経済・政治・国際

「平等」と「公平」の経済学【日本の給与制度編】

■平等思想に根ざした「月給制」

 日本の多くの企業では、基本的に「月給制」が採用されている。「月給制」とは、1ヶ月間の決められた労働時間内(残業時間は含まない)にどれだけの仕事をしてもしなくても結果は変わらないという制度である。
 その月の所定労働日数が20日間であろうと25日間であろうと結果は同じ、つまり、時間単位の労働価値が曖昧な制度とも言える。
 これに対し、時間給制(パートタイム制)というのは、時間単位の労働価値がはっきりと定められた制度だと言える。8時間働けば8時間分の労働価値(=給料)が支払われる。20日間働けば20日分の給料が支払われ、25日間働けば25日分の給料が支払われる。残業時間もこれに倣っている。
 そう考えると、前者は「平等」、後者は「公平」に根ざしているとも言える。ミクロ的に見れば「時間給制」も「平等」に根ざしていると言えなくもないが、ここではマクロ的に見た考察を述べている。

■多義性を持った「給料が安い」という言葉

 時間給制で働いている人が言う「給料が安い」は、概ね自らの仕事の質量に対する評価を意味したものになるが、月給制で働いている人の言う「給料が安い」は、仕事の質量ではなく、他者との比較を意味したものに成りがちで、実際にそういった光景を目の当たりにすることもある。

 例えば、1ヶ月間に25万円分の仕事をこなして20万円の給料をもらっている人【A】と、1ヶ月間に10万円の仕事をして15万円の給料をもらっている人【B】がいたとすれば、この両者のどちらが「給料が安い」と言えるだろうか?

 仕事の質量に関係なく額面だけで判断すれば、15万円の給料をもらっている【B】よりも、20万円の給料をもらっている【A】の方が「給料が高い」ことにはなる。しかし、本来、給料の高低は、仕事の質量というものを抜きにしては考えられないものである。
 【B】が言う「給料が安い」は、あくまでも【A】との比較においての「安い」であり、【A】の言う「給料が安い」は、自らの仕事の質量においての「安い」を意味することになる。

 「給料が安い」という言葉には、多義性があり、一義牲で受け取ることができない代物だが、なぜか日本では「給料が安い」という言葉は、仕事の質量はあまり考慮されず、字義通り、給料の額面だけでの判断に成りがちだ。その原因は「月給制」というものが、「平等」思想に根ざしているからである。

■「年功序列給与制」は有り難い制度か?

 前述の例の場合、【A】が「給料が安い」というのはその通りかもしれないが、【A】から見れば【B】の「給料は高い」。25万円分の仕事をして20万円の評価(80%)をされている人と、10万円の仕事をして15万円の評価(150%)をされている人のどちらが高給取りかと言えば、考えるまでもなく【B】である。【B】は【A】の2倍近い高給取りだと言える。この当たり前のことが、平等思想が根付いた空間では、当たり前で無くなってしまう。

 日本のサラリーマン社会において、「給料が安い」と言うべきなのは【A】なのだが、実際は声の大きい【B】に属する人々が「給料が安い」と言ってきた。
 【A】は【B】の仕事の足らざるを補ってきたにも拘らず、スポットライトはいつも声の大きい【B】に当たってきた。

 年々、給料が少しずつ上がる年功序列給与制というものも、【B】にとっては有り難い制度でも、【A】にとっては有難迷惑な制度だということも無視され続けてきた。

 例えば、初任給20万円で年々5千円ずつ昇給する給与制度であったとすれば、40年勤めれば40万円ということになるが、初めから40万円以上の仕事ができる人であれば、全く意味を為さない有難迷惑な制度になってしまう。しかし、元々20万円の仕事しかできない人が年々給料が上がって遂には40万円になるのであれば、これほど都合の良い給与制度もない。

 正社員の年功給与制を外から否定する向きもあるが、実のところ、正社員の中にも年功給与制を否定したい人は大勢いる。昔から正社員の年功給与制は、全ての正社員にとって有り難い制度とは言えなかったのだが、この辺の声も全く無いものとして扱われてきたフシがある。
 なぜそうなったのかと言えば、戦後の日本社会が「公平」よりも「平等」に重きを置いてきたからに他ならない。

 なお、本記事は「終身雇用制」は無いものとして述べています。
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コンテンツビジネスは「奉仕ビジネス」と化している

■ますますデフレ化が進むコンテンツビジネス
 
 先月から「TSUTAYAプレミアム」なるものが開始された。今更、説明するまでもないかもしれないが、一応、書いておくと、【月額1,000円で旧作DVD借り放題&ネットで旧作動画配信見放題】というサービス。

 コンテンツビジネスにおける低料金化(デフレ化)の波はとどまることを知らず、ここ数年でますます加速化しつつある。しかし、エンタメ系のコンテンツビジネスの進化は、消費者にこの上ない利便性を与える反面、消費者の使用するお金の量がどんどん減少するという諸刃の剣を抱えている。ネット社会に功罪は付き物だが、現在のような、お金が動かなくなりつつあるインターネット経済は、「功」よりも「罪」の比率の方が大きくなってきているような気がしないでもない。

 かくゆう私も、最近、アマゾンのプライム会員になり、フルHD対応になったKindleタブレット(FireHD10)を購入した。当初の目的は、電子書籍でしか読めない本を入手するためだったが、実際に使用してみると、付随サービスであるプライムビデオの便利さに圧倒されてしまった。パソコンディスプレイでも観ることができるが、タブレット用アームを取り付ければ、横になって寝ながらでも映画が観れるので、非常に便利だ。

