは、常識的には考えにくい。

 核ミサイルのようにスイッチ1つで数十万人を殺害するのと、刀や銃で1人1人殺していくというのは訳が違う。目の前にいる生きた人間を数十万人も殺していくというような残虐非道な真似が果たしてできるのだろうか?という素朴な疑問もある。
 それはまさに狂気の沙汰であり、いかに戦時中とはいえ、そこまで人間が残虐になれるとは思えない。
 山本七平氏も『私の中の日本軍』で指摘された通り、刀で人間を切れるのは、せいぜい2〜3人が限界で、それを超えると刃こぼれを起こし切れなくなるらしい。

 そう考えていくと、物理的にも文化的にも常識的にも、一般市民を皆殺しにしたというのは、やはり無理があると思う。

■「南京大虐殺」は「南京殺人事件」だった可能性

 では「南京大虐殺」は無かったのか?と言うと、「南京殺人事件」なら有ったかもしれない。戦時中なら、そういった事件の1つや2つは水面下で起こった可能性は否定できないので、小規模な殺人事件なら有った可能性は有る。しかし、その事件を起こした犯人は必ずしも日本人であるとは限らない。

 先に「一族郎党皆殺し」を日本人は好まないし、そういった文化も日本には無かったと書いたが、実は中国には有った。中国の戦国時代を描いた漫画等を読んでも分かる通り、中国には略奪の限りを尽くす「一族郎党皆殺し」という文化が実際に存在した。
 それゆえ、中国人から見れば「南京大虐殺」の話は現実味のある話になってしまうのだが、当の日本人には全く現実味が感じられないということになってしまう。

 文化が違うと言えば、中国や韓国では犬を食べるという犬食文化がある。しかし、日本では犬は食用の家畜ではなく飼い犬・愛玩犬(パートナー)という概念が根付いているので、犬を食べるなどと聞いても、全く現実味がない。

 そんな日本人に対して、「昔、日本人は犬を大量虐殺した」などと言っても、全く現実味が感じられないので、誰もが「嘘だ」と言って受け付けないと思う。しかし、中国や韓国で、「昔、犬を大量虐殺した」と言うと、現実味のある話になってしまう。

 その時代の生き証人でない限り「南京大虐殺」の有無を断言することはできないが、「南京事件」の可能性について、先入観を捨てて、素直な目で考えてみると、「にわかには信じられない」という結論に至ってしまう。

 話が横道に逸れ過ぎたので、元に戻して締めくくろう。

 「ファーウェイ排除事件」を見ても分かるように、現代の「諜報戦」はオープンになった。それは何を意味するのかというと、これまでのように誰もが真偽不明な情報に踊らされるのではなく、真実を知った人と真実を知らない人が存在することになり、その綱引きによって諜報戦の成否が問われる時代に突入したことを意味している。

 これからの時代は、表に出回る情報だけでなく、裏に隠された情報までもがオープンにされ、その情報の真偽が操作されていることが公然の事実として認知された上で、情報の真偽が問われることになっていく。
 先述した「南京事件」の真偽も明らかにされる日は近付いたと言えるのかもしれない。
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グローバリズムは「公平」or「平等」?

 前回、と言うより、今朝書いたブログ記事では、いろんなコメントを頂いた。「グローバリズム」という言葉には、いろんな定義と解釈が有り得るので、反論や批判は覚悟していたものの、予想していた通りのコメントも散見された。
 BLOGOSのコメントに対する回答はブログの追記として書くことが多いのだが、今回は回答文が少し長くなったので、別記事としてアップしておきたいと思う。
 本記事がBLOGOSに転載していただけるかは判らないが、どちらにしても1つの記事として書いた方が人目に触れる機会は多いと思われるので、別記事として書かせていただくことにした。

 今回は、BLOGOSのYuzo Seo氏のコメントに対する意見を書いてみたいと思う。

>ここで「富豪」と呼ばれているのは、おそらくは、ビルゲイツのような、新しい産業を興した人のことでしょう。

 いや、少し違います。インターネット社会の立役者達がグローバル化を推し進めたのではなく、そのインターネット社会を利用してグローバル化を推し進めた人(グループ)のことです。

>一方、「中産階級」と呼ばれているのは、過去に成功した人たちで、そのやり方をずっと続けている人々の意味でしょうね。

 これも少し違います。正しくは、同じ能力を持って努力しているにも拘らず、グローバル化による逆差別によって、その能力が発揮できていない人々のことです。

>で、中産階級が没落したのは、彼らの富を富豪が召し上げて、発展途上国などに配ってしまったから、なのでしょうか?

 物価の異なる国々の労働者を、いきなり同一市場で競争させたことによって、結果的に中産階級が得るべき富を途上国に配ってしまったという意味です。

>そうではないでしょう。時代が変わっているにもかかわらず、過去に成功したやり方にしがみついているから没落したのではないですか?

 過去の成功にしがみついて愚痴をこぼすような人もいるでしょうけれど、ここで述べているのは、そういう話ではなくて、どんなに努力しようが埋めようのない格差(物価の差)のために割を食う労働者(先進国の労働者)がいるということです。
 なぜそんな労働者が生まれるのかというと、グローバリズムが公平ではなく平等に重きを置いたものだからです。置いたと言うよりも必然的にそう成らざるを得ないという意味ですが。

>中産階級であることは、権利でも何でもない。当人たちの努力によって維持しなければならないポジションなのですね。それをさぼってしまったら、没落するのは当たり前です。

 サボタージュによっての没落なら自業自得かもしれませんが、端から競争が成り立たない環境に放り込まれた先進国の労働者が没落することは当たり前とは言えません。

>不満を富豪にぶつけたところで、何一つ改善しない。
>真の解決策は、自らが富豪になる努力を、まずは始めることです。

 その通りなのですが、急激なグローバル化は、公平な社会ではなく平等な社会を齎すため、個人の能力や努力が無に帰すことになってしまう可能性が極めて高くなります。
 例えば、人件費が日本の10分の1※の中国の労働者と日本の労働者が競争したとしましょう。その場合、両者ともに同じ能力と同じ努力をしたとしても、仕事を受注するのは必ず中国の労働者になります。それが公平な社会と言えるのですか?ということです。

 公平な社会とは、正しい競争原理が機能してこそ成り立つものです。人件費が10分の1ということは、能力が10倍有ることとイコールです。そんな相手と競争することは競争原理以前の問題です。
 「人件費が高い国が悪い」と言う人がいるかもしれませんが、個人の労働者には何の責任もありません。たた単に先進国に生まれたというだけで逆差別される理由にはなりませんし、自己責任論も成り立ちません。100m走で90mものハンデを付けられて、まともな競争などできるはずがありません。

 ※中国の人件費は現在ではもう少し上がっていますが、ここでは話を解り易くするために、あえて10分の1としました。

 以下は私に対する直接の意見ではありませんが、私なりの考えを書いておきます。

>能力が違うなら、貧富の差が生じるのは致し方ないと思いませんか?
>同じ能力なのに、生まれた国が違うだけで貧富の差が生じる。
>後者の方がよほどアンフェアじゃないでしょうか?

 先述した通り、グローバル経済下では、人自体が同じ国に移動して、環境を揃えない限り、個人の能力や努力が正当に評価されません。先の例で言えば、日本にいたまま中国の人と競争すれば、能力が勝っていても人件費が高いという理由で貧富の差が発生することになります。急激なグローバル化は労働における公平(フェア)性を担保できないという意味で否定しているということをご理解ください。
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