経済・政治・国際

「内閣支持率」の誤謬性【「支持率」が意味するもの】

■ニュアンスで変わる「内閣支持率」

あなたは現在の内閣を支持しますか?

 こう聞かれると、現状では誰もが素直に「支持する」と答えるのは難しいのではないかと思う。「支持する」と答えるためには、現内閣に特に懸念事項が無いことが条件になるが、これだけ連日のようにテレビや新聞で与党批判がなされていると、その情報の真偽に関係なく、「支持する」と即答できる人は少なくなる。

 そのことを証明するかのように、自民党の内閣支持率は30%を切るという事態になっている。しかし、ネットでの内閣支持率は未だ50%を保っており、両者間に20%以上もの大きな開きがあることが問題視されているようだ。
 個人的な肌感覚ではネットの世論調査の方がより現実に近い数値だと思えるのだが、30%という数値もガン無視するわけにはいかないので、少しこの件について考えてみよう。

 この「内閣支持率」というものは、一体、何を意味しているのだろうか? そして、その「支持率」は本当に信憑性があるものだろうか?

 「内閣支持率」とは、無作為に選ばれた有権者に回答を求める世論調査(アンケート)の結果を表したものということになっている。しかし、仮にその世論調査に信憑性が有ったとしても、「支持」という言葉自体が、その信憑性を担保できないものにしている。なぜなら、「内閣支持」という言葉に対して個々の有権者が捉えるニュアンスは異なっており、そのニュアンスの違いによって、結果も大きく変わってくるからだ。

 例えば、「内閣支持」の意味を次の2点のニュアンスで考えてみよう。

 A、「与党として相応しい政党」という意味

 B、「現内閣に不満は無い」という意味

 この場合、「A」も「B」も反対という人は「支持できない」となるが、「A」も「B」も賛成という人は「支持する」となる。では、「A」は支持できても「B」は支持できないという人はどうなるのか? ここに「内閣支持率」の誤謬が隠されているような気がするのは私だけだろうか?

■「内閣支持率」と「内閣満足率」

 「内閣支持率」を「内閣満足率」とすれば、どうなるかを考えてみよう。

あなたは現在の内閣に満足していますか?

 こんな世論調査をすれば、「内閣満足率」は「内閣支持率」以上に下がるのではないかと思う。1つでも不満(疑惑)があれば、「内閣満足率」は急降下し「内閣不満率」は急上昇することになる。
 しかしそれは、あくまでも「満足」か「不満足」かというアンケートであって、「与党に相応しい」か「与党に相応しくない」とは別の意味合いであることに注意しよう。言葉の違い、言葉の捉え方の違いでも結果は大きく違ってくる。

 同じように「内閣支持率」というのも、何をもって「支持する」のか、何をもって「支持しない」のかがよく分からない。言葉自体に具体性がなく、あまりにも抽象的な言葉であるがために、曖昧模糊な世論調査という印象は拭えない。

 ところで、リアルとネットの間での「内閣支持率」が大きく違ってくるのはなぜだろうか?
 リアルの世論調査は対象者が無作為に人選されるが、ネットの世論調査は、ネット民である時点で既に選別されている。「政治知識」という名のフィルターをかけた分、支持率に差が生まれる。その差が、20%ということなのだろう。
 
 支持率50%と支持率30%の違いとは、簡単に言えば、2人に1人の支持者がいるか、3人に1人の支持者がいるかの違いである。
 よく言われるように、自分から能動的に情報を取得しに行く人と、マスメディアからの情報を受動的に待っている人の間には、情報格差が有る。マスコミ自身がフィルターをかけた偏った情報と、玉石混淆ながらもマスコミのフィルターがかかっていない情報の差、20%という差が意味するものは、案外、そんなものなのかもしれない。

 主にテレビや新聞から情報を得ているような人は、与党のことは理解したつもりになっていても、野党のことはあまり知らないという側面がある。
 逆に主にインターネットで情報を仕入れているような人は、与党よりもむしろ、野党(の残念さ)にも詳しい人が多いので、現内閣には不満があっても消去法的に与党としては認めざるを得ないという人が多くなる。

 本当の世論を知るためには、曖昧な「内閣支持率」の高低よりも、むしろ、リアルとネットにおける「内閣支持率」のにこそ注目するべきだ。

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「断じて容認できない」という空念仏

■「金正恩の耳に念仏」
 
 相次ぐ北朝鮮からのミサイル発射という挑発行為に対しての日本政府の対応ぶりにはゲンナリ、それが多くの国民が内心抱いている率直な感想ではないだろうか。ミサイルが発射された時の政府の発表は、以下の通りで全く変わりばえしない。

 5/14 弾道ミサイル発射 高度2000km達成

 「断じて容認できない

 5/21 固体燃料を使用した中距離弾道ミサイル発射

 「断じて容認できない

 5/29 精密誘導システム搭載の弾道ミサイル発射
     日本の排他的経済水域内に落下

 「断じて容認できない

 毎度、念仏のように唱えられる「断じて容認できない」という言葉には、いいかげんにウンザリという人は多いと思う。念力ならぬ軍事力を持ったトランプ神父が言えば、効き目があるかもしれないが、軍事力を持たない(ことになっている)日本の似非坊主では、全く効き目がないことは明らかであり、「馬(金正恩)の耳に念仏」にしかなっていない。

■タイムリミットは100日後の「7月15日」

 4月6日から7日にかけて行われたトランプ大統領と習近平国家主席の米中会談において、トランプ氏が習近平氏に対して、北朝鮮問題の説得猶予期間を「100日間」と述べたことが既に明らかになっている。
 その会談後は少し大人しくなり効果があったのかと思いきや、5月になってからは、これまで以上に北朝鮮のミサイル発射が頻繁に行われるように変化してきており、非常に危なかしい空気が東アジアに充満しつつある。

 アメリカ側は、カール・ビンソン、ロナルド・レーガンに次いで、今度はニミッツと、3隻もの空母を出撃し、弾道ミサイルの迎撃テストまで実際に行っている。単なる脅しだけでここまでするのは不自然であり、北朝鮮を覆っている不穏な空気は、いつ爆発するか分からないような状況になってきつつある。

