経済・政治・国際

米朝首脳会談中止は「想定の範囲内」

■「トランプ大統領と金正恩」は「水と油」

 トランプ大統領と金正恩との会談光景というものは、想像しようとしても、あまりにも現実味がなく、頭に浮かばない。もし、その光景がありありと頭に浮かんだとしても、それは妄想の類いであり、決して未来の光景を正確に映したものではないとも言える。
 仮に本当にそのような現実が眼前に繰り広げられたとしても、それは一時の気の迷い、蜃気楼か幻のようなものだと思った方がよいかもしれない。
 
 トランプ大統領と金正恩との会談、それは恰も警察官と犯罪者、善人と悪人、有神論者と無神論者の会談のようなものであり、本心では決して交わることのない水と油のようなものである。双方が語りかける言葉は、「リップサービス」(トランプ)と「ウソ」(金正恩)の応酬にしか過ぎず、話される言葉をストレートに受け取ること自体が無意味に思える。
 最近、トランプ大統領が楽観的な観測を述べたり、金正恩を褒めたりしているのは、交渉を有利にすることを目的とした彼流のおべっかでしかないと思う。
 
 金正恩と文在寅大統領は、「反日」という点で交わる部分があるかもしれないが、金正恩とトランプ大統領では元々、交わる部分が無い。トランプ大統領が世界の平和を願っていたとしても、金正恩は世界の平和など願っていないのだから、どこまでも平行線を辿ることになるのは目に見えている。

■ならず者が真人間になれる可能性

 一般的に、ならず者が真人間に変わるためには、通常、自らが痛手を被ることで反省と後悔の念を抱く必要がある。アルコールを飲み過ぎて病気になって入院するとか、酔っぱらって破廉恥行為を行い逮捕されるとか、人間が自らの誤った考えをコロッと変える機会というのは、そういった痛手を被るような経験を通した時に起こることが多い。

 では、金正恩は、この間、何か痛手を被ったのか?と言うと、特に何の変化もなさそうだ。経済制裁をされて食料が足りずに飢えているのは北朝鮮の無辜の民であり、北朝鮮の支配層ではない。あの体形を見れば、国民の餓死をよそに、どれだけ裕福な生活をしてご馳走を平らげているかは一目瞭然だ。

 独裁者というものは、一度、絨毯爆撃などで命からがら生き延びるぐらいのインパクトのある出来事でも経験しない限り、おいそれとは真人間に変わろうとは思わないと思う。

■トランプ大統領でも北朝鮮の民主化は難しい

 そもそも、北朝鮮が世界の平和を望んでいるのであれば、なぜ、これまでに微笑み外交のような手段を採らなかったのか? なぜ、直前のオバマ大統領の時には、考えを変えなかったのか? その答えは、「トランプ大統領」という存在にある。彼がアメリカの大統領になっていなければ、北朝鮮は懲りずに核開発を行い続け、ミサイルを飛ばしまくり、納得のいくまで核実験を繰り返していただろうことは想像に難くない。世界がどれだけ批判しても、全く聞く耳を持たなかったことだろう。

 その恐いもの知らずの金正恩が、なぜ態度を軟化させたのかと言えば、それは偏にトランプ大統領の言動力に畏怖したからに他ならない。およそ、それ以外の理由は考えられない。
 トランプ大統領には金正恩を怖じ気づかせるパワーがあった。これだけは否定できない事実だ。しかし、だからと言って、トランプ大統領が北朝鮮の独裁体制まで変えて民主化できるとまでは言えない。

■梯子を外されたリベラル達

 おそらく、北朝鮮の狙いは、「アメリカとは争うつもりがないので、現在の体制は維持させてくれ」という密約に漕ぎ着けることだろうと思う。
 個人主義(リベラル)を理想とするアメリカ民主党の政治家であれば、そんな密約に応じたかもしれないが、トランプ大統領の場合は、保守本流の政治思想を持った人物でもあるので、そういった利己的な狡賢い策略には乗らない可能性がある。ここが日本にとっての救いでもある。

 北朝鮮が米朝首脳会談の中止を示唆したことで「米政権、虚突かれる」というようなニュースが出ていたが、米政権にとっては、無論、想定の範囲内の出来事であり、梯子を外されたのは日本のマスコミだけだろうと思う。


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北朝鮮は「非核化」できるのか?

■核兵器の「一時放棄」と「永久放棄」

 歴史的な米朝首脳会談が迫っているためか、北朝鮮の非核化論議が盛んになってきた。
 巷では「北朝鮮は非核化する」とか「北朝鮮は非核化しない」、または「北朝鮮は非核化できない」というような意見が囁かれ、まるで当て物であるかのような様相を呈している。

 しかし、一口に「非核化」と言っても、非核化にもいくつかもパターンがある。大きく分ければ「一時放棄」と「永久放棄」というものに分かれるが、はたして「非核化する」とか「非核化できる」と楽観的な意見を述べている人は、どちらを意味して言っているのだろうか?