 私の場合、年間に100本以上の映画を観るので、本当にすぐに観たい映画は映画館で観て、あとはDVDレンタル(新作)で観るようにしている。そのため、Hulu、NETFLIX、U-NEXT、プライムビデオ等のVOD(ビデオ・オン・デマンド)は、新作であれば追加料金が発生するので特に必要性を感じていなかった。しかし、レンタルし損なった旧作等については、わざわざ旧作をレンタルせずとも、プライムビデオで観ることができる商品が意外にも多いことが判った。昔に観て、もう1度観たいような映画や名場面シーンもデータベース感覚で観ることができるので重宝する。月額325円(年換算)で多くの旧作が観れるとなると、レンタルDVD店の旧作の価値は限りなく低下していかざるを得なくなる。

 そういった現状を鑑みて、アナログ世代もデジタル世代も取り込める「TSUTAYAプレミアム」のようなサービスが誕生したのかもしれないが、大画面・大音響の映画館で観たいとか、新作DVDをすぐに観たいという欲を持たない人であれば、映像系のエンタメ消費は限りなく無料に近い料金で楽しむことができるようになっている。これはもう、コストパフォーマンスが良いとかいうレベルの話ではなく、ほとんど奉仕ビジネスに近いとも言える。

 ちなみに、アマゾンのプライム会員は日本では全会員数の20%にも満たないらしいが、アメリカでは60%以上の人が加入している。料金も日本では年間3,900円だが、アメリカでは年間99ドル(1ドル113円で計算すると11,187円)もするらしい。
 こうやって比較してみると、アメリカの料金が高いと言うよりも、日本の料金が安過ぎるのだと思われる。ひょっとすると、プライム会員数が伸びないがゆえに、破格的な低料金のまま据え置かれているのかもしれない。日本のプライム加入者数が増加するに従って、プライム会員費も値上がりしていくのかもしれない。(プライム会員が増えれば増えるほど赤字になるという意味)

■インターネット技術とベーシックインカム制度の親和性

 映画館の客がレンタルビデオ店に奪われ、レンタルビデオ店の客がVOD配信企業に奪われる。それは時代の趨勢と言えなくもないが、1人の人間が一生に観れる映画本数には限りがあるので、コンテンツ自体が膨大な数に膨れ上がれば、旧い情報としての旧作コンテンツの価値が低下していくことは避けられない。1日に1本の映画を観たとしても、一生に内にせいぜい3万本観るのが限界だろうから、物理的にも世に出回っている映画のほんの一部しか観ることはできない。価値が高くなるのは、製作されたばかりの新作と、評価の定まった名作ぐらいのもので、その他は、情報の洪水の中に埋もれたまま、多くの人の目に触れることもなく放置されることになる。

 しかし、この問題の着眼すべき点は、そういった時代の栄枯盛衰ではなく、始めに書いた通り“お金が動かなくなってきていること”だと思う。インターネット技術の進歩は、当初の予想を遥かに超えて社会に急速な変化を齎しつつあり、多くの人々はその逆らいようのない巨大な波に呑み込まれている。
 最近、インターネットという怪物が巨大化した時のための保険的な緩衝材として、ベーシックインカム的な経済システムがまず存在するべきだったのかもしれないなと思う時がある。ベーシックインカム制度については、8年前にもブログ記事を書いたことがあるが、ここ数年の価格破壊ビジネスの台頭や、コピー商品が出回るアングラ経済の様相を見るにつけ、実際に必要な時代に既に突入しているのかもしれないという感じが強くなってきた。

 技術の進歩とともに、お金がどんどん動かなくなるのであれば、人々はこれからの将来、どうやってお金を稼いで生活していけるのだろうか?と考えざるを得ない。インターネット社会はデフレ社会の定義と同様、消費者にとっては天国かもしれないが、生産者にとっては地獄とも言える。一部の富裕層や年金生活者を除き、多くの人々は消費者であると同時に生産者でもある。その微妙なバランスの上に現在の経済(多くの人々の生活)が成り立っていることを考えると、急速な技術の進歩やサービスの無料化を手放しで喜んでばかりはいられないのではないか?と思えてしまう。お金が動かなければ雇用も生まれないという厳然たる事実にもっと目を向けて然るべき時代ではないかと思う。

 日本の政治家達には、国民の生活や幸福に全く寄与しない政治家同士の足の引っ張り合いを止めて、もっと将来を見据えた経済システムの構築に目を向け、経世済民的な視点を持って政治活動に精を出していただきたいものだ。
 それにしても、これだけ消費量が減退していく時代に、なおも消費税を上げるなどというのは、向かうべき方向性が全く見えていないと言わざるを得ない。


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日本の株式市場はバブルなのか?

■「空売り天国」から「空売り地獄」へ

 昨年の夏、日本の株式市場の空売り比率が40%を超えて、空前の50%に近付いているという記事を書いたことがあるが、トランプ氏が大統領になると決まってからは、アメリカだけでなく日本も、これといった調整もないまま、一本調子でうなぎ登りに株価は上昇してきた。
 昨年の11月、トランプ氏が大統領に選ばれた時には、「NYダウは2万ドルに向かう」という予測を書いたが、実際に大統領に就任した時点で、あっさりと2万ドルを突破し、現在、2万3000ドルを超えている。

 昨年の「空売り天国」から一転、今年は「空売り地獄」とも呼べるような株価上昇が続いているとも言えるが、株式投資(投機)で最も恐いのは「空売り」だ。
 現物で株を買っている分には、株価が0になることはあってもマイナスになることはない。しかし、空売りの場合、株価が青天井になった場合、どんどんと損失が膨らみ、場合によっては借金を抱えることになってしまう。特に新興市場の人気銘柄等は、株価が10倍とか20倍になることもあるので、そのまま放置すると、10倍、20倍の借金を背負うことになる。
 昔から世間でよく言われる「株で破産した」というのは、そういう「空売り」(信用取引)の危険性を言い表したものだと思われるので、かなりの誇張が入っていると言える。

■NYダウは3万ドルに向かう

 マスコミでは、トランプ大統領の実像はあまり伝えられていないが、トランプ大統領は確りとした減税路線を打ち出しており、経済にも極めて明るいタイプの人物だと言える。有言実行力と国民の支持が伴えば、株価が上昇することは明らかなので、このまま行けば、トランプ大統領在任中に3万ドルを突破すると言っても言い過ぎにはならないと思う。
 日本でも、民主党時代から株価が2倍になったわけだから、アメリカでも、民主党のオバマ時代の2倍になっても別段、不思議でもない。