 北朝鮮をこのまま放置しておくと、近い内にアメリカ本土まで正確に到達する核ミサイルが完成してしまうことは、ほぼ確実視されている。それまでの間に北朝鮮問題にケリをつけることはアメリカにとっても至上命題であるため、北朝鮮が核兵器開発を止めない限り、アメリカとの軍事衝突は、どのみち必ず起こるとみて間違いない。仮に今回、無事に済んだとしても、せいぜい数年延びるかどうかの違いがあるだけだろう。
 中国からの北朝鮮への話し合いでケリがつくに越したことはないが、現状を観る限りでは、話し合いで解決できるとは到底思えない。

 アメリカが具体的な行動をとるまでの猶予期間が「100日間」だと考えると、4月6日から100日後は「7月15日」ということになるので、日本で言えば、7月15日から17日の3連休辺りが「Xデー」になる可能性はまんざら否定できない。

■「断じて容認できない」のは獅子身中の虫

 実質的には北朝鮮は既に詰んでいるわけであり、命綱としての核開発を止めることは、金政権の死を意味するので、亡命する逃げ道でも用意されない限り、悲惨な最期を迎える可能性が高いと言える。
 
 しかし、これまでに自国民を虫けらのように扱い殺害してきた独裁者に、逃げるなどという手段があるとは思えないし、いつ殺されてもおかしくないほどの悪業を背負っている人物でもあるので、どんな最期を迎えても、それは自業自得としか言いようがない。同情するべき相手は独裁者ではなく、「地上の地獄」に囚われている無辜の北朝鮮国民の方だろう。そこを間違えてはいけない。


 
 7月1●日 米軍が北朝鮮に爆撃開始
       北朝鮮からの弾道ミサイルが日本本土に着弾

 「断じて容認できない

 …とならないことを祈りたいところだが、残念ながら、軍事力(自国防衛力)を持たない国では、そういう台詞を言うことしかできない。そんな台詞を言う人が悪いのではなく、そんな台詞しか言えなくなっている戦後の日本社会にこそ問題があると言える。

 それは恰も、武装した銀行強盗に銃口を向けられ、「断じて容認できない」と言っている武器を持たない銀行員のようなものであり、防犯ブザーを鳴らしても、駆けつける警察官がいない。そして、その銀行員は、銀行強盗に対してさえ暴言を吐けば、行内規程により、その銀行をクビになってしまうという、そんな不条理な社会が出来上がってしまっている。

 「断じて容認できない」という台詞は、現状では、日本から北朝鮮に対して言う台詞ではなく、日本にミサイルが着弾しなければ、考えを改めようとしない人々の存在に対してこそ言うべき台詞なのかもしれない。本当の敵は身中にいる。

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「プレミアムフライデー」よりも「バリューサースデー」

■どこ吹く風の「プレミアムフライデー」

 今年の2月から「プレミアムフライデー(プレ金)」なるものが実施され、この間、既に4回もの「プレミアムフライデー」が過ぎ去ったことになるが、労働組合の無い一般企業では、“どこ吹く風”という感じで、会社内でも「プレミアムフライデー」のことが話題にすらならない。このような浮世離れした制度を創っても、毎度のことながら、一部の大企業だけしか実施できないわけで、これで個人消費が喚起されて景気が良くなるなどというのは絵空事でしかないような気がする。

 個人消費を喚起することが目的であるのならば、「プレミアムフライデー」のようなほとんど効果の見込めない制度よりも、確実に効果が出るもっと良い方策がある。それは、「土曜日の休日を木曜日に変える」という制度、言わば「バリューサースデー」(価値ある木曜日)だ。

 なぜ、土曜日の休日を木曜日に変えることが個人消費を上向かせることに繋がるのか? その理屈をシンプルに説明してみようと思う。

■重要なのは「次の日が休みであること」

 まず、「プレミアムフライデー」というのは、午後3時(15時)に仕事を切り上げることで、仕事帰りに買い物や食事や遊興を行う人が増えるという考えが基にある。なるほど、確かに自分自身が午後3時に仕事を切り上げれるなら、ショッピングや映画でも観に行こうかという気にはなるかもしれない。

 しかし、食事(飲み)に出かけるとまでは、あまり考えない。普段から、食事(飲み)に行く時というのは、早く帰れる日ではなく、次の日が休みの日であることが重要な条件だ。「プレ金」でなくても「花金(花の金曜日)」なら、食事(飲み)に出かけるという人は大勢いる。
 次の日が休日だからこそ、夜遅くまで食事(飲み)ができるという気持ちの緩みが生まれるわけであり、いくら早く終業時間を迎えたとしても、次の日が出勤日なら、なかなか食事(飲み)に出かけようとはならない。

 日本では(世界でも)、週休2日制というのは、基本的に土曜日と日曜日の2連休になっている場合がほとんどだが、2連休だからといっても、食事(飲み)に出かけるのは金曜日の晩だけという人がほとんどだろうと思う。「花金」が「花金」である理由は、次の日が休みだということが大きい。次の日が休みという高揚感と安堵感こそが、自然と個人消費を喚起させるのである。

 次の日が休日であれば、仕事帰りに食事(飲み)に行く人が多くなる。そうであるならば、仕事帰りに食事(飲み)に行ける日を増やせばいい。そのためには、土日の連休は止めて、休日を分割すればいいのである。
 例えば、木曜日と日曜日が指定休日であれば、水曜日の午後「花の水曜日」と土曜日の午後「花の土曜日」に食事(飲み)に行く人が増える。その場合、わざわざ15時に終業する必要もなく、少し仕事帰りが遅くなったとしても食事(飲み)に行く人は増えるはずだ。“次の日が休み”という気持ちの緩みは、財布の紐の緩みにも通じている。

■実現可能で価値のある「休み方改革」を。

 これなら、現在の労働時間を変えることなく可能となるし、一部の大企業でしか実施できないというようなこともない。“働かない”“働けない”“働きたくない”というような、無い無い尽くしの「働き方改悪」ではなく、本当の意味での「働き方改革」が可能となる。
 労働時間を変更するのではなく、休日を変更するだけで個人消費は必ず上向く。これぞ価値のある「休み方改革」(休日革命)だ。