 同じように、「米朝会談」というものも、「米朝会談は成功する」とか「米朝会談は失敗する」という意見に分かれているが、これも何をもって「成功する」「失敗する」と言っているのかよく分からない。

 「米朝会談」は、アメリカにとっての成功であったとしても、日本にとっての成功とは限らない。北朝鮮が本当に核兵器を永久放棄するのであれば、アメリカもその他の国もWinWinだが、単にアメリカに届くミサイルを作らないとか、一時的に核実験を中止するだけでは、日本にとっては全くメリットがない会談ということになってしまう。

■米朝会談の成功で「喜ぶ人」と「喜ばない人」

 ネット界隈では、「北朝鮮は核を放棄できない」と言えば、「ネトウヨ」という烙印を押されるような状態になっている。要するに、“北朝鮮が非核化し平和になればネトウヨが困る”という図式になっているわけだが、全くナンセンスだと言える。

 逆に言うなら、ネトサヨ(?)は、米朝会談が中途半端に上手く行けば、日本が窮地に陥ることになるので、米朝会談を持ち上げているということも考えられる。反トランプであった人が、最近になってトランプ大統領を持ち上げているかのように見えるのは、おそらくそんな事情が絡んでいるのだろうと思われる。
 世界平和は願っても、日本だけは平和になってはいけないというのは実に屈折した考えだとも言えるが、中途半端な平和を願う裏には、そんな図式が見え隠れしていることにも注意しなければいけない。

■北朝鮮にとって核兵器は「権力」そのもの

 さて、では「北朝鮮は非核化できるのか?」というと、正直、これは非常な難題だと言える。これまで核兵器をチラつかせることによって成り立っていた独裁国家が、トランプ大統領にビビったからといって、簡単に核を放棄できるとは思いたくても思えない。

 北朝鮮における「核兵器」とは即ち「権力」そのものを意味している。独裁者がその権力を放棄すれば、他国ではなく自国の人間に殺される可能性も出てくるので、そういった内政問題もクリアしないことには難しいと言える。

 実際、北朝鮮が世界に向かって「核を放棄する」と言ったとしても、国内では言わないだろう。国営放送で「我が国は核を放棄しました」とは伝えないと思う。普通の国ではそんなこと(情報を隠すこと)はできないが、情報遮断国家の北朝鮮ではできてしまう。日本の拉致被害者についても北朝鮮の多くの国民は知らない。

 そんな国が、今更、まともな民主国家を目指すと言っても、簡単に信じる方がどうかしていると思う。それを信じさせるためには、核兵器の放棄だけでは全く足りない。人権を無視した見せしめの公開処刑も禁止し、この世の地獄とも言われる強制収容所も撤廃すると言うだけでなく、実際に実行しない限り簡単に信じるべきではないと思う。
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「核実験中止・ミサイル実験中止」という甘い罠

■「核実験中止」というトラップ

 今年は海外でも国内でも政治的なニュースが目白押しだが、米朝首脳会談が押し迫っているということもあってか、北朝鮮が新たな外交カードを切ってきた。そのカードの名は「核実験中止」と「ICBM発射実験中止」。

 読んで字の如く、どちらも「中止」というだけで、完全に「廃止」というわけではない。そのままストレートに受け取らない方がよいと思われるが、このニュースを聞いて「これで北朝鮮危機は去った」というような暢気な意見も聞かれる。

 これまで「核実験はしない」と何度も言っておきながら、その度に期待を裏切ってきた国が、「核実験を中止する」と言って素直に信じる方がどうかしていると思う。中止するのは本当だとしても、核兵器を放棄しない限り、安心はできない。
 今回の発表は、先日のシリア空爆でも、やる時はやる姿勢を見せたトランプ大統領に対する牽制としての意味合いが強いと思われる。土産話として「核実験中止」と「ICBM発射実験中止」と先手を打っておけば、スムーズに米朝首脳会談が進められるという下心が透けて見えるかのようだ。

■「二度と復活できない」という選択肢

 もう1つ、ついでに「核実験施設を廃棄する」とも伝えられている。先に行われた日米首脳会談において、トランプ大統領と安倍総理が示したのは、「完全かつ検証可能不可逆的な方法」で北朝鮮の核を廃棄させるということだったので、検証する必要が無くなるように用済みになった「核実験施設を廃棄する」と述べているのだろう。

 しかし、単なる「核・ミサイル実験の中止」や「核実験施設の廃棄」では「不可逆的」とはならない。「不可逆的」とは、「二度と復活できない」という意味なので、実験や施設ではなく、「核兵器を完全放棄する」と言わない限り、解決には向かわない。それ(核兵器の放棄)ができないことが判ると、「二度と復活できない」までに破壊されるという悲劇的な運命が待ち構えていると考えるべきだろう。(核兵器を)「自国が放棄する」か「他国が破壊する」かのどちらかを選ぶしか選択肢は無い。「中止」などという宙ぶらりんな状態が許容されるわけがない。

 この問題は、個人がタバコを止めるとか、アルコールを止めるとかいう小さな問題ではなく、世界人類の命運がかかっている最重要課題なので、慎重を期して事態を見守る必要がある。甘い考えで臨むと地獄を見ることになりかねないので、どこまでも疑ってかかる方が賢明だ。尤も、トランプ大統領も「中止」という甘い言葉に騙されるほど単純ではないだろう。