 しかし、これも以前の記事で書いたことだが、地政学的リスクがあるため、大きな調整が入ることは十分に考えられる。今年から来年にかけて、北朝鮮有事が起これば、一時的に大きな調整が入ることは避けられない。
 ただ、先日の米中会談を観た限りでは、少し様相が変わりつつあるようにも感じられた。中国がアメリカ寄りになったことを金正恩がどう思っているのか定かではないが、たとえ中国側のブラフであったとしても、見かけ上、北朝鮮包囲網がより完全になったことは間違いないので、先読み判断がより難しくなってきたと言える。

 北朝鮮からミサイルが飛んできた夏頃に手持ちの株式を一旦処分した人も多いと思われるので、結果的にかなり儲け損なった人も多いのかもしれない。まさか、これだけ地政学的にリスキーな時期に、バブルの如く株価が上昇し続けるとは予想できなかった。

■日本の株価はアメリカ次第

 現在の株価上昇は「官製相場」とも言われているが、日本の株式市場は株価収益率(PER)的にも、まだバブルとは呼べない水準なので、アメリカの株式市場次第では、まだまだ上昇する余地はあると思われる。
 一昨年に読んだ藤野英人氏の『日本株は、バブルではない』には、日経平均2万円の心理的節目について書かれていたが、現在は、確かにバブルではないという実感が多くの投資家に浸透しつつあるように思う。

 昨年まで、日経平均株価が2万円以上になるというような大胆な予測をしているエコノミストはほとんどいなかったが、このままいくと、楽観論の大御所、長谷川慶太郎氏の「2万5000円超え」もまんざらでもなくなってきたと言える。

 しかし、なんといっても、日本の株価は、結局、アメリカ次第かもしれない。現在のところ、今年のNYダウの最高値は11月7日につけた23,452ドルだが、日本もそれに倣うかのように(超えないように?)11月9日に23,382円で下落に転じている。ドルと円なので単位も価値も違うのだが、“日本はアメリカの数値を超えてはいけない”という暗黙の了解(忖度)でもあるのではないか?と疑いたくなる。この奇妙な一致は偶然なのだろうか?



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憲法論議をもっとシンプルに。

■「憲法」を守ることは、なぜ重要なのか?

 この度の衆議院選挙では「立憲」という言葉を使用する政党も現れたので、憲法論議がこれまで以上に盛んになりそうな気がする。しかし、元々、憲法というものに関心を持っていない世間一般の人々は、「立憲」などという小難しい言葉を聞いても何のことか分からないのではないかと思う。
 「立憲」とは「憲法に立脚する」の短縮語だが、「立憲主義がどうのこうの…」と言われても、自分達とは別世界の話だと思って馬耳東風で聞き流してしまう人も大勢いるのではないだろうか。こういったあまり馴染みのないアカデミックな専門用語を使用せずに、もっとシンプルに憲法というものを考えた方が分かり易いかもしれない。

 周知の通り、日本には憲法を変えることを頑に拒否する人々がいる。世界でも例を見ないこのての人々は、なぜ、そこまで憲法を護持することに拘るのだろうか? この点をシンプルに考えてみよう。

 現代における「自由」とは、基本的には「国家権力からの自由」を意味している。そして、国家権力から個人の自由を保証するために憲法がある。それゆえにこそ、憲法を守ることは重要と成り得るのだが、この国で行われている憲法論議は、「個人の自由を保証することの重要性」はそっちのけで、ただ単に、憲法を変えるか変えないかというような方法論的な話だけが論じられる傾向にある。

 憲法がなぜ重要なのかと言えば、非力な個人を強大な国家権力から守ってくれる決まり事が書かれているからだ(注:字義通りに書かれているわけではない)。国家権力が暴走し、好き勝手に財産を没収されたり、恣意的に拘束されたり逮捕されたりするようなことを防ぐために憲法は存在している。だからこそ、憲法は国民が主導して、より良いものに変えていくことが必要となる。そのより良きものに変化していく過程において民意を体現した憲法になるからこそ、それを守ることが重要となる。

■「憲法」はコンピューターのOSのようなもの

 少し喩え話をしよう。コンピューターの基本OSは、時代や環境の変化とともに、どんどん便利に進化していくが、時にバグが発生したり、より非効率になったりすることがある。その場合、次のOSにアップデートする時に、非効率だった部分に改良が加えられる。ユーザーから「不便になった」という声があがれば、その要望を聞き入れて、改良を加える。それがユーザーの利便性を考慮した対応というものだ。
 もしそこで、「たとえ非効率になっても、一度、決まったものは変えることができません」というようなことであれば、ユーザーから苦情が出るはずだ。「改悪されて不自由になった部分をなんとかして欲しい」と。その意見が多くのユーザーの真の願いであるならば迷わず変更する、それが民意を反映するということである。

 憲法もある意味、OSと同じであり、国民が不自由だと思っている部分は時代とともに変えていかなければいけない。もはやインターネットを利用できなくなっているようなWindows95MacOS8をいつまでも使い続けなくてはならないということであれば、誰もが不満を抱えて文句を言うはずだ。

 例えば、「北朝鮮の軍事的脅威が我々の生活を不自由にしている」ということであれば、その不自由を齎しているシステムを部分的に変えるように努力する。それが政府の仕事であり役割でもある。そういった不断の努力によって更新を重ね、現在進行形でブラッシュアップされていく憲法を守っていく姿勢こそが重要なのであり、一切、更新もせず民意が反映されない旧いままの憲法を、神様が創った十戒の如く護っていくことが重要なのではない。こんなことは、少し考えれば誰にでも解ることだと思う。

■屈折した「国家権力からの自由」とは?