 個人消費云々以前に、実際に社会人として働いている者としては、月曜から金曜まで連続して働いて土日にまとめて休むよりも、月・火・水と働いて、木曜日に休み、金・土と働いて日曜日に休んだ方が肉体的にも精神的にも楽だと思う。どうしても連休が欲しいというなら、有給休暇を取得すればいいし、悪名高い「ハッピーマンデー制度」も2連休制度として活かせる。

 私個人の場合、土曜日も年間に半分程度は出勤日であるので、半分は他人事でしかないが、それでも2連休よりも、木曜日辺りに中休みが有った方が有り難い。
 働き過ぎで過労やストレスを感じる時というのは、連続勤務にも大いに原因があると思われるので、土曜日の代わりに木曜日を休日にすることで、3日間以上の連続勤務が無くなり、過労で倒れるような人も減少するのではないかと思う。

 そもそも、なぜ土曜日が休日になったのかというと、諸説あるらしいが、日本の場合は明治時代に公官庁で「土曜半休」が定められたことによるらしい。所謂「半ドン」のことだが、半ドンにすることで、1日半の連続休暇となり、それが進歩して1980年頃に2日間の土日連休制度(完全週休2日制度)が誕生した。

 土日連休制度は世界的な標準でもあるので、簡単には変えられないかもしれないが、政府が率先して推奨すれば、試しに導入する企業も出てくるのではないかと思う。先にも指摘した通り、労働時間や仕事量は変える必要が無いので、「プレミアムフライデー」よりもはるかに現実的であり、効果のある消費刺激策として試してみる価値(バリュー)はあると思う。

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「グローバリズム」は「キャピタリズム」ではなく「コミュニズム」

■グローバリズムは一種の共産主義

 トランプ大統領が誕生してから、「保護貿易」や「自国優先主義(自国ファースト)」という言葉が叫ばれるようになり、これまでグローバル経済を礼賛してきた経済学者や評論家達は肩身の狭い思いをしているかに見える。
 ほんの少し前までは、ボーダーレスになった(=国境が無くなった)世界で、ヒト・モノ・カネが自由に動き回る社会こそが理想だと思われていたが、ここにきてグローバリズムの問題点や矛盾点が多く取り沙汰されるようになってきた。

 「グローバリズム」という言葉を聞くと、どこか資本主義や自由主義の延長線上に存在するような感じがするし、実際に多くの人が、現在でもそう思っているのだろうと思う。しかしながら、「グローバリズム」とは、国境の無い世界で、そこに住む人々が、皆、均一化(平等化)していくことを理想としているわけだから、よくよく考えてみると、これは一種の共産主義に近い思想でもある。

 グローバリズムの問題点を一言で述べるとすれば、それは、「平等性を求めるあまり、公平性が失われた」ことにあるのだと思う。

 資本主義は基本的に一物一価の「公平性」を追求するシステムなので、「平等性」を追求するグローバリズムは資本主義の延長線上にあるシステムではないとも言える。
 しかし日本では、共産主義者がグローバリズムを批判していたり、資本主義者がグローバリズムを礼賛していたりするのでややこしい。
 「公平性」に重きを置いた反グローバリストと、「平等性」に重きを置いた反グローバリストは、全くの別物なので注意しなければいけない。

■労働者を逆差別してきたグローバリズム

 例えば、同じ仕事能力を持った日本人と中国人がいたとしても、人件費が10倍も違うと競争にならない。グローバリズムでは、この問題を「人件費が違うのだから仕方がない」と片付けられてきた。まるで人件費の高い国が「」で、人件費の安い国が「」であるかのように。しかし、能力が同じであるのに、人件費が安い方だけに仕事が流れ、人件費の高い方には全く仕事がいかないというのは、個人の公平性を考える上では、極めて重大な問題である。
 同じ環境における人件費の高低で仕事の行き先が決まるのは仕方がないが、環境が全く異なる国家間の人件費の違いで仕事の行き先が決まるというのは、平等であっても公平ではない。

 あるいは、その日本人の能力が中国人の2倍だったとしても日本人は仕事を得ることができず中国人ばかりに仕事がいくとなると、個人の能力や努力という資本主義社会で最も重要な要素が全く意味を為さないことになってしまう。国家間の格差を無くすために個人の能力が無視されるというのでは、社会主義そのものだとも言える。

 人件費が高い国といっても、誰も好き好んで人件費の高い国に生まれているわけではない。同じように、人件費が安い国といっても、誰も好き好んで人件費の安い国に生まれているわけではない。人的資質を無視し、環境(物価や人件費)の違いだけで労働者を逆差別するシステム、残念ながら、それがグローバリズムの実際の姿だったとも言える。

■グローバリズムの必然だった「金融緩和」

 そういったグローバル経済下の歪な環境(物価や人件費の違い)を調整するという意味合いで行われてきたのが先進国(人件費が高い国)における「金融緩和」政策だった。グローバル経済下では、少しでも自国の通貨を安くすることが善と成り得た理由はそこにある。資本主義下におけるバラマキ政策は批判の対象となるが、グローバル経済下では話が違ってくる。それは単なるバラマキではなく、個人の努力ではどうすることもできない環境格差を埋めるために必要な政策だった。
 そんな切羽詰まった状況であったにも拘らず、頑として金融緩和を否定していた人々というのは、何だったのだろうか?と思う時がある。

 生まれた国の人件費が高いという理由だけで、能力が有るにも拘らず逆差別されてきた労働者、そんな労働者に対する慈雨としての「金融緩和」を否定していた人々というのは、きっと、一生食うに困らない金融資産を有した資産家達だったのだろう。もし、そうでないとすれば、グローバリズムを全く理解していなかった人達なのだろう。
 少し意地悪に言うなら、彼らは「ヘタに金融緩和などを行って、ハイパーインフレにでもなれば、私の一生遊んで暮らせるお金が紙クズになってしまうではないか!」というような底意を持っていた人々だったのかもしれない。