■拉致問題が解決できなかった理由

 しかし、そんな重大な事件をよそに、相変わらず日本国内では、モリカケとかセクハラとか、スキャンダルネタばかりが国会やマスコミで騒がれている。一体、この国の政治はどうなっているのだろうか?と問いたくもなる。

 日米首脳会談では、日本人の拉致問題についても話し合われ、今度の米朝首脳会談で提起されるらしい。
 しかし、外圧を利用しないと自国の拉致問題も解決することができないというのは悲しい(哀しい)限りだ。おそらく戦前の日本なら、他国に同胞を拉致されたということが判ると、国民世論の沸騰とともに直ぐさま奪い返しに行ったことだろう。

 戦後の日本が、そういったことができなくなったのは、結局、自衛隊を軍隊と認めない平和憲法のせいだと言えるのかもしれない。あるいは、平和憲法であったことが禍いして拉致事件が発生したのかもしれない。
 護憲派の人々が、拉致被害者の人権や被害者家族の願いよりも、憲法を変えないことの方が大事だと本気で思っているのであれば、実に罪深い人々だと言える。
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「森友問題」と「TPP問題」のどちらが重要か?

■麻生氏の問題発言の是非

 自民党の麻生氏が、参院財政金融委員会の場で以下のようなことを述べられたらしい。

1、「森友の方がTPP11より重大だと考えているのが日本のレベル」

2、「日本の新聞には(TPP11のことが)一行も載っていなかった」

 これらの発言が物議を醸し、既に麻生氏は謝罪を行われたそうだが、これも(現時点では)一種の言葉狩り(ポリ・コレ)だと言えるだろうか。

 確かに「」の発言については事実と異なることを言ったということなので謝罪は必要だろうけれど、「」については、現状では未だ謝罪が必要な段階とは言えない。

 少なくとも現段階では、麻生氏は、安倍総理やご本人が森友問題に関係していないと信じているわけだから、森友問題についての責任感を感じる段階にあるとは言えない。事実はともかく、現段階では自分達は冤罪だと思っている側の人間なのだから、「森友問題よりもTPP問題の方が重要だ」と言っても何の問題もないと思う。
 財務相としての監督責任が無いとまでは言えないが、だからと言って、本来の仕事よりもスキャンダルの方が重要だというのでは不自然だ。会社の社長が、従業員が窃盗罪を犯したとして、会社全体の仕事よりも1人の窃盗罪の方が重要だと言うのではおかしい。

 そもそも、与党の政治家が本業を忘れて、森友問題にばかりに拘っていれば、政治家としての信用を失ってしまいかねない。

 問題が生じるのは、実際に自分達が森友問題に関わっていたということが判明した段階でのことであり、そういう段階になって初めて、今回の発言が責任問題として追及されることになる。

 解り易くするために卑近な例で言うと、もし、あなたが通勤中の電車内で痴漢と間違われて逮捕されたとしよう。
 その後、警察の取り調べ室で、あなたが「痴漢問題よりも仕事の方が重要です」と言った場合を考えてみよう。それがおかしいことだと言えるだろうか?
 「痴漢問題の方が仕事より重大だと考えているのが警察のレベル」と言うことが、おかしいことだろうか?
 あるいは、痴漢冤罪を訴える会見の場で、「痴漢問題よりも仕事の方が重要です」と言ったとすればどうだろう? それがおかしいことだろうか?

 その人物が本当に無実(または無実と思っている)なら、「私は自分の仕事をしなければいけないので、痴漢問題などに構っている暇はありません」と言うのは、尤もな意見だと言える。逆に、「私は自分の仕事よりも、痴漢問題の方が大事です」などと言えば、余計に怪しいと疑われる可能性が高くなってしまう。

■シンプルに考える「推定無罪・有罪論」

 ついでに言うと、もし、あなたの友人が痴漢行為の疑いで逮捕されたとしよう。その友人があなたに「俺は無実だ、信じてくれ」と言った場合、あなたはどう思うだろうか?
 普通は証拠がない限り、その友人の言葉を信じるだろう。簡単に言えば、それが「推定無罪」である。
 その後、本当にその友人が痴漢行為を行ったという証拠が出てきた場合、「お前(友人)は俺に嘘をついた」ということで「推定無罪」は崩れる。実にシンプルだ。

 逆に「推定有罪」とは、痴漢行為の疑いで逮捕されれば、それが誤認逮捕であろうがなかろうが、「お前は痴漢行為をしたのだろう」と疑うことに近いと言える。
 日本では「逮捕」という言葉がイコール「犯罪者」という認識になっているきらいがあるが、これなども立派な推定有罪だ。

 人間は感情の生き物なので、誰しも、親しい人は信じてあげたいし、憎たらしい人は疑いたくなるというバイアスを抱えている。同じ痴漢の冤罪でも、その人物が普段から憎たらしいと思っている人なら、どうしても心情的には「推定有罪」に傾いてしまう。