 先に「憲法は国家権力からの自由を保証するためにある」と書いた。この言葉における「自由」とは普通の一般人には当たり前の自由だが、国家権力を良しと思っていない人々には、全く毛色の違った「屈折した自由」に変化する。
 例えば、テロリストのような人々の場合は、テロを起こすためには国家権力が邪魔になるので、「不完全な憲法こそが国家権力から我が身を守る最大の武器」になってしまうことになる。現在の日本国憲法は国家権力を縛り過ぎているため、テロリスト達にとっては都合が良いということになる。だから、旧いままの憲法を護持することに全精力を傾ける。国家を打倒し、革命を起こそうと夢想しているような勢力にとっては、憲法を変えられて国家権力(警察や軍隊)に力を付けられては困るので、現状の憲法を護ることが至上命題になってしまう。
 そもそも憲法というものは国家が有って初めて機能するものなので、国家を破壊することを目的としている人々が憲法を護るということ自体、矛盾していると言える。
 
 正しい憲法であるか、間違った憲法であるか、あるいは、完璧な憲法であるか、不完全な憲法であるかによって「立憲主義」というものは全く違ったものに変化してしまう。「憲法に立脚する」ことが無条件に正しいのではなく、立脚するべき憲法を民意によって正すことこそが重要なのである。

 憲法というものは国家権力を縛るものであるが、その「縛る」という行為も人によっては認識が異なるものであり、憲法を変えるというごく当たり前のことが、ある人々にとっては、絶対に譲ることのできない代物と化してしまう。
 しかし、憲法が大多数の善良な国民のために存在するのであれば、一部の人間の革命思想のために利用されることは避けなければならない。一部の人間が「国家権力からの自由」を盾にして、どれだけ憲法を変えることに反対したとしても、大多数の国民が憲法をより良く変えることを望んでいるのであれば、憲法を変えることこそが正義と成り得る。なぜなら、それが真の民意だからである。

(注)文中、「守る」と「護る」を使い分けています。
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タイタニック(民進党)と氷山(希望の党)の喩え話

■「希望の党」が「失望の党」になった原因

 大方の予想通り、「希望の党」は「失望の党」になってしまったようだが、小池氏自身、これほどまでの痛手を被るとは予想だにしていなかったのではないかと思う。
 その敗因は準備期間というものが絶望的に足りなかったことも大きく関係していると思われる。そう考えると、上手い具合に、その隙を突かれたということなのかもしれない。権謀術数に長けた政治家のことだから、充分に考えられる。
 あくまでも想像だが、東京都知事選・東京都議選における小池百合子氏の人気の高さに恐れをなした自民党は、小池氏が新党を立ち上げる前に解散総選挙に打って出た。ちょうど、北朝鮮問題が騒がれ出した時期でもあったので、一石二鳥とばかりに先手を打って賭けに出たというのが、自民党の戦略だったのかもしれない。(もちろん、メインは北朝鮮問題だが)

 しかし、先手を打たれた小池氏も黙って見ているわけにもいかず、急ごしらえで「希望の党」を立ち上げた。しかしながら、意表を突かれた上での結党だったせいもあり、人員的にも政策的にもてんでバラバラでまとまりが無く、ポピュリズム丸出しの寄せ集め政策であることが裏目に出て、有権者からそっぽを向かれ惨敗に喫した。焦りが生じて感情的になり、踏み越えるべき順序を誤ったことが最大の敗因だったと言えるだろうか。

■「政治は小説よりも奇なり」【氷山に救われたタイタニック】

 つい先日まで、誰が見ても泥舟と化していた民進党は、藁にも縋る気持ちで「希望の党」に飛び付いた。しかし、リベラル政党(?)である民進党をそのまま吸収するわけにはいかないので、民進党員は思想的な篩いにかけられた。その篩いの上に残った者が「希望の党」に、篩いの下に転落した者は「立憲民主党」に吸収されることになった。

 タイタニックと化していた民進党の前に出現した小池氏率いる「希望の党」は、まさに「氷山」そのものだった。タイタニックを真っ二つに割り、一方が沈んで一方が残る、これで民進党は「改憲派」と「護憲派」に分かれ、「改憲派」のみが沈まずに生き残るはずだった。

 しかし、運命の悪戯か、その氷山はタイタニックの前に出現したのではなく、タイタニックを持ち上げる形で下から姿を現したため、タイタニックは真っ二つに割れたものの、どちらも氷山の上に残ってしまった。海上ではなく氷上であるため、今のところ身動きはできないが、氷山のお陰で海の底に沈むことは避けられた。この氷山が溶ける前に、真っ二つに割れたタイタニックを修理する人が出現すれば、タイタニックは再び、沈まぬ泥船として海上を進むことになるかもしれない。

 泥舟を沈めるために出現したかに見えた「氷山」は、皮肉なことに泥舟を助けることになってしまった。そう、まさに「希望の党」とは、国民ではなく「民進党」にとっての「希望」だったのである。

 「政治は小説よりも奇なり」、今回の総選挙で起こった出来事は、おそらく誰にも(自民党にも)想像できなかったに違いない。


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「嘘も百回言えば真実になる」のはなぜか?