■トランプ大統領のジャパンバッシングは的外れ

 トランプ大統領が安倍総理に親近感を感じるのは、金融緩和を行ったことによって円安となり、中国に流れていた仕事の一部が日本に戻ってきたという実績を評価してのものだろうと思う。安倍総理がそこまで理解した上で金融緩和を行ったのかどうかは判らないが、アメリカ人から観れば、結果的には自国ファーストを実践した人物に映るのだろうと思う。

 ところで、個人の能力や製品が優れていれば、正当に(公平に)評価されるのが資本主義でありトランプ大統領の目指す反グローバリズムであるのならば、トランプ大統領のトヨタ批判は的外れもいいところとなる。

 例えば、同じ性能のアメリカ車と中国車が市場に出回って、人件費の安い中国車だけが売れるというのであれば、それは是正しなければいけない問題かもしれないが、現状ではそれほど人件費が違わないアメリカと日本を比べて、日本車が売れ過ぎているという批判は筋が通らない。ほぼ同じ土俵で競争しているのであれば、能力の違い、車で言うなら性能の違いで評価しなければ辻褄が合わないことになる。反グローバリズムであるからこそ、先進国同士の競争は正当に評価しなければいけない。

 先述した通り、グローバリズムの問題点は「平等性を求めるあまり、公平性が失われた」ことにある。世界中の労働者が同一の環境で競争するという社会の到来は、結果としては理想の社会では有り得ても、そこに行き着くためには手段を選ばないというような狭量な考えを持つようになると、世界経済(特に先進国の経済)は疲弊し、労働者は困窮し、理想の社会とは似ても似つかないディストピアを招くことにも成りかねない。

 「平等」を追求するか「公平」を追求するかの違いで、社会は大きく変わってしまう。「平等」思想が世界を覆い、闘争と破壊を齎した20世紀を反面教師とすれば、グローバリズムの本質が「平等」であった場合、その行き着く先は、極めて厳しい世界である可能性が高い。
 その危険性に気付いたトランプ大統領であるのならば、「公平性」をこそ旨としてほしい。

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アメリカに睨まれた北朝鮮【キングコング vs モスラ】

■『国家権力』と『シン・ゴジラ』

 前回の記事で、「憲法9条で縛れるのは自国の国家権力のみ」と書いてみたところ、BLOGOSの方で「左派の人々もそんなことは解っている」というようなコメントを頂いた。
 なるほど、確かに日本の左寄りの人々には「国家」を敵視する人が多いので、憲法が国家権力に対抗する武器であることは理解していて当然かもしれない。
 しかし、もしそれが本当であるなら、左派の人々というのは、日本国内さえ平和であれば、それで良いとする利己主義者だということになってしまう。
 彼らの論法からいけば、憲法9条(平和憲法)が機能していれば、日本が戦争を起こすことはなく、他国から戦争を仕掛けてこない限り、日本は平和なわけだから、戦後70年間、日本が平和であったのは自明の理ということになる。しかし、それが解っているのであれば、彼ら平和主義者が本当に考えなければいけなかったのは、他国から戦争を仕掛けられた場合に、どうやって平和を維持するのか?ということであったはずだ。

 「国家とは人間の富を略奪する無敵の暴力団である」というのは経済学者の故竹内靖雄氏の言葉だが、「国家」というものをもっと解りやすく喩えるなら、昨年話題になった映画『シン・ゴジラ』のようなものだとも言えるかもしれない。
 個人的に、あの映画はあまり面白いとは思えなかった(失礼)が、「国家」というものを暗喩(メタファー)として描いている点は興味深かった。製作者がそれを狙ったのかどうか定かではないが、あのような、頑強でどんな攻撃も通じない巨大な怪獣こそがホッブズが著した『リヴァイアサン』、もとい「国家」の正体でもある。(もちろん、喩え)

 そういった前提(国家は怪獣という前提)に立って、話を進めてみよう。

■『モスラ対ゴジラ』ではなく、『モスラ対キングコング』

 暴走した国家ならぬゴジラは危険だ。暴れ出すと人間では手に負えないゴジラは鎖で雁字搦めに縛っておかないといけない。それはその通りではある。しかし、それはゴジラ以外に怪獣がいない場合の話であって、例えば、日本の外から、モスラがやってきた場合は、その鎖を解いて、ゴジラに威嚇、または戦ってもらわなければいけない。

 現代の日本が置かれている状況は、ゴジラが仮死状態に置かれているようなものであり、20年以上前からモスラが空から攻撃してくる危険性があったのに、ゴジラを縛っている鎖を全く緩めようとしなかった。
 「ゴジラが身動きできないように鎖で縛っておかなければいけない」「ゴジラを縛っている限り安心だ」と言い続けてきたのが、他ならぬ護憲派(平和主義者)の人々の姿だと言える。

 ゴジラが動ける状態であるなら、モスラは日本に攻めることを躊躇うかもしれないが、ゴジラが動けなければ、モスラは攻めやすくなる。これも自明の理だ。ゴジラは70年もの間、鎖に繋がれたまま動けない状態だったので、足腰も弱り、もはや自力では立ち上がれなくなってしまった。ゆえに、キングコングという外国の怪獣に頼るしかないというのが現在の日本の状況だろう。

■トランプ大統領の暗喩としての『キングコング』

 ハリウッド映画には、暗に世相を反映した映画が多いのだが、今年3月に公開された『キングコング:髑髏島の巨神』は、ある意味、トランプ大統領の暗喩になっているような気もする。(本作がクランクインしたのはトランプ氏が大統領になる前のことなので、偶然の産物だが)
 映画では、毎度、愚かな人間に殺されて終わるキングコングだが、今年、蘇った巨大なキングコングは一味違っていた。これも世論(リベラルメディア)によって社会的に抹殺されずに生き残ったトランプ氏を表しているかのようだった。
 髑髏島のキングコングは、自らの縄張り(聖域)を荒そうとする不届き者には容赦なく正義の鉄槌を加える。この部分もまさしくトランプ大統領そのものだ。