 確たる証拠が出てきて、尚かつ、本人が罪を認めた時点で「犯罪者」という立場が成立する。しかし、証拠が出てくるまでは、その人物を信じて無実として扱う。それが「無辜の民を罰するなかれ」という言葉が示す通り(冤罪を回避するための)近代国家の決まり事でもある。

 現状では、安倍総理も麻生氏も罪を認めていないし、確たる証拠も出てきていないのだから、「疑わしきは罰せず」の適用が妥当であり、確たる証拠が出てくるまでは無実として扱う。それが良識ある人間の対応というものだと思う。

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「疑わしき安倍は罰する」捜査の是非

■無限ループ化している森友問題

 森友問題における証人喚問の場で、理財局の佐川氏が「首相や官邸の指示がなかった」と述べた。これでようやくこの騒ぎも収束に向かうのか…と思ったのも束の間、なぜか、野党6党は「疑惑は深まった」とし、今度は安倍昭恵氏の証人喚問を求めているという有り様だ。

 一般人の感覚からすれば、佐川氏が「首相や官邸の指示がなかった」と述べた時点で、この問題は少なくとも政治的には収束に向かうべきだと思うのだが、佐川氏が一部、黙秘権を行使したことが気に入らないという人がいるようだ。
 おそらく、財務省内のことで言うに言えないことがあるのだろうと推察するが、どうしても政治家が関係していると思いたい人もいるのだろう。
 しかし、消費税の増税を延期することに、あれだけ財務省に気を遣っているように見えた安倍総理が、なぜその財務省に命令するとか口封じができると素直に思えるのかが不思議だ。

 佐川氏の証人喚問で判ったことは、結局、誰が何を言っても、何の解決にもならず、この問題を収束する気もないのではないか?ということ。仮に、安倍昭恵氏の証人喚問を行ったとしても、おそらく何の解決にもならないと思える。
 痴漢の冤罪者と同じで、たとえ無罪であろうと、罪を認めるまでは終わらないという無限ループに陥ってしまっている。

 これでは、たとえシロでも、クロと決めたものはクロにしないと気が済まないという、どこかの国の推定有罪論者の暗黒裁判と変わらないとも言える。
 民主主義を是とするはずの政治家が「疑わしきは罰せず」という民主主義の基本を無視して、「疑わしきは罰しろ」になってしまっている。弁護士資格を持った多くの政治家が「推定無罪」(つまり人権)を無視している姿は滑稽ですらある。

■8万円の窃盗事件に300万円の税金を費やせば?

 この森友問題で費やされた税金(国会の運営費)は、噂では既に300億円を超えているらしい。8億円の問題を解決するのに300億円もの税金が費やされた。この事件が解決したとしても税金が返ってくるわけでもないので、税金を真面目に支払っている一般人から観れば、単なるマッチポンプ騒ぎにしか見えない。
 本当に何も問題が出てこなかった場合、6野党が無駄になった税金を返納してくれるのだろうか? 

 喩えて言うなら、ある小学校で8万円の窃盗事件があったとして、その犯人を見つける捜査に300万円もの経費を費やしているようなものだとも言える。そんな無駄な捜査をするぐらいなら、その捜査費の300万円から8万円を被害者に支払った方が早い。それが300万円の税金を支払っている国民側から見た、当然の意見だと言える。

 政治家も国民も、いい加減に、そんな無駄な捜査に税金を払い続けて、一体、誰が得をするのかをよく考えていただきたい。確たる証拠があるならいざしらず、「疑わしきは罰する」捜査になっていないかどうかを冷静に考えるべきだ。
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BOOK『リベラルの毒に侵された日米の憂鬱』を読んで。

■「リベラル」の別名は「腹黒い」

 最近、保守論客として矢継ぎ早に書籍を刊行しているケント・ギルバート氏の最新刊『リベラルの毒に侵された日米の憂鬱』を読んでみた。

 ここ数年来、日本人の保守論客よりも外国人の保守論客の方が活躍しつつあるような傾向にある。ケント氏以外にも、ジェイソン・モーガン氏や、マックス・フォン・シュラー氏、ヘンリー・S・ストークス氏など、日本人以上にかつての日本を理解していると思われる親日外国人の意見は、変なバイアスがかかっていないだけに、言っていることに真実味がある。

 日本では「左翼」と呼ばれたくない人間が「リベラル」という言葉を使用する。これは既に有名な話だが、こういう現象(思想的化粧)が流行る背景には少なくとも日本では「リベラル」という言葉が良いイメージを持たれていることを意味している。
 しかし、ケント氏いわく、現代のアメリカ人が思い描く「リベラル」のイメージとは以下のようなものであるらしい。

>「腹黒くて、胡散臭い」
>「抑圧的で、批判ばかりで、うっとうしい」
>「自分たちだけが絶対的正義と考えていて傲慢」
>「口だけ達者な無責任な連中で自分の非を認めない」
>「身勝手で利己的だから、自分の自由のためなら他人の自由を平気で侵害する」
>「現実を無視してキレイごとばかり言う」

 なるほど、日本でも思い当たるフシが多々あり、頷ける内容だ。
 このイメージから言うと、少し前に話題になった「リベラル系議員」というのは「腹黒い系議員」ということになってしまうが、私なりにもう少し具体的な言葉にすると「本音と建前の乖離が甚だしい系議員」ということになるだろうか。