■「社会主義現代化強国」=「情報統制独裁国」

 第19回中国共産党大会において、習近平氏は2050年までに「社会主義現代化強国の建設を目指す」と語った。中国は文化統制を強化する姿勢も強めており、ネットの検索規制も強化している。中国ではグーグルだけでなくヤフーの検索も利用できなくなったことも大きな問題になっており、情報統制がこれまでになく強化される国になっていくということなのかもしれない。

 人間が正しさを認識するためには、考え方(思想)の両極端を知る必要がある。極右を知り、極左を知れば、その中間が分かる。しかし、その両極端を知ることができなければ、人は何が正しくて何が間違っているのかということを判断できなくなる。
 それが真実であることは現在の北朝鮮や、かつてのオウムのようなカルト教を観ればよく解る。僅かな範囲の情報や思想しか知ることができない人々は、ものの見事に洗脳されてしまう。何が正しいか、何が間違っているのかが分からない環境下に置かれているからである。

■「朱に交われば赤くなる」原理

 では日本はどうだろう。戦後のGHQの洗脳プログラムによって、右側の思想をシャットアウトされ、左側の思想ばかりが伝播された戦後の日本も、やはり同じように何が正しくて、何が間違っているのかが分かりづらい国になってしまったと言える。
 戦後の新聞やテレビは総じて左側だったので、インターネットの無い時代は、一部の読書家でしか右側の保守的な思想に触れることができなかった。
 左側の思想という限られた範囲内で、正しさを判断しなければならないので、どちらに転んでも、左側が正しいということになってしまう。保守は存在せず、リベラルと左翼のどちらが正しいか?という狭い範囲で善悪を判断しなければならない場合、どちらも正しくない場合でもリベラルが正しいということになってしまう。

 人は、たとえ興味が無いことであっても、繰り返し聞かされることにより、自然と覚えてしまうという特性を持っている。例えば、興味のないアーティストの音楽であっても、毎日観ているテレビ番組のバックグラウンドミュージックで流れていれば、その曲を自然と覚えてしまい、自然と口ずさみ、興味を持つに至ることがある。これなども、一種の洗脳の原理が機能している証拠であり、潜在意識に繰り返し同じ曲や言葉が刷り込まれると、気付かないうちに、その曲や言葉が、自分の思想の一部になってしまうことがある。

 「嘘も百回言えば真実になる」という言葉の通り、当初は、たとえフェイクニュースであると分かっていたとしても、何度も何度もフェイクニュースが流され、それを聞いているうちに、知らず知らずのうちに、そのフェイクニュースの影響を受けることになる。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と言うが、しっかりとした善悪観を持っている人でないと、「ミイラ取りがミイラになる」や「朱に交われば赤くなる」ということになってしまう。

■「情報の解放」が「情報を濾過」する役目を果たす

 卑近な例で言えば、悲観的な言葉ばかりを使用する両親に育てられた子供は、自然と悲観的な言葉が心にインプットされ、悲観的な人間に成長してしまうことがある。間違ったことばかり言っている両親であっても、これは同じであり、「日本は悪い国だった」という戦後教育もこれに準じている。

 真実の情報を流さずに嘘の情報ばかりが流れるメディアというものは、ある意味、汚染された水を海に流す工場のようなものであり、その汚染された海から得た情報は人間の精神性を破壊する毒にも成り得る。そういった毒水を飲み過ぎて思想的な病を発症した人々は、今度は自ら毒水をまき散らし、無意識的に社会を蝕んでいく手伝いをすることになる。

 「情報統制」とは、工場から流れる汚染水を取り締まることなく、流し続けるようなものだと言える。つまり、「情報の統制」とは、裏を返せば「汚染水の解放」に他ならないのである。「汚染水」を規制したくば、「情報の解放」を行い「情報を濾過」しなければならない。
 「情報の濾過」こそが嘘情報から身を守り、正しい社会を築くための処方箋になると考えれば、中国の行っていることは真逆の政策ということになる。


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日本のリベラルの「自由」とは?

■「社会自由主義」としてのアメリカの「リベラル」

 以前のブログ記事で、「リベラル」とは「化粧言葉」だと書いたことがある。これは日本のみの話ではなく、アメリカでも同様で、元々、「社会主義」や「共産主義」という言葉を使用することが憚られる場合に用いられる仮面のようなものだと言える。

 戦前(1930年頃)はアメリカでも日本でも大不況の波に呑み込まれたので、当時の経済システム(資本主義)ではダメだとする風潮が世を覆った。ちょうどその頃、「ソ連では景気が良い」という話が飛び交っていたため、「ソ連は理想の国」だと思い込んだ人々が大勢いた。この辺のところは、近年、「北朝鮮は地上の楽園」と思い込んだ人々とよく似ていると言える。

 当時のアメリカでは、それまで日陰の存在だった「社会主義」という言葉を使用するのに抵抗があったので、「社会自由主義」という意味合いで「リベラル」という言葉を使用し、ニューディール政策が推し進められた。一見すると「自由な政策」というイメージがするが、実質的にはソ連の経済システムを模した「社会主義政策」そのものだったため、その失策が祟って、第二次世界大戦に突入していった。

■「リベラル」と「リバタリアン」の違い

 アメリカには「リバタリアン」という人々がいることもよく知られているが、「リバタリアン」と「リベラル」は似て非なるものである。もし「リバタリアン」と「リベラル」が同じ「自由」を意味するものであるならば、「リバタリアン」はリベラル・パーティーである民主党にこそ属しているはずだが、実際はその逆で、「リバタリアン」は基本的に共和党に属している。「リバタリアン」が「リベラル」を標榜する民主党ではなく、「保守」を標榜する共和党に属していることが、「リバタリアン」と「リベラル」が同一のものではないという証拠でもある。

 「リバタリアン」とは、極論すれば「国家はいらないという考えを持った人々」を意味している。国家は必要最小限のことを管理するだけで、後は全て個人の責任で人生を管理することを理想(合理的)とする人々のことでもある。
 「リバタリアン」には独りで自活していける自信を持った有能が人が多い。国に頼らなくても独りで生活していけるだけの充分な能力と資産を有している人であれば、わざわざ高額な税金を支払っても意味がないと考える人がいてもなんら不思議ではない。日本で言えば、ホリエモンのような人物がリバタリアンに近いと言えるかもしれない。
 「リバタリアン」は「無政府主義者」とも言われるが、「共産主義者」のような「国家破壊主義者」ではない。

 アメリカの「リベラル」というのは、民主党のオバマケアを見れば分かる通り、国家に依存することを是とする思想を持つ人々である。ただし、アメリカの「リバタリアン」も「リベラル」も、国を憎んでいるわけではなく、愛国者であることには違いはない。