 日本は自国民を拉致されても奪い返すこともできず、「ミサイルを撃ち込むぞ」と脅されても抗議するだけで何の抵抗もできずに泣き寝入りすることしかできない。もし、北朝鮮が多くのアメリカ人を拉致すれば、アメリカは泣き寝入りすることなく命懸けで奪い返すだろうし、「ミサイルを撃ち込むぞ」と脅されれば、黙っているはずがない。
 抗戦的に見えたとしても、それは「国家」として当たり前の態度であり、指をくわえて見ているしかない日本の方が可笑しいのである。それは「国家」としての体を為していないということを意味するからだ。

 「ゴジラは縛られているが、キングコングが守ってくれているので、モスラは攻めてこない。」あるいは「ゴジラを放とうと放つまいと、キングコングがいてくれるので関係がない。」というような意見は、要するに、「ゴジラは無力だ」と言っているに等しい。換言すれば、「日本は無力だ」ということになる。
 それが、国家としての当たり前の状態なのであれば、実に大きな自己矛盾を内包していることになる。なぜならそれは、日本の左派が敵対するべき「国家」が無力であると言っているに等しいことになるからである。(=無力である国家に敵対する意味がない)

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今そこにある「北朝鮮クライシス」

■軍事的「失われた20年」

 先日(4月15日)の北朝鮮発の有事危機は、マスメディア内で箝口令が敷かれているのではないか?と思えるほどに、ほとんど無視されていたが、その後は、さすがに無視できなくなってきたのか、有事を想定した話もちらほらと出てきつつあるようだ。
 政府も、北朝鮮から弾道ミサイルが飛んで来た場合の対処法を政府ホームページに掲載するに至っており、徐々に緊迫した空気が漂いつつある。

 北朝鮮が最初の核実験を行ったのが2006年のことであり、ミサイル発射実験に至ってはその10年以上も前から行われてきた(1993年に日本海にノドンを発射)。
 そう考えると、もう20年以上も前から脅威は存在しており、この20数年間は日本にとって、経済だけでなく、軍事に関してもまた「失われた20年」だったわけだ。この、今そこにある危機(北朝鮮クライシス)に対して、警告を発していた識者は大勢いたが、何ら具体的な策を講じてこなかったツケが一気に顕在化しつつある。

■「憲法9条」の平和的効能は日本にしか効かない

 「憲法9条があれば戦争にはならない」という呪文を信じ、軍事防衛力(戦争抑止力)を否定し続けてきた人々の罪は重く深い。肌で感じられる開戦危機を生まれて初めて経験し、ようやくそのことに気が付きはじめたのかもしれないが、今回の「北朝鮮クライシス」で日本が戦渦に巻き込まれ、多くの死傷者が出た場合、彼らはそれでも「憲法9条があれば戦争にはならない」と言うのだろうか?

 そもそも、憲法というものは、自国の国家権力を縛るためのものであり、自国が戦争を始めることを抑止するためのものであって、他国のそれには何の関係もない。日本が戦争を起こさないようにするために用意されたものが現在の日本国憲法であり、「憲法9条があれば戦争にはならない」のではなく、「憲法9条があれば(日本からの)戦争にはならない」というのが正しい認識だ。憲法9条を北朝鮮に輸出し、金正恩がその憲法を正式に採用でもしない限り、北朝鮮が戦争を起こすことを止めることはできない。
 憲法に縛られ戦争を起こすことのできない日本で反戦デモなどを行っている暇があるのなら、北朝鮮に行って命懸けでデモを行うべきだ。それができてこその平和主義者だと言えるが、そんな人は誰一人としていない。

 アメリカと北朝鮮がチキンゲームを展開できるのは、両国ともに核兵器(戦争抑止力)を保有しているからであり、日本の場合は、事実上、チキンゲームを行う権利すら有していない。
 ピストルを持った強盗にネゴシエーションできるのは同じく武器を持った人間だけであり、相手に恐怖感を与えることができない限り、対話にはならず交渉の席に着くことも叶わないため、チキンハートで怯えるしかない。

 原罪を背負わされ、武器を放棄し、「悪さをしてはいけない」ということが書かれた「お守り」を持っているだけでは、強盗を縄で縛ることはできない。
 こんな子供でも解るようなことが解らないまま放置され、平和ぼけの太平の世を微睡みの中で過ごしてきたのが日本という国であるということを知るべき時期が来たのかもしれない。
 願わくば、被害が出ずに平和裏に解決されんことを…。

【追記】2017.4.22
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>9条が無ければ日本が韓国飛び越えて単独で北朝鮮を攻撃する能力を20年間で持てたとでも言うのだろうか。

 攻撃する能力を持てたか持てなかったかという話ではなくて、抑止力について考えることすら遮ってきたことが問題だと言っているのです。

>憲法9条も、先の侵略戦争の反省も踏まえて、二度と日本が戦争を起こさないようにするのが目的の条文であって、

 「侵略戦争の反省」という言葉自体、憲法と同様、戦勝国側が創作したフィクションである可能性の方が高いと思いますが。

>例え、その草案を提案したのがGHQであったとしても、憲法9条を支持して、ずっと守り抜いてきたのは、大多数の国民自身。

 あなたが言っていることも、結局のところ、何が真実かを考えることもなく、鵜呑みにして守り抜いてきたということですね。

>左派の連中(というか右派以外のほとんどの国民)の誰も、憲法9条が、他国の武力行使にまで適用されるとは思っていない。

 ではなぜ左派の人達は、殊更に「平和」という言葉を使用するんでしょうか? 「平和」は1国の中だけで実現できるものではないはずですが。

>日本でデモを行っているのは、安倍政権が日本を戦争ができる国に(日本から戦争を行えるように)変えようとしているから。

 安倍政権は単に「防衛できる普通の国」にしたいだけだと思いますが。大体、現代の恵まれた日本という国で戦争がしたいなどと考えている人が本当にいるかどうかも疑わしいし、戦争をする合理的な理由が見当たりません。それに、安倍総理が独裁者であるなら、とうの昔に憲法は改正されているはずです。独裁者というのは、反対派の声に耳を傾けることもなく暴政を行う人物のことを言うのであり、支持率が60%も有るのに憲法も変えれない、古今東西、そんな反対論者の気持ちを慮る気弱な独裁者がどこにいるんでしょうか?