 政治家という職業は、少なからず「本音」と「建前」を使い分ける能力も問われるものだと思うが、その開きがあまりにも大きい人のことを「リベラル」と言うこともできると思う。「平和を愛する」と言っておきながら「戦争を招く」ような言動を行っているように見える政治家もいれば、「言論の自由」を語っておきながら「他人の話は聞かない」ようにしか見えない政治家もいる。

■絶海の孤島に誕生した「リベラル」

 ケント氏は日本のリベラルを「GHQチルドレン」と述べておられるが、言い得て妙だなと思う。

 元来、キリスト教が根付いたアメリカにおける「リベラル」とは、宗教的な戒律から「自由」になりたいという人々を意味していた。
 「信仰を持たない人間は何をするか分からない野蛮人」という認識が一般化したアメリカ人から見れば、「リベラル」は「神の意に反した気ままな人々」ということになってしまうのかもしれない。

 欧米の近代国家は全てキリスト教が根付いた国であり、キリスト教が倫理的な道徳観を教えることで成立したとも言われている。では、日本ではどうだったのかというと、明治時代、キリスト教の代わりに国が道徳を教えることにした。それが所謂「修身」というものだが、その甲斐もあってか非キリスト教国で初めて近代化に成功した国が日本だった。もちろん、それだけが理由ではなく、日本にはもっと以前から「勤勉の精神」が根付いていたこととも関係している。

 欧米では、宗教的な戒律からの自由や、王権神授説の拒否から派生したものが「リベラリズム」の源流だった。そう考えると、「リベラリズム」は日本人とはあまり馴染みのない思想ということになるが、戦後、GHQによって日本的な精神性を骨抜きにされた日本人に「リベラル」が根付いてしまった理由も解るような気がする。
 道徳観が希薄で放埒な自由をこよなく愛する世界でも例をみない気ままな似非リベラル、それが「GHQチルドレン」というものの正体なのだろう。

 戦後、絶海の孤島で行われた思想実験は、見事なまでに成功した。その秘密の実験によって、ほぼ全ての国民がその渦中に呑み込まれた。現代の日本で、その渦(洗脳)から抜け出た人々は、リベラルの欺瞞に気付いている。

 人間は基本的に、自らが洗脳されているかどうかを知ることはできない。それを知るためには、1つの条件をクリアしなければいけない。それは、“他人の話(異論)を聞く姿勢”があるかどうかという条件だ。
 もし、あなたが他人の話を聞く姿勢がないリベラルタイプな人であれば、1度、「洗脳されているかもしれない」と疑ってみることをオススメする。
 

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国民不在の「森友狂騒曲」の愚

■「国民・国益・国難」無視の「森友狂騒曲」

 まさか、この期に及んで「森友学園問題」が蒸し返すことになるとは思ってもいなかったが、またぞろ「内閣支持率」がどうのこうの…というような話が飛び交い、いつか観たような光景が再び、眼前に繰り広げられている。
 この現代日本に出現している国民無視・国益無視・国難無視の政治的茶番光景を未来からの視点で観れば、まさに「森友狂騒曲」と呼ぶに相応しい出来事なのだろうと思う。

 しかし、たかだか地方の学園創設の土地売却問題だけで、何故にこれほどまでの大疑獄事件であるかのように扱われなければいけないのだろうか? 事件の真相よりも、その謎の方が興味深い。

 重箱の隅を突き、出てきた問題を針小棒大に報じ、大山鳴動して鼠一匹にしか成り得ないような小さな事件が、まるで途方も無い巨大な事件であるかのような錯覚を生じさせる。こういった負の煽動メカニズムは、いつの時代でも禍いとなって人々を苦しめてきた。中世の「魔女狩り」がその良い例でもある。

■安倍総理の「口は禍いの元」

 以前にも、「安倍総理が口にしたことは不思議と実現する」というようなことを書いたことがあるが、昔から「口は禍いの門」とも「口は禍いの元」とも言われる。良い言葉を発して実現するなら良いのだが、悪い言葉を発して実現してしまえば元も子もなくなってしまう。

 森友問題が騒がれた当初、安倍総理の口から出た言葉が“禍いの元”になってしまったということは、当の安倍総理自身も「迂闊だった…」と後悔されているのかもしれない。

>「…私や妻が関係していたということになれば、まさにこれはもう私は、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員も辞めるということははっきりと申し上げておきたい。全く関係ないということは申し上げておきたいと思います。

 この言葉は、全く事実無根であるという絶対的な自信から発せられた言葉だと思われるが、「総理大臣も国会議員も辞める」というマイナスな言葉は含めるべきではなかったとも思う。

 では、どう言うべきだったのかというと、

 「私も妻もこの事件には全く関係がないということは申し上げておきます。それはもう間違いない事実ですので、総理大臣も国会議員も辞めるつもりがないことをはっきりと申し上げておきたいと思います。