■リベラルであってリベラルではない「日本のリベラル」

 一方、日本のリベラルというのは、GHQの占領政策によって生まれた特殊な存在(人々)を意味している。本来、自由には責任が伴うものだが、日本のリベラルには責任感が欠如しているという特徴がある。

 日本のリベラルの自由とは、以下のようになっている。

 リベラルの自由=義務を果たさずに権利だけを要求する「自由」

 リベラルの言論の自由=好き勝手なことを言う「自由」

 リベラルの表現の自由=他人の意見を罵倒する「自由」

 本記事冒頭で「化粧言葉」と述べたが、日本のリベラルには化粧している時の顔と化粧していない時の顔があるため、その時と場合に応じて、言葉も巧みに使い分けられる。「二枚舌」という言葉通り、言っていることに統一性がなく、言行不一致が多く見られるのも日本のリベラルの特徴だと言える。

 国に依存しながら国を批判する。その姿は、税金を納めずに税金の使い道をあれこれと詮索するようなものであり、まさしく、義務を果たすことなく自らの権利のみを要求する姿勢とピッタリと重なる。自己中心的で自分勝手、他人の物は自分の物、自分の物も自分の物、好き勝手な放埒さを「自由」だと錯覚している大人に成り切れない空想主義者、それが日本のリベラルの実相である。

【追記】2017.10.16
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>そんなことはない。「リバタリアン」は自ら書かれている通り「無政府主義」なので、「国」という概念は無きに等しく、よって「愛国者」であるはずがない。

 「リバタリアン」にも程度の差というものがあります。「無政府主義」というのは極度なリバタリアンのことを指した言葉であり、全員がそうだというわけではありません。「リバタリアン」であっても母国であるアメリカ人であることを誇りに思っていないわけではありませんので、愛国者であることには変わりがないということです。

>むしろ「共産主義」の方が「愛国者」であるだろう。財産の私有制を否定して全財産を国家管理に置くことを目指しているなら、愛国心がなければ、到底、受け入れられまい。

 私有財産を否定することが、なぜ愛国者になるのか理解できません。共産主義者が私有財産を否定するのは貧富の差が我慢ならないという嫉妬心が有るからであり、国(?)が財産を管理すれば、誰もが(働かなくても)平等にお金を受け取れると思っているからだと思います。

>この人、全体主義者なのに、なぜ自由人と名乗ってるのか、不思議ですね。

 BLOGOSのプロフィールにも「自由に考える人」と書いています。「自由に考えること」に全体主義者も自由主義者もありません。

>誰も指摘しないのですが、筆者の知識が無さすぎなのにはあきれます。
「無政府主義者」は「アナーキスト」と称し、一般に言う「リバタリアン」はそれとはかなり違います。

 「リバタリアン」は「無政府主義者」だと断言はしていません。文中、“「リバタリアン」は「無政府主義者」とも言われるが、”と書いた通り、「無政府主義者」だと言う人も少なからずいるということです。先のコメントにも書きましたが、「リバタリアン」にも程度の差があり、その定義にも幅があるということです。

>リバタリアンとして無政府など真っ平ごめんです。

 誰も無政府が良いなどと書いていません。私もリバタリアンではありませんので誤解のないように。

>ニューデール政策の効果もあって、1935年から、米国経済は回復に向い、1939年には、何とか大恐慌の始まる前の水準にもどりました。

 1933年にニューディール政策が施行されてから数年間は失業率も下がり続けましたが、その後、また失業率が上昇に転じました。1937年には15%以下まで下がりましたが、1938年には20%近くまで上昇しています。翌年(1939年)から、戦争特需で景気が回復していったというのが実際のところです。
 ソ連の5カ年計画を見ても分かる通り、社会主義政策は最初は上手くいくのですが、数年経てばボロが出て行き詰まることになるというのが定説です。アメリカの場合、皮肉なことに公共事業等に反対する人々が多かったため、ドイツと違って全体主義的な経済政策はそれほど上手くいきませんでした。ケインズ自身、「ニューディール政策では不況を脱することはできない」と述べていますし、「戦争でも起こらない限り目的は達成できない」とも予言(?)しています。

>文章から読むに、あなたが言う「国」とは、「自民党」という事なのだろう。自民党は国じゃないですよ。 あと、自民党もまた国に依存する存在だよ。

 一体どこから「自民党」が出てくるのか疑問ですが、一言だけ言っておくと、国民も「国」に属しています。「国」をテーマにするなら、「自民党」という「枝葉」ではなく、「国民」という「」に目を向けてください。


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時代の必然だったトランプ政権誕生

■「もう1つのアメリカ」の実体

 既に1年前の書籍になるが『マスコミが報じないトランプ台頭の秘密』(江崎道朗著)を読んでみた。

 著者の江崎道朗氏は「コミンテルンハンター」との異名を持つ評論家であり、ベストセラーになった近著『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』が非常に面白い本だったので、本書も読むことになった。

 トランプ氏が大統領になることを予告していた評論家は数少ないが、江崎氏もその数少ない論客の1人になるのかもしれない。本書には、そのタイトルの通り、アメリカ社会にトランプが台頭した秘密がズバリ書かれている。「マスコミが報じない」と言うより、いろんな意味で「マスコミが報じられない」と言った方が正しいのかもしれないが、日本では全くと言っていいほど認識されていない「もう1つのアメリカ」の実体(実態)が赤裸々に書かれている。

■オバマ元大統領の「チェンジ」の意味

 アメリカのニュースメディアの偏向ぶりは日本よりもひどいらしく、アメリカには産経新聞のような保守系の全国紙(ニュースペーパー)が無いらしい。ニューヨーク・タイムズがリベラル左翼系の新聞というのは有名だが、保守系の新聞が無いというのは驚きだ。
 リベラル左翼系の新聞しかないということは、トランプ氏が大統領選に出馬したことを報じていたアメリカのニュースメディアからの情報は、全て偏向した内容だったということになる。保守系のトランプ氏を擁護するような情報など出てくるはずがないわけで、「泡沫候補」とか「差別主義者」とか、ネガティブな情報ばかりが伝えられていた背景にはちゃんとした理由があったというわけだ。
 日本のメディアには「トランプが大統領になったら世界経済が終わる」などと宣っていたエコノミストもいたが、このての人々はアメリカ社会の実像を全く知らないことを自ら自白していたことになる。