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トランプ流の北朝鮮「無血革命」

■戦わずして勝ったトランプ大統領

 昨日(4月15日)の北朝鮮で行われた金日成生誕105周年の祝賀軍事パレード日は、ネット界隈では「Xデー」とも噂され、一部では開戦前夜を思わせるような物々しい空気が立ちこめていたが、結局、北朝鮮による核実験もミサイル発射も行われなかった。
 アメリカの警告が無ければ本当に両方とも行われていた可能性が高かったと思われるが、トランプ氏の存在が大きな心理的防波堤の役割を果たしたことは間違いなさそうだ。

 この先、どう転ぶかはまだ予断を許さないものの、今回のアメリカ側の一連の言動が全て計算づくだったとすれば、実に見事な戦略だったと思う。1度目は6日、シリアに対する青天の霹靂とも言えるトマホークミサイル59発の発射攻撃、その後、13日にはイスラム国に対して大型爆弾モアブ(MOAB)を実戦で初めて使用。その上でアメリカ最強の航空母艦カール・ヴィンソンを北朝鮮近海に派遣。
 「二度ある事は三度ある」というのは日本のことわざだが、ここまでやると「三度目の正直」が有ると思わせるには充分な心理作戦だ。
 アメリカは今回、結果的には「戦わずして勝つ」を実践したと言える。これで北朝鮮が大人しくなれば、まさにトランプ流の「無血革命」とも呼べそうだ。

■2つの戦争抑止力が判明

 軍事パレードには各国の報道陣が多数招かれていたので、ある意味、人質としての役割を果たしていた。そういう意味では、チキンゲームの様相を呈していたとはいえ、軍事的に圧倒的優位にあるアメリカが「北朝鮮が核実験を行おうとすれば攻撃する」と警告している状況下で、北朝鮮側が本当に核実験を行うのは自殺行為だ。それが解らないということであれば、本当に見境の無い狂った独裁者ということになるが、幸か不幸か、己の命は惜しいと思う理性(判断力)は有していたらしい。

 この先、北朝鮮がアメリカにビビって、兵器開発から徐々にフェードアウトしてくれることを願いたいところだが、他国を脅すことで成り立っていたような国が、直ぐさま良い国になるとは考えにくい。1番恐いのは「窮鼠猫を噛む」というような状態になることだ。無論、その「猫」には日本も含まれるので、防衛力の強化を急ぐ必要がある。森友問題や芸能人の不倫問題などというチンケな問題で騒いでいる場合ではない。

 ところで、今回の有事危機は、テレビではほとんど報道されなかった。ヘタに危機を煽ると国民がパニックになるというマスコミお得意の“忖度”だったのかもしれないが、国民の知る権利というものが無視されているように感じざるを得なかった。
 これまでも「ギリシャ破綻危機」だとか「中国バブル崩壊危機」だとか「イギリスEU離脱危機」だとか、ほとんど何の影響もなかったような小事には嬉々として大騒ぎする反面、今回のような「北朝鮮開戦危機」という国民の命に関わる重大事には黙りというのは明らかに矛盾している。

 あるいは「憲法9条」が有れば有事にならないという神話にヒビが入ることを恐れて報道しづらかったのかもしれないが、図らずも今回の出来事で、戦争抑止力と成り得るのは「憲法9条」ではなく、「強大な軍事力」と「ハッキリと意見を述べる実行力を伴ったリーダーの存在」であることは判明したと言える。

【追記】2017.4.17
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>今朝、北がミサイルを発射したことで、筆者の主張は木っ端みじんに破壊されましたね。
間違いを認め謝罪すべきでしょう。

 ミサイルを発射したと言っても記念日から1日遅れ、しかも失敗ですが…。おそらく故意の失敗とみるのが妥当なところだと思います。
 なぜ核実験を行わずにミサイル発射を優先したのか?
 なぜ都合よく失敗したのか?
 なぜ2弾目を打たなかったのか?
 これらを勘案すると、「様子見」が目的だったと考えるべきでしょうね。「打つ」と言っておいて全く何もしないわけにもいかず、かといって成功するわけにもいかない。挑発行為にならないギリギリの選択肢がミサイル打ち上げ失敗という手段だったのでしょう。上層部が仕組んだのか、それとも技術者側がアメリカの反撃を恐れて敢えて失敗したのかは判りませんが、そういう狙いで行われた可能性が高いと思います。実際、北朝鮮の国民にはミサイルを発射したことも失敗したことも伝わっていないそうなので、軍のメンツを保つために必要だったのかもしれませんね。(あくまでも推測ですが)

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国民の真意を忖度しない政治家達

■「築地市場移転問題」と「森友学園問題」

 現在、国民的問題として世間で大きく騒がれ注目されている事件と言えば、「築地市場移転問題」と「森友学園問題」の2つになるのだろうか。
 この2つの事件については、個人的にそれほど興味も涌かなかったのでブログ記事にも書いてこなかった。どちらの問題も「A」か「B」か?という二者択一問題だが、凡その結果は始めから出ているように思う。

 「築地市場移転問題」については、最終的には、いずれ「豊洲」に移転することは目に見えている。現状は落としどころを探る期間であり、その空白期間を小池百合子氏が政治的(ポピュリズム的)に上手く利用しているところだと思われるので、時を待てばそのうち妥協点が見つかるのだろうと思う(もちろん結果的には豊洲へ移転となる)。

 「森友学園問題」については、単なる政治的茶番であり、益の無い愚かな政争にしか見えない。主要3野党にとっては降って涌いたかのような絶好の政争ネタだったと思われるが、結果の白黒はどうであれ、こんなショボいネタで与党批判に明け暮れても、政治家としての信用や威厳を失うだけだろうと思える。「肉を切らせて骨を断つ」ではなく「骨を切らせて肉を断つ」になっているように見える。

■「大事の前の小事」と「小人閑居して不善をなす」

 有権者の1人として正直なところを書かせていただくと、多くの国民は、むしろ「こんな小事はどうでもよいではないか! 政治家の本来の仕事をしよう!」と一喝してくれるような野党政治家が出てくることを望んでいるわけで、国民の生活とはほとんど関係のないショボいネタで鬼の首を獲ったかのように狂喜乱舞するような節操のない政治家には政治を任せたくないのである。最近流行りの「忖度」というインテリ用語を使用するなら、国民の真の願い(ニーズ)を忖度できていないことが間違いなのである。

 現在、無駄に騒いでいる政治家達には、「小人閑居して不善をなす」という言葉の意味を考えていただきたいと思う。多くの国民が、この騒ぎを観て頭に浮かんでいるのは、「小人閑居して不善をなす」という野党に対する疑念であり、間違っても与党に対する疑念には転化しないということを知る必要がある。
 「大事の前の小事」の“小事”にだけ心が囚われているような政治家になっていないかどうか自問自答してみることをオススメする。大事が見えない(または見えないふりをする)からこそ与党になれないということも併せて考えていただきたい。国民の真意を理解すること、それこそが現代の政治家に求められている「忖度」なのである。

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アマゾン「無料配送」ビジネスの功罪

■「フリービジネス」の前提とは?