 既に結果論だが、「総理大臣も国会議員も辞めるつもりがない」というプラスな言葉を使うべきだった。

■目を向けるべきは「スキャンダル問題」ではなく「政策問題」

 森友問題に限った話ではないが、現代の日本人は、あまりにも政治家に清廉潔白さを求め過ぎているきらいがあるように思う。
 政治家というのは、正しい政治を行えば、何兆円単位の国富が増加することになるが、間違った政治を行えば、逆に何兆円もの国富を失うことになる。本来、有権者である国民が政治家に対して目を向けるべきは、そういった大きな政策問題の是非であり、小さなスキャンダル問題の有無ではないはずだ。

 国民の生活に直結した政策の是非を争うことで政権の奪い合いをするのなら理解できるのだが、国民の生活と全く関係のないようなスキャンダルや、言葉遣い等で政治の良し悪しが決定されるような社会は、どう考えても間違っており、理想的な政治とは程遠いと言わざるを得ない。

 まともな政策論争ができずに、週刊誌報道と同レベルでのスキャンダル論争しかできない政治家こそ、有権者からそっぽを向かれて然るべき存在だとも言える。なぜそんな当たり前のことが分からないのだろうか?

 要は、国民の生活と直接的に関係する問題と、関係しない問題とに分けて考える必要があるということ。関係しない問題に対して、どれだけ騒いでも、国民の生活は良くならないどころか、余計に悪くなる可能性の方が高い。

 では、「森友問題」はどちらの問題に該当するのか? 答えは言うまでもない。
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北朝鮮の歩み寄りに見る「戦争と平和」

■「戦争」は「平和」を齎す最終手段

 今年(2018年)は、高い確率で「米朝戦争」が起こるものと思われていたが、ここに来て、北朝鮮が国際社会(主にアメリカ)に歩み寄る姿勢を見せるという意外な展開を迎えた。平昌オリンピックで見せた北朝鮮の「微笑外交」を、今度は金正恩自身が演じるという姿勢を見せており、遂にトランプ大統領と会談するとまで伝えられている。

 「平昌オリンピックが終了した後、アメリカが北朝鮮を攻撃する」というような噂話が実しやかに出回っていたので、さすがの金正恩も焦りを禁じ得なかったのかもしれない。
 現状を観ると、チキンレースを制したのはトランプだったということになるのかもしれないが、これまでの北朝鮮の言動を鑑みると、単なる時間稼ぎか、何か別の思惑があるのではないか?と勘ぐりたくもなる。

 「戦争」というのは「付ける薬がない人間に付ける薬」とも言われる。

 この言葉には、世界の平和を維持するための最終手段という意味が込められている。「戦争」と「平和」は対立する概念ではなく、互いに密接に関係している概念でもある。
 何を言っても聞く耳を持たず、平和を乱す狂気の独裁者には、「戦争」こそが世界に「平和」を齎す最終手段に成り得るというのは、これまでの北朝鮮の暴走を観れば、認めざるを得ないという人も多いと思う。
【参考文献】『日本人のための戦争と平和』(小室直樹著)

 ただ、もし仮に今後の米朝会談が上手くいったとしても、それは北朝鮮がアメリカに対しての歩み寄りを見せたというだけのことであり、日本に対しての姿勢が変わるとまでは言えない。
 傍若無人ないじめっこ(北朝鮮)が警察(アメリカ)に歩み寄りを見せたというだけのことであり、いじめられっこ(日本)は素直に喜べるような状況にないことは正しく理解しなければいけない。

■日本には「いじめられっこ」からの脱却が必要

 日本に目を転じれば、未だに憲法改正すらできない状況は変わっておらず、全く予断を許さない状況となっている。
 何が「予断を許さない」のかというと、「戦争」を回避するべき「平和装置」が機能していないということに尽きる。

 ここで、「戦争」を「いじめ」に置き換えて憲法を考えてみよう。

【前文の一部】
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」

 これを「いじめ」に置き換えると、

「生徒達は、いじめのない平穏を念願し、生徒相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、いじめのない平穏を愛する諸生徒の公正と信義に信頼して、生徒達の安全と生存を保持しようと決意した。」

 これは別におかしくない。では今度は、9条1項を見てみよう。

【9条1項】
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

 これを「いじめ」に置き換えると、

「生徒達は、正義と秩序を基調とするいじめのない教育現場を誠実に希求し、いじめっこによるいじめと、腕力による威嚇又は暴力の行使は、いじめを解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

 これも別におかしくない。では次は、9条2項を見てみよう。

【9条2項】
「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

 これを「いじめ」に置き換えると、

「前項の目的を達するため、いじめられっこの反撃する力は、これを保持しない。教師達はこれを認めない」

 ここで、途端におかしくなる。「いじめられっこ」は「いじめっこ」に反撃する権利を持たず、教師達も反撃を認めないというのでは、明らかにおかしい。これでは「いじめ」が無くなるわけがない。「いじめ」というのは、つまり「戦争」のことだ。

 先に「戦争」と「平和」は密接な関係にあると書いた。トランプ大統領は北朝鮮に対して「戦争」をちらつかせたことが「平和」を齎す手段であることを我々に教えてくれている。自国の安全を守るためには、戦争というものを研究し、圧倒的な軍事力を持つことによって、相手国を制するという手段もあるということを暗に教えてくれている。