 オバマ元大統領の「チェンジ」は、アメリカを良くするための「チェンジ」ではなく、アメリカを社会主義化するための「チェンジ」だったというのも驚きで、我々はその立派な言葉にまんまと騙されていたことになる。オバマが社会主義者であることは知っていたが、オバマの両親がバリバリの共産主義者だったというのは知らなかった。

 日本には「ウォー・ギルト(戦争の罪)」というものがあるが、アメリカにもオバマ政権が齎した「ホワイト・ギルト(白人の文化は罪)」というものがあるらしく、学校では「黒人奴隷から搾取した白人は黒人に配慮しなければならない」とする自虐教育が行われているらしい。

■トランプ大統領は日本のヒーロー

 国境というものを重要視するトランプ大統領であるからこそ、地球の裏側にある日本という同盟国の危機にも注意を払うことができる。これが、国境を軽視するリベラル派のヒラリーであれば、一体どうなっていたのかを考えると実に恐ろしい。「世界の警察を辞める」と言った民主党のオバマに続いて民主党のヒラリーが大統領になっていれば、日本は北朝鮮に隷属する(いじめられる)だけで何もできず、何も言えない国になっていたかもしれない。

 そういう意味で日本人は、アメリカにトランプ政権という保守政権が誕生したことを我が事のように喜ばなければいけないのかもしれない。現状、北朝鮮からの攻撃を止めてくれる日本のヒーローはトランプ大統領しかいないのだから。

 最近の日本の政治では、「希望の党」や「立憲民主党」が出来て、「保守」や「リベラル」という言葉に注目が集まっているが、本書に書かれているアメリカの政治史を知れば、そういった言葉の意味もより深く理解できるかもしれない。是非、多くの人に読んで頂き、目からウロコを落としていただきたいと思う。


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「リベラル系議員」の正体

■「愛国心」の無い政治家は存在できない

 「民進党」から「希望の党」へ合流することが“できる人”“できない人”という具合に思想的な篩いにかけられることになり、その条件として使用された「リベラル」という言葉が、再び、脚光を浴びている。
 私も「リベラル」という言葉には非常に興味を持っているタイプの人間なので、最近のいろんなリベラル論を見ていると面白い。
 メディアでは、合流できない議員のことを「リベラル系議員」と伝えられているが、なぜ、「リベラル系」などという言葉が使用されるのだろうか?

 欧米における社会主義と共産主義の大きな違いは、「愛国心」の有無だと言えるが、日本のリベラルと海外のリベラルの違いも「愛国心」の有無だと言える。政治というものは、基本的に「愛国心」が無ければ成り立たないものなので、欧米では現在、アメリカでもイギリスでもドイツでも、愛国心よりもイデオロギーが優先する「共産党」は政治政党として認められていない。

 海外の政治では、「愛国心を持った社会主義者」と「愛国心を持った自由主義者」が対立しているという構図であり、日本のように「愛国心を持たないリベラル」というのは基本的に存在できない。日本でリベラル系議員が存在できるのは、GHQの洗脳プログラムによって愛国心がパージされた特異な環境だからである。ゆえに、日本で言うところのリベラルとは、真のリベラルではなく、リベラルの名を語る非愛国者、つまり反日主義者のことを意味している。憲法は護るが日本は護らない姿勢の人をリベラルと言うこともできる。

■「安倍政治を終わらせる」というのは政策か?

 リベラル系議員はよく「安倍政治を許さない」とか「安倍政治を終わらせる」という言葉を使用しているが、そもそも「安倍政治を終わらせる」などというのは、政党内で言うべき台詞であって、政治家が国民に向かって言うべき台詞ではない。もし、「安倍政治を終わらせる」ことが政策だと思っているのであれば、それは政治活動ではなくて、倒閣運動の類いである。特定の政党を終わらせるなどというのは政治家個人の願望であって、国民の目的では有り得ない。

 民主政治というのは、政党どうしが政策を競い合い、より多くの有権者の支持を得た政党が、結果として相手方の政治を終わらせることができるものである。
 相手方の政治を終わらせることを目的化してしまっても、有権者には何の関係もない。心ある有権者は、その先にある、まともな政策を実行、実現してくれる政治を望んでいるのであって、相手方の政治を終わらせることなどに関心は無いのである。

 権力を打倒することが自己目的化している(=イデオロギーが優先している)という点では、リベラル系議員というのは、マルクス主義の影響を強く受けている人達だとも言える。

【追記】2017.10.04
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>"自由"人が、リベラルという言葉(和訳すると自由)を不当に貶め、愛国心が無いという完全に根拠レスなレッテル貼り。
同じ"自由"を標榜する人間として、その思考の不自由さにため息しか出ない

 本記事で述べている「リベラル」は「自由主義者」という意味ではありません。思想上、愛国心が無いと思われる政治家を「リベラル」と呼んでいるに過ぎませんので、誤解のないように。
 それと私の「自由」は「自由に考える」という意味での自由なので、「リバタリアン」の「自由」とは違います。

>この男は、自由人ではなく、権力にひれ伏す不自由人であり、戦争を弄ぶ安倍の下人に過ぎない。

 私は特に自民党政治に心酔しているわけでもありませんし、俗に言うところの「安倍マンセー」ではありません。本記事内で「特定の政党」と書いたように、現実的な例として自民党や安倍総理の名を出しているだけです。実際、少し前の記事でも自民党や安倍総理を批判しています。正しいと思われることは「正しい」、間違っていると思われることは「間違っている」と権力に媚びずに正直に書いているだけです。

>共産主義に愛国心はないのでしょうかね?