 先月、「アマゾン配送料は値上げに向かう」という記事を書いてみたところ、奇しくも今月、ヤマト運輸が「27年ぶりに送料値上げする」との報道が為された。その時点では、アマゾンとの交渉にも入ったと伝えられていたが、現状では、アマゾン側は「無料配送サービス」を維持したいとの意向らしい。

 一頃、騒がれた「フリービジネス」とは、ことわざ的に言うなら「損して得を取れビジネス」のことであり、サービスを無料(又は激安)にすることによって顧客を大量に獲得するビジネスモデルのことを意味する。しかし、フリービジネスが成り立つためには、基本的に以下の2つの内のどちらか一方を満たしていなければいけない。

 1、集客することによって別の方法(広告収入など)で利益が生まれる。

 2、ある程度の顧客数に達すると料金を値上げする。

 大抵のネット通販企業は広告収入ビジネスにも手を出しているとはいえ、その収入の一部が配送業者に行き渡るわけではないので、基本的には「」の、ある程度の顧客数に達すれば有料(値上げ)に切り換えるしかない。そうしない限り、旺盛なフリービジネス需要に呑み込まれて、配送業者はジリ貧になっていかざるを得なくなる。「フリービジネス需要」と言えば聞こえは良いが、その実は「他者の利益を奪う欲望」のことである。

■「無料配送サービス」は「フリービジネス」

 アマゾンの「無料配送サービス」も元々は「フリービジネス」の一環であり、ある程度の顧客数に達すれば有料化するのは当然のことであると思われるのだが、一度下げた料金を上げる(元に戻す)という芸当は、デフレ思考が蔓延した日本社会では、外資系のアマゾンですら抵抗があるのかもしれない。
 大盤振る舞いの「プライム会員制度」が値上げの足枷になっているとも考えられるが、無料配送を止めるとなると、根本的なシステム自体を見直す必要に迫られるため、おいそれとは変更できなくなっているのかもしれない。

 プライム会員の年会費は3,900円であり、固定収入が入ることを目的として生まれたシステムだと思われるが、実際にプライム会員になっているような人は、3,900円分以上のサービスを要求(活用)しているわけで、例えば、2,000円分のサービスを利用するために3,900円も支払うような人はまずいない。
 プライム会員システムというものも、3,900円を超えたサービスは全て無料になるというシステムであり、食べ放題のような物理的な上限のあるシステムではなく、青天井システムであるという点ではフリービジネスだと言えるかもしれない。

■完璧な物流システムの盲点

 現状では、書籍を含まない買い物は2000円分以上購入しないと無料にならないということになっているが、漫画コミック1冊を無料で配送するというようなシステムが、本当にいつまでも維持できるものだろうか? そもそも「無料配送」というようなものは期間限定のキャンペーン価格として用意されたものであるはずだが、いつの間にか、そのシステムが常態化してしまったとも言える。スーパーのチラシでよく見かける客寄せを目的とした赤字覚悟の激安キャンペーンが年がら年中行われているようなものとも言えるわけで、そんな無茶なシステムがいつまでも維持できるとは思えない。

 傍からは、完璧な物流システムを構築したかに見えたアマゾンだが、デジタル化できるシステムとデジタル化できないシステムの狭間で行き詰まることになってしまった感がある。ネット通販システムはデジタル化されて効率化が進んだものの、取り扱う商品はリアルな物であるため、配送システムがパンクするとか、アスクルのように物理的な障害(火事)で一瞬で大きな損失を被るリスクも生じる。数百年後か数千年後にテレポーテーション技術でも発明されれば、全て解決するかもしれないが、現状では、その隙間に新たなビジネスが生まれる余地が有るという程度で、当分の間は、右往左往することになるのだろうと思う。

 アマゾンが無料配送サービスを止めれば、顧客が一時的に減少することは避けられないが、それでもネット通販を利用する人々は増加の一途を辿っていることは間違いないのだから、ジリ貧になるわけでもない。
 しかし、無料配送を請け負う宅配業者がいなくなれば、巨大なネット通販システム自体が崩壊してしまうというリスクが有るということも考えるべき時期を迎えている。「安ければ良い」というミクロ経済論者達も、その考えを改める時期に来ているのかもしれない。

【関連記事】ヤマト運輸問題でアマゾン配送料は値上げに向かう
      図書館は「フリービジネス」と成り得るか?

【追記】2017.3.19
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>「無料配送」って。。
ほんとに配送料が無料って思っているんだろうか?

 当ブログの方にも同じようなコメントがありましたが、無論、ヤマト運輸が無料でアマゾンの商品配達を請け負っているというわけではありません。そんなことは常識的に有り得ませんので、わざわざ書くまでもないことです。本記事では、送料に差別化を設けていることを問題視しています。有料配送と無料配送の間には明らかに価格差がありますので、当然、その分はマイナス(無料分)が発生しているという意味です。

>送料無料はアマゾンと購入者間でのことで、過去から現在いつの時でもアマゾンとその宅配業者間での契約は無料ではありませんよ!