 「戦争」を忌避するだけでは、自国の安全(平和)を守ることはできない。そんな当たり前の真実に気が付いた時には「時既に遅し」ということにだけはなってほしくないものだ。


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「日本的経営」と「裁量労働制」の関係性

■頓挫した「裁量労働制」の導入

 厚生労働省の発表データが杜撰だったということで、「働き方改革」の目玉政策の1つだった「裁量労働制」の導入が頓挫するという事態になってしまったらしく、連日のように「裁量労働制」という、一般人にはあまり聞き慣れない言葉が耳に入ってくる。

 「裁量労働制」とは、一言で言えば、「仕事が(時間に囚われずに)労働者の自由に委ねられる」というものであり、主に時間で計ることが難しい仕事に適用される制度のことである。
 例えば、デザイナーやプログラマーや弁護士や税理士など、時間ではなく個人の能力によって成果を計る方が合理的な仕事に適用される制度である。無論、労使間の合意が必要となる制度であり、経営者や労働者の一方が独断で採用できる制度ではない。

 そう考えると、昨今、問題になっている日本企業の「労働生産性」を向上させるためには、かなり有効な手段だとも思えるのだが、なぜか日本では、受け入れ難いという人が多いようだ。
 しかし、反対している面々を観察していると、どうも、「裁量労働制」が適用されるような職種に就いている人ではなくて、「裁量労働制」とはあまり関係が無いような人が多いように見受けられる。この辺のところは、年収1075万円以上を対象とした「ホワイトカラーエグゼンプション」に反対していた人と共通しているとも言える。

■「裁量労働制」は「能率給」に近い制度

 「裁量労働制」が適用されると困る人というのは、結局のところ、能率給で給料を貰うよりも、時間給で給料を貰った方が得だという人なのだろうと思う。
 これは別に「裁量労働制」に限らず、単位時間当たりの仕事量と比較して、自らの給料が「高い」と思うのか、「安い」と思うのかということと密接な関係にあり、前者なら「反対」、後者なら「賛成」という単純な図式になるのだろう。

 企業に雇用されていないフリーランスなどは、必然的に「裁量労働制」を採用していることになる。しかし、企業に雇用されている場合は、そうはいかない。
 例えば、デザイナーやプログラマーを例に挙げると、8時間分の仕事を4時間でできる能力を持っていたとしても、企業に属している限り、時間に縛られることになる。4時間で仕事が終わっても、8時間分の給料を貰うためには、残りの4時間も仕事をしなければならなくなる。ここで重要なことは、“仕事の有無”に拘らず仕事をしなけれないけないということである。

 そこで、「その残りの4時間は自由にしてもよいですよ」というのが、「裁量労働制」の基本理念だと言える。企業に属していながら、フリーランスのような働き方ができるので、無駄な労働時間が無くなり労働生産性は飛躍的にアップする。

■「裁量労働制」で「得をする人」と「損をする人」

 しかし、8時間分の仕事ができないデザイナーやプログラマーの場合は、「裁量労働制」などを導入されると、逆に今まで以上に働かなければならないということに成りかねない。そうはならなくとも、仕事の早い人がさっさと仕事をこなして自由を満喫しているのを横目に、嫉妬を抱えて悶々と仕事をするのは精神衛生上もよろしくない。
 ちょうど、小学生時代の給食を食べるのが「速い生徒」と「遅い生徒」のようなもので、食べるのが速い生徒は、食べるのが遅い生徒が食べ終わるのを待たなければいけないという具合に…。

 …というような理由から、仕事の早い人には、犠牲になってもらう(自由な時間を犠牲にするという意味)のは仕方がないというのが、日本的経営(共産主義的経営)の負の側面でもあるので、「裁量労働制」はなかなか根付きそうにない。
 「水」と「油」の関係のように、本来、能率給である「裁量労働制」は、時間給である「日本的経営」と分離して浮かぶものであるはずだが、それを掻き混ぜることによって帳尻を合わしている。

 「労働時間」を絶対とするのは、マルクス(リベラル)思想の影響かもしれないが、そうした方が得だという人がそれだけ多いということを意味している。
 「8時間労働」に縛られて「得をする人」と「損をする人」がいる。この部分をクリアしない限り、残念ながら日本での「裁量労働制」の導入は難しいのかもしれない。

【追記】2018.3.4
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>筆者は、「フリーランスは裁量労働制」などと言っており、裁量労働制の意味が理解できていないのだろう。
裁量労働制とは、「企業(実際には上司)と労働者がノルマ・目標を定めて合意し、それを達成できていれば達成にかかる労働時間は問わない勤務評価制度」のことだ。

  言葉足らずだったのかもしれませんが、ノルマを達成した後の“残った時間”の過ごし方がフリーランスのようなものだと言っているのです。

>自由人さんは『問題になっている日本企業の「労働生産性」を向上させるためには、かなり有効な手段だとも思えるのだが』と書いてますが、需要を抑制したのでは、生産効率は向上しても生産性(付加価値生産性)は向上しないわけですね。

 あなたの言っていることは、ある条件下でマクロ的に観れば正しいのかもしれませんが、仕事における“個人の能力”というものが全く考慮されていないように感じられます。人一倍、真面目に仕事をしている人間が正しく評価されなくても、全体(マクロ)における総需要が増加すればそれでよいという発想は、実現不可能な理想論と思えます。仕事をしていようが、遊んでいようが、トータルでプラスになればそれでいいというのでは、人間個人の労働には意味が無いという国家社会主義になります。

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なぜ「楽天の株は騰がらない」のか?