 「国家の破壊」を目的とする共産主義者に愛国心が有るとは言えないと思いますが、少なくとも愛国心よりもイデオロギーが優先されるということは間違いありません。ただ、「国体の破壊」が理念である共産主義国家でも日本のように「自国が悪い」とは教えませんので、共産主義国家の国民だとて愛国者であることには変わりないと思います。実際、中国人の方が日本人よりも愛国者だと言われていますから。世界広しと言えど、愛国者であると言って否定される国は日本だけです。要するに、「愛国者」を名乗ることを否定するのが日本の「リベラル」なのです。

>アメリカに尻尾フリフリの安倍の方がGHQの洗脳プログラムに頭がパーンされてるんじゃなくて?

 アメリカの歴史を学べば解ると思いますが、戦中のアメリカと現在のアメリカは日本と同様、別物です。アメリカ自体、戦中は共産主義を容認している国だったので、GHQの中には共産主義者が大勢いたことも知られています。


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「民進党」in「希望の党」の矛盾

■「民と進む」ことを忘却し、一縷の「希望」に縋る政治家達

 「民進党」が「希望の党」へ合流するという、まさかの展開となり物議を醸している。既に多くの人が述べている通り、「民進党」と「希望の党」では、政策方針に違いがある。民進党員の何名が「希望の党」へ合流することになるのかは定かではないが、前原氏が語った内容から、その矛盾点を指摘しておきたい。

>アベノミクスは、一般の国民の皆さんの暮らしの改善には繋がらない反面、その極端な低金利政策や放漫財政は非常に危険であり、何かのきっかけで皆さんの暮らしを崩壊に追い込む可能性があります。

 アベノミクスが消費税増税によって頓挫したことは認めるとしても、民主党時代よりは失業率、自殺率ともに大幅に下がったことは明々白々であり、少なくとも学生の就職環境は改善されたとみるのが一般的な見方だと思う。国民の生活を崩壊に追い込む危険性があったのは、むしろ、かつての民主党政権の方だったと思っている人の方が圧倒的に多いと思う。

 私も当時に何度かブログ記事で指摘させていただいたが、民主党には経済政策自体が皆無だった。空前の円高不況で著名な大企業ですら倒産寸前にまで追い込まれたことは記憶に新しい。民主党時代に日本経済が低迷したのはリーマンショックの影響だったというようなことをよく耳にするが、その負の流れに逆らう経済政策を何も打てなかったのだから、言い訳にはならない。

 前原氏の言葉に倣って、当時を振り返るなら、

 「民主党政治は、一般の国民の皆さんの暮らしの改善を考えておらず、その極端な円高・株安や経済無策は非常に危険であり、何かのきっかけで皆さんの暮らしを崩壊に追い込む可能性がありました。
となる。

■護憲派の誤解(「自宅」と「重要文化財」の混同)

>自衛隊や日米同盟の強化は必要ですが、そのために憲法違反の法律を強引に成立させることは許されません。

 現在の憲法では自衛隊を軍隊と認めていないのだから、憲法を変えない限り、強化のしようが無い。「自衛隊や日米同盟の強化は必要」だからこそ、憲法に囚われ過ぎてはいけないのである。

>国民生活を脅かし、憲法を軽視し、民主主義を否定する安倍政権を一刻も早く終わらせることが、わが国政治の最大の課題だと私は確信しています。

 「憲法を軽視」というのは、単純に「憲法を変えてはいけない」ということを意味しているのだろうけれど、もしそうであるならば、改憲派の「希望の党」とは相容れない矛盾した政策内容ということになってしまう。
 「改憲」を訴えているということは、少なくとも現行憲法には欠陥が有ると認めていることを意味している。その欠陥憲法の内容を微塵も疑うことなく、不磨の大典の如く神聖視していては改憲などできるはずがない。

 護憲派の人々は誤解しているが、憲法を重要視するからこそ、憲法をより良いものに変えていかなければいけないのである。それは、ある意味、住んでいる家と同じであり、経年劣化した部分は、その家に住む人が住み良いように変えなければいけない。旧家を人の住んでいない重要文化財だと思い込み、手を加えてはいけないと言って、修繕が必要になった所をそのままにしていては、終いには、その家に住めなくなってしまう。風化した憲法を護持することこそが憲法の軽視なのである。

 「安倍政権を一刻も早く終わらせることが、わが国政治の最大の課題」というのも、その「一刻も早く終わらせなければならない理由」とは具体的に何なのだろうか? そこが全く見えてこない。「わが国政治」ではなく、「我が民進党」であればピッタリと収まるが。

■わが国政治の最大の課題は「具体性なき政治からの脱皮」

 例えば、 
 「消費税を10%に引き上げれば日本経済崩壊に繋がる可能性があるので、安倍政権を一刻も早く終わらせなければならない
とか、
 「北朝鮮に対して直ぐさま防衛手段を講じなければ日本は崩壊する危険性があるので、安倍政権を一刻も早く終わらせなければならない
とか、具体的な反対理由を述べなければ、有権者は納得できない。

 「民主主義を否定」というような抽象的な言葉ではなく、具体的にどこかどうおかしいのかを述べなければ、何をどう判断すればいいのか分からない。
 安倍政治の間違っていると思う政策を具体的に指摘した上で、その政策を上回る前向きな政策を具体的に提示することこそが、わが国政治の最大の課題だと言える。 

 「米朝関係が逼迫している時に解散総選挙を行うのは危機管理がなっていない」と批判するのであれば、真っ当な危機管理策を提示する必要がある。具体的な対案を提示もせずに、なんでもかんでも否定してばかりでは、どこからも「希望」など生まれようはずがない。
 「希望の党」と名乗るのであれば、どうすれば国民が「希望」を持てるのかを、具体的に明示して欲しい。それができないことには、国民は「希望の党」に矛盾を感じ失望するだけである。


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