 これも同上ですが、そこまで言うのなら、漫画コミック1冊(400円)の具体的な内訳(送料)を明示してください。BLOGOSの読者にも参考になると思います。

>文章が稚拙でストレス
チェックされてないのか

「チェック」というのは私に対して言っているのか、それともBLOGOS編集部に対して言っているのか判りませんが、1時間程度で書いた個人の非商業ブログ記事(趣味の日記)に細かい注文を付けられても困ります。

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ヤマト運輸問題でアマゾン配送料は値上げに向かう

■アナログ仕事から脱せない宅配業務

 昔に読んだ評論家の竹村健一氏の『金融を知らんと明日は大損!』という本の中に、これから高成長する業種は「金融」と「通信」と「運送」だと書かれていたが、それから20年近く、情報革命化と歩調を合わせるかのように、この3業種は拡大の一途を辿ってきた。
 この3業種の中で現在、最も注目されるようになってきたのが「運送」であり、ネット通販の隆盛により、様々な問題点が表面化しつつある。
 データを扱うことが主流になった「金融」や「通信」と違って、「運送」の場合、荷物をデジタルデータにはできないので、どこまで時代が進んでも人間が荷物を運ばなければいけない。書籍や映像、音楽、ゲームなどデジタル化が可能のものはこの限りではないが、電器製品や衣類、日用品等はどこまでいってもデジタル化は不可能なので、人間が配達するしかない。

 最近は、仕事が多くなり過ぎたヤマト運輸の報道もよく耳にする。
 ヤマト運輸の場合、アマゾンからの請け負い仕事が多くなり過ぎたことによる長時間&超過密業務が問題となっており、仕事量を減少させる方向に調整されるとの噂も飛び交っている。政府が「働き方改革」を標榜しているので、宅配業務の過労問題がクローズアップされる前に先に手を打ったのかもしれないが、いずれは見直されるべき課題だったのだろうと思う。

■未だ現実味のないドローン配達

 アマゾンの宅配業務は佐川急便が8年間務めた後、ヤマト運輸に変更となって4年を迎える。ヤマト運輸の配送人員を増やせばいいという意見も聞かれるが、実際に人員は増やしているらしい。しかし、あまりにも人員を増やし過ぎると人件費も跳ね上がることになり、運送料も上げなければ採算が合わなくなる。
 運送業者はヤマト運輸だけではないので、アマゾンが配送料値上げを素直に受け入れるかどうかも分からない。

 ドローンを使用できるようになれば解決するというような意見もあるようだが、これも今のところはまだ試験段階であり、各家庭の玄関先まで商品を配送するなどという芸当がそう易々と実現できるとは思えない。仮にできたとしても、受け取り人が不在ならどうするのかという問題もある。荷物によっては防犯の問題や危険性の問題もあり、それなら、コンビニで受け取る現在のシステムの方が優れているという人もいるだろう。

 空を見上げれば、宅配用のドローンがいつも飛んでいるというような光景は想像できても、リアルさが全く感じられず、未だSFの領域に近いと思える。
 自動運転車にしても宅配ドローンにしても、テクロノジーだけが先行して進んでいるだけで、未だインフラが全く追い付いていない状態であり、どんな事故が起こるかさえ分からない。もし事故が発生した場合には、どういった問題に発展するかというシミュレーションすらできていない状況だろうと思う。
 オスプレイ墜落問題のように、ドローン墜落問題もそのうち問題視されるようになるかもしれない。オスプレイであれだけ騒がれるのだから、ドローンが無音で家屋に墜落したなどという事故が発生した場合、「ドローン反対!」と言うような人が大勢出てくるかもしれない。

■「ヤマト運輸」の配送問題は「すき家」のワンオペ問題と同じ

 ヤマト運輸の配送員の給料を上げればいいという意見もあるが、給料を上げれば解決する問題ではないだろう。かつての「すき家」のワンオペ問題と同様、昼食を食べる時間もないほどに多忙なことが問題なのだから、給料を上げたからといって、人員が確保できるとは限らない。実際に「すき家」でも、時給を上げたところで逃げ出すアルバイトを引き止める効果は無かった。
 ここはやはり、「すき家」を見倣って、仕事量(仕事時間)を減少させる方向で手を打つのが得策だろうと思う。その場合、アマゾン側がヤマト運輸以外の運送業者とも手を組まなければいけなくなる。もしそれが不可能ということなら、ヤマト運輸も佐川急便と同様、撤退するしかなくなる。
 しかし、佐川急便やヤマト運輸の代わりを担う宅配業者が有るとは思えないし、仮に有ったとしても佐川やヤマトの二の舞(三の舞)になってしまう可能性が極めて高い。

 いずれにしても、現状のシステムではアマゾンの宅配業務を継続していくことは難しくなってきていることは間違いない。どう転んだとしても、おそらくアマゾンの配送料は上がる方向で調整が進むのではないかと推測する。ネット通販の無料配送や激安配送は、大きく見直される方向に進みそうだ。
 ネット通販の3大メリットである「早い安い動かなくてもいい」の「早い・安い」のどちらか1つは削られていくことになると思われるが、それは社会全体で考えれば良いことなのかもしれない。三兎を追って二兎が手に入るのであれば、それで満足するべきなのかもしれない。
【関連記事】アマゾン1円販売モデルの行方
      「すき家」の誤算【見えない付加価値】

【追記】2017.2.27
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>ただ、この「自由人」氏という筆者は、わりと最近、「1日8時間労働にこだわる必要はない。今はもっと短くて良い時代だ。8時間もする仕事がない」みたいなことを何度か力説していたので、その主張と、今回の宅配現場の過酷な労働状況の議論とはどういうふうに両立しているのかどうか、一度たずねてみたいものです。

 職種によっては8時間もいらない仕事もあれば、8時間では全く足りない仕事もあるのは当たり前の話であって、なぜ全ての会社や仕事を十把一絡げにしなければいけないのか意味不明です。「8時間」という時間に囚われる問題と、仕事量の多寡の問題は全くの別問題であって、分けて考えるべきであることは普通に考えれば解ることです。

>1日8時間にこだわる必要がないどころか、1日24時間あっても足りないような現場があって問題になっているわけですが。

 これも、ただの言い掛かりにしかなっていません。分けて考えるべき問題を「同一に考えろ!」と言っているようなものですから、誰が考えても無理ゲーです。

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