■なかなか騰がらない「楽天」株

 トランプ相場による米国株高に連動する形で、日経平均株価も2万円台が定着しつつあり、株価が最高値を更新している銘柄が多数ある中、純利益が最高値を更新しているにも拘らず、騰がらない株もある。その代表的な銘柄の1つが「楽天」株になる。
 私も一応、楽天の1株主なので、株主としての意見を率直に書いておきたいと思う。

 「楽天の株が騰がらない」、これは多くの楽天株主の意見でもあると思われるが、三木谷社長本人の意見でもある。先月の携帯電話事業参入の記者会見の場で三木谷氏は、「残念ながら、われわれの実力が(株価)に反映されていないと思っている」と述べている。昨年の2月には「足元の株価は割安で、我々の想定する企業価値と大きな開きがある」とも述べている。

■「公募増資」と「自社株買い」の矛盾

 思えば、楽天の株が下がり始めたのは、2015年に公募増資を発表した頃と軌を一にしている。2015年4月10日に株価が最高値2395円を付けた後、6月に公募増資発表、1株1905.5円で1807億円を調達したものの、その後、2年以上に渡って株価が下がり続け、現状では1000円を割っており、2月9日に905円の年初来(増資来)最安値を付けている。

 株式投資の格言に「半値八掛け二割引」というものがある。この格言を楽天の株価に適用すると、766円ということになる。(あくまでも参考値)
 ちなみに、ビットコインに適用すると、最高値が240万円で計算すれば70万円台になる。実際、ビットコインもその辺りで反転しており、一旦、半値の120万円まで戻している。ビットコインのような信用担保の無い仮想通貨は、指標とするものがないせいもあるのか、案外、定説通り(格言通り)に動くものなのかもしれない。

 2017年12月期の楽天の決算は、純利益が2.9倍となり、初の1000億円を突破した。しかし、携帯電話事業への参入をリスクと見る向きもあるのか、なかなか株価が騰がらない。

 楽天は2017年2月に「1000億円の自社株買い」を発表している。取得期間は2018年2月21日までということなので、一応、今週で終了したことになる。
 2015年に1807億円の公募増資を行い、2017年に1000億円の自社株買いを発表する。これなら結果的に初めから公募増資を行わなかった方が良かったのではないか?と思った株主は多いと思う。
 楽天モバイルが好調であるにも拘らず、リスクをとって携帯電話事業に参入、これも短期的に見れば結果的に株価を下げる要因になってしまったようにも見える。

■楽天に必要なのは「増配」

 多くの人は「楽天の株が騰がらないのはアマゾンのせい」とも言う。しかし、楽天の最も利益を上げている部門は金融業なので、あまり信憑性があるとも思えない。
 では、何が問題なのか? 個人的には、単純に配当が低過ぎることが原因ではないかと思う。楽天の年間配当は現状で450円なので、配当利率で言えば、0.4%しかない。銀行よりは遥かにましだとは言え、リスクを取る投資家から見れば、お世辞にも魅力ある高配当とは言えない。

 アメリカのグーグルやアマゾンは無配当だが、株価が騰がることによって株主に利益を還元している。成長著しい最先端企業は、株主配当よりも設備投資を優先する方が、結果的に株価を上昇させることに繋がるので、無配でも株を買う人がいる。しかし、もし株価が騰がらない(下がり続けている)のに、無配当でいれば、即座に売られてしまうだろう。キャピタルゲインか配当のどちらか一方を満たさないと、その株は株主にそっぽを向かれてしまう。

 そう考えると、楽天の株を騰げる最善の方法は、取り敢えず、配当を上げることだと言える。配当を上げることが呼び水となり、株主が増加して、株価が騰がっていくという好循環が生まれる。高業績であるにも拘らず、この最も重要な株価政策が滞っているために楽天の株価は騰がらないのではないかと思う。楽天の場合、多くの株主優待があるが、優待よりも配当を重視するべきだと思う。

 日本の場合、株価を安定させる最も重要な要素は、結局、安定的に配当を出すことだと言える。実際、年率3%以上の配当を出している上場企業の株式は、比較的に安定している。含み損を抱えて塩漬けになっても3%の配当金があれば、そのまま持っておこうという株主は多いと思う。5%以上の高配当企業が滅多にないことが、そのことを如実に物語っている。

 「われわれの実力が(株価)に反映されていない」のは、その通りかもしれないが、残念ながら、株価が思ったように騰がらない(投資家に評価されない)のであれば、正攻法で投資家に評価されるようにするべきだと思う。
 「増資」や「買収」や「自社株買い」よりも、高業績企業である楽天の「増配発表」、これこそが、楽天のイメージと株価を押し上げる最も有効な手段だと言える。